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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 : 尚賢思想の形成をめぐって

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 : 尚賢思想の形

成をめぐって

著者

田中 智幸

雑誌名

鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編

53

ページ

113-130

発行年

2016-03

URL

http://doi.org/10.24791/00000284

Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一一三

『呂氏春秋』に見える秦墨の思想

──

尚賢思想の形成をめぐって

──

 

 

 

筆 者 は 以 前、 『 呂 氏 春 秋 』 慎 大 覧 に 見 え る 秦 墨 の 思 想 に つ い て 考 察 し た こ と が あ る。 卑 見 に よ れ ば、 孟 春 紀 第 四 貴 公・ 第 五 去 私・ 慎 大 覧 第 一 慎 大・ 第 三 下 賢・ 第 四 報 更・ 第 五 順 説、 及 び 有 始 覧 第 四 聴 言・ 第 六 務 本 等 の 諸 篇 に つ い て、秦墨の作であると推論 し (注 1 ) た。これら秦墨によって書かれたと推測される『呂氏春秋』の諸篇には、従来の墨家の 尚 賢 論 の 枠 を 越 え た 新 た な 尚 賢 思 想 が 見 出 さ れ る。 『 呂 氏 春 秋 』 の 編 纂 に 秦 墨 の 強 い 影 響 力 が あ っ た こ と は 疑 い の な い事実で、そうであるとすれば、この尚賢思想こそは、戦国最末期、墨家が秦の地で生き残りをかけて模索した新た な思想であった筈である。 一方、戦国末に書かれたと考えられる『墨子』親士・脩身・所染の所謂、墨経三篇には、他の『墨子』諸篇とは異 なる特殊な尚賢思想が見える。この墨経三篇の尚賢思想は、いま列挙した秦墨の作と考えられる『呂氏春秋』諸篇と

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一一四 一致する部分が多い。小論では最初に、秦墨の手に成ると推測した『呂氏春秋』審大覧下賢篇の尚賢思想ついて検討 を加えてその思想を明らかにした上で、それを手掛かりに、季春紀先己篇・論人篇の特異な統治論に著目し、この両 篇の思想が『墨子』親士篇・脩身篇に由来することを明らかにしてみたい。

審 大 覧 下 賢 篇 が 秦 墨 に よ っ て 書 か れ た と 推 測 さ れ る こ と に つ い て は、 今 述 べ た 通 り 既 に 考 察 を 済 ま せ て い る か ら、 ここであたらめて繰り返さない。下賢篇には、国家安泰の要諦として君主が賢者を希求し、へり下って教えを請うこ と に よ っ て、 帝 王 と な る 道 筋 が 述 べ ら れ て い る。 留 意 す べ き は「 得 道 之 人 」 と す る 究 極 の 賢 者 に つ い て の 記 述 が、 『荘子』在宥篇の超越的人物を思わせることである。一方、 『墨子』親士篇には、墨家の尚賢論としては些か異色の下 賢篇とよく似た尚賢論が見えているから、最初にこの両篇について検討する。先ず下賢篇の資料を左に掲げる。 有道の士は、固より人主に驕る。人主の不肖なる者も、亦た有道の士に驕る。日に以て相驕れば、奚の時にか相 得ん。儒墨の議と斉荊の服との若し。賢主は則ち然らず。士、之に驕ると雖も、己は愈々之を礼す。士、安んぞ 之に帰せざるを得ん。 士の帰する所は、天下之に従ひて帝たり 。帝なる者は、天下の適く所なり。王なる者は、 天下の往く所なり。 道を得るの人は、貴きこと天子と為れども、驕倨せず、富は天下を有すれども騁夸せず。卑しきこと布衣と為れ ども、瘁攝せず。貧なること衣食無けれども、憂懾せず。 乎として其れ誠自ら有するなり。覚乎として其れ疑 はざるは 以 ゆゑ 有るなり。桀乎として其れ必ず渝移せざるなり。循乎として其れ陰陽と与に化するなり。 尭は帝を以て善綣を見ず、北面して焉に問ふ。尭は天子なり、善綣は布衣なり。何の故に之を礼すること此くの

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一一五 若く其れ甚だしきか。善綣は道を得るの士なればなり。道を得るの人は驕る可からざるなり。尭は其の徳行達智 を論じて若かずとす。故に北面して焉に問ふ。 (審大覧下賢) 右に掲げた下賢篇の尚賢論を整理すると、①君主が有道の士を見出したならば、たとえ傲慢な士に対しても礼遇す る。②士が君主に心を寄せるようになれば、やがて天下の人心も集まり、天子となることが出来る。③道を体得した 君主は、天子となってもおごりたかぶらず、卑しい庶民になっても憔悴せず、衣食にもこと欠くような貧窮の境遇に あっても憂い悩むことはない。 下 賢 篇 の 尚 賢 論 の 論 旨 は 以 上 で あ る と し て、 順 に 検 討 を 加 え た い。 先 ず ① に つ い て。 賢 主 が 賢 者 を 求 め る と な れ ば、あらゆる手立てを尽くし、賢者に対してはこの上もなくへり下り、その身分を問わず、遠路もいとわず、労力を 惜しまなかったという趣旨の記述は、下賢という篇題のとおり、同篇の大半を占めている。すなわち、尭が善綣に対 して北面して臣下の礼をとり、教えを請うたという右に掲げた資料の他、周が王業を成し遂げたのは、創業期に周公 旦が賢士にへりくだり礼遇したからであるという記事・斉の桓公が、一庶民に過ぎない小臣稷に面会するために日に 三度もみずから出向いた説話・鄭の子産が宰相としての地位を門外に置いて、壺丘子林に教えを請うた逸話・魏の文 侯が段干木に会う時は、臣下の礼をとった説話が見える。なお、これと同旨の記述は、慎行論求人篇の他、孝行覧本 味篇に「賢主の有道の士を求むるや、 以 もち ひざるは無きなり。有道の士の賢主を求むるや、行はざるは無きなり」等が ある。本味篇については後で詳しく述べることにする。 一方、 『墨子』親士篇には、 「国に入りて其の士を 存 と はざれば、則ち国を亡ぼす。賢を見て急にせざれば、則ち其の 君を 緩 うと んず。賢に非ざれば、急にすること無し。士に非ざれば、与に国を慮ること無し。賢を緩んじ士を忘れ、而し て能く其の国を以て存する者は、未だ曽て有らざるなり」と、賢者の希求は一刻を争うとし、さらに親士篇には、何

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一一六 故賢者が必要であるのか、具体的な記述がある。 君には必ず弗弗の臣有り、上には必ず の下有り。分議すること延延たり、 交   (注 2 ) すること たれば、 焉 すなは ち以 て生を長じ、国を保つ可し。臣下は其の爵位を重んじて言はず、近臣は則ち もだ し、遠臣は則ち 唫 くちつぐ み、怨みは民の 心に結ぼる。諂諛は側に在り、善議は障塞すれば、則ち国は危し。桀紂は其の天下の士無きを以てにあらずや。 其の身を殺して天下を喪ふ。故に曰く、国宝を 帰 おく るは賢を献じて士を進むるに若かず、と。 「 分 議 す る こ と 延 延 た り 」 と は 反 対 意 見 を 述 べ て 君 主 を 諌 め る 臣 下 の 存 在 で あ り、 「 交 す る こ と た り 」 と は、 君 臣 が 互 い に 戒 め 合 う こ と。 こ れ と 同 旨 の 記 述 は『 呂 氏 春 秋 』 の 諸 篇 に も 次 の よ う に 見 え る。 「 至 忠 は 耳 に 逆 ら ひ、 心 に 倒 ら ふ。 賢 主 に 非 ざ れ ば、 其 れ 孰 か 能 く 之 を 聴 か ん。 故 に 賢 主 の 説 ぶ 所 は、 不 肖 の 主 の 誅 す る 所 な り 」( 仲 冬 紀 至忠) 。前掲の「賢を見て急にせざれば、則ち其の君を緩んず」と同様の記述は、 「昔者、禹は一たび沐して三たび髪 を捉へ、一たび食して三たび起ち、以て有道の士を礼す。己の足らざるを通ぜんとすればなり」 (有始覧謹聴) 。 ②について。有道の士・賢者を登用することによって、領土が保全されるだけでなく、領土は自然に拡充し、やが ては天子となることもできるという論は、親士篇にも同旨の記述がある。 良才は令し難し。然れども以て君を致し尊せらる可し。是の故に江河は小谷の己を満たすを悪まざるなり。故に 能く大なり。聖人は事として辞する無きなり。物として違ふ無きなり。故に能く 天下の器と為る 。是の故に、江 河の水は一源の水に非ざるなり。千鎰の裘は、一狐の白きに非ざるなり。夫れ悪くんぞ方を同じくして取らず、 同じきを取らずして已むこと有らんや。蓋し 兼王の道 に非ざるなり。 右 の 親 士 篇 の 帝 王 論 は、 『 老 子 』 の「 大 国 は 下 流 な り。 天 下 の 交 な り。 天 下 の 牝 な り。 牝 は 常 に 静 か な る を 以 て 牡 に勝ち、静かなるを以て下ることを為す。故に大国は以て小国に下れば、則ち小国を取る(六十一章) 、「江海の能く

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一一七 百 谷 の 王 為 る 所 以 は、 其 の 善 く 之 に 下 る を 以 て の 故 に、 能 く 百 谷 の 王 と 為 る 」( 六 十 六 章 ) 等 の 記 述 を 思 わ せ る。 戦 国 末 に 秦 墨 が 道 家 の 影 響 を 受 け た こ と は 確 か で、 『 呂 氏 春 秋 』 に は そ の 例 証 と な る も の が 幾 つ か 見 出 せ る。 例 え ば 孟 春紀貴公篇に、楚の国で弓を失くした人がいたが、弓を探そうとはせず「楚の人が弓を失くし、楚の人がそれを拾う な ら ば、 探 す 必 要 は な い 」 と 言 い、 そ れ を 聞 い た 老 耼 が「 人 の 字 を 省 け ば 良 い の に 」 と 言 っ た と い う 記 事 が あ り、 「 故 に 老 耼 は 則 ち 至 公 な り 」 と 記 し て い る。 『 呂 氏 春 秋 』 書 中、 「 至 公 」 と い う 語 は 貴 公 篇 以 外 で は、 秦 墨 の 作 と 推 測 する慎大覧慎大篇・下賢篇にのみ見えるもので、この記事にいう「至公」の内容は、本来道家から出された資料では なく、墨家が「至公」を権威付けるために老耼の名を騙ったものと考えられる。また、有始覧聴言篇に「善不善は義 に本づき愛に 本 (注 3 ) づ く。愛利の道為るや大なり。夫れ海に流るる者は、之を行くこと旬月なれば、人に似たる者を見て 喜ぶ。其の朞年なるに及ぶや、其の嘗て物を中国に見たる所の者を見て喜ぶ。夫れ人を去ること滋 久しければ、人 を 思 ふ こ と 滋 深 き か 」 と あ る。 「 義 」 と「 愛 利 」 を 併 記 し、 さ ら に「 愛 利 の 道 為 る や 大 な り 」 と い う。 こ の「 義 」 は 紛 れ も な く 墨 家 の「 義 」 で あ り、 「 愛 利 」 は 中 期 墨 家 に 特 有 の 思 想 で あ る。 と こ ろ が、 『 荘 子 』 徐 無 鬼 篇 に は「 子、 夫の越の流人を聞かずや。国を去ること数日なれば、其の知る所を見て喜ぶ。国を去ること旬月なれば、嘗て国中に 見たる所の者を見て喜ぶ。期年に及びてや、人に似たる者を見て喜ぶ。亦た人を去ること滋 久しければ、人を思ふ こと滋 深からずや」という記述がある。有始覧聴言篇と『荘子』徐無鬼篇との先後の問題については、既に卑見を 述べ て   (注 4 ) いる 通りで、聴言篇が徐無鬼篇の文を採ったことは明らかであるから、聴言篇のこの文は、秦墨が『荘子』徐 無鬼篇の記事をもとに書いたと考えられる。 さて、考察をもとに戻して、②にいう賢者の獲得が領土の拡充につながるという論は、先識覧第一先識篇の巻頭に 「 故 に 賢 主 は 賢 者 を 得 て 民 得 ら れ、 民 得 て 城 得 ら れ、 城 得 て 地 得 ら る。 夫 れ 地 得 ら る と は、 豈 に 必 ず し も 足 其 の 地 に

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一一八 行 き、 人 ご と に 其 の 民 に 説 か ん や 」 と 同 じ 思 想 で あ る。 先 識 篇 は、 亡 国 の 予 兆 を 語 っ た 賢 者 の 説 話 を 列 挙 す る も の で、 こ の 巻 頭 言 は、 後 続 の 説 話 群 の 内 容 と 一 致 し て い る と は 言 い 難 い。 そ し て 続 く 先 識 第 二 観 世 篇 と 第 三 知 接 篇 に は、秦墨の手に成ると思われる有始覧謹聴篇と重複する相当量の文が見つか る (注 5 ) ことから、この冒頭文についても、本 書の編纂時、先識篇の資料が整った後で付け加えられたと推測してみたい。もしそうであるとすれば、先識篇もまた 秦墨の強い影響を受けていることになる。 ③について。君主自ら出処進退をわきまえるという記述は極めて異色であると言わざるを得ない。孝行覧慎人篇に は、五枚の羊皮で買った百里奚を秦の繆公に献上した公孫枝が「賢を信じて之に任ずるは、君の明なり。賢に譲りて 之に下るは、臣の忠なり。君は明君為り、臣は忠臣為り。彼信に賢なれば、境内将に服せんとし、敵国且に畏れんと す」と奏上した記事が見える。慎人篇の資料の公孫枝という人物については不明であるが、秦人の話であることに留 意したい。また、仲春紀当染篇に「凡そ君と為るは、君として因りて栄えを為すに非ざるなり。君として因りて安き を 為 す に 非 ざ る な り。 以 て 理 を 行 ふ が 為 な り。 理 を 行 ふ は、 当 に 染 ま る べ き よ り 生 ず。 故 に 古 へ の 善 く 君 為 る 者 は、 人を論ずるに労して官事に佚す」というのと同じものである。仲春紀当染篇は『墨子』親士篇・脩身篇に続く所染篇 と 内 容 が ほ ぼ 一 致 し て い る こ と か ら、 そ の 先 後 が 問 題 と な っ て く る。 こ の 問 題 に つ い て は 既 に 先 学 の 指 摘 (注 6 ) す る よ う に、 所 染 篇 は 秦 墨 の 手 に 成 っ た も の で あ り、 『 呂 氏 春 秋 』 編 纂 に 際 し て 若 干 の 改 訂 を 加 え て 当 染 篇 と し た と 考 え て 良 い。そもそも、両篇ともに篇名に「染」の字が付けられているように、国家の安泰を図るためには君主を染めるべき 臣 下 を 得 な け れ ば な ら な い、 と い う の が 両 篇 に 共 通 し た 目 的 で あ る。 そ こ で 両 篇 の 記 述 を 比 べ て み る と、 所 染 篇 は 「君為る能はざる者は、形を傷り神を費やし、心を愁へしめ意を労す」 、当染篇は「君為る能はざる者は、形を傷り神 を費やし、心を愁へ耳目を労せしむ」とあり、耳目の養生が加えられていることを指摘しておきたい。これだけの僅

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一一九 かな差異を論拠とするのは如何なものかという誹りも出ようが、両篇の記述がこれ程酷似している以上、その手がか り も 僅 か な も の を 頼 る し か な い。 ま た、 当 染 篇 で は、 末 尾 に 史 実 に 即 し た も の で は な い 墨 家 の 系 統 の 記 述 と と も に、 孔墨の教えの偉大さを力説している点も先後の問題を解く手がかりとなるであろう。 以上、下賢篇の資料について検討を加えた結果、それは墨家の従来の尚賢論の枠を越えた帝王論を伴う尚賢思想で あることが分かった。そして、この新たな尚賢思想は、秦墨によって書かれたと推測される諸篇に特徴的に見えるも の で あ る。 小 論 で 特 に 注 目 し た い の は ② で 検 討 し た「 士 の 帰 す る 所 は、 天 下 之 に 従 ひ て 帝 た り 」 と い う 記 述 で あ る。 ところで先に触れたように、孝行覧本味篇は下賢篇と同様、治国の根本は賢者を得るにある、という論から説き起こ し、さらに帝王への道に至る具体的な論となっている。 本 味 篇 は 篇 題 の 示 す 通 り、 そ の 大 半 は 伊 尹 説 話 に ま つ わ る 料 理 論 と な っ て   (注 7 ) い る 。 冒 頭 は「 之 を 其 の 本 に 求 む れ ば、 旬を経て必ず得、之を其の末に求むれば、労して功無し。功名の立つるは、事の本に由ればなり。賢の化を得ればな り。 賢 に 非 ざ れ ば、 其 れ 孰 か 事 の 化 を 知 ら ん。 故 に 曰 く、 其 の 本 は 賢 を 得 る に 在 り 」、 末 尾 は「 道 な る 者 は 彼 に (注 8 ) 亡 く 己 に 在 り。 己 成 れ ば 而 ち 天 子 成 り 、 天 子 成 れ ば 則 ち 至 味 具 は る。 故 に 近 き を 審 ら か に す る は、 遠 き を 知 る 所 以 な り。 己を成すは人を成す所以なり。聖人の道は要なり」というもので、本味篇の本来の意図は、伊尹が湯に美味の極致を 説 く 料 理 論 に 仮 託 し た 帝 王 論 に あ る の は 明 ら か で あ る。 と り わ け 注 目 す べ き は「 ( 天 子 と な る た め の ) 道 と は、 外 に 求めるものではなく、自分自身に求めること、すなわち己を反省することである。己を治めることが出来れば、おの ずと天子となることが出来、天子になれば、最高の美味も手に入ることになる。つまり、身近なことに目を向けて明 ら か に す る こ と は、 遠 い 将 来( 天 子 と な っ て 天 下 を 治 め る ) を 知 る こ と に つ な が る。 ま た、 自 分 自 身 を 治 め る こ と は、臣民を治めることにつながる。帝王の道はかように簡約である」と述べる末文である。いうまでもなく本味篇の

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一二〇 力点は、この末文にあると思われるから、治世の根本は賢者を得ることであるという冒頭の文は、一見すると湯が伊 尹を見出した伊尹説話の導入に過ぎないと思われる。一方、季春紀論人篇には、治国の根本として君主の守るべき道 は、最上のものは自分自身に求めることであり、これに次ぐのは他人に求めることであるとし、自分自身を治めるこ とこそが帝王となる秘訣であるという、この本味篇とまったく同様の帝王論がその全篇を通じて見える。さらに、こ の論人篇の直前に置かれている先己篇は、論人篇にいう君主が自分自身を治める方法の専論となっていて、この両篇 は十二紀において唯一まとまった統治論を論述している。

『呂氏春秋』季春紀先己篇・論人篇には『墨子』脩身篇と一致する記述が見えることは最初に述べた。そこで次に、 先己篇・論人篇と脩身篇について比較検討を試みる。最初に先己篇・論人篇の資料を掲げ、続いて脩身篇の資料を掲 げる。考察の便宜上章段分けを行い、先己篇・論人篇の資料には英小文字、脩身篇の資料には数字で、それぞれ通し 番号を付けた。 天下を取らんと欲すれば、天下は取る可からず。取る可くんば、身、将に先づ取る可し。凡そ事の本は、必ず身 を 治 む る を 先 と す。 其 の 大 宝 を 嗇 し み、 其 の 新 を 用 ひ、 其 の 陳 を 棄 つ れ ば、 理 は 遂 通 し、 精 気 は 日 新 た に、 邪気は尽く去る。其の天年に及べば、此を之れ真人と謂ふ。昔者、先聖王は、其の身を成して天下成り、其の身 を治めて天下治まる。 (先己篇) 故に善く響かせる者は、響きに於いてせずして声に於いてし、善く影つくる者は、影に於いてせずして形に於い てす。天下を為むる者は、天下に於いてせずして身に於いてす。 (先己篇)

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一二一 故 に 其 の 道 に 反 れ ば 而 すなは ち 身 善 く、 義 を 行 へ ば 則 ち 人 善 く 、 君 道 を 備 ふ る こ と を 楽 し め ば、 而 ち 百 官 已 に 治 ま り、 万民已に利あり。三者の成るは、無為に在り。無為の道をば天に 勝 まか すと曰ひ、 義をば身を利する と曰ひ、君をば 身すること勿しと曰ふ。身すること勿ければ 督 ただ しく聴き、 身を利すれば平静 、天に勝せば性に順ふ。性に順へば 則ち聡明にして寿長く、 平静なれば則ち業進み、 郷 むか ふことを楽しみ 、督しく聴けば則ち姦塞がりて 皇 まど はず。 (先己篇) 是の故に百仞の松も、本、下に傷つけば、末、上に槁る。商周の国は、謀、胸に失ひ、令、彼に困しむ。故に心 得て聴くこと得、聴くこと得て事得、事得て功名得。五帝は道を先にして徳を後にす。故に徳、焉より盛んなる は 莫 し。 ( 中 略 ) 当 今 の 世、 巧 謀 竝 び に 行 は れ、 詐 術 遞 たが ひ に 用 ひ ら れ、 攻 戦 休 ま ず、 亡 国 の 辱 主 は 愈 衆 し。 事 と する所の者、末なればなり。 (先己篇) 之 を 身 に 得 る 者 は、 之 を 人 に 得、 之 を 身 に 失 ふ 者 は、 之 を 人 に 失 ふ、 と。 門 戸 を 出 で ず し て、 天 下 治 ま る と は、 其れ唯だ己が身に反ることを知る者か。 (先己篇) 主 道 は 約 に し て、 君 守 は 近 し。 太 上 は 諸 を 己 に 反 す。 其 の 次 は 諸 を 人 に 求 む。 其 の 之 を 索 む る こ と 彌 々 遠 け れ ば、其の之を推すこと彌 疏なり。其の之を求むること彌 彊ければ、其の之を失ふこと彌 遠し。 (論人篇) 何をか諸を己に反すと謂ふ。耳目を適にし、嗜欲を節し、智謀を釈て、巧故を去りて意を無窮の次に遊ばせ、心 を 自 然 の 塗 に 事 お く。 此 く の 若 く な れ ば、 則 ち 以 て 其 の 天 を 害 な ふ こ と 無 し。 以 て 其 の 天 を 害 な ふ こ と 無 け れ ば、 則ち精を知る。精を知れば則ち神を知る。神を知る、之を一を得ると謂ふ。凡そ彼の万形、一を得て後成る。故 に知、一を知れば、則ち物に応じて変化し、闊大淵深にして、測る可からざるなり。徳行の昭美なること、日月 に 比 なら びて、息む可からざるなり。豪士時に 之 いた り、遠方より来賓すること塞む可からざるなり。 (論人篇)

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一二二 故に知、一を知れば、則ち動作は務に当たり、時と周旋し、極む可からざるなり。挙錯は数を以てし、取与は理 に遵ひ、惑ふ可からざるなり。言は遺する者無く、肌膚に集まり、革む可からざるなり。讒人は困窮し、賢者は 遂興し、匿る可からざるなり。 (論人篇) 故 に 知、 一 を 知 れ ば、 則 ち 天 地 の 若 く 然 り。 ( 中 略 ) 之 を 譬 ふ れ ば、 御 者 の 諸 を 己 に 反 せ ば、 則 ち 車 軽 く 馬 利 に、 遠きを致し険 を   (注 9 ) 履め ども、倦まざるが若し。昔、上世の亡主は、罪を以て人に在りと為す。故に日 殺 して止 まず、以て亡ぶるに至れども悟らず。三代の興王は、罪を以て己に在りと為す。故に日 功ありて衰へず、以て 王たるに至れり。 (論人篇) 凡そ人を論ずるには、通ずれば則ち其の礼する所を観、貴ければ則ち其の進むる所を観、富めば則ち其の養ふ所 を観、聴けば則ち其の行ふ所を観、止まれば則ち其の好む所を観、習へば則ち其の言ふ所を観、窮すれば則ち其 の受けざる所を観、賤しければ則ち其の為さざる所を観る。之を喜ばせて以て其の守を験し、之を楽しませて以 て其の僻を験し、之を怒らせて以て其の節を験し、之を懼れさせて以て其の (注 10) 持を験し、之を哀しませて以て其の 人を験し、之を苦しませて以て其の志を験す。八観六験、此れ賢主の人を論ずる所以なり。 (論人篇) 君子は戦ひは、陣有りと雖も、勇をば本と為す。喪は礼有りと雖も、哀をば本と為す。士は学有りと雖も、行ひ をば本と為す。是の故に本を 置 た つること安からざれば、末を豊かにするを務むること無かれ。近き者親しまざれ ば、遠きを来しむるを務むること無かれ。 (修身篇) 是 の 故 に、 先 王 の 天 下 を 治 む る や、 必 ず 邇 ちか き を 察 し て 遠 き を 来 た す。 君 子 は 邇 き を 察 し て、 邇 く 脩 む る 者 な り。 行ひを脩めずして、毀らるるを見れば、之を身に反す者なり。 (脩身篇)

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一二三 君子の道や貧しければ則ち簾を見、富めば則ち義を見、生くれば則ち愛を見、死すれば則ち哀を見る。四つの行 ひは虚仮なる可からず。之を身に反す者なり。 (脩身篇) 本固ならざる者は、末必ず 幾 あやふ し。雄なれども脩めざる者は、其の後、必ず惰る。原濁れば流れ清からず。行なひ 信ならざる者は、名必ず 耗 やぶ る。名は徒に生ぜず。誉れは自ら長ぜず。功成り名遂ぐるも、名誉は虚仮なる可から ず。之を身に反す者なり。 (脩身篇) 先 ず『 呂 氏 春 秋 』 の 資 料 か ら 考 察 を 行 う。 一 見 し て 気 が 付 く の は、 「 諸 を 己 に 反 す 」 と い う 特 徴 的 な 語 が 繰 り 返 し 力説されていることである(資料 )。さらに資料 「其の道に反れば」 、 「唯だ己が身に反る」も同義で 使 わ れ て い る と 思 わ れ る。 資 料 に は「 諸 を 己 に 反 す 」 か ら「 得 一 」 に 至 る ま で の 具 体 的 な 記 述 が あ り、 「 反 己 」 の 内 容 は 概 し て 道 家 的 な「 得 一 」 を 主 と す る も の で あ る。 「 得 一 」 の「 一 」 と は『 老 子 』 三 十 九 章 に「 万 物 は 一 を 得 て 以て生じ、侯王は一を得て以て天下の貞と為る」とあるように「道」と同義であるが、特にそのはたらきの面からい うもので、万物のそれぞれを所あらしめるはたらきである。要するに、己に反ることによって、道と一体となるさま を 段 階 的 に 述 べ た も の で、 続 く 資 料 に は、 「 得 一 」 か ら「 以 て 王 た る に 至 る 」 帝 王 論 が 記 さ れ て い る こ と に 注 目 し なければならない。 一 方、 『 墨 子 』 脩 身 篇 に も「 之 を 身 に 反 す 者 な り 」 と い う、 特 徴 的 な 語 が 三 箇 条 連 続 し て 見 え る( 資 料 )。 内容を順に検討すると、資料 の「行ひを脩めずして、毀らるるを見れば、之を身に反す者なり」というのは、論人 篇の資料 「三代の興王は、罪を以て己に在りと為す」と同旨の文である。次に、資料 は君子の旨とすべき生活信 条であるのに対して、論人篇の資料 は、その篇題ともいうべき人を評価する方法を述べるもので、書かれた目的は

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一二四 異 な る が、 こ の 二 つ の 資 料 は 記 述 の 方 法 が 似 て い る。 実 は 論 人 篇 の 資 料 に つ い て は、 『 史 記 』 魏 世 家 に 同 旨 の 文 が あ (注 11) る こ と か ら、 論 人 篇 の 資 料 は 脩 身 篇 の 資 料 と『 史 記 』 魏 世 家 の も と に な っ た 資 料 と に よ っ て 出 来 た と い う 一 応の推測が成り立つ筈である。資料 は資料 と同様、物事は根本を確立させることが重要で、末節に拘ってはなら ないという論であるが、この二つの資料にいう「勇為本」 「哀為本」 「行為本」 「置本不安、無務豊末」 (資料 )、 「本 不 固 者、 末 必 幾 云 々」 ( 資 料 ) は、 資 料 「 い に し へ の 先 王 が 天 下 を 治 め た 方 法 は、 必 ず 先 ず 根 本 で あ る 自 分 の 身 近 に い る 者 か ら 観 察 し て、 し だ い に 遠 く に い る 者 が 懐 く よ う に す る 」 と い う こ と を 述 べ る た め の 導 入 文 に 過 ぎ な い。 さて、これを『呂氏春秋』先己篇の資料と比較してみると、 は、楽器を巧みに響かせるには、本になる音声に 腐 心 す べ き で あ り、 影 を 巧 み に 作 る に は、 影 を 工 夫 す る わ け で は な く、 本 に な る 形 を 整 え る こ と に 努 め る べ き で あ り、百仞の高さの松も、下で根が傷つけば上で枝葉が枯れるに至るように、何事も根本をつとめることの重要性を論 旨 と し て い る。 そ し て こ れ ら の 記 述 は、 資 料 で は「 天 下 を 為 む る 者 は、 天 下 に 於 い て せ ず し て 身 に 於 い て す 」、 資 料 で は「 五 帝 は 道 を 先 に し て 徳 を 後 に す 」「 当 今 の 世、 巧 謀 竝 び に 行 は れ、 詐 術 遞 ひ に 用 ひ ら れ、 攻 戦 休 ま ず …… 事とする所の者、末なればなり」を述べるための例示に過ぎない。するとこの表現法は、いま見てきた脩身篇の記述 と同じであることが分かる。 以 上、 『 呂 氏 春 秋 』 先 己 篇・ 論 人 篇 と『 墨 子 』 脩 身 篇 に 共 通 し て 頻 出 す る 特 徴 的 な 語 を 手 が か り に、 比 較 検 討 を 試 みた。その結果、脩身篇に連続して三箇条見える「之を身に反す者なり」という語は、いずれも単独で資料の末尾に 置かれているのに対して、先己篇・論人篇の「これを身に反す」は、君主が絶えず反省自重する意にとどまらず、道 家 的 な「 得 一 」 か ら、 さ ら に 帝 王 論 へ と 思 想 の 展 開 が 確 か め ら れ た。 ま た、 脩 身 篇 の「 云 々 を ば 本 と 為 す 」「 末 を 豊 か に す る こ と を 務 む る 無 か れ 」「 本 固 な ら ざ る 者 は、 末 必 ず 幾 し 」 等 の 記 述 は「 こ れ を 身 に 反 す 」 の 導 入 文 に 過 ぎ な

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一二五 いが、論人篇にもこれとまったく同じ記述が踏襲されている。注目すべきは、論人篇の末尾に置かれた(資料 )君 主の守るべき道の第二に挙げられた「人に求む論」として、脩身篇の資料 の「人を評価する方法」が転用されてい る こ と で あ る。 さ ら に 資 料 で は 八 観 六 験 に 続 け て、 六 戚 四 (注 12) 隠 が 記 載 さ れ て い る。 こ れ ら を 考 え 合 わ せ る と、 先 己 篇・論人篇は脩身篇をもとに書かれたと考えられる。 さて、論人篇の「これを身に反す」が、単なる自己の反省を意味するだけでなく、統治論、さらには帝王論の根本 として機能していることはいま見てきた通りであるが、論人篇の直前に置かれている先己篇は「これを身に反す」の 専論となっている。先己篇と論人篇は隣接する形で配置されているが、先己篇の末尾(資料 )は「門戸を出でずし て、天下治まるとは、其れ唯だ己が身に反ることを知る者か」で結ばれ、続く論人篇の冒頭(資料 )は「主道は約 に し て、 君 守 は 近 し。 太 上 は 諸 を 己 に 反 す 」 と い う 書 き 出 し で 始 ま っ て い る。 こ れ に つ い は 陳 奇 猷󠄀 氏 も 指 (注 13) 摘 す る よ う に、この両篇は本来一連の文として存在していたものを、文量を調節するために本書編纂の段階で二篇に分割したと 考えられる。 先 己 篇 冒 頭( 資 料 ) に 置 か れ た、 湯 が 伊 尹 に 天 下 を 取 る 方 法 を 問 う 問 答 説 話 は、 養 生 家 の 帝 王 論 と な っ て い る。 湯の問いに対して伊尹は、天下を取るには、まず自らの身体を治めることを説き、後続の文(資料 )もまた「天下 を 為 む る 者 は、 天 下 に 於 い て せ ず し て 身 に 於 い て す 」 と あ る こ と か ら、 資 料 と 同 じ く 養 生 家 の 系 統 の 思 想 で あ る。 注目すべきは資料 に墨家の利が説かれていることである。資料 は「無為の道をば天に勝すと曰ふ」と見えるよう に、 道 家 の 無 為 と 儒 家 説 が 錯 綜 し て い て 難 解 で あ る が、 傍 線 で 示 し た 箇 所 を 繋 げ る と「 義 を 行 へ ば 則 ち 人 善 く 」「 義 をば身を利する」 「身を利すれば平静」 「平静なれば則ち業進み郷ふことを楽しむ」となり、論旨が明確となる。すな わち、君主が義を行えば民は治まる。義とは民の身を利することである。民の身を利すれば平穏が得られ、平穏の世

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一二六 であれば民の仕事ははかどり、君主の教化を楽しんで受け入れるのである。要するに、道家の無為と墨家の義を融合 させた統治論であり、資料 もまた秦墨が道家に接近した証左となるであろう。なお、先己篇・論人篇の思想の詳細 については、筆者は既に考察を済ませてい (注 14) るので、ここでは繰り返さない。

以上の考察によって、十二紀中、統治論の専論ともいうべき季春紀先己篇・論人篇は、道家の道・無為とともに秦 墨 の 強 い 影 響 下 に 成 っ た こ と が、 『 墨 子 』 親 士 篇・ 脩 身 篇 と の 比 較 か ら 明 ら か に な っ た。 秦 墨 が 道 家 の 影 響 を 強 く 受 けたことについては既に指摘した通りで、先己篇・論人篇もまた秦墨の作であると考えて良いであろう。さて、賢者 の希求に優先して、君主が自分自身を治めることを第一とする思想は、先己篇・論人篇の他、八覧では有始覧第四聴 言篇・第五謹聴篇にも統治論の根幹として見えているから、次に資料を掲げる。 周書に曰く、往く者は及ぶ可からず、来たる者は待つ可からず。其の世に賢明なる、之を天子と謂ふ、と。故に 当今の世、能く善不善を分つ者有れば、其の王たること難からず。善不善は義に本づき、愛に本づく。愛利の道 為るや大なり。 (中略) 乱世の民は、其の聖王を去ること亦た久し。其の之を見んと願ふこと日夜間無し。 (聴言篇) 凡そ人も亦た必ず其の心に習ふ所ありて、然る後に能く説を聴く。其の心に習はざれば、之を学問に習ふ。学ば ずして能く説を聴く者は、古今有る無きなり。 (聴言篇) 夫 れ 尭 は 悪 く ん ぞ 賢 を 天 下 に 得 て 舜 を 試 み、 舜 は 悪 く ん ぞ 賢 を 天 下 に 得 て 禹 を 試 み た る、 之 を 耳 に 断 ず る の み。 耳の以て断ず可きや、性命の情に反るなり。 (謹聴篇)

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一二七 右の聴言篇の資料は、臣下の言を聴取するにあたり、物事の善否を正確に判断できる賢明な君主は、帝王となるこ と が で き る と い う 帝 王 論 で あ る。 既 に 考 説 し た 下 賢 篇 の 帝 王 論 は、 「 兼 王 之 道 」 と し て『 墨 子 』 親 士 篇 に「 聖 人 は 事 として辞する無く、物として違ふ無し。故に能く天下の器と為る」と記されているように、秦墨が尚賢説に説得力を 与えるために新たに考案したものである。しかし、この聴言篇の資料には「必ず其の心に習ふ所ありて、然る後に能 く 説 を 聴 く 」 す な わ ち、 人 君 も 自 分 の 心 に 修 養 を 積 ん で は じ め て 臣 下 の 説 の 善 否 を 聞 き 分 け る こ と が 出 来 る、 と あ り、後続の謹聴篇の資料には、人君として臣下の説の善否を聞き分ける修養を身につける具体的な方法を「耳の以て 断ず可きや、性命の情に反るなり」とあることからも分かるように、ここに見える尭・舜像は、尚賢説由来の帝王論 ではなく、養生家の帝王論である。 さ て、 尭 が 舜 を 見 出 し、 舜 が 禹 を 見 出 し た の は、 彼 等 の 聡 明 さ を 耳 で 判 断 し た の で あ る。 耳 で 判 断 す る た め に は、 「 性 命 之 情 」 に 反 る こ と、 す な わ ち 君 主 が 本 性 の あ る が ま ま に 立 ち 返 り、 臣 下 の 言 に 虚 心 に 耳 を 傾 け る こ と で あ る。 本性のあるがままに立ち返るというのは、君主が自分自身を顧みることこそが統治の根本であるという、いま見てき た季春紀先己篇・論人篇の「諸を己に反す」という思想と同種のものである。そうすると、季春紀先己篇・論人篇の 帝王論もまた、養生家の帝王論に繋がるものであると言えよう。 謹聴篇に「性命の情に反るなり」というのは、審分覧勿躬篇に聖王の姿として「其の神を養ひ、其の徳を脩めて化 す。 豈 に 必 ず し も 労 形 愁 (注 15) 慮 し、 耳 目 を 弊 れ し め ん や 」、 聖 王 の 徳 と し て「 神 は 太 一 に 合 し、 生 は 屈 す る 所 無 く し て、 意は障ぐ可からず。精は鬼神に通じ、深微玄妙にして、其の形を見る莫し。今日南面すれば百邪は自ら正されて、天 下皆な其の情に反り、黔首は畢く其の志を楽しむ。其の性を安育して、為さんとして成らざるは莫し。故に善く君為 る 者 は、 性 命 の 情 を 矜 服 し て 百 官 已 もっ て 治 ま り、 黔 首 已 て 親 し み、 名 号 已 て 章 る 」 と あ る よ う に、 『 呂 氏 春 秋 』 の 性 情

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一二八 論 (注 16) は『 荘 子 』 外・ 雑 篇 由 来 の 思 想 で あ り、 『 呂 氏 春 秋 』 で は 虚 静 無 為 を 統 治 論 と す る 養 生 家 の 帝 王 論 と し て 摂 取 さ れ ていることが分かる。

   

『 呂 氏 春 秋 』 の 諸 篇 に は、 賢 者 へ の 希 求 及 び 礼 遇 に と ど ま ら ず、 帝 王 論 へ と 展 開 す る 特 殊 な 尚 賢 思 想 が 見 え る が、 それは秦墨の作と考えられる『墨子』親士・脩身・所染の所謂墨経三篇の尚賢思想の特徴を備えたものである。小論 で は、 慎 大 覧 下 賢 篇・ 孝 行 覧 本 味 篇・ 季 春 紀 先 己 篇・ 論 人 篇 を 中 心 に、 墨 経 三 篇 と の 比 較 検 討 を 行 っ た。 そ の 結 果、 仲春紀当染篇・季春紀先己篇・論人篇・孝行覧本味篇・先識覧先識篇は墨経三篇の影響を受けており、秦墨の手に成 る も の で あ る と 推 測 し た。 秦 墨 が 新 た に 考 案 し た こ の 尚 賢 思 想 は 帝 王 論 を 主 張 す る こ と か ら、 『 呂 氏 春 秋 』 の 統 治 論 として恰好のもので、その根幹を形成している。さらに、賢者の意見の善否を見極める必要性から、賢者への希求に 先 立 ち、 君 主 が 自 ら を 治 め る と い う 君 主 自 身 の 修 養 の 重 要 性 が 力 説 さ れ る こ と と な る。 そ の 思 想 の 論 拠 は、 『 荘 子 』 の性情論由来の虚静無為の統治論・養生家の帝王論である。 これを要するに、秦墨は『呂氏春秋』の編纂に際し、従来にない尚賢思想、すなわち君主による賢者への過剰なま での礼遇から帝王論による統治論を考案し、さらにすすんで君主自身が我が身を顧みることの重要性を、道家の性情 論・ 養 生 説 か ら 取 り 入 れ た 帝 王 論 を 付 加 し た、 と い う 次 第 で あ ろ う。 こ の 推 論 が 正 し け れ ば、 『 呂 氏 春 秋 』 の 編 纂 は 秦墨が主導的立場で携わったことになり、その強力な発言力を発揮したであろう事を物語る。

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『呂氏春秋』に見える秦墨の思想 一二九 注 1   拙 稿「 『 呂 氏 春 秋 』 に 見 え る 秦 墨 の 思 想 ―― 慎 大 覧 諸 篇 を 中 心 と し て ―― 」( 国 文 学 叢 録 』 平 成 二 十 六 年、 笠間書院刊)を参照。 注 2   原 本 は「 支 苟 」 に 作 る。 「 支 」 は「 交 」 の 訛。 「 苟 」 は「 」 の 訛。 「 」 は、 い ま し め る 意。 交 は り 相 ひ 戒すること。 『墨子間詁』により改めた。 注3   原本は「本」を「不」に作る。范耕研により改めた。 注 4   拙 稿「 『 呂 氏 春 秋 』 に 見 え る『 荘 子 』 に つ い て 」( 「 鶴 見 大 学 紀 要 第 三 十 三 号 」 国 語・ 国 文 学 編、 平 成 八 年 ) を参照。 注5   有始覧の第四聴言篇・第五謹聴篇・第六務本篇の三篇は連続して存在しているが、このうち、務本篇につい ては秦墨の作であることを筆者は既に考察している。また、聴言篇は本来、謹聴篇と連続する一文であった ものを、本書編纂時に二分割して出来たと推測される一方、聴言篇は秦墨が道家に接近を図った文献である こ と が 確 か め ら れ る( 注 1 の 前 掲 書 を 参 照 )。 そ う で あ る と す れ ば、 謹 聴 篇 は 秦 墨 に よ っ て 書 か れ た と 考 え て間違いない。 注6   渡邊卓氏『古代中国思想の研究』 「十論以外の諸篇」五百二十八頁及び、 「墨家行動略史」五百六十三頁(昭 和四十八年、創文社刊)を参照。 注 7   伊 尹 の 生 い 立 ち に ま つ わ る 長 文 の 説 話 で、 有 氏 の 国 の 娘 が 空 桑 の 中 で 見 つ け た 嬰 児 を 料 理 人 に 養 育 さ せ た、 そ の 子 が 伊 尹 で あ っ た と い う。 本 味 篇 に 伊 尹 説 話 を 置 い た の は、 ど う や ら 料 理 人 と 料 理 と の 連 想 か ら、 編纂者が強引にこじつけたまでのことであるらしいが、説話の冒頭と末尾に尚賢説を付け加えることで、説 話の力点はあくまで伊尹にまつわる尚賢論となっている。

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一三〇 注8   原本は「亡」を「止」に作る。兪樾により改めた。 注9   原本は「履険」を「復食」に作る。許維 ・陳冒斉により改めた。 注 10   原本は「持」を「特」に作る。李宝 により改めた。 注 11   『 史 記 』 魏 世 家 に 李 克 が 魏 の 文 侯 に 語 っ た 人 を 観 察 す る 方 法 と し て「 居 り て は 其 の 親 し む 所 を 視、 富 め ば 其 の与ふる所を視、達すれば其の挙ぐる所を視、窮すれば其の為さざる所を視、貧しければ其の取らざる所を 視 る。 五 者 以 て 之 を 定 む る に 足 る 」 と あ る。 ま た『 呂 氏 春 秋 』 孝 行 覧 遇 合 篇 に も「 凡 そ 人 を 挙 ぐ る の 本 は、 太上は志を以てし、其の次は事を以てし、其の次は功を以てす」とある。 注 12   「 人 を 論 ず る に は、 又 必 ず 六 戚 四 隠 を 以 て す。 何 を か 六 戚 と 謂 ふ。 父 母 兄 弟 妻 子 な り。 何 を か 四 隠 と 謂 ふ。 交友・故旧・邑里・門郎なり。内には即ち六戚四隠を用ひ、外には則ち八観六験を用ふれば、人の情偽・貪 美・美悪、失ふ所無し。 注 13   陳奇 猷󠄀 氏『呂氏春秋校釈』百六十一頁を参照。 注 14   拙 稿「 『 呂 氏 春 秋 』 季 春 紀 先 己 篇・ 論 人 篇 の 構 成 に つ い て 」( 「 鶴 見 大 学 紀 要 第 三 十 五 号 」 国 語・ 国 文 学 編、 平成十年)を参照。 注 15   原本は「慮」字がない。許維 により補った。 注 16   拙 稿「 『 呂 氏 春 秋 』 の 統 治 論 に 見 え る『 荘 子 』 の 虚 静 無 為 」( 「 鶴 見 大 学 紀 要 第 四 十 六 号 」 日 本 語・ 日 本 文 学 編、平成二十一年)を参照。

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