菩薩の行位といい、成仏説といっても、それは仏教の 広い分野に亘るものであるが、中国における華厳宗の大 成者、賢首大師法蔵念畠1国巴の諸著作にみられる信満 成仏説を中心にその内容を考察し、菩薩の修行階位を説 く経典をも念頭に置きつつ、華厳の成仏説の内容を検討 することとしたい。華厳の成仏説について、とくに法 蔵の信満成仏説や三生成仏説は、従来より関係論文も比 較的に多く残されており、その研究の歴史は古いといえ ① る。近年には、法蔵以外の華厳の成仏説についても研究 が進められるに至っている。とくに、吉律宜英著﹁華厳 禅の思想史的研究﹄︵昭和六十年三月、大東出版社︶には、 宗密︵認?震﹄︶の本来成仏論すなわち華厳禅の確立に至 る思想史的研究がなされている。その書物の前半部分に
菩薩の行位と華厳の成仏説について
は﹁法界縁起の成仏論﹂という章題のもとに、智怖・義 湘・法蔵などの諸学匠の成仏論が示されており、中でも 法蔵においては、﹃華厳五教章﹄﹃華厳経旨帰﹄﹁華厳経 探玄記﹄と次第する彼の著作を通して、成仏論に深まり がみられるという。初期の著作である﹃五教章﹄の中で は﹁義理分斉﹂と﹁所詮差別﹂の箇所に成仏説が示され ており、彼の信満成仏説は、別教一乗の第五円教の成仏 論であったこと。また、﹃五教章﹄以後の成立になる﹃華 厳経旨帰﹄では、これまでの三生成仏や信満成仏をまと めるとともに、新たな成仏論として﹁旧来成仏﹂とも名 づけられるような成仏論が示されていること。さらに以 後の著作である﹃探玄記﹄の中では、その性起品釈によ って、法蔵の新たな成仏論として﹁旧来成仏﹂︵旧よりこ のかた成仏している︶ということがある。すなわち、法蔵 は、これまでの﹁信満成仏﹂とは全く別の成仏論、つま 一色
順 心 29り、五教の中のその他の四教に寄同することのない、円 ② 教独自の成仏論を立てようとしたこと、などが明らかに されている。このように吉津氏の所論には、法蔵の成仏 説に関しても示唆に富む指摘が随所にみられるのである が、今一度、﹃五教章﹄﹁探玄記﹄を通して、信満成仏と いいうる根拠、およびその意義内容を考察し、また﹃華 厳経﹄などの菩薩の修行道を説く経典が信ということを どのように説き、それが、行位の問題との関わりにおい てどのような意義をもつのか、その一端を明らかにした いと考える。 菩薩の修行の位次がまとまったかたちで説示されてい る経典は、﹁華厳経﹄﹃仁王般若経﹄﹃梵網経﹄﹃菩薩理路 本業経﹄などであると考えられるが、その修行階位は、 四十位・四十二位・五十二位というように諸説があり一 定しない。また、各々の経典が、十信・十住・十行・十 迺向・十地などの修行道を、段階的なものとしてみなし ③ ていたのかは明らかではない。しかしこれらの経典を受 容した中国の仏教者たちによって、それらが四十位・四 十二位・五十二位というような一連の階位を説いている 二 ものとしてみられたことは確かであると思われる。法蔵 ④ は﹃探玄記﹄巻第二の中で、﹃華厳経﹄の七処八会三十 四品を教起因縁分より依人入証成徳分までの五分にわけ ており、各品の註釈をほどこすさいには信・住・行・迺 向・地などに対配しているのである。そのうちの十信に 相当する品が、明難品・浄行品・賢首菩薩品の三品であ ることは、﹃探玄記﹄巻第四の明難品釈に﹁通じて論ず ⑤ れぱ此の三品は十信の行法を明かす﹂とあることによっ て明らかである。とくに賢首菩薩品第八には、偶頌をも って菩薩の行とその功徳が説かれる。すなわち、賢首菩 薩が、文殊菩薩に対して答えた偶頌に、
菩薩於二生死一最初発心時
一向求二菩提一堅固不し可レ動彼一念功徳深広無二辺際一
如来分別説窮し劫猶し不し尽
︵大正九・四三二’三a︶ とあるように、菩薩が生死の中にあって初めて発心して 一向に菩提を求めることは、堅固であって何ものもそれ を動ずることはできない。たとえ一念の功徳であっても それは無限の深さと広さをもつものであり、これを如来 が分別して説かれた場合に、長い時間をかけても説き尽 30くすことはできないとし、深心の浄信は壊す今へからざる ことが示されている。その浄信の内容をなすものは、三 宝を信敬することであり、不壊の信によって発心を成就 ⑥ するのである。つまり菩薩の発心は、諸仏とその正法を 信じ、菩薩の行ずる道を信じて菩提に信向することによ ってはじめて可能となる。その意味で、信はあらゆる行 の根本であるといえるのである。そして、同じく賢首菩 薩品には、信の功徳について、 信為二道元功徳母一増二長一切諸善法一 除二減一切諸疑惑一示二現開言発無上道一
浄信離垢心堅固滅二除僑慢一恭敬本
信是宝蔵第一法為二清浄手一受二衆行一 信能捨二離諸染著一信解一一微妙甚深法一 信能転勝成二衆善一究二寛必至如来処一 清二浄明三利諸善根一信力堅固不し可レ壊 信永除二減一切悪一信能逮二得無師宝一 信於二法門一無二障艤一捨二離八難一得二無難一 信能超二出衆魔境一示一一現無上解脱道一 一切功徳不壊種出二生無上菩提樹一 長二養最勝智慧門一信能示二現一切仏一 是故演二説次第行一信楽最勝甚難し得 譽如二霊瑞優曇華一亦如二随意妙宝珠一 ︵大正九・四三三alb︶ と、説示されている。法蔵はこの七頌を﹁信が能く余徳 を成ずる﹂ことを明かすものであるとし、信の成ずると ころの功徳を二十種の功徳にまとめる。冒頭の﹁信は道 の元、功徳の母なり﹂という経文は、信が能く福徳と智 ⑦ 蓋を生ずるものであるとし、﹁覚道の元、功徳の母﹂な ることを明らかにしている。また信が.切功徳の不壊 の種﹂であるという文を、彼は﹁仏地一切の諸功徳法は、 ⑧ みな不壊の信をもって彼の因種となさざるはなし﹂と解 釈する。何故に信が不壊とされるのかといえば、信の満 心において不退を得るからであり、この信に依って発心 が可能になるからであるといえる。菩薩道において信は その根本でありあらゆる功徳を生みだすものであるとす る賢首品の所説を、法蔵は信と発心の問題として捉え、 信を信満入住すなわち菩薩の修行道における成仏の問題 として解釈していることが窺われるのである。 賢首菩薩品は、普光法堂会という会座において菩薩道 の元となる信の功徳が説かれているが、次にその会座が 切利天に移り、十住品が説かれる。そこには、菩薩の十 住行の各々の名が、初発心住より第十灌頂住まであげら 31れたうえで、まず最初の初発心住において菩薩は何を見 聞するのかが示される。すなわち$十住品第十一に、 仏子、何等是菩薩摩訶薩初発心住。此菩薩見一一仏 三十二相八十種好妙色具足尊重難遇﹁或観二神変﹁ 或聞二説法﹁或聴二教誠﹁或見一衆生一受二無量苦﹃或 聞三如来広説二仏法↓発二菩提心一求二一切智↓一向不し 廻。此菩薩、因一一初発心一得一千カ分毛 ︵大正九・四四四C︶ とあり、その十カ分の内容および初発心住の菩薩が学ぶ 尋へき十法が示される。このような学びがなされねばなら ないとされる理由は、初発心の菩薩が、自身の菩提心を 堅固にさせ無上道を成じさせようと欲しているからであ る。そして次の梵行品第十二の末尾には、 初発心時便成二正覚記知二一切法真実之性︽具二足 慧身一不一一由し他悟記︵大正九。四四九c︶ と説かれている。菩薩が正覚を成ずるのは何時において であるかといえば、初発心の時であることが示されるの である。法蔵は初発心の時に正覚を成ずる根拠を、初発 心菩薩功徳品の﹁初発心の菩薩は即ち是れ仏なるが故に 悉く三世諸如来と等し﹂という文に見出し、行が満じて ⑨ 位に入る時に普賢位を得るのだと述べている。菩薩行と しては初歩の段階とされがちな初発心を仏と同等なもの とみなし、その発心の時にすでに疾やかに一切の諸仏の 功徳が具わり、内に自ら開覚することを明らかにしてい る。初発心時は因、便成正覚は果であると考えられるが、 彼は因果円融、相即無腰の立場からこれを解釈したとい えよう。梵行品のこの文が、法蔵の成仏説においては初 住成仏と信満成仏の関係として、しばしば論ぜられると ころでもあるといえる。 菩薩の行位を説く大乗経典には、信ということがどの ように説かれているのか。まず﹃仁王般若経﹄受持品に は、五忍の菩薩が説かれ、その第一伏忍を明かす中で信 とい↑うことが示されるが、 善男子、習忍以前行二十善一菩薩有し退有レ進。害如二 軽毛随し風東西﹁是諸菩薩亦復如し是。雌下以二十千劫一 行中十正道上発二三菩提心一乃当レ入二習忍位毛 ︵大正八・八三一b︶ とあるように、習忍位以前に相当する。十善を行ずる菩 薩には進退があって定まりがなく、そのありさまは軽毛 が風に吹かれて東や西に座くようなものだとたとえられ ⑩ ている。また、﹃梵網経﹄巻上には、三賢位に相当する といえる三十心と、聖位に相当する十心︵十地︶が説か q o U g
れるが、十信については説かれない。しかし、 金剛種子有一千心元若仏子、信心者一切行以レ信為レ
首衆徳根本。︵大正二四・九九九c︶
とあって、この﹁信を以て首と為し衆徳の根本なり﹂と いう表現は、先の賢首菩薩品の﹁信は道の元、功徳の母 なり﹂と同趣旨の文であり、﹃梵網経﹄は﹃華厳経﹄を 承けたものであることが明らかである。次に、菩薩の行 位が他の経典にも増してまとまったかたちで説かれてい ると考えられるものは﹁菩薩雲路本業経﹄である。この 経には、十住以前の菩薩の修行が、 未レ上し住前有し十、順二名字一菩薩常行二十心元所謂 信心念心精進心慧心定心不退心廻向心護心戒心願心。 仏子修一行是心一若経一二劫二劫三劫﹃乃得レ入二初住 位中元︵巻上、集衆品第一、大正二四・一○二c︶ 仏子、従し不し識し始二凡夫地﹁値二仏菩薩一教法中起二 一念信一便発二菩提心記是人爾時住前名三信想菩薩﹁ 亦名二仮名菩薩﹁亦名二名字菩薩兎其人略行二十心元 所謂信心進心念心慧心定心戒心迺向心護法心捨心願 心。︵巻下、釈義品第四、大正二四・一○一七a︶ と説かれている。これに依れば、いまだ初住に入ってい ない者は、信想の菩薩・名字の菩薩・仮名の菩薩などと 名づけられ、信心等の十心を行ずるものであるといえよ う。﹃菩薩理路本業経﹄の修行階位としては、賢聖名字 ⑪ 品に十住より妙覚地に至る四十二賢聖が、また、賢聖学 ⑫ 観品ではその四十二賢聖を六種性に区分して各々の位次 が掲げられている。従って、この経には、信はいわゆる 賢聖の中には加えられていないと考えられるが、賢聖の 初めである発心住を明かす中で住前の十心︵十信心︶に 関説があり、その信心等の十心を修行することによって 初発心住に入ることを得るのである。 法蔵は、﹃華厳五教章﹄の行位差別において、小・始・ 終・頓.円の五教に約して、行相と位相に関する差別を 明かし、自身の成仏説を論じているといえる。五教の各 ⑬ をについて位相と不退と行相の三義の面から説いている わけであるが、今は不退ということに焦点を当てて菩薩 の行位を考察することとしたい。 菩薩の歩みにおいて悪趣や二乗地に退堕することなく また、自ら証得したところの法を退失しないと言いうる のはどこにおいてであるか。つまり不退の位を菩薩道の どこに定めるのかによって、行位の差別がより明瞭にな 三 Q q U Jるといえる。五教の中の最初、小乗教では、不退の位を ⑭ 得るのは四善根の第三の忍位においてであり、そこにお ける不退の意味は悪趣に堕することがないことをさすと 考えられる。また小乗教と同様にその解説が略説にとど まっているのは頓教であるが、あらゆる相を離れている ⑮ がゆえに一切の行位は不可説であり、従って不退位を定 めることもないのである。始終二教については、法蔵は 大乗の諸経論を豊富に引用しつつその内容を詳述してい る。まず、始教の不退について﹃華厳五教章﹄に、 二不退位者、依二仏性諭へ声聞至一苦忍﹃縁覚至一 世第一法﹃菩薩至一千週向一方皆不退也。当し知此中 声聞縁覚非二是愚法話是故皆是此始教中三乗人也。 亦可、菩薩地前総説為し退。以三其猶堕諸悪趣一故。 如二琉伽一三若諸菩薩住一勝解行地﹁猶往二悪趣一故、 此尽二第一無数大劫記如し是等也。 ︵大正四五・四八八Cl九a︶ とあって、不退位に二説あることが示されている。前者 ⑯ は﹃仏性論﹄による説で、声聞は苦法智忍、縁覚は世第 ⑰ 一法、菩薩は十迺向において不退を得る。後者は﹁聡伽 論﹄による説で、菩薩の地前には悪趣に堕することがあ るから地前を退とみなすのである。この二説には菩薩の 不退位を十迺向に置くのかそれとも悪趣に退堕すること とのない地上に置くのかで相違があるが、法蔵は﹁探玄 記﹄巻七に、十迺向の位を定めることについて述蕊へる中 に、この﹃五教章﹄の所説と類似した説き方をなしてい る。これは金剛瞳菩薩迺向品釈に相当する箇所で、﹁第 四に定位とは、此は解行位の終り、第一僧祇の満に当た る。仏性論に依れば、此の位の満に至りて方に不退の位 と名づく。琉伽に依れば、此の中に猶自ら地獄の中に堕 ⑱ するなり。﹂とある。始教に約して十迺向の位を定める のであり、﹃仏性論﹄に依れば解行位の終りすなわち十 行の満に至って不退を得るのであるから、十廻向といっ てもそれは初廻向を不退位とする意味でなければならな い。 次に、終教では不退をどのように位置づけているかと ⑲ いえば、十住の初すなわち初発心住において、もはや二 乗地に退堕することはないとする。従って悪趣や凡位に 堕することもない。ところで何故に不退の位を初住に定 めたのか、その根拠を法蔵は、信ということをどう見る のかという観点から、次のように述尋へる。﹁五教章﹄の 終教の位相を論じて、 若依二終教﹁亦説一菩薩十地差別﹁亦不下以一見修等 34
名一説竺又於二地前一但有三賢和以三信但是行非二是位一 故。︲未し得二不退一故。 本業経云未レ上し住前有二此十心﹁不し云レ位也。 又云、始従二凡夫地一値二仏菩薩へ正教法中起二一念信一 発二菩提心﹁是人爾時名為二住前信想菩薩﹁亦名二仮名 菩薩名字菩薩﹃其人略修二行十心﹁謂信進等。広如二 彼説毛 又仁王経云、習忍已前行二十善一菩薩有し進有し退、猶 如一一軽毛随レ風東西一等。︵大正四五・四八九a︶ とある。終教の位相においては、十地以前には十住・十 行・十週向の三賢位があるのみであって、信は行に他な らず位とはいえないので、いまだ不退を得ないのである。 このことを法蔵は、﹃菩薩喫略本業経﹄﹃仁王般若経﹄を 教証として、十住と住前の信に退・不退の区別があるこ とを明らかにしている。菩薩の修行階位を説く経典とし て先述した大乗経典は法蔵によって終教の中に編入され ていることが知られる。信は位を意味するものでなく、 またいまだ進退があって不退とはいえないことから、初 住においてはじめて不退を得るとみなしたのが終教の立 場なのである。 菩薩が不退を得る段階について始教と終教には異なり があり、始教では初廻向、終教では初住という階位にお いてであった。それに対して五教の第五円教では、三乗 に寄同することのない独自の行位説が示される。﹃五教 章﹄には別教に依拠して、行位に寄位・約報・約行の三 ⑳ 義が立てられる。第二の約報において見聞・解行・証入 ⑳ の三生成仏が、そして第三の約行において自分・精進分 の二分が論じられており、それらも信満成仏と別異なも のではなく、信満の内容をなすものであることが示され ている。第一の寄位に約して顕わす箇所には、 一約一一寄位一顕、謂始従し信乃至二仏地一六位不同。 随し得二一位一得二一切位記何以故。由下以二六相一収上故、 ⑳ 主伴故、相入故、相即故、円融故。経云、在二於一 ⑳ 地一普摂二一切諸地功徳記是故経中十信満心勝進分上 得二一切位及仏地一者其事也。又以二諸位及仏地等相 即等一故、即因果無二始終無擬。於二二位上一即是 菩薩即是仏者、是此事也。 ︵大正四五・四八九blc︶ とあって、円教の位次は、一位を得れば同時に一切位を 得るという主伴具足。相即相入・円融無磯ということに 他ならない。しかし三乗教の位相に寄せて説くならば、 信より仏地に至る六位は不同であり、このように円教は 、 『 一 , 0
@ 円融と行布の二門をもって明らかにされるのである。円 教の実義よりすれば、浅深高下と次第する階位の不同は 説く必要もなく、信満の一位を得れば一切位および仏地 を得るのである。相即相入の縁起無磯という理由によっ て因果無二.始終無砿が成り立ち、この位の上に成仏 が可能となっているといえる。 信満成仏ということを明らかにするうえに、因果無二 の縁起の関係が深くかかわりをもっと考えられるが、 ﹃五教章﹄巻四の十玄縁起無砿法門義における第三門、 諸法相即自在門には、因果相即ということが問答体をも って論述される。すなわち、﹁初発心時便成正覚﹂とか ﹁初発心菩薩即是仏﹂と﹃華厳経﹄に説かれたその意味 は、因中の徳を讃嘆したにすぎないのにどうしてそれが 果徳をさすことになるのか。この間に対して法蔵は、 ⑳ ﹁一乗の義は因果同体にして一縁起を成ずる﹂ものであ って、もしも因が果を得るものでなければ因は因を成じ たことにはならないと答える。また、果分は不可説でた だ因分のみを論ずるというはずなのに、何故に、十信の 終心に作仏得果の法を説くのか。これに答えて、﹃五教 章﹄巻四に、 ママ 令言二作仏一者、但従二初見間一已去、乃至第二生即 成二解行﹁解行終心因位窮満者、於二第三生一即得二彼 究意自在円融果一美。由二此因体依レ果成一故。但因満 者即没二於果海中一也。為二是証境界一故、不可説也。 ︵大正四五・五○五C︶ とある。すなわちここで作仏得果の次第というのは見聞 ・解行・証入の三生成仏をいうのであって、第一見聞生 において一乗無尽の法門を見聞し、第二解行生でその法 門を円かに解行してその最後心に因位窮満する者が、第 三証入生において彼の究寛自在円融の果を得るのである しかしこの因の体は果に依って成ずるのであって、果を 離れて因を説くことはできないし、また因を説けば必ず その因に対する果を説かねばならない。従って作仏得果 の法は弁ぜられねばならないのである。そうではあるが 解行の因位が窮満して果海に没入したところのその果海 そのものは証境界であって不可説に他ならない。以上に 掲げた、諸法相即自在門における二つの問答を通して、 仏道修行における信満と成仏果との相由相成なることが 明らかになるのであり、信満成仏は一乗義としての因果 相即ということによって成り立つものであることが知ら れるのである。 、 ハ ロ 、
﹁五教章﹄の行位差別では、菩薩が不退を得るのはど の階位においてであるかという点に注目しつつ、小乗教 より一乗円教の成仏説に至る、各々の行位についてこれ まで考えてきた。先の四教が菩薩の修行道の中の何れか の時点に不退の位を定めたのに対して、第五円教は、因 果相即によって信満成仏を明し、円融と行布の両面から 行位が明らかとなるのであるからそれゆえに不退位とい う位次に拘泥することはなかったといえる。そのことは ﹃探玄記﹄にも様々な観点から述兼へられているのである が、そのことを賢首品釈の中から少しく確かめてみたい。 法蔵は﹃探玄記﹄賢首品釈において、十信の菩薩が成 仏を現ずるのは暫時の化現をさすのか、それとも実成を ⑳ 意味するのかと問い、三乗初教と終教と一乗円教の立場 をあげてこれに答えている。まず初教では十信はいまだ 不退を得ていないのだから論外としかいいようがない。 終教においては、十信の満心の勝進分の上についに十住 の初に不退を得るわけであるから、暫時に成仏を化現す ものであるという。対して、円教では、十信の菩薩の成 仏を実成とみなすわけであるが、そのことは賢首品釈に 四 次のように述べられる。 若一乗円教中実則不レ依レ位。寄二終教位相一以弁し 之、於二信満不退之際一則明下得二彼普賢法界行徳一具 摂二因果一円融無磯埜若以一因門一取則常是菩薩、若果
門取則恒是仏︵大正三五・一八九alb︶
すなわち円教においては実なるものであって、本来、位 に依るものではない。それを終教の位相に寄せて論ずる とき、信満不退の際に普賢法界の行徳を得て因果を摂し て円融無擬なることが明らかになる。本来、位に依るこ とのない円教が信満成仏を説くのは終教の位相に寄せて 説かれた場合であることが明らかとなる。このことは円 紳乃 教に円融と行布の両面あることを表すものということ力 できよう。賢首品釈に、 又此信門中展転鉤鎖該摂如し是。十地等者以一宿為 道元功徳母一諸位行相皆信而成。故上総云下信能転勝 成二衆行一究寛畢至中如来処必斯之謂也。又云在二於一 地一普摂二一切諸地功徳売是此一乗円教法也。三乗中 則不レ得し如レ此。︵大正三五・一八八c︶ と示されるように、行布と円融の二つの在り方において ⑳ 信門に一切の諸位が融摂される。つまり菩薩の行位が展 転鉤鎖して次第行布していくのであるがそれが信におい 37て該摂されるのであり、諸位の行相は信にして而も成ず るのである。 以上、﹃五教章﹄﹃探玄記﹄を中心に、法蔵の成仏説に ついて、菩薩の行位を説く経典にも注目しながらその一 端を考察してきた。まとめてみると、菩薩の修行階位を 説く﹃仁王般若経﹄﹃梵網経﹄﹃菩薩洛凄本業経﹄は、い ずれも偽経と目される経典であるが、それらの中で信は 初発心に住する以前の歩みとして述今へられ、信は軽毛の ごとくいまだ進退ありとか、一念の信を起こせば菩提心 を起こすというように説かれた。﹃華厳経﹄の中では、 賢首品に信の功徳が繰り返し説かれ、菩薩道において信 はその根本をなすものであると同時に一切の功徳を生み だすものであることが明らかにされた。法蔵はこれらの 経典を受容しつつ、五教に約して菩薩の行位を明かす中 で、何れの行位に不退を得るのかということを通して小 乗教・始教・終教の行位を明らかにし、とくに終教にみ られる信満入住の不退を念頭に置きつつ、しかも前四教 とは寄同しない円教の成仏説を説いたのである。それは 円教の成仏説を信満成仏に見出したことを意味するが、 因果無二.始終無擬という縁起相即を論拠としたもので あり、また菩薩の修行道を円融と行布によって位置づけ たものといえるのである。 註 ①智幟の成仏説については、木村清孝著﹃初期中国華厳思 想の研究﹄︵昭和五二年十月、春秋社︶﹁第七章成仏道の 実践﹂に関説がある。 ②吉津宜英著﹃華厳禅の思想史的研究﹄二二頁。 ③インドおよび中国の菩薩階位説については、水野弘元 ﹁五十二位等の菩薩階位説﹂︵﹃仏教学﹄第一八号、昭和五 九年十月︶に詳しい。︸﹂の論文の冒頭に、菩薩の階位説に ついて、﹁五十二位の中で、十住、十行、十廻向、十地の 四十位については、﹃華厳経﹄で説かれているために、五 十二の階位説は﹃華厳経﹄に由来すると一般に考えられて 来た。しかし十信と等覚、妙覚の十二位は﹃華厳経﹂にな く、実は偽経とされる﹃仁王般若経﹂や﹃菩薩喫略本業経﹂ に出ているものを中国仏教で採用して、五十二位説とした ものと思われる。それに﹃華厳経﹂自体が十住、十行、十 廻向、十地の項目をぱ、下位から上位に至る一連の修行階 位として説いているかどうかは問題である。﹂という指摘 がある。 ④﹁総長分為し五。初品是教起因縁分。二舎那品中一周問 答名二挙果勧楽生信分ヱニ従二第二会一至二第六会一来一周問 答名二修因契果生解分諏四第七会中一周問答名二託法進修成 行分記五第八会中一周問答名二依人入証成徳分ご︵大正三 五・一二五b︶ ⑤大正三五・一七五C ⑥浄信と発心について、賢首菩薩品第八に、﹁深心浄信不レ 38
可二破壊一恭一敬供言養一切仏一尊一重正法及聖僧一信二敬 三宝一故発心深信二諸仏及正法一亦信一菩薩所行道一正心 信一向仏菩提一菩薩因し是初発心﹂︵大正九。四三三a︶とあ づ︵︾O ⑦華厳経探玄記巻四、﹁是故此中略弁二所成二十功徳元一能 生三侭智﹃謂覚道之元福徳之母。﹂︵大正三五・一八七C︶ ③同右、﹁十七為二大果堅因﹁謂仏地一切諸功徳法莫レ不下皆 以二不壊之信一為中彼因種芒︵大正三五・一八七c︶ ⑨華厳経探玄記巻第五、﹁下云初発心菩薩即是仏故悉与二如 来一等。此明二行満入位一時即得二普賢位一故、一位即一切位 乃至仏果無し不二円備﹃故云二正覚ご︵大正三五・二○二c︶ ⑩梵網経巻上︵大正二四・九九七Cl︶には、堅信忍︵十 発趣心︶・堅法忍︵十長養心︶・堅修忍︵十金剛心︶・堅聖 忍︵十地︶が説かれており、その中で、十金剛心の第一に ﹁信心﹂が挙げられている。 ⑪菩薩峻略本業経巻上、賢聖名字品︵大正二四・一○二 a、Jに︶ 、 ②同右巻下、賢聖学観品︵大正二四・一○一二blC︶に は、六種性︵習種性・性種性・道種性・聖種性・等覚性・ 妙覚性︶が説かれ、それが六堅︵堅信・堅法・堅修・堅徳 ・堅頂・堅覚︶、六忍︵信忍・法忍・修忍・正忍・無垢忍・ 一切智忍︶、六慧︵聞慧・思慧・修慧・無相慧・照寂慧・寂 照慧︶、六定︵習相定・性定・道慧定・道種慧定・大慧定・ 正観定︶、六観︵住観・行観・向観・地観・無相観・一切種 智観︶とも名づけられるとし、六種性に四十二賢聖を配当 している。 ⑬﹃華厳五教章﹄巻二、﹁第三行位差別者、於二諸教中一皆 以二三義一略示。一明二位相コー明二不退﹁三明二行相ご︵大正 四五・四八八a︶ ⑭同右、﹁二不退者、此中修行至二忍位一得二不退一也︲’︵大正 四五・四八八a︶四善根の第三の忍位において悪趣に堕す ることがないとする説は、﹁倶舎論﹂巻三三の﹁暖必至二浬 梁﹁頂終不し断し善、忍不レ堕一惠趣﹁第一入一一離生一﹂︵大正 二九・一二○C︶などに見られる。 ⑮﹃華厳五教章﹄巻二、﹁若依二帳教﹁一切行位皆不可説 以し離し相し故、一念不生即是仏故。﹂︵大正四五・四八九b︶ ⑯﹃仏性論﹄巻一、破小乗執品︵大正三一・七八一c︶ ⑰﹃琉伽師地論﹂巻三七、成就品︵大正三○・四九八b︶ ⑬﹁華厳経探玄記﹂巻七︵大正三五・二四四a︶ ⑲﹃華厳五教章﹄巻二、﹁十住初即不レ退二堕下二乗地一況 諸悪趣及凡地耶。設本業経説二十住第六心有杉退者、起信論 中釈二彼文一為二示現退一也。為三慢緩者策二励其心一故。而実 菩薩入二発心住一即得二不退一也。﹂︵大正四五・四八九b︶ ⑳﹃華厳五教章﹄巻二︵大正四五・四八九c︶では、﹁二に は報に約して位を明かさば但、三生有り﹂とし、見聞位・ 解行位・証果海位の三位が立てられる。 ④同右、﹁三約レ行明し位、即唯有レニ・謂自分勝進。此門通二 前諸位解行及以得法分斉処一説。如二普荘厳童子等一也。﹂︵大 正四五・四八九C︶ ⑳﹃華厳経﹄巻一、世間浄眼品︵大正九・三九五b︶ ⑳同右巻六・七の賢首菩薩品の所説。 ④円融と行布については、﹃華厳経探玄記﹄巻一に、華厳 39
経が興起された所由の一つとして﹁六顕位故者、為し顕下菩 薩修二行仏因二道至レ果具中五位上故。此亦二種。一次第行 布門、謂十信十解十行十迺向十地満後、方至二仏地﹁従し微 至レ著階位漸次。二円融相摂門、謂一位中即摂二一切前後諸 位記是故三位満皆至二仏地元此二無砿広如二下文諸会所杉 説。﹂︵大正三五・一○八c︶と説かれている。 ⑮﹃華厳五教章﹄巻四、﹁此一乗義因果同体成一二縁起﹃得し 此即得し彼、由二彼此相即一故。若不レ得し果者因即不し成し因。 何以故不し得し果等非し因也。﹂︵大正四五・五○五c︶ ⑳﹁華厳経探玄記﹄巻四、﹁問此中既是十信菩薩現二成仏一 者為二是暫時化現一為二実成一耶。﹂︵大正三五・一八九a︶ ⑳﹃国訳一切経﹄経疏部七の訳註︵八四頁︶には、賢首品 釈のこの箇所を﹁行布、円融に約して信中に諸位を摂する に就きて﹂として、諸説を掲げている。 40