四結
び ダーバーらは組合関係の過程を、関係主体の対応過程に焦点を置 いて類型的に把握しようと試みている。彼らのアプローチは、ハー ビソンらのディメンショナルな類型的アプローチとは対蹟的な、現 実に密着した経験的類型化アプローチである。勿論そこには種々技 術的な限界があり、彼らの措定した類型も決レで決定的なものとは いえないだろう。 さらにアプローチの態度・方法にも問題があると考える。例えば 類型化の指標を影響力、圧力、態度に求めるのが果して適当といえ るかどうか、環境要因を専ら過程類型との関連において捉えようと する行き方に問題がないかどうか、そしてさらには彼らが量的なも のと看倣している自らのアプローチの限界が、果して量的限界にと どまるものであるかどうか。これらの諸点はなお検討を要する問題 であると考える。しかし彼らがこれらのきわめて捕捉し難い構成要 素を、量的に分析し、それに基づいて対応過程を類型的に把握しよ うとする試みは、今後われわれが組合関係の動態を解明してゆく上 での一の有力な手掛りになると考える。 西欧通貨交換性への歩み西欧通貨交換性への歩み
片
山
貞
雄
国際金融史上、歴史的事件とも云うべきポンド交換性恢復は悲惨 な失敗の経験及び長い準備期間を経て、昨年末遂に実施された。 全く第二次大戦後の国際経済・金融上の問題はドル不足問題に終 始したといっても過言ではなかろう。その第一の申子が通貨交換性 停止であった。然し戦争により破壊された各国の生産力も恢復し、 激しかったドル不足も緩和するに及んで、事実上の交換性︵αΦ臨叩 0800頃く。陣ぴ二一︶より、正式の交換性︵︷o困巨巴W山σ甘バゆooロー ︿①﹃凱ぴま曙︶恢復への歩みは着実に行われて来た。 本稿に於いては、主としてヒンシ。ウに従い、又その他論者の見 解及び私見を若干加えつつ西欧通貨交換性恢復迄の歩みを回顧して みたい。 ①即匹霧審ヨ日。毛9。巳国霞ε①9。昌Oo薯①﹃二げ旨ヨ国ωω曙ω ぎH艮2目餌口。昌巴閃言p昌oo12p⊂ゆご乏。<﹂一8c。■ 二 所で、第二次大戦前の世界は多角的支払体系により、相互に結合 三五西欧通貨交換性への歩み され、ポンドを始めとする主要通貨には交換性が維持されていた。 此の逆な状況の下では各国は双務的・地域的支払関係を老退せす、 全体としての牧支に注意を払う事が必要とされるのみであった。 然し、貿易及び牧支の分野に於けるすべてが満足の行く状態にあ ったのではない。世界的不況の為、多くの国々は輸出の急激な低下 に直面して、その牧支均衡を維持する事は極めて困難であった。更 に、不況、政治不安の結果資本逃避が起り、それは又牧支困難性に 拍車を加えた。かかる状態は非居住者交換性︵外国人所有残高の交 換性︶の大なる崩壊をもたらさなかったが、居住者交換性︵居住者 が海外へ支払を行う権利︶の大なる制限に導いた。 各国は全体としての牧支改善の為に量的輸入制限及び外国為替取 引の集中化・統制を実施した。即ち貿易統制及び対外金融統制両者 の実施なくしては効果なき事が認識されたのである。 かくして戦前の国際金融機構は、双務支払協定を強行せるドイツ にその重大な例外を見出すが、一般に多角支払体系が維持されてい たというものの、貿易及び支払に対する直接統制の急激な増加によ り、その利益は相当削減せられていたのであった。 然し、此の様に制限付きで維持されていた多角支払体系も、大戦 の勃発と共に崩壊し、各国通貨の居住者・非居住者交換性は停止せ ざるをえなかった。尤もポンド地域内にては、ポンドの自由振替可 能性は維持されたが、同地域の稼得せるドルはロンドンに集中され その使用は統制を受けた。 三 三六 戦争終結前馬戦後の適切な国際金融機構に関して、多大の思考が 重ねられ、戦後の国際貿易・金融分野における再建は巨大な困難を 呈するに相違ないと一般に認識されていた。 英国は一九四二年ケインズ指揮の下、国際清算同盟︵H口富屋卑7 0コ巴ΩΦ霞冒σqd巳8︶の提案を行った。それは ω戦後完全な多 角支払組織を樹立する、②各国に貿易及び牧支に対する直接統制の 迅速な徹廃をもたらす為に引出権︵時⇔≦ぎσq巴黄葺。。︶なる形で実質 的国際準備を与えるtという基本目的をもっていた。前者にて非 居住者交換性、後者にて居住者交換性確保が意図されているのであ る。本計画は米国のホワイト︵≦三3︶案が各国の出資にもとす く所のいわば﹁銀行﹂の創設であったのに比べて、﹁国際清算所﹂ (一睡@暮pユ。コ巴巳窪嵩冨αq﹃o冨⑦︶の樹立であった。しかも、その国 際準備を潤沢に与えんとした。その単位はバンコール︵び彗8﹃︶と 呼ばれ、一種の新形態の国際通貨と考えられた。ケインズの論ずる 所によれば、バンコールは金に比すべきものであり、又出超国は必 要あれば為替切上げ等により出超矯正処置をとりうると。 ① 然しながら、その提案は米国の受け入れる所とはならなかった。 その主たる理由としてヒンショウは三つを挙げる。 ω 戦後の国際金融機構の為に米国自身計画︵ホワイト案︶を持つ ていて、それに対していわば著作権的誇りを所持していた。 ② 米国専門家は米国が清算同盟に参加する事により、同盟と定期 的純ポジション︵ロ①けづ。ω三8︶︵後述五節参照︶を樹立する為に 少くとも外国為替の集中化が必要とされると考えていた。他の諸 屠
、 国は、殆んどその集中化を行っていたが、米国は行っていなかっ た。 ㈲ 英国の提案では各国が戦争に起因せる緊急援助及び再建の必要 上、その引出権を使用し、その結果は米国が矯正出来ない程巨額 の出超を同盟に対して持つであろう事を米当局は恐れた。 然し、⑧は英国の提案に対する正当な反対理由ではなかった。何 故ならば、戦後の米国.の巨額な出超は贈与によって相殺されたから である。尤も次の註釈が必要とされる。㈹戦後の再建及び防衡必要 額が予見されなかった事、㈲英国の計画下では、米国は援助の方向 を統制出来なかった事 である。 結局、ホワイト案に従い国際通貨基金︵IMF︶が樹立された。 それは加盟国の居住者・非居住者交換性復帰への努力を助け、又一 度それが.成就されるや、その維持の為に助力を与えるべく流動性準 備のプールを与える事を意図したのである。然し周知の如く激しい ドル.不足の為に充分な機能を発揮しなかった。 ① 当時の論争については、最近にても英・米学者間の考えは対 立している。前.者に属するスキャンメルはケインズ案は討論の 初期段階に放棄され、結局米国が指導的役割を果し、米議会に 気に入る様なものに作成されたとする。 ︵司・ζ●ωo餌日日①F H昌8轟鋤島。ゆ巴]≦o口Φ鼠巴団勺。ゴ。ざ一〇㎝メ℃やδP一亀。︶、後者 に属するトリフィンはその放棄はかなり英国の責任にもとずく との見解をとる。 ︵菊’.6比鰍冒い国霞。℃①き匹ζoロΦ団ζβ㍗ 臼①=8メやδP拙稿、W・M・スキャンメル﹁国際通貨政 策﹂国際経済、第十号 参照。︶ 西欧通貨交換性への歩み ②Qo8↓覇者Φ讐Φωコ毒言9同ぎ叶亀ヨ図暮興暴臨g9。一ζ㌣ 巨①訂q︵uoo℃2p郎。昌げ団φ.Z’顕巴旨︸一〇ホ一や潔﹃ 四 終戦直後は、戦.争遂行の為の金・ドル準備澗渇、生産力破壊等の 為欧州諸国間の貿易は殆んど双務協定によらざるを得なかった。対 ドル地域貿易について云えば、米国の巨額な援助により、双務勘定 を均衡にもたらす程の制限を行う必要は免れたが、やはり相当の制 限が要求された。ポンド振替可能性の維持されたポンド地域内は例 外として、終戦薩後の貿易・支払状態は極めて不満足であった。 所で、ポシドに非居住者交換性を与えんとする戦後最初の努力は 悲惨な結果に終った一九四七年七月のそれであった。四六年の米英 金融協定による三七億五〇〇〇万ドル借款の一条件は一年内にポン ド交換性恢復を実行すべきで.あるという事であった。然し正当な理 由の存する場合、その延期が認められたが、遂に英国は実行に踏み 切った。 その実施の為、英国は四七年始め振替勘定︵霞き珠①鎚げδpoo? 信三︶ 組織を樹立せんとして、ドル地域外の主要諸国と協定を結ん だ。この勘定地域に属する国家はポンド地域諸国に対してのみなら ず、彼等相互間の支払の為にポンドを使用出来た。又当然の理由か ら、ドル地域によって受取られたポンドーアメリカ・カナダ勘定i ① は交換性をもっていた。又、交換性恢復はポンド地域内の協定に影 ② 響を与えなかった。元来、ポンド地域は中央銀行交換性︵OΦ⇒賃既 三七
西欧通貨交換性への歩み ゆpコ吋Oo尽く①目甑玄=な︶1英連邦諸国の中央銀行はロンドンのポン ド地域ドルプールを使用しうる一を保持していたが、その行使に あたり細心の注意を払うという紳士協定が存在した。更に交換性は ③ 戦時中に生じた。ホンド残高︵所謂。鉱げ巴β・昌8︶には及ばず、新残 高に限られ、経常取引に限定された。旧残高は封鎖残高として知ら れるが、藩論ッドによれば、その額はあまりにも小さく、且つ債権 ④ 者の圧力により度々制限の解除が行われた。これは英国に少からぬ 圧迫を加えた。 所で、交換性は四七年七月十五日に実施された。然し英国は驚く べき割合にてドルを衷失し始めた。三五日目の最後の日には年率一 ⑤ 一〇億ドル以上に達し、終に交換性を停止せざるを得なかった。 その原因は当時多額の。ホンド残高が外国の手中にあったのみなら ⑥ す、又特にその処理の仕方が不適切であった。その上大なる入超の. 結果、ポンドがポンド地域から︵ドル地域を除く︶他地域へと年率 五〇億ドル︵切下げ前のレート︶の割合にて流出したからである。 此れが右ポンド獲得諸国によってドル地域よりの輸入の為に使用さ れた。更に資本逃避が交換性失敗に拍車をかけた。 此の様な事態の根底にあるものは当時の為替相場で英国はドル地 域に対して充分競争的な地位になかった事である。ドル不足論にて ⑦ も古典的見解をとるハーバラーは交換性恢復失敗の第一の原因に当 ⑧ 時のインフレーションを挙げ、又ホートレイも貨幣的な面を強調し ⑨ た。 然しその失敗は反面より見れば、ドル不足t勿論それは貨幣的 三八 ⑩ 要因を越えた実質的要因に主原因が存在した事は云う迄もない一 の激しさを示すものであり、又その申子がポンドの非交換性、ひい ては自由世界の硬貨圏と軟貨圏の分割であった。 短命に終った交換性の瓦解と共に西欧は再び双務支払協定へと進 み、ここに改めて戦後の計画を再考せざるを得なかった。 ①一九五四年の改訂迄の英国為替管理法上の勘定地域はω指 定地域︵QQoげ①匹巳Φ餌日Φ睡蹄。ユ①ω”ω8目㍑コσQ︾器鋤︶勘定、② アメリカ・カナダ勘定、⑧振替勘定、働双務勘定、㈲その山勘 定1であった。 ②図■ζ■芝ユσq巨㌦θo=費勺oo=づ⑳営爵Φω8島コσ9︾同①p 一80∼一8N、、︾日Φド国ooロ.ヵ①<二GQ①冥.一お望一〇.αひ一.︵邦訳、 大蔵省調査月報、四三の十二︶O.出pげΦぼ①ぴ○¢凌Φ昌。団Oo〒 <①三二一代ざお総ーサ。。.︵邦訳 同月報 四三の十一︶ ③戦争終結時︵一九四六年末︶ポンド残高は三七億ポンドであ り、此の内約二四億ポンドが.ポント地域、約二二億ポンドがそ れ以外の地域により保有されていた。 o野刃’国帥ほ。負↓ず① ℃o二上匹ω8=ヨσq島国。。ω避。・一づぎ巳屋蝉賦。昌巴閃退き。①︸Zo﹂⊆ρ︾ 閃Φσご一8ド器唱は葺①9℃.一刈・東銀訳 二五頁。
④9算9℃や誤∼ρ訳三七受八頁。
⑤ ドルの衷失は米国びカナダ借款の支出に反映され、当時の金・ ドル準備の英国公表数字には反映されなかった。国・謡言。。げ口指 o℃.島けごや一ポ︷ooBo8■ ⑥園.国p匿oPoワ9f℃や一刈∼PO.訳二五∼三〇頁。 ⑦拙稿﹁バーバラの弗不足論﹂六甲台論集一の二参照。 ⑧○■団餌げΦ二①び8’9f娼.§⑨ 即P寓p≦需Φど日。妻錠静臣①菊霧8Φo粘ω8H一ぎσq糟一8︽ ℃勺.N一ω、悼轟∼9蒔9 ロビンスもほぼ同様、国内インフレ抑制 の失敗、ポンド残高の異.常累積、且つ国内インフレを高め対外 投資を強めた不適当な利子水準にあるとする。 ピ.男。ぴ昌昌9 .雨8げ一①目。。o︷ぎ8旨舞一〇昌巴閃①8霧霞ロ。島。塁り、、ヨ↓げΦ 国8昌。日晒二三爵①↓≦窪二①チO①口εq雪餓○チ2い①o什ξΦ。・ ヨ℃o一三〇巴国8昌。ヨざ一〇綬噛や一田﹁ 猶、ドル不足に対する見解も慢性的と一時的にほぼ分れた様 に、交換性に関する見解も二つの対立的なものが存在した。 一 般的にいって計画化を擁護する人々はポンド交換性の念願をば ﹁盲、の神々への古き憧憬﹂であ、ると非難して来た。︵bd曜≦舘F 二↓冨ω①霞Φ長窪ho目℃oo酔曙闇Zo酔GD富江ω匡8”、、ZΦ気団。時 日一日Φωこ三ざωρお㎝ρやω。。︶ 一方、自由主義経済学者は一 般に交換性を自由に働く価格機構及び需給の諸力に基礎をおく 自由企業経済に伴う多角貿易組織の不可欠の条件と看倣した。 ︵ρ類菩Φ巨臼り。℃.9∫切.㎝陰︶ ⑤拙稿﹁キンドルバ﹂ガーの弗不足論をめぐりて﹂六甲台論集 一の三.参照。 五 然し一九四八年マーシャル計画の開姶と共に、欧州復興に対する 大なる障害は貿易・支払に対する直接制限である事が認識されると 共に、一方では激しいドル不足の.為対ドル輸入制限を緩和・廃止す る事は不可能であると老えられた。 此の様な考えは欧州経済協力機構︵OEEC︶参加諸国による欧 西欧通貨交換性への歩み 州支払同盟︵国彗。℃Φ聾づ℃⇔団臣Φ簿d巳。昌︶に結実された。 そのメカニズムは基本的には単純である。即ち.毎月各加盟国の中 央銀行は同盟︵実際には国際決済銀行︵BIS︶︶に対して、各加 盟国相互問との牧支残高を報告する。BISはその残高の相殺操作 を行い、共通の計算単位︵一ドルに等しい︶でもって各国の全体に ① 対する累積純.︵グレディト・デビット︶ポ、混ションを算定した。そ して発足当時毎月決済の平均基準は、六〇%がクレディト、四〇% が金であった。 EPUの活動と共に欧州内の貿易自由化は急速に高かまった。同 盟成立以前の四九年十一月には欧州内貿易の僅か三〇%が量的制限 を免れていたにすぎなかったが、その発足三ケ月後の一九五〇年末 には六〇%が自由化した。その自由化率は累積的.に上昇し、五七年 初期迄に九〇%に迄増大した。その率はフランスの制限によりやや 下落したが、ベルギー、西ドイツ、イタリア、オランダ、スイスの 如きはEPU諸国からの輸入に対する直接統制を殆んど徹去した。 此の自由化は欧州内貿易の犬なる増加に導いた。即ち四九年を一〇 〇とすれば五〇年には一四一、五六年には二二六迄上昇した。 然しEPUは最初の二年間は欧州内貿易の自由化を越えて、ドル 地域との貿易自由化へとは進まなかった。欧州内貿易制限が大きく 後退してもドル地域に対する差別化の程度は相当増加した。EPU 諸国の金・ドル準備は低水準に止まった。為替統制機構は殆んどの EPU諸国に存在した。然るに五二年の中期より好転の兆をみせ、欧 州復興の一反応としてその金・ドル準備は顕著な上昇を示した。即 三九
西欧通貨交換性への歩み ち、四五年末の一〇五億ドルから四七年末に七七億ドルと大ぎく滅 少を示めしたが、五〇年中期迄に一〇〇億ドルの水準を恢復し、五 一年末の一〇一億ドルから、五七年末の一七七億ドルに迄上昇した。 結局六年間にて七六%上昇、五八年には四〇年代末の倍化を示した。 此の事はドル地域からの輸入制限緩和を可能にした。先述の如く 最初、毎月金決済比率は四〇%であったが、五四年五〇%、五五 年七五%に迄引上げられだ。此の事は西欧のドル輸入制限廃止を促 進し差別化を減ずる重要な要素であった。一方EPU債権諸国はそ のクレディト・ポジションの七五%を対ドル赤字に融資する事︵以 前は五〇%以下︶が可.能となった。他方債務国は右理由によりEP U赤字を補填する事はドル赤字のそれに比べ大きくは容易でないか ら、そのドル地域差別化への刺戟は減少したのである。 今EPUの初期及び最近の期末累積純ポジションを示せば下表の 如くである。
①EPU発足に際し経済協力局︵ECA︶は過去の実蹟から慢
性的債権国の傾向をもつ国︵ベルギー・ルクセンブルグ、スェ ーデン、イギリス︶に一定の儀①ぴ#を与え、これをH卍江巴 ∪Φぴ騨勺。ω一二〇昌と呼び、一方逆の傾向の国︵オーストリア、 ギリシャー、ノルウェー、竺V︶ には、O目Φ傷騨を与え、これを H甑酔巴OH①岳け℃8三〇昌と呼び2Φ什℃o絵瓜。昌の算定にあた り、これを加えて、毎月の実勢を算定した。毎月の累積を舘。〒 日巳騨巴ロ9やOω一当O詳と云う。Oh.ω霞くΦ団O眠C昌博巴ω欝けΦω H昌8毎三元。上巴閏言鋤昌8“一89℃や悼蕗∼刈● 四〇 EPU加盟国の累積純ポジション(債権十,債務一) (100万単位=100万ドル) 1* 1* i** 1*** 1* *****1958
(3月)一 76
一ト1,096 一 271 一 2, 447 + 4, O15 7︶ 5ヨ﹂ * り つり * ︵*1
6︶ 5月 コリ * ︵ *1951
(12月)950
(12月) 国 警 加 283 34 539 364 30e 十一 十 十 一11, f23 129 37 458 006 十 十 91 1, 042 257 1,747 2, 96661QU7G9
ρ0り0114 2 7りQ2 十 61 148 223 396 874 十十 十 十 1, 101 928 207 957 745 275 27 576 441 285 十 20 66 314 366 677 十十 十 十 130. 6 601.5 32. 3 199. 7 36. 0 186. 7 8. 5 十 194.7 50.0 69. 6 十 十 十 96.5 177. 5 141.2 98. 2 471.8 十 十 37. 4 21.8 38. 4 212. 4 356. 7 8QUOJQ﹂100﹂071
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ノ 。ホスストイ * Survey of United States lnternational Finance, 1951t p. 244. *+@国際決済銀行第26回年次報告一拡大する世界経済一 東銀訳,291頁, *** 同 第27回年次報告一伸び悩む世界経済一 間 上,297頁. ****@同 第28回年次報告一一低迷する世界経済一 同 上,290頁,山 ノN 然しながら上述の如きEPU組織による交換性への接近は英国に よって賛成されなかった。英国はポンドが戦前の如く国際通貨とし て優越性を持つ事に関心を抱いた。 此の目的の為、英国はEPUの永続に反対した。それは地域的清 算組織としてあらゆる加盟国通貨に等しい重要性を持たしめたから である。更に重要な事は加盟国はポンドの形で準備を持つ事が許さ れなかった。というのは毎月の通貨残高の変化は同盟に報告され、 既述の如くクレディト及び金で清算されねばならなかったからであ る、此れらの理由の為英国は永続的EPUをもってする交換性への 接近に強い反対を示した。 所で、一九五二年末英国はポンドの非居住者交換性に関心をもっ ている事を示した。それは四七年の考え方と大部分同様であったが 次の如き重要.な相違点があった。先ず ωその為替相場に対する態 ① 度である。即ち五二年英国は四七年に若し伸縮相場がとられていた ら、当時の巨額なドルの衷失は避けられたであろうと考えた。次に ②今や単に中央銀行交換性を樹立するのでなく、市場交換性︵日㌣ 薄雲。o弓興浜三一一受︶一外為市場による交換性 への復帰を成 就する事に関心を抱いた。即ち非居住者は市場により決定される相 場でポンドを売却してドル及び他の通貨を獲得し得るのであ.る。此 の目的の為英当局は外為私的市場を恢復するべく既に対策を講じて いた。即ち、五一年十二月対ドル公定直物相場︵二・ハドル︶は上 西欧通貨交換性への歩み 下夫々%セントの狭い幅の変動から上下夫々ニセントの幅へと拡張 ざれた。そして此の限界内にて、認可ざれた銀行は直物.又は先物市 場で為替取引に従事する事が認められた。 そして英国は多くの金融的に強力な国が非居住者交換性を共に実 施する事を希望した。一方又ポンド交換性実施の代りに、米国及び 国際金融機関による大規模の金融的支持を希望すると共に、EPU からの脱退を要求した。 然しながら前者に関しては米国の賛成を得る事が出来す、又後者 に関してもEPU大陸諸国の冷淡な態度に直面して、英当局はポン ド交換性への迅速な復帰の提案を撤回した。尤も、此の事は英国及 び大陸諸国も共に相互の合理的な利益を考慮せねばならない事を認 識するにおいて、大なる価値をもったのである。従って英国は金融 前線︵h一昌OO一9一 略目O昌陣︶での前進は商業前線︵oo琶毎①H9巴ヰ。茸︶ −欧州内貿易の自由化−での後退なる犠牲のもとにてなされる べきではない事を認め、更に交換性はドル地域に対する制限緩和 即ち居住者交換性の実質的増大 により先行されるべきとい う大陸諸国の提案に応じた。又後者はポンドを以前の如き地位に復 せんとする英国の関心を改ためて認めたのである。 五三年交換性への努力は結実しなかったが、英国.はEPU組織の 重要な改革を企てるにおいて、又交換性の方向へとスターリング組 織を修正するにおいて、極めて高度の金融上の指導権を発揮し、事 実上の交換性︵号車。88ロ︿Φ註び田受︶を徐々に樹立した。 前者から吟味しよう。五三年、欧州域内裁定欄度︵ぎ守㌣国霞。究窪 四ピ 5
西欧通貨交換性への歩み 蟄玄茸帥σqΦ紹ω8B︶が英国の発起により成立したが、かなり技術的 な性質のものであった故大きな注意を惹かず、従ってEPUの性 格に大なる変化を与える事に於いて果した役割は、一般に看過され た。此の制度はギリシャ、トルコを除くEPU国を包含し、参加国 に外為私的市場を樹立する事によってこれ迄中央銀行が行って来た 活動を不要にし、同時にEPUに必要とされた伸縮性が坐る程度導 入された。此の制度の下では参加国の認定為替業者は加盟国通貨を 一定限度内であるが、市場レートにて輸出入業者に売買出来た。更 にそれは現物から先物取引へと拡大された。 以前EPU諸国の為替相場は硬直的に維持され、四二央銀行は公 定相場で決済したが、今や銀行は公定相場で決済をするが、市場相 場は平価の上下夫々%%の伸縮が認められた。 ︵ポンドの場合ドル 相場は上下ニセントの幅となる。︶例えば英国の場合、イングランド 銀行はポンドの対フラン市場相場が公定相場より霧%下落すれば、 ロンドン市場でフランを購入するのであり、逆の時は逆の操作を行 う。従ってEPU諸国の純ポジシ。ンは大部分中央銀行による外為 市場への介入を反映しているにすぎない。そして彼等の支払は外為 市場で行われる様になった。これは同盟の初期の状態とは極めて異 っている。尤も以前と同様、毎月の純ポジシ。ンは各中央銀行残高 の変化より生じたが、その変化は市場相場を維持せんとする行動よ り生じた安定操作の結果である。 今その例を示めそう。一九五三∼五七年にかけてドイツは大なる 出超を持った。裁定制度の下にては、これはEPU国通貨がドイツ 四二 金融センターにて割引いて売却され、一方ロンドン、パリー等にて マルクはプレミアムで売却される事を意味する。ドイツ中央銀行は これらEPU通貨の相場が協定された限界に迄下る時ドイツの市場 でEPU通貨を購入する。逆に例えばパリーにてフランス銀行はマ ルクが上限に達した時、マルクを売却し、しかもドイツ中央銀行と の当座借越契約の利用によりマルクを獲得出来た。此の結果毎月決 済におけるドイツの純クレディト・ポジョンが生じたのである。こ れに反して慢性的債務国であったフランスは、逆に各国中央銀行に よるフランの支持を要求し、又パリー市場にてフランが下限に達し た時、マルク、ギルダー等を供給した。フランスの純デビソト・ポ ジションは此の様な操作の結果であった。 斯くして加盟国はEPU内取引に関する限り、その為替統制を放 棄する事が可能となったが、一方そこ迄進む事を欲しない国は強制 を受けなかった。 以上に加えるに英国は五三年来ポンドを非居住者交換性の状態に 迄もたらす一連の対策を考えた。即ち五四年三月双務勘定地域を廃 し、ポンド、ドル地域外のあらゆる国を振替勘定地域に入れ、五勘 ② 定地域が三勘定地域に統合された。 更にこれ迄暗市場ベースに基き存在して来た振替ポンド自由市場 に保護を加え、五五年二月に対ドル相場の下落を防ぐ為、必要に応 じて振替ポント相場を支えるべく、英国通貨準備の使用を決意し た。不正な取引を可能にする振替ポンド相場下降限界点が、8日− ③ 旨。島曙。・げ¢巨冒αq℃9葺と呼ばれている。
曜 実際五五年末以来振替ポンドの割引は殆んど一%を越えた事がな く、五七年九月以来公定相場の低限︵二・七八トル︶よりかなり上 にあった。此の事は、一方ではポンド及びドル地域外諸国保有ポン ド残高の減少を反映している。此の様な事態がポンド地域の競争的 地位の改善と共に・綿上の交鋒を成就せしめたのであ甑・ 一方英国のかかる処置と共に、他の多くの国々 西ドイツ、ベ ルギー、フランス、イタリア、オランダ、スエーデンは経常・資本 取引の緩和、廃止の方向へと進んだ。即ち豊年住者交換性のみなら す居住者交換性への実質的進歩を示した。 ①交換性を実施した場合、伸縮相場が望ましいというのが一般 的意見であった。特にハーバラーはそれが国内インフレを敏感 に反映する故、安易な政策を取り難い点を強調する。︵○●閏午 げ①二①㌘o℃.9叶こO沁◎︶然し最近でもハロッドはミードの伸縮 相場に反論を加え、間定相場に賛成している。 ︵幻■国四ほ。倉 ↓ぽ①℃o自⇒匹ω9乙ぎσq一一8一∼一8。。”国ω舞葛言H三Φ筥p辞δづ9。一 閃三国鵠oρZo・ωρ諺ロ㎝q﹂一〇㎝。。’娼O・諺∼G。,︶猶、伸縮相場に関 する基本的定義は存在していない様である。︵二男ζ時Φω①拝 日げ①国目臼ぴqぎσq℃⇔#①Bo︷H葺2昌鉾一〇口巴℃身8Φ三ψ国。。u・帥− 毬冒ぎ9旨ωぼ。ロ巴閏冒餌コoρZρ一。。一二嘆一一−一8轟−や霜 hoogo8︶ ブルームフィールドが為替椙場変動の自由の程度 及び為替取引の自由の程度の二面からやや詳細な定義を与えて いる。︵︾■H.しdδOヨ諏巴負ω煽Φ2一引航くΦ窪掛針=σQゴニ≦O<①一 ヨ①三。。o︷○㊤℃搾選言℃oω汁≦碧H箕巳冨江。昌巴閃貯き。①一一8︽ ウ刈。。.︶ 西欧通貨交換性への歩み ②指定地域、振替勘定地域、アメリカ・カナダ勘定地域である 四の註①参照。 ③ドル不足の激しい時期︵特に四九年のポンド切下げ直前︶、 例えば振替勘定地域の居住者は、ポンドを割引いてもドルに変 える希望が強く、又.ポンド地域から商品購入を欲する米国人は 割引かれたポンドを入手する事には勿論同意する。此の場合、 名目的には振替ポンド地域宛に送状を切り、その実、ドル地域 に輸出が行われる事によって上述の取引を行う。此の様にして ポンド地域は実質的にドル地域へ輸出しているにもかかわら ず、ドルを稼得せず、当時、さして必要でなかった.ポンド残高 の返済を受けた。此の歪な操作が88ヨ。象なωプ¢巨冒σQと呼 ばれる。。。①①カ■国■国螢嘆O倉↓げΦ℃〇二昌騒OQ8=ぎひq層お望∼一8cQ讐 oや9ダ冒喝畠悼㎝∼ひbN即麟冒。・げ9霜’oや鼠けごや鵠﹄oo臼。けΦ. ④ ハロツドは上述一九五五年二月の処置をもって事実上の交換 性恢復とする。困幽男.頃鋤霞。負ま達−℃.P刈. 七 上述の如き事実上の交換性恢復に加うるに正式の交換性︵h。目日巴 ooコ<震二一置︽︶復帰の為の計画が進められ、それは五五年七月の欧 州通貨協定︵国霞。も$昌ζo口①Bq>αqH①①日①葺︶に体化された。此 の協定はEPUの割当額が合計五〇%又はそれ以上に相当する国々 が交換性を恢復した場合、効力を持ち、EPUは存在を停止し、その クレディト機能は相当変更を受けるが欧州基金︵国ロ同oOΦ§閃口昌畠︶ によって引継かれ、一方その清算機能は多角清算制度によって引継 がれる。 四三
西欧通貨交換牲への歩み 先ず此の協定にて如何に英国と大陸諸国間の利害が調整せんと試 みられたかを見よう。 先述の如く両者は五四年迄に交換性及び欧州内貿易自由化に関し て既に成就された成果を維持、拡張すべき必要性については意見の 一致を見ていた。又EPUの終結と共に消失するクレディトに代る ものの要求についても同様であり、六億ドルの欧州基金の計画か企 てられた。その目的は金融的援助なき場合、欧州内貿易の制限を行 わざるを得ぬ困難性に薩面せる国にEPUの如き自動的ベースでは ないが、借款を与える事であった。 然しながら交換性実施後の更に進んだ対策に関しては、両者間に は大きな意見の相違が存在した。 英国は欧州基金を支持するにおいて、交換性恢復により欧州内貿 易自由化の制限がもたらされる事を避けたいという大陸諸国の主張 を溝たす為に、相当の努力を払ったと考えていた。特にEPUに代 るものが清算組織をとる事は市場交換性と両立し難いと看駕した。 英国は交換性への移行後清算が不要なものであるという強い意見を 持った。技術的見地より見れば、英国の見る如く交換性は既にEP U裁定制度によって樹立された外為市場にドルを導入するという問 題であった。かかる制度下では周期的決済を行う清算同盟は必要で ない。というのは、清算は裁定取引を通じて継続的ベースで行われ るが、一方決済はポンド等の交換通貨の余剰持分を売却する事によ り、任意の時に行いうるからである。 然し大陸諸国の主張する所では多くの金融的弱国が交換性実施に 四四 加わる用意はないであろうというのであった。清算組織のない場合 かかる国は双務主義へと逆転するであろう。又大陸諸国はポンドを 更に伸縮的にしたいという英国の希望に強い不安を持った。そして 周期的清算は、為替相場変動から起る損失に対する一種の保護を与 えると考えた。従ってEPUの清算機能を同種の多角決済機構で代 置する事なしに消滅せしめる事に不賛成であった。此の様な行詰り が打開されたのは五五年中期に進められたオランダ宮辺筋の巧妙な 構想の導入によってである。即ちEPU後の清算組織に対する英国 の反対は公定相場での決済を避ける様にすれば徹回されるであろう と考え、一定限度内での変動を認める相場にて決済を行う︵EPU の如き強制的清算を行わない︶自主的清算組織を企画した。その優 れた点は交換性通貨を含む場合、周期的︵強制︶清算を行うより外 為市場を利用する方が有利であると考えられた事にある。 オランダの提案はEMAの多角決済制度の基礎となった。それは 欧州基金と共に、交換通貨︵外為市場にて相場ずけられる通貨とし て定義︶と非交換通貨︵相場ずけられない通貨︶を含む事が企てら れた。此の組織が活動する時加盟国は次の義務を持つ。 ω ドルに対する買相場、売相場を樹立する。それは変動する上 限、下限を示す。 ② その通貨の一定額を必要とする加盟国に毎月決済期日間、申 ① 問融資︵一口侍①目一5P h一昌的口O①︶として利用せしめる。 ㈲ 毎月決済にて、その純債椎、債務をドルにて受渡す。 同時に次の権利を持つ。
ω 他の加盟国通貨の獲得より生じた残高を毎月決済する事が認 められる。︵義務はない。︶此の場合、右加盟国のドルに対する 売相場︵下限︶にて︵ドルで︶償還される。 ② 中間融資貸付義務に等しい額迄、当融資を他の加盟国通貨の 形態で引出しうる。翌月決済日以内に同通貨を返却するか、又 は決済日に相手国のドルに対する買相場︵上限︶にてドルで返 済されねばならぬ。 所でEMAはEPUの如く残高清算の義務はなく、又中間融資利 用に関しても自動的なものはなく、かなり自主的性格の濃いもので あり、又毎月快済という魅力のない条件にかんがみ、交換性通貨を 含む清算はEMAの下では殆んど起らないであろうと主張された。 然し此の事はEMAが実質的機能を持たない事を意味するものでは ない。それは市場相場の動きうる限界を知り、且つその限界が可能 な限り小であり、安定的である様に企てる一種の為替相場保証手段 である。 更に注目すべきは、EMAの下での清算はある重要な母野にては 実際は自由意思的なものでない事である。それは交換・非交換通貨 を包含する。非交換国は交換国との貿易の場合、.後者の通貨での敢 引を要求されるであろう。一方彼等相互間では双務支払制をとるで あろう。此の場合、非交換通貨残高が毎月決済されなければ、彼等 相互間の貿易は双務主義へと転換する可能性が大きい。従ってEM Aはかかる残高は毎月各々双務当事国間協定相場でドル決済される べき事を規定する。その結果市場交換性を行わぬ国を含み、あらゆ 西欧通貨交換性への歩み る加盟国に一種の交換性︵毎月中央銀行交換性︶を課す事となる。 結局EMAにより ω一定の限界内で需給により決定される為替 相場にて、ドルに交換する市場交換性制度を可能にし、②大陸諸国 がEPUの終結と共にその消滅を恐れた清算制度が維持されたので ある。 ①EPU発足時の割当額のクレデイト要素の約一〇%に相当す る。例えば英国の割当額は 、〇六〇日芭・単位であった。そ の決済の場合平均六〇%がクレデイトによった。その約一〇% 即ち︵一ケ月最高︶六、四〇〇万ドルがこれにあたる。oh閑・ =一器げ卑≦噛。戸。闇fや悼080ヨ。冨層唱■q。P 八 上述の如く既にポンドを始めとする他の主要諸国の通貨により高 度の事実上の交換性が成就されていた。尤も正式の交換性が恢復さ れたといっても居住者交換性︵西ドイツを除き︶は確立されてい ないのであるから、先ず対ドル輸入制限緩和又は廃止の上、正式の 交換性へと進むべきであったろう。然しそれに先行して実施された のは欧州共同市場に関連してフランスを経済的に強化する為であっ た。その強化の道はディス・インフレ予算と平価切下げ以外に方法 がないと考えられてきた。そしてフランス当局も為替切下げに交換 性回復を伴わせたいと所望し、又ドイツもフランスに金融的支持を ② 与える為の前提条件としたからである。 ともあれ、ポンドは正式にドルと共に二大国際通貨として復位し た。 四五
西欧通貨交換性への歩み 今、英国及び大陸EPU諸国の金及び外為準備の近年の動向を示 すと左表の如くである。 明かな事は特に英国の国際準備の内、金の占める比率が増大した (100万弗)
金・外国為替準備
* 1958 7月 * 1958 3月 1957 1955 1956 1948 2, 200[ 2, 750 360 675 1, 800M,600 774 372 2, 050 106 ,605 404 金掘︷ 外国為替 英 8, 900 6,715 8,155 6, 665 1 7, g7s 6, 625 7,175 6, 250 6, 550 6, 350 3, 550 2, 325大 陸/金
EPU諸国桝国母
IMFほnternational Reserve and Liquidity,1958, p.ユ02. * lnternational Financial Statistics, Jan. 1959, pp. 15−」6. 事である。此の事は西欧通 貨交換性恢復に難き立つ一 ③ 般的傾向であるが、又現在 のそれは金価格引上げ︵従 ってトルの切下げ︶の風評 とも結付いているものの、 ④ 伸縮相場をもってする交換 性実施の場合、硬貨の地位 に上昇した自国通貨の価値 を金で裏打せんとする事は 明かであろう。此の事は国 際金融センターたる英国に とっては特にあてはまるで あろう。 元来英国は貿易差額の逆 調を見えざる項目で補って 来たのであり、現在でもそ の様な国際三子の構造を持 つ。又曽ての金本位制度下 の如く、短期利子率の変化 四六 ⑤ により、迅速に短期資金をロンドンに三農出来ないから、金準備も 相当額必要とされる。ここに英国の今後の苦難が予想されよう。 一方、ドル不足も表面上は後退した様に見え、相当の短期ドル資 ⑥ 産が各国により保有されて来た。然し、最近でも米国の援助額︵軍 ⑦ 事援助を除く︶は年当十六、七億ドルにも達している事は注意すべ きである。ドル不足の危険が、完全に除去されているとは云えな い。 スキャンメルの云う如く新しい体系はドルとポンド、ニューヨー クとロンドンという二重中心支払体系 ︵9巴。自8器山℃曙ヨΦ暮 ω畷ω器ヨ︶であるが、英国が弱い方の中心の役割を政治的、経済的に 果し、ポンド交換性を維持して行くには、米国の不況が避けられ、 西欧各国の経済協力及びその健全な金融・財政政策、及び世界貿易 の拡大が重要な役割を占めるであろう。 ① 昨年十二月恢復せる国は、ベルギー。ルクセンブルグ、デン マーク、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ノルゥェ 一、スエーデン、英国、オーストリアである。^︻国×け①乳材。ロoh Oo薯霞江ぽ一一多、.︷暮Φ寡簿一8巴固舜琴一餌一ZΦ芝のω旧く2﹂琶﹂ o﹂8c。も■poc。.︵邦訳 大蔵省調査月報 四八の二︶ポント交 換性恢復に伴う英国等の措置については﹁西欧通貨の交換性回 復について﹂東銀月報 十一の二 に精しい。 ②=︾昌︾go臨bd冨く①曙︸.、日四国。80日葺一冒pρ一8ρ や=曙,68<霞二σヨ受讐≦o円犀㍉、島#P℃.田二.甫冨Z①≦ O自霞80団国﹁叩≦ず簿評ヨ①⇔冨一、博周ぎき息巴,↓一日Φ90①o. 鵠﹂8c。讐や心.︵邦訳 大蔵調査月報 西八の二︶③﹁見直される金﹂産経新聞三四年三月五日。 ④殆んどの通貨は上下合計3%の伸縮を許す。。︷...O。ロ<2叶竿 び一=蔓讐ミ。蒔曽、.円げ。国ooコ。目♂計。℃■o罫噛噂.田・ 邑 ⑤ 国.芝●℃9。一ωF日げ①Z①妻OO己ω8コ匙oa層一〇田も.㎝噛 ⑥円上峯。でωε。置↓冨H導①∋餌ユ8巴○。邸εωo︷浮Φ∪♀ =9ひ国。。。。9。岩ヨH暮①ヨ⇔けδロ旺国轟琴PZ9悼cQ。拙稿F・H ・クロプストック﹁弗の国際的地位﹂彦根論叢 四四 参照。 ⑦一九五六年は約十七億ドル、五七年は約十六億ドルである。 ω$菖ω江。巴︾び。。自9。90︷爵①d昆8餌Gっ邸け窃=8c。響憲■。。ひρ cQ刈9 ⑧<﹃﹂≦.QQ$日目Φ=”目土①国舜は8亀竃8Φ貯q勺。=。ざ。や 9梓ごや悼綬■