登科以前の王昌齢(下その二) : 王昌齢評伝・四
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(2) 127. 登科以前の王昌齢(下 その二). 「葉を落とした桑の木に名残のセ-が鳴-、陰暦八月の粛関の道。. キストとして唐の丙挺章の. のイメ-ジを重ね合わせて用いられる。 第七句、「美学」は、『国秀集』. 騎射を重んじ、少年. 『楽府詩集』. 馳逐を好む」. に作る。和刻本『王呂齢詩集』. (砂)老」. に作るけ. は、砂漠。辺地で. 『王昌齢詩集』諸本では、. 「遊」. 「潜」. しては、先の曹植の詩にも見えたように「遊侠兄」が1般的であろう0. られるが、意味は同じ。『文苑英華』は「遊侠人」とするが、言葉と. の結びにふくらみが生まれよう。「遊侠見」の. にも作. りも、遊侠の男伊達を真似ようとする若者達を想定するほうが、作品. 「莫作」に作る。ただ、この場合、実際に遊侠となってしまう若者よ. および. の戦争は砂漠が舞台となることが多かったところから、しばしば戦場. れども、『国秀集』『楽府詩集』に従った。「沙場」. 『王昌齢詩集』および『全唐詩』では「皆共産沙. 「井幽谷」に作るのは、誤り。第六句、「皆向沙場老」は、『文苑英華』. 家詩本『王呂齢詩集』は「井幽」. 幽井を推す」の記事が見られる。なお、明の黄貫曽編の唐二十六. と詠う。また、『障害』巻三十・地理志にも「古より勇侠を言う者は、. 「擬古詩」八百・其二で「幽井. 郷邑を去り、声を沙漠の垂に揚ぐ」とある。降って南朝宋の絶照も. ほとり. 「白馬篇」に「借問す誰が家の子ぞ、幽井遊侠の児なり。少小にして. 北省全域と山西省北部)で、その風俗は任侠を好んだ。魂の曹植の. 第五句の「幽井」は、幽州と井州。戟国時代の燕趨の地(現在の河. 第四句、「虞虞」は、「ところどころ」ではな-、「いたるところ」. となって. 国境を出、また国境に入れば、至るところ黄ばんだアシの叢。」前半. いるので、ひとまずこれに従う。なお、『文苑英華』. 『国秀集』を見ると、「復入寒」. 四句のこの生気のない、沈んだ情景描写を受けて、詩の後半は、遊侠. 州首を通じて流れる、厭戦的な感情が読み敬. 朽ちてゆ-。若者よ、そんな無頼の生きざまをまねて、栗毛の駿馬の 自慢なぞせぬものだ。」 れよう。. 少し煩墳になるが、語釈を添えてお-。この作品、『楽府詩集』 みが「塞上曲」と適するo第1句の「空桑林」は、秋になって葉を落 とした桑の林。高適の詩に「九月桑葉基」(「宋中」十首・其三)と詠. に作るけれど. われるように、内地では晩秋に葉を落とす桑であるが、辺地の秋は早 い。『楽府詩集』と『王呂齢詩集』の諸本は「桑樹間」. も、『文鏡秘府論』南巻・論文意に、この句を「蝉鳴空桑林」として 引いている。詩語としても「空桑」がよいであろう。これに従う。 『文苑英聾』が「空桑麻」に作るのは誤り。似た描写句としては、古 詩十九首・其七「秋蝉鳴樹問」、漢の博玄「雑詩」の「嘩鳴高樹間」、. 「山嘩競枯桑」、. 魂の王粂「従軍行」五首・其五の「寒蝉在樹鳴」などが挙げられる。 また、同時代の作品からは、李白「江上秋懐」詩の. 常建「古意」の「蝉鳴白楊樹」など。第二句、「粛閲」は、寧夏回族 自治区の固原県付近にあった関所の名。関中四関の一つとして知られ. や. は. る。琴参の有名な「胡茄歌迭顔真卿使赴河瀧」詩にも、「涼州八月粛 開通、北風吹断天山草」と詠われている。 『全唐詩』 「寒」字は活きてこ. 第三句の「復入寒」は、『王呂齢詩集』の諸本および は、「入塞寒」に作る。前半の情景描写の中では. 意。 皆. いる。「苦から幽・井育ちの任侠の男たちは、みな砂漠の戦場で老い. などが「入寒雲」に作るのは、第四句との繋がりの点で感心しない。. ようが、ただ、「塞」「寒」と似た文字が重なるのが気になる。古いチ. LTg. を気取って戦場で老い朽ちてゆ-、北地の若者達への警句で結ばれて. の で. の. が. 岡田.
(3) 126. 「紫騒馬」と題する 「十五従軍征、-」. 白骨ばかり。」. すでに述べたようにこの詩は、『国秀集』では. 「望臨挑」と題され. ており、これをもとに中国の研究者達の多くは、昌齢の辺域旅行中の. 作と考える。また、そこには無意味な戦役に反対する、彼の非戦の思. 想が窺われるとされる。確かに、旅行中の作という可能性については、. まねて得意気に紫騎馬を乗り回す若者に、辺境を守って老いてゆ-幽. と断定できる証拠は見当たらない。ただ、そこに彼の辺塞体験と思想. で指摘するように擬古的・類型的な表現が多く、眼前の実景を写した. 否定できないものがある。しかし、作品中の情景描写には、後の語釈. 井出身の兵士達を見習うよう説いたものと取る。しかし、「紫瑠馬」. を読み取るべきか否かという問題については、他の作品や資料と絡め. 1九八十年三月十五日号掲載)は、この後半四句を、遊侠を. から連想される従軍のイメージ、作品全体にわたる沈んだト-ンのい. みすか. 馬に飲って秋水を渡れば つめた. 水は寒く風は刀に似たり 日は未だ没せず hソんと・つ. 黙々として臨挑を見る いくさ. 意気は高しと. 昔日の長城の戦 成言えり. 今古に足り. 蓬葛に乱る. 桔うこ・つ. 「飲馬長城窟、水寒傷馬骨」にもとづいてい. 挑県)とする新説を主張する。また氏によれば、後半第五・六句に. FiI. 吐蕃の十万の大軍がこの地に侵入した際、醇荊・王唆らがこれを迎え. よう。日没近い砂漠の地平に、暗く浮かび上がるのは臨挑の街。思い. その二). 「昔日長城戦、成言意気高」と歌われているのは、開l空一年(七1四)、. 登科以前の王昌齢(下. 岡田. 起こせば長城での戦いのおり、兵士達の誰もが口にした勇ましい言葉. 録』第八集)は、この作品の「臨挑」を唐の臨挑軍(現在の甘粛省臨. がある。ただ、これに対して劉満「唐詩地名"臨挑″塀正」(『学林浸. た時、ここを起点としたという。『史記』巻八十八・蒙惜列伝に記事. 説によれば、甘粛省眠県の地。秦の始皇帝が将軍蒙情に長城を築かせ. 城外、日没更煙塵」の句が見える。「臨眺」は、これまでの一般的な. 「錯綜」は暗いさま。唐の高適の「前門行」五首・其五にも、「轄賠長. を確認することは難しい。第三句、「平沙」は平らな砂漠。第四句、. る。したがって、擬古的なこの表現の中に、旅人としての王呂齢の姿. 陳琳「飲馬長城窟行」の. この第二首冒頭のl聯は、印象的な描写句ではあるが、実は、魂の. とにしたい。. ての説明をすませた後、続-作品の紹介・分析の過程で論じてゆくこ. て、さらに掘り下げてお-必要があろう。以下、第二首の語句につい. 水寒風似刀 平沙日末没. 4祭器見臨挑 昔日長城戟 成言意気高 黄塵足今古. た. 「馬に水をやって秋の河を渡れば、水は冷たく、風は身を切る刃の. 8白骨乳蓬蔦. 平沙 みな. 白骨黄塵. -飲馬渡秋水. さて、第一首に見られた特徴は、次の第二首では一層顕著になる。. ずれから考えても、無理な解釈であろう。. 夏目報』. お、唐韓「莫撃井伏兄、斡誇紫騒好. に作るのは誤り。な 騒」の句が見られる。『王昌齢詩集』が「紫騒」 -王呂齢A塞下曲>,賞析」(『寧. の歌。唐の楊桐にも「紫噺馬」の詩があり、「侠客重周遊、金鞭控紫. 歌辞があり、古辞は「代扶風主人答」の項で挙げた. 第八句、「紫騒」は、赤栗毛の馬o駿馬。楽府に. -。だが、絶える間もない戟塵のあと、原野に乱れ散るのは無.
(4) 125. 以上の語釈で明らかなように、この作品も、強い擬古的・典型的性. その二). 撃ち、大敗させた事件を指すという。もしそうだとすれば、作品と現. 格を帯びている。したがって、作者の生の体験・思想につながるもの. 登科以前の王昌齢(下. 実の事件との接点が確認できるわけであるが、そこまでの特定はやは. をその奥に探ろうとする試みは、当然大きな困難と危険を伴う。しか. 詔を甘泉宮に奉じ. みことのhソ. あったことを示しているからである。. こうした楽府題の辺塞詩が、作者の現実的な感慨や思想を詠う場でも. ぼ肉声に近い響きで、辺塞問題に対する呂齢の主張が語られており、. 逆にまた危険と言わざるを得ない。というのは、この第三首には、は. するならば、彼の体験・思想の作品への反映を否定してしまうことも、. り難しいであろう。楽府詩の擬古的な表現傾向を念頭に置けば、むし. 第五句の「昔日」は、『河岳英霊集』では「雷昔」、『国秀集』 「昔日」に作る。また「長城」は、『楽府詩集』では「龍城」に作るが、 前句の「臨挑」との関連性を考えれば、「長城」がよいであろう。な お、先の劉満氏の説によれば、この「長城」も万里の長城ではなく、. -奉詔甘泉宮 穂徴天下兵 朝廷備穫出 4郡国務郊迎. 総て天下の兵を徹す. め. 臨挑県の北の長城歴を指すという。第七句、「黄塵」は、黄土、黄色 い土煙。ただ、初盛唐期の用例を見てみると、楊桐「戟城南」詩の 「千里暗黄塵」、杜甫「東屯北嶋」詩の「戟地有黄塵」、同「公安送章 二少府匡賛」詩の「時危兵甲黄塵裏」など、戦闘によって巻き起こる 砂塵、戦塵のイメ-ジを重ね合わせて用いられることも少なくない。. 去者無全生. 紛紛幾常人. 塵の意味に取ってお-べきであろう。「足今古」の「足」は、『河岳英. 臣願節宮厩. 中国の研究者達は、おおむね前者の意味に従っているが、ここでは戦. 霊集』『国秀集』『楽府詩集』『王呂齢詩集』いずれも「是」に作る0. の誤記と の注記. 宮厩を節にして. 毒ゆ・つ幸ゆ・つ. 分かちて以て辺城に賜らんことを. 臣は願う. 去れる者は生を全うする無し. 紛紛たり幾万の人. 予め郊迎す. あらかじ. 礼を備えて出し. いだ. すべ. 本編には見られず、拾遺に収められる。第1句、「奉詔」. は天子の令. 『全唐詩』では四首の第三首として載るこの作品は、『王昌齢詩集』. 主上よ、何とぞ宮中の養馬を減らし、辺城の士卒に御下賜-ださい。」. だが、紛紛と続く幾万の大軍も、この地を去って命長らえる者はない0. 廷は丁重に礼を備えて送り出し、郡国はあらかじめ郊外に出迎える。. 「甘泉宮で詔をうけたまわり、天下の兵をことごと-召集する。朝. 8分以賜連城. では. これに従うのが順当であろうが、度重なる無益な戦闘を厭う気持の反 映としては、『全唐詩』の「足」の方がよい。「是」を「足」 考える、李雲逸民の説に敢えて従ってお-。なお、『全唐詩』 は、lに「漏」に作るともいうOまた、『楽府詩集』には、この句の 下に「一作黄沙漏今古」の注がある。第八句の「蓬鳶」は、「蓬」も 「蕎」もヨモギ。ヨモギなどの生えた草むらDこの最後の1句は、魂 の曹操「篇里行」の「白骨露於野、千里無難鳴」、王薬「七哀詩」 「出門無所見、白骨蔽平原」などの句を踏まえる。. の. 郡国朝廷. 思われる。. し、先の「代扶風主人答」の存在に加えて、次に挙げる第三首に注目. (1). ヽ. ノ■. ろ、蒙惜の故事に基づいた「臨挑」「長城」が詠われているようにも. 岡田.
(5) 124. を受けること。「甘泉宮」は漠の宮殿の名。もと秦の離宮であったの を漢の武帝が増築し、避暑地とした。唐詩においては、李白の. 「備樺」は、礼儀を備える。朝廷が礼式に則って手厚. 吟」などの例を見ると、堀山の離宮である華清宮を指して用いられて いる。第三句の -送り出すことをいう。第四句、「郊迎」は、郊外まで赴いて丁重に. 「東武. とする姿勢の内には、彼の他の辺塞詩に通じるヒユ-メインな精神が 窺われる。. ところで、『新唐書』の巻五十・兵志によれば、開元初頭から十年. 前後にかけて、軍用馬の不足は深刻な政治問題となっていたようであ. 開元の初め、国馬益ます耗る。太常少卿の萎晦、乃ち空名の告. へ. 詔すら-、「--今自り諸州の民、蔭の有る無きに限る勿く、能. みことのり. 将軍に儲ゆ。王毛仲に命じ、内外の閑厩を領せしむ。九年、また. 身を以て馬を六胡州に市わんことを請い、三十匹を率いてl瀞撃. ・刀. 迎えること。ここまでの前半四句は、遠征軍の盛大な出兵のありさま を詠う0. 続いて第五・六句、「紛紛」は、入り乱れて数の多いさま。この二 「代扶風主人答」の「去時三十寓、鴻自婦長安」と発想が過 「従軍行」にも、「天子廟堂拝、将軍凶門出。. 「紛紛幾寓人、去者. ます よ. 句、先の. じるが、初唐の劉希夷の. 「雲南曲」. 紛紛伊洛道、戎馬幾寓匹」という似た一節が見られるo昌齢は、ある いはこれをヒントにしたのであろうか。なお、唐の劉湾の. は、天宝十載(七五こ、鮮干仲が南詔討伐に失敗して大軍を失った. i聯が見える。おそら-劉湾の脳裏には、昌齢の. 事件を詠んだ詩であるが、そのなかに「去者無全生、十人九人死」. 無全生」の句が、強い現実的喚起力を持つ表現として、鮮烈な印象で 焼きついていたのであろう。南詔討伐を指弾する社会派的な作品に、 このような影響のあとが見られるということば、言い換えれば、当時. る。. れるO. ている。『新唐書』巻百二十一の佳日用伝に、次のような記事が見ら. 元初あるいはそれ以前に、在日知という人物によって、すでになされ. (2). また、宮中の養馬を減らして軍用に充てようとする建言は、実は開. なり。. て復し、始めは二十四万なりしも、十三年に至りて乃ち四十三万. に馬を以て柴と為す無し」と。毛仲既に閑厩を領し、馬術々にし. ようやく. -家に十馬以上を畜うは、帖駅・郵逓・征行を免じ、戸を定むる. ・カ. な. ら-、「厩馬の多ければ、陳右に分かち牧し、関畿の賀詞を省か. 経を以て進みて兵部員外郎に至る。--殿中少監に遷りて建言す. 日用の従父兄の日知、字は子駿、少くして孤貧、学に力め、明. つと. における王呂齢のこの詩の、現実的社会的作品としての高い評価と、 広い受容の一端を示すものであろう。最後の第七・八句は、宮中の養. すで. わか. の. むく. んことを請う」と。. はぶ. 馬を減らして、軍馬として辺地に分け与えることを提言する。「宮厩」 は宮中の馬屋。ここには、昌齢自身の主張が率直に語られていると見 てよいであろう。. この作品に詠われる主張は、非戦の思想とは異なる。しかし、次々. その二). i:司. と戦場に倒れてゆ-兵士達の悲劇に触れ、それを救う術を進言しよう. 豊科以前の王昌齢(下. 岡田.
(6) 123. がる. 登科以前の王昌齢(下 その二). もしこうした事実が反映されているとすれば、王昌齢のこの詩は、 開元前期に詠われた可能性が強-なろう。時の皇帝玄宗は馬好きで知 (/r,,). られ、宮中の厩を増設して多くの駿馬を蓄えていた。結びの二句には、 それに対する謁諌の意が潜むと考えられる。 さて、第三首の持つ現実性・思想性を確認した上で、次の第四首を 眺めてみたい。ここに詠われる悲劇は、おそらく具体的な事件や特定 の人物をモデルにしたものではない。しかし、その救いようのない暗. 通常の辺塞詩ならば必ず詠い込まれるであろう情景描写は、ここに. はl切見られない。作品は全編を通じて、ひたすら兵士達の暗潅とし. た絶望的な心境へと凝縮してゆこうとする。私達はやはりそこに、悲. ない。拝情詩の美を壊すはどの、この重苦しい暗さの中に、彼の何ら. 歌的な行情美の追求とは異質の、昌齢の創作意図を感じ取らざるを得. 「塞上曲」. と題さ. の本編には. かの現実的な感慨が溶かし込まれていると考えられるのである。. 次に簡単に語釈を添えておく。この詩も『王呂齢詩集』. さの底には、単なる文学的イマジネ-ションから紡ぎ出された辺塞詩. 「置将軍」. 「燕」は河北省地域の古名、「代」. にも「代北雲気重昏昏」と詠われている。 第五句の 「功動」を、『文苑英華』. 「まも. に作る。第六句の. 「ついで」. 「芙」. は、和刻本の. 「還有白馬津上吏、博聞黄龍征成兄」、唐の李白「濁不見」. で、呂齢以外の詩人の辺塞詩にも散見される。たとえば、梁の粛子顕. 寧省朝陽l帯を指す。契丹と国境を接し、しばしば紛争があった地域. なく」の意に取っておくべきであろうか。第七句「黄龍」は、今の遼. 「尋」には、「にわかに」の意味もあるが、1般的な. 「功門」. 戦国時代の代国の地で、燕の西南に位置する。北周の原信の「燕歌行」. に作る。第四句「燕南代北」の. 「部曲」は、軍隊の部分け、部隊。なお、『文苑英華』は「士卒皆相弔」. 漠の名将冨去病。ここでは借りて、軍功に輝く将軍を指す。第三句. る。「惨惨」は、心を痛めるさま、暗いさま。第二句. れるO第1句、「達頭」は辺地のはとりO『文苑英華』は「退城」. 何ぞ惨惨たる. 己に置将軍を葬れり とむら. 相弔い. 代北に聞こゆ. ′ヽ. 「笑」に及ばないとする。興味深い指摘ではあるが、穿ち過ぎの感も. のはうが一見通りはよいが、詩の味わいの深さ、訊刺の痛烈さば、. 『王昌齢詩集』のみが「笑」に作る。原田憲雄「王昌齢伝」は、「巽」. 「白馬誰家子、黄龍連塞見」など。第八句の. 「燕歌行」の. に作. は、. なく、拾遺に収められる。また、『楽府詩集』. の. とは異なった、重い現実的な感情が横たわっているように思われる。 -遠頭何惨惨. 巳葬置将軍 部曲皆相弔 4燕南代北聞. 割けらること多く. しhノぞ. まもり. 唯だ当に寒雲に突すべきのみ. たから。部下の兵士達は弔問に集い、計報は燕の南・代の北の地に広 。」この暗密な前半の歌い出しにたたみ掛けるように、さら. で武器と軍馬が与えられる。さらに遠-黄龍の守りに派遣されるとあっ. は. では. 岡田. 亦た尋いで分かたる. つ. 更に黄龍の成に遣わさる. つか. 功動多被軸 兵馬亦尋分 更遣黄龍成. 皆. 「辺地が暗-沈みかえっているのは、武功に輝く偉大な将軍を失っ. 8唯苦笑塞雲. まさ. ては、ただ辺地の空に浮かぶ雲に向かって働巽するのみだ。」. は. 辺頭 兵馬 功勃燕南部曲 た. に後半の悲劇が重なる。「手柄をたてた者も逆に退けられ、また継い. -.
(7) 122. 否定できない。やはり諸本にしたがって、「巽」 ろう。 「塞上. としておくべきであ. ここまで四首を通読してみたが、もう一首、『全唐詩』. 雁門の桑. 河を渡り. 「塞下曲」第四首とも通じる内. 曲」として収められる作品を挙げておこう。この詩は、『楽府詩集』. では. 功多きも翻って獄に下され. 関であり、しばしば辺塞詩に詠われる。李白の「古風」五十九首・其. 六にも「音別雁門闘、今成龍庭前」とあるoなお、この冒頭の1聯は、. 李白「送在民昆季之金陵」詩の「秋風渡江来、吹落山上月」と句造り が似ている。. 続-第三句は、魂の曹植「塩歌行」の「出自荊北門、遠望胡地桑」. と似る。第四句の「萌馬」は異同が多-、「鞘馬」(『全唐詩』・和刻. 本『王昌齢詩集』)、あるいは「備馬」(唐百家詩本『王昌齢詩集』)な. どにも作られる。ここでは、唐l一十六家詩本および明銅活字本の『王. 呂齢詩集』、『楽府詩集』に従って、「鞘馬」とした。李雲逸民の言う. ように、「構馬」では意味をなしに-い。(「樺」は、弓を射る時に左. 肘につけるユゴテ。また、フィゴの意味もある。)字形が似ていると. ころから誤ったものであろう。「端馬」は、馬に装備を着けること。. 杜甫の「狂歌行贈四兄」詩にも「長安秋雨十日泥、我曹鞘馬藤島難」. とある。昌齢のこの詩では、敵襲に備えて軍馬の装備を着けたままに. してお-ことを詠っている。なお、「備馬」も馬に装備を着ける意味. 「秋風は夜に大河を渡り、雁門関の桑の葉を吹き払う。達-異族の. は、「厳霜に宿る」と訓んで上記の意味に取ったが、「厳霜を宿す」と. の誤写か改変であろう。「厳霜」は、草木を枯らす厳しい霜。「宿願霜」. に用いるが、唐以前の詩には用例が見当たらない。おそらくは、後世. 地の狩猟を眺め、馬の装備も解かぬまま、霜降る中に野営する。五つ. 「五軍」と呼ばれ. 分かって進んで敵を討つという記事は、『漢書』の巻七十・常恵伝、. が、「五道」の「五」という数も、これと関連しよう。五将軍が道を. たo後世、「五営」「五軍」で、諸軍営あるいは朝廷の軍隊を法称する. の軍制では軍は五つに分かたれ、「五営」あるいは. 第五句「五通分兵去」は、五つの道に軍隊を分けて進むこと。漠代. 訓んで、軍装を整えた馬の背に霜の降りた様子を詠うと取ることも可. に作る。第二句、「吹却」. の道に兵を分かって進む、行く手は孤軍百戦の修羅場。しかし、戦功. けだ。」. 詩題は、『楽府詩集』では「塞下曲」. 「却」は、「-し去る」「-し払う」の意味を持つ助辞。「雁門」 今の山西省代県の西北の地。唐代は代州に属し、雁門山の頂上には関. その二). 岡田. 所が置かれた。これが山西の辺防および交通の要衝として名高い雁門. 登科以前の王昌齢(下. E?. は、. 能であろう。. の. では「塞下曲」と題されており、先の 容を持つ。 -秋風夜渡河 吹却す 胡地の猟を見. すい毒やく. 遥かに. 厳霜に宿る. 百戦の場. 兵を分かちて去く. ゆ. 吹却雁門桑 遥見胡地猛 4鞘馬宿巌霜 五道分兵去 孤軍百戦場. 夜 た. 功多都下獄. かえ. 但だ心傷む. いた. ば. 多い者がかえって獄に繋がれ、兵士達はひたすら暗く心を傷ませるだ. 8士卒但心傷. 秋風 ひ. 孤軍五道端馬. 士卒.
(8) 121. 豊科以前の王昌齢(下 その二). 辺塞詩は、勇壮な男意気を歌う作品、あるいは悲壮さの中にも主戦的 (Lll). の句がある。結びの第六・七句は、『史記』が伝える漢の悲劇の将軍、. が見当らないわけではない。しかし、例えば次に挙げる李白の同題の. 連作と比較してみれば分かるように、昌齢の. 花無-. 祇だ寒有り. 未だ曽て看ず. かつ. 笛中に折柳を聞くも. 暁戦は金鼓に随い. 宵眠は玉鞍を抱-. 願わくば腰下の剣を将って. 直ちに為に楼蘭を斬らん. みすか. 北荒に下り. 直に恩の甚だしきを衝むが為なり. 「塞下曲」全体を通じて. て最後の出征において、道に迷って戦闘に遅れた罪を問われ、自害し. のだったのである。. 塞下曲六首 -五月天山雪. 無花紙有寒 笛中間折柳 4春色末曽看 暁戟陰金鼓. 宵眠抱玉鞍 願将腰下剣. 8直鵠斬楼蘭. 其一. 流れる「暗さ」は、当時の一般的な傾向に対して、異色とも言えるも. 令如李廉、功多遂不酬」の句がある。 以上、五首を通読したが、表現技法に関わる特徴として、擬古的性 格に加えてもう一つ指摘しておきたいのは、詩世界の凝縮的な性格で ある。王呂齢の辺塞詩は、辺地の自然や風物に向けて広がる解放性と. 風は夜に呪え、一川の. は、およそ無縁である。例えば、辺塞詩人として知られる琴参のダイ ナ…ックで躍動的な自然描写、「輪台. 石は乱走す」(「走馬. 白草折れ、胡天は八月に即ち雪を飛ばす。. 春風来り、千樹万樹に梨花開くかと」(「白雪歌」). 地を捲き. 大いさは斗の如-、風に随い地に満ちて. 川行」)、「北風 忽然として1夜. などに類する句は、全-見当たらない。むしろ対照的に薄暗く動きに 乏しい情景描写が彼の詩の特長であり、それが心象風景的な役割を帯. -天兵下北荒. 南に飲わんと欲す. 文を横たえて百戦に従うは. 英二. びて主想と重なり合い、凝集してゆこうとする。(場合によっては、 第四首のように風景の描写そのものがな-、心情の表出のみに凝縮さ れることすらある。)そして、そうした凝縮的・心理的な表現法によっ. 胡馬欲南欧 構文従首戟. .LP. qく. て、詠われる厭戦的な感情は、微妙な陰影と一層の密度を獲得してい るのである。. 4直薦街恩甚. た. 天山は雪ふり. て数奇な生産を閉じている。梁の劉孝威の楽府「陳頭水」にも、「勿. と恐れられた名将でありながら、勲功とはついに緑が無かった。そし. な姿勢を歌う作品が多-を占める。無論、征戦の悲劇を重-歌う作品. 代前期に殊に顕著となる尚武・尚侠の気風等を反映して、この時期の. (I). る。国力の充実と、その結果としての異民族に対する軍事的優位、唐. 初唐から盛唐前期にかけての辺塞詩中にあっては、実は少数派に属す. 言. 李広の故事などを意識していよう。李広は旬奴と七十余戦、「飛将軍」. がりで言えば、唐の陶翰「贈鄭員外」詩に「間道五軍集、相遡百戦場」. 書五道出将軍」の句が挙げられる。続く第六句の「百戦場」とのつな. 巻六十四・旬奴伝などに見られる。唐詩では、王維「老婿行」の「詔. 岡田. ところで、こうした暗い厭戟的な感情によって覆われる作品群は、. 胡馬 天兵. 九月. 五月 春色 ただ ほこ. ただ. 同. 砕石.
(9) 120. 握雪海上墳. 雪を握りて海上に聴い. 何か当に月氏を破り. いつ. 沙を払いて陣頭に寝ぬ. 8然後方高枕. -塞虜乗秋下. 天兵出喪家 将軍分虎竹 4戦士臥龍沙. 然る後に方に枕を高くせん. 綴られるという、一見矛盾した現象が見られるのである。. 王昌齢の辺塞古詩の表現をめぐるこの問題は、おそらくその奥に幾. っかの要因を絡ませており、安易な論断では片づけられない性格を持. っ。しかし、先ず指摘しておきたいのは、それが必ずしも、呂齢の辺. 塞詩のみに限られた現象ではないことである。初唐から盛唐の前期に. 漠家を出づ. 秋に乗じて下り. この擬古的・典型的な表現法、あるいは凝縮的・心理的な手法なので. な思想性・告発の意図を持つ作品においてもしばしば見られるのが、. 的・具象的な描出法は、実はまだ確立されていない。そして、現実的. かけての辺塞詩においては、後の杜甫の社会詩に見られるような個別. 将軍は虎竹(割符)を分かち. ある。例えば、同じ李白の著名な作品、「戟城南」を取り上げてみよ ナつ0. モうかん. 城南に戦う. 戟士は龍沙に臥す 弓影に随い. 戟城南. 今年は葱河の道に戟う. うが. 去年は桑乾の源に戦い 今年戟葱河道. 傑支海上の波. じAtスノし. 天山雪中の草. てんざん. 白骨黄沙の田. 還た煙火の燃ゆる有り. 城を築いて胡を避けし処. 唯だ見る. 旬奴は殺戦を以て耕作と為し. 尽-衰老す. ことごと. 長しえに征戦し. 馬を放つ. 兵を洗う. 南里長征戦. 4放馬天山雪中華. 洗兵候支海上波. -去年戟桑乾源. 李白. 遠月随弓影 剣花を払う 殊に未だ入らず. 少婦よ長嵯すること莫かれ. 「暗さ」の内に、単なる美的拝情的噂好に留. -り返すことになるが、こうした作品との対比によって一層顕著と なる、昌齢の辺塞古詩の. まらない、∧辺塞>に対する彼の現実的な感慨ないしは思想が溶け込. 三軍轟衰老. 旬奴以殺戟烏耕作. (6). ただ、ここで問題となるのは、彼の辺塞古詩がそうした現実的な側. 8古来唯見白骨黄沙田. んでいると考えられるのである。. 面を持つとしても、それが個々の作品の表現レヴュルにおいて、明瞭. 藻家還有蜂火燃. 秦家築城避胡虞 (あるいはより一層)、彼を強く揺り動. 煙火燃不息 2征戦無巳時. 巳む時無し. 燃えて息まず. や. 風主人答」詩の場合と同様に. かしたはずの∧辺塞>の悲惨な現実が、個別的・具象的な描写によら ず、擬古的・典型的な表現、あるいは凝縮的・心理的な手法によって. そ. とこ. た ま や. 胡霜梯剣花. まさ. な形をとっていない点であろう。そこには、前項に取り上げた「代扶. 1. 何首破月氏. 排沙陳頭寝. ′ヽ■り. その二). 三軍 万里. な. 玉闘殊未入. まさ. 登科以前の王昌齢(下. 岡田. 征戦煙火喪家秦家古来. 8少婦莫長嵯. 天兵塞虜 其五. 玉関胡霜辺月. 同.
(10) 119. その二). 数馬は号嘱して はらわた. 街み飛んで上り撞く 草葬に塗れ. そうもう. 聖人は巳むを得ずして. 之を用うるを. 乃ち知る兵なる者は是れ凶器にして. 空しく爾為せり. 枯樹の枝. 天に向かいて悲しむ. 烏鳶は人の腸を啄み. ついば. 格闘して死す. 岡田. 「暗さ」を通じて、. らは呂齢の作品と極めてよく似た特徴を持っている。彼の歌いあげる. 辺塞詩も、昌齢に負けず劣らず暗い。そしてこの. 辺地の悲劇と非戦の思想を強く訴えかけるのである。例えば、彼の. 寒日傍城没. 顧顧たり. 太原の卒. 雲中の便. 塞雲は陣に随いて落ち. 名月を怨む. 帰らざるを苦しみ. 乗り問う. 「塞上曲」は、次のように歌われる。. -顧顧雲中便 乗問太原卒 百戟苦不蹄 4刀頭怨名月. 描写を通じて鮮明に歌い上げられている。しかし、「桑乾」「葱河」. 城下有寡妻. 塞婁随陣落. 「候支」「天山」などの地名を織り混ぜた冒頭の詩句は、現実の特定の. 8哀哀芙枯骨. イメ-ジをふ-らませる効果のために、それらの固有名詞は用いられ ていると言ってよい。また、最も生々しい衝撃を与える、後半の 戦格闘死、敗馬戦場向天悲。烏鳶啄人腸、衝飛上桂枯樹枝。」といっ. におい. 戟闘して死. た描写も、実は同名の古楽府「戟城南」の二即、「城南に戦い、郭北 烏食らうべし。--秦騎. 俳御して鳴-。」を踏まえて歌われている。松浦友久氏が. に死す。野死して葬られず し、驚馬. 「李白楽府詩論考」(三省堂刊『李白研究-拝情の構造』所収). て指摘するように、そこには、杜甫の個別的・具体的な描写とは異なっ. 寒目は城に傍いて没す 城下に寡妻有り. 哀哀として枯骨に泣-. 「従軍行」〓説に社債の作). また「塞下曲」四首は、絶句の連作であるが、常建の思想が明瞭に. とによって、戦役の悲劇と非戦の思想を訴えているのである。. 一般的な典故や故事を踏襲しながら、それをより効果的に凝縮するこ. 品も、特定の事件を明示する方向では歌われていない。辺塞をめぐる. を思って十日間泣き続け、そのため長城の壁が崩れたという。この作. 載る、有名な孟妻女の故事を意識していよう。孟妻女は、戦死した夫. しば用いられる典故である。第七・八句は、漠の劉向『列女伝』等に. だ漠使の還るを聞き、独り刀環に向かいて泣-」とあるように、しば. れるの意味となる。王昌齢の. は「還」と音が通じるところから、故郷に帰る、あるいは郷愁にから. 第四句の「刀頭」は、刀のつかの頭についている環をさす。「環」. 事件に向けて語られてはいない。むしろ、遠い西域の諸地への出征の 「野. 登科以前の王昌齢(下. 野戦格闘死 敗馬鍍鳴向天悲 烏鳶啄人勝 一6街飛上桂枯樹枝 士卒塗草葬 将軍空爾鵠 乃知兵者是凶器. ・カ. ここには、輯武を戒めようとする彼の主張が、戦地の無残な情景の. 20聖人不得己而用之. まみ. しか. た、楽府の伝統的世界のエッセンスを抽出し、集約・典型化してゆく 手法が窺われるのである。. にも. や. 次に、李白とともに日日齢の友人の一人に数えられる、常建の詩に目. 刀頭百戦. えん. を移してみよう。彼には、九首ほどの辺塞詩が残されているが、それ. 「惟. そ. これ. 野戦 う qく. 将軍士卒.
(11) 118. 王と称さず. 明君(王昭君). 北海の陰風. 兵気は鏑けて為る. 龍闘いて 山は崩れ. 朝より回りて. 帰り去って. 呂齢の「塞下曲」の技法と変わるものではない。この二人の辺塞詩に. 見られる共通性は、影響関係といった点でも興味深いが、むしろここ. では、思想性を帯びた辺塞詩がこの時期どのような表現に向かおうと. したか、そのことを示して-れる資料として貴重である。後の杜甫に. おいて開拓される、個別の事件の具体性に向けての新たな描出法が登. 場する以前、王呂齢・李白・常建のとったこうした表現法は、おそら -最も効果的な手法だったのである。. この他、盛唐を代表する辺塞詩人、高適の長篇「燕歌行」も注目さ. れてよいであろう。この作品には、「開元二十六年、客の御史大夫張. 公に従いて塞を出でて還る者あり、燕歌行を作りて以て適に示す。征. 成の事に感じ、因りて蔦に和す」という自序が付されており、現実的. な感慨が創作の動機となったことが知られる。例えば、その中の次の. おとろ. 美人は帳下に猶お歌舞す. 塞草餅え. 閲兵稀なり. かこみ. 身は恩遇に当りて常に敵を軽んずるも. 辛勤久しく. 力は関山に尽きて未だ園を解かず. 遠く成り. 別離の後. 風雨を雑う. 戦士は軍前に半ば死生せるに. 想陵(のさばり). ひょうり▲う. 粛保として辺土を極め. ような二即には、適の鋭い告発が読み取れる。. 9山川粛保極連土. 戟士軍前半死生. 胡騎愚陵雑風雨 勢いは巳に分かれ. ー2美人帳下宿歌舞. 鬼は巽して 千余里. 孤城落日閲兵稀. 大湊窮秋塞辛勝. 将軍を恨む. 沙場に飛んで灰と作る. 閣僚は皆是れ長城の卒. の岡上に龍堆を望む. hノゆうたい. 地を動もして来り. 日月の光に. 征戦無く. 烏孫(西域の部族). うそ. 帝郷を望み. 玉吊(朝貢の使者). ぎょ′ヽはく. 現れている作品と言ってよい。四首のうち三首を挙げてお-。. 其一. -玉吊朝回望帝郷. 烏孫蹄去不栴王. 天涯静虚無征戟 4兵気鏑鳥目月光. -北海陰風動地来 明君嗣上望龍堆 閣僚皆是長城卒 4日暮沙場飛作灰. -龍闘雌雄勢己分 山崩鬼巽恨将軍 黄河直北千徐里. 蒼荘として黒雲と成る. モうぽう. ー6力轟開山未解圏. 身嘗恩遇常軽敵 第1首に詠われる講和と非戦の思想から、常建がこれらの作品に込. まじ. 応に暗くべし. L_. かえ. 域衣達成辛勤久. まれ. どよ. めた意図は、おのずから明らかであろう。ただ、辺地の暗謄とした情. L]. 玉筋(美人の涙). ▲■さ. 4菟気蒼正成黒雲. これ. な. 玉第磨噂別離後. 落日窮秋. こ. 景の描写を通じて戦役の悲惨さを訴える、第二首・三首の手法は、王. ま・G. 雌雄 その二). 胡騎山川 孤城大湊. 静処. と. 直北. 豊科以前の王昌齢(下. 岡田. 鉄衣. ん 善. な. 天涯. 日暮 え. 菟気 ん 黄河. 其二 其三.
(12) 117. 登科以前の王昌齢(下. 少婦城南欲断腸 0征人前北空回首. その二). はらわた. 城南に腸を断たんと欲し こうペ. 前北に空しく首を回らす. ただ、その表現法について言えば、個別的・具象的な描写とは、や. それらの作品は、しばしば憤慨の口吻とともに辺塞問題を批判的に詠. そこにもまだ現れていない。けれども、自らの従軍体験をもとにした. 茜. い、重い現実感を帯びて読者に訴えかけてくる。次に高適の「前門行」. として指摘できる。私達はここから、擬古的な表現法が現実的思想的. 開拓窮異域. -藻家能用武. 識らず. 白紛々たり. 既に零丁(落ちぶれて孤独). 独り立てば思いは窮鼠たり(盛んにおこる). ふんうん. 前門に古老に逢い. けい▲bん. 五首のなかから三首を挙げてみよう。. -前門逢古老. 其1. 性が、特に具体的に指摘できるわけではない。しかし、辺地の将帥の. 猪立恩義嘉. はり性格を異にしていよう。ここには、先行する楽府詩との間の類似. 堕落を指弾する第十一・十二句の「戟士軍前半死生、美人帳下宿歌舞」 は、リアルな描写へとは向かわず、歌謡性を帯びた印象的な対句の段. 頭髪白粉紛. な作品の有効な手法でもあった、辺塞詩をめぐる当時の言語情況を、. 成卒厭糟糠. 開拓して異域を窮む. 能く武を用い. 覆将軍を. 今は己みぬ. や. 一身既零丁. 階に留まっているし、第十七句以下の征夫と恩婦の対比も、辺塞詩の. 勲庸今己実 6不識覆将軍. 最も一般的な構図と言える。この作品もまた、楽府的な歌謡性に強く 彩られているのである。. 右に挙げた数首の例から明らかなように、王呂齢の「代扶風主人答」. あらためて確認してお-べきであろうO楽府の伝統的な詩世界の強い. 降胡飽衣食. よ. および「塞下曲」の表現の特徴は、当時の辺塞詩に広く見られる現象. 影響力の下で、個別性具象性に目を向けた新たな表現が誕生するため. 関亭試一望 6吾欲沸姑臆. には、なお詩人達の模索と営為が必要とされたのである。 以上、王昌齢の「塞下曲」を中心に、楽府題詩の現実的な側面とそ の表現に焦点を当てる形で、論を進めてきたoしかし初盛唐期の辺塞 詩には、実はここまでの考察の中で触れてこなかった、別の重要な流. -連城十1月. 成卒は糟糠に厭けるに. なみだ. 十1月. 臆を治さんと欲す. うるお. 試みに一望すれば. 降胡は衣食に飽-. Elユ. 元戎(大軍あるいはその将). 号令は厳に. 乱れて弄蓉非たり(降りしきる). ひ. むね. め・i/. れが存在する。それは、陳子昂の「感遇」詩や、高適の「荊門行」な. 雨雪乳罪弄. 一身. 岡田. どに代表される、辺地での実体験や感慨を詠う作品群である。表現の. 元戎競令厳. 沸. 其二. 勲庸頭撃. 漢家. 征人少婦. 面から見れば、辺地の状況を具体的に克明に描き出そうとする姿勢は、. あ ひ. 其三. 吾 関亭. 雨雪辺城. 2.
(13) 116. 人馬も亦た軽肥. 封侯取1戟. 砂疎空楓楓. 空に楓観たり けいこう. 封侯一戦に取らば. 山豆に復た開聞を念わんや. 先鋒の騎兵は旗印をなびかせ、千里にわたって戟雲が取り巻く。あれ. ー。だが、諸侯となる手柄をl戦のうちに立てた. せて読み取っておくべきではないだろうか。. ざしながらも拝情美に向けて上昇しようとする、芸術的な志向をあわ. い起こすならば、私達は王呂齢の辺塞古詩の中に、現実的な感慨に根. る。ここで、完成された行情世界の美しさを誇る彼の七絶辺塞詩を思. 思想性と同時に、拝情美に向けての強い創作意欲も感じられるのであ. 慕を振り払おうとしながらなお払い切れない、兵士の微妙な心理を巧. げているのである。戦いに臨む自らを励ます結びの一聯は、妻への思. 言す」と説明される。呂齢はそれをl捻りして、逆の角度から詠い上. 巻七十に引-『楽府解題』に、「世路の難難および離別悲傷の意を備. 難」の変奏といった意味であろう。「行路難」については、『楽府詩集』. 「饗行路難」という題名は他に見当たらないが、楽府の旧題「行路. 再び郷里の妻を切な-偲ぶことなどあろうか。」. 事実、「塞下曲」「塞上曲」から、王呂齢の他の楽府題詩に目を移して. みに描き出している。ただ、それは何らかの現実あるいは思想へと下. 「塞下曲」の内には確かに、現実性. みれば、そこには、辺地の悲劇を訴える彼とはまた別の姿が浮かび上. t.1_r). を巧みに心象風景に取り入れ、雄々しくも切ない兵士の心情へと凝縮. してゆ-。この密度の高い小世界の先に、私達は、七言絶句へと繋が. る彼の拝情精神の特性を見る思いがする。. 以下、語釈を付してお-。第一句、「横吹」は、西域伝来の横笛、. 亦た之を鼓吹と謂い、馬上にて之を奏す。蓋し軍中の楽なり」と言う0. あるいはその曲。『楽府詩集』巻二十1に横吹曲を収め、「其の始めは 陣雲市る. またこの第一・二句の描写についてほ、類似句が少なくない。例えば、. その二). 陰山を下り. 旋節を引かせ. のもとでの、新鮮な行情世界の創造であろう。一首は、辺地の夕暮れ. 降する性格のものではな-、目指すところは、連塞詩の典型的な設定. みよう。. 横吹悲しく ぼ. 風動きて馬噺合す. し めぐ. 挙行路難 -向晩横吹悲 風動馬噺合 前駆引旋節 4千里陣雲市. ぜん. う. 豊科以前の王昌齢(下. 二土工. 畢干下陰山. 岡田. がって-るはずである。例えば、「饗行路難」と題する作品を読んで. 資質を考えざるを得ない。1連の. (7). ある。とすれば、私達はやはりこの点に、辺塞詩人としての彼の別の. ぱら強調してきたoしかし昌齢の辺塞詩には、辺境での実体験を直に. 「暮れ方、悲しげに響-横笛の音に、風が運ぶ馬の噺きが加わる。. 8昌復念関閤. 蒐胡は尽くる目無し 幾暗か帰らん. お1も. 人馬亦堆肥. 克胡無毒日 6征戦幾時席. ま. は単干が陰山を下っているのであろう、空にさっと砂塵が舞い上がる. 「塞下曲」の現実的思想的な側面を、もっ. 砂礁. 伝えると断定できる、このような作品が残されていないことも事実で. ここまで私は、王昌齢の. 征戦 向晩 単干千里前駆.
(14) 115. 登科以前の王呂齢(下 その二). 漢の葉瑛「悲憤詩」の「胡茄動号連馬鳴」、陳の伏知道「従軍五重樽」 「依稀北風裏、遠茄薙馬噺」など。唐詩では、王維「従軍行」. 間道く. 轟くなら. 気高-. 短長亭. 燕山の錦を. 難に赴-を軽しとす. 井陛に冠すと. 急にして. 白馬は流星の如し. 舌根は両路を爽み. 客を送る. 西陵の侠少年. した題名でも歌われ、唐代大いに流行した。. -西陵侠少年 送客短長辛 苦塊爽繭路 4白馬如流星 間道羽書急 軍干冠井陛. 気高軽赴難. かえり. 誰か顧みん. 生み出された、如何にも盛唐的な歌辞なのである。. も、王昌齢が当然持ち合わせていたはずの、任侠的世界への共感から. (例えば、先の李白の「戟城南」と「塞下曲」など)、この「少年行」. 詩人の作品中に非戦と主戦の歌声が入り混じるのは常のことであり. るところのものであった。先に述べた尚武尚侠の気風のなか、一人の. 戦論はあり得ようがなく、外敵の侵略に対する応戦は、誰しもが認め. た、そうした思想につながる要素を含むとしても、当時、徹底した非. には、さはど深い主戦の田心想が込められているとは考えられない。ま. らう必要はなかろう。本来、任侠を賛美する歌謡的な性格のこの作品. 「塞下曲」の第1首とは正反対の内容であるが、その矛盾をあげつ. だ、誰が燕然山の名誉の碑銘なぞ顧みようか。」. が井陛関に攻め込んだとか。かくて、意気も高-軽々と国難に赴-の. 白馬は流星のように駆けてゆ-。聞けば辺地から火急の知らせ、単干. 「西陵の任侠の若者が、旅立つ友を駅亭に送る。青い椀の並木道を、. 8誰顧燕山銘. はさ. 「箱悲馬噺乱」の句がある。第三句、「前駆」は、先鋒、前軍。「旋」 「節」は、はたじるし。唐代の制度では、節度使に二本の旋と節が与 『楽府詩集』『全唐詩』は、. の諸杏. 羽書. えられた。『王呂齢詩集』の諸本および 「旗節」に作る。意味の上では通用するが、遠塞を詠う作品において. は「旋節」の方が一般的である。例えば、唐の虞従原心「奉和聖製送蘇 説巡連」詩の「上摘草文呂、中軍静朔方、占星引旋節、揮日拝壇場」、 李白「寄白馬」詩の「将軍沓白馬、旋節渡黄河」など。呂齢自身も、 別に「江上聞笛」詩において「何首蓮華白、旋節陳城陰」の句を残し ている。第四句の「陣雲」は、厚-重なり合って兵陣のような形をし た雪.iq.戦争の兆しとされた。遠塞詩にはしばしば詠われ、高適の 下曲」にも「青海障害匝、黒山兵気衝」とある。「市」は、めぐる、 取り囲む。俗字は「匝」。 第五句、「畢干」は旬奴の首長。「陰山」は、今の内蒙古自治区の南 にある山脈。古-から漢民族と北方民族の境界をなしていた。いずれ も遠塞詩には常見の語。第六句の「砂撰」は、『王呂齢詩集』 では「沙楳」。「空」は、「むなし-」とも読めようが、ここは砂塵が. 空に舞い上がる様子と取った。「楓楓」は、凪がさっと吹くさま。第. に作るが、それで. 八句「開聞」は、婦人の部屋。転じて、そこに暮らす女性を指す。唐 二十六家詩本『王日日齢詩集』『唐文粋』は「閏閤」 は韻が合わない。. は、もとの楽府題. この他、「少年行」には、任侠の若者の心意気が歌われる。二首の ぅちの第一首を紹介しておこう0なお、「少年行」. う. 岡田. は「結客少年場行」。「長安少年行」「少年子」など、いくつもの類似. ぜ. 単干 ん. に. 「塞. 詩の.
(15) 114. 若者の活躍する舞台でもあり、しばしば楽府などに歌われる。(ただ、. すとする、李雲逸の説が妥当であろうか。都の長安や洛陽は、任侠の. が、いずれもぴったりしない。長安の西北郊外にある漠帝の五陵を指. 第l句、「西陵」と呼ばれる陵墓・土地は文献に幾つか記載がある. は頻見される故事。. は、『後漢書』巻二十三・貴意伝、『文選』巻五十六に載る。辺塞詩に. 功業を刻んだことで知られる。班固の手になるその文章「封燕然山錆」. 愛山がこれにあたる。後漢の筆意が旬奴を破ってこの山に登り、石に. る。)「侠少年」は、『楽府詩集』では「侠年少」。第二句の「短長亭」. よそ以上のような広がりを見せている。それら様々な作品の内部と背. 王呂齢の楽府題による辺塞古詩は、「塞下曲」を中心として、おお. 漠の五陵を「西陵」と呼ぶ用例が他に見当たらない点、なお疑問は残. は、大小の宿場。五里(里は部落のような行政単位)ごとに短亭、十. 今、これらの作品を総体として眺め直してみるならば、晴海とした絶. 景について、個別にさらに細密な解析を加えることは難しい。しかし 「青椀莱. 望感・厭戦的な感情から任侠の男意気に至る心情が、現実的思想的な. 里ごとに長亭が置かれた。なお『文苑英華』『楽府詩集』は「過長亭」 に作る。第三句「青椀爽両路」は、陳の後主「洛陽道」詩の. に作る. 志向と純拝情的芸術的な志向の二つの軸に絡みながら、しかも擬古的. 馳道」を借りたものか。「雨路」は、『全唐詩』のみが「両道」 けれども、他の諸本に従う。「雨路」「両道」はよ-分からない。天子. あらためて詳しく論じてみることにしたい。. のである。この点については、晩年の力作「筆篠引」を紹介する際に、. い時間と、それにも増して、彼にそれを迫る大きな契機が必要だった. 越えて、個別的具象的な表現へと新たに踏み出すためには、さらに長. が、これらの作品には支配的である。王呂齢が、時代的な制約を乗り. な表現世界によりながら、そこに新たな息吹を吹き込もうとする意欲. 題は、ここでは新たな展開を見せてはいない。むしろ、楽府の伝統的. 主人答」に窺われた、現実的思想的な志向と表現との間に横たわる問. せつつ、盛唐詩壇のなかに独自の位置を占めている。ただ、「代扶風. 出された昌齢の楽府題詩は、現実性と芸術性の濃度をそれぞれ異にさ. が想定できるのではないだろうか。こうした創作の営みの中から生み. 典型的性格を帯びた言語によって表出へと導かれてゆく、そんな構図. 「銀鞍照白馬、楓沓如流星」. の馳道と1般の道路とが並んで走っている様を言うものか。第四句の 「白馬如流星」は、李白「侠客行」の 似る。 第五句、「間道」は、聞くところによれば。『河岳英霊集』は「聞有」、 は急を告げて軍を. 呼び寄せる文書.至急の伝達の意を示す鳥の羽がさしてある。第六句. 和刻本『王呂齢詩集』は「聞説」に作る。「羽書」. が. 「気軽浮道難」. 「井陛」は、現在の河北省井陛県の東北、井陛山上にある関所。古く から軍事上の要地であった。第七句、『文苑英華』. に作り、「道」字の下に「1作踏」と注記する。ただ、いずれにして も、「気高軽赴難」に比べてすっきりしない。第八句「誰顧」を、『王 昌齢詩集』諸本および『文苑英華』は「誰願」に作る。和刻本『王呂 齢詩集』は「惟願」に作り、逆の意味になるが、おそらくは誤り。功 名心に駆られての志願ではないとする、爽快な結びがこの作品には相. その二). 毒. は. 応しい。「燕山」は燕然山の略称。現在の蒙古人民共和国にある、杭. 登科以前の王昌齢(下. 岡田.
(16) 113. その二). 5‥初盛唐期の辺塞詩については、浜讃『唐代戦争詩研究』(文史哲出版社)、. 登科以前の王昌齢(下. -∵」の作品を、閲元二年の吐蕃との戦闘と結びつける解釈は、一九六十年. -三十年釆文学史研究中的一個問題」. -与呉学恒、王綬青両同志商. 体験の質等の問題と絡んでくるかも知れない。∧辺塞>体験は、確かに彼. ペきであろう。. を過大な規模・内容で考えがちになる傾向に対しては、慎重な態度をとる. ただ、この作品における王呂齢の親諌の矛先が、馬不足ではなく、もっ. 念的変遷」(『唐文化研究』上海人民出版社・一九九四年)、張志和・鄭春元. (『北京大学学報』一九八四年第四期)、任士英「唐代尚武之風与追求功名観. 4‥唐代前期の尚武・尚侠の気風については、鍾元凱「唐詩的任侠精神」. れてもよいことになろう。. の思想形成に大きな影響を及ぼしている。しかし、そこから彼の旅行体験. 7‥王呂齢の辺塞詩のこうした特徴は、あるいはまた、彼の辺地旅行の規模・. 曽子魯(『唐代辺塞詩研究論文選粋』甘粛教育出版社・一九八八年). 「試論王昌齢辺塞詩中的"非戦″思想」. 張迎勝(『寧夏大学学報』社会科学版・一九八六年第一期). 「王昌齢辺塞詩的思想精華和芸祷造境」. 戴世俊(『社会科学研究』一九八五年第三期). 「論盛唐辺塞詩的反戦精神」. 周家詳(『文学評論』一九八一年第一期). 「王昌齢早期額揚拡辺戦. 呉学恒・王綬青(『文学評論』一九八十年第三期). 「辺塞詩派評価質疑. なお、辺塞詩に見える壬昌齢の思想に関しては、次のような論文がある。. の関連箇所であらためて取り上げることにしたい。. 6‥辺塞をめぐる王昌齢の思想については、この項では詳論を避け、後の章. 参考になる。. 楊恩威「初唐辺塞詩的時代特徴」(『駅西師大学報』哲杜版・一九八五年第. の説を紹介している。 2‥『新唐書』峯日用伝によれば、彼は. 王の事件は、容宗の景雲元年(七一〇)八月に起っている。. て、銀青光禄大夫を授けられており、殿中少監となったのは、その後のこ とである。. また、同じ-『新居書』の記事に拠れば、この後彼は荊州長史、京兆ヂを 勤めているが、『資治通鑑』巻二百十一、玄宗開元三年(七一五)十一月の 条には、「京兆デ」として崖日用の記事が見える。とすれば、建言は景雲元 年から開元三年の間の、ぁそら-は比較的早い時期ということになる。 3‥許道・超克尭『唐明皇与楊貴妃』(人民出版社)も、『唐六典』尚乗局、 『旧唐書』輿服志等の文献を引いて、この事に触れている(一〇七-八頁)。 玄宗の馬好きを伝える資料は、この他『明皇雑録』の「舞馬」の記事をは じめとして少な-な-、その愛馬癖は、開元の後期から天宝にかけて一層 高じていったようである。杜甫も「葦訊録事宅観曹将軍蓋馬圃引」詩にお いて玄宗の東巡を回憶し、「騰頗森落三高匹、皆輿此囲筋骨同」と、駿乗の. 」. ぱら玄宗の蒼惨に向けられているとすれば、制作年代はさらに引き下げら. 隊伍の壮観さを詠っている。. -. 王垂福の変に際しての功績によっ. 刊の馬茂元『唐詩選』(中華書局)以来少な-ない。最近の注釈書では、. 『中国文史中的侠客』(中国社会科学出版社・一九九四年)などに詳しい。. 戻. 二期)、商偉「論唐代的古題楽府」(『文学遺産』一九八七年第二期)などが. 岡田. 一九九四年刊の王軍・李嘩『辺塞詩派選集』(首都師範大学出版社)も、こ. 注.
(17) [付記] 登科以前の王昌齢を扱う本稿は、ひとまず以上で締めくくることにする。 掲載以来、幾人かの方々からいただいた貴重な御教示・卸批正については、 自身で気付いた補正個所とあわせて、次号に纏めることにしたい。 なお、豊科以後の王昌齢に関しても、引き続いて起稿の予定を立てている。. その二). 完. 忌伸のない御意見をお聞かせいただければ幸いである。. 登科以前の王昌齢(下. 岡田.
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