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仏と神の違いの考察 ―西域・高麗・朝鮮・日本の寺院壁画の男神・女神と一神教の神―

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(1)

仏と神の違いの考察 ―西域・高麗・朝鮮・日本の

寺院壁画の男神・女神と一神教の神―

著者

村上 真完

雑誌名

論集

44

発行年

2017-12-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00130351

(2)

(1)

仏と神の違いの考察

ー西域・高鹿・朝鮮・日本の寺院壁画の男神・女神と一神教の事11ー

村 上 真

1 問題の所在高麗函の神々に因み仏神の相遣を仏身論から見る 仁三P 7己 本誌第

4

3

号で数年来見てきた新将来の北朝鮮(高腿)壁画

1

8

点の中に特異な 神像

3

点があり,獅噛をつけた男神(武神)毘沙門天と鼠を抱くダキニ(茶根 尼.Dakini女神)天2点、であると見た。その証拠には,ベゼクリク千仏洞第9 号窟寺の側堂のダキニ天図の模写壁画が,北朝鮮から近年将来されたことと, ベゼクリクやコータンにおける毘沙門天と大鼠の造形資科や古伝説とがあった。 ダキニ天が鼠を抱く図がベゼクリクにはないが,我が固における稲荷神をダキ ニ天とする伝承や議論まで見た。今は仏教と神との関係と共に,世界の戦争や 紛争の原因となる一神教の神と多神教の神々との問題を考えたい。

2

仏と神々との遣いをどう考えるか。 仏も神も多様である。凡そ紀元前5世紀に生まれ教えを説いて亡くなった釈 迦牟尼仏(釈尊)は生身の一人間であったが,その前生が想像され伝承されて 来た。その速い前生において悟りを得ょうと発心し誓願を立て,過去の仏に会 い,その仏より将来にその願が成就するという予言(授記)を給わり,長い修 行をして輪廻し最後生において出家し修行して,悟り(成仏,成道し,有余 依浬築界に入り),党天の勧請に応じて教化を始め,最後に

i

軍事室に入り(般浬 繋し=無余依浬撲界に入り=入滅し) 死に切る。これが南伝や北伝の部派仏 教の見方で輪廻が前提である。和漢の仏教は北伝の仏教であり大乗仏教が主で, 部派仏教と併行しつつ,他方世界の諸仏や仏の本性や仏身等に閲する議論が大 乗経論になった。人間が長期間の願と行を経て仏となり,永遠な仏も信奉され る。仏の前生の願行も過去の諸仏も他方世界の諸仏も想像され信仰された。 多神教の国に生まれ仏教を学んだ私には神を排除する理由も動機もない。日 本語のカミ(かみ,事1Iさま,おかみさん,山のかみ )には,英語等とは追っ 196【

(3)

(2) 村 上 良 完 て多義であるが,共通するのは,カミ(かみ)は人に取りついて力を及ぼす。 それに対してほとけ(仏,加来)は私らを見守って下さる存在であろう。漢字 で

A

(7,女のみこ,

A

女)や硯(ゲキ,男のみこ)と呼ばれる霊能者が,中 国, 日本,北京アジア,さらにインドや南アフリカなどにもいる。我が国の東 北地方では亙硯はカミサマと呼ばれ,日の不自由な娘古ず師匠について学び霊能 者になるイタコや,独自に議能者となる津軽のゴミソや,沖縄の

A

女ユタ,女 神職ノロも知られる。日本では惨めに死んだ人を神に杷って慰霊し,後には仏 すすb 式で慰霊する。大野晋 (1997

r

一語の辞典神』三省堂), 2001

r

日本人の神』 新潮文庫は,日本のカミ (kami,kamu)が南インドのタミル語の古詩篇の話業 と照応し,①多数存在し②姿・形を持たず③

i

票動初催し時に来臨しJ{}}.依し,③ 場所や物・事柄を領有し支配し,⑤超人的な威力を持ち恐ろしいが,⑥カミは 人間化人格化され和られ畏敬される。タミJレ語が稲作と共に朝鮮や北九州に伝 わり,仏教が伝来し神仏が習合L,廃仏殿釈を経て商洋の事11が入る,と日本の カミの歴史を辿る。但し南インドからの人の移動の跡が未だ分からない10 3 多神教の神々と仏との遣い 1.部派仏教における多神教の神々の位置づけとその体系 最初期の仏教においては,仏(沙門ゴータマ)が出会った布11は,インドの多 神教の神々であった。仏教の経律パーリ Paliの五ニカーヤと律,漢訳阿合 部経典と律蔵,最近まで発掘された党語 (Sanskrit,Sk )の経律は,その神々を,t. 輪廻の体系に組み込んでいた。輪廻の体系はパーリ(上座部)仏教では五道(地 獄・畜生・餓鬼人・天)輪廻であり,漢訳仏教 (Skt.系の伝承)では五道(五 趣・地獄・餓鬼・畜生・人・天,阿修羅を地獄に含める)と六道(六趣,地獄・ 餓鬼畜生・[阿]修羅・人・天)とがある。天 (deva)に属する神々が多神 1 大野普 (1965) 1966

r

V

I

I

I

系統

J

r

世界言語概説F巻日本語』研究社は,日本語 の構造がアルタイ諾と似るが共通語梨が少数。朝鮮語とは音韻体系では類似点も多 く文

f

去の構造は酷似するが動詞等の対応は少数。朝鮮語は日本語と同系の蓋然性が ある。それにタミル語政が多数伝わった。同氏と伊東俊米郎との対談(三省堂ー対 談カミはどこから来たか,

r

一語の辞典事

I

J

をめぐって・その三https://www sanseido-pub.lco.jp/pubνbooklet_kami 2... 2017..09.15閲覧)は有益。タミル語の コーマーン (kom-aQ)が「超能力を宥する支配者,布IIJで日本のカミと多く共通す る(大野2001,pp.165ff.また大野2002

r

日本語はどこからきたのか』中公文庫,pp 82寸19,135-145参照)。

(4)

仏と神の逃いの考察 (3) 教の神であり,欲界・色界・盤色界の三界に分かれる。欲界は最下の地獄から 人閉までと六欲天(下から四天王[衆]天:持国天・増上天・広目天・多聞天 =毘沙門天が四方を守る須弥山の中腹;三卜三天=仰利天.帝釈天,仏母摩耶 夫人が居る須弥山の頂上;夜摩天,兜率天=兜術天 弥初Jの浄土,楽変化天= 化楽天;他化自在天)とである。色界天は色界を対象とする禅定の境地に対応

L

, 卜五種か

-

1

七種が数えられる。最初の初禅天は,パーリ『中部経典j41経 (M. l. p.289) では党身天と光天とのこ天,同 120経 (M.III. pp.lOlf.) では党 天の一天,

r

中阿含

J

168

r

意行経」でも鷲身天の一天 (T.

1

.

No.26,700c),

r

倶 舎論』巻八(玄笑訳工 29,No.l558,41a) では党衆天・党補天・大党天の三天, パーリ『分別論

J

(VibhaIj1ga, p. 424) も同様。第二禅天も第三禅天も同様に 三天。第四禅天は円具舎論』では八天,

r

分別論』では七天ある(詳細省略)。 無色界とは色(感官で感じられる色・形等)のない世界で無色界を対象とする 彬定の境地(下から空無辺処・識盤辺処・無所有処・非想非非想処)に対応す る四種の天である。事1I (天)は上方ほど長命で,最低の四天王天の1日l夜が人 間の50年,その天の寿命は500年で人寿では900万年,その上の天の寿命は倍増 する。最後の非惣非非想処天の寿命は『倶舎論

J

巻l1, 61a-cでは8万劫,パー リ『分別論

J

は8万4千劫という。 これら諸天は皆輪廻の世界にいる。仏教図像学や仏教美術で天部は,六欲天 や色界天の初禅天(党天)など天のほか,六欲天の配偶女神や春属や,仏を守 殺し讃喫する神々を含み,密教は二百余天を含む(胎蔵界史茶羅外金剛部院)。 その呈:茶羅は元来空海 (774-835) に由来し恵呆阿閑梨に遡る由である。仏と 阿羅漢は湿撲に入り輪廻しない。阿羅漢の下の不還呆を得た者は天界(四禅天 の最上の五天)に生まれ浬梁に入る。以上が部派仏教の見方である。 E 大乗仏教運動における仏教観・修行者観・菩薩観・仏陀観・仏身観 菩陵 (p訂:biodhi-satta, Skt. bodhi・sattva) とは,古くは覚りを求め発心(発願) し修行し輪廻している時から,誕生した主子(釈尊)の成道前までである。大 乗経典では聴衆が菩薩・摩詞薩 (maha-sattva.大士)と呼ばれ在家者を含み, 菩躍は浬撲にも止まらない(不住湿繋,無住処湿繋)という理念がある。 仏 の姿を図像や彫像に造ることは,インド古来の伝統に従って忌避されたが,紀 元後ほどなく仏像も造られ三尊仏も誕生する。釈迦牟尼仏には文殊・普賢。 194

(5)

(4) 村 上 真 完 阿弥陀仏には観[世]音勢至,薬師仏には日光月光が脇侍菩薩となる。 ゆ い 仏は過去・現在・未来に現れ,東南西北上下の六方世界,またはそれに凹維 (束北・束南・西南・西北)を加えた卜方世界に居られる。多数の菩薩が知ら れるが,浬繋にも留まらないなら,天のように長命か,輪廻するのであろう。 A 般若経類の仏と仏身観 大乗仏教では仏についての見方が深まる。仏身についての考察が始まり理論 が追究される。『八千頒般若経

j

t

;

j

:

富般若, A$印 刷αsrikaPi岬 崎d馴 1ita,

=A$P" ed, by P. L. Vaidya. Dharbhanga 196日)は初期の大乗経典である。その経

ぜ ん な ん L '"だ 1:1' "ん じ よ ろ た い 末に良家の息子(善男子. ku1a-putra) :薩陀

i

主婦

t

常時 Sadaprarudita常に泣 いた)菩薩が如来の声に励まされ東方に旅し,墓品謡(法涌 Dharmodga阻)菩 躍に如来遼がどこから来られ,どこへ去られたか問う。答えが共に否であった。 『なぜなら真如何thataそのようであること,真相)は不動 (acalita)で ある。そして凡そ真如は如来である。なぜなら不生 (anutpada)は来ること, 或いは去ることがないからだ。そして凡そ不生とは如来である。なぜなら 存在の究極(実際.bhuta-ko!i)には来ること,或いは去ることは知られな いからだ。そして凡そ存在の究極は如来である。

J

(A

P. p.2533 .snl'格は省略) くうしよう 同様に空であること(空性,欠如態,品目nyata), 如実なこと(在りのままなこと。 yathavatta) . 離欲(瑚

t

食.viraga). 離欲したこと (viragata), 滅 (nirodha). 虚空界 (akasa-dhatu)にも来ること去ることはなく,それぞれ如来である。 『なぜなら同じこれら諸法とは別に,如来があるのではないからだ。そし て凡そこれら諸法の真如と一切諸法の真如と如来の真如という,この真如 は唯ーである。真如は二分化 (dvaidhI-kara)ではない。

j

(A

P.p.25311-13) ここで法 (dharma)というのは,仏の教え(教法)であり,その教え(仏法) を構成する細分である(例えば戒・定・慈・解脱・ i~制見知見)。またこころ(心, 意,識)と,こころ(意)の対象であり,五感官の対象であり,有情,特に人 (自分自身)の存在の構成要素や属性である。ここでは後者を指しながらも, 教法でもあり,因と縁(縁起)によって成り立つ法と考えられる。 替えば陽炎(屡気楼)が水に見えても,水は本体(自性)として存在しない。 誰でも如来の色ゃ声に執着する者は,如来の来ることや去ることを考える。 『なぜなら如来は色身(色の集合体)として (rupa-kayatas)見るべきで

(6)

仏と布11のi車いの考察 (5) はないからだ。諸如来は法身(法の集合体)である (dharma-kayah)。そ して,法であること(法性dharmata)は来ないし去らない。全くそのよ うに諸如来には来ることも去ることもない。j(A~P 匹 25324-26) 色身の色は眼(=視覚器官)に見えるもの,身は体で集合体であるから,眼に 見える集合体(=身体)として如来を見てはならぬという。ここは「諸々の如 来は法を身体としている(法身を有する )J と解釈できるが,回りくどい。「如 来は法身であり

J

.

真如,乃至虚空界が如来である,という上記の文脈と調和 する。 j鳴摩羅什 (Kumara-jiva,究摩羅,究摩羅者婆,略して羅什,什)訳 (405) も,玄挺訳 (674)も施謎 (1004)も同様の理解で,施談訳がA号Pにより近い。 級 什 訳 ド

:

l

詰般若波羅蜜経j

(

r

小品般若』巻10.主 8. No.227. 584b)に 「諸仰如来不レ膝下以ご色身一見上。諸仰如来皆是法身並L

呈塁王

L

盈盗宜主目

無レ来蛙レ去。諸f~l: 如来亦復如レ是 J ω(ー12稼僧叡の小品経序536a"によれ ば 究 摩 羅 法 師 が 後 秦 挑 泰 秦 の 弘 始10年 西 暦408年訳) 岡 崎 詞 般 若 波 経 蜜 経j(笑話般若巻27. T. 8. No. 223. 421c"-18)は 「官官仰不レ可l以ニ色身一見上。諸仰法身無レ来無レ去。J2 『大智度論j(大論と略。巻99.主25. No.l509. 745:1日)も『大品般若』と同 文で,共に上掲の「小品般若

J

の第2文の下線部を欠〈。 坊のと奇し 同論後記に究摩

5

聖者婆法師は秦の弘始三年辛丑十二月二十日(西暦=ユリ ウス暦401暮か402年新春)に長安に至り,同四年(西暦402)夏に池造図中の 西門閣上で挑天王:挑興のために此の稗論を出1.-.阿七年十二月二十七日(西 暦4日5年暮か406年新春か)に詑ったと。『大品般若』の同じ全文を含む。 玄英訳『大般若般若波羅蜜多経j([大般若

J

麟徳元年 664年訳) 「一切如来臨正等党不レ可下以二色身一見上。夫如来者即是法身。善男子。如 来法身即是諸法真如法界。真如法界既不レ可レ設ド有レ来有レ去!。如来法身 亦復如レ是,無レ来無レ去

J

(巻399.主 6. No.22日.1068b2-5) 施設訳『仰母出生三法裁般若波羅蜜多経

J

(

r

仰母般若』景徳元年:1004訳) 「如来者是即法身。非二色身可レ見。普男子。法性無レ'*無レ去。一切如来 2

r

大品般若

J

の党本 N. Dutt ed., PmicavII]J血ti-sahasrikaP.肉声apa品川師。Luzac& Co. London 1934(丹市と略)は第l章だけ(巻7無生品まで)であるが,木村高尉 Takayasll Kimuraが残り全部を4冊として刊行した(1986.1990. 1992,2006)。その 最後巻 PaIicavuil血tisahasrikaPrat1a下urami凶 (PaP.と略)VトVIII (山喜房備 書林,東京)は『大品般若

J

巻26末 T. 8,416a16の相当箇所までで経末を欠く。

192

(7)

(6) 村 上 奥 完 亦復如レ是無レ3!毛無レ去

J

(巻25,工 8, No, 228, 674.11 -15) 如来に来ることもなく(不来)去ることもないこと(不去)を,奇術師が作 り出した象隊や騎馬隊等の軍隊,夢の中の如来,大海中の種々の宝,因と縁に 依る琵琶の音の響聡などによって説いてから,曇無掲(法涌)は締め括る。 「まさにこのように諸仏世尊の身の成就 (kaya-ni号p.tti)は,因に依存し 縁に依存し,またーならぬ(多くの)善根の実行によって成し遂げられた。 ーの因からーの縁からーの普根から仏身が顕れる(-pabhavana)のではな く図がない (n.irhetukin)のではない。それは多くの因と縁との両総体か ら(bahu-hetu-pratyaya-samagrIbhyaI)!)生じたので,それはどこから来た のでもなく,因と縁との両総体なしには,どこへも去らない。このように 汝はそれら如来遠の来ること去ることとを見るがよい。汝は一切諸法のま さにこの法性に通じるがよい。なぜなら汝はこのように如来逮と一切諸法 とが不生不滅であると悟ろう。そして汝は無上の正等覚に専念しよう。般 ぜんざt今 若

J

止経蜜と菩巧方便とを専念して行おう。

J

(A

P.pp. 25431-255') 『小品般若

J

r

善男子。諸如来身亦復如レ是。腐二衆因縁ー。無量福徳之所ニ 成就。不下

4

足三一因縁ー福徳ー而生上。亦不二無因無縁而有ー。以ニ衆綜合一 則有。而無レ所二従来。衆縁

1

r

t

則滅。而去!A¥レ所レ至。普男子。膳三賞如レ 是娘三諸如来来去之相一。亦腿三如レ是

1

悦二話法相。普男子。汝若如レ是槻ニ 諸如来及一切法,無来無去,無生無滅_ 0必至ニ阿蒋多羅三貌三菩提一。亦 得三了達二般若波羅蜜方便ー。

J

(巻

1

0

T

.

8,584 c 12-20) 『大品般若』巻27 (T. 8,422

_b2) も『大論

J

巻99 (T.25,745blO_17) も諸仏 身としてほほ同文。『大般若』巻4日日(主 6,1069b正c')も諸如来身としてほほ 同文。『仰母般若

J

巻25 (T. 8,674b1ら幻)も諮仏如来としてほほ同意。 ここで仏身(如来身)とは仏の身(身体)であるが,それが色身ではなく法 身であるという。色身と法身という語はパーリ仏典(主に経註)にもある。仏 が存命中の出来事として語られ,色身は自に見える仏の身体,肉体であり,法 身は仏が具えておられる教法の集合で,戒・定悲・解脱・解脱知見を「五分 法身」という。それは法(教え)の集まりで,修行を完成した阿羅漢も具える。 般若経の場合には仏(釈尊)が入滅されて久しいのに,匠名の著者たちが想 像と思索の趣くままに世尊と共に須菩提や舎利弗を霊場させ対話させる。しか し仏身を論じる箇所では,永遠不滅な仏身を求めて,法身に新しい意味を与え

(8)

fl、と判lの述いの考察 (7) た。『大品般若

J

27巻に対する線論『大論

J

100巻は仏身を始め仏教の核心をめ ぐる考察や議論に富む。この郡論は『大品般若

J

全文を含み,その第l巻前半 (序品第一): 4頁余355行 (217a-221a'りに対し34巻258頁,残り 66巻に経の26 巻半を含める(奥野正順1935-6謬「図諦一切経

J

務経論部 1-5下参照)。 つ ぷ 告 『大論

J

の著者と評者について,

r

大正新怖大蔵経

J

(主)では具には簡樹菩 薩造(また聖者龍樹造)後泰緬家圏三磁[法師]鳩摩羅什[奉詔]誇と繰り返 す。この著者は現代のそれとは違う。龍樹やその弟子や孫弟子等の著作が,こ の稼論の初品には多く引かれるが,全体が育

E

樹造ではあるまい。羅什著とする 説もある。龍樹以来の伝統を奉じて羅什が随意に多く口述し,門人等の質疑に も答えて出来たと私は見る。その訳業は門人僧叡の序にあるように,訳場の 五百余の漠入学僧の協力で『大品般若』の翻訳と併行し三年余で完成した。 上引の経文について「大論

J

は,次のように二身説を締め括る。 「復次仰有二二種身一。ー者法身。二者色身。法身是真仰。色身為二世諦 故有。仰法身相上種種因縁設ニ諸法貨相一。是諸法貧相亦無レ来無レ去。是 故説諸僻無レ所二

f

足来去ー亦無レ所レ至。若人得ニ諸備法身相是名レ近ニ阿梅 多羅三毅三菩提}。未レ得ニ一切智ー故名為レ近。以ニ相似ー故般若波羅蜜名ニ 諸法賓相}。若能如レ是行是為レ行ニ般若波羅蜜一。真仰弟子。真偽弟子者 得ニ諸法貨相名為レ骨110得二諸法貧相差別ー故。

J

(巻99,747a"-27) 法身と色身というこ身説は般若経類の特徴である。法身が真仏(真実の仏) であり,色身(自に見える身:集合体=からだ)が世間の真実としてある。仏 は身のあり方について種々の因縁をもって「諸法貨相(諸法がそのまま真実相 であること)を説いた。我々有情の存在を構成する諸要素や諸属性(=諸法) が,そのまま「実相

J

(真実な在りかた)であると肯定的・楽観的に見る。そ の原語には法であること(法性 dharmata),法の特相 (dharmaーlak~a~a),諸法 の特相(lak~a~a 特相,特徴,定義),真実な在り方=趣旨 (bhuta-naya),真実 であること=真如 (tathata)などがあるが,原語がなくとも諸法が真実である (諸法寅相)と見るのが,経什の仏教観であり理解である。諸法案相という語 は玄英訳『大般若経

J

にも多用されるが,そこでは原本に沿うのであろう30 『大論

J

は少し前で仏身を生身と法身に分ける(巻88,683al6-1り 3 羅什の「諸法実相」の原語については。村上20日「石樟照璽先生の捉える存在の 極相」印度学宗教学会『論掘り 42号, pp.(1) -(25)特にpp.(5)ー(9)参照。

(9)

190-(8) 村 上 呉 完 「骨I1有二二種身一。

i

去身・生身。於ニ二身中一法身為レ大。法身大所レ益多故。」 また法性身仏根本真仏に対して化仏を示す。 「如二法華経中設一。福徳若大,若小,皆歯レ作レ仰。何以

4

開設,j宇園側。 答目。人間三徐仰名字一。調下受レ生典レ人無レ異,但有二一切智一得レ道,為上レ異。 心不二敬重一故。 E住レ種=善根ー亦不レ能レ深。是中是法性身世I1身無量無法光 明設レ法音盤遍満二十方図土日。園中衆生皆是近=骨

I

H

邑ー者。無量阿僧紙由旬 衆中設レ

i

去。勝二無量億阿イ白紙日月光明ー。常従レ身出レ仰。令ニ衆生見則 得ーレ見,若不レ孤則不レ見。是仰一一毛孔主主常出ニ無量無遜阿僧祇制ILo -一諸刊 i等無レ異。於二化仰主主ー展特復出。随!i!!iレ度三衆生一。見ー仰優劣_ 0 根本真。~無レ有レ分ニ別大小之異一。 J (巻

9

3

7

1

2

b

'

-

"

)

曇無掲菩薩は生身・法身・法性身(根本真仏)・化仏(化身)の中のどれか。 「問日。曇書"掲菩薩 為=是生身ー。為下走法身為レ皮ご衆生故,以二神通 力ー化 '1'作此身上。若化身者何用二六高燥友 図

1

腕・浴池・種種荘殿而自 娯幾ー。若是生身。云何能令三薩陀波橋供養兵皆在二空中ー化成ご大窪一。入二 諸三味ー乃至七歳。答目。有人言。是生身菩薩。得ニ諸法賞一相及腕定神通 力故。欲レ皮=是城中衆生 0 ・・一 有人言。是菩薩是法性生身。為レ皮二 衆香城人ー故草壁化市度。若是生身云何能令二十方世I1稿讃ー而浩二薩陀波街。 令下従レ受レ法得'1'六高三味J:o是i¥i:知ニ是大菩薩鎚化身一。

J

(

9

7

7

3

6

a

17

-

b

'

)

多くの女性と暮らす在家の菩薩を化身とすれば,上記のような矛盾があるが, 生身といいながらも,法性生身(法性から生じた身)といい換え,その変化身 であるとする。前者は先に見た法身であり,変化身は化身に同じであろう。そ れが金色身と呼ばれる(巻

9

7

7

4

2

c

15 )。法性生身の大菩躍が金色の変化身(化身) として良家の子息である薩陀波街(常時)に接したという。 『小品般若』や『大品般若』の立場は出家者か在家者か。般若経は般若波羅 蜜〔多)(prajna-paramita,智慧の完成行)を説く抗具には布施・持戒・忍辱・ ~j~ 進・禅定・智慧(般若)という六波羅蜜を説き,その最後を経名とする。そ の持戒(戸羅波羅蜜.

s

Ila-paramita)について「大論』は,いわく 「戸羅(郡一)好行ニ普道}不二自放逸4 是名ニ戸経ー。或受レ戒行レ普,戎 不レ受レ戒行レ善。皆名ニ戸羅ー。是名二戸羅一。或受レ戒行レ普,成不レ受レ戒 行レ善。皆名二戸縁。戸羅者。略説身口律儀。有二人種。不=悩害不二J;/J 盗 ー 不 ニ 邪 姪 不 二 妄 語 不 二 雨 舌 不 二 悪 口 不 = 締 語 不 二 飲 酒 及

i

事命。是

(10)

仏と神の述いの考察 (9) 名二戒相目。若不レ護放捨。是名二破戒→。(巻

1

3

1

5

3

b

8

-

1

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)

と。 この戒は内容上は十善戒(卜普業道)の最後の三戒(食欲・限患・邪見)の 代りに飲酒戒(不飲酒)を加え,邪姪戒(不邪姪)といい姪戒(不姪)でなく, 家庭生活を示唆する。 jqt命(j青浄な生活・生計)を付加し八種の戒相という。 破戒者は三悪道(地獄・餓鬼・畜生の境

i

匡)に堕ち,下の持戒者は人に生まれ, 中の持戒者は六欲天に生まれ,上の持戒者で四澗や四空定を行ずれば,色界や 'UlE色界の清1事天に生まれる。上の持戒者の下の

i

i

事持戒者は阿羅漢を得,中の それは砕支仰を得,上のそれは f~11 道を得る,出家者の戒でもあり,在家者の戒 や律儀は詳細に,出家戒の

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種の名のみを出す(巻

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2

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)

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大論

J

は 二百回以上も限患を戒める。限患(怒り憎しむこと)を戒め忍辱(忍耐)を教 えるのは仏教特有である。戒を犯せば衆僧に峨悔して処分を待つ。 次に仏身論について『大論』巻9以下の,種々の議論を見ょう。 「仰有二二種身→。一者法性身。二者父母生身。是法性身尚二十方虚空無 量無法。色像端正相好荘股。生正量光明無量音盤。聴レ法衆亦

i

尚三虚空。常 出ニ極秘身・種種名競・種種生庭・種種方便→度二衆生。常皮二一切ー,無二 須央息時一。如レ是法性身 j~llo 能皮二十方世界衆生一。受=諸罪報一者是生身例。 生身仰次第説レ法如ニ人法ー。

J

(巻

9

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27

-

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a

4) 父母生身は親から生まれたといいながら,仏は原始仏典以来,通常の男性と は奥なる特徴(三十二相・八十陥形好)を備えると伝え,本釈論でも同様であ る。法性身は法身であり法身仏ともいう。法身仏は単なる理念でなく,常に光 明を放ち説法するが,罪の重い人は見ないし聞かない。心

i

青ij'tなら見る。 「衆生罪重放。諸制;菩藤雄レ来不レ見。又

i

去身仰常放ニ光明ー。常設レ

i

士。而 以レ罪故不レ見不レ問。響如二日出育者不レ見。霞建振レ地立望者不ーレ問。如レ 是法身常放二光明一常設レ法。衆生有二無量劫罪垢厚重不レ見不レ問。如二明 鏡浮水照レ面則見ー。垢務不レ滞則無レ所レ見。如レ是衆生心情滞則見レ仰。若 心不レ

i

事則不レ見レ係。

J

(巻

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b

I7 -2氾) と,事は行者の超能力に属し,凡人には望めないが,その反省を促す。 変化身と父母生身のように羅什は二分化を好むが,変化身は法身とは別であ り,本釈論で変化身を

1

5

例も用いる。本論の仏身説は三身説ともなろう。変化 身は化身とも同じく,神通愛化身とも呼ばれる(巻

1

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。 「冊i身二種。ー神通費化身。二父母生身。父母生身受ニ人法ー故不レ如レ天。」

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1

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(11)

(10) 村 上 真 完 父母生身は人身であるから,天(神)のように超能力で他の仏国へ飛行するこ とはできない。例えば束方の宝積仏の功徳力によって生じた花を,普明という 十住(=十地=法雲地にある)法身菩穣が送って来て釈尊に奉ったという。 「是華質積仰功徳力所レ生。非二是水生華_ 0普明是十住法身菩薩。送ニ此 華ー来上=稼迦牟尼刊Ilー。

J

(巻

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l>叩) どうして超能力がある十住の法身菩薩になるのか。本釈論では菩薩には結業 生身(業に結ぼれた肉体)と法身とがあって,この二種の身の中で布施(槌) 波羅蜜を満たすのは前者である。結業生身をもって布施波羅蜜を満たし,最後 に肉身(肉体)を捨てて法身を得るという。ここに前生物語(本生話,本生諮) が予想される。釈迦文仏(釈尊)が前生において須提禁太子 (Sudana,パーリ Vessantara) の時に,自分の所有物を捨てて施 L,終には自分の妻子までも求 める者に施した。六牙白象に生まれた時には,猟師の毒矢に射られでも,怒ら ず自分の牙を抜いて,その猟師に与えた。象身でもこのように心を用いた。こ のような心は阿羅漢の法の中にはないと。 「菩薩有二三種身。ー者結業生身。二者法身。是二種身中祖波羅蜜湖。 是名レ具一二足檀

i

庇羅銭。問目。云何名ニ結業生身檀波羅蜜湖。答日。 未レ得ニ法身ー結使未レ輩。能以二一切質物・頭・目 髄・脳・図財・支ー子・ 内外所有}。量以二布施心ー不ニ動車;!(一。如ニ須提撃太子一。 云何法身菩 薩行=植波羅蜜一滴。菩薩末後肉身得ニ無生法忍ー。捨ご肉身得=法身一。 於ニ十方六道中一。聖書レ身感レ適三以イじニ衆生一。種種珍賀衣服飲食給ーニ施一 切ー。響如ニ綿迦文側一。曾為ニ六牙白象ー。狐者伺レ使以ニ毒箭ー射レ之。. 雌レ日ニ象身ー用レ心如レ走。

i

首レ知=此象非ニ畜生行報一。阿羅漢法中都無二此 心- 0首レ知三此為ニ法身菩薩。

J

(巻

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4

也 お …C3-5) 法身菩薩は菩薩の最期の肉身で無生法忍を得,肉身を捨てて法身を得る。 B 忍(忍辱)と等(平等),無生法忍と無生忍と生忍(衆生忍) 無生法忍の忍も!!~生法も難しい。忍 (k号 ãnti) は多く忍辱と訳される(忍辱 波附=縦波羅蜜)。ここが「大論』の地ある解釈である。「大品般若』巻 え ざ 頭に釈尊の説法の会座に侍る菩薩摩詞薩の形容「皆得

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1

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屯羅尼及諸三味一行ニ空・ 無相・無作。巳得ニ等・忍ー

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(主

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3-i5) の原語

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t.)訳は次の通り。 「菩薩は皆陀羅尼 (dharani記憶術)を得,空性〔三昧〕に住し(釦nyata

(12)

-仏と判Iの述いの考察 ( ー

-

) viharin)t 1~相〔三味〕を行境とし (animitta-goca同).願求を作為せざる を行境とし (praQidhanakalpita-gocara).忍(忍辱)と等(平等)とを得 ている (k~ãnti-samat亙-pratilabdha),j (PaP.p. 4"') ここに等 (samatã. 等しく平等なこと)と忍 (k~ãnti. 耐え忍ぶこと)を説く。 等には衆生等(衆生としての平等)と法等(心身の諸要素としての平等)があ り。忍には衆生忍(衆生に耐え忍び受けとめること)と法忍(心身の諸要素に 耐え忍び受けとめること)がある。自ら進んで耐え忍び受けとめ,内向的なが らも,ただ自分を苦しめるのではあるまい。 「問目。云何等,云何忍。答日。有二二種等。衆生等・法等。忍亦二種, 衆生忍・法忍。云何衆生等。一切衆生中等心・等念・等愛・等利。是名二 衆生等。

J

(巻5.97aおお) 衆生等(生等ともいう 衆生が等しい)とは,一切衆生に対する等しい心・等 しい念・等しい愛・等しい利である。慈悲力の故に一切衆生に対して等念(平 等な念,思い)を懐くべく, 等観(同一視)はしてはならぬと異論が続く。 「問目。慈悲カ故於ニ一切衆生中ー感ニ等念ー。不レ臆二等槻-,

J

(同97a"'29) と。菩薩が其実道を行うには,間違いなく法相(諾の定義)の通りであるべく1 善人・不普ー人,大人 小人,人・畜生を,なぜ同一視(等観)するのか。 「何以故。菩薩行賞道不二顛倒 -~p- 法相。云何於ニ善人・不善人・大人・ 小人・人及畜生。一等視。不普人中安有二不善相目。普人中賓有二替相ー。 大人・小人・人及畜生亦爾。如ニ牛相ー牛中住。馬相馬中住。牛相非二馬中。 馬相非ニ牛中ー。馬不レ作レ牛故。衆生各各相。云何一等腕而不レ路二顛倒→。

J

(巻5.97a29-b10 ) 不善人には不普ーの定義(不善相)があり,善人には普の定義(普相)があり, 牛には牛の定義(牛相)があるが馬にはない。それを同一視(等観)すれば顛 倒に陥るではないか。この異論を退けて, もし普の定義(普相)や不普の定義 (不善相)が実(真実,実在)なら,顛倒になろう。しかし諸法(心身の諸要 素)の定義(相)を否定するので,諸法は実ではないから,普の定義(普相) が実ではない。不善の定義(不普相)は多相でも少相でもなく,人でも畜生で もなく,同一でも別異でもない。従ってその異論は当たらない。 「答目。若普相・不普相是質。菩薩膳レ監二顛倒目。何以故。破二諸法相ー故 以二諸法非ーレ賞。善相非レ賞。不普相非ニ多相-~F=少相ーo 非レ人非二畜生ー -186

(13)

(12) 村 上 真 完 非レー非レ異。以レ是故汝難非也。

J

(巻5,97a29-blO ) その典拠として龍樹の『中論

J

冒頭の帰敬頒(入不の偶)が引用され,更に, 衆生等の意味が詳論される。今は

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走者から見ょう。 「一切衆生中。不レ著ニ種種相目。衆生相・空相・ー等無レ奥。如レ是脱。是 名二衆生等一。若人是中心等無レ磯。直入ニ不退一。是名レ得ニ等忍一。得ニ等 忍ー菩藤。於ニ一切衆生ー不レ眠不レ悩如二慈母愛ーレ子。

J

(巻5,97b15

衆生が等しい(衆生等,生等)とは, 一切衆生の中の極々なる在り方(相) などに捉われずに,衆生相が空相でありーつの等(ー等,一体の平等)であっ て異ならないと,観ずるのである。この中で 心等しく擬げがなければ直ち に不退〔転〕の位に入る。これが平等な忍(等忍)を得た菩薩であり,あらゆ る衆生に対して隙らず悩まず,替えば慈母が子を愛すると同じようになる。等 忍を得た菩薩は直ちに不退転の位に入り,仏の位に近づく。 法等忍(教法が等しいと虚心になって認めること)は,次のようである。 「云何名二法等忍。普法・不善法・有漏・無漏・有為・無為等法。如レ是 諸法入二不二人法門戸[②・@入不二法門]。入ニ賓法相門。如レ是入覚。是 中深入ニ諸法貧相一時。心忍直入ニ無静 無磯。是名二法等忍ー。

J

(巻5, 97b"-") 法門 (dharma目paryaya) とは教え(教法)の部門で,不二とは二つではない, つまり一つであり.不二法門とは一つであり平等で分け隔でなく無差別である という教えである。それが貸法相の門であり,そこに入り終って諸法貧相に深 も、"、 さまた く入ると,心忍が直ちに

1

!l¥静(静うことのない境地)・無擬(擬げのない境地) に入る。これが法等忍(教えが等しいと心に受け止めること)である。以下で は衆生忍を生忍と言い換え生忍と法忍という(巻

1

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24-10-15"19-22) 「廊提秦言ニ忍辱ー。忍辱有三二種。生忍・法忍。菩隆行二生忍得ニ

1

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,量 福徳一。行二法忍一得=無量智慧目。福徳 智慧二事具足故。・・・有人言。普 心有二二種ー有雌・有細。雌名ニ忍辱ー細名ニ市~定ー。未レ得二百車定一心幾能遮= 衆悪。是名ニ忍辱ー。心得二聯定一銭不レ為二衆悪一。是名ニ禅定。是忍是心 蚊法典レ心相謄,随二心行ー。非レ業非ニ業報随ニ業行・・・云何名ニ生忍ー。 答目。有=二種衆生ー来向ニ菩薩一。一者恭敬供養。二者順馬打害。爾時菩 薩其心能忍。不レ愛ニ敬養衆生一,不レ│慎二加レ悪衆生一。是名ニ生忍ー。」 生忍即ち衆生忍とは敬い供養する者にも怒って危害を加える者にも忍んで受け

(14)

仏と神の述いの考察 (13) 止める。法忍は心(意)やその対象である諸法に耐え忍び心に受け止める。一 説では普心にも籾雑な心と微細な心があるが,前者が忍辱であり後者が禅定で しんじゅ しよう ある。禅定が心数法(心所有法,心作用)で業行に従う。次に生忍に関連して 法忍に関する議論が続く(巻15.168b8-21l.22-27'''171c 29_172a

.7-9) 「忍二諸恭敬供養衆生及諸限悩姪欲之人。是名=生忍一。忍=其供養恭敬法 及限悩姪欲法ー。是為二法忍」復次法忍者。於ニ内六情(眼耳鼻舌身意)一 不レ著。於二外六座(色盤香味胸法人不レ受。能於=此二不レ作二分~iL。何 以故。内相如レ外。外相如レ内。二相倶不レ可レ得故。一相故。因縁合故。 其寅空故。一切法相常

i

青『事故。加二民際法性相-1故。不二入故。雌レ紙;レ二 亦不レー。如レ是槻=諸法心信不レ勝。是名ニ法忍。如ニ見摩雑草吉経中。 法住菩薩設ニ生滅為レニ,不生不滅是不二人法門。乃至文殊戸利説二

1

町間-!Uí見一切心減!!~設無詔一。是不二人法門。昆摩羅轄獣然!p.\レ言。 ・・法有=二 種。心法・非心法。非心法中有レ内有レ外。外有二朱熱風雨等一。内有二飢渇・ 老・病・死等。如レ是等種稜名為

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心法一。心法中有二二種ー。ー者│院議・ 憂愁・疑等。二者姪欲・僑慢等。是二名為二心法。菩薩於二此二法能忍 不レ

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リJ。是名二

i

去忍。 ー云何言二法忍ー。答目。若瓶三諸法畢克空。取レ相 心著是為ニ悪邪見ー。若

1

阻レ空不レ著不レ生ニ邪見一。是為ニ法忍_ 0 ・・是名ニ 法忍。是法忍有二三種一。行

i

青海不レ見=忍辱法一。不レ見二己身ー。不レ見= 罵辱人。不レ戯ニ諸法。是時名ニ

1

i

事法忍一。」 法忍とは仏の教え(法).しかも般若経や龍樹に由来する伝統的な教え(法)を, 忍耐強〈受け容れ,疑わずに認め,納得して心の奥で受け止めるのである。 『大論』は二種の等と三種の忍を説く途中で

.

1

諸法の相を説く偽の如し」と『中 論j

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1564,lb)冒頭の帰敬偶:

1

八不の偏

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(不レ生亦不レ滅 不レ常亦 不レ断 不レー亦不レ異 不レ来亦不レ出 能設ニ是因縁ー 普

i

成二諸戯論ー我稽首 躍レ刊11諸説中第一)と同意の{昂を示す。 「不レ生不レ滅 不レ断不レ常 不レー不レ異 不レ去不レ来 因縁生法滅ニ諸 戯論ー刊11能説レ是我今

i

.

レ櫨

J

([大論』巻5.97b山')。 ここの否定詞を伴う八語の意味上の主語は「図と縁とから生じる法

J

([因縁に〕 よって起こること p悶titya-samutpada,縁起していること)であり,それが諸々 の政論を滅している (pr叩 nca-sam仏戯論(戯論, prapanca, Pali: p叩 五ca) とは,漢字通り「戯れの議論」で,戯論,健苦,言説,妄想,冗論,妄執,屈 184

(15)

-(14) 村 上 真 完 理屈の類である(村上2009papanca, papanceti

r

パーリ仏教辞典』春秋社)0

I

図 と縁とから生じること」とは,因と縁とがなければ,独立には生じることもな く (anutpada),滅することもない (anirodha)。同様に断,断絶,断滅,絶滅 がない (anuccheda) と,常,恒常,恒久でない (a釘svata)というのも,共に 他の一方に依存し予想して始めて言える。一つ〔の意味) (一義)ではない (anekartha)と, 異なる〔意味) (異義)ではない (ananartha)というのも, 共に他の一方に依存し予想して始めて言える。去らない(行かない, anirgarna)と来ない (anagama) とも, 共に他の一方に依存し予想してはじめ て言える。この「依存し予想している」関係が,すなわち「因と縁とから生じ ること

J

(因縁生法, 縁起)であり,これが戯論(餓舌,妄想,冗論,鹿理屈) が滅¥.-,吉祥でめでたい (siva)。この縁起を説かれた (deSayamasa)説法者 逮の最上者である (vadatamvaram) 正等党者に私は敬礼し、たす (sambuddham vande)o (M.Bibl. Bud. p.U13

-16)' 以上,八不の偽を原文 (Skt.)を主として解釈した。 無生忍法とはどういうことか。無生とは何ゆえか。上に見た人不の偶の解釈 がその答えとなる。筆者の理解では無生とは,他に依存せずに独立には生じ ないこと。我々の心(意)やその対象であり,また心身の存在を構成している 諸要素である諸法(芯説法=心所法:心作用という諸法)のどれも,因縁によ らずに独自には発生しない(不生)。そのような不生で無生である諸法を心に 深く受け止め心底から納得する。それが無生忍であり,その無生忍が心数法(心 作用)という一つの法(心身の存在を構成している諸要素の一つ)であるから, 無生忍法ともいうと考えられる。無生忍法は羅什特有の訳語で,

r

大論

J

(36{Y~ ほど)や『大品般若

J

(4例)に見える。『小品般若』には見出し難いが,八千 頒般若 (Skt本)には柾生法忍に相当する用語と無生忍に相当する用語がある。 原語 (Skt.)を党本で確認し和訳に原語を添える50 4 Miilamadhval1目 的karikas(Madhyamakasiitras) de Nagarjlll!a avec la Prasallllapada COl1lmelltaire d// Candrakfrti pllblieepar Louis de la Vallee-Poussin, Bib1iotheca Buddhica No4,.St.-P白 1903-1913) 5 (P. L. Vaidya ed. 1960前記), W. (U. Wogihara (1932) 1973 ed. AbhisamayalaJ11karaloka Prajnaparamitavyakhya The Work of Haribhadra, Sankibo Buddhist Book Store, Tokyo). Ryusei Keira(計良地成)& Noboru Ueda (上回昇)

(16)

仏と神の速いの考察 (15)

1

.

r

過去に準備行をしていた五千の天子(神)達には無生なる諸法(心身の 諸要素)に対する忍(無生法忍)が得られた (pancabhisca deva-putra -sahasrai

I

l

:

purva-parikarma-krtaira問中attike~u dharme~u k~ãntil:I pratilabdha A~p. 155 3-'.W. 6441-')

j

2.

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菩薩摩詞躍には金正生なる諸法(心身の諸要素)に対する忍(無生法忍) が

4

専 ら れ た (anutpattike号udharme~u ksantil)pratilabdhaA~p. 16913, W.

692')

j

3

.

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蛙生なる諸法に対する菩薩摩詞薩の忍(無生法忍)がこのような在り方

である (anutpattike~u dharme~u ksantir evarp-rupa bhavatiA~p. 20212-13, W 799'-3,)j 4.

r

菩薩摩詞薩達は・・一切諸法(心身の諸要素)が無生であると信解するが, 未 だ 無 生 法 忍 を 得 て い る の で は な い (sarva-dharmaanutpattika ity adhimuocanti na ca tavadanutpattika-dharma-k~ãnti-pratilabddhã bhavanti A~p. 223 18-19, W. 8562'",)j 5.a~tãnärp pral).i-sahasral).am anutpattika-dharma-keanti-prati1ambho 'bhut A与p.25520 ( d W. 978判り『八千もの生類には無生法忍が得られていた。J 以上5例は無生法忍の原語を示している。 1,2, 3は同一表現 anutpattikeeU dharmesu ksantil)(r)で,

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生じることのない諸法=心身の諸要素に対する忍= 信じ納得して心の奥に受け止めること』を意味

L

3

語とも独立の語尾変化で 示される。 4と5とは複合語の前分となっているが,前の3例と意味はほぼ等 しい。 4の前半には,無生法忍を得てはいないが,無生忍を得ているという趣 旨であろう。 以上の箇所に当たる『小品般若』の相当部分を探しあぐねるが,同巻16阿惟 越致相品第卜六末に世尊が須菩提に語る文に,無生忍とある。 「是菩薩於二諸法中一得二無生忍ー故。須菩提。菩薩成一二就如レ是功徳・相 . ゆ い お 。 ら ー ← 貌ー。蛍レ知ニ是阿惟越致菩薩ーJ (T.8, p. 565c"-

A伊 の相当箇所には欠) この菩薩は諮

i

法中に無生忍を得,このような功徳や相貌を成就した。これが Wogihara edition), Sankibo Pr白5,Tokyo.A~p. の和訳梶山雄一 1974-75

r

八千繍般 若経J

I

.

ll(束京。中央公論社『大釆仏!)l¥J 2. 3 ; 2001年『中公央周lJとして 刊行。 Hは丹治fiB義との英訳)。

(17)

182-(16) 村 上 其 完 . ぴ ぱ 。 ち 阿惟越致=阿事f.蹴致である (avinivartaniya,菩薩の

f

立から凡夫に退かない)50 「若過ニ是二地知ニ諸法不生不滅。即是阿見抜致地。住=阿見放致地中一 教ニ化衆生 _i事ご胡i世界ー。是為 =:~~i浄ニ仰道ー。 J (巻36,323.'-Jl) 声聞・縁覚(砕支仏)の二つの位を過ぎ諸法の不生不滅を知るのが,不退転 の(阿見蹴致地の)八地以上の菩薩で,衆生を教化し仏世界を浄め仏道を浄め る。 「菩薩住ニ七地中一破二諸煩悩ー自利具足。住ニ八地・九地一利一ニ益他人ー。 所調教ーニ化衆生一浄=f~&世界ー。自利利レ他深大故一切功徳具足。如=阿羅漢・ 僻支仰ー自利雄レ重利レ他軽故不レ名ニ具足ー。諸天及小菩薩雄三能利ー二益他 ー而自未レ除ニ煩悩ー故亦不二具足。是名ニ功徳具足。九地覚。蛍レ知如レ仰 者菩薩坐ニ如レ是樹下一

J

(巻50,419b'7-2勺。 菩薩は七地に住して諸煩悩を破り自手Ijを全うし,八地と九地に住して他人に 利益1...,衆生を教化し慨世界を

i

事める。阿羅漢や砕支仏は自利を重んじ〔入滅 し

J

,利他を軽ろんじそれを全うしない。神々や小菩薩は他を利益しでも,ま だ煩悩を除かないので不十分である。仏を知るような菩薩は菩提樹下に坐って 法雲地第一寸血に入り,悟って仏となる。それに関して『大論』は『大品般若』 初頁上段に逐語的に註釈し忍辱を論じ,不退転の菩薩と仏との違いを記す。 「是菩薩雌下為=法身無中老病死上。奥レ仰小異。瞥如二月十四日。衆人 生レ疑ニ若揃,若不ーレ湖。菩薩如レ是。雌下能作レ骨I1能説上レ法。然未二質成レ 骨I1。制I1如ー月十五日

-

i

満足無レ疑。

J

(巻6,106b"-c') 不退転の菩薩を法身として十四日の月に替え,仏を

i

前月に替え,仏とは小異 があり二種の清浄がある。(1)仏となる時に全て煩悩を除いて突の清

i

事を得る (得レ刊I1時除レ結都盤,得ニ賓I青浮_), (2)菩薩が肉身を捨てて法身を得るl侍に諸 煩悩を断じ実の

i

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事を得る(菩薩捨ニ肉身ー得ニ法身ー時。断二諸結

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i

i

事。巻 6,106c'-Jl)と。 i市廻転生を前提とする想像と理念の世界における人地から十地 の菩薩である。羅什訳の一生補処 (ek.jati-pratib.ddh.) は「一生を経て仏の 位を補う処にある」最高位の菩躍を意味し,原語は一生だけ輪廻に:繋がれる意 味の最高位 十地ー法雲地の菩薩で,

i

去雲地で一度死んで再生し菩提樹下に坐 り大悟し仏となる。十地を説く党本 (Bhum百 四 悶,Da血bh耐ni加-sutra) もあ 6 即ち不退,不退転,無退である。阿惟越致,阿糾肱致について宇井伯 1,¥'(1938) 1953

r

仰教辞典1東成出版社,中村元1981,[{II教語大辞典縮刷版』東京書籍,参照。

(18)

仏と神の述いの考察 (17) り羅什訳『十地経

J

の他,

r

大方股刊1;華版経』等数種がある。 『大品般若

J

にいう諸菩薩の形容:

I

大忍成就 (adhimatra-ks百nti-samanvagata. 甚しい忍辱をそなえた)Jの大忍とは等忍と法忍とを増長すること,等忍とは 衆生の中に在って一切に能く忍び柔順なこと,法忍とは深い法(教え)につい て忍耐し受け容れることである。この二忍が増長すれば,無生忍を証得する。 生忍と法忍という二種の忍の中で,生忍とは衆生(人)に対する忍耐や忍辱 をいい,多くの人々からの種々の加悪心(慈意)を怒らず憎まず (1眠議せず), 逆に種々の恭敬や供養を受けても心に歓ばず慢心もしないのである。 無生忍とは,我々の存在を構成している心身の諸要素(諸法)が因縁なしに 独自には生じないと,心に受け止めることに迷いあるまい。 次に因縁という観点から衆生を観ると,その最初がない。もし最初があるな ら因縁がない。因縁があれば最初がない。最初がなければ後もないであろう。 なぜなら最初と後とは相待するからである。もし最初と後とがないなら,中も またないであろう。このように飢じる時には常〔恒〕と断〔絶〕という両極端 (三辺)に陥らず,安隠(穏)の道を用いて衆生を観じ邪見(誤解)を生じな い。これを生忍(衆生に対する忍辱)と名づける。甚深の法(教え)について 心に単語するものがないのを法忍(仏法を安んじて受け容れる)という。 甚深の法とは十二因縁であり,空・無相・無作(無願)という三解脱門をい う。

1

-

二因縁においては展転し次々呆を生ずるが,図中に呆があるのでもなく, 果がないのでもなく,この中から出るのを甚深の法と名づける。三解脱門に入 ると浬紫の常楽を得るから甚深の法と名づける。一切の法は空でもなく不空で もなく,有相でもなく無相でもなく,有作でも無作でもない,と観じる中で心 もまた執着しない。これが甚深の法である (106cI6-107a'取意)。

C

有と不と無,空と空性(空相)についての考察 漢字には不と無という二種の否定詞があるが,不は動詞を否定し,無は名詞 を否定する。不生と無生とは微妙な相違があるはずで,先に見た八不の備を八 無の備といわず!!~生法忍といっても不生法忍とは言わない。不生は生じない のであり,知

i

生は生ずることがないのである。 無が我々に知られるか。漢詩には有(有る,有ること)も無(無い,!P.¥いこ と)もあり,和語にも括弧内に示したように,それぞれ対応する語がある。し 180

(19)

(18) 村 上 呉 完 かし党語には有に相当する動詞(語根 bhu,as)と名詞 (bhava)があるが, !P.¥ に相当する動詞も名調もなく,否定詞を冠して abhava(非存在,非有) という。 これを漢訳経論は非有ともいうが,多くは無と置き換える。なお非存在という 語は『大論

J

ゃ『大品般若

J

には見出し難い。一体,無(非有,ないこと,な いもの)が我々に知られるか。我々が経験し見聞した物事については無いと知 ることができる。今はない品物も我々は想像し空想もできる。しかし全く考え ていない想像も空想もしていない事や物を無いと知ることができるか。私はで きないと思う。私にとって本当の無(無いもの)は無いだけで,五感でも心(意) でも知り得ない。無を認識できるというのは経験や実感に反しないか。ただ「無」 「ない

J

ということば(語)や概念を知り,自ら用い考えて,ことばにもする。 真の無を考えようとし想像し空想し夢想し盲想する。そうして発見や発明も 可能になろう。兎角,色毛や空華など存在しない物の名はある。無いものを探 して知るや否や,それが無いものではなくなる。一方党詩で「空である

J

(釦nya, からっぽな,欠如した)という形容詞や,その名詞形「空であること

J

(sunyata, 空性,欠如していること)は,

I

有ってほしい

J

I

有るべき

J

,または「曽て有っ た

J

もの(具格 instrumentalが示す事柄ゃ性質,または釘nyaに終わる複合語 の前分が示す事柄や性質が)欠如

L

てないの賞、である。具体的なものに関して は分り易く,空(空性)を介して無を知り反省もできる。 仏教の経論における空(空性)をめぐる言説が簡単でもない。微妙な心の在 り方をめぐる表現も微妙で,原典自体にも整合性が怪しいこともある。我々の 限等という五官(感)も心(意) (以上六根(感官)

J

も,それらの対象である 色等〔六境〕も「無常で苦であり,自我(自己,我)ではない

J

,という原始 仏教以来の経文に沿って,空(空性)が教えられる。我々の存在を構成してい る色(感官で知られるもの)・受(感受)・想(想念,概念)・行(心身の潜勢力) 識(知覚,認識)についても無常・苦・非我であると説かれる。そこでは我(自 我,自己)が欠如している,つまり空である。色・受・想行・識(五つの集 合体,五紙五除,五衆)の一々について無常・苦・空・非我を説く経文も多 い([雑阿含経jT.2, No, 99,

l

f

f

, )。般若経類や『大論

J

では基本的には色 (rupal]1) 〔等

J

(六境,五陰=五衆の一々)が空である(釦nyal]1)とは,

i

色は色であ ること〔という概念〕を欠如している (ruparprupatvena 釦nyal]1Pap, 128li 色色相空『大品般若』巻3:T.

8

.

2

3

5

a

li

J

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I

色は色という本性=色の自性=色と

(20)

仏と判1の追いの考察 (19) いう自己同一性=概念を欠如し=空である

J

(rupal11 rupa-svabhavena sunyam Pap. IV. 13018;色色相空『大品般若』巻21: 372cll373c12 )。玄英訳『大般若

J

の「色相空」巻461: T. 8.331c', 1色性空」巻409: 47a27;巻429: 158b" ; 1色 自性空」巻447: 257b15が対応する。漢訳に対応する党語原文が容易に見出し えないが,最初の2例は間違いなく確認できたら 先の蒋論の文脈に立ち返ると,空である(釦nya)という問題が導入される。「空 である」とは「空っぽなJ.I欠如している」。気になる必要な物が欠如して無い。 空であること(釦nyata,空性)とは欠如している事で,1偏に説くが如し」といっ て,経1'1が弘始十一(西暦409) 年に訳した龍樹菩躍進党士青日報『中論』の 備の異訳に当たる31昂を引く。 「因縁生法是名ニ空相ー亦名ニ仮名ー亦名ニ中道一

J

(巻6,T. 25, 107all -12) 『凡そ(因縁に]よって起ること (yarypratitya-samutpadary,因縁より生ずる 法=意の対象で,我々の存在の構成要素のどれか一つ)。それを[我々は〕空 であること(=空性=空の相)という(釦nya国

r

r

tarppracak~mahe) 。それは 捉われて仮名=仮設=概念化することである (sapr句目ap町 叩adaya)。それが す な わ ち 〔 両 極 端 に 偏 し な い 〕 中 道 で あ る (pratipatsaiva madhyama)

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d.匹50310-11 C王「衆因縁生法我 説=即是無亦為二是僚名亦是中道義『中論j24

.

1

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3

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, No

.

1

564, 33bll-12) 0

r

中 論』の註釈は初2句を「衆因縁生法我読ニ即是空」とし句末の無を空に改める。 備はなぜ「無」か。誤記でないか。後に

6

世紀の天台智者大師脅晶の「摩詞止 観』は空を採用

L

,この備が空・仮・中の三諦(三真実)を示すと看倣

L

,教 学の中心に据え三種の真実(三諦)と見た。これは三分割法である。 それは複雑・難解で益事援のように二分割法に還元すると分かり易い8。 7 村上2014

r

空思想の一考察 色即是空再考

J

r

奥田盟服先生頒寿記念インド学仏 教学論集』佼成出版社, pp. 558-602,村上2016

r

空が分かると和が可能になる一般 若心経類の空思想

-J

r

三友健容博士古稀記念論文集智慧のともしびアピダルマ仰 教の展開

J

(山喜房仏書林.東京)pp. 406-381 (582-557)参照。 8 村上其完阿部秀雄2017

r

仏教者が読む古典ギリシアの文学と神話松田紹典論集

J

図書刊行会。第

l

部二「説得と二分割法」を読んで,真の

1

M

は知り得ないと思い知っ た。仏典は畢党無の例にf色角・兎角を挙げるが.無でなく空に過ぎない。真に無い ものは世間の誰も知らない。例えば松燥事 i が1!!~ l,.、昔はそれが無いとも誰も却I らない。 有名な西田哲学の「絶対無

J

も。この空の文脈では空性(有るものが無くなること) に過ぎなくなる(同書pp.22-23, 339ff" 373)。 178

(21)

(20) 村 上 其 完 「若法寅有不レ廊レ還レ無今無先有是名鴛レ

m

f

r

J

(T.25,107a13) 『なぜなら,およそ自体として存在するものが (astiyad dhi svabhavena) ないのでないと (natan nastiti)恒常である (saSvatam)。今はなく先には 有 っ た (nastidanimabh百tpurvam) と す れ ば , 断 i成 が 付 随 す る (ity uccheda!) prasajyate)

o

J

(M.l5.11, Bibl.BlId. p

.2

735-5• Cf.

i

若法有二定性ー 非レ無則是常先有而今無 是則鴛ニ断滅

_

J

[中論j15.11, T. 30, 20b2G-幻) 自分の存在を構成している要素=法が恒常であるというのが常見(恒常論)と いう偏見。それが断絶するというのが,断見(虚無論)という偏見。「不レ常 不レ断亦不二有無一心誠彪滅言説亦髭

J

(工 25, 107a'4)

r

心の領域が滅すると (nivrtte citta-gocare)表現すべきことが滅する (nivfttamabhidhatavyaql)。な ぜなら心身の構成要素=法であること=法性は,浬撲のように (nirvanamiva dharmata)生 ぜ ず 滅 し な い か ら (anutpannaniruddha)

o

J

(M. 18.7, Bibl. BlId p

.

3

6

4

3-4) 現在まで刊行された党話の偽は,

r

大論

J

引用備の後半に相当するが,前主主 に相当する内容はない。 Cf.

i

不レー亦不レ異 不レ常亦不レ断 是名ニ諸世尊教化甘露味一

J

([中論』 18.7, T. 30, 24a"

かように維什訳『中論

J

は『大論』に引用された偶の前半に相当する半偶: 不一・不異と不常・不断という両極端の否定,即ち中道を諸仏の教化の甘露味 に替え真実(諦)と詠う。「因縁生法 (pratitya-samutpada)是名二空相(釦nyata)ー」 ([大論

J

)o

i

衆因縁生法我読=即是空ー

J

([中論j) とは,なぜ真実(諦)か。 青目釈は簡明に説く。 「衆縁具足和合而物生。是物属ニ衆因縁ー故jn~ニ自性ー。無二自性ー故空」 (巻4,33b 15-17) と。 自性 (svabhava,独立に有ること)がないから空(釦nyata:空相。空性) である。因縁(環境)が調い感官で感受した色 (rupa)が,色の自性 (rupa-svabhav,a または rupatva,色で有ること 色という概念)がない(欠如している)から, 空であること(釦nyata 空相,空性)になる。背目釈は続ける。 「空亦復空。但潟,,

5

1

ーニ導衆生J故。以ニ仮名ー設。商t二有無二議ー故名筋二 中道

_

J

(巻

4

,33b 17-18) 「空も亦復空」とは空を知る瞬間が2度になる。自に見える色には色の自性

(22)

仏と神の迷いの考察 (21) (rupa-svabhava) がないから「空である」。次に色には色であること (rupatva 色という概念)がないから.

i

空であること」が分る。この場合にも空を知る 瞬間が2度になる。有るものが無くなる(欠如する)と空を知る。その前後に 色には我 (atman.aham) がないから.

i

空であること」が分かる瞬間もあるか ら「空も亦復空」と知る。次に人々を導くため色という仮名(仮説,言語表現) をもって説く。有と無との両極端の見解(二法)を離れる故に,中!市の態度(中 道)と為す。中道が真実(諦)であると確認した。よって空を説く言語表現も 真実(諦)である9。 D 羅什の仏身説生身(色身,肉身)と法性生身と法身,化身と真身等 先のBでは菩薩の法身を見たが,ここで『大論

J

の仏身説を総覧したい。 「捨三生身→得=法性生身。 ・若得ニ書院生忍法断ニ諸結使此則

i

i

事。末後 肉身鼓得=法性生身。

J

(巻27.262a'-♂。法性生身は菩薩にも仏にもある。) 「末後肉身謹得ニ法性生身一。雌レ断二諸煩悩ー。有二煩悩習因縁ー故。受二法 性生身_~Ï'=三界生一也 ー有二二種菩薩ー。ー者法性生身菩薩。二者為レ度二 衆生ー故。方便受二人法身生二浄飯王家。

J

(巻28.264b5-7・ 265b・ 4-6) 「為ニ生身ー故説二三十二本

i

。為二法身J吹説二無相一。俄身以ニ三十二相・ 八十隠形好一。而自

l

l

J:一二股法身。以二十力・四無所畏・四無擬智 十 八 不共法諸功徳-1IJ:一二股衆生一。有二二種因縁ー。ー者楕徳因縁。二者智慧因縁。 欲レ引 =導福徳因縁衆生日故用二三十二相身ー。欲下以二智慧因縁日

1

-

"

,導衆 生上ー故用ニ法身

_

o

J

(巻28.274a12-1

「世1;身ニ有二種一。一者虞身。二者化身。衆生見ニイ;異身。無二願不レ制。 備民身者。遁ニ於虚空ー光明週煩二十方一。説法音盤亦週二十方無益恒河沙等 世界。

J

(巻30.278a 18-21) 最後の真身は衆生を救済する仏身であり,阿弥陀仏のような報身 (sambhoga-ka抑1本願と修行を成就された仏身)をも予想し,化身も多義であろうω。 9

r

岡誇大蔵経論部第五巻j(1921) の宇井伯需の「三論拝題」と国訳と註が有用。 10

r

大論

J

は三身説を説かない。宇井伯詩 (1927)1965

r

大智皮論に於ける法身説H印 度哲皐研究第四jp九,401-424は三身説の考察から始め『大論

J

の資料を整理しているロ 羅什訳『法華経

I

4

島知識訳『大般湿梁経j等は仏が永遠であると説き,それ以後 に法身(其身,自性身) 報身(受用身,自受用身) 応身(変化身,世に応じて現 れた仏身)という三身が種々に論ぜられる。横超慧日1962

r

鳩摩羅1-1の法身説j

r

印 176

(23)

(22) 村 上 其 完 『大論』巻2

1

.

219b念仏の段で多陀阿伽皮切thagata) を「来たって阿縛多 羅三貌三菩提の中に至り去って浬換の中に至る」と解す。又「先世に来るが如 〈後世にも亦是の如く去る。是れ亦,如来と名け亦。如去と名く

J

(巻55, 454b)

E

菩薩は十方の広大な諸仏国土(三千大千世界)において仏国土を浮め衆生 を成熟させ教化する 『大品般若』には

i

争仏国土や成就衆生という話が百例以上あり,稀に

i

争仏 土ともある。その主請は菩薩である。同巻25(T. 8, 405b止めに対応する党文 きょ に, buddha-k1etral]1parisodhayati (仏国土を浄める)と, sattvaq1paripacayati (諸々の衆生を成熟させる)とある (T.Kimura 2006Pap. YI-YlIIp.1122

-3. 18 19)。海側世界や教化衆生という表現も『大論』に各百例もあり, [大品般若』 に後者が十余例ある([大品般若

J

T

.

8,406b"-c2407a11.16.17.22.201_c''')。原語は sattvan avavadati(Pap.YI-YIII pp. 1166 .21.22, 117

.7.9;衆生を教化する)0

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大品 般若

J

巻26と『大論

J

巻92

i

i

判殉図土品(i許土品

)

J

がある。イl、が須菩提や舎 利弗と語り合う経を論が引いて説く。菩薩が仏国土や f,~世界を i事め衆生を教化 し成熟させるとは, 先にBで見た通り不退転の菩陵が「空」を実践する。 仏国土(仏世界,三千大千世界)が現代の宇宙観にも対応するほど広大で多 数あることは,パーリ聖典も漢訳経典も一致する。パーリ語 (Neru,Sineru) と党語 (Me叩, Sumeru) は違うが,干の日・月と千の六欲天・大党天等を伴 う干の須弥山世界が千個集まる世界=小千世界 (sahasslcu¥anika loka-dhatu, sahasras cudiko "Q,羅什訳周利)。それが千個集まる世界が中千世界(=百万 世界dvi-sahassimajjhimika loka】dhatu,dvi-sahasro madhyamo "1))。中千世界 が千個集まる世界が三千大千世界(1.000,000,0∞世界.ti-sahassi maha-sahas頃 loka-dhatu, tri-sahasra-mahasahasro "1),羅什訳百{也世界)であり,釈迦仏の 裟婆 (Saha) 世界である(A.1. pp. 22728-22810AKBh. p. 17115 -19) 0 [大論

J

は 「雑阿合中分別説」と説く(巻7,113c17)。現存の『雑阿合経

J

の訳者:求那 政陀羅は,中天竺出身で師子国から海路で宋の元嘉12年 =435CEに広州に至り, 度皐1,U教&!;研究

J

10-1.pp. 37-40では,無生法忍を得たーー住菩薩は生死身を捨て法 性生身=法身=智訟を得る。その智訟が成仏するまで愛として続くと。横超1966f大 乗大義章に於ける法身説

J

r

大谷大学研究年報

J

17, pp.I-77も参照。

(24)

仏と神の述いの考察 (23) 宋の文帝に迎えられ,同20年 =443CEまでに訳出した最初の経。彼は明帝の 泰始4年:468CE.75歳で入寂([出三磁記集』巻

1

4

:

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.

55. No. 2145. 105b-06b,

r

古 今部経岡紀』巻3 : T. 55, No. 2151,362ab)。その巻16の三経 (424-426)の 趣旨に羅什の言が対応する。三千大千世界は漢訳大蔵経の阿含部・本縁部にも 見えるが具体的には理解し難い。高い須弥山の周りを太陽が回るという須弥山 世界は太陽系宇宙とも看倣されるが,地球とは見なし」むしろ宇宙(虚空)に 浮かぶ巨大な盆で,中央に方形の須弥山が主主え,周囲を八海と八山が囲む。外 海 の 南 方 に あ る 悶 浮 提 (JambudvIpa)に イ ン ド が あ る 。 迦 毘 羅 〔 婆 〕 城 (Kapilavastu)に生まれ,摩伽陀 (Magadha)国の王舎城 (Rajagrha)や僑薩 羅 (Kosala)困の舎衛城 (SravastI)等に住んだ釈尊の世界はインドを出ないが, 三千大千世界とは壮大だ。「大論』は阿弥陀仏の本願や仏土についていう。 1

r

ー比丘阿粥陀働経及び摩詞般若波羅蜜を諭す。是の人死なんと欲する時 弟子に語って言はく,阿弧│吃仰と彼の大衆倶に来ると。即時に身を[!bかし 自ら蹄[依〕し須央に命を終ふ

J

(巻10,127a'-1り。 2

r

菩薩も亦ー号室心して即ち般若波羅蜜と相臨し六神通を得。無量の衆生と 共に十方の消j事世界を腕じて自ら其の園を荘般す。阿粥陀仰の如きは先世 の時に法裁比丘と作りしに,イ~nl 年ゐ導き逝く十方に至る 1青浮図を示し ì事 妙の図を選捧l,.,以て自ら其図を荘厳せしめたり

J

(巻38,342c28 ')。

3

r

仰土とは百億日月,百億須摘山,百億・諸天を三千大千世界と名け・・ 仰 土 の 荘 厳 を 仰 土 を 静 む と す 。 阿 摘 陀 等 諸 経 中 に 説 く 如 し

J

(巻92, 708bc)と。 2は『無量詩経』類を予想する。 3は羅什訳「阿掬陀経

J

(主 12,No. 366, 346b-8a)を予想するかどうか。以下に同経を抄出し党本と照らして見る11。 「働長老舎利弗に告ぐ。是より西方に十両億 (koti-sata-sahasra)の仰土を過 ぎて世界有り。名けて極幾 (SukhavatI)といふ。かの図土に仰有り阿嫡陀 (Am均時無量詩)と披l,.,今現に若して法を説く(封印10-12,F84'-', M

f

7

918-22) 何故に名けてその図(loka-dhatu)を極幾となすや。その園の衆生に衆苦有 11刀leLarger alld Smafler Sukhava巾'yuhaS,日間流文主主量寿経究文阿弥陀経byKota凶 FU且TA藤田宏遠.Kyoto Hozokan法磁館2011は党文校訂最終版(=F)。藤田宏述 (1997) 2001

r

阿弥陀経講究

J

真宗大谷派宗務所出版部(東本願寺出版部)は阿弥 陀経の研究であり。党文和訳と党本校訂(=Mf)を含む(ここにT.l2. F, Mfの 後に頁行を示す)。なお党本資料は我が国に伝来したが他にはない。

1

7

4

参照

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