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人間とは? : 「ホモ・サピエンス」,それとも「ホモ・ファーベル」か?

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Academic year: 2021

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人間とは?―「ホモ・サピエンス」,

それとも「ホモ・ファーベル」か?―

What is human nature?

―"Homo saplems" or "Homo faber"?―

(

) は じ め に

20世紀最大 の文化史家 の一 人であ るホイ ジンガ は、人間 とは 「遊ぶ存在」、す なわ ち 「ホモ ・ルー デ ンス」であ るとして、それ までの ヨーロ ッパの 伝 統的人間観 とは異な った新 しい人間観を私たち に提示 した。 しか し古来数 あ る人間 の定義 の うち で も最 も古 く、かつ今 日で もなお代表的なのは、 なん とい って もやは り、人間を 「ホモ ・サ ピエ ソ ス」 (英知 人) と呼ぶ場合 のそれ であ るだろ う。 人間の本質を知性、 とくに理性 の働 きの うちにみ るこの見方 は、古 く古代 ギ リシアに まで湖 ること が で きる。 しか し、ホイジンガに よれば、近世、 「われわれ 人間は、理性を信奉 していたあ る世紀 が とか く思いが ちだ ったほ ど理性的であるとは、 と うてい言えない ことが明 らかにな った とき、わ れわれの種族 である人類の名称 として Fホモ ・サ ピエソスJと並べて、作 る人すなわち Fホモ ・ファー コiK ベル』 とい う呼び名が持 ち出された」のであ ると い う

.

「ホモ ・フ ァーベル」 とい う呼び名が持 ち 出 された理 由が、ホイジンガの言 う通 りであ った か ど うか は別に して、 とにか く今 日では人間を特 徴 づけ る言葉 として 「ホモ ・ファーベル」 (工作 人)は 「ホモ ・サ ピエ ソス」 と並 んで最 も一般的 に通用 してい る。 そ こで私たち も今 ここで 「ホモ ・サ ピエ ソス」 と 「ホモ ・ファーベル」 とをキ ー ・ワー ドとして 「人間 とは

?

」 とい う問いを少 しで も解 き明か し てい きたい と思 う。

Haruyuki Enzo

(

I

)

「ホ モ ・サ ビエ ンス 」 と して の 人 間 生物学上の用語 としての 「ホモ ・サ ピエ ソス」 は、私た ち人類 の祖先 であ る 「ホモ ・- レク トネ」

(

「直立 人 」の意 )から区別 して、現代人を含む後 期 旧石器時代以降の人類を指す語 として使われてい る。 しか しその一方で また、 「ホモ ・サ ビエソス

とい う語 は、哲学的問い としての 「人間 とはなん であ るか」 とい う問 いに対す る或 る特定 の見解か ら人間 を呼び表わす語 と して も用 い られて いる。 す なわ ち、その見解 とは、思考す るとい う理性の 働 きを人間に固有の働 きとして、そこか ら、 「有 るが ままの」 (自然の) 人間について とい うよ り む しろ、 (本来的に) 「有 るべ き」 人間について、 哲学的 ・倫理学的に考え求めてい こ うとす る立場 であ る。 私たちが今 ここで採 りあげ よ うと してい るのほ、むろん後者の立場で用 い られ るよ うな意 味での 「ホモ ・サ ビエ ソス」であ る。 「哲学」 (フ ィロソフ ィア) とい う活動 を生み 出 した民族である古代 ギ リシア人は、哲学 的見解 だけに限 らず広 く一般的に人間 を 「ロゴスを持 っ た動物」 として見ていた。ただ ギ リシア語 の 「ロ ゴス」 とい う語の意味す るところは、 「言葉」 、 「理 性」 などと広 く、それに応 じて 「ロゴスを持っ た動物」 とい う言葉 も、 「話 しをす る動物」、 「思 惟す る動物」な ど様 々に解釈す ることが で きたの であ る。古代ギ リシア哲学を集大成 した ア リス ト テ レスの残 した人間の定義 として 「人間は生 まれ (2) なが らに して

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である」とい う言 葉が有名であ るが、その理由について、 ア リス ト

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テ レスはその著 F政治学iのなかで こ う語 ってい る。す なわ ち、 「何故 に人間はすべての蜜蜂やす べ ての群居動物 よ り一 層ポ リス的であ るか とい う ことも明 らかであ る。 何故な ら自然 は、われわれ が主張す るよ うに、何 ものを も徒 らに作 りは しな いのに、動物の うちで言葉 (ロゴス)を もってい るのはただ人間だけ だか らであ る」 、 と。つ ま り、 「ポ リテ ィカル ・ア ニマル」 とい うア リス トテ レ スの定義 も、実は 「ロゴスを持 った動物」 とい う 舌代ギ リシアの伝統 的定義を うけて、その延長線 上 で語 られ たのであ った。 さて ところで、 よ く知 られてい るところであ る が、ア リス トテ レスは私たち人間の行為につ いて、 それを 「キ ーネ- シス」 と彼が呼ぶ ところの行為 と 「-ネルゲイア」 と呼ぶ ところのそれ とに区別 して、考えてい る。 「キ ーネ-シス」 とア リス トテ レスが呼ぶ行為 は、その行為の 目的が その行為その ものにではな く、その行為の外に置 かれてい るその よ うな行為 であ る。 ア リス トテ レスがその著 r形而上学』 の なかで例 として挙げ て いるのは、 「費 肉を取 る」 こと、 「学ぶ」 こと、 「歩 く」 こと、 「家 を建て (3) る」 こと、な どであ る。私たちは これ らの行為を その行為それ 自体 のために行 うのではな く、それ とは別の他の何かのために行 うのであ る。例 えは、 「費 肉を取 る」 こ とはそのこと自体 に 目的がある のではな く、 「美 し く見せ る」ためであ った り、 あるいは 「健康にな る」ためであ った り、 さらに また、 「敏捷に動 く」ためであった りす るであろ う。 この よ うな行為 はやがて或 る時に- す なわ ちその 日的に到達 した時点で- 終止す るはずの 行為であ る。 しか しそ の日的を達成す るまでは、 その行為は未完了であ る。そ して 目的を達成 した 時は、すでにその行 為 を完了 して しまってい る。 賛 肉を取 りつつあ る ときにはひ とは資 肉を取 り終 わ っていない、そ して 「美 しく見え る」ようになっ た時 、 もは や それ 以 上 費 肉 を取 る必 要 は な く、 すでに資 肉を取 り終 わ って しまってい るのであ る。 これ に対 して、 「生 きる」、 「見 る」、 「思惟 す る」 な ど 「-ネル ゲイヤ」 と呼ばれ る行為に於 いては、その行為それ 自体がその行為の 目的であ る。 それ はその時 々の 「今、現在」 の瞬間に於 い て完結 してい る行為 で ある。 ア リス トテ レスに よ - 34 -れば、 「例 えは、ひ とは見てい る と同時に見て し まってい るし、思惟 しつつあ ると同時 に思惟 して しまってい る」のであ る。 そ もそ も、 「生 きる

とい う活動の 目的が 「生 きる」 こ との外に 、す な わ ち 「死」の うちに,あろ うはず はない

「生 き る」 こと自体 の うちに生 きる目的 は内在す るはず であ る

「生 きてい る」各瞬間に於 いてその 目的 を達 してい るはずであ る

「ひ とは生 きていると ともに生 きて しまってい る」 ので あ る。本来 「生 きる」 とい うことは 「時間の うちで」行われるキ ー ネ -シス的運 動 の よ うに考 え られ て ほ な らない のであ る

.

「生 きる」 とは果 して 「時間 の うち刊 誕生か らその死にいた るまでを単に経過 してい く ことにす ぎないで しょうか。 いや そ うではないだ ろ う。本来的 な生は時間の うちで生 きる とい うよ りむ しろその生け る律動 の方 こそ時を刻み、刻 々 に時 を生み 、刻 々の時を生 きてい くのではないだ ろ うか。 この よ うに刻 々の今現在 を生 きるととも に生 きて しまっているとい う生 き方 での生 こそ、 本来の生 々と した生ではないだろ うか。 そ して、 この よ うに生 きられ る 「今」 こそ 、他の 「時」、 他の 「今」に よって置 き換え るこ とので きない掛 け替えのない 「今」なのであ る。 そ して また、掛 け替えのない 「今」 を生 きる 「生 」 も、他 の何 も のに よって も置 き換え、測 ることので きない もの なのであ る。 翻 って言 うな らば、このような意味で単なるフ ィ ジカルな (物的 ・肉体的)運動 (キーネ-シス) か ら区別 された 「見 る」 、 「思惟 す る」 といった 活動は、 「生 きる」 とい う活動 の単に一 つであ る ばか りではな く、 「生 きる」 ことの本性 に最 も即 した生 き方 、つ ま り最 も生 々 とした生 き方であ る といえ るであろ う。それ故にであ ろ う、ア リス ト テ レスは人間の生活を、 「享楽的生活」 、 「政治 的生活」、 「観想的生活」の三 つ の形態 に大別 し、 「観想的生活」 こそが、人間に とって最 も優れた、 (4) 最 も快 い生活 であるだろ う、 とい ってい る。 この 「観想的生活」は、 ピュタゴラスに帰 され るオ リュ ソ ピア競 技 場 に集 ま る三 つ の タ イ プの人間 (商 人、競技者、観客)の比愉に於 け る 「観客」に相 当す る

「商 人」は ものを売 るた めに、競技者は 競技に勝つために、そ こにや って くる。 しか しそ れ らはそれぞれ それ 自体究極の 日的ではな く、そ

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れ らは さ らに別の 目的のため、例 えは 「金銭」 の ため、 「名誉」のために求め られ るのであ り、そ の 目的 もまた さらに別の 目的のために求め られ る のであ る。 これに対 し、 「観 る」ために集 まった 人は、ただ 「観 る」 ことそれ 自体が 目的であ る。 つ ま り彼 らはただ純粋に観 るために観ているので あ る。 今現 に観ていることに於 いてその観 るとい う活動 はその 目的を達成 してい る。 その 「観」て い る現場に於 いて 「観 ると同時に観 て しまってい る」のであ る。観 るとい う活動は、そのいかな る(5) 時点に於 いて もそれぞれ完結 してい るのであ る。 ところで今 日の私たちは、 ともすればア リス ト テ レスが 「-ネルゲイヤ」 と呼んだ活動に帰すべ き活動 を も、 「時間の うち」 で行われ るキ ーネ-シス的 な運動の よ うに、表 象 しが ちであ る。 人間 の生 き方 ・行為のすべてがその よ うに表象 され る ことに よって、時間 ・空間の外延的な拓が りのな か で、量 的に、す なわち厳密に測定す ることが可 能 とな り、 「数学」に よって表わす ことがで き、 従 って 「計算」可能な もの とな って しま うのであ る。私た ちの生 き方がその よ うにな るに伴 って、 今 日では私た ちは本当に 自分 自身 で 「思惟す る」 ことが全 くとまではいわない として も、ほ とん ど な くな って しまっている。 今 日学校 で生徒になに よ りもまず求め られ るのは、 自分 で 「思惟す る」 とい うこ とよ り、他 人か ら 「学ぶ」 とい うことで あ り、 「記憶す る」とい うことであ る。そ して 「考 え る」 といわれ る場合 も、それ は 「思惟す る」 こ との よ うに見えて、その実 「計算す る」 ことであ る場合が多い

「考え る」 ことは量的に測 って評 価す る ことはで きないのに対 し、 「記憶す る」、 「計算す る」 とい った働 きは、 どれ ほ ど記憶 した か 、 どれ ほ ど速 く正確に計算で きるか と、量的に 測 ることがで きる。 そ して今 日の私たちは量的に、 数字で もって表わす ことので きるもの しか信 じよ うとしな いのであ る。そ うした見方が、今 日 「科 学的」見方、評価 とい うことにな っているのであ る。 今 日私 たちは 「科学的見方」 とい うことで もっ て、すべ ての ものを知 らず知 らずの うちに、時間 ・ 空 間の均質的 (ホモジーニアス)な拡が りの うち に置 いて、時間的 ・空間的に 「いつか らいつ まで」、 「どこか らどこまで」 と量的に計れ るもの として 専 ら見 よ うとしている。 そ して、その よ うな見方 に於 いては、量的に計 ることので きない もの、数 字に還元す ることので きない ものは、その視野 の 外に置 き去 り、無祝 して しま うのである。 この よ うな見方 は、 さらにその よ うな見方 を している私 たち 自身に もはね返 って きて、私たちの行為や営 為 もや は り暗黙 の うちに、量的に測 られ 、計算 さ れ るもの として見 られ る。 この よ うに私た ちの営 みが量的に見 られ るよ うに なった結果 と して、私 た ちの営みは 「よ り多 く」、 「よ り速 く」 とその 量的拡大が求め られ ることにな り、 ここに今 日大 量生産 (マス ・プロダ クシ ョン) 、大量情報伝達 (マス ・コミュニケーシ ョン) の社会、す なわ ち 大衆社会 (マス ・ソサ イエテ ィー)が出現 したの であ る。 今 日私たちは この量化 の、いや大量化 の社会に あ って、そ こで 「生 きる」 とい うよ りはむ しろ、 大量 にお し寄せて くる商 品に、情報にお し 「流 さ れ ている」 といえは しないだろ うか。そ して、時 代の、流 行の流れに忙 が しく駆 り立 て られ て 日々 を過 してい くことに よって私た ちは、その背後に ア リス トテ レスが 「- ネルゲイヤ」 と呼 んだ意味 での 「生 きる」 とい う活動を、 「思惟す る」 とい う活動 を置 き忘れて しまってい るのではないだろ うか。

0

1

B 「

ホモ

・7

ァーベル」 としての人間

ア リス トテ レスは、社会的 ・政 治的行為 のため で も、物質的製作のためで もな く、それ らか ら遊 離 したただ知のための知 、ただ 自分 自身 を思惟す る 「思惟 の思惟」 とい う活動を人間の生 活 の最高 の 目標 としたが、ア リス トテ レスの この見解に対 し近年以降 しば しばその見解がその当時 の奴隷 制 に基づ く発想であるとの非難 が投げかけ られて き た。例えば

、B.

ファリソ トンは Fギ リシア人の科 学』 のなかで比較的素朴 な反映論で もって次の よ うに ア リス トテ レスを批判 してい る。す なわ ち、 「こ うして、 このア リス トテ レス的見 解 の もと で教 育 された政治家が この 自然 を助 けて 自然の意 図を実現 させた とすれ ば、或 いはその社 会が主 人 階級 と奴隷階級 との二 つだけに分け られ た とすれ ば、その ときには この有閑階級 は全 き自由をえて

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理性の最 も高貴な働 きに、す なわち例 えば形而上 学、第一哲学、神学 の研究に専念 しうるであろ う。 そ して、奴隷階級 の存在のおかげで、その主 人た ちは、物質的な事物 をではな しに思想 を思惟 し、 思惟を思惟 して、あの Fで きるだけ不 死であ るよ うに』 との訓戒を果す ことがで きるであろ う。 こ こに、霊魂 の不死その ことまで もが一 つの階級的 特権 とされている」、 と

(

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6) 唯物論的立場以外 、例えば プラグマテ ィズ ムな どか らも、古代ギ リシア以来の伝統的 人間観に対 す る同様の批判があ るが、それ らの批判の背景に は 「ホモ ・サ ビエ ソス」に代わ る 「ホモ ・フ ァー ベル」 とい う人間の呼び名で代表 され る新 しい近 代的な人間観が存 している。 近代にな ると、人間は科学 のめざま しい発達 の なかで、それに伴 って進歩 していった道具 ・器具 さらには機械を用 いて積極的に 自然に働 きかけ、 自然を支配 し、改変 して、人間のために 自然 を利 用 しよ うとす るよ うにな った。古代や 中世 の、そ して東洋の括弧つ きの科学 とは異な り、近代 ヨー ロッパの科学は、その特徴 として先に触れた 「計 測」 と、それに 「実験」 、 この二つに基盤を置 い ている。近代科学に於 いて、人間は 自然をそ の外 か ら単に静観的に観察 し、そ してそれ を もとに 自 然 について頭のなかだけで思弁的に考 えるのでは な く、 もっと能動的に 自然にかかわ ってい く。す なわ ち、 「実験」 を通 じて 自然の うちにその手を さ し挿み、そ こか ら自然についての知識 を文字通 り掴み取 るのであ る。近代の 自然科学 は、カ ン ト に よれは、 「一方の手に理性 の諸原理 を」、 「他 方 の手にその原理 に従 って考案 された実験 を」、 持 って 「自然に立 ち向 う」 ことに よって着実 な歩 (7) 衣- ともた らされた とい う。近代技術 は科学的理 論 の応用 と して 自然科学 の発達に基づ いて進 歩 し て きたが、逆 に また、近代物理学の方 も実験 物理 学 として計測装置 ・実験装置や、従 って またその 装置製作 の技術的進歩に基づ いて発達 して きた。 近代科学 の発達の裏面には、理性 の 「思考す る」 (Denken)とい う働 きとともに、その思考を外界 (自然)の うち-投影 し、道具を、実験装置を工 夫 して文字通 り 「考 え出 し」(Ausdenken)、作 り 出す手の働 きを兄 い出す ことがで きるだろ う。 いや、人間の本質を道具 を作 り道具 を使用す る - 36 -活動の うちにみ る立場か ら、振 り返 ってみ るな ら は、近代科学のみな らず、 さらにそ もそ も人類 の 科学の先史 は、すでに生物学的意味 での 「ホモ ・ サ ピエ ソス」以前の 「ホモ ・- レク トス」 (「直 立 人」)の時代 の 「手」の成立 とともに始 まると み られ る.太古熱帯の ジャソグルで樹上 で木の枝 を掴んで枝か ら枝へ移動 しなが ら生活 していた人 間の祖先が、亜熱帯のサ グ ァソナ-降 り立 ち、直 立歩行す るよ うにな ると、二本の前肢が空 き、 自 由にな った。そ してその空 いた手で物を 自由に掴 み、その物を道具 として意 のままに使 い、 さらに それを駆使 して別の道具を次 々 と作 ってい くこと がで きるよ うにな っていった。以来 人間は手 と道 具の発達 とパ ラ レルに理性 を発展 させてい った。 す なわ ち、手を使 い道具を作 り、手 で道具を使 う ことに よって人間は 「思考」 し、逆 に また 「思考」 す ることに よって新たな る道具 を考 え出 し、作 り 出 してい った。 とこの よ うに 「人間は道具を使 う 動物」 とす る立場 か らはみ られ るのであ る。 上の よ うな見方 を さらに

待すれ ば、理性 もま ●●● た実在的 な道具 を考え出す ための 「観念的な道具」 とみ ることもで きるであろ うO カ ン トは F実用的 見地におけ る人間学』 のなかで次の よ うに言 って いる

「理性的動物 としての人間の特性は、すで にその手、その指 さきの形態 と組織 に存 している。 自然は、それ らの ものの、一部 は構造、一部は織 純な感 じを利用 して、人間を、物 を扱 う一 つの仕 方に対 してでな く、これ ときまった ものでな くあ らゆ る仕方に対 して、 したが って理性を扱 うこと (8) に対 して も、巧みな よ うに したのであ る」、 と。 とはい うものの、ただ しカ ン トの場合、理性 を道 具的に巧みに扱 うの も、 これ また理性 自身、 しか も 「工作 人」(homo faber)としてのではな く、 い うなれは 「道徳 人」(homo moralis)としての 人間の理性 自身 なのであ るが。す なわ ち、人間の 理性は道徳的 「実践」に於 いて 自らに よって 自分 自身を 自分 自身- と高めてい くと、 カ ン トは考え ているのであるが。な るほ ど実際 もし理性が カ ソ トが考 えた ような 「実践理性的」な 自律を 自ら手 放 して しまえば、理性 は他の何かの単な る道具に 自ら成 り下 って しま うであろ う。そ して このこと は紛れ もな く、 テ クノロジーの時代 を生 きる私た ちが陥 りかねない危険であ る。

(5)

ところで、 「ホモ ・フ ァーベル」 としての人間 が 自然に教 えを乞い求め、そ こか ら自然法 則を学 はん とす るのは、 自然を利用 し、 自然を征服 し、 自分 の欲 求 を巧みに満足 させんがためであ った. そのために、人間は 自然か ら学 んだ知識 を利用 し、 道具 を作 り、利用 し、 自然を加工 し、支配 しよ う とす るのであ る。言い換 えれ ば、人間は 自然 の必 然的法則 を学び、それに従 うことに よって、かえっ て逆に 自然 を人間の意志に従あせ よ うとしている のであ る。 この よ うに 「ホモ ・フ ァーベル」 とし ての人間は道具 を使用 して 自然 を支配 し、さ らに 自然を道 具 として利用 して衣猪 に 自分の欲求を満 足 させ よ うと企 っているとも言え る。 この場合 、手工業の段階 であ るな ら人間は道具 を 自分の手 で しっか り振 って巧みに使用す ること に於 いて、人間は 自分が道具を使用す る主体 ・主 人であ るこ とを、 自然を加工す る主体 ・主 人であ ることを、確かな手 ざわ りで もって しっか り実感 す ることが で きたであろ う。 しか し、人間の手の 巧みに依存 した手工業 の段階か ら、独立的 な自動 的道具 と しての機械工業の段階- と進む近代技術 の歩みのなかで、人間はその実感をなお手にす る ことがで きたであろ うか。 いや、産業革命が まだ その端緒 についていなか った1800年代初めの ドイ ツに於 いてす でに 「ホモ ・フ ァーベル」 としての 人間の行末 を予言的に先取 りして- -ゲルは次の よ うに述べ てい る。すなわ ち、 「かか る もの と して道具 は人間の物質的破壊か ら人間を防 ぐ。 しか しその ことの うちに人間の活 動があ る・--・・。機械に於 いて人間は 自分の この 形式的な活動を 自分で止揚 し、機械 を して全 く人 間のために働かせ る。 しか し、人間が 自然に対 し てかけた あの欺隅 は、・- --人間 自身に対 して仕 返 しをす る。人間は自然か ら何をか ち とろ うとも、 人間が 自然 を征服すればす るほ ど、人間は 自分 自 身卑賎に な って しま う。様 々の機械 に よって人間 が 自然 を加工せ しめ ることに よって、人間は 自分 の労働の必然性を止揚す るのではな く、 自分 の労 働 を引 き延 ばすにす ぎず、労働 を 自然か ら疎遠な もの として引 き離 して しま うのであ る。そ して 自 然に対 し生 け る自然 として生 々と向 うことがない。 この否定 的 な生 々 とした生気が失せ て しまって、 人間に残 された労働は 自分 自身一層較桟的 とな っ (9) て しま う」 、 と。 機 械 の使用は、本来 な ら人間の労苦を軽減 し、 それ か ら人間を解放す るはず であ った。 しか し、 た とえそれ は人間の労働を軽 くす ることはあ った として も、労働その ものを揚棄 して しま うことは 決 してな いo いや、ユ9世紀産業 革命に於 け る較械 の使 用に よって、労働 は軽 減 され るどころか、か え って苛酷 な もの として人間に重 くの しかか って くる ことにな った。す なわ ち、機械 の使用に よっ て手工業に必要であった熟練が不用 とな り、熟練 の質的差 異が捨象 され 、人間の労働が単純労働-と抽 象化 され、その結果 、労働 が量的に計 られ る よ うにな り、労働が量的に延長 され ることに 、す なわ ち労働時間が延長 され ることにな った。 そ し てや がてベル ト・コングェア ・システムに よる流 れ作 業 の 「永劫 回帰」的 な繰 り返 しとして、非 人 格的 ・機械的な ものにな ってい ったのであ る。 近代 人間の労働が生気を失 い蒼 ざめて機械的に なれ はな るほ ど、それに反比例 して機械の方が ま す ます生気 を帯びて くるよ うにみえ るか も しれ な い。 現代 人は高速道路網 を走 り廻 る自動車に、あ るいは、地球上 の隅 々か ら電波 を通 じて私た ちの 居間 に飛 び込 んで くる映像に、む しろ生命の息吹 きを熱 く感 じるか もしれ ない。 そ して、一 つのモ ノと しての機械以上に機械技術 、テ クノ ロジーは 今 日、人間 も自然 もその支配下に泣致 して忙 しく 駆 り立て増 々加速度を増 して発展 してい る。 この テ クノロジーの時代にあ って、加速度的 に進歩す るテ クノ ロジーの歩みにつ いていけない老 人は、 時代 に と り残 されて、み じめな存在 と自分 自身 で も若 い人か らも感 じられ るか も しれない。 今 日ほ ど老 人の もつ老巧 さが顧み られ な くな った時代は ないであろ う。それではテ クノ ロジーの進 歩に乗 るこ とが で きる若者は ど うだろ うか。 その忙 しく 動 き廻 る生活 は一見生 き活 きと した生活 であ るか の よ うにみえ るか もしれ ない. しか し彼 らとて単 に テ クノ ロジーの進歩に単に息つ く暇 もな く駆 り 立 て られ てい るにす ぎない。亘がて息が詰 まる思 いをす るにちがいない。 ㈹ 人 間 の第 二 の 自然 (本 性 ) この よ うに して、人間の生活 を豊かにす るため

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の道具 であ ったはずの機械や テ クノロジーに今 日 逆に人間は隷属 し、それに振 り回 され て生活す る 事態が現出 して きている。 しか しいかに私たちの 生活が機械的になろ うとも、蹟械その ものには決 してな ることはない。 コンピューターに管理 され た社会 に息苦 しさを感 じ、息 の詰 まる思 いをす る の も、 まさに私たちが機械ではな く生け る生命で あることの証 しに他な らない。 そ こで人は窒息 し そ うな管理社会を離れて一息つ くために 「遊び」 に出かけ る。 しか しそれはあ くまで 「充電」 のた めの 「遊び」 で しかない。やがて再び元 の 「元気」 を取 り戻 して、再び 「仕事」に戻 っていかなけれ ばな らないのであ る。 この ような 「遊び」はパスカルが 「デ ィヴェル テ ィスマ

」 (気散 じ、気晴 し) とよんだ 「遊 び」 に似てい る

「レジャー時代」の今 日とは異 な り、 17世紀パスカルの時代には 「遊び」は一部の特権 階級 、有閑階級 (いわゆ るtheleisuredclasses) の人に しか許 されていない ものであ った。 いや、 パスカルの慧眼を もって見れば、デ ィヴ ェルテ ィ スマ ソ」 としての 「遊び」は、仕事 をす る必要 の ない著に とって必要不可欠 な ものであ った。 なぜ な ら、パスカルに よれば、 「人間に とって、完全 な休息 の うちにあ り、情念 もな く、仕事 もな く、 気晴 しもな く、集 中す ることもな しで いるほ ど堪 えがた いことはない。す ると、 自己の虚無、孤独、 不足、従属、無力、空虚が感 じられて くる。た ち まちに して、彼 の魂 の奥底か ら、倦怠、暗黒、悲 (10 哀、傷心、憤潰 、絶望がわ きで るだろ う」、か らO パスカルか らすれば、球を忙 しく追 いかけた り、 宛を追 いかけた り、賭事に熱中 した り、観劇に出 かけた りす るの も、人間の根源の空 しさか ら気を そ らせ るためなのであ った。 今 日その よ うな 「レジャー」が大衆化 し、管理 社会 の仕事か ら逃れた人々は、 さらに また 自分 自 身 の生の根源か らも逃れ よ うとして 「遊 び」に出 かけ る。 したが ってその 「遊 び」は魂 の奥底か ら 発 し魂 を動かす よ うな、 r梁塵秘抄』 で 「我が身 ゆる さ- こそ動が るれ」 と詠われた よ うな生 の根源的 活動 としての 「遊び」ではない。 それは、例 えは 「パ ック旅 行」な ど、 レジャー産 業が用意 して く れた 「スケジ ュール」に乗 って、単 に暇 を 「消費」 す るだけの遊 びで しかない。今 日の消費生活で人 - 38 -は、単にモノを消費す るだけではな く、 自分 自身 の時間を、従 って 自分 自身 の人生 を空 しく消費 し てい るのであ る。 それ は人生を 「生 きる」 とい う よ りむ しろ 「消費」 してい るとで も言 うべ きであ ろ うか。 とにか く、今 日ひ とは 「仕事」のみな ら ず 「遊び」に於 いて も、働 いてい る時間 も余暇の 時間 も、余す ところな く大量生産 ・大量 消費の産 業社会の メカニズムに組み込 まれ 、それに隷属 し て独楽鼠 の よ うに動 き廻 って止 まる ことがない。 あたか も静止 して顕倒す ることを恐 れ るが如 くに。 か くして、人々は気は らしを求め 、新奇 な もの を求めて、観光地か ら観光地- と忙 しく移動 し、 あ るいは地球上 のいた るところか らマス- メデ ィ アを介 して大量に入 って くる情報 を聞 きか じり、 聞 きち らして、そ こらじゅ うに 自分 自身 の時間 と 人生 とを撒 き散 らしている。 そ して 、 自分 自身の 存在 の上 に どっか と自分 自身の腰 を落ちつけて座 り、 じっ くり 「考 え る」 とい うこ とがな くな って しまってい るのである。 産業社会の メカニズムの奴隷 と化 した現代人は 自動車を乗 り廻 し遊び廻 る 「レジ ャー」はあ って も、古代 ギ リシアの自由人の よ うな、思惟 に専念 す る 「余裕 (ス コレ- schol-e)」 はない。 しか るに、ア リス トテ レスによると、 「幸福はス コレ-の うちに あ る と考 え られ る、 なぜ な ら、私たち が余裕 な く働 くのは、余裕を もって生 きるためで あ り、戦争す るのほ、平和に生 きるためだか らで l川 ある」、 といわれ る。 この場合 の 「余裕」 は、単 に無為に過 ごす閑暇で も、単な る 「遊び」 で過 ご す閑暇 で もない。一切の肉体労働か ら解放 されて、 思惟 のために思惟す ることに専念で きる閑暇であ る。 この よ うな思惟 の活動 こそ、政 治的活動に も 軍事 的活動に も増 してなに よ りも 「真剣な」活動 とされ、その活動 の うちに こそ生 の充実があ ると みな されたのであ った。 ギ リシア語 の 「ス コレ

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」は、そ の第一義的意 味の 「閑暇」か ら、 「閑暇な時 にす る仕事」 とい う意味を派生 し、 さらに 「この よ うな仕事 をす る 場所」、つ ま り 「学校」 とい う意味 を派生 し、英 語 の "school" をは じめ 「学校」 を意味す る諸4(lカ の欧語が ここか ら由来 し生 まれ て きたのであった。 ところが、今 日の 「学校」では、 「じっ くり考え る」 ことよ りも、 「よ り速 く計算す る」ことや 「よ

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り多 く記憶す る」 ことが性急に求め られ ている。 それ故にであろ う、学校の カ リキ ュラムのなかで 「ゆ とりの時間」が ことさ ら設定 され なければな らな くな って しま うのであ る。 -イデ ッガ一に よると、 「近代技術を貫 き統べ ている露現 は挑発す るとい う意味での立 て るとい (13 う性格を もっている」、 とい う。す なわ ち、現代 のテ クノ ロジーは 自然をその外に立 って静的に静 観す るのではな く、 「自然」の可能性 の裡 に まで その力を操作的に介入 してい って、 自然 の可能性 を、そ して 自然の秘め られ た力を挑発的に引 きず り出す。 例 えは、原子核や遺伝子 の構造 の うち-力を差 し挟 みその構造を操作的に改変す ることに よって、そ こか ら新たなエネルギーや新たな可能 性 を力ず くで引 き出そ うとす る。 この よ うな挑発 は外な る 「自然」にだけ向け られ るのではな く、 私た亘の内な る 「自然」、すなわ ち ヒューマ ン ・ ネイチ ャーに も向け られ、私た ちの能力、可能性 が強引に引 き出そ うとされ るO例えは、 コマーシャ ルに於け るテ クノ ロジーは、私た ちの 「第一 の 自 然」には本来属 していないはずの購 売欲を巧みに 挑発 し、ひ き出 して くる。 そ して購売欲は私た ち の ヒューマ ン ・ネイチ ャーの 「第 2の 自然」 とな って、私た ちを内か ら駆 り立て、衝 き動かす。そ して また、 「教育」を 自称す るテ クノロジーは人 間 の才能を性急に引 き出そ うと企 るのであ る。 この よ うに挑発 し、挑発 されて動 き廻 ることが その 自然本性 とな って しま った私た ち現代人は、 後 をふ り返 ることもな く、単に競 いあ って 「よ り 多 く」 、 「よ り速 く」 と量 的な多 さを (その単な る裏返 しと して 「少なさ」を 「稀少価値」として) 性急に追 い求めてやむ ことがない。 この よ うな活 動 は何 ら創造的な ものを産みは しない。その活動 の跡には大量の廃棄物以外には単 な る数字が、単 な る記録だけが残 され るだけであ る。そ して本来 それ 自体 は何の意味 ももた ない数字以外は、逆に 意味のない ものにな って しま う。例 えは今 日のオ リンピ ック競技で競われ るのは 「よ り速 く」、「よ り高 く」 であ り、 100mを何秒で走れたか、何m 跳 べたか、そ してなに よ りもメダルがい くつ とれ たかが問題 とされ、それ以外 のスポーツマ ンシ ッ プ とい った ものは暖味で意味のない もの として繋 んでい く。 私た ちは今 日この よ うな時代 の、社会 の流れの うちにあれば こそ、かえ って増 々、その奔流か ら 脱け 出 して、いかにあ るべ きか、何を為すべ きか を、 自分 の存在 と将来を賭 してそれ こそ 「真剣 に」 考え る 「時間 (ス コレ-)」 と、 「場所 (ス クー ル )」 を必要 とす るのではないであろ うか。 付、人名録

ホイジンガ Johan Huizinga(1872-1945)

オ ランダの文化史家。主著 Fホモ ・ル ーデ ン ス』 で、 「遊戯」 こそ人間の最 も本質的活動 であ る、 と説 いた。 ア リス トテ レス Aristoteles(前382-前322) 古代 ギ リシアの哲学者O ソクラテス、 プラ ト ンと並び古典期 ギ リシアの哲学を代表 す る。 彼 は人間につ いて、 「理性 的動物」 、 「政治 的動物」、 さらには 「アニマル ・リデ ソス」 (笑 う動物)な ど様 々の定義を残 した。 ピュタゴラス Pythagoras(前 6世紀 ごろ)

古代 ギ リシアの数学者 ・哲学者。観照 を重ん じ、生産実践を軽 ん じた。 フ ァ リン トソ Benjamin Farrington (1891- 1974) 現代 イギ リスのマル クス主義的科学史 家、古 典学者。 カ ソ ト ImmanuelKant (1724- 1804) 啓蒙期 ドイ ツを代表す る哲学者。理性能力の 自己批判を根本的立場 とす る批判哲学 を確立 した 。 - - ゲ ル Georg Wilhelm Friedrich Hegel (1770- 1831) ドイ ツ古典 哲学最大の代表的哲学者。 独 自の 弁 証 法 の確立 に よって哲学 的 最 も包 括 的で 統一的な哲学体系を樹立 した。 パスカル BlaisePascal(1623-1662) フランスの数学者 ・物理学者 ・宗教 哲学者。 「人間は考 え る葦 であ る」 は彼 の言葉 として 有名。 -イデ ッカ- Martin Heidegger (1889- 1976) 現代 ドイ ツの哲学者。 人間存在 を、 「それに とってその存在に於 いてその存在それ 自身が

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問 題 で あ る とこ ろ の存 在 者 」 と規 定 した。 そ して 「存 在 - の 問 い 」 を そ の生 涯 に わ た って 問 いつ づ け た。 (受理 1988.7.22) 註 (1)ホイジンガt Fホモ ・ルーデ ンス』(高橋英夫訳 )I 「まえが き - 序説」 ー中公文康一11頁O (2)ア リス トテ レスー F政治学』 ー第1巻ー第2章一 1253a

(3)ア リス トテ レスー 『形而上学』ー第 9巻 ー第 6章。 (4)ア リス トテ レスー Fニ コマ コス倫理学』ー第1巻ー 第5章一お よびー第 10巻 、第7章 . (5)上掲書ー第10巻 ー第 4章。

(

6

)B.

フ ァリン トソ Fギ リシア人の科学』 (上 ) (出隆訳 )ー岩波新喜一 202貢。 - 40 -(7)カン ト. F純粋理性批判jt第二版ー序文ー13貢。 (8)カン トー r実用的見地におけ る人間学』 ーアカデ ミー版全集第 7巻、 323頁。 (9)/- -ゲルt Fイエナ実在哲学』ー第1巻 、 ラ ,ソ ソ版全集第19巻 ー 237頁。 uO) パスカルt FJt・/セ』 ーブランシ 1ゲ イ ック版ー 断章番号131番。 (川 ア リス トテ レス、 Fニコマ コス倫理学』ー第10巻ー 第7章 。 02) scho16(ギ リシア語 )

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schola(ラテ ン語)

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school(英語 )ーSchule(独語 )ー6scole(仏語 _ bcoleの古語 )ー とい うニチモ ロジー的経緯 を経 て 「学校」 を意味す る欧語が派生 した 。 83) -イデ ッガーー F技術-の問い』 (講演 ・論文集ー 第 3版ー1967年 )ー16頁

参照

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