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館における1980年代の実践を中心に

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館における1980年代の実践を中心に

著者 君塚 仁彦

雑誌名 東京学芸大学紀要. 総合教育科学系

巻 72

ページ 101‑115

発行年 2021‑02‑26

その他の言語のタイ トル

Children's Museum Activities and Community

Development in Okinawa : Focusing on the

Practice of the 1980's at the Nago Museum

URL http://hdl.handle.net/2309/166800

(2)

* 東京学芸大学 教育学講座 生涯教育学分野(184‑8501 東京都小金井市貫井北町 4‑1‑1)

沖縄の子ども博物館活動と地域づくり

―― 名護博物館における 1980 年代の実践を中心に ――

君 塚 仁 彦 生涯教育学分野

(2020 年 9 月 29 日受理)

1.問題意識と本稿の課題

 沖縄には,子ども博物館という小学生向けの教育活 動を展開する公立博物館が数多く存在する。子どもを 対象とする博物館教育活動は 1980 年代後半に日本に 再紹介されたアメリカのチルドレンズ・ミュージアム やディスカバリールーム等の考え方,地域博物館論や 博学連携論などから影響を受け,現在では各地で活発 に行われるようになった。

 しかし,地域の公立博物館で子ども博物館という名 称での小学生向け博物館教育活動が 1980 年代に広く 行われ,現在でも継続されているのは戦後沖縄に独自 に見られる展開である。管見の限り1,県内で最も早 い事例は,1983 年度からスタートした石垣市立八重 山博物館の「こども博物館教室」であるが,本稿で取 り上げる子ども博物館とは,子どもを主対象として設 立された施設ではなく,地域博物館において教育プロ グラムとして実施される活動を指す。

 沖縄の社会教育史研究おいては,1954 年 12 月に「沖 縄子どもを守る会」が,恵まれない沖縄の子どもたち の福祉増進のため永久施設として設立した「子供博物 館」の存在が確認されている。「沖縄子どもを守る 会」2は,琉球政府時代の 1953 年 12 月,戦後の厳しい 現実の中で子どもたちの人権と暮らしを守ることを目 的に沖縄教職員会や沖縄PTA連合会などを母体とし て設立された。初代会長は教職出身で沖縄教職員会会 長や琉球政府行政主席,初代沖縄県知事を歴任した屋 良朝苗であったが,「子供博物館」の具体的な活動内 容については明らかにされていない。また,本稿で取 り上げる 1980 年代の子ども博物館活動との関連性も

明らかではないが,沖縄の社会教育史研究おいて子ど も博物館活動はやや見過ごされてきたのが現状であ る。

 博物館学研究では,アメリカをはじめ諸外国におけ るチルドレンズ・ミュージアムに関する研究の他,国 内各地の地域博物館や科学館・自然史系博物館などで 行われている「子ども博物館」活動等に関する実践報 告や研究などが多数みられる。幼児教育研究の領域で も幼児の学びにおける博物館教育プログラムを取り上 げた研究などが見られるものの,沖縄の子ども博物館 に焦点を当てたものはほぼ見られない。

 そこで本稿では,戦後沖縄における子ども博物館活 動の草創期である 1980 年代に焦点を当て,地域政策 や社会教育との関係性が顕著にみられる名護博物館

「ぶりでぃ子ども博物館」を分析対象として取り上げ る。そして,実践が持つ文化的・社会教育的価値,地 球的課題となっている

ESD(Education for Sustainable Development)としての価値という 2 つの視点から考

察することによって,この活動が地域づくりに向けた 博物館教育としていかなる独自性と先進性を持ってい たのかという点を明らかにしたい。

 伊藤寿朗は,小規模自治体の「地域志向型博物館」

における典型的な事例の一つとして名護博物館を取り 上げ,独自性あふれる設立理念とそこで展開される参 加体験型教育活動を高く評価 している3。しかし,そ こでは「ぶりでぃ子ども博物館」活動に焦点を当てた 考察はほぼ行われておらず,「地域志向型博物館」で あることの条件ないしは構成要素の一つとして体験学 習が位置づけられているにとどまっている。そして,

活動の背景にある当時の名護市をめぐる歴史的・政治

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的な状況に対する言及もほぼ見られない。

 沖縄の子ども博物館活動は,地域独自の文化と原理 で展開される社会教育活動である。本稿では博物館教 育を対象とする研究においてまま見られる政治的コン テクストと切り離れた方法ではなく,地域社会におけ る政治的要素を踏まえた分析を試みたい。

 「ぶりでぃ子ども博物館」活動のどこがどのように 優れているのか,活動が持つ価値や質とは何なのか,

それを実現した政治的背景,文化としての社会教育や 地域づくりとの関係性と何なのか。全国的に社会教育 行政が縮小傾向にある中,教育実践の内容や方法に視 点を当てつつも,それらを含めトータルに全体像を明 らかにすることが地域博物館における教育研究をさら に深めていく上で重要だと思われる。

2.名護博物館と政策的背景 −渡具知裕徳市政と「逆 格差論」

 米軍基地問題で政治的に大きく揺れている沖縄県名 護市は,沖縄本島中部に位置する人口 63,000 人余の小 規模地方都市である。1984(昭和 59)年,この名護 市に旧市庁舎を再利用して設立されたのが名護博物館 である。

 本章では,名護博物館や「ぶりでぃ子ども博物館」

活動が構想・企画・実践された背景として,名護市誕 生前の名護町最後の町長であり,名護市スタート時の 初代市長であった渡具知裕徳市政について考察する。

その際,渡具知市長の基盤政策である 「第一次名護市 総合計画・基本構想」とその中核にある「逆格差論」

について述べていくことにしたい。

 【写真 1 】は,2014 年 3 月に名護博物館の全景を撮 影したものである。名護市中心部の東江に位置してい た旧名護市役所の建物を転用し開設された。現在,市

内大中ある旧森林資源研究センター跡地で新博物館開 設の準備中であり,博物館そのものは新館への移行を 目指し 2020 年 3 月末日をもって完全休館になってい る。

 【写真 2 】は名護博物館のエントランス部分の写真 である。この建物が博物館施設として建設されたもの ではなく,旧町役場の建物を再利用したものであるこ とが理解されよう。名護博物館の独自性の最たるもの は,博物館開設に向けての市民参加型の準備に表れて いる。地域で生活する幼児や小中学生,その保護者た ち,学校の教員や農業経営者,設計士など実にさまざ まな人びと,そして経験も知識も豊かな高齢者をはじ め幅広い年齢層の市民が,展示資料の制作などに手作 りで参加していた。ユニークな開設準備方法について は,伊藤寿朗が生き生きとした地域志向型博物館の典 型例として描いている。4

 さて,名護博物館のこのような姿を現実にした初代 名護市長・渡具知裕徳市政について見ていくことにす るが,残念なことに渡具知前市長は 2020 年 9 月に逝 去された。その報に接した名護博物館初代館長・島袋 正敏氏は,渡具知前市長を「今につながるまちづくり の大きな基礎を築いてくれた,永く記憶に残る方」と 記し,追悼文の中でその政策理念について述べてい る。やや長いが,本稿のテーマを考えていく上で重要 な内容を含む述懐であると評価できるため,ここでは ほぼ全文を引用する。5

【資料1】

 (渡具知)裕徳さんは名護市誕生前の名護町 長最後の町長で名護市制スタートの最初の市 長,4期 16 年の在任でした。忘れられないの は 1973 年に策定した「第一次名護市総合計画・

基本構想」のまちづくりの基本理念,「逆格差

【写真 1】名護博物館 全景 2014 年 3 月 15 日 筆者撮影 【写真 2】  名護博物館 エントランス 2014 年 3 月 15 日 筆者撮影

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論」のことです。自治・自然保護・生産基盤の 確立,の三本柱を基軸にホンモノの豊かさとは 何かを追求した「まちづくり」の考え方に,職 員や市民有志は震えるほどに感動して受けとめ たものです。裕徳さんは市長として当計画を決 裁して,以降それを基軸に市民参加を促しなが ら市政を強力に推し進めていったのです。

 当時,我々 20 代から 30 代の若い職員 13 名は,

岸本建男(後に市長)をリーダーに,地域自治 研究会を組織して,現名護博物館近くにあった 城山ホテル三階の一角に事務所を置き,毎週火 曜日に集まり,先ずは当基本構想を再度読み直 して確認しながら,名護・山原の地域巡見を し,名護市の北部地域の集落や農地,豊かな森 を確認し,その当たり前の環境をまちづくりに と,さらに意を強くしたものでした。当研究会 は毎月 5000 円を出し合って研究会メンバーの 中から特に若い職員たちを県外の視察研修にも 向かわせました。市民参加のもと,市民大学,

山原展,写真のまちづくり,市史編纂開始,大 学設置,博物館・図書館づくりへと,基本構想 が発した熱気の気脈は続くのです。

 あの市庁舎や 21 世紀の森公園も逆格差論に 拠したものでした。名護博物館づくりも当初,

渡具知市長は古い建物の跡利用ではなく新しく 創ろうとの思いだったが,ボクたちはこの旧市 庁舎跡を徹底して使いこもうと強く主張したの がようやく決裁され,1981 年からの準備,市 民参加の「ぶりでぃ」(群手)でスタートした のです。在来家畜の収集保存にもとても理解を 示され,在来家畜飼育センターの計画も了解し ていたのです。

 島袋正敏氏は,1981 年から始まる旧市庁舎を再利 用する形で進めた博物館開設準備作業をはじめ,名護 博物館スタート時における館長として理念構築や実践 など全てを担った人物であるが,その基盤となってい たのが渡具知裕徳市政で策定された「第一次名護市総 合計画・基本構想」であり,その思想的基盤となって いたのが「逆格差論」である。ここで掲げられた施政 方針や理念が,若手職員によって作成され,市立の歴 史民俗資料館設立等を提起した『名護市における文化 進行の構想−現市庁舎の跡利用を中心に−』(1979 年 12 月)の策定,実現には至らなかったが実際に沖縄 県に提出された『沖縄県立自然史博物館の誘致につい ての要望書』(1979 年 4 月)へと連接していくのであ

る。

  1 町 4 村が合併して誕生した名護市初代市長に渡具 知裕徳が就任したのは 1970 年のことである。都市部 から失われつつあった豊かな自然をそのまま活かし,

産業を活性化させるという「逆格差論」を提唱したこ とで沖縄現代史に大きな足跡を残した市長として知ら れている。【資料 1 】でも確認できるように島袋正敏 氏ら若手職員のエネルギーを集めて「逆 格差論」を骨 子とする「第 1 次名護市総合計画・基本構想」をまと め,1973 年 6 月に苦労をしながら議会承認を得て策 定した。名護湾の埋め立て地への企業誘致を選択せ ず,市民が緑や海と親しむことができる「21 世紀の 森公園」を整備したほか,地場産業や農業生産を重視 するなど,さまざまな施策に取り組んだ。以下,「第 1 次名護市総合計画・基本構想」のうち,名護博物館 の理念や「ぶりでぃ子ども博物館」活動に深く関与す る理念的な説明部分を中心に抜粋するが,最初に概括 的な理念を展開する「はじめに」の一部を引用した い。

【資料 2】

 現代は地域計画が本質的に問われている時代 である。我々が自然の摂理を無視し,自らの生 産主義に全てを従属させるようになった幾年月 の結論は,今自然界からの熾烈な報復となって 現われ,人間は生存の基盤そのものさえ失おう としている。

 従って,名護市の総合計画を策定するに当っ ては,本計画が一つの地域計画として全体世界 にかかわりをもち,地球上の一画を担当してい ることの重要な意味を認識すると共に,本市の 市民一人一人に,人間として最も恵まれた生活 環境を提供してゆくことに,基本的な目標をお くべきであると考える。

 そのためには,目先のはでな開発を優先する のではなく,市民独自の創意と努力によって,

将来にわたって誇りうる,快適なまちづくりを 成しとげなければならない。多くの都市が道を 急ぐあまり,ほかならず生活環境を破壊して いった例に接するにつけ,たとえ遠まわりでも 風格が内部からにじみでてくるようなまちにし たいと思うのである。

 従来,この種の計画は経済開発を主とする傾 向が強く,とくに長期におよぶ,米軍統治と本 土からの隔絶状況におかれていた沖縄において は,「経済大国」への幻想と羨望が底流にあっ

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たのであるが,いわゆる経済格差という単純な 価値基準の延長上に展開される開発の図式か ら,本市が学ぶべきものはすでになにもない。

 本構想は,名護市を人間生活の快適な場とし て創造してゆくための総合計画の第一歩であ り,まちづくりに対する思想の表明である。市 制まもない若い都市のエネルギーを未来に向け て,確実に結晶させてゆくための基本的な考え 方がこの中に盛りこまれている。これから市民 と共に実現の過程へ踏みだしてゆきたい。

 続けて,「第一次名護市総合計画・基本構想」の中 核的思想ともいうべき「逆格差論」に関する部分を紹 介するが,長文のためその一部を抜粋する。

【資料 3】

 ここで改めていうまでもなく,日本は特に昭 和 30 年代後半の池田内閣による「所得倍増計 画」いらい一貫して強い工業開発政策を押し進 め て き た。 そ し て そ の 地 域 的 課 題 と 称 し て

「旧・新全総開発計画」などを地方に押し付け,

さらに「日本列島改造論」を基礎とする「国土 総合開発法」へと展開されつつある。しかし,

こうした一貫した工業,都市優先政策の結果 が,本土においてもいかに深刻なものになって いるか,またこれらに対する国民の批判もいか にきびしいものになっているかという点につい ても多言を要しないであろう。

 これは決して自然的現象などではなく,明ら かに意図的,計画的に進められたものであっ た。それでは,こうした諸政策,計画を与えて きた論理,考え方とは,どのようなものであっ たのか。さまざまなものが考えられるのである が,中でも最も重要な役割を果してきたもの が,いわゆる 所得格差論 であり 地域繁栄 論 であったといえるだろう。つまり,工業と 農業の間に,中央と地方の間に大きな所得の格 差が存在するので,農業をやめて工業を盛んに することによって地方を中央の水準に近づけて いこうという福祉論的な装いをこらした経済学 的論理であった。

(中略)

 名護市総合計画は,いうまでもなく地域自治 体としての名護市が中心となって行う計画であ る。したがってこの計画は,未来の経済的(物 量的)バラ色の可能性(幻想)ではなく,本質

的に現実の社会的必要性に立脚して行なわれな ければならないものであろう。

 さて農業に関していえば,所得格差論によっ て,常に経営規模拡大,自立農家育成という個 別農家政策(貧農切り捨て)が百年一日の如く 語られ,地方でいえば常に工業開発,観光開発

(農林漁業軽視)が語られてきた。しかし今で はすでにこうした現実を見ない農政や,公害を まき散す工業政策,地域資源を破壊する観光政 策などは,その所得格差論とともに現実的に破 綻してしまったといえるであろう。

 この意味からすれば, あなた方は貧しいの です という所得格差論の本質とは,実は農村 から都市への安価な工業労働力転出論であり,

中央から地方への産業公害輸出論であり,地方 自然資源破壊論であったと見ることができよ う。そして本土などにおいても,自立農家は いっこうに増加しないばかりか,農地の流動も 極めて少なく,反対に百姓総兼業というかたち で,多くの農民は,農村において,自分の生き る場所において,その生活を守ろうとしている のである。

 そればかりか,たとえば経済的に日本一貧し いといわれてきた(しかしこれも事実ではない のだが)鹿児島県において,志布志湾の大規模 工業開発計画に反対する多くの農民,漁民たち は,敢然と オレたちは貧乏ではない,開発し なければならないのは県の計画立案者たちの頭 である と言い放ち, 漁場は漁師のものであ るが,美しい松の並ぶ浜は,みんなのものであ る という信念で団結しているのである。

(中略)

 沖縄県においても,とくに復帰後この所得格 差が大きな問題となっている。そして鹿児島よ り 低 い と い わ れ る 対 全 国 平 均 比 で, 約 55 〜 60%という沖縄の所得水準値は,県の「長期 経済開発計画」や「沖縄振興開発計画」におけ る工業,観光優先政策すなわち,農漁民無視の 開発計画の格差論的根拠となったといえるであ ろう。

 しかし,これは明らかに県民の生活実体や生 活要求と矛盾するものであると言わざるを得な い。なぜなら,たしかに復帰後,県民の日常生 活の中で所得の差は大きな問題となり話題と なっている。しかし,県民のこの生活実感を通 した所得格差への問題意識は,所得格差論的発

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想などではなく,何ら本質的な施策や見通しを 具体化させずに,復帰を急いだことに対するき びしい批判と考えなければならないものであろ う。

 こうした県民の批判と生活要求の本質を認識 しない沖縄開発論は,北部開発の起動力と称す る「海洋博」においてすでに明らかな農漁業破 壊の実態を見るまでもなく,自立経済の確立ど ころか,ついに沖縄を本土の 従属地 として しか見ない本土流の所得格差論をのり超えるこ とはできないのである。

 しかし反面,沖縄においては戦争による多大 な人的,物的被害と,それに引き続く基地の存 在によって経済的のみならず,生活環境や公共 施設,道路などの社会資本や,保健・医療・教 育・福祉などの社会サービスなどの点において も,本土に比較して多くの格差,立ち遅れが見 られることも事実である。この事実を見ない沖 縄論も意味を持ち得ないことはいうまでもない が,しかし,こうした社会資本,社会サービス の立遅れと所得格差論は,直接的関係にはない のである。最近よく 高度成長,高福祉 とい うことが言われている。つまり,工業の高度成 長が続かない限り,高度の福祉はあり得ないと いう考え方であり,所得格差論の変形である。

 しかし,工業によって物資やお金を増やさな い限り,福祉や社会サービスを向上させること ができないという考え方は,相変らず農漁業等 を軽視した 工業の論理 であり 企業の論 理 である。なぜなら,たとえば,立派な冷蔵 庫は月賦で買ったが,その中に入れるおいしい 果物は高くて買うことができない。デラックス な自動車は増えたが,交通事故は激増し子供た ちは遊び場を失った。お金を払う遊ぶ施設は立 派になったが,お金のいらない美しい野や山,

川や海はなくなってしまったという現実がすで に明らかになっているからである。全国各地の 公害地の現実は,このことを最も鋭く示すもの であることはいうまでもない。

 【資料 2 】は概括的な理念説明,【資料 3 】は「逆格 差論」を述べた部分であるが,この計画の基底には高 度経済成長期にある当時の日本が,自然環境と産業そ して生活という関係性の中でいかにバランスを崩して いるか,矛盾の中にあるかということへの認識があ る。そして,文化や社会・自然環境など地域の持つ歴

史や固有性を無視し,人間の生命や生活といったもの を軽視してきた工業優先の思想や企業の論理による地 域開発に対して厳しい目を向けている。日本の地域開 発の多くが,所得増大のみを目的として質を問うこと なく強行されてきたこと,その結果として生命・生 活・自然が破壊され深刻な公害が引き起こされるとい う現実があることが再三指摘され,沖縄にとってはそ れが理想的な姿なのではなく,むしろ否定すべき現実 であると述べられている。

 この指摘が,当時,沖縄で進められようとしていた 第 2 次全国総合開発計画,いわゆる「新全総」や「列 島改造論」を根拠とする県の開発政策に対する批判で あることは明白である。個々の所得は上昇しても,工 業が優先され公害をまき散らすことで自然破壊が進ん でしまう。むしろ,農漁業の生産活動を回復させるこ とで生活基盤を確立するという考え方で,経済的社会 的に健全な農漁村があってこそはじめて都市の役割も 発揮されるという考え方であり,これが計画の根底に 流れる思想となっている。

 農業や漁業そして地域の将来にとって必要なこと は,物理的な経済的格差だけを見ることではない。そ れをふまえた上で,むしろ地域住民の生命や生活・文 化を支えてきた豊かで美しい自然とそれを利用する生 産活動の持つ都市に対する「逆格差」をはっきりと認 識し,それを基本とした豊かな生活を自立的に建設し ていくことであるという方向性が明確に提示されてい る。

 名護市の自然環境や伝統・文化を大切にしつつ,同 時に地場産業の発展を促そうとする考え方は,戦後沖 縄で地域開発が盛んに叫ばれつつあった当時の沖縄本 島北部の政治的・社会的状況があってのことであっ た。そして計画の持つ思想,そして,後述するような この計画が持つ教育への期待と志向性自体が

ESD

(Education for Sustainable Development)つまりは「持 続可能な開発とそれを可能にするための教育」の考え 方にきわめて近い内容と質を有していたものと考えら れるのである。

3.名護博物館の設立理念

 以上述べてきた当時の沖縄が置かれていた社会的・

政治的状況の中,1984 年,「第 1 次名護市総合計画」

に基づいて設立されたのが名護博物館である。その設 立理念にはその考え方が基底に流れており,当時の沖 縄が置かれていた政治的状況が色濃く反映されてい る。

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 名護博物館のテーマは「名護・やんばるの生活と自 然」である。「やんばる」とは「山原」のことで,沖 縄本島北部の山と森林などの自然が多く残されている 地域を指し,その中核都市が名護市なのである。豊か な自然環境との調和を大切にしながら農漁業を中心と する地域産業で地域づくり・人づくりを進めようとし た渡具知裕徳市政の背景には「やんばる」と豊かな 海,そして経済優先の開発行為による環境破壊という 現実があった。ここでは,開館時に刊行された『ぶり でぃ 名護博物館 1984』【写真 3 】を中心に設立理念 に関する検討を進めていく。【資料 4 】は冒頭に掲げ られているメッセージ「名護・やんばるの生活と自 然」である。博物館のテーマであり設立理念である。

【資料 4】

 名護・山原は,これまでさまざまな開発によ り,かなりの貴重な自然を失ってしまいました が,しかし,まだイタジィなどの広葉樹を主体 とした山林や沢などがかなり残っております。

地形・地質・動植物もまた特有のものをもって おり,保存,保護が強く叫ばれております。

 私たちの祖先は,このような与えられた自然 をベースに体と知恵をはたらかせながら,諸々 の生活の手法を編みだしてきております。生活 と自然という不離一体の関係が歴史という長い 時間を経て,この地域特有の文化を形成してき たのです。ですから,そこの自然環境は,当然 に生活の母体,基盤になりますから,それに よって,その地域の文化がつくられてきたと云 えましょう。

 これまで,名護博物館が収集してきた資料

も,その総てが,自然を土台にし,素材にして 作られ,使われてきた生活用具なのです。それ ら資料は,先人たちの知恵と努力の実証であ り,生活の痕跡といえます。それらの道具を見 ていると農耕と自然の中で長い時間を経て,そ の機能や形態が追求され続けてきたことが,こ ちらに伝わってきました。私たちは,通常生活 と自然は無縁のように思われがちですが,それ らの資料群から考えると,いかにその関係が強 かったかが解り,その相互のつながりではじめ て人間の生活が成り立っていくことを知らされ ます。

 そこで名護博物館は,テーマを「名護・やん ばるの生活と自然」とし,生活と自然をトータ ルにとらえていくということで,可能な限り自 然史資料と生活史資料を複合させながら展示を 考えてみました。各展示コーナーや資料を分離 させないで,個々の資料の相互の関係を考慮に 入れながら展示し,それら資料群に直接語らせ ようとする方法を試みました。

 この常設展示の手法を視点に,今後の資料の 収集,保管や館内活動や館外活動その他の教育 普及活動を拡大していくことを計画しておりま す。博物館が単に昔を懐かしがる対象としての みにとどまらず,これからの生活創造を考える 上で利用されることで価値を生み出していかな ければなりません。そのため,さまざまなより 多くの人々の出入りを促し,テーマに即した活 動や事業を拡大発展させていく必要がありま す。幸いにして,これまでの博物館づくり活動 の中でも市民は無論のこと,研究者,教師,児 童生徒,主婦などが主体的に参画しながらここ まで来れた訳ですから,そのことを土台にし,

開館後も引き続き内実を豊かにしていくため努 力を怠ってはならないのは当然のことです。

 特に, 実物資料の乏しい学校教育との連携を 強くし,社会教育と学校教育という枠をのり越 えて,子どもたちが自然や生活について豊かに 学べる状況や関係をつくっていくべきでありま す。博物館が学校へ,学校が博物館に,野外へ と展開されるような組織づくりを,いま,名護 博物館が担っていくべきです。そのために開館 直後からそのことを意識して作業に取り組んで いかなければなりません。

 博物館が単にその地域に在るというだけで価

【写真 3】 『ぶりでぃ 名護博物館 1984』表紙

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値があるという時代はもう終わったのです。こ れからの博物館は,人々に頻繁に使い込まれ,

これからの生活を創り出すことにつながれて いってはじめて,その存在意義も高まってくる ものです。

 この名護・山原の自然を大切にしながら,自 分たちの生活を創造的なものへとしていくた め,名護博物館をもうひとつの拠点にいくた め,多くの方々の協力を得て博物館をつくりつ づけなければなりません。

 博物館をつくりつづけるということは,まさ にそのことでありまして,そういう意味では,

いま開館したこの時点がスタートラインに着い たこところだと云えます。

 この地域の生活文化づくりのため,更により 多くの方々が参画することを必要としていま す。

 日常生活と自然,そして歴史・伝統を切り離すこと なく地域をトータルに捉え,地域文化や生活そのもの 創造拠点としての地域志向型としての名護博物館の理 念と方向性が全文にわたって表現されている。特に下 線を施した部分はその特色がよく表現されている箇所 であるが,いずれも「第 1 次名護市総合計画」の理念 をベースにしつつ,地域志向型博物館の持つ総合的認 識という点での特徴がよく表れている。前掲【資料 1 】で初代館長の島袋正敏氏が「市民参加のもと,市 民大学,山原展,写真のまちづくり,市史編纂開始,

大学設置,博物館・図書館づくりへと,基本構想が発 した熱気の気脈は続くのです」と書いているように,

全国的にも稀にみる教育文化的な展開へと続いていく のである。特に「博物館が単にその地域に在るという だけで価値があるという時代はもう終わった」,「これ からの博物館は,人々に頻繁に使い込まれ,これから の生活を創り出すことにつながれていってはじめて,

その存在意義も高まってくる」という主張は,社会教 育を強い基盤とする沖縄の地域博物館ならではの考え 方であり,現在だからこそ顧みられなければならない 重要な博物館観であるといえよう。

 伊藤寿朗も指摘するように名護博物館の在り方を雄 弁に語るのが『名護博物館展示基本計画書』(1983 年)

である。6たくさんの,さまざまな人びとの手で何か をなすことを沖縄の言葉で「ぶりでぃ」(群手)とい うが,名護博物館の準備過程はまさに子どもから高齢 者までの市民による手作りそのものであった。

 【写真 4 】は子ども達も参加して行われた開館準備

期における様子を撮影したものであるが,一般的に博 物館では考えられない光景である。剥製のための処理 作業を行っている光景であるが,これも市民による手 作業で進められている。地域住民,特に子どもたちに とってこのような作業への参画は,日常とは切り離れ ない自分たちの博物館なのだという意識が高まる契機 になり,この点も名護博物館の独自性であり「強み」

であると言えよう。多くの対話が交わされているに違 いないこのような作業を通して,博物館展示を過去の 文化遺産の解説や保管などに限定せずに,その中から 生活の知恵を見つけだし,現在の生活につなげていく という発想が一人一人の心になかに生まれていく。

 【写真 5 】は『ぶりでぃ 名護博物館 1984』に掲載 されている「展示資料あんない」( 1 階展示室部分)

の図であるが,【写真 6 】を見て分かるように展示ケー スは可能な限り用いずに露出展示中心の温かみのある 展示空間になっている。民具などの生活史資料と剥製 などの自然史資料ができる限り複合されており,見学 者が名護の生活と自然を総合的にイメージできるよう 配慮されている。 1 階の常設展示室では「衣」・「食」

・「住」・「庭」・「畑」・「田」・「家畜」・「加工」をテー

【写真4】出典:『ぶりでぃ 名護博物館 1984』

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マに生産道具や生産用具の展示がなされ,どう使われ ていたのかがジオラマを通して理解できるよう工夫さ れ,何よりも個々の資料を生活リズムの中に配置し,

その意味や使用法が伝わるような工夫が凝らされてい た。 2 階展示室では,「山」・「祝い ・ 祭り」・「沖縄 近海の鯨類」などをテーマに,クジラやイルカの剥 製,昆虫の標本などが展示され,それぞれが生活に身 近なものということを感じられるような展示になって いた。 1 階には体験学習なども可能なスペースも用意 されており,汎用性に富む空間構成になっていた。

 そして,本稿で特に注目したい点が学校教育と社会 教育の連携についての言及である。教育の重要性は

「第一次名護市総合計画・基本構想」においても具体 的に述べられているが,「実物資料の乏しい学校教育 との連携を強くし,社会教育と学校教育という枠をの り越えて,子どもたちが自然や生活について豊かに学 べる状況や関係をつくっていくべき」という考え方 は,計画に盛り込まれた理念をベースに見出された名 護博物館の独自性ある重要なミッションであったと

いってよい。

4.「ぶりでぃ子ども博物館」活動と地域づくり―

ESD としての地域創生力

4.1 「ぶりでぃ子ども博物館」

 教育に関するミッションを達成する具体的な活動 が,1987 年 7 月 11 日にスタートした第 1 回「ぶりでぃ 子ども博物館」である。対象は全講座に参加できる名 護市内の小学校 5 年生で定員は 35 名。参加児童が特 定の地域に偏らないように,地域ごとに人数が割り振 られていた。参加申込書には「自分の手でものを作w り,自分の足で自然や歴史を歩いてみませんか!」と 書かれ,

 名護市は,沖縄で一番広い面積をもっている 市です。広さだけではなく,豊かな自然と歴史 や文化,そして私達のおじいさん・おばあさん たちの生活文化を持っています。こうした大事 な自然や歴史,文化と生活をわたしたちが 体 験 を通して学ぶことも大切だと思います。そ んなことを考えて,この「ぶりでぃ子ども博物 館」を開きます。

と子ども向けのメッセージが記されていた。その後発 行された『ぶりでぃ子ども博物館ニュース あだん ばぁ』第 1 号(1987 年 7 月 5 日)には,「ぶりでぃ子 ども博物館始まる」と題された,さらに深みのある子 どもたちへのメッセージが記される。

 ぶりでぃ(群手)・・・みんなの,たくさん

【写真5】出典:『ぶりでぃ 名護博物館 1984』

【写真6】  名護博物館 1 階常設展示室 2014 年 3 月 15 日 筆者撮影

(10)

の人たちの手によってつくられた名護博物館 は,開館して今年で 4 年目に入りました。博物 館の基本テーマは,「名護 やんばるの生活と 自然」です。博物館というと,古い道具を集め て展示しているだけだと思いがちです。確かに 昔の古い道具がたくさんありますが,その道具 一つひとつが,自然とのかかわりの中で私たち の生活文化をつくりあげてきたものです。おじ いさん,おばあさんのくらしの中の知恵,モノ をつくることなど,自然とモノを通して学ぶこ とによって,私たちはより豊かな生活(くら し)をつくりだしていくことができると思いま す。これは,博物館だからこそできることだと 考えました。そして「ぶりでぃ子ども博物館」

の 8 回の講座を企画して仲間を募集したとこ ろ,30 名の子どもたちが応募してくれました。

 それでは,第 1 回「ぶりでぃ子ども博物館」の実践 内容を見てみよう。【表 1 】は日程と内容,各講座の

【写真7】第 1 回「ぶりでぃ子ども博物館」記録集表紙

講座日 テーマ 内   容 講師(☆印)・担当

7 月 11 日(土)

午後 2 時〜

開講式 玩具作り

開講式のあと, あだん葉でカジマヤー時計,ガラ ガラー,やんばる竹を使って笛を作ってみよう。

友寄隆史(名護市役所)☆

比嘉英勝(名護博物館)

その他博物館職員 7 月 25 日(土) 稲作について 博物館にある稲作に関する道具を見ながら,その

使い方や稲作について調べる。

午後,マイクロバスで羽地,振慶名の水田へ移動。

そこで脱穀機や千歯を使って稲穂を脱穀し,籾の より方などを体験しよう。

ワラで縄をなってみよう。

大城豊政(稲作農家)☆

島袋正敏(名護博物館)

8 月 1 日(土) やんばるの自 然めぐり

やんばるの山々をめぐり,その現状を見てみよう。

照首山林道,与那演習林,喜如嘉の水田で動植物 の現地観察をしてみましょう。

嵩原建二(名護養護学校教諭)☆

新里孝和(与那演習林)☆

宮里 尚(名護博物館)

8 月 8 日(土) 織物 沖縄の織物についての話を聞いた後,実際に卓上 織機を使って布を織ってみよう。

山城洋子(染織家)☆

比嘉淳子(名護博物館)

8 月 22 日(土) とうふ作り 博物館にある資料(道具)を使って実際にとうふ を作ってみよう。石臼で大豆をひいて,海水を 使ってとうふを作ってみよう。

上間助喜(豆腐づくり名人)☆

仲田ひとみ(名護博物館)

9 月 5 日(土) 遺跡めぐり 博物館の考古コーナーの遺物を見ながら,各時代 の説明を行った後,古我知窯跡→親川グシク→墨 屋原遺跡→サバヤ貝塚を回ります。4000 年前まで の歴史をさかのぼってみよう。

上原政昌(名護博物館)☆

9 月 19 日(土) イルカの話 水族館にでかけていって,海洋博でイルカのスラ イドやオキちゃんショーを見たり,イルカやクジ ラについての話を聞こう。

内田詮三( 海洋博水族館館長)☆

宮里 尚(名護博物館)

10 月 3 日(土) 閉講式 「ぶりでぃ子ども博物館」での体験や学んだこと を話しあおう。

記録集を発行します。

比嘉淳子(名護博物館)

【表 1】1987 年度「ぶりでぃ子ども博物館」の概要(『昭和 62 年度 ぶりでぃ子ども博物館』等から作成)

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テーマ,内容,講師と担当者をまとめたものである。

 開講式に続けて,「あだん葉」や「やんばる竹」な ど植物を利用しての玩具づくりから始まるが, 7 月か ら 10 月までの土曜日を用いた 8 回の体験学習でカリ キュラムが構成されている。 7 月 25 日は脱穀を中心 とする稲作体験, 8 月に入って森林地帯である「やん ばる」のフィールドワークを通した自然観察,沖縄伝 統文化の織物体験, 9 月に入って食文化としての伝統 的なとうふ作り体験,地域史を遺跡のフィールドワー クを通して学ぶ見学会,海洋博水族館館長を講師に招

いて地域の狩猟・食文化であるイルカの学習を水族館 で行うなど,地域の伝統的な衣食住に関する多彩な テーマが設定され,伝統産業や文化について体験学習 を通して学ぶことのできる内容になっている。

 体験学習の内容は名護博物館のテーマ「名護・やん ばるの自然と生活」に沿ったものであるが,フィール ドワークを通じて実際の自然に親しんだり,遺跡を観 察したり,地域の漁業文化の象徴でもあるイルカにつ いて実地に学ぶなど,このカリキュラムには過去の農 業生産や生活様式を追体験することによって,地域に 生きた先人達の知恵と技にふれてもらいたいという博 物館の願いが込められている。

 同時に目を引くのは多彩な講師陣である。衣食住に 関わる地域産業や文化の担い手や専門家,学芸員など さまざまな職種の人びとが講師として関わり,これが 多世代間交流にもなっている。多様な人びとが交差す る体験学習のあり様は,名護博物館が大切にする「寄 り合いとしての博物館」「地域づくりの拠点」として の姿を体現していると言えるだろう。

  2 枚の写真は第 1 回「ぶりでぃ子ども博物館」の記 録集から転載した子どもたちの活動の様子である。

 【写真 8 】は 1987 年 7 月 25 日に行われた「稲作につ いて」の講座風景であるが,博物館に展示されている 稲作道具をよく観察しながらスケッチし,使い方につ いて展示や本,学芸員の話を聞いて調べ,話し合う。

水田へ移動し,講師の大城さんに使い方を教わりなが ら今は使われていない手動の脱穀機や千歯扱きを使っ ての脱穀などを体験する。収穫に関する一連の作業工 程を博物館に展示されている資料と切り離さずに,農

【写真8】 出典:昭和 62 年度『ぶりでぃ子ども博物館』

【写真 9】 出典:昭和 62 年度『ぶりでぃ子ども博物館』

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家での実体験を通して学べるプログラムになっている 点が重要である。

 【写真 9 】は,期間中発行されていたニュース「あ だんばぁ」第 6 号に掲載された「とうふづくり」に関 する記事である。1987 年 8 月 22 日に実施されたこの プログラムは,市内で「トーフヤ−」(豆腐屋)を経 営している上間さんに,昔ながらの製法での豆腐作り を体験しながら学ぶという内容であった。豆腐は子ど もたちにも身近な食材であるにも関わらず,その原料 が大豆であることになかなか結びつかない。このプロ グラムでは,臼で 9 キロの大豆を挽き,名護の海水を 使って豆腐を作ったが,子どもたちがかなり苦労した ことが記録されている。出来上がった豆腐を全員で食 べ,そのおいしさを味わい,豆腐ができるまでの過程 で「おから」,「豆乳」,「ゆしどうふ」が取れることを 実地に体験している。

 子どもの感想を見てみよう。【資料 5 】は,全プロ グラムに参加した小学校 5 年の女児が書いた「入学し てから今までの出来事」という文章である。7

【資料 5】

 私が,ぶりでぃ子ども博物館に入ろうと思っ たわけは,4つぐらいあります。1つは,ほか の学校の人と友達になる。2つ,はきはきと,

なんでも言えるようにする。3つ,いろんなこ とを学ぶ。4つ,この,ぶりでぃでならったこ とを家族に教えてあげよう,の4つのわけがあ りました。

 開講式が終わってから,玩具づくりとてもた のしかったです。しっぱいをしたりしたけど,

せいこうしたときはとてもうれしかったです。

25 日の稲作について,大城豊政さんに,くわ しくおしえていただきました。それに千歯や,

脱こく機を使って脱こくしたり,ミージョーキ で籾がらを除いたりもしました。とてもたのし くできました。8 月 1 日やんばる自然めぐりコー スの 11:40 分ごろヒメハブが出て来て大さわ ぎをした。12:50 分ごろヒメハブを焼いて食 べた。この けいけんは,いっしょうわすれられ ないと,私は思いました。ガラスヒバァもみま した。目つきが,なんとなく,とらににていま した。ぶじ,家に帰れてよかったです。8 日,

織物について山城洋子先生からならった。はず していけないのを,まちがえてはずして,また さいしょからやりなおしをしたけど,一番早 かったです。とてもうれしかった。22 日,豆

腐作り。上間助喜先生に作り方を教わり,石ウ スで大豆をひいたり,かすをとったりしまし た。豆腐のかぁし(おから)をとってから,豆 腐を作りました。大きな豆腐箱で作ったのは,

ゆ豆腐のままでした。だけど,とてもおいし かったです。9 月 5 日。遺跡めぐりのとき,は じめに登った山では,おちゃわんや,つぼなど の遺跡をみました。さいごにいったサバヤ貝塚 にいきました。そこは,本当に,貝がたくさん ありました。当時の人は,あんな所に住んでい たと思うと,かん心してなりませんでした。来 年も,ぜひ,入りたいです。

 「やんばるの自然めぐり」プログラムでヒメハブに 遭遇し,それを焼いて食べた経験には読んでいて驚い たが,この子にとっては忘れることのできない貴重な 体験になっている。ヘビを食用とする地域の食文化を 体験を通じて学んでいる。ガラスヒバァは沖縄に生息 するヘビであるが,よく観察している。時間を記録し ているところを見ると相当緊張していたことを伺わせ るが,帰宅できた安堵感と共に,やんばるに生息する ヘビや地域の食文化,やんばるの自然について多くの ことを学べたという実感を持てたのではないだろう か。脱穀を中心とする稲作体験,昔ながらの製法で用 いた豆腐も,この子にとっては感覚を通じて楽しく学 ぶ経験となっている。次年度への参加意欲につながる 経験を多く得ることができたように思われる。

 文化と教育を考えるとき,学びの中に遊びの要素が 含まれていることは,子ども本来の主体性や想像力を 引き出し,育むうえで大切である。「ぶりでぃ子ども 博物館」は名護地域独自の文化と原理で展開される博 物館教育活動であるが,地域学習としての自然・歴 史・生活に関する学び,伝統文化に対する認識の形成 と伝承が,多世代交流の中で「遊びを通した学び」を 通して実践されており,この時期の博物館教育活動と して類例のない優れた実践であると言えるだろう。と 同時に,博物館における教育概念をより豊かにするカ ギがこの活動に内在しているように思われる。

4.2 文化  的・社会教育的意義と ESD としての地 域創成力

 本稿では名護博物館が開設された 1980 年代に焦点 を当て,草創期の子ども博物館活動を対象とし,活動 の基盤となっている政治的状況を踏まえた分析を試み た。「第一次名護市総合計画・基本構想」とその中核 にある「逆格差論」が,名護博物館の設立や「ぶり

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でぃ子ども博物館」活動に,理念・内容・方法などの 面で大きな影響を与えていたことを確認した。

 新館オープンに向けて休館中の名護博物館である が,「ぶりでぃ子ども博物館」活動は現在も継続され ており,子どもたちの人気を集めている。昔の道具を 使用しながら塩田による塩づくりを体験を通して学ぶ プログラムなどもあり,草創期に比べ活動に幅が出て きている。

 2014 年には名護博物館 30 周年記念展示会が開催さ れ,「ぶりでぃ子ども博物館」の展示コーナーが設置 され,来館者の人気を博していた。

 【写真 10】がその様子であるが,全体の中でもかな りのスペースが割かれており,たくさんの子どもたち の笑顔や笑い声,真剣な面持ちで課題に取り組む真剣 な顔,そして活動に参画するさまざまな大人たちの姿

……多くの写真や映像を通して「ぶりでぃ子ども博物 館」のありのままの姿,その意味を見る者に伝えてい た。膨大な量の写真展示は長年の蓄積を感じさせるに 十分であり,思わず参加したくなるような楽しさ,遊 びを通して学ぶ意味が伝わってくる。

 その点では【写真 11】にあるような記録集の展示 コーナーも圧巻であった。初期の活動に参加された市 民も何人か見学されていたが,蓄積された「ぶりでぃ 子ども博物館」の記録集は,名護博物館だけではなく 名護市における地域学習の貴重な教育アーカイブズと なっている。 

 1987 年にスタートしたこの「ぶりでぃ子ども博物 館」活動が,目まぐるしく変化する国際状況,政治状 況,そして教育政策の展開のもとでいかなる発展を遂 げてきたのか,どのような成果や課題があったのか,

それらについては今後の研究課題としたい。

 最後に本稿のまとめとして,「ぶりでぃ子ども博物 館」活動が持つ価値や質について「文化・社会教育的 意義」および「ESDとしての地域づくり力」という視

点から考えてみたい。

 ESDは,Education for Sustainable Developmentの略 で「持続可能な開発のための教育」と日本語訳されて いる。学校教育をはじめ,社会教育,家庭教育,企業 内教育,生涯学習などあらゆる場を通じて「持続可能 な社会の担い手を育てる教育や学び」のことを指す。

世界には,環境・貧困・人権・平和・開発といった 様々な地球規模の課題が存在する。ESDは,人間を含 めた命ある生物が未来までその営みを継続していくた めに,これらの課題を自らの問題として捉え,一人ひ とりが自分にできることを考え,かつ実践していくこ と,その力を身に付けることを目指している。Think

globally, Act locally

を身につけ,課題解決につながる 価値観や行動を生み出しながら,持続可能な社会を創 造していくことを目指す学習や活動を行うことを意味 している。

 そしてこれらの動きは,1992 年にリオ・デ・ジャ ネイロで行われた「環境と開発に関する国連会議」

(国連地球サミット)の行動計画に盛り込まれた「持 続可能な開発に向けた教育の再構成」を受けて加速 し,その後,2002 年に開催された「持続可能な開発 に関する世界首脳会議(ヨハネスブルグサミット)」

における日本政府と

NGO

による提唱から始まった

「国連ESDの 10 年(DESD)」(2005 年から 2014 年まで の 10 年)を契機に,国際的に広く取り組まれること になった。8

 日本国内では学校教育におけるユネスコスクールな どの展開や企業,自然学校など地域での取り組みが目 立つものの,博物館では一部の館種に限られる傾向が ある。ESD拠点のひとつとしての博物館という考え方 はあるものの,その中心は自然史系・科学系の,しか も大規模博物館にとどまっている傾向にあるのが現状 である。

 このように,持続可能な開発の実現に向けて教育が

【写真 10】2014 年 3 月 15 日 筆者撮影 【写真 11】2014 年 3 月 15 日 筆者撮影

(14)

果たす役割が国際的に重視される中で,持続可能な社 会づくりの担い手を育む教育として

ESD

が登場した わけであるが,【図 1 】に示されているように,ESD では関連する様々な分野を「持続可能な社会の構築」

という観点から相互に関連させ,総合的に取り組むこ とが必要であると指摘されている。

 【図 1 】でも確認できるように,ESDの学習や活動 で取り上げるテーマや内容は必ずしも新しいものでは ない。むしろそれらを

ESD

という新しい視点から把 握し直すことが重要であり,その作業を通して個別分 野の取組に持続可能な社会の構築という共通の目的を 与えること,また,個々の取組をお互いに結びつける ことにより,既存の取組の一層の充実発展を図ること が重要とされている。そして,ESDで育 みたい力とし て「持続可能な開発に関する価値観 (人間の尊重,多 様性の尊重,非排他性,機会均等,環境の尊重等)」,

「体系的な思考力(問題や現象の背景の理解,多面的 かつ総合的なものの見方)」,「代替案の思考力(批判 力)」などが掲げられている。

 名護博物館における「ぶりでぃ子ども博物館」の政 策的背景であり活動基盤ともなっている「第 1 次名護 市総合計画・基本構想」では,やんばる地域の中核都 市・名護市における「持続可能な地域づくり」が意識 され,その実現が目指されていた。「逆格差論」を基 軸に,自然環境保全と農漁業・伝統文化の尊重などを 中心とする地域創成が目指されていた。

 大田堯は,1967 年に発表した論文において「地域 と教育」の問題について,「それが教育の問題である 以上,単に政治的ないし法律的な問題としての,さら に経済条件とのかかわりでの権利の問題につきるもの ではない」と述べた上で,このような「基底的な問題 とかわかりながら,なお広く文化の問題として吟味す ることが,教育という観点からすると,いっそう緊切 であるといえる」と指摘している。9

 名護市の渡具知裕徳市政スタートの 3 年前に出され たこの論文は,文化の問題が社会教育のコンテクスト で把握されるようになった動きを背景にしている。経 済最優先の工業化政策などに対する批判意識をベース にする「逆格差論」,それを中核とする「第 1 次名護 市総合計画・基本構想」,そこに盛り込まれた学校教 育・社会教育への想いなどが名護博物館というステー ジで表現される「ぶりでぃ子ども博物館」活動は,前 章で考察した実践内容を考えれば,まさに地域におけ る文化的・社会教育的意義をよく体現する活動である と評価しうるであろう。

 そして,【図 1 】で提示されている

ESD

に関連する

いくつかの分野,ESDで育みたい力量に関する観点か ら総合的に考えれば。名護博物館の「ぶりでぃ子ども 博物館」は,スタート当初から事実上

ESD

としての 内容と質とを兼ね備えていたと考えられる。

 活動内容には

ESD

の持つ地域づくり,地域創生力,

そしてそれを支える人の育成などの視点が含 まれてお り,実践に関わる人びとが多様で,小学生から高齢者 までの多世代交流も実現されている。生産や生活に関 する伝統技術や伝統文化を時代遅れのものとせずに前 向きに捉え,それらを生活に生かしながら継承してい こうとする方向性が明確であり,将来の地域社会の担 い手である子供たちを,展示や教育機能を活用しなが ら博物館で創造される新たな人間関係の中で育んでい こうとする視点にも富んでいる。プログラム内容だけ ではなくその方法が多様であること,遊び的な要素を 交えた体験学習を通じて子どもたち自身の経験値を蓄 積させようとしていることなども注目されなければな らない。そこには,子どもたちの認知能力だけではな く非認知能力の育成を図ろうとする意図も感じられる からである。

 また,活動の成果が「記録集」としてまとめられる ことで,それらが名護博物館はじめ地域学習のアーカ イブズとなり,蓄積された成果が次の世代の地域づく りなどに活かされる学習資源となっていることも地域 の文化・社会教育的観点から見て意義深い。

 以上,本稿では 1980 年代における名護博物館草創 期の活動を取り上げたが,「ぶりでぃ子ども博物館」

をはじめ同種の活動が広く展開している沖縄は,幼児 も含めた子どもたちへの文化伝承,そして育ちの支援 に地域志向型博物館を「道具」や「場」として使い込

【図 1】出典:文部科学省 HP

(15)

んでいくことが日常的に行われている。そしてそれ は,沖縄固有の歴史的な政治状況,社会状況,環境問 題などを背景にした

ESD

としての地域創生力と人の 育成という歴史的・教育的な意義を持つものであると 言えよう。

1 沖縄県内では,本論文で取り上げる名護博物館(1987 年 度から「ぶりでぃ子ども博物館」開始)の他に,石垣市 立八重山博物館(1983 年度から「こども博物館教室」開 始),本部町立博物館(1988 年度から「郷土子ども博物館 講座」開始),沖縄市立郷土博物館(1989 年度から「こど も博物館」開始),南風原町立南風原文化センター(1991 年度から「おもしろ子どもアドベンチャーズ」開始)な どの活動が展開されている。

2 琉球政府文教局研究調査課編『琉球史料』第 3 集,p.438,

1958 年,ならびに小林文人・平良研一編著『民衆と社会 教育―戦後沖縄社会教育史研究―』p.293,エイデル研究 所,1988 年。「沖縄子どもを守る会」の主な会員は沖縄の 教職員であり,子どもたちの暮らしや学びを支援し,夢 を与える拠点として活動を行った。1966 年には「沖縄少

年会館」もこの会によって設立されている。

3 伊藤寿朗『ひらけ,博物館』, pp.30‑32,岩波ブックレッ ト№ 188,1991 年。

4 『ぶりでぃ 名護博物館 1984』1984 年,および注 3 文献

pp.30‑31。

5 島袋正敏「初代名護市長・渡具知裕徳さんの思い出(1)」,

『南の風』4182 号(2020 年 9 月 11 日),

TOAFAEC・http://www.bunjin-k.net/minami4171.htm

6 注 3 文献

p.30。

7 名護博物館『昭和 62 年度 ぶりでぃ子ども博物館』p.69,

1987 年。

8 阿部治・増田直広『ESDの地域創生力と自然学校−持続 可能な地域をつくる人を育てる』,ナカニシヤ出版,2020 年。

9 大田堯「地域と教育」,教育科学研究会編『教育科学入門』

国土社,1967 年。『大田堯自撰論集』補巻に収録,pp.218‑

219,2017 年。この点については,その他,北田耕也『大 衆文化を超えて―民衆文化の創造と社会教育』,国土社,

1986 年。佐藤一子『地域文化が若者を育てる―民俗・芸 能・食文化のまちづくり』,農山漁村文化協会,2016 年な どを参照のこと。

(16)

* Tokyo Gakugei University (4‑1‑1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo, 184‑8501, Japan)

―― 名護博物館における 1980 年代の実践を中心に ――

Children’s Museum Activities and Community Development in Okinawa:

Focusing on the Practice of the 1980’s at the Nago Museum

君 塚 仁 彦 KIMIZUKA Yoshihiko

生涯教育学分野

Abstract

The “Children’s Museum” in Okinawa is a social education activity developed based on the culture and principles unique to the region. In this paper, we considered the “Buridi Children’s Museum” in Nago City, based on political factors in the local community, rather than an analysis that is separate from the political context that is often seen in research on museum education. Okinawa, where the “Children’s Museum” activity is widely deployed, is a place where community-oriented museums are actively used to pass down culture to children, including infants, and to support their growth. The regional revitalization power of ESD and the development of human resources have historical and educational significance of Okinawa’s children’s museum activities.

Keywords: Okinawa, museum education, children’s museum activities, community development, ESD, regional

revitalization, Nago Museum

Department of Lifelong Education, Tokyo Gakugei University, 4-1-1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo 184-8501, Japan

要旨 : 沖縄の「子ども博物館」は,地域独自の文化と原理で展開される社会教育活動である。本稿では博物 館教育を対象とする研究においてまま見られる政治的コンテクストと切り離れた方法ではなく,地域社会にお ける政治的要素を踏まえ,名護市の「ぶりでぃ子ども博物館」を考察した。「子ども博物館」活動が広く展開 する沖縄は,幼児も含めた子どもたちへの文化伝承,そして育ちの支援に地域志向型博物館を使っていくこと が盛んに行われている場所である。そして,ESDとしての地域創生力と人の育成という点に,沖縄の子ども博 物館活動の持つ歴史的,教育的な意義がある。

キーワード : 沖縄,博物館教育,子ども博物館,地域づくり,ESD,地域創生,名護博物館

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