浅間火山北麓にb
ける鎌原村の歴史地理学的研究
273 浅間火山北麓における鎌原村の歴史地理学的研究
南 雲 栄
治
一︑
はし
がき
関東北西部の浅間火山北斜面地域に関する研究は地質学・自然地理学・農業地理学的立場等から幾多の研究
TX
2)
ハ3X4
﹀ ハ 5
がなされてきたが︑集落地理学・歴史地理学的立場からの研究はまだ少ない︒u
かんぽら筆者はかかる点に着目し︑特に上州鎌原村(群馬県吾妻郡嬬恋村大字鎌原﹀を研究対象として︑歴史地理学的立場
から集落の成立・発展の姿を究明することに重点を置き︑さらに浅間火山北斜面地域の山村の地域性を把握しようと
試み
た︒
特に︑現在の鎌原部落の成立と発展の分野は︑天明三年の浅間火山の噴火と密接な関係があり︑多分に歴史的性格
を含んでおり︑その歴史的発展段階を無視しては理解することができない︒
本研究は筆者が長年にわたって意図する﹁浅間火山北麓及び吾妻川流域における集落の研究﹂の一部をなすもの
で︑昭和三十一年以降引き続いて現地の文献的調査と野外調査を行った結果である︒
274
/
横 町 集 落 中 心 集 落 古 屋 敷 集 落 A
B C
それ故︑実態の把握
をするにあたって︑歴
史地理学的視点に立ち
ながら︑実地調査によ
る集落景観的考察にも
つと
めた
︒
二︑研究地域の概観
第1図 研 究 地 域
妻Z
郡 研
嬬Z究
恋ご地 村 域 大 は 字 群
鎌2馬
原宮県 で 吾 主
関東地方の北西部に位
置し︑上信国境浅間山
北斜面の裾野に発達し
た路村形態の中心集落
の と
横E
町Eこ
及 れ び に 南 連 の 続 古 宮 す 屋やる 敷主北
を研究対象地域とした
のである(第1図参照
) 0 ろ
︿ り は ら
本地域は浅間高原(六里ガ原)の末端が吾妻川に接する近くに立地しており︑集落の標高は九
001
九四
Oメlト
ル内外である︒本地域の地形は北へ行くに従って下降し︑水田地帯が展開し︑吾妻川の断崖に達している︒南は標高
が高く上りとなっているため集落発達の制約となっている︒東は殆んど平坦で畑作地帯となり︑小熊沢の浸食谷に達
しており︑西は小高い丘となっている︒本地域には用水路沿いや︑浸食谷(小熊沢等)に沿って水田がみられるが︑
浅間火山北麓における鎌原村の歴史地理学的研究
やはり畑作を主とした農山村である︒
尚︑本地域は天明三年(一七八六)の浅間山(二五四二メートル﹀の大爆発の際︑鎌原泥流
(6
)による流失・埋没
で甚大な被害を受けた部落で︑多くの人馬と家屋・耕地を失い︑現在の集落はその後復興して出来た集落である︒
鎌原の観音堂境内の文化十二年(一八一五)亥歳七月八日に建てられた流死者供養塔には
天明
=一
笑卯
歳七
月八
日巳
下刻
従浅
間山
大石
泥砂
押出
於当
村四
百七
十七
人流
死為
菩提
建之
と記されてあるが如く︑当時五七O人中︑助かった者はわずか九三人で︑四七七人が流死していることから︑噴火に
お お く わ と や ど
よる被害がいかに大きかったかがうかがえるのである︒また︑長野原町大桑小字小宿の常林寺の釣鐘が長野原町川原
湯付近まで流され︑明治四十三年(一九一
O )
の大洪水の際︑吾妻川の川底が洗われて発見されたことや︑当時鎌原
村にあった延命寺の標石が吾妻郡旧岩島村大字矢倉付近(現在吾妻町﹀まで流失したこと︑鎌原の観音堂の石段が当
時一五O余段(昭和五十四年八月の発掘調査結果では約五O段と判明﹀もあったものが現在は一六段しか地上に現わ
きおおぎれていないことや︑嬬恋村大笹に建立されていた萄山人の書による浅間押しの碑や︑現存する絵図等による実証物に
275
より︑爆発による泥流のすさまじかったことが示されるのである︒
276
交通上よりみれば︑鎌原集落を南北に縦貫する道路は高崎市
と よ お か か み や ま さ ん く ら
豊一同で中山道から分れたもので︑神山宿・三の倉を経て榛名山
お お ど す が お か り や ど
の西裾を迂回しながら︑吾妻郡の大戸に出て須賀尾・狩宿・鎌
原・大笹・上回・善光寺へと通じたのである︒これは中山道の
脇街道であったのである(第2
図 ﹀ ︒
︿っかけまた︑鎌原集落は︑一信州沓掛から浅間山の東の裾野を越えて
草津及び信州上回に通ずる交通路の一駅でもあったのである︒
現在はかかる交通集落としての機構は全くないが︑幾多の特性
をその集落景観に具現している︒
第2図
三︑鎌原集落の成立とその推移
﹁吾
妻郡
誌﹂
ハ
7u
によれば︑鎌原はもと三原の荘に属し︑
建久四年右大将頼朝浅間の三原に遊猟あり︑其頃鎌原郷と称号を給
うという︒この地小字に下原北原等の名多し︑蒲の生じて蒲原と称
した
るか
︑東
村大
字奥
田の
小字
地に
も亦
鎌原
あり
︑蓋
し同
義か
・
かんぽらと記されており︑建久の頃には本地域付近は既に鎌原と呼ばれ
ていたことが推察される︒
現在﹁丸﹂・﹁古屋敷﹂・﹁陣場﹂・﹁下城﹂・﹁上城﹂等の地名主存する如ミバその後戦国時代に鎌原氏(隣接する
哉 は ら し も や い わ み の か み
三原部落の下屋氏の一族)がこの地に拠り︑永禄・天正の頃は本村豪族鎌原石見守が鎌原を領したのである︒
かくの如く︑永禄・天正の頃には既に鎌原集落が成立していたこ乙が認められるのである︒しかし︑その成立内容
は現在みられるが如き計画的設定村落形態よりはむしろ自然発生的農業集落であったと考えられるのである︒
向︑沼田領であり︑鎌原氏の知行地であった鎌原村は︑天和元年(一六八一﹀の沼田藩(真田伊賀守)
の 改 易 後 浅間火山北麓における鎌原村の歴史地理学的研究
は︑徳川幕府の天領となり︑御料所代官の支配地となったのである︒その後︑天明三年の浅間山の噴火により︑
カミ
マ つ
ての村落は全く絶滅し︑現在みられる村落は噴火後新たに復興した路村形態をなす計画的村落である︒それ故︑噴火
以前と以後の村落は土地区画においても歴然とその相違が認められるのである︒
天明三年後復興した鎌原の集落は農業集落としての特色をもち︑かっ︑明治二十六年(一八九三)の信越線の開通
による交通の変遷等により︑その後は著しい変化はみゐれないのである︒z
四︑開拓集落並びに交通集洛としての特性
現在の鎌原は天明三年の浅間山大爆発の災害による結果復興した村落であることからみれば開拓集落と考えられる
のである︒かくの如き集落はわが国においてもその例をみないであろう︒それ故︑現在の集落立地要因は明白であ
り︑災害による計画的集落とみるべき要素を多分に包含しているのである︒
'277
向︑鎌原は交通集落としての特色が認められるのである︒前述の如く大笹宿より大戸を通って高崎へ通ずる中山道
の脇
往還
に立
地し
︑
一応小規模ではあるが︑交通集落の要素たる問屋の存在も認められるのである︒問屋は名主が交
278
代制で行っていた記録がみられる︒鎌原は助郷の課役も果せられ︑文政四年(一八二一)の﹁御先触﹂
(8
や ︑ u
文久
元年(一八六一)の﹁明細書取調帳﹂ハ旦に
堀長
門守
様大
笹御
通行
之節
人馬
差出
申候
また
は︑
中山
道軽
井沢
宿へ
助合
相勤
申侯
と記してある如く︑人馬の徴用が行われたのである︒その他﹁真田信濃守様御通行ニ付村方人馬賃銭割渡帳﹂等交通
関係の文書多数がみられる︒
江戸初期においては︑大笹・沓掛への交通路は堀長円守を始めとして誇大名の往来も公認されていたが︑
一方
︑大
笹から鎌原を通る大戸通りは︑いつ始まったかは不明であるが︑大一Pの関所が寛永八年(一六三一)︑寛文二年(一
六六二)には狩宿の関所が設けられていることからみると︑かなり古くから交通があったことがうかがえるが︑本格
的に交通量がはげしくなったのは元禄年間白)からのようである︒
いずれにせよこの鎌原を通過する大戸通りの街道白﹀は︑どちらかと言えば北国大名の交通を主としたものではな
く︑むしろ中之条・長野原・大笹通りの信州道詰﹀と同様︑信越地方の民間物資の輸送を主としたもので︑交通上か
らも重要な役割を果たしたのである︒
幕末から明治にかけては沓掛より草津への交通がはげしく︑入湯の人々や荷物運搬は鎌原を通って行ったのであ
る︒明治二十八年(一八九五﹀には鎌原村通運会社と村側との契約書臼)ができ︑これによると︑
鎌原
村通
運会
社伊
藤四
郎平
ト本
村区
長代
理横
沢喜
十及
伍長
六名
談判
委員
六名
ト道
路修
繕及
貨物
運搬
等ニ
付協
議ノ
上左
ノ条
項ヲ
約
279 浅間火山北麓における鎌原村の歴史地理学的研究
第 第 第 第 第 ス
条 三 、 条 テ 、 、 条 条 条 明 ヨ 条 、 ハ 、 ヲ 、 平四郎 ョ 治
廿 リ ノ、全、隆、 リ
鎌 通、部、盛、 草津
同 総都恋吾妻 八年 ヲ原 世 、 、 計 、 於 へリ、 ノ、ュ、 zュ 郡 八 経 話人、 持 馬、 ル 、 テ 達 同 月 テ 、 ヲ 、 ニ 、 ハ ス 伍 四 草津 二、指揮、ハ、本村 ノレ 大村高 日日 名、 、貨物、 道路 長 記捺名 ヘ ニ 、 シ 、 、 へ
達 於、 、搬運、 中関
四 上 路 ノ 、 、 尤 、 ノ ビ 安平万吉己主長一作 治 二 郎平 双方成功 馬持霊、、; 、毛、、 専 、 へ内 修繕等木村
へ ノ 、一、 実
へ 芝富梅成 、 阿
編 、 、 協議
換
致 入E 候節 、 中、
置 、 ョ 、 ー ク 、 リ 、 駄 モ ハ、 世人、 ニ 道話 Jfi
ノ ハ 佐藤、 、 付 ー ニ ナ茶本際村 、 、 金五 差 リ 四、 二、 支無之様
平郎、 名、 宛厘
、 ヲ 、
量岡 於ュ、、 接定、、 選ヲ 可
テ、 シ、 出 候事致 ノ 貨金銭現、、 騰佐、、 事ス
上 、 四、 但鎌原
Z
重 、 壁 、
ハ、 リ 、ョ、 地内
勿論精、、、 世、 ヲ
ス 話 、 以
ノレ 々、 人、 ア
コ 貨物、、 へ、
域区
ト 依頼、、
ア ヲ、 ト
ノレ
荷受、、 シ、 ス
J ¥ •
人 世 話、、、 シ 可、
候致、、 一、
280
談判委員
区長代理立 会 人 世
話 人
伊藤四郎平
安 済 義 蔵 山 崎 宇 作 山 崎 杢 平
山崎義平太
安 済 孫 市
滝沢対士口
横 沢 土 屋 林 作
土屋源一郎
佐 藤 口 太
山崎金四郎
河 武 平
⑮
⑮ ⑫ ⑫ ⑮ ⑮ ⑮
喜十
⑮
⑮ ⑮ ⑮
⑮ ⑮
と記してある如く︑本村を隆盛にするには沓掛より草津への物資運搬が非常に重要視されたのである︒鎌原村通運会
社ができたのも物資運搬のはげしさを物語るものであり︑この会社と村が契約しているのをみても︑その交通集落と
しての特色を具現しているのであり︑往時の旅館兼問屋の家が今なお存在しているのである︒
尚︑﹁鎌原誌﹂(巴その他(担にもみられる如く︑鎌原集落の人々は︑江戸時代から明治にかけて︑農閑期には往還の
281 浅間火山北麓における鎌原村の歴史地理学的研究 第1表 鎌 原 の 戸 口 の 変 化
文化4 文化 5 文化6 文化 8 文化9 文化10 文化11
;文化12
1807 1808 1809 1811 1812 1813 1814 1815 文化13 I 1816 文化14I 1817 文政元 1818 文政 2 I 1819 文 政.3 1" 1820 文 政4 I 1821 文 政 5I 1822 文政 7 I 1824 文 政8 I 1825 文政9 I 1826 文政10 I 1827 文政11 I 1828 文政12I 1829
天保元 1830
天保2 I 1831
天保 3 ¥ 1832
天保 4I 1833
天保 5I 1834
i天保ち 1835
総
l i f t
‑
数 戸 )
A品Z F D n u o e n u a u a u a u ワ' η d n i a υ G U
内o a u a u
氏U氏U氏U弓
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のd η δ q o η o n d q o q δ q d q δ
向︒向︒
人
竺l
人1
570 I 148 I 150 I 145 ! 149 148 143 143 146 I 150 143 145 146 153
男 人4 ヴd
76 75 75
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句4 0 o ' A 氏U A U 1 4 n v
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泊 崎a Q u q u F D n t q d 1 4 A U Q U 1ム ヨ d H b q u 必 せ ヴ '
﹃ υ q d A υ R D
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にd F b m b F D R υ 且U巧4氏
υ n d 巧d m d o o a u a u Q u a u n 3 a u 'i'i唱i寸i噌
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146 317 328 387 76
92 100 100 100
147 323 345 420 143
5 0 0 1 7 3 0 3 7
ヴ' n
汐
A U A U A U n V A坐 ヴ
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咽i噌inpunr
︒
4 n 4 F U F O n白
498 539 573 511 4
6 9 6
勾d E O A
生00
4 5 5 4 972 1,095 1,122 997 36
38 35 41 41 41 39 56 115 114 146 133 156 189 194 137 1846
1858 1859 1867 1868 1869 1870 1888 1920 1925 1930 1940 1947 1950 1955 1975 弘化 3
安政 5 安政6 慶応 3 明治元 明治 2 明治 3 明治21 大 正9 大正14
昭和 5
昭和15
昭和22
昭和25
昭和30
昭和50
)は推定
駄賃稼ぎをしていたことが認められる︒
かくの如く︑鎌原集落は交通上よりみても重要な役割を果
たしていたのである︒
(注)
五︑戸口の変化と生活様式
天災により復興した鎌原村の戸口の変化は﹁貞享三丙寅年
上野国吾妻郡鎌原村御検地御水帳﹂(巴・﹁享和四子年家数
人馬
〆高
覚帳
﹂ハ
立・
﹁天
保四
年鎌
原村
宗門
帳下
書﹂
門間
)・
﹁弘
化
三年家数人数馬増減帳﹂ハ8・﹁安政五年村入用夫銭帳﹂翁)
﹁慶応三年宗門人別帳(上州吾妻郡鎌原村)﹂ハ
27
﹁慶応四
年増減差出帳﹂ハ8・﹁明治三年困窮人取調書之帳﹂
( 8
・﹁
吾
妻都誌﹂・﹁国勢調査書類﹂ハ旬その他の資料により︑第1表
の如
くで
ある
︒
これによると︑人口の特質は︑天明三年の噴火当時より噴
火後は著しく減少していることである︒文政三年頃まで噴火
後およそこ0年聞は殆んど一五O人前後であった︒天明三年
当時の人口に達するようになったのは大正になってからであるということからみて︑村の発達過程が推察されるであ
ろう
特に大正から昭和にかけて増加の傾向が明瞭であるが︑全体としてみると一部の年を除けば毎年僅かではあるが増 ︒
加している︒これも村の開発と関係があるのである︒
尚︑男女別人口の割合上の特質は︑落政期を通じて殆んどの年が女子の人口に比して男子人口が多い事で︑これは
浅間火山北麓における鎌原村の歴史地理学的研究
新開拓地にみられる一般的傾向であり︑特に働き盛りの青壮年層の多いことが主な理由である︒
戸数の変化をみても著しい変化はない︒人口の変化と同様︑天明三年以前の数に達したのは大正になってからであ
ることを考えると︑集落発達にも著しい変化はみられなかったようである︒
特に第1表において顕著な事は馬匹の数が藩政期に多いことで戸数と殆んど等しい︒これは前述の如く農業だけで
なく︑駄賃稼ぎを兼ねる者が多かったことによるものであろう︒
落政期から明治にかけての職業構成は殆んど農業である︒前掲文久元年の﹁明細書取調帳﹂には︑
農業
之間
男ハ
薪稼
刈取
其ノ
外往
来之
諸荷
物附
送リ
井‑
一穀
色々
売買
仕侯
︒女
ハ諸
作伝
へ又
ハ芦
刈リ
菜種
堀稼
仕候
とあ
り︑
また︑明治十年の﹁鎌原誌﹂には︑
男農
間往
還駄
賃附
霞カ
リソ
ノ外
山稼
︑女
ハ農
間養
蚕並
山稼
とある如く︑藩政期における鎌原の住民の生活は専業の農業だけに依存できず︑農民は経済生活の源を他の農間稼ぎ
283
に求めたのである︒
本地域が何故かような農間稼ぎをせねばならなかったかを考察すれば︑天明三年の鎌原泥流その他火山性砂磯層の
284 鎌原村の貞享3年 (1帥6)における土地利用の比率と石高 種 別 │石盛 Ii面 I貧 I 対全面す積るにFUi i 分 米
上 田
3. 111 I 15 4 ; 9 1 6 中 田 7 1 2 2 1 1 1 1
下 田 5 I 2 7 9 1 14 3.811 I 13 9 'i7 3 下 々 回 3 1 1 4 i 2 0 0.211 4 4 上 畑 7 1 7 7 1 i 17 10,8" 1 54 1 1 中 畑 1 5 1 10 3 8 ; 27 14.611 I 51 9 4 5 下 畑 4 1 20 i 1 1 ! 17 28.2 11 1 80 4 6 3
下 々 畑 30.0グ 42 ! 7 9 3
屋 敷 7 1 4 1 6 5 9 6. 111 I 32 1 5 7 1
A日 . 計│ 100..0 11 1309 1 5 4
第2表
ため土地が痩せ︑田畑の品位一すが低いために生産力が少なかったためと竺耕
地が少なく︑水田面積も之しかったためである︒男は農閑期に︑主に駄賃
稼ぎをしたのが認められる︒これは鎌原の一特色であり︑全国的にみれば一
山間僻地にして農業専業で生活し得る可能性の乏しい村々は︑中馬稼業が
発生したのと軌を一にしている︒明治三年(一八七O﹀の﹁困窮人取調書
之帳
﹂(
お﹀
はこ
れを
如実
に示
L τ
い 司 る ︒
天明三年以前の土地利用状態をみると︑前掲貞享三年ハ一六八六﹀の検
地帳によれば第2表の如くである︒これによってみると︑最も広大な面積
を占めるのは︑﹁下畑一﹂及び﹁下々畑﹄で︑これに次いでは﹁中畑﹂・﹁上
畑﹂がかなりの割合を示している︒これに対して水田面積は低い率を示し
ている︒田畑屋敷の全面積に対する比率は︑田(九・三%)・畑(八三・
六%)・屋敷(六・一%)となっている︒かくの如く︑鎌原では水田寡少
地域のため農業は主として畑作に依存しているのである︒尚︑﹁下畑﹂・
﹁下々畑﹂で全面積の過半数(五八・二%)を占めていることに・より︑鎌
原の土地が天明三年の爆発前において極めて生産力の低かったことが知ら
れる
天明三年後の土地利用状態をみると︑弘化二年の﹁田畑明細帳﹂ハ哲によ ︒
浅間火山北麓における鎌原村の歴史地理学的研究
鎌原村の弘化2年(1845)における土地利用 の比率
種目 別│石盛│ 面 F責 i 全対面す積るに%
下 回 5
11RC5297 畝 歩 日 %
上 畑 7 5.511
中 畑 5 14.111 I
下 畑 4 31.311 下 々 畑 2 9445;; 7 2 5 26.211 山下々畑 1 12.411
屋 敷 7 1 5 2.911
畑 田 成 2 1 5 7 5 4.311
メ口込 I 36 2 3 ¥ 28 1100•011
れば第3表の如くである︒
これをみると明らかな如く︑天明三年の噴火後六二年経過している
が︑田畑屋敷全面積は噴火前のほぼ半分しか開発されないのである︒︑
t u
第3表
かに噴火の影響が大きく︑なおかっ︑開発が困難であったかが知られ
尚︑品等別にみると︑天明三年以前と同様﹁下畑﹂・﹁下々畑﹂が最大 る
の面積を示し︑﹁中畑﹂・﹁山下々畑﹂等がこれに次いでいる︒﹁山下々
畑﹂は天明三年以前にはみられない︒﹁上畑﹂の面積は低い率を示し︑
水田面積も天明三年以前と同様に寡少である︒しかしながら畑から田に
転化したものが︑日間等は不明だが一町五反七畝五歩存在することは注目
すべきである︒田畑屋敷全面積に対する比率は︑田(七・六%)・畑(八
より出は減少し︑畑は増加していることからみても︑火山砂礁のため水旧化の困難が明瞭であり︑天明三年以後も農 九・五%)・屋敷(一了九
w m )
となっている︒比率は天明三年の噴火前
業経営は畑作に依存していることが認められるのである︒
第4表は開発過程を一示す鎌原村の耕地面積の変化である︒これによると︑貞享三年の耕地面積に達するようになっ
285
たのは明治十三年になってからである︒明治以後の開発は著しいが︑藩政期に遅いのは戸口の変化と一致する︒全体
的に水田が寡少で畑作が主である︒これはわが国の火山裾野が畑作を主としているのと軌を一にしている︒本地域は
286
歩一
n o ‑
1一2 ‑ ‑
積一
a・ 敵 ︒
n 一 v‑ 面 反:
畑 別 7町i 田
159
鎌原村の耕地面積の変化
歩i回
積 反; 畝!
第4衰
│西暦五「面
1686年 l6617 号
年
ト畑 │32;4j i l
畑 173 9: 7 i l~i
6 1 止回
7
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3 1
3
畑 回 止旧 7
3 1845年
問 81
1975年 貞 享3年
弘化2年
明治13年
4 1955年
昭和30年
昭和50年
前述の如く噴火による砂磯層が厚く存在し︑地下水の渉透
性が著しいので︑水田の経営は小熊沢の如き浸食谷の流域
ゃ︑鎌原用水沿い以外は著しく限定される︒それ故︑本地
域の土地利用はその大部分が畑作に依存するほかはなかっ
昭和50年は別に樹園地(主に桑園)12町 8畝がある。
たのである
0 (
なお︑昭和五十年の畑の減少は山林や宅地
に変わったためであるJ
かくの如き事情により︑大部分は六里ガ原の傾斜地を利
用した畑作地帯であるため︑一戸当りの耕地面積は局限さ
れ︑必ずしも余裕ある経営規模ではなかった︒
貞享三年及びその後の一戸当りの比率をみると︑第5表
の如
くで
ある
︒
﹂れによると︑貞享三年には一戸当り五反歩以下の土地
を所有する家が多く︑全体の四六・八%を占めている︒こ
れは零細化された裾野村落の一特質と言えよう︒これに比
ベて明治十三年の二戸当り一町歩以上所有する家が︑天明
注 年以前と逆に全体の九二・八%も占めているのは著しい
特色である︒これは噴火後の開発者の数が少なかったこと
浅間火山北麓における鎌原村の歴史地理学的研究
287
鎌原村の土地配分の変化
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第5表
及び一部に土地兼併が行われたためであろう︒昭和
十年においては農地攻革の結果五反歩から二町歩保有
する農家が多いのが認められる︒昭和五十年になる
と︑五反歩未満の農家が急増しているが︑これは労働
不足や農業収入を考慮して一i二町歩の農家が畑を山
林に転換していった影響が大きい︒この現象は︑西部
た し ろ
のキャベツ栽培の中心地図代部落などと比較して︑
はっきり農業形態が変わってきたことを示すものであ
尚︑本地域で生産される土地利用の内容を示すもの る ︒
として︑明治七年(一八七四)の﹁物産取調書上帳﹂告)
には︑米穀類として﹁玄米・大麦・小麦・大豆・小豆
‑粟・稗・黍・萄黍・玉萄黍・燕麦・陰元豆﹂︑
園 競
類として﹁購萄・胡羅葡・蕪脊・胡瓜・午努・葱・馬
鈴薯
・桑
苗﹂
︑
肥料及び飼料・燃料関係では﹁烏尿・青草・乾草・薪
‑桑
デ・
霞・
麗柔
﹂