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日本第一の古典

 

古今和歌集

 

 

 

一   「古典」とは何か。 「古典」は「古文」とは違う。 「古典」とは、字義通りに言えば、 「古」すなわち「古い、昔 の」 、「典」すなわち「典籍、書物」を言う。   な ら ば、 書 物 で あ れ ば す べ て「 典 」 か と 言 う と、 そ う で は な い。 解 字 を す れ ば、 「 典 」 の 上 半 は、 木 竹 の 札 す な わ ち「 簡 」 を 並 べ て 糸 で 綴 じ た 書 物 の 原 型 の 象 形、 す な わ ち「 冊 」 に 通 う そ れ、 下 半 は そ れ を 載 せ る 台 の 象 形。つまり「典」とは、台の上に載せて尊重すべき大事な典籍を意味する ( 1 ) 。   す な わ ち、 「 古 典 」 と は、 そ の 内 容 の 貴 重 さ ゆ え に 尊 重 さ れ、 ま た そ の 結 果 と し て、 文 字 通 り の 典 型、 手 本、 特に文明のそれとなったものを言う。

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四   それは多く、非凡なる人々による、分けても精魂傾けた偉大な作品であり、歴史の淘汰に耐え得る内実をすで にして備え、それ故に人々の共感をつなぐものともなった。 二   では、日本における古典は何か。儒学にあっては、例えば四書五経を、あるいは仏教にあっては、例えば『法 華経』 、『大般若経』 、『華厳経』 、『浄土三部経』等を挙げ得るであろうが、それらは皆、外来のものであり、また それぞれ限定された範囲での尊重に留まる。   日本での述作にかかるものとしては、国家としての日本をその始源から説き起こし、その根幹を事実を以って 記 し た 官 撰 初 の 史 書 で あ る、 『 日 本 書 紀 』 を 第 一 と す べ き か も 知 れ な い が、 や は り 漢 字 漢 文 と い う 外 来 の 書 記 方 式による点において、また書物としての普及浸透の度合の点において、日本随一の古典とするのはなお躊躇され る。   和字和語和文、すなわち母語日本語によるもので、かつ時間空間を超え、質量ともに広く深い尊重を享け、日 本人の心性の形成に圧倒的な影響を与えて、 古来日本第一の古典であり続けた書物は、 『古今和歌集』であろう。 古今和歌集は、勅撰和歌集の嚆矢として、成立当初より尊重せられ、多くの人々に愛好せられ、多くの人々 に書写せられ、その和歌は殆ど暗誦せられ、その一言一句は金科玉条と仰がれ、早くよりその研究も行われ

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五 てをり、調査しつくせない程である (久曽神昇『古今和歌集成立論』 )   『 古 今 和 歌 集 』 全 二 十 巻。 延 喜 五( 九 〇 五 ) 年 成 立。 醍 醐 天 皇 の 勅 命 に よ っ て 編 纂 さ れ た、 本 邦 最 初 の 勅 撰 和 歌集である。内容の貴重さのゆえに、また格式の高さのゆえに、千年の永きにわたって国書第一の古典として、 尊崇を享けた書物は『古今和歌集』を措いて他にない。 この押板には、古今、萬葉を始めとして、源氏、伊勢物語に至るまで、数の草子を積みたれども、 また傍らに古今、萬葉、伊勢物語、狂言綺語の草子ども、とりちらされたり。 (『曽我物語』 ) この女房は、古今、万葉、源氏、伊勢物語などをも読む人なり。 (『乳母の草子』 ) 遊ばす草子は、何々ぞ。古今、万葉、伊勢物語、源氏、狭衣、恋づくし、和歌の心を始めとして、情の道を 知る事は、当国内に聞えたり。

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六 (『浄瑠璃十二段草子』 ) 「 身 の 能 は 何 ぞ 」 と の 給 ひ け れ ば、 「 何 と 申 す べ き や う も な し。 母 に か し づ か れ し 時 は、 琴、 琵 琶、 和 琴、 笙、ひちりき、古今、万葉、伊勢物語、法華経八巻、数の御経どもよみしよりほかの能もなし」 。 (『鉢かづき』 )   諸 書、 読 ま れ る 書 物、 読 む べ き 書 物 を 挙 げ る 中 に、 そ の 筆 頭 に 掲 げ ら れ る の は、 『 古 今 和 歌 集 』 な の で あ っ た。 「 源 氏、 伊 勢 物 語 」 の 物 語 に 先 ん じ て は、 「 古 今、 万 葉 」 の 和 歌 が、 そ し て 和 歌 の 中 で も「 万 葉 」 に 先 ん じ て、まず真先に挙げられるのは、 「古今」すなわち『古今和歌集』であった ( 2 ) 。   古来、日本における和語和文による文学の第一は、物語ではなく、和歌であり、歌書第一の書として指を屈す べきは『萬葉集』ではなく、 『古今和歌集』なのであった。   明治までの日本の歌学の、あるいはひろく文学の、中心的な古典は、 「古今集」でこそあれ、 「万葉集」で はなかったと思われる。   そうしてかく「古今集」が孤行して、文学の古典である時期が、十世紀におけるその出現以後、おそらく 千 年 以 上 に わ た っ て あ っ た と 思 わ れ る。 「 古 今 伝 授 」 と い う よ う な ば か げ た こ と が ら も、 そ の 間 に 付 随 し て

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七 おこったけれども、あるいはそうしたばかげたことどもが付随するほど、民族の文学の古典であった。そう してその間、 「万葉集」は忘れられた文学であったと見うけられる。  (吉川幸次郎『古典について』 )   『 無 名 草 子 』 も、 「 万 葉 集 な ど の 事 は、 心 も 言 葉 も 及 び 侍 ら ず 」 と 言 い つ つ も、 「 古 今 こ そ、 古 事 い づ れ も と 申 しながらも、返す〴〵もめでたく侍れ。歌の善し悪しなど申さむことは、いと恐し。撰べる人々、たとひ思ひ誤 りて、よろしき歌を入るとも、帝御覧じ咎めさせ給はざらむやは」として、 『古今和歌集』を称揚した。 『古今和 歌 集 』 は、 「 勅 撰 和 歌 集 の 嚆 矢 と し て 」、 「 日 本 の 歌 学 の、 あ る い は ひ ろ く 文 学 の、 中 心 的 な 古 典 」 と し て 尊 重 さ れたのである。   すでに平安朝において、書物としての『古今和歌集』は、尊重すべき宝典とされていた ( 3 ) 。 嵯峨の帝の、古万葉集を選び書かせ給へる四巻、延喜の帝の、古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ 色 の 濃 き 紋 の 綺 の 表 紙、 同 じ き 玉 の 軸、 緂 の 唐 組 の 紐 な ど、 な ま め か し う て、 巻 ご と に 御 手 の 筋 を 変 へ つゝ、いみじう書き尽させ給へる  (梅枝)   『 源 氏 物 語 』 明 石 の 姫 君 の、 裳 着、 入 内 の た め の 調 度 と し て、 勅 撰 下 命 者 醍 醐 天 皇 宸 筆 の『 古 今 和 歌 集 』 の 善 美を尽した巻子本が、これも嵯峨天皇宸筆の「古万葉集」とともに調えられた、と言う。史実としても、同様の

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八 例のあったことが伝えられている。敦盛親王出産の中宮彰子の、内裏還啓の際に調えられた品々。 造りたる御冊子ども、古今、後撰集、拾遺抄。その部どもは五帖に造りつゝ、侍従の中納言と延幹と、各々 冊子をひとつに四巻を当てつつ、書かせ給へり。表紙は羅、紐同じ唐の組、懸籠の上に入れたり。 (『紫式部日記』 )   禎子内親王の裳着の際の祝いの品々。 貫之が手づから書きたる古今二十巻、御子左の書き給へる後撰二十巻、道風が書きたる萬葉集なんどを添へ て奉らせ給へる、世になくめでたき物なり。 (『栄花物語』御裳着)   い ず れ に し て も、 『 古 今 和 歌 集 』 ば か り は、 平 安 朝 の 晴 れ の 調 度 と し て 欠 か す こ と の で き な い 書 物 な の で あ っ た( 『類聚雑要抄』 )。   無論、尊重は、その内容あってのことである。   阿 仏 尼 は 歌 詠 み の 心 得 と し て、 『 庭 の 訓 』 に 言 う。 「 古 今、 新 古 今 な ど 以 下 の 歌、 諳 に 皆 覚 え た き 事 に て 候 ふ 」 (広本) 。『夜の鶴』にもまた言う。 「歌のしるべは、万葉、古今もなほ跡留れりけり」 、「たゞ歌の本体には、古今 の歌を見覚えて、本歌にもすべし」 。

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九   『 身 の か た み 』 に も「 草 子 な ど を 御 覧 ず る 事、 総 じ て 歌 集 な ど 御 覧 じ 候 て、 十 二 代 集 の う ち、 と り わ き 古 今 集 肝要にて候」とあった。   『古今和歌集』は、永く後代に至るまで、拠るべき典型とされたのである。   特に、日本人の季節感は、 『古今和歌集』を典型としている。   例えば、春の「梅に鶯」の風情。これは、とりわけ『古今和歌集』が愛好し、洗練させた季節感であった。    題知らず         読人知らず 梅が枝に来ゐる鶯春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつゝ  (春歌上   五)    雪の木に降りかゝれるを詠める     素性法師 春たてば花とや見らむ白雪のかゝれる枝に鶯の鳴く  (同     六)    題知らず         読人知らず 折りつれば袖こそ匂へ梅の花ありとやこゝに鶯の鳴く  (同    三二)   新春に、春の訪れを告げて咲く梅に、これまた春を告げて鳴く鶯の取り合わせは、梅が香に鶯の声相俟って、 いかにも日本の初春の風景にふさわしい。

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一〇   しかし、現実には梅の花に来る鳥はメジロの方が一般的のようであるし、鶯の鳴くのも、藪の中であることの 方が通常らしい。   「日本では「梅に鶯」が定まった配合であるが、唐土では「柳に鶯」が取合わされている」 (青木正児「鶯はウ グイスに非ず」 『中華名物考』 )。 『萬葉集』においても、鶯の鳴くのは梅の枝ばかりではなかった。    百済野の萩の古枝に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも  (巻八   一四三一)    春霞流るるなへに青柳の枝喰ひ持ちて鶯鳴くも  (巻十   一八二一)    鶯の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ  (   同   一九八八)    鶯の来鳴く山吹うたがたも君が手触れず花散らめやも  (巻十七   三九六八)   「梅に鶯」の風情は、 『古今和歌集』において提示され定着を見た、言わば理想の美意識なのであった。   以 下、 春 夏 秋 冬、 季 節 の 移 り 行 き か ら、 自 然 観、 人 生 観、 そ の 細 々 に 至 る ま で、 『 古 今 和 歌 集 』 は、 以 後 の 日 本人の心性の典型となった ( 4 ) 。 『 古 今 集 』 に 典 型 的 に あ ら わ れ た 美 的 価 値 の 体 系 は、 そ の 後、 少 く と も 平 安 朝 の 末 ま で ほ と ん ど 変 ら な か っ た と 考 え る こ と が で き る。 『 古 今 集 』 美 学 の 成 立 は、 ま さ に 平 安 朝 美 学 四 百 年 の 歴 史 の は じ ま り で あ り、 そ の平安朝美学はまた長い間後世の美的世界に深い影響を及ぼしつづけたのである。

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一一 (加藤周一『日本文学史序説』 ) 三   古 典 は、 そ の 内 容 の 持 つ 魅 力 と い う 内 部 的 な 要 因 と、 そ れ ゆ え の 社 会 的 な 尊 重 と い う 外 部 的 な 要 因 と に よ っ て、社会に、個人に、そのあり方を規定するまでの、大きな影響を与えることとなる。   『清少納言枕草子』には、平安朝における、その興味深い逸話が伝えられている。 村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一条の左の大臣殿の御娘におはしけると、誰かは知り奉らざ ら む。 ま だ 姫 君 と 聞 こ え け る と き、 父 大 臣 の 教 へ 聞 え 給 ひ け る こ と は、 「 一 つ に は 御 手 を 習 ひ 給 へ。 次 に は 琴の御琴を、人よりことに弾きまさらむとおぼせ。さては古今の歌二十巻をみなうかべさせ給ふを御学問に はせさせ給へ」となむ聞え給ひける。 (「清涼殿の丑寅のすみの」段)   「 小 一 条 の 左 の 大 臣 殿 」 藤 原 師 尹 は、 後 に 村 上 天 皇 の 女 御 と な る 娘 に、 何 と『 古 今 和 歌 集 』 全 巻 の 暗 誦 を 命 じ た、 と 言 う ( 5 ) 。 平 安 朝 の 宮 廷 に お い て、 と り わ け 御 妃 候 補 の 女 子 に と っ て、 『 古 今 和 歌 集 』 が 人 格 形 成 の 要 件 で あ り、 必 須 の 教 養 で あ っ た こ と が 窺 わ れ る。 『 古 今 和 歌 集 』 は、 平 安 貴 族 の 共 通 の 教 養 基 礎 を 形 成 し、 そ の 共 感 を

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一二 つなぐものであった。   同様の状況が、明治期においても見出だせることは、驚くべきことである。     西 村 孝 次 に、 初 め て 会 っ た と き、 雑 談 の 末 に、 ふ つ と 気 が つ い た や う に、 か う 私 は 訊 か れ た こ と が あ つ た。忘れ難い思ひをしたものである。 「 あ な た、 ね、 あ の 頃 の 京 都 の 町 の 旦 那 衆 の 教 養 つ て な ん だ か 知 つ て ゐ ま す か。 …… ま さ か『 論 語 』 の 素 読 だ、 な ど と 言 ひ 出 し は し な い で せ う ね 」 と 気 を 持 た せ ら れ て、 全 く 想 像 も つ き ま せ ん と 素 直 に 私 が 答 へ る と、 「『 古 今 集 』 で す よ、 『 古 今 集 』 一 千 百 十 一 首 を 全 部 暗 記 し て、 こ れ を 完 全 に 自 分 の も の に し な く ち や な らんのです、だから、旦那になると決められた大店の長男は、もう若いとき、といふより幼いときから百人 一首から初めて、古今集へと近づいて行くんです。旦那衆の集まりや、町なかで知人に会つたときの挨拶の 言葉のはしばしにも、それが生かされてゐなくちゃならないんです、さり気なくね。受けこたへも、それに 沿つてなされなくちやいけません。ましてや、古今集を露骨に持ちだしたりしたら、もうお笑ひ草ですよ。 そこに附合の妙味も苦心のほどもあるんです。だから、生活の隅々にまで、あの世界は沁み込んでゐたんで す。 季 節 感 ば か り ぢ や な い ん で す よ。 僕 の 親 父 は 但 馬 の 奥 か ら 出 て き た 田 舎 者 で し た か ら ね、 若 い と き か ら、それを忠実に実行してきたんです」 (郡司勝義『小林秀雄の思ひ出 ( 6 ) 』)

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一三   同様の事情は、和歌の修練において一層顕著であった ( 7 ) 。同じ明治期、和歌修行を志して香川景樹の門流、桂園 派に入門した柳田国男にも、次のような証言がある。 桂園派などの教育法では、最初に古今集をよく読めと教へられる。それと後々の世の歌とどこが最も異なつ て居るかを、めい〳〵に覚らしめるのが目的であつたように考へられる。さうして居るうちに自然に古今集 が好きになる。いつと無く自分の下手が判るやうになつて途中で止める者と、心から人の歌を賛美し得る者 とを、多くするのも景樹翁の計画のうちでなかつたかと思ふ。少なくとも私たちは、御蔭で一生涯古今集を 愛吟するの楽しみを与へられた。受用無限である。 (「歌と「うたげ」 」『民謡覚書』 ) 四   影響力の強さは新しい創造力を刺激し、またその創造の源泉となって、継承されて行く。   『古今和歌集』に倣う、勅撰和歌集の編纂は、以後二十回、五百年にわたる伝統となった(二十一代集) 。      一   古今      十一   続古今    二   後撰      十二   続拾遺

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一四    三   拾遺      十三   新後撰    四   後拾遺     十四   玉葉    五   金葉      十五   続千載    六   詞花      十六   続後拾遺    七   千載      十七   風雅    八   新古今     十八   新千載    九   新勅撰     十九   新拾遺    十   続後撰     二十   新後拾遺        二一   新続古今   書名も、 『古今和歌集』を基点として、 「後に撰ぶ」 (後撰) 、「遺 のこ りを拾ふ」 (拾遺) 、「後」 、「新」 、「続」と、そ の伝統に連なるものであることを標示している。これは、七二〇年の『日本書紀』に始まる国史の編纂が、同様 に『続日本紀』 、『日本後紀』 、『続日本後紀』 、『日本文徳天皇実録』と受け継がれながら、九〇一年の『日本三代 実録』を最後に中絶に至ったこと(六国史) 、和歌の勅撰に先立つ勅撰漢詩集の編纂が、 『凌雲集』 (八一四年) 、 『文華秀麗集』 (八一八年) 、『経国集』 (八二七年)の三集に留まったことと比較するならば、 『古今和歌集』の拓 いた和歌の伝統が、いかに強固なものであったかを如実に示すであろう。   『 古 今 和 歌 集 』 を 範 と 仰 ぐ 作 歌、 歌 会 の 伝 統 は、 少 な く と も 宮 廷 で は 連 綿 と 受 け 継 が れ、 形 を 変 え つ つ も 現 代

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一五 にまで及んでいる。   そ れ は 伝 統 と し て 受 け 継 が れ た ば か り で は な い。 『 古 今 和 歌 集 』 の 歌 は、 発 想 や 感 受 性 の 原 点 と し て、 ま た 本 歌取りや引歌の本歌として、後代の文芸の母胎ともなった。 古今集は、日本文化の頂点に位する巨大な山なのである。そしてその山から続く巨大な山脈、物語文学、八 代集、そして連歌、能などの巨大な山脈が続いている。古今集を、少なくとも歴史的には、日本の文化の主 流に聳える巨大な文化の頂として認めない限り、日本の精神史は十分に理解されないのである。 (梅原猛「美学におけるナショナリズム」 『美と宗教の発見   創造的日本文化論』 )   「 八 代 集 」 の 和 歌 の み な ら ず、 「 物 語 文 学 」 も、 「 和 歌 」 か ら 派 生 し た「 連 歌 」 も、 さ ら に は そ れ か ら 分 化 し た 俳 諧 も、 ま た「 能 」 を 始 め と す る 芸 能 も、 以 後 の 日 本 の 文 芸 は、 皆 多 か れ 少 な か れ、 『 古 今 和 歌 集 』 の 影 響 の 下 に開花したのである ( 8 ) 。   滝廉太郎の作曲で著名な明治の唱歌「花」も、その一つである。       花         武島羽衣   一   春のうららの隅田川、

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一六     のぼりくだりの船人が     櫂のしづくも花と散る、     ながめを何にたとふべき。   二   見ずやあけぼの露浴びて、     われにもの言ふ桜木を、     見ずや夕ぐれ手をのべて、     われさしまねく青柳を。   三   錦おりなす長堤に     くるればのぼるおぼろ月。     げに一刻も千金の     ながめを何にたとふべき。     この二番三番は、 『古今和歌集』 、        花ざかりに京を見やりてよめる

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一七    見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける  (春歌上   五六) に基づく ( 9 ) 。新都東京の絶景を、 『古今和歌集』の平安京讃歌に倣って讃えた、古典継承の一例である )(1 ( 。 五   典型となったのは、それぞれの歌に留まらない。   例えば、その序に言うところの和歌の意義、それもまた、歌というものへの認識の典型となった )(( ( 。    古今には、序いとをかしう作りて仕うまつれり。    貫之この方の上手にて古へを引き今を思ひ、行末かねておもしろく作りたる (『栄花物語』月の宴)   『 古 今 和 歌 集 』 に は、 和 語 に よ る 和 歌 の 序、 仮 名 序 と、 漢 語 に よ る 漢 文 の 序、 真 名 序 と が 付 せ ら れ、 和 歌 の 意 義から、その淵源来歴、そして『古今和歌集』編纂の意図が綴られる。それは、和歌の論でもあり、文学論でも あった。

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一八   冒頭には、和歌とは何かが語られている。仮名序に曰く。 やまとうたは、人の心を種として、よろづのことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきも のなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづ の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見 えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛きものゝふの心をもなぐさむるは、歌なり。   和 歌 と は、 植 物 の 種 が 成 長 し て 自 然 に 葉 を 付 け る、 そ の よ う な「 人 の 心 」 の 自 ら な る 展 開 と し て「 こ と の 葉 」 となったものだ、と言う。   「 こ と 」 の「 葉 」 と い う 見 立 て、 そ の「 葉 」 に 対 す る「 種 」 と い う 縁 語。 い か に も『 古 今 和 歌 集 』 ら し い 修 辞 を 駆 使 し、 草 木 の 比 喩 を 以 っ て、 和 歌 の 意 義 が 語 ら れ る。 草 木 の 種 が 芽 を 出 し 生 長 し て 葉 を 茂 ら せ る よ う に、 「 人 の 心 」 と い う「 種 」 が 生 長 し て、 「 こ と の は 」 と い う「 葉 」 を 茂 ら せ る。 そ れ が 和 歌 だ と 言 う。 「 よ ろ づ の こ との葉」とは、 「萬葉」を意識するであろう。 「此の集の元の名続萬葉集なれば、よろづのことのはは、それを思 はへたるにや」 (『古今余材抄』 )。   ここで重視すべきは、和歌というものが草木の比喩を以って語られたことにあるであろう。すなわちここに示 されるのは、和歌とは、人間において植物の生長のような、自然の出来事なのだ、という認識である。真名序は それを、 「自然之理」と明言している。 「自然」という以上、それは生命の必然である。和歌とは、生命あるもの

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一九 の必然なのであった。   は た し て 仮 名 序 は、 「 花 に 鳴 く 鶯、 水 に 住 む か は づ の 声 を 聞 け ば、 生 き と し 生 け る も の、 い づ れ か 歌 を 詠 ま ざ りける」と続ける。事は人間に限ることではない。 「生きとし生けるもの」 、生命あるものすべてが必然として歌 を詠むのだ、と言う。   文学を、広く生命の営みとして、生物一般との連続において意義付ける。それは、文学論として、瞠目すべき ものではないか。   和歌とは「人の心」が「種」となって「ことの葉」を茂らせるものだ。そして、人に限らず「生きとし生ける も の 」 す べ て が 歌 を 詠 む。 そ の 底 に、 「 自 然 之 理 」 の 連 関 を 見、 そ こ に 生 命 の 必 然 を 見 出 す。 そ れ が『 古 今 和 歌 集』の思考法であり、論理であった。   し か し、 そ れ が 自 然 の 営 み で あ る 以 上、 そ れ を 多 少 の 波 瀾 が 襲 う こ と も 避 け ら れ な い 必 然 で あ る か も 知 れ な い。 し か し、 そ れ で も 和 歌 は 根 強 く そ の 生 命 力 を 発 揮 し て、 そ れ を 乗 り 越 え る で あ ろ う。 『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 においては、 「よろづのことの葉」の言葉を裏切らず、和歌の繁栄は植物の繁殖力に準えられる。 この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生ふる葛の這ひ広ごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、 たとひ、時移り事去り、楽しび哀しび行き交ふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散 り失せずして、まさきの葛長く伝はり、

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二〇   和 歌 が、 生 命 の 必 然 で あ る な ら ば、 そ の 繁 栄 も 約 束 さ れ た も の な の で あ っ た。 歌 は、 生 ま れ る べ く し て 生 ま れ、育つべくして育つ。   そ れ か あ ら ぬ か、 仮 名 序 に は、 『 古 今 和 歌 集 』 編 纂 に 当 っ て の、 歌 の 喜 び、 生 命 の 歓 び と 言 う べ き も の が、 横 溢している。 かく、このたび集め撰ばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多く積りぬれば、今は飛鳥川の瀬になる恨み も聞えず、さゞれ石の巌となる喜びのみぞある。 たなびく雲の立ち居、鳴く鹿の起き臥しは、貫之らがこの世に同じく生まれて、この事の時に会へるをなむ 喜びぬる。   ただしこれらの主張には、 「やまとうたは」と言う、つまり「やまと」という限定が付されるのであった。 「や まとうた」とは、無論「からのうた」を意識する。 「唐」ならぬ「大和」 。そこには、中国ならぬ日本では、とい う限定が付くのであった。   中国はいざ知らず。日本では、 「うたは、人の心を種として、よろづのことの葉とぞなれりける」 。   そうして「仮名序は、その「やまとうた」の淵源をたどって、 「ちはやぶる神代」に遡る。

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二一 この歌、天地の開け始まりける時より、出で来にけり。然あれども、世に伝はることは、久方の天にしては 下照姫に始まり、あらがねの地にしては、すさのをの命よりぞ興りける。ちはやぶる神代には、歌の文字も 定まらず、すなほにして、ことの心分きがたかりけらし。人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字 あまり一文字は詠みける。   何 と そ れ は、 天 地 開 闢 の 太 古 に ま で 遡 る と 言 う )(1 ( 。 そ う し て 歌 は、 神 々 に よ っ て 始 め ら れ た も の で あ っ た と 言 う。日本の歌は、神に由来するのであった。すなわち和歌には、神聖なる正統性が保証されるということであろ う。   神に由来するものであれば、その永続発展は疑いない。歴史の必然としても、和歌には絶対的な信頼が置かれ たのである。   仮 名 序 は『 古 今 和 歌 集 』 の 編 纂 に つ い て、 「 古 へ の 事 を も 忘 れ じ、 古 り に し 事 を も 興 こ し 給 ふ と て 」 と 言 う。 『古今和歌集』の編纂撰進は、その、神代に始まる伝統を直手に受け継ぐものであることを宣明するのである。   「今も見そなはし、後の世にも伝はれとて」 。その伝統は『古今和歌集』編纂の拳によってさらに後代に伝わる であろう。    歌の様を知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、古へを仰ぎて今を恋ひざらめかも。

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二二   新纂『古今和歌集』は、必ずや後代から古典と仰がれること疑いない。    すべて千歌二十巻、名付けて『古今和歌集』と言ふ。   「 古 へ 」 か ら「 今 」 へ。 そ し て、 そ の「 今 」 を「 古 へ 」 と す る で あ ろ う、 来 た る べ き「 今 」 へ。 『 古 今 和 歌 集 』 は、神代の過去から受け継がれてきた和歌の伝統を引き受け、現在只今においてその伝統を振起し、未来へと引 き継ぐ、まさに古典となるべき使命を負って編纂されたのであった。 古への世々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、候ふ人々を召して、事に付けつゝ歌を奉らしめ給ふ。あ る は 花 を そ ふ と て 便 り な き 所 に ま ど ひ、 あ る は 月 を 思 ふ と て し る べ な き 闇 に た ど れ る 心 々 を 見 給 ひ て、 賢 し、愚かなりと、知ろしめしけむ。   さらに仮名序は、その後和歌は、時々の帝によって政教の用にされた、と言う。まさに和歌は国家の経営にも 資する文学としての効用を認められたのである。   そ れ は 魏 文 帝「 論 文 」 に 言 う、 「 文 章 経 国 之 大 業、 不 朽 盛 事 」 以 来 の 中 国 の 文 学 論 を 襲 う も の で あ る。 こ の 文 言は本邦初の勅撰漢詩集『凌雲集』がその序に引き、その棹尾を飾ることとなった『経国集』がその名に負い、

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二三 漢詩文奨励の理論的根拠とされた。   し か し、 仮 名 序 は、 そ れ に 対 し、 さ ら に「 然 あ る の み に あ ら ず 」 と、 和 歌 の、 「 人 の 心 」 に お け る 効 用 を 付 け 加えるのを忘れなかった。 然あるのみにあらず、さゞれ石に喩へ、筑波山に掛けて、君を願ひ、喜び身に過ぎ、楽しび心に余り、富士 の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友を偲び、高砂、住江の松も相生ひのやうにおぼえ、男山の昔を思ひ 出でゝ、女郎花の一時をくねるにも、歌を言ひてぞなぐさめける。 また、春の朝に花の散るを見、秋の夕暮に木の葉の落つるを聞き、あるは、年ごとに鏡の影に見ゆる雪と波 とを嘆き、草の露、水の泡を見て、我が身を驚き、あるは、昨日は栄えおごりて、時を失ひ、世に侘び、親 しかりしも疎くなり、あるは、松山の波をかけ、野中の水をくみ、秋萩の下葉をながめ、暁の鴫の羽がきを 数 へ、 あ る は、 呉 竹 の う き 節 を 人 に 言 ひ、 吉 野 川 を 引 き て 世 の 中 を 恨 み 来 つ る に、 「 今 は、 富 士 の 山 も 煙 たゝずなり、長柄の橋も造るなり」と聞く人は、歌にのみぞ心をなぐさめける。   「歌を言ひてぞなぐさめける」 、「歌にのみぞ心をなぐさめける」 。   前 半 は「 人 の 心 」 の 陽 性 的 な 面、 後 半 は 陰 性 的 な 面 に つ い て 言 う が、 言 う と こ ろ は、 和 歌 は、 「 人 」 の「 心 を なぐさめ」るものであるということである。それは仮名序冒頭に言う「猛きものゝふの心をもなぐさむるは歌な

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二四 り 」 に も 呼 応 す る。 こ れ に 徴 す る な ら ば、 「 な ぐ さ む 」 は、 慰 藉 と も い う よ り も、 心 を た の し ま せ、 お だ や か に する意であろう。   これは、和歌の、国家的な効用のみならず、 「人の心」 、すなわち日本人の各個人における意義をむしろ主張す る。   それが他ならぬ『古今和歌集』の仮名序に謳われたことは、和歌が「人の心」を「なぐさむる」文学として、 公に認められたことを意味するであろう。   し か し、 「 人 の 心 を 種 と し て よ ろ づ の こ と の 葉 」 と な っ た と い う「 や ま と う た 」 が、 そ の「 人 の 心 」 を「 な ぐ さむる」故に、国家公認の文学として認められたことは画期的なことであった。   と言うのも、それ以前「文章経国」を旨として、漢詩文は全盛の時代を誇っていたが、その陰で和歌は「埋れ 木 の 人 知 れ ぬ こ と と な り て 」、 雌 伏 百 年 の 隠 忍 の 時 に 耐 え て い た。 し か し、 時 は 変 わ り 代 は 移 っ て、 こ こ に『 古 今和歌集』撰進の壮挙の時を迎えた。ようやく和歌は、再び文学正統の座に位置付けられたのである。あるいは それは、百年に及ぶ熱心な漢詩文習得の末に日本人が得た結論であったか知れない )(( ( 。   それは、いかに漢詩文と言えども、所詮外来のものでしかなかった、日本の「人の心」のあるべき表現は結局 「やまとうた」 、和歌であったのだという自覚的認識であったであろう。日本人は本来の文学であった和歌に、自 覚的に回帰したのであった。   和 歌 は そ れ ま で「 文 章 経 国 」 と し て 位 置 付 け ら れ て い た「 文 章 」、 す な わ ち 漢 詩 文 に 替 っ て、 そ の 位 置 に 据 え られたのである。ここに和歌は、日本の、国家人民枢要の文学として公に認められることとなったのである。

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二五   ここに和歌は、名実とともに国の文学となった。そして同時に、日本は歌の国ともなった。   わが国は詩歌の豊かな国です。アジアやヨーロッパの他の国国に較べても、はるかに多様の種類の詩歌が 古代から現代まで作られつづけ、読まれつづけています。大和朝以来千三百年以上の歴史を持つ五七五七七 音 律 の 短 歌 が あ り ま す。 鎌 倉 時 代 こ の か た 七 百 年 以 上 も 続 い て き た 五 七 五 音 律 の 俳 句 が あ り ま す。 明 治 に なって始まった新体詩、それが変化した自由詩があります。今はさほど盛んとはいえませんが、中国から移 入された、その意味では三千年以上の来歴の漢詩もあります。   わが国の二大国劇といえば能と歌舞伎でしょうが、能の詞章の謡曲も歌舞伎の半分を占める丸本物(人形 浄 瑠 璃 か ら 移 入 し た も の ) の 浄 瑠 璃 も、 常 磐 津・ 清 元・ 長 唄 な ど の 歌 舞 伎 音 楽 の 詞 章 も、 お 座 敷 音 楽 の 小 唄・ 端 唄 の 詞 も 詩 歌 な ら、 神 前 で 称 え ら れ る 祝 詞 や 祭 詞、 仏 前 で 唄 わ れ る 和 讃 の た ぐ い も、 詩 歌 の 範 囲 で し ょ う。 広 く 庶 民 に 謡 わ れ て き た 民 謡 や わ ら べ 唄、 浪 曲、 歌 謡 曲、 ポ ッ プ ス の 文 句 も 詩 歌 に 違 い あ り ま せ ん。   また、平安時代の物語類から江戸時代の浮世草子類にいたるまで、散文の文体も詩歌から大きな影響を受 けています。と申しますより、ほんらい世界のどの民族においても、文芸は詩歌から始まり、詩歌こそが文 芸の中心だったのです。わが国でも、文芸の人の中心は、物語作者でも、現在の小説家に当たる戯作者でも なく、歌詠みでした。平たくいえば現在でいう歌人ですが、実はそれよりもずっと大きな存在でした。 (高橋睦郎『詩心二千年   スサノヲから3・⒒へ』 )

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二六   短歌や俳句をたしなんでいる日本人は数百万を超えると言われている。このような民族は日本民族のほか にはなく、日本人が一億総芸術家言われるゆえんである。   日本人は人生行路の喜びも悲しみも歌(俳句)に託してきたが、日本人をそうさせた歌とはそもそも何で あるか、という問いには、歌があまり身近にあるものだけに、かえって答えがたい。 (谷川健一『うたと日本人』 )   歌の繁栄。今なお日本は、歌の国と呼ぶべきほどに歌の繁栄を見るが、そうなるべき道は、すでに『古今和歌 集』によって拓かれていたのである。 六   『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 に 述 べ ら れ た 和 歌 と は 何 か、 の 論 は、 恐 ら く 和 歌 の 論 に の み 留 ま る も の で は な い。 冒 頭 の、    やまとうたは、人の心を種として、よろづのことの葉とぞなれりける。

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二七 という認識は、 「言の葉」 、すなわち言葉とは何か、ということへの認識を前提とするであろう。   言葉とは何か。それはここでは、 「こと」の「は」と捉えられる。それは同時に、 「事」の「端」でもあろう。 「言」 、「事」とは何か。 「端」とは何か。すでにこれは言語論への展開を孕むものである。   仮 名 序 は、 「 こ と の 葉 」 に つ い て ま た 言 う。 「 人 の 心 を 種 と し て、 よ ろ づ の こ と の 葉 と ぞ な れ り け る 」。 す で に 「 や ま と う た 」 に つ い て 述 べ た よ う に、 「 こ と の 葉 」 も ま た、 「 人 の 心 」 を「 種 」 と し た、 そ の 自 ら な る 展 開 と し て 把 握 さ れ る。 と す れ ば、 「 や ま と う た 」 が そ う で あ っ た よ う に、 言 葉 も「 人 の 心 」 の 生 長 展 開 で あ っ た、 と 考 えられる。それもまた、自然の出来事であり、生命の必然であった。   言 葉 と は、 「 人 の 心 」 の 自 然 の 展 開 で あ る。 そ れ は 何 か の 代 用 と し て の 記 号 と い う 捉 え 方 で も な け れ ば、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 手 段 と し て の 捉 え 方 で も な い。 人 の 心 と 言 葉 と は 連 続 す る も の で あ っ て、 そ こ に 断 絶 は 無 い。これが、 『古今和歌集』の言語論であった。   そして言葉は、歌がそうであった以上、 「天地の開け始まりける時」にすでに出現していた。そしてまた、 「天 の浮橋の下にて、女神男神と成り給へることを言へる」という注文によるならば、それは、神々の声に発するも のであった。 『日本書紀』や『古事記』によれば、 「天の浮橋」に立って矛を下界に下しておのごろ島を創った、 いざなぎの命、いざなみの命が地上に降り立ち、互いに「あなにやし、えをとこを」 「あなにやし、えをとめを」 と、声を掛け合って夫婦となり、国生みをした。その言葉が歌の始源であった、と言う )(1 ( 。   このことは、ただちに西洋、就中キリスト教世界の根幹たる大古典、 『聖書 )(1 ( 』の一句、

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二八    太 は じ め 初に言 ことば あり、言 ことば は神 かみ と偕 とも にあり、言 ことば は神 かみ なりき。 (「ヨハネ伝福音書」 ) を想起させるであろう。   同時に「この言葉を読む者は、誰しも創世記の巻頭、 「太初に神天地を創りたまへり。 」とあるを聯想するであ らう」 (矢内原忠雄『聖書講義』 )。創世記にはこうあった。 元 は じ め 始 に 神 かみ 天 てん 地 ち を 創 つ く り 造 た ま へ り   地 ち は 定 か た ち 形 な く 曠 む 空 な く し て 黒 や み 暗 淵 わだ の 面 おもて に あ り 神 かみ の 霊 れい 水 みず の 面 おもて を 覆 お ほ ひ た り き   神 かみ 光 ひかり あれと言 いひ たまひければ光 ひかり ありき   以後、神は「光 ひかり を昼 ひる と名 なづ け暗 やみ を夜 よる と名 なづ けたまへり」 、「神 かみ 言 い ひたまひけるは水 みづ の中 なか に蒼 お ほ 穹 ぞら ありて水 みづ と水 みづ とを分 わか つ べし」 、「神 かみ 言 い ひたまひけるは天 てん の下 した の水 みづ は一 ひと 処 ところ に集 あつ まりて乾 かわ ける土 つち 顕 あらは るべし」と、次々万物を創り、人間を創る に至るが、それはすべて、 「神の言によりて新なる物質若しくは物体を存在せしむること」 (矢内原   前掲書)で あった。すなわちそれも、神の言葉によるものであった。 「言 ことば は神 かみ なりき」 。言葉が世界を創り、言葉は神であっ た。   これらと、 『古今和歌集』仮名序冒頭の一文を対置するとき、両者は言語論として好対照をなすこととなる。   片 や、 す べ て に 先 立 っ て 言 葉 が あ り、 言 葉 が す べ て を 創 り 出 し、 言 葉 は 神 で あ っ た、 と 言 う『 聖 書 』。 一 方、

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二九 「 人 の 心 」 が そ の 自 然 な 展 開 と し て 言 葉 と な り、 「 い ざ な ぎ 」「 い ざ な み 」 と い う い か に も 人 間 的 な 男 女 の 神 )(1 ( が 「誘 いざな ひ」合った、いかにも人間らしい、恋の言葉に歌の始源を求める『古今和歌集』 。   何という違いであろうか。これは、殆ど互いの了解を絶するような根源的な違いなのではないか。   しかし、両者はともに、言葉の意義を説き、ともにそれをそれぞれの言語世界の始源に位置付ける。いずれに しても、言葉というものが、それぞれの世界を構成する根本原理として位置付けられるのである。そのような原 理から、いかなる世界が現出するのか。それについては別稿を期すが、両者が日本と西洋、キリスト教世界の、 それぞれを構成する根本原理を述べたものと考えられることは、いくら強調しても強調しすぎるということはな いであろう。   その意味において『古今和歌集』は、その日本という世界を構成する根本原理を述べた文を冒頭に掲げる書物 として、名実ともに日本第一の古典として尊重されるべきものであった、と考えられるのである。 七   『古今和歌集』仮名序はまた、それ自身が日本の文章の範型ともなった。   鴨長明『無名抄』に言う。 古人云はく、仮名に物書く事は、歌の序は古今の仮名序を本とす。日記は大鏡のことざまを習ふ。和歌の詞

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三〇 は 伊 勢 物 語 幷 後 撰 の 歌 詞 を 学 ぶ。 物 語 は 源 氏 に 過 ぎ た る 物 な し。 皆 こ れ ら を 思 は へ て 書 く べ き 也。 い づ れ も 〳〵、構へて真名の言葉を書かじとする也。心の及ぶ限りはいかにも和らげて書きて、力なき所をば真名に て書く。   日本文章史の先駆とも言うべき、伴蒿蹊『国文世々の跡』も、 序 は、 古 今 ノ 序、 大 井 川 行 幸 ノ 序、 と も に 紀 ノ 土 州 書 き 給 へ れ ば、 ま た 類 な き も の に て、 此 の 後、 宴 会 ノ 序、 撰集 ノ 序皆是に倣へりと見ゆ。 と言う。   『 無 名 抄 』 に よ れ ば、 日 本 の 文 章、 「 仮 名 に 物 書 く 事 」 は、 「 構 へ て 真 名 の 言 葉 を 書 か じ と す る 也 」。 「 仮 名 に 物 書く」すなわち、やまとことばで文章を書く場合、 「真名の言葉」すなわち漢語の使用は極力排除された。   古来、書記の文章を中国伝来の漢字漢文によって学び、漢字漢文によって始めた日本においては、文章と言え ば、それは漢文であった。古来の母語日本語、すなわちやまとことばによる文章が本格的に綴られるようになる には、漢字の軛から完全に脱却した文字、 「仮名」 (平仮名)の出現を俟たなければならなかった。   や ま と こ と ば を 自 在 に 文 字 に 写 す こ と の で き る 仮 名 の 出 現 を 得 て、 「 歌 の 序 」 も、 「 和 歌 の 詞 」 も、 「 物 語 」 も 書けるようになったのである。すなわち和文である。しかしそれは、やまとことばによることが原則であって、

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三一 漢字漢語による漢文とは一線を画すものであった。   その来由の故であろう、和文は「日記」 「和歌の詞」 「物語」と、専らいわゆる文学的な文章を綴るのを事とし て、事議論に渉る論説的な文章は、中国由来の漢文に委ねることが一般であった。漢文が議論を弄するのを得意 と し、 和 文 が 不 得 意 と し た の は、 そ れ ぞ れ の 文 化 の 特 性 で あ ろ う。 「 抽 象 的 観 念 あ る い は 一 般 的 命 題 を 表 現 し よ うとする場合には、非常に直観的・具体的な表現を用い、個別的事例に即して普通者を了解させようとする」の が、 「日本人の思惟方法」であった、と仏教学者の中村元は指摘している( 『東洋人の思惟方法』 )。   し か し、 こ こ に よ う や く 和 文 に よ っ て 議 論 の 文 章 を 綴 る 機 運 が 生 じ た。 『 古 今 和 歌 集 』 の 和 歌 の 論 が 和 文 で 書 かれることとなった、すなわち『古今和歌集』仮名序である。 記とは上古には仮字にて書くことは無きを、紀貫之、唐の文の体に倣ひて、古今の序を書き、土佐日記を連 ねしより、仮名の序記といふ事は見えたるなるべし。  (『長明方丈記抄』 )   そ れ ま で「 序 」 や「 記 」、 す な わ ち 叙 事、 議 論 の 文 章 が 和 文 で 綴 ら れ る こ と は な か っ た が、 紀 貫 之 に 至 っ て そ れらが現れ始めた、と言う。それは、 『古今和歌集』仮名序を嚆矢とする。   も と よ り『 古 今 和 歌 集 』 に は、 中 国 の 漢 詩 文 集 に 倣 っ て、 漢 文 の 序、 真 名 序 が 備 わ る。 し か し、 漢 詩 文 に 替 わ っ て「 や ま と う た 」、 和 歌 を、 国 家 人 民 枢 要 の 文 学 の 位 置 に 据 え よ う と し、 ま た そ う 主 張 す る『 古 今 和 歌 集 』 には、是非ともそれを他ならぬやまとことば、和文で綴る必要があった。ここに、やまとことばによる議論文、

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三二 仮名序が書かれることになったのである。   し か し そ れ は、 和 文 の 性 質 上、 言 う に は 易 く、 行 う に 難 い 事 で あ っ た。 「 歌 は さ の み 古 書 見 ず と も よ く せ ん。 文は物学ばでは筆立つべくもあらず」 (『国文世々の跡』 )。型の無いところに文章を構えることは至難の技であっ たからである。そして、和文の議論文にその先例は無かった。   こ こ に、 用 語 か ら そ の 構 成、 論 理 か ら そ の 展 開 に 至 る ま で、 新 し い 文 体 が 模 索 さ れ る こ と と な っ た。 そ う し て、 「唐の文の体に倣ひて」 、新しい文体を創出するという難事業が始まった。それはともかくも達成され、仮名 序は空前の、和文による議論文として完成を見たのである。その文体開拓の功は、多とされるべきであろう。   こ う し た 苦 心 の 末 に よ う や く 生 み 出 さ れ た、 日 本 初 の 和 文 に よ る 議 論 文、 『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 は、 以 後 そ の 種の文章の唯一の範型として仰がれることとなる )(1 ( 。   例えば、 「歌の序」 、「撰集 ノ 序 )(1 ( 」。   あたかも「新」 、「古今」を標榜する『新古今和歌集』の仮名序。 やまとうたは、昔天地開け始めて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原の中つ国のことの葉として、稲 田姫、素鵞の里よりぞ伝はれりける。然ありしよりこのかた、その道盛りに興り、その流れ今に絶ゆること な く し て、 色 に ふ け り 心 を の ぶ る な か だ ち と し、 世 を 治 め 民 を や は ら ぐ る 道 と せ り。  か ゝ り け れ ば、 代 々 の帝もこれを捨て給はず、撰び置かれたる集ども、家々のもてあそび物として、言葉の花、残れる木の下も かたく、思ひの露、漏れたる草隠れもあるべからず。然はあれども、伊勢の海清き渚の玉は、拾ふとも尽く

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三三 ることなく、泉の杣繁き宮木は、引くとも絶ゆべからず。物皆かくの如し。歌の道また同じかるべし。   す で に し て 冒 頭 の 一 文 か ら、 「 や ま と う た は 」「 天 地 の 開 け 始 ま り け る 時 よ り 」「 ( 世 の 中 に あ る ) 人 こ と わ ざ 」 「( 歌 の 文 字 も ) 定 ま ら ず 」「 ( よ ろ づ の こ と の 葉 と ) ぞ な れ り け る 」 と、 『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 の 文 言 を 点 綴 す る ことで成り立っている。以下も、 「(古りにし事をも)興こし」 、「青柳の糸絶えず、松の葉散り失せずして」 、「色 に つ き 」、 「 心 を な ぐ さ め 」、 「( 男 女 の 仲 ) を も や は ら げ 」、 「( 古 へ の ) 代 々 の 帝 」、 「( も ろ 〳〵 の 事 ) を 捨 て 給 は ぬ」 、「集め撰ばれて」 、「かくの如くなるべし」等、 『古今和歌集』仮名序の文言に拠ること同断である。   さ ら に、 「 か く て ぞ 」、 「 然 あ る の み な ら ず 」、 「 か ゝ る に 」 等 の 接 続 語 の 多 用、 対 句 の 頻 用、 枕 詞 の 活 用、 そ の 用 語 表 現 か ら、 内 容 構 成 に 至 る ま で、 『 新 古 今 和 歌 集 』 の 仮 名 序 は、 『 古 今 和 歌 集 』 の そ れ に 則 っ て 書 か れ て い る。   「撰集 ノ 序」ばかりではない。源為憲の仏教説話集『三宝絵』 。その序も、 『古今和歌集』の仮名序に範を仰ぐ )(1 ( 。    今を見て古へを思えば、  (『三宝絵』 )    古へを仰ぎて今を恋ひざらめかも。  (『古今集』 )    林に鳴く鶯の音静かに、  (『三宝絵』 )    花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、  (『古今集』 )

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三四    春の日遅く暮る、……秋の夜明け難し、  (『三宝絵』 )    春の花の朝、秋の月の夜ごとに、  (『古今集』 )    大荒木の森よりも繁く、荒磯海の浜の真砂よりも多かれど、  (『三宝絵』 )    野辺に生ふる葛の這ひ広ごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、  (『古今集』 )    物言はぬ物に物を言はせ、情無き物に情を付けたれば、  (『三宝絵』 )    力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、  (『古今集』 )    たゞ海の浮木の浮かべたる事をのみ言ひ流し、沢の真菰の誠なる言葉を結び置かずして、  (『三宝絵』 )    あだなる歌、はかなき言のみ出で来れば、  (『古今集』 )    これによりて、あまたの貴き事を絵に描かせ、また経と文との文を加へ添へて奉らしむ。  (『三宝絵』 )    かゝるに、……万葉集に入らぬ古き歌、自らのをも奉らしめ給ひてなむ。  (『古今集』 )   「 為 憲 の『 三 宝 絵 』 は、 そ の 書 物 と し て の 性 格 上、 表 記 は ひ ら か な 文 」( 出 雲 路 修『 三 宝 絵  平 安 時 代 仏 教 説 話

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三五 集』 )。その和文による議論文の範型として、 『古今和歌集』仮名序が、 『三宝絵』にとってもいかに偉大な存在で あったか、以って知ることができる。   し か し、 こ の た び は、 「 撰 集 ノ 序 」 な ら ぬ、 仏 教 説 話 絵 本 の 序。 そ こ に は、 「 撰 集 ノ 序 」 な ら ぬ、 仏 教 説 話 絵 本 の序としての意図が籠められている。   『古今和歌集』は、和歌の効用として、    力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、 を挙げたが、これに対して『三宝絵』は、 「物語と云ひて女の御心をやる物」について、    物言はぬ物に物を言はせ、情無き物に情を付けたれば、 と言う。これは、 『三宝絵』の、物語に対する認識を示すものであろう。これに対して、 『三宝絵』は「あまたの 貴き事を絵にかゝせ、また経と文との文を加へ副へ奉らしむ」ものだ、と言う。それは、和歌や物語とはまた別 の、 『 三 宝 絵 』 独 自 の 自 己 主 張 で あ る。 し か し、 そ れ は『 古 今 和 歌 集 』 の 仮 名 序 を 踏 ま え る と こ ろ か ら な さ れ い る。   あるいは、 『源氏物語』蛍の巻の物語論。光源氏の発言として語られるが、その骨法も、 『古今和歌集』仮名序

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三六 の和歌の論を恐らく踏まえる。 その人の上とて、ありのまゝに言ひ出づることこそなけれ。善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見 るにも飽かず、聞くにも余ることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠め難くて、言ひ置き 始めたるなり。   『源氏物語』の物語論は、 『古今和歌集』の和歌の論に倣いつつ整えられたものであろう(村井順『源氏物語評 論』 )。   しかし、事はそれに留まらない。 『源氏物語』は、 『古今和歌集』が和歌を「心に思ふことを、見るもの聞くも のにつけて言ひ出だせるなり」と、言わば直接的な言語表現であるとしたのに対して、物語を「ありのまゝに言 ひ 出 づ る こ と こ そ な け れ 」、 「 見 る に も 飽 か ず、 聞 く に も 余 る こ と を 」、 「 心 に 籠 め 難 く て、 言 ひ 置 き 始 め た る な り」と、それが止むに止まれぬ虚構の表現であることを強調した )11 ( 。   『 源 氏 物 語 』 は『 古 今 和 歌 集 』 和 歌 の 論 を 踏 ま え つ つ、 む し ろ 和 歌 と は 自 ら 別 の、 物 語 の 意 義 を、 あ え て そ れ に ぶ つ け て 主 張 し よ う と し た の で は な か っ た か。 そ こ に は、 す で に 和 歌 の 一 大 古 典 と な っ て い た『 古 今 和 歌 集 』 に対抗し、それを凌駕しようとする意図があったかも知れない )1( ( 。   和 歌 の 論 に 対 し て、 『 三 宝 絵 』 説 話 の 論。 そ し て 物 語 の 論。 新 し い 文 芸 は、 次 々 に す で に 古 典 と な っ て い た 『古今和歌集』仮名序の範型を借りて、自らへの認識を鍛え、和歌に対抗して行ったのである。

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三七   和歌から分化し、やがて独立して行った連歌も例外でなかった。その初の撰集『菟玖波集』は、それ自体『古 今和歌集』に倣うものだが、その仮名序もまた、 『古今和歌集』仮名序を踏まえて、自らを主張した。   やまとことのはは天地開けしよりも興りて、ちはやぶる神代に伝はれりと言へども、人のしわざとなりて ぞ、句を整へ、文字の数定まれりける。風賦比興雅頌の六くさを分かち、長短、旋頭、混本の様々の姿を定 めしより、言葉の花色を争ひ、思ひの露光を添へずと言ふことなし。   然るに、連歌は言つゞまやかに、旨広くして、文の心にわたり、歌の様に叶へり。日本武尊は夷の乱れを やはらげて、筑波嶺のこと繁きわざをあらはし、中納言家持は佐保川の水に浅からぬ心を述べ、業平の朝臣 は逢坂の関に情を留め、天暦の帝は滋野内侍にみことのりを残し、北野の天神は天の御戸ふり行くことを告 げ給ひき。   「 ち は や ぶ る 神 代 に は、 歌 の 文 字 も 定 ま ら ず 」 等 の 文 言 そ の 他、 す で に『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 の 表 現 に 拠 る こ と 歴 然 と し て い る。 日 本 武 尊 以 下 五 人 の 列 挙 は、 『 古 今 和 歌 集 』 六 歌 仙 の 列 挙 を 襲 う で あ ろ う。 い ず れ に し て も、 『菟玖波集』は『古今和歌集』の仮名序に依拠しつつも、 「連歌は言つゞまやかに、旨広くして、文の心にわ たり、歌の様に叶へり」と、連歌の特質を挙げ、冒頭に言う「やまとことのは」とは別の文学的意義のあること 明言している。   そ の 連 歌 か ら 分 化 し た、 俳 諧 も ま た、 『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 に 拠 っ て 自 ら を 主 張 し た。 服 部 土 芳『 三 冊 子 』

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三八 も、 『古今和歌集』仮名序を踏まえて書き起こされている。   俳 諧 は 歌 也。 歌 は 天 地 開 闢 の 時 よ り 有 り。 陰 神 陽 神 磤 馭 廬 島 に 天 下 り て、 ま づ 女 神、 「 喜 哉、 遇 二 可 美 少 男 一 」」 と 宣 ふ。 陽 神 は「 喜 哉、 遇 二 可 美 少 女 一 」 と 唱 へ 給 へ り。 是 は 歌 と し も な け れ ど も、 心 に 思 ふ 事 詞 に 出づる所則ち歌也。故に是を歌の始めとすると也。神代には文字定まらず、人の世と成りて、すさのをの尊 よりぞ三十一字と成る。     八雲たつ出雲八重垣つまごめに八重垣つくるその八重垣を 此歌より定まれると也。和国の風なれば和歌と云ふ。和歌に連歌あり、俳諧あり。  (白双紙)   「俳諧は歌也」と言い、 「和歌に連歌あり、俳諧あり」と言う。とすれば、俳諧の論が『古今和歌集』仮名序の 和歌の論の延長として書かれるのも当然であろう。特に文中「すさのをの尊」に触れた箇所は、仮名序「人の世 となりて、すさのをの命よりぞ、三十一文字あまり一文字は詠みける」を、ほぼそのままに引く。   ただし、俳諧は和歌や連歌と同じものではない。   詩歌連俳はともに風雅也。上三のものには余す所も、その余す処迄俳は至らずと云ふ所なし。花に鳴く鶯 も「餅に糞する椽の先」と、また正月もおかしきこの頃を見止め、又、水に住む蛙も「古池にとび込む水の 音」といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に俳諧を聞き付けたり、見るに有り、聞くに有り、

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三九 作者感ずるや句と成る所は、則ち俳諧の誠也。  (白双紙)   『 三 冊 子 』 は、 仮 名 序 に 印 象 的 な「 花 に 鳴 く 鶯、 水 に 住 む 蛙 」 を 逆 手 に 取 っ て、 俳 諧 に は、 俳 諧 の 新 境 地 が あ る、と主張する。引かれた句は、芭蕉の、    鶯や餅に糞する椽の先  (『鶴来酒』 )    古池や蛙飛びこむ水のをと  (『波留濃日』 ) である。   す で に 述 べ た よ う に、 「 鶯 」 と い え ば「 梅 」 で あ る し、 「 蛙 」 も ま た「 水 に 住 む 蛙 の 声 を 聞 け ば 」 と 言 う よ う に、 「声」を賞美するものであった。芭蕉は、 「鶯」に「餅」 、そして「糞」を取り合わせ、 「蛙」には「飛びこむ 水 の を と 」 を 響 か せ た。 そ れ が「 俳 諧 」 で あ っ た。 「 二 句 は、 伝 統 歌 学 の 重 圧 か ら 感 受 性 を 解 き 放 ち、 失 わ れ た 抒 情 を 俳 諧 に お い て 復 活 し た 蕉 風 の モ ニ ュ メ ン ト で あ ろ う。 「 詩 歌 連 」 の 世 界 か ら 締 め 出 さ れ た 日 常 性 に お い て、鶯は詞から物へとよみがえり、蛙もまた観念から存在へとよみがえった。それは新しきがゆえに滑稽でもあ り、滑稽なほどに新しかった」 (白石悌三『芭蕉』 )。   俳 諧 は、 『 古 今 和 歌 集 』 以 来 の「 伝 統 歌 学 の 重 圧 」 を 克 服 し て 自 ら の 境 地 を 切 り 拓 い た が、 そ の 理 論 的 な 自 覚 は、 『古今和歌集』仮名序の和歌の論との対決によってなされたのである。

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四〇   右 に 言 う、 「 見 止 め 」、 「 聞 き 付 け た り 」、 「 見 る に 有 り、 聞 く に 有 り 」 云 々 は、 仮 名 序 和 歌 の 論 が「 心 に 思 ふ こ とを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり」と言うのに対する。   師 の 曰 く、 「 乾 坤 の 変 は 風 雅 の 種 也 」 と 言 へ り。 静 か な る も の は 不 変 の 姿 也。 動 け る も の は 変 也。 時 と し て留めざれば留まらず。止むるといふは見止め聞止むる也。飛花落葉の散り乱るゝも、その中にして見止め 聞止めざれば、おさまるとその活たる物だに消えて跡なし。また、句作りに師の詞有り。物の見へたる光、 いまだ心に消へざる中に言ひ止むべし。  (赤双紙)   和歌の「見るもの聞くものにつけて」に対して、俳諧は「見止め聞き止むる」と言い、 「心に思ふ事を」 「言ひ 出 だ せ る 」 に 対 し て、 「 物 の 見 へ た る 光、 い ま だ 消 へ ざ る 中 に 言 ひ 止 む べ し 」 と 言 っ た。 そ こ に は 表 現 に 対 す る 根本的な転換があった。和歌の悠長に対して、その約半分の言語量の俳諧は、表現に厳しく集中したのである。 俳諧に「心に思ふ事」の余裕はない )11 ( 。   し か し、 そ の よ う な 俳 諧 の 論 が、 『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 を 契 機 に 書 か れ た で あ ろ う こ と は 重 視 さ れ て よ い。 そ れは、単なる引用なのではなかった。 「『三冊子』が『古今集』序の初心に立ちかえってこれを祖述したというべ きであろう。漢詩的発想の固定化と表現の類型化を破った和歌の独立宣言は、和歌的発想の固定化と表現の類型 化を破る俳諧の独立宣言に、そっくり流用された。ということは、これが新しい詩の興るところ、いつの世にも くりかえされる永遠のテーゼなのだということであろう」 (白石   前掲書) 。

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四一   かくして『古今和歌集』仮名序は、新しい文芸が自己の理論を展開するとき、その文章の範型となって、一面 でその母胎となり、また一面でそれに対する壁となって、その自覚を鍛えたのであった。   事 は、 文 芸 の 理 論 に 限 ら な い。 日 本 語 の 文 章 が 議 論 に 渉 る 時 は、 『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 は、 そ の 唯 一 最 古 の 原 型として、多少なりともその範型とされたのである )12 ( 。 八   しかし、古典としての『古今和歌集』は、絶大な影響力を後世に及ぼしたが、それ故に、かえって千篇一律、 伝統を墨守することを専一とする弊風を生むことともなった。 ○『古今集』以後何万千の歌尽く同趣向同調子なり。もし後世の人、古き集を読み古き歌を見ば如何に鉄面 皮なりとも、如何にのろまなりとも、まさかにあの様に同じ歌は作れぬ訳なり。いはゆる歌よみは眼を塞い で歌を作りしにやあらん。 (正岡子規「歌話」 )   古典は、一方で尊重のあまり、惰性の伝統となって、また既製の権威となって、後代の自由に対して、制約と して働くこともあった。勢いこれに反発し、これを否定克服しようとする動きを招くこととなる。明治開化期を

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四二 迎え、近代短歌、近代俳句を創唱し、日本の詩歌を革新しようとした正岡子規は、その代表である。   貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の 知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候ひしかば、今日 世人が『古今集』は殊にその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気 地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。先づ『古今集』といふ書を取 りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味 の 歌 に 有 之 候。 日 本 人 と 外 国 人 と の 合 の 子 を 日 本 人 と や 申 さ ん 外 国 人 と や 申 さ ん と し や れ た る と 同 じ 事 に て、 し や れ に も な ら ぬ つ ま ら ぬ 歌 に 候。 こ の 外 の 歌 と て も 大 同 小 異 に て 駄 洒 落 か 理 屈 ツ ぽ い 者 の み に 有 之 候。 そ れ で も 強 ひ て『 古 今 集 』 を ほ め て 言 は ば、 つ ま ら ぬ 歌 な が ら 万 葉 以 外 に 一 風 を 成 し た る 処 は 取 得 に て、如何なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。ただこれを真似るをのみを芸とする後世の奴こそ気の 知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕を 嘗めてをる不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかり に御座候。 (「再び歌よみに与ふる書」 )   子規の、実作における実践も過激なものであった。

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四三    ベラボーメくそをくらへと君はいへど(こん畜生にわれあらなくに)  (『子規遺墨』 )   用語も内容も発想も表記も、あらゆる点において、伝統の革新が求められた。   『古今和歌集』に典型的であった「梅に鶯」の風情も執拗に否定された。    衣を干す庭にぞ来つる鶯の紅梅に鳴かず竹竿に鳴く  (『竹之里歌』 )   折 か ら の 明 治 の 近 代 化 の 波 に 乗 っ て、 『 古 今 和 歌 集 』 の 権 威 は、 完 膚 無 き ま で に 否 定 さ れ、 伝 統 墨 守 の 弊 風 は 一掃された。   和歌は短歌に、俳諧は俳句に一新され、 『古今和歌集』は、名のみあって、読まれざる古典となるに至った。 九   子規の激越な否定によって、さしもの『古今和歌集』の権威も失墜する。しかし、否定されたのは、後代の理 想が投影されて肥大化した虚像であり、その不当な権威なのであって、その潜在的影響は、日本の文化に深く浸 透 し、 今 な お 影 響 を 与 え 続 け て い る。 同 時 に、 『 古 今 和 歌 集 』 自 体 は 依 然 輝 き を 失 わ ず、 心 あ る 人 に よ っ て 再 発

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四四 見され、再び輝きを放つ時を待つこととなる。   その端緒は、すでに例えば吉川幸次郎、梅原猛等によって開かれつつある。   『 古 今 和 歌 集 』 を「 駄 洒 落 か 理 屈 ツ ぽ い 者 の み に 有 之 候 」 と 断 じ た 子 規 に 対 し て、 戦 後、 両 氏 に よ っ て 相 継 い で疑義が呈せられ、にわかに子規への反論が勃興した。例えば、梅原猛「美学におけるナショナリズム」 。   このような自己意識の深みについて、子規は何も知らぬげである。彼はただ歌は理屈を詠むべからずと繰 返すのみである。しかし果して、歌は理屈、すなわち悟性的認識をまじえてはいけないのであろうか。子規 の説がもし一切の悟性的認識をまじえずに純粋感覚で物を見よということであるならば、歌そのものは不可 能になるであろう。なぜなら、既にある対象をあるものとして、柳を柳、風を風として認識することに、す でに悟性の能力が参加しているはずである。結局子規の説は、感覚を離れた悟性の使用は芸術に非ず、悟性 が感情に加わることにより、感情が不純化するという説となるであろう。果して感情は、特に美的感情は、 悟性の介入によって不純化するのか。あるいは逆に悟性の参加によって初めて生じる美的感情というものは ないであろうか。 (梅原猛「美学におけるナショナリズム」 『美と宗教の発見   創造的日本文化論』 )   吉川幸次郎『古典について』も、本居宣長『初山踏』を引いて、また言う。

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四五 歌というものは、そもそもが作り事である。作為である。宣長の語をそのままに記せば、ただにいひ出づる 物にはあらず、かならず言にあやをなしてととのへいふ。それが歌、あるいは文学の、本質であり、使命で ある。古今以下をかえりみない古学のともがらは、そこのところをわきまえない。つまり素材の直写は文学 ではない。少なくともそれのみが文学でない。素材による造型こそ文学だと、宣長はいうのである。   しかしこの宣長の態度は、明治に至って祖述されないことになった。貫之は下手な歌よみにて古今集はく だらぬ集に有之候、子規居士によるこの決定は、継承されて今に至っているように見える。   ま た 一 つ の こ と を い う な ら ば、 子 規 居 士 が、 「 古 今 」 を く だ ら ぬ 歌 集 と す る の は、 感 情 の 直 叙 で な く、 理 屈の歌であるということが、第一の理由のようである。年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはん今 年とやいはん、在原元方。いかにも開巻第一の歌、すでに理屈である。   この元方の歌そのものは、しばらくおこう。詩はしかく必ず理知を排除することによってのみ成立するの であろうか。ことに定型詩ではそうなのであろうか。 五 七 五 七 七 あ る い は 五 七 五 と 音 数 律 の み を も つ 日 本 の 定 型 詩 に お い て も、 感 情 の 表 現 と な る 言 葉 の リ ズ ム が、自然にこの音数にすべり込む場合は、むしろまれであろう。理知の反省による整合、たとえそれは意識 の下部にあるものであっても、それがおおむねの場合に必要と思われる。内部から発散を欲する感情と、外 部から制約を強いる理知と、その二つが整合された緊張が、定型詩の美であると思われる。あるいは、美と

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四六 数学的な真との共在が、定型詩の運命であり、使命であるといって、よいかも知れない。   ところで詩の外形についての以上の反省は、詩の内容となるものについても、ある反省をうながす。詩の 内容は、内的なあるいは外的な刺激に対する感情の反応であるとすれば、反応を率直に表現するのも詩の道 で あ る と と も に、 感 情 発 生 の 経 過 に、 因 果 そ の 他 の 論 理 の 層 を 感 じ、 そ れ を 利 用 し て 感 情 を 強 調 す る こ と も、詩の美を緊張させ複雑にする道であろう。 (吉川幸次郎『古典について』 )   事は、子規以来のやや性急な文学観に反省を迫り、それを生みだした文化や社会のあり方への再考を促すもの であった。   「 歌 は 理 屈、 す な わ ち 悟 性 的 認 識 を ま じ え て は い け な い の で あ ろ う か 」。 「 詩 は 」「 必 ず 理 知 を 排 除 す る こ と に よってのみ成立するのであろうか」 。   子規は、 『古今和歌集』の歌を「駄洒落か理屈ツぽい者」 、つまりは「理屈の歌」として否定したが、はたして 歌 か ら 理 屈 は 排 除 さ れ る べ き な の か。 「 悟 性 的 認 識 」 と 言 い、 ま た「 理 知 」 と 言 う。 な る ほ ど、 歌 に も 理 屈 は 不 可欠であろうし、むしろ理屈は歌を深化させるものではないのか。   だとすれば、 『古今和歌集』の真価は、またあらためて見直されなければならない。   例えば、 「いかにも開巻第一の歌、すでに理屈である」とされた、

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