勝呂昌・一
ど農では大乘浬桑軽の佛性論が、インド佛教思想の系列に於 いて如何なる意味を持つかといふととについて論ずろ。、從って 浬梁溌諸本間に於ける思想の変遜、叉シナ佛教界に於ける浬梁 宗義については触れない。 浬樂経の丙容は、①法身常住、②一切衆生悉有佛性、③一剛 提成佛、更に②常樂我淨にありと言はれるが、その一剛提成佛 と法身常住との論理的関係に特色を認める。とれにつき徳王菩 薩.師子呪菩薩品、迦韮菩薩品の三品を探り上げる℃とれは異 訳のない部分であるから、本経の安定した教義と一應認めてよ い。 ?︶徳王品本品に於いて理佛性と行佛性の区別が説かれる、 もとよりとの語はシナ佛教徒の創作にか鯵るも・のであるが、淫・ 薬経そのものの思想に対して妥当したものである。即ち理佛性 は非善非不善の常住の理体であり。行佛性は無常善にして菩提 心。信等がとれである。前者は不断だが后者は断ぜられろ。故 でもある。戦争戦後四悪趣を具に体験した我為は仏国土を求め その中共の制珊は満洲事変以來日本がその国力を損耗した結果てユネスコに協力し中道を歩みつL世界の平和に貢献すべきだ大般浬薬經の佛性論
に衆生には善根を欠いたものがあり、とれが一闘提である。理 佛性は諸法に普遍的の真如で闘提もとれを具有する。故に闘提 成佛の根拠は理仏性が何らかの意味で行仏性として防ぐ点に求 められねばならぬが、しからぱそれは如何にして可能であるか これが本経の課題であったに違ひない。・ 本品は最初に、理仏性の浬築を非有非無から非十二因繰非不 十二因濫に至る中諭的な二十非句によって説明するが、との中 には、出・断・常・始。維・過去。未來・現窪等、運動叉は時 間の観念に関係したものが多い。今かりに・叩諭の論理を弁証法 と称すれば、これば相続の弁証法叉は時間の弁証法と言令よう 次いで本品は更に倒亦不來、不倒亦不來なる時間の弁証法を 、、 も、 以て衆生の定性を否定する。叉一剛提と共に如來を不定とする が、一闘提は不決定の故に菩提を得、叉如來の不定とは非天非 非天から非如來非不如來に至る二十非句によって誘明される。 、、 叉心解脱の論議に於いて定執を破すが、それは一切渋の無自性 を理由とし、その具体的内容は、因中有果、因中無果・有無果 非有非非無果を定誘しない因縁中道であるが、との中道の観念 兇 は即ち時間の弁証法を示してゐる。 、、 倉︶師子肌品と暖では仏性を中道禰子と規定するが、その丙 164客は不上不下、不生不死、不断不常、不因不果の四種中道であ って、同じく時間の弁証法である。叉仏性の有に、現在有、未 、、 來有、過去有あり、閲一提は未來に成仏する故に仏牲有りとし 、、、 て、仏性に時間鞠切きを認める。更に定業に対する不定業を鰻 調しとれにより転重軽受並びに修道が可能であるとするが、と の不定業は無自性の観念に裏づけられたものであらう。 、、 ︵3︶迦葉品本品は断善根人の根性を不定とし、どれに如来 、、 仏性、後身仏性有りとするか、これが未来を障ふる時無であり 畢寛し一﹂得る時有と各ける。即ち現在世の煩悩の因議力により 善根を断じ、未來世の仏性の因繊力により善根と断じ、未來世 の仏性の因綴力により善根を生ずる。更に本品は中道を再読す るが、その中、非有非無中道の丙容は時間の弁証法である。 以上に於いて浬桑経の論理は一貫してゐる。即ち理仏性は中 諭の実相の理であるが、その論理的内容は時間の弁証法であり その無自性の観念は衆生並びに業の不定として表現される。か く不定の思想が時間性を内容とするととに於い︸﹂、理仏性が行 仏性と上﹂防ぎ湖提の未來成仏が指示される。 か坐る淫薬経の特徴ある仏性論はインド仏教思想史上いかな る意味を有するか、 第一、有部の批判者たる警職者と大乘との関係は賛料的に明 らでないが、少くとも浬築経に於いては、その不定業の思想は 中諭の思想と表褒をなすものと受け取られてゐたと老へられる 弓 これにつき世親倶舍論の破我品は、小乘論に属するが、その論 法は中論めそれと酷似する。叉そとに引用される溌部本師クマ ーララータの偶は中諭の論理に基いて勝義我を認めるものであ るが、中諭の無自性の観念と勝義我との結合は、世親の仏性論 に於いて特に顯著である︺かくて撰職者倶舎論、中諭、浬梁 経、仏惟諭を涌じて一連の思想系列が暗示される。 第二近時の学者は、中諭の弁証法︹縁起論︶は無時間的で あh↓、時間の弁証法は唯識説に至って明かになったと言ふが、 事実はむしろ逆である。中諭の論理をその存在世界から抽象し て考へるととは当を得ない。その内容は八不の示す如く、生起 相続、因果等の時間に関するものが大半である。と姪に対し唯 〃識読は中道の観念を受けつぐも、相続の弁証法ではない。その 適例として辮中辺諭へ中の弁証︶を挙げる。と鰐では有爲と無 爲の不一不異・中︺を遥く主張すると、相続の弁証法は何処に も見出されない。唯織説の綴起︽依他︺は有爲の縁起であり、 中諭の隷起は無爲の縁起であるが、后者は相続の弁証法を内容 とするからである。その一つのあらはれが、常住の理佛性に無 常の行仏性の防ぎを認める淫梁艤であり、仏性論も同趣である が、その発達の極が真如に随織作用︵時間活勵︺を認める起信 論である。かく見れば真如随糘読をシナ仏教徒の新読とする学 説を認め難いと共に、性相の相即を立場とする初期唯識説を爽 如随緩説をもって理解する学説も支持し難い。如來識思想は唯 165
識説の個人我に対する普遍我たる点に特徴があるだけでなく、 その内容が、相統の弁証法、即ち無爲の綴起説に裏づけられて ゐる点に特色を認むくきである。 第三、最初期の如來微思想︲即ち如來藏経、不堀不滅経、勝 り 窒経等は未潅剛提成仏を明言しないからどれを理仏性と限定す るととが可能である。たとへぼ唯識説の莊巌経諭は、如來蔵大 我を説き一切衆生悉有仏性と言ふが、無仏性の実在を認めるの は理仏性の立場と解される。法相宗の仏性諭はと江を出でない が、仏性論、場伽経、祇論宗の一乘思想は行性仏を含む。楡伽 宗租の書中、戒法門、一代五時鶏図︵日蓮上人全集巻三の二 八八八頁︶、渦家功徳御書等に引用されてゐる経典に勢至菩薩 経がある。今経ばどの訳経録にもなく、入唐求法の人為によっ て將來された一切の凝諭の名目を網繩した昭和法宝総目録や西 藏大蔵経目錐にも発見するととが出來ない。從而今経の翻訳者 年時、場処、巻数等全く不明である。翻っては日蓮上人御書の 多くの評釈書の中で、今経に実説してゐるのは録外徴考である