三三四
保険 集団 の 本質
西
藤
雅
夫
私はさきに︵本誌、第三十五号・三十八号・四十五号︶保険集団のもろもろの性格について、論述を重ねて来た。すなわち、 そこにあって私は、いわゆる保険協同体理論を中心として、これをめぐる諸学者の見解とくにロールペック︵毒・國魯〒 宮盛︶とワインライヒ︵]日’ 司ぐΦ一︼P厚φ一①犀︶との間の論争点を明らかにし、それによって、集団としての保険団体の意義を究明 しょうとしたのである。 これについてわれわれは、まずこれらの老え方が、どちらかといえば経済学としての本来の問題から離れて、社会学の 領域にまでふみ入りすぎているのではないか、ということに反省しなけれぽならない。いなむしろ、これらの学者は、当 時のいわゆる全体主義的政治思想に支配されて、保険学の課題は、ひとり経済学部門にとどまることに満足せず、進んで 社会学的考察にまで及ぶべきことを強調し、その点に於て、新しい保険学の建設を企てる野心を示した、とも見られるの である。 わが国に於ても、保険学のこのような方向は、いちはやくとり入れられて、保険本質論はもっぱらこれによって代表さ れる勢いを示した。保険を貯蓄に協力せしめようとする国の政策から見ても、このことはまことに好都合であったのである。のみならず学問の分野に於て、国民経済の協同社会的任務を、むしろ保険の側から強調せんとする意図も、くみとら れないわけではなかった。 もとより、戦後、全体主義的思想の排除によって.この種の保険学の課題はあとかたもなく消え去りはした。今日私が 再びこれを論じようとするのは、やや時を失した感がないでもない。しかし、およそ保険学が経済学たる限りは、その経 済学たる本質をつねに反省することが、その学問の基礎であり不可欠の要素である。そういう点から、ここに私は、保険 学の立場に於て保険集団の本質を吟味し、既に述べたところの結論としたいと考える。 二 およそ集団は、その構成を問題とする限り、これを形づくる個人の人格的結合として考察されるはずである。このこと は、生活の基礎が、ゴットル︵円く●Q。“苧O算巨㊦臥①δがいうように集団そのものにあるとしても、もしくは個人に求めら れるとしても、同じでなければならない。そこで、その結合の形式がどのような性格を持つかがまず問題とせられ、ジン メル︵Q6盗白蒙δやテンニース︵円日給巳Φ。・︶の異色ある見解が注目せられるのである。 ところでテンニースの考え方は、単に集団一般に関してのみならず、特殊の集団としての保険団体についても、ぎわめ て注目すべぎものを示している。元来彼の理論の特徴は、集団構成の形式を、いわゆる協同社会と利益社会との二つに分. つ点に求められるが、いまこれを保険団体について見るとき、前者の性格が認められるというのである。あたかもこの見 解に呼応して、ロールペックは、倫理的意味を強調しつつ、保険の協同社会的性格を明らかにしょうとする。この種、の企 ては、彼をめぐる多くの学者に於ても、程度の差こそあれ、一様に見られ・るのであるが、その点からのみ見れば、ワグナ ー︵b・ 貞簿σq旨O目︶にも夙にこれを窺うことができる。それについては既に述べたところである︵前掲、第三十八号︶。 保険集団の本質︵西藤︶ 三三五
三三六 さて、協同組合とこれに対立する利益社会とは、テンニースにあっては、集団構成の形式であるとともに、むしろ集団 構成の要素であり、その意味で構造範疇として考えられている。しかし、・ここに注意すべきは、彼はむしろ悲観的態度で これを明らかにしているということである。彼が、利益社会に対する協同社会の優越を認め、利益社会から協同社会への 復帰を願いつつ、これを考察したにもかかわらず、彼の冷静な分析の結果は、この願望にむくいるところがなかった、と いい得るのである。後に至ってナチスが彼を遇すること冷やかであったといわれるのは、このような態度に由来すると見 られよう。 ともあれテン昌ースに於ける集団構成の理論は、保険に於ても特異のものであったことは否めない。しかるにこれに対 して、ロールペックを始めとするいわゆる協同体理論にあっては、いずれかといえば、この冷静さが棄てられて、ただ熟 情的に協同社会が高揚せられているように見える。そして、それが保険のいわゆる社会心理学的観察であると自讃せられ るのである。われわれは、その当然の結論として、保険団体の構成について倫理性の強調があるのを認め得るであろう。 ところで、既にテンニースに対しても、その見解が写歴史的であるとの批判が加えられるのであるが、そのことはさらに 適確に、この協同体理論にもあてはまる。 このような見解に対立して、ワインライヒは、内にドイツ国民としての情熟を秘めつつも、外には冷静に理論的分析を 重ねて、保険団体の構成に関する歴史的考察を進めたのである。この見地から、彼が利益社会を敢然として主張したこと は、当時の政治思想の抗しがたい潮流から考えて、まことに注目すべきことがらというべきであろう。この点に減ては、 ワーゲンフユール︵国’司餌αQ露旨ξ︶もまた同様の立場にあるといい得るのである。 三
いま、これらの学説の吟味を進めるうちに、一つの興味ある事実が知られるであろう。それは、保険団体の構成につい ての協同社会理論と利益社会理論とが、ともにいわゆる危険団体の技術的関連に着目しているということである。もとよ り技術的関連たる危険団体の構成は、保険の本質の一面をなすものではあるが、別の機会に既にくり返し述べたように ︵拙著、保険掌新論、第一編、第二・三章︶、それが本質を形づくるのは、それと不可分の関係にあるところの、いわゆる保険の 効用との結びつきによる。しかるにこの技術的関連が、一方の見解では倫理性の強調のために協同社会として考えられ、 他方の見解では、相互利益主義の作用を肯定する結果として、それが利益社会と見られているのである。 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ このように、同じ基礎的事実について全く相反した性格が主張せられるのは、私見によれば、一に、かくあるべき理想 ヘ ヘ ヘ ヘ へ の追求と、かくあるところの事実の分析との、立場の相違によるものである。さきに述べたところで明らかなように︵前 掲、第四十五号︶、協同体理論とくにロールペックのそれにあっては、存在︵ωΦ言︶よりはむしろ当為︵ω邑。u︶として保険団 ヘ ヘ セ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 体が問題とせられる。すなわち、保険集団は協同社会として既に具体的存在であるが、それはあるがままの存在というよ りは、あらしむべぎ存在であり、その意味では一つの目標︵日日〇一孤Φ岬困蛋昌σq︶を持つものとせられる。そういう当為の性格が強 調されるに対して、その反対論者にあっては、むしろ単純に存在としての意味が主張せられるのである。 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ しかし厳密にいうと、いわゆる協同体理論では、つねに当為としてかくあるべぎ保険団体の構成のみが、純粋に問題に セ ヘ ヘ へ せられているとは見がたい。とくにロールペックにあっては、これと存在のかくある保険団体との混同が、随所に窺われ るのである。極端にいえば、彼がはたして正確に保険の経済的本質を把握しているか、むしろ疑問とさえせられるであろ う。私見によれば、この混同が不用意になされるゆえんは、保険団体そのものの構成と、保険団体が拠って立つところの 国民経済との関連が、彼に於て明確でないからに他ならない。 なるぼど今日まで、多くの学者によって、国民経済の協同社会的性格が説かれて来た。それはいわば国民協同体である。 保険集団の本質︵西藤︶ 三三七
三三八 そのことを、いま私は問題としているのではない。しかし、この国民経済は、今日の構成に於ては、完全に協同社会であ るとは断じがたい。われわれは、何事にあれ、にわかに結論を下してはならないのである。それに至るまでには、いろい ろのことを冷静に、精細に分析・吟味しなければならぬし、理論を血汐のままに走らせることを慎むべきである。 もっともロール、、ヘックといえども、結論に飛躍したわけではない。彼自身がいうように、いわゆる全体主義的思想が支 配的であった際にも、すべて利益が否定されたのではなかった。むしろ、否定することが本質的に不可能であったのであ る。いわば、それにあっては、協同社会的色彩がきわめて顕著であった、というにとどまる。 いったい協同社会の本質が、単にその構成員が、一致して相互にその生活を扶助しなければならぬという程度のもので あれば、それは、ひろくあらゆる構成体について見られることであって、あえて協同社会を主張する根拠とはなり得な い。もとより保険団体も、この相互扶助の性格から離れるものではなかろう。しかし、いまそれを直ちに、保険の本質と はしがたいのである。このような集団の構成は、ひつぎょう、その集団の秩序を保つための保身的利己主義以外のもので はない、とさえ考えられる。ワインライヒがこれに論争するところも、またここにもとずくのである。 いま、そうであるからとて、われわれは、保険が国民経済に参与し、かつその構成の一部として貢献するという機能を 全く無視するものではない。ただ国民経済が、ある時代に於て、いわゆる全体主義思想のもとで、協同社会としての性格 を強く与えられることとなっても、もしくは民主々義的思想によってこの規制が解かれても、それは決定的のことではな いのである。保険もまた一つの産業として、一国全体の産業発展に寄与し、国民生活の向上に貢献するように、いわば国 の目的・理想の方向に合致するように、保険として持つ独特の使命.を果すことは、これを否定し得ない。 私見によれば、このような場合に、直ちに保険が協同社会的性格を持つと考えることは、断じて許さるべきではない。 保険は、保険としての効用を持つ。この効用は、ある点に於て保険の本質を形づくる。そうであればこそ、今日までの保
険学説の発展に於て、この効用の立場に立つところの見解が支配したのである︵拙稿、保険本質論の展開輪小島昌太郎博士古稀 祝賀記念論文鳶口の他、拙稿、保険学説論、本誌、第二十六号及び保険学の立場、保険学雑誌、第三九〇号参照︶。 ところが反面に於て、 この効用は特定の技術によって実現する。いまこれら効用と技術の二面が、不可分に結びついて形づくる機構をとらえ、 しかもその機構が保険企業によって支えられると見るとぎ、その機構が保険の本質を意味するのである。 保険学説が効用に執着するのに反対して、技術に着目してこれを強調することは、そのこととしては意味を持っている であろう。しかし、その技術がいわゆる危険団体に去て行われるという点をとくに問題として、この危険団体を保険の本 質とすることは、理論として行ぎすぎている。しかもこの危険団体を、直ちに社会集団と考えることは、概念の混乱以外 の何ものでもない。それをわれわれは、いわゆる協同体理論に見出すのである。 保.険の本質たる機構は、もとよりそれに於ける人格的結合に眼を注いで、これを保険団体として考察することはでぎる。 その二合にこの保、険団体が利益社会の性格を持っても、その機構によって国民経済の構成に寄与することには、いささか の誤りもない。国民経済への貢献は、必ずしも、保険が協同社会たることによってのみなされるものではあり得ないので ある。われわれは、保険がよって立つところの国民経済が、たまたま協同社会的性格を持ち、またそのために倫理性が要 求せられるからとて、保険そのものについても、直ちに同じ結論を下してはならない。ここに、保険からは何らの哲学を もみちびき出し得ないというワーゲンフユールの言葉を、深く味わうべぎである。 ①国。げげ8貫貞・冒くΦ匠⑬げ醇雲量。・σq露①ぽ。・。匿津&霞く①目ω陣§Φ器量ξ曉ざ国﹄.働・σ竜.<1宅・L80噛尊摩曾8c。■ ② 類、塑σqΦ冨まぽ♪国噛■均.ぽ駐魯鑑爵。置9留ロく霞ω皆酎霞燭巨σqの周。。・Φ冨。・“一8cQ“ωのω’ 四 保険集団の本質︵西藤︶ 三三九
三四〇 右に述べたように、われわれは、国民経済とそれにもとずいて成立する保険団体との、二つの構成体の性格を関連せし めつつも、あくまでこれを混同してはならない。まして、協同社会と利益社会とは、集団の構造という点に於ける、いわ ば要素または範躊にすぎぬのであって、それがそのまま具体的に保険団体に表現される、と見るべきではないのである。 いわゆる保険協同体理論は、ただ国民経済と保険団体との右のような関連についての、政治思想ないしは政策理論と解釈 する揚合にのみ、意味を持つものと考えられる。そしてそのことが、まことに皮肉なことには、協同体理論に反対する見 解に於て、むしろ真比尽とせられ、また首肯し喚べきものを示しているのである。 いったい構成体としての保険団体が、協同社会であるか利益社会であるかという問題については、ここでは厳密な論断 に固執する心要はない。いまかりにそのことが可能であっても、このような考察は、決して保険団体についてのみ、特別 に問題とせられるはずはない。けだし、それは、保険団体を一つの集団として、換言すれば社会構成体として、.もっぱら 社会学的立場から問題とした結果であるからである。 保険団体に関する右のような社会学的考察は、もとよりそのこととしては、無意味であるはずはなかろう。しかしわれ われは、それに先立って、むしろそれの経済学的考察を進めねばならないのである。右に触れたように、保険は、経済生 活の確保という効用をみたすものとして、他面それ自体の技術にもとずいて、機構として形づくられる。この機構が、た またま別の見地から、社会学的構成体として考察せられるのである。観察の立場は、それぞれ相違している。けれども、 その社会学的老尼の対象たる保険の構成体は、経済学的考察の対象たる保険の機構を離れては、もともとあり得ない。つ まり、前者は後者の存在によってのみ成立することを、われわれは忘れてはならないのである。 ところでこの機構は、これを作り上げる加入者の人格的結合という点から、保険団体として、いわば社会学的に考察せら れるし、またこの結合の関係をとり上げるとき、保険関係︵<①琶魯霞§σ。、。・く¢筈覧訂δ︶として考察せられる︵前掲、第三十五号︶。
この保険関係は、もとより多数の加入者と保険企業との闇の、契約によって結ばれた全体としての関連であるが、既にそ の時に於て、それは一つの経済的仕組みを形づくっている。それが本質としての機構に他ならないのである。 そこでいま、そういう保険関係に着目しながら、保険団体の構成を考えることは、もとより論理的に可能であり、保険 学としてたしかに意味を持っている。しかしその聯合にも、問題は、つねに保険機構の分析と無関係たり得るわけではな い。かるがゆえに、保険の社会学的考察は、考察の種類としては別のものではあるけれども、もともと経済学的考察を離 れては成り立ちがたいのである。 五 さて集団たる保険団体が、ロールペックがいうように、加入者とは別個の主体としての存在であるか否かは、いまここ では、問題ではない。ここに問題となるのは、この保険団体が多数の加入者によって形づくられ、しかもこれら加入者が、 国民経済上の生活主体であるということである。彼らは、それぞれの計慮に於て経済生活を営むのであるが、その計慮の 一つとして保険関係に結ばれ、ここに保険団体ができ上る。 この計慮はもとより各自の創意にもとずいてなされるが、とぎとしては、さらに大ぎな国の意志によって導かれ、もし くは制御せられることがある。ここに計画ないしは統制経済が成り立つであろう。しかしその場合にも、個人においてこ の計慮が存在しないのではなく、実は国の意志を、各自の意志のうちに受取り、それによって計慮がなされるのである。 いまもし、協同体理論のいうところにならって、個人の経済生活の国民経済に対する奉仕、という言葉を用いるとすれば、 それはこのような意義を持つであろう。 いずれにしても、国の意志の発動の有無は、 一に国の政治的立場から決定せられることがらであって、経済的老察とし
保険集団の本質︵西藤︶ 三四一
三四二 ては、ただ保険団体の形成が、加入者の聖慮によって可能となるということか.ら、まず出発しなければならないのであ る。もとより政治と経済とは不可分であり、また政治が経済を指導することが顕著であろうけれども、やはり両者は、本 質的に区別せられなければならない。保険の経済理論は、政治理論であってはならぬのである。 ところで、加入者におけるこの計慮は、保険団体の構成の側から修正を受ける、 ということに注意しなければならな い。ここに、保険の技術の作用が認められる。すなわち保険料は、いわゆる大数の法則のもとに、保険金との対応的関連 によって算定せられ、加入者みずからの計慮のもとに必要とする保険金の大いさは、彼が負担すべぎ保険料の大いさを決 定する。この負担について、加入者は、ひるがえってみずからの計慮をたてることとなる。保険料と保険金の両面、すな わち必要額と負担額の二つのにらみ合せという点に、加入者の側の計慮と創意が働きかけるのである。 この思慮の相手方となる者は、いうまでもなく保険企業である。この企業もまた、経済主体たる立場に於て独自の万慮 を持つが、いまこの輔導が、右の保険の技術を意思する。かくて保険の技術に現われるところの保険企業の計慮と、これ に修正せられる加入者の計慮とが、相互に対応し作用しつつ、保険の機構を作り上げるのであり、そこに人格的結合とし ての保険団体が形成せられることとなる。 かるがゆえに、保険の機構は、経済主体としての保険企業と、これをめぐる多数の加入者との聞に形づくられ、その点 に於て、人格的結合としての保険団体は、ことさらに主体と認むべき性格を帯びていない。われわれは、しいてこの保険 団体に、主体たる意義を求める必要はないのである。いまもしこれを求めるとすれば、それは、この機構を支える保険企 業の他にはあり得ぬであろう。国の意志がこれにいかに働きかけても、国自体が保険企業とならぬ限り、国もまたこの保 険団体たる経済主体となることはできない。いなその置合でも、保険団体は決して国自体ではあり得ないから、この保険 団体を経済主体と考えることは、理論的にはやはり許されがたいところである。
一
A
右に述べ来ったように、保険団体の構成に去て、加入者の計慮の相手方となみものは保険企業である。これを裏返して 保険企業の側からいえば、加入者の五霞を離れては、保険企業は企業として成立し得ない。ただ加入者に於ては効用の側 から、保険企業に於ては技術の側から、それぞれ保険関係を構成し、その保険関係が人格的結合として保険団体と考えら れること、既にくり返したところである。 この意味では、保険団体としての主体は、これを加入者に求めること全く不可能ではないであろう。しかし、それは一応 や のことであって、本質的には擬制︵翌匪自︶に他ならぬのである。保険団体が抽象概念ではなく、一つの具体的存在である としても、それの意志や責任や計慮が、すべて加入者にあるわけではない。既に明らかにしたように、加入者もまた逆 に、保険企業のそれらを離れて存在し得ない。かくして経済主体たる保険企業と加入者とは、相互に対立的に、かつ不可 分の関係に於て、いわば中心︵保険企業︶とそれをめぐる円周︵加入者︶として、保険団体を構成するのである。 このような構成から見れば、保険団体と国民経済とは、もともとその意味を異にする。もとより国民経済にあっても、 国は経済主体として存在し得るし、その場合経済主体たる多数の企業や馬入を、その周囲に不可分に結びつけてはいるが、 その結合は、決して対立的であるとは限らない。すなわち、つねに利害相反し、本質的に相反した利害の調和の上に、国 民経済が成り立つとのみ考うべぎではなかろう。 国は、ここでは企業や個人をみずからの一部として、それらを統一するという立揚に立っている。国が経済主体である といっても、みずからが企業として経営を行う揚合を除いて、実は、行政主体としての表現に他ならぬのを、われわれは 忘れてはならない。国民経済に協同社会的性格を認めるとすれば、そういう意味に於てのみ可能であろう。保険集団の本質︵西藤︶ 三四三
三四四 ここで国民経済を、一群の学者が主張するように、純粋に協同社会と見ることをかりに許す乏しても、この協同社会た る国民経済にその基礎を持ち、それの部分として奉仕するところの保険団体は、そのゆえを以て直ちに、協同社会の性格 を主張し得ない。いまもし、協同社会と利益社会との弁別をこの保険団体に求めようとすれば、それは明らかに利益社会 として理解せられる他はないであろう。けだし、それの構成員たる加入者は、今日の経済組織のもとでは、すべて各自の 責任に企て、その経済生活を確保しなけれぽならないし、その意味では各自の正当な利益の達成のために、したがって他 面、他の主体の利益をも尊重するという態度で、多数人の結合を企てる。その結合は、保険に於ては、保険企業によって 支えられ、具体化せられる。そしてそのことは、私がくり返し保険の機構と名付けるところの、特殊の経済的関連による のである。 さて保険の機構は、保険料と保険金との資金交流の関連である。この交流に於て、保険企業と加入者とのそれぞれの計 慮が、相互に対立的に、いわば利害を異にして結びつけられる。この利害の対立.という点に於ては、保険もその他の経済 部門も、別段に異るわけではない。保険が保険として特殊の経済部門をなすのは、ただその保険機構が、保険企業の特殊 の技術過程によって支えられることによる。 このようにして、私見によれば、集団としての保険団体の本質は、経済学的考察としてのみ、すなわち保険機構の分析 によってのみ、明確にせられるのである。それは、単に加入者の結合の関係を問題とする社会学的考察や、いわゆる社会 心理学的考察では、これを捉えがたいことを知らねばならない。とくに、この社会心理学的考察は、私が加入者の計慮と 右に呼んだものをとり上げたにとどまり、それは経済学的意味に於ては、保険の本質の一面たる効用を、別の表現に於て 問題としているにすぎぬのである。
七 もともと加入者の側から論ぜらるべき保険の効用は、逆に、保険企業の側から論ぜらるべき保険の技術によって可能と なり、さらにこれを裏返して、保険の技術は保険の効用によって成り立つ。この二面的考察を措いては、保険の本質は正 しく捉えられない。保険本質論は、それゆえに、つねに二面的性格を持つといえる。もとより二面は、それ自体不可分の 関連にあること、改めていう必要はない。 このような二面不可分の保険の本質こそ、私がとくに保険機構と名付けるものである。かくして保険の本質を問題にす る経済学的考察は、社会学的考察を以てこれに優先せしめんとする企てとは反対に、むしろ私の見るところでは、この社 会学的考察そのものに対して、基礎的に優位に立つこととなるであろう。保険の集団性ということは、それが社会学的見 地からとり上げられる限り、やはり歪んだ一面的考察にとどまると、考えねばならなくなる。ことに、それが政治思想に 強く支配された結果であるとすれば、われわれはまずそのことを反省せねばならないのである。 ︵一九五八・七・三一︶ 保険集団の本質︵西藤︶ 三四五