No.70, pp. 293−306, 2020
滋賀大学教育学部紀要 人文・社会科学 第七〇号 二九三︱三〇六 二〇二〇年 はじめに
﹃小倉百人一首﹄は︑江戸時代にカルタの形式によって普及し︑二十
一世紀の現在に至るまで和歌の入門的教材として広く知られ︑かつ愛好
される歌集である︒しかし︑解釈における課題を有する歌も少なくない︒
例えば︑小野小町の﹁花の色は﹂歌や︑業平の﹁ちはやぶる﹂歌など︑
﹃古今和歌集﹄の編纂された時代の解釈と︑﹃顕註密勘﹄等を通して知ら
れる︑﹃百人一首﹄撰者である藤原定家の解釈には径庭があることについ
て小稿でも述べたところである ⑴ ︒
こうした課題を内包する﹃百人一首﹄を︑中等教育課程における発展
的な学習の契機として活用するためにはいかなる観点からのアプローチ
が可能か︒新たに告示された﹁高等学校学習指導要領﹂︵平成三十年︶を
繙くと以下のような項目が参照される︒
家持﹁かささぎの﹂歌の解釈 ︱ 和歌教材としての﹃百人一首﹄ ︵
3 ︶ ︱
井ノ口 史
*A study on the interpretation of Yakamochi's waka poem “Kasasag ino”
“Hyakunin Ishu” as a teaching material ︵ 3 ︶
Fumi INOGUCHI
キーワード百人一首︑家持︑和歌教材︑かささぎ
﹁言語文化﹂の﹁我が国の言語文化に関する事項﹂において﹁身に付
けることができるよう指導﹂すべき内容の中に︑
古典の世界に親しむために︑作品や文章の歴史的・文化的背景など
を理解すること︒
とあり︵﹃高等学校学習指導要領 平成
30年告示 解説 国語編﹄東洋館 出版社︑二〇一九︒117ページ︶︑﹁読むこと﹂に関して身に付けるべき
指導内容として掲げられる中に︑
作品の内容や解釈を踏まえ︑自分のものの見方︑感じ方︑考え方を
深め︑我が国の言語文化について自分の考えをもつこと︒
とある︵同書126 ページ︶︒
さらに︑﹁古典探究﹂の﹁我が国の言語文化に関する事項﹂に︑
*滋賀大学教育学部
先人のものの見方︑感じ方︑考え方に親しみ︑自分のものの見方︑
感じ方︑考え方を豊かにする読書の意義と効用について理解を深め
ること︒
とされる︵同書256ページ︶︒﹁理解すること﹂︑﹁自分の考えをもつこと﹂︑
﹁読書の意義と効用について理解を深めること﹂という段階は︑そのまま
大学における学びの階梯にもなる︒
では︑﹃百人一首﹄の中の次の一首を教材とする場合に︑どのようなア
プローチが可能であろうか︒
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きをみれば夜ぞふけにける
六 中納言家持
﹃百人一首﹄には作者を﹁中納言家持﹂とする︒﹃万葉集﹄の編纂に深
く関与し︑七八五年に中納言従三位で死去した大伴家持のことであるが︑
当該歌は﹃万葉集﹄には収録されておらず︑﹃新古今和歌集﹄において冬
の巻に配列される︒平安期の私家集である﹃家持集﹄に採録されている
ものの︑家持の実作であるか疑問視されている︒
﹁かささぎの﹂歌の成立年代については︑多岐にわたる考察を要する
ので稿を改めることにし︑本稿では当該歌の注釈史を確認しつつ︑教材
としての課題と展望を整理することを目的としたい︒
一︑諸説概観
現在︑﹁かささぎの﹂歌に対してどのような説明がなされているのだろ
うか︒手近な高等学校の教材用国語便覧について︑それぞれポイントを
指摘しつつ概観しておこう︒以下︑本稿における引用文中の傍線は引用
者による︒
︵a︶﹃増補版 最新国語便覧﹄︵浜島書店︑一九九八︶
歌意 宮中の橋に霜が降りて白く光っているのを見ると︑かなり夜も
深くなったことだと思われる︒ 解説 ﹃新古今集﹄︵冬・六二〇︶
7月 7日に烏鵲︵カササギ︶が天の
川に橋を架けて織女を渡すという中国の伝説に基づき︑宮中を
天にたとえ︑宮中の橋を﹁かささぎの橋﹂としている︒作者は
大伴旅人の子で︑﹃万葉集﹄の編者と考える説もあるが︑この
歌は﹃万葉集﹄に出ていない︒
︵b︶﹃クリアカラー国語便覧 第四版﹄︵数研出版︑第
17刷︑二〇一九︶ 歌意 かささぎが天の川に渡している橋のような宮中の御階︑そこに
おりている霜が白く輝いているのを見ると︑夜も更けてしまっ
たのだなあ︒
主題 宮中における冬の幻想的な情景
︵a︶・︵b︶いずれも宮中に霜が降りると解釈している︒ただし︑︵a︶
が﹁橋﹂としているのに対し︑︵b︶では﹁御階﹂とする︒﹁御階﹂とは
何か︑﹁橋﹂に譬えられる理由は何か説明はない︒
︵c︶﹃カラー版新国語便覧 新版三訂﹄
︵第一学習社︑改訂
33版︑二〇一六︶ 大意 鵲が︵翼を連ねて︶架けるという橋︵にも見なされる宮中の階︶
に降りている霜が白いのを見ると︑夜もかなり更けたことだなあ︒
補説 七夕伝説では﹁鵲の橋﹂を渡って織女が牽牛に会いに行く︒
﹁かささぎの渡せる橋﹂が﹁宮中の階﹂の比喩であることを説明した
現代語訳であるが︑その﹁宮中の階﹂が︑﹁補説﹂にある七夕伝説とどの
ように関連づけられているか説明はなされない︒
︵d︶﹃新訂国語図説 五訂版﹄︵京都書房︑第
2刷︑二〇二〇︶ 歌意 かささぎが渡している橋︵になぞらえられる宮中の御階︶にお
く霜の白さを見ると︑夜もすっかり更けてしまったのだなあ︒
ミニ鑑賞 幻想と現実が入り交じった︑霜の冴えかかった宮中の冬の
夜更けの情景を歌う︒優艶美を求めた定家好みの歌︒
かささぎが七夕に渡すという伝説上の橋︵﹁幻想﹂︶と︑宮中の御階︵﹁現実﹂︶とを結び付け︑﹁冬の夜更けの情景を詠う﹂という主題に関す
る説明がある︒
︵e︶﹃原色シグマ新国語便覧 増補三訂版﹄︵文英堂︑二〇一七︶
主題 幻想的な冬の夜ふけ
歌意 かささぎがかけ渡したという伝説の橋にもたとえられる︑宮中
の御階におりている霜が真っ白であるのを見ると︑夜ももうふ
けてしまったのだなあ︒
解説 七夕の夜︑かささぎが天の川に翼を広げて橋となり︑織女星と
牽牛星が逢うという伝説をふまえた表現︒凍てつくような冬
の星空を想像させる︒
﹁幻想的な冬の夜ふけ﹂の景に言及し︑﹁橋﹂と七夕伝説との関連につ
いて解説するが︑やはり︑﹁宮中の御階﹂が﹁橋﹂に譬えられる根拠につ
いての説明はない︒
︵a︶から︵e︶に至る解説書がすべて宮中の景を詠じたとするのに
対して︑天の川と霜の白さに焦点を絞った解説をするのが次の書である︒
﹁鑑賞﹂で︑﹁宮中の御階﹂の見立てとする説に言及するが︑歌意の把握
には関与させていないのが特色である︒
︵f︶﹃プレミアムカラー国語便覧﹄︵数研出版︑第
11刷︑二〇二〇︶ 歌意 かささぎが天の川に渡す橋に降りている霜が白く輝いている
のを見ると︑夜も更けてしまったのだなあ︒
鑑賞 織女と牽牛が会えるよう︑かささぎが翼を連ねて橋渡ししたと
いう中国の七夕伝説を踏まえた歌︒﹁橋﹂は冬の天の川とも︑宮 中の階段︵御階︶を見立てたものとも解釈される︒
以上︑これらの﹃便覧﹄の比較検討を通して問題点を整理しておこう︒
まず留意されるのは︑﹁かささぎの橋
﹂と﹁宮中の階 0
﹂の比喩が成り立つ 0
ことの根拠が明らかにされず︑七夕伝説との関連も曖昧であること︑そ
して︑旧暦七月七日︑即ち秋の行事であるはずの七夕の要素が︑なぜ霜
という冬の夜の寒気を想起させる景物と取り合わされるのかという点に
ついての説明がなされないことである︒
これに関連して︑一首の主題をどのように理解するかが問題となるだ
ろう︒﹁宮中の階︵あるいは橋︶﹂という地上の景を天上の景に見立てる
という着想か︑天の川の橋に霜が降りたと詠う手法を評価すべきか︑資
料によって相違する︒
有吉保氏﹃全訳注 百人一首﹄︵講談社学術文庫︑二〇〇一︑初版一九
八三︶は︑次のように述べる︒
この歌は︑﹁かささぎの渡せる橋﹂をどのように解するかによっ
て︑一首のとらえ方が大きく分かれる︒その第一は冬の夜空に冴え
冴えと光る星を見て詠んだと解する説で︑その霜気に満ちた天上の
白さを見て︑秋の七夕の夜に天の川に渡した鵲の橋に霜が置いてい
る情景を連想したという内容になり︑七夕伝説の浪漫的幻想と冬の
夜の白い霜の美とが交錯した歌ということになる︒その第二は宮中
を天上に見立て︑宿直の夜︑宮中の御殿の階段に置いた地上の霜を
詠んだと解する説で︑賀茂真淵が主張して以来︑比較的近年に至る
まで支持された解釈である︒
﹁かささぎの橋﹂を宮中の景として解釈する説は︑江戸時代に真淵に
よって主張された比較的新しい説であることが知られる︒
先に本稿の結論を述べると︑﹁宮中の階︵橋︶﹂説に依る注釈書の記述
には修正が必要であると判断する︒その根拠を明らかにするために︑ま
ず︑真淵の説を確認するところから始めたい︒
二︑宮中説をめぐって︱賀茂真淵の場合
真淵による﹃百人一首﹄注釈書である﹃初学﹄︵﹃宇比麻奈備﹄︶の記述
を以下に引用する︵﹃賀茂真淵全集 第十巻﹄吉川弘文館︑一九二九︶︒
新古今︑冬︑題しらず 烏鵲橋は先大内の御橋を天にたとへいへり︑
さて是は厳なる宮中の冬の夜に御橋の霜の白きを見て︑夜の更たる
事をしるといふ也︑月もなき冬の夜に霜のしろ
く
とみゆるは︑まことに夜の更たるさまのしるきもの也︑淮南子に︑烏鵲塡レ河成レ橋︑ 以渡二織女一といへるをもて大内の事に用たるは唐詩に︑奉レ和初春 幸二太平公主南荘一應制︑蘇味道︑鳳凰樓下交二天仗一︑烏鵲橋頭敞二御伪一︑同題にて︑李邕︑傳聞銀漢ノ支機石︑復見金輿出二紫微一︑織
女橋邊烏鵲起︑仙人樓上鳳皇飛︑これらは公主の家なれば︑大内と
ひとしくいへり︑天皇を日に譬へ奉るより︑宮を天にたとへ御橋を
星橋烏鵲橋なともいふ也
最初に注目したいのは傍線を付した﹁烏鵲橋﹂に関する説明である︒
真淵は︑﹁かささぎの渡せる橋﹂とは漢籍にいう﹁烏鵲橋﹂に相当し︑そ
れは﹁大内﹂︵宮中︶の橋を天上の橋に譬えた表現であるという︒その論
拠として︑公主︵皇帝の息女︶の邸宅の橋を﹁烏鵲橋﹂に見立てた蘇味
道︵蘇䧸︶と李邕の﹁奉レ和初春幸二太平公主南荘一応制﹂と題する二首
の唐詩を掲げている︒いずれも﹃唐詩選﹄に収録された詩である︒
﹃唐詩選﹄とは︑明の時代に編纂された選集であるが︑江戸時代に伝
来し︑漢詩の入門書として高い評価を受けたという︒享保九︵一七二四︶
年︑服部南郭による注釈書である﹃唐詩選国字解﹄が刊行された︒南郭
は荻生徂徠の弟子であり︑いわゆる古文辞学派の儒者である︒真淵門下
の重鎮であった清水浜臣によると︵﹃泊䘈筆話﹄︶︑真淵は南郭から漢詩を
学び︑南郭は真淵から国学を学ぶなど親しく交流していたという︵墓所
も同じ品川区内東海寺にある︶ ⑵ ︒真淵が﹃唐詩選﹄所載の漢詩を論拠
とするという着想を得たのは︑南郭との交流によるのではないか︒
そこで︑﹃唐詩選国字解﹄の訓読と注解を参照しておきたい︒東洋文庫 ﹃唐詩選国字解
2﹄︵平凡社︑一九八二︶から引用する︒一首目の蘇䧸の
詩は以下の通りである︒
主第 山門 灞川に起り 宸遊の風景 初年に入る 鳳凰楼下 天仗を交へ 烏鵲橋頭 御伪敞かなり 往往花間 綵石に逢ひ 時時竹裏 紅泉を見る 今朝 扈蹕す 平陽館 羨まず 槎に雲漢の辺に乗ずることを
傍線を付した箇所に対する﹃国字解﹄の注は以下のごとくである︒
鳳凰楼とも云ふべき公主の楼に︑めづらしう天子の行幸のことゆへ︑
天仗を交へ立ててある︒﹁御伪﹂の御座敷見れば︑烏鵲橋ともいふべ
き橋が︑高く﹁敞かに﹂立派に見ゆる︒
﹁烏鵲橋ともいふべき橋﹂という釈言を見るに︑南郭は︑天上にある
という橋の名をもって現実の橋を叙すという方法として理解しているこ
とが窺われる︒次いで︑題を同じくする李邕の作も引用しておく︒
伝に聞く 銀漢の支機石
復た見る 金輿 紫微を出づることを
織女橋辺 烏鵲起ち
仙人楼上 鳳凰飛ぶ
流風 座に入って歌扇を飄へし 瀑水 階に当って舞衣に濺ぐ
今日還って牛斗を犯して
槎に乗じて共に海潮に泛んで帰るに同じ
﹃国字解﹄は以下のように記す︒
公主を織女に比して云ふについて︑いにしへ海辺の人が天河︵﹁銀
漢﹂︶に到って︑織女の機石を買うたといふが︑今公主の庭の石を見
れば︑これは支機石といふものでもあらうかと︑庭の挨拶をして︑
その上︑天子の御成りの時︑紫微宮を出てこの処へ行幸あると云ふ
は珍しいことと︑風景によそへて云ふ︒
公主を織女に見立て︑その庭園にある石を︑織女の機織りのための石
︵支機石︶であるかのように言いなすことで庭を誉め︑公主の邸に皇帝が
行幸するという状況を天上界のことに譬えている︒さらに︑
織女橋ともいふべき橋の下には︑烏鵲が飛び立つやうにして居り︑
仙人楼ともいふべき楼には︑鳳凰が飛ぶやうに見える︒
とする︒
﹁応制﹂︵天子の命を受けて詩文を作ること︶という条件の下︑いずれ
も烏鵲と鳳凰とが対になっている︒また︑紫微という天宮を示す語を用
いたり︑公主を織女に譬えたりするなど︑場全体を天上界の七夕の伝説
に彩られた空間へと読み換えている ⑶ ︒
ただし︑これらの詩によって言明し得るのは︑詩において貴人の邸に
ある橋を﹁烏鵲橋﹂と称する先例があったというところまでである︒と
ころが︑真淵は︑こうした﹁烏鵲橋﹂の用例を掲げ︑﹁これらは公主の家
なれば︑大内とひとしくいへり﹂と述べる︒そして︑﹁かささぎの渡せる
橋﹂が宮中の橋を詠んだものであると主張するのである ⑷ ︒
宮中が天という空間になぞらえられること自体は理解できる︒しか
し︑﹁烏鵲橋﹂という語が想起させるのは七夕伝説であり︑真淵の挙げた
二首についてもそれは同様である︒よって︑これらの漢詩をもって︑﹁か
ささぎの渡せる橋﹂を宮中に限定する根拠とは見なしがたいのである︒
一方︑和歌においてはいかがであろうか︒﹁かささぎの橋﹂に関連して
用例を調査すると︑﹃栄花物語﹄の以下の場面が参照される︒藤原道長の
娘である中宮彰子と︑道長の姉にあたる女院・詮子との歌の贈答である
︵新編日本古典文学全集﹃栄花物語﹄二〇〇八︑初版一九九五︶︒
七月七日に︑中宮より院に聞えさせたまふ︑
暮を待つ雲居のほどもおぼつかな踏みみまほしき鵲の橋
院より御返し︑
鵲の橋の絶間は雲居にてゆきあひの空はなほぞうらやむ ﹁踏みみまほしき﹂は掛詞であり︑︵橋を踏み 0
渡って︶お目に掛かりた 0
い︑せめて文
をいただきたいと訴える中宮に対して︑中宮の姑でもある 0
女院から︑天上のかささぎの橋で逢う二人︵牽牛と織女︶がうらやまし
い︑私もあなたにお会いしたい︑と返歌があったという︒確かに︑中宮
と女院の出会うべき場は宮中ということになろう︒
しかし︑このやりとりが七月七日のものであると明記されている点が
むしろ重要で︑七夕の日付を前提として︑宮中の橋を﹁かささぎの橋﹂
に見立てて詠う手法が評価されるのである︒さらに︑語の源泉が七夕伝
説にあることを勘案すれば︑この贈答の眼目が︑かなわない逢瀬を嘆く
という情感にあることが明白であろう︒
他にも︑﹃新古今集﹄所収︑﹁鵲﹂という題の菅原道真の一首が参照さ
れる︵日本古典文学全集﹃新古今和歌集﹄小学館︑一九七四︶︒
彦星のゆき逢ひを待つ鵲の門渡る橋をわれに貸さなん
︵巻十八 雑歌下・一六九八︶
道真が配流の地にあって都への帰還を願って詠んだ歌とされるが︑か
ささぎによって架けられる橋は︑逢うことの難しい思い人に会いたいと
いう自らの願いを託す題材として詠まれている︒
さらに︑﹃好忠集﹄︵曽根好忠の家集︶に︑﹁十月はて﹂という標目の
下に次のような一首がある︵引用は﹃新編国歌大観 第三巻 私家集編
Ⅰ﹄角川書店︑一九八五︑による︶︒
かささぎのちがふるはしのまどほにてへだつるなかにしもやふるら
ん︵三〇八︶
男女の交わりが間遠になったことを︑織女と牽牛を結ぶ﹁かささぎの
ちがふるはし﹂に霜が降りたのだろうかと詠う︒七夕伝説における悲恋
のイメージを背景とした︑冬の夜の寒さと独り寝の愁いを想起させる︒
吉海直人氏は近著﹃百人一首を読み直す
2︱言語遊戯に注目して︱﹄
︵新典社︑二〇二〇︶において︑家持﹁かささぎの﹂歌の﹁恋歌としての
新しい解釈﹂を提言している︒吉海氏は︑作者の同定の問題︑非歌語と
しての﹁かささぎ﹂の主題の変容︑注釈における課題といった観点から
検証し︑﹁百人一首掲載歌﹂としては﹁悲恋歌﹂︵﹁不逢恋﹂﹁待恋﹂︶とし
て再解釈すべきことを指摘されている︒
改めて﹃百人一首﹄における﹁かささぎの﹂歌を顧みるに︑置く霜を
詠い︑その白さに﹁夜ぞふけにける﹂と結ぶ点を軽視すべきではないと
判断される︒霜は︑古く﹃万葉集﹄において︑例えば︑
⁝⁝我が背子は 待てど来まさず 雁が音も とよみて寒し ぬ
ばたまの 夜も更けにけり⁝⁝立ち待つに 我が衣手に 置く霜も 氷にさえ渡り 降る雪も 凍り渡りぬ 今更に 君来まさ
めや⁝⁝ ︵巻十三・三二八一︒﹃新編全集 萬葉集
3﹄一九九五︶
といった歌に詠われるように︑﹁逢瀬が実現されないまま経過する時間
や︑孤閨を嘆く相聞的情調を包摂し得る表現﹂であることは︑既に小稿
の指摘したところである ⑸ ︒
和歌における﹁かささぎの橋﹂が︑漢語﹁烏鵲橋﹂を受容した結果と
して生まれたものであり︑本来的には七夕に関わる景物であることに加
え︑﹁かささぎの﹂歌の眼目が︑霜も白さと︑﹁夜ぞふけにける﹂という
時間の経過への気づきと慨嘆であることに鑑みるに︑相聞的叙情を和歌
の解釈から排除することには慎重になるべきではないか ⑹ ︒
こうした検証をふまえた上で︑真淵が﹁宮中の橋﹂説のもう一つの論
拠とする﹃大和物語﹄の記述についても確認する必要があろう︒該当す
る一二五段の関連部分を掲げる︵日本古典文学全集﹃竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語﹄小学館︑一九七二︶︒
泉の大将︑故左のおほいどのにまうでたまへりけり︒ほかにて酒な
どまゐり︑酔ひて︑夜いたくふけて︑ゆくりもなくものしたまへり︒
大臣おどろきたまひて︑﹁いづくにものしたまへるたよりにかあら
む﹂など聞えたまひて︑御格子あげさわぐに︑壬生忠岑︑御ともに
あり︒御階のもとに︑松ともしながらひざまづきて︑御消息申す︒
﹁かささぎのわたせる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ
となむのたまふ﹂と申す︒あるじの大臣︑いとあはれにをかしとお
ぼして︑その夜︑夜ひと夜︑大神酒まゐり︑遊びたまひて︑大将も 物かづき︑忠岑も禄たまはりなどしけり︒
夜更けに︑他所で飲酒した泉の大将︵藤原定国︶が︑酔いの勢いにま
かせて左大臣・藤原時平の邸を訪問する︒驚愕した時平が﹁いったいど
こへ行ったついでにこちらに参ったのか﹂と問い︑突然の訪問者を迎え
た邸内が騒然とする︒この局面で︑大将の供をしていた忠岑に歌詠みと
して期待されるのは︑時平の詰問に応えつつ︑彼の機嫌を取り結ぶとい
う役割であった︒そこで詠まれたのが︑
かささぎのわたせる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ
という一首である︒
この場面で︑忠岑が﹁松︵松明︶ともしながらひざまづ﹂いて歌を詠
じたのは︑地面と居住空間とを隔てる﹁階﹂であるとことは認めてよい
であろう︒その﹁階﹂と︑歌中の﹁橋﹂との同音が意図され︑物語とし
ての言葉運びの巧みさが指向されていることは理解される︒しかし︑そ
れはこの場面での興趣であり︑この記述のみで︑﹁かささぎの橋﹂が﹁御
階﹂の意を含むことの証明たり得ないことは言を俟たない ⑺ ︒
堀勝博氏は次のように真淵の説を批判する︵﹁﹁鵲の渡せる橋に置く霜
の﹂︱百人一首家持歌の解︱﹂﹃和歌文学研究﹄
60︑一九九〇・四︒︶︒
従来︑右に﹁御階のもとに﹂などとあることから﹁かささぎの︵わ
たせる︶橋﹂が宮中の御階を直接さすものと早合点したわけである
が︑文脈上むしろ注意すべきは﹁ゆくりなく物したまへり﹂といふ箇
所である︒すなはちこれは︑長らく対面を果たすことのできなかっ
た状況を七夕にことよせて︑弁解気味に表はしたものである︒無沙
汰の挨拶を当意即妙に﹁かささぎの渡せる橋の霜の上を﹂云々と表
現した所に﹁あるじの大臣﹂の賞嘆の意味も存したのである︒⁝⁝
そもそも和語の典拠としては右例以外には挙げられることがないの
であるが︑もし宮中の御階をそのやうに言ふならはしがあったとす
れば︑もっと多くの証例があってしかるべきである︒
まさに的を射た批判であろう︒
寳槻たまき氏も︑﹁かささぎの橋﹂の平安時代における用例を検証しつ
つ︑以下のように指摘する︵﹁﹃大和物語﹄一二五段﹁かささぎのわたせ
る橋﹂について﹂︵﹃瞿麦﹄
30︑二〇一六・三︶︒
⁝⁝恋の題材であった﹁かささぎの橋﹂を効果的に応用して︑牽牛
が織女に逢いたい一心で橋を渡るような切なる思いを表現したこと
こそが︑時平を﹁いとあはれにをかし﹂と思わせたのではないだろう
か︒少なくとも︑﹃古今集﹄の時代において︑﹁かささぎの橋﹂を宮
中や御殿の橋として解釈しなければならない必然性は認められず︑
それは﹃大和物語﹄一二五段においても同様である︒
﹃大和物語﹄の記述を検証した結果︑やはり﹁かささぎの渡せる橋﹂の
﹁恋の題材﹂としての表現性が看取されるのである︒
三︑﹁朝庭のみはし﹂︱荷田春満の場合
前節では︑真淵の掲げた例が﹁宮中の橋﹂説の論拠として成り立ちが
たいことを述べたが︑そもそも宮中という場と結び付けたのには︑真淵
にとって師にあたる国学者︑荷田春満の存在が関与していたらしい︒春
満はいわゆる﹁四大人﹂の一人に数えられる国学者であり︑﹃百人一首
解﹄という著書を残している︒
一九二八年から一九三二年にかけて︑吉川弘文館より翻刻︑出版され
た﹃荷田全集﹄が︑現在︑国立国会図書館デジタルコレクションに閲覧可
能な資料として公開されている︒その第七巻︵一九三一年︶所収の﹃百
人一首解﹄によると︑春満説の要点は以下のように整理できる︒
① ﹃新古今集﹄冬巻に︑題知らずとして掲出されていることを指摘︒
② ﹁烏鵲橋﹂と織女とを﹃淮南子﹄を根拠として関連づける︒
③ 唐詩を根拠として﹁禁庭の橋を烏鵲橋といふべし﹂とする︒
④ ﹃大和物語﹄を引用し︑壬生忠岑の歌は︑良岑宗貞︵僧正遍昭︶の
﹁天つ風﹂の歌と同様︑宮中を天に見立てたものであるとする︒
⑤ ﹃古今和歌六帖﹄の和歌を引き︑﹁橋には霜がよく見える﹂ことを
指摘︒ ⑥ 家持の歌風とは考えにくいこと︑﹃家持集﹄にはあるが﹃万葉集﹄
にはないことを指摘︒
真淵の説と比較すると︑②と③において二人の主張はほぼ重なるが︑
④で﹃百人一首﹄にも収められる遍昭の一首︵﹁天つ風雲の通ひ路吹き閉
ぢよ乙女の姿しばしとどめむ﹂︶を参照すべきことを述べるところに独自
性がある︒ただし︑遍昭の歌は﹃古今集﹄の詞書きに﹁五節の舞姫を見
てよめる﹂︵巻十七・八七二︶とあり︑宮中を舞台とする一首であること
は詞書きによって知られるが︑﹁天つ風﹂の語は必ずしも宮中という場
を限定するものではない︒ゆえに︑制作背景を一切記さない﹁かささぎ
の﹂歌と同じ観点から論じることはできないだろう︒
むしろ︑⑤のように︑橋と霜との関連性に言及したところに着目され
る︒現代でも冬︑橋上に凍結防止剤が設置される地方があることを思え
ば︑現実に即したある種の合理性は看取される︒
真淵は︑﹃初学﹄の序文に︑﹁荷田東麻呂うし︵春満のこと︶のいへり
しをうけて︑そをくはしくせしもおほし﹂と記す︒吉海氏によると︑春
満は自分の弟や真淵らと一時期﹃百人一首﹄の解釈をめぐる﹁評会﹂︵臨
席者が意見を言い合える場︶を行っていたといい︑﹃初学﹄のような真淵
の注釈自体︑春満の説によるところが多いという ⑻ ︒
春満の著作についてはいまだ調査が及ばない資料も残されていると
いうが︑春満の死後︑弟の信名によって筆記されたものを活字に翻刻し
た資料である﹃百人一首発起伝﹄を通して︑彼らの周辺でどのような議
論があったのか推定される︒巻一には重要な観点が複数提示されている
ので︑適宜段落分けをし︑それぞれ私に現代語訳し概要を記す︵﹃新編荷
田春満全集 第七巻﹄おうふう︑二〇〇七︶︒
① 諸注釈は︑﹁月零烏啼霜満天﹂という詩と同意の歌と解するが︑
当流︵我々の︶解釈とは大いに異なっている︒天に霜が置くとい
うことがあろうか︒詩では雪霜を﹁満天﹂或は﹁天亦雪﹂と詠み
もするが︑和歌ではそのようなことは詠まない︒
② ﹃大和物語﹄にある壬生忠岑の歌によって︑﹁かささぎの橋﹂がど
ういうものであるかは明白である︒
③ ところが︑宗祇らまでは﹁霜満天﹂という詩のことを秘し︑﹁た
だ冬深く月もなく雲もはれた時に︑霜が天に満ちてさえた深夜な
どに起き出してこの歌を思えば心に深く感動すること限りない﹂
とだけ云っていたのを︑三光院の時代に︑﹁霜満天﹂の詩句を明
らかにして幽斎に伝授したという︒こうした先達の説を批難する
わけではないが︑和歌の解釈としては不十分である︒
④ 此の歌は︑朝廷の﹁みはし
0 0
﹂に霜が降った様子によって夜が更け 0
たのだと知ったという義を述べた歌である︒
⑤ ﹃淮南子﹄にある﹁烏鵲はしをなして織女を度す﹂という故事に
よって七夕の歌に﹁かささぎの橋﹂ということを詠むようになっ
た︒これはみな天上のことである︒その天上に宮中をなぞらえた
ので﹁かささぎの橋﹂と詠んだのである︒
⑥ 壬生忠岑の歌もこれと同じである︒他の場所に行ったついでに参
上したのではない︑朝廷から直接︑わざわざ訪問なさったのだ︑
ということをいうために詠んだのである︒
①では︑中唐の詩人︑張継﹁楓橋夜泊﹂の詩の一節を和歌の解釈に応
用する従来の説を否定する︒天に霜が置くということは非現実的である
というのが根拠である︒
①で︑当該歌の解釈には﹃大和物語﹄に収める壬生忠岑の和歌を参照
すべきであると指摘し︑③では宗祇の頃︵十五世紀頃︶までは詩を参照
すべきことは秘されていたのに︑三光院︵三条西実枝︶から幽斎︵細川
幽斎︶への伝授が行われた際に︵十六世紀後半︶︑張継の詩の﹁霜満天﹂
の詩興を想起すべきというが和歌の解釈としては不十分である︑という︒
④では一首の解釈に関する自説を述べ︑⑤で七夕伝説との結びつきに
触れる︒ちなみに︑諸説︑しばしば﹃淮南子﹄に記す故事であるという
が︑現行の同書にはこの記述は見えない︒おそらく﹃白孔六帖﹄などと
いった後世の類書により引用したのであろう ⑼ ︒⑥では︑②で言及した
﹃大和物語﹄の和歌について補足している︒ ﹃発起伝﹄の①から⑥を通読するに︑和歌と漢詩の表現上の違いに言及
しつつ︑宮中を天上になぞらえる手法を指摘する点で真淵に等しい︒春
満や真淵らが天上の景を詠ったとする従来の説を否定し︑敢えて宮中の
比喩であると主張した背景をいかに考えるか︒
いくつかの理由が想定されるが︑第一に︑霜が天空に置くことはない
といったきわめて現実的︑合理的な判断に基づくことが知られる︒﹃発起
伝﹄①では︑
天に霜のふり置といふことあらんや︒霜雪はそらよりこそふりもし
置もするなり︒
と述べている︒
そして︑もう一つの理由として︑漢詩と和歌の興趣を区別しようとす
る意図があったと考えられる︒﹃発起伝﹄は続けて︑
詩情と歌とは同事なることもあれと詞には不合事多也︒詩には草木
庭上にふりたる雪霜を満天或は天亦雪なとゝ作れとも歌にはさいふ
ことはならぬ也︒しかれは此歌諸抄説は不合也︒
とする︒詩においては霜を﹁満天﹂と表現することもあるが︑和歌では
そういうことはない︑というのである︒
真淵も︑﹃初学﹄で以下のようにいう︵前掲﹃賀茂真淵全集 第十巻﹄︶︒
或説にわたせる橋におく霜のといふを︑からうたを思ひて︑天に満
たる霜の事といへど︑そは霜の氣のさまばかり也︑實の橋の上にお
きたる霜ならすは︑白きをみればといふべからず︒
﹁からうた﹂を想定した解釈もあるが︑それは﹁霜の気﹂であって︑現
実の︵実体としての︶橋に置いた霜でなければ︑﹁白きをみれば﹂などと
歌うはずがない︑というのである︒ここに︑中世以来の秘伝としての歌
学を否定する姿勢が窺われる︒
実証的に古典を読解する方法が確立する以前︑例えば古今伝授といっ
たきわめて限定的かつ秘密主義的な経路によって和歌の解釈が継承され
てきたことを想起すれば︑十八世紀において︑真淵らがこのように主張
することには必然性があったのであろう︒
﹃発起伝﹄は宗祇や三光院︑幽斎に至る和歌の系譜について言及する
が︑実際に︑元亀三年壬申十二月六日︵一五七三年一月︶の日付をもつ︑
三光院から幽斎への古今伝授に際しての﹁誓状﹂の記録があるという︒
この書状には︑和歌の解釈については厳重に秘すべきであり︑決して他
言してはならない︒許可を得ていない者が歌の道について問うたり他者
に語ったりすることも決してしてはならないという﹁誓い﹂の言辞が綴
られている ⑽ ︒その契約を破った時には︑﹁大日本国中神祖神并びに天満
天神︑梵釈四王︑殊に和歌両神﹂の﹁冥罰﹂が下るだろうと結ぶ︒
真淵らが批難しているのは︑こうした前世紀における歌の継承のあり
方である︒限られた階層の人々によって秘伝として継承される解釈が︑
神秘的かつ非現実的な性質を帯びていくのは当然である︒そうしたあり
方への過剰な忌避感が﹁天上の橋に霜が置く﹂とみる旧来の解釈の排斥
へと駆り立てたのではないだろうか︒
四︑﹁御階﹂説の誕生
第一節で見たように︑﹃便覧﹄類は﹁宮中の階
﹂とする説が多かった︒ 0
ここには︑もう一つの問題がある︒﹁橋﹂か﹁階﹂か︑という問題である︒
真淵の﹃初学﹄には︑﹁烏鵲橋は先大内の御橋を天にたとへいへり﹂とい
い︑﹃大和物語﹄に言及した際に︑営繕令の規定﹁宮城門前橋者︑︵謂十
二門前溝橋也︶﹂を引用している︒﹃令義解﹄︵巻六︶に︑確かに同様の注
記が見え︵﹃新訂増補 国史大系 令義解﹄吉川弘文館︑一九七二︶︑真
淵が参考として挙げたのは︑溝に掛かる︑いわゆる﹁橋﹂であることが
確かめられる︒
では︑﹁宮中の階
﹂説はどのような経緯で誕生したのだろうか︒ 0
もともと︑階段と橋とは︑おなじく﹁はし﹂という読みを共有する︒ 空間を媒介するという意において︑本来は橋も階も同義であったが ⑾ ︑
﹁烏鵲橋﹂を源流とする和歌のことばである﹁かささぎの橋﹂を︑ただち
に﹁御階﹂として理解することには飛躍があり︑理解しがたい︒真淵の ﹁宮中の橋﹂説は︑いかにして﹁階﹂に置き換わったのだろうか︒
ここで︑先述の﹃発起伝﹄④において︑﹁禁庭のみはし﹂とあったこと
に注目したい︒改めて本文及び私に現代語訳したものを併せて掲げる︒
④ 此歌の意は朝庭のみはしに霜のふりたる気色にて夜のふけたる
としりたる義をのへたる歌也︒朝庭は雲の上といひ天上といひて
天に比したれは禁庭のみはしをさしてかさゝきのはしとはいひ
たり︒これか歌の手といふもの也︒
︵此の歌の意味は︑朝廷の﹁みはし
0 0
﹂に霜が降った様子によって 0
夜が更けたのだと知ったという義を述べた歌である︒朝廷は雲の
上といい︑天上といって天になぞらえるから︑宮中の庭の﹁みは 0
0
し
﹂を指して﹁かささぎのはし﹂と言ったのである︒これが歌の 0
手法というものである︒︶
ここでは﹁みはし﹂とあり﹁橋﹂のこととして矛盾はない ⑿ ︒ところ
が︑一八三三年成立の尾崎雅嘉﹃百人一首一夕話﹄においては︑
しかるに帝を天子と申奉るより禁中の事をすへて天上にたとへてい
ふ事︑やまともからも同し事故︑かさゝきの橋を禁庭の御殿へ上る
御階の事にいひならはせたり︒されは此歌のこゝろは禁中に宿直し
て冬の夜に禁庭の御階のあたりに置わたしたる霜のましろなるをみ
れは︑まことに夜のふけたるよと思はるゝといふこと也︒
とある︒ここでは︑﹁禁庭の御殿へ上る﹂とあり︑明らかに階段のことを
念頭に置いているのである︒﹃くずし字で読む﹃百人一首一夕話﹄﹄︵武蔵
野書院︑二〇一八︶によって︑城﨑陽子氏架蔵の版本の影印︵ただし注
釈書部分のみ︶を確認すると︑﹁禁庭の御殿へ上る御階﹂︑﹁禁庭の御階﹂
と二カ所に﹁階﹂という漢字が宛てられていることがわかる ⒀ ︒
﹃一夕話﹄は︑刊行後かなり普及したらしい︒古川久氏は以下のよう
に説く︵﹃百人一首一夕話︵下︶﹄岩波文庫︑二〇〇四︑初版一九七三︶︒
版数や部数は知る由もないが︑表紙や奥付の違うものがあちこち見
当るところからしても︑およそ普及度の高さを察することができよ
う︒⁝⁝天保四年心斎橋の敦九から出版された﹁百人一首一夕話﹂
は︑まことに洛陽の紙価を高からしむる程もてはやされて︑老若を
とはず我勝ちに買つて行つた︒
跋文は香川景樹が記していることからも︑当時の評判が推し量られ
る︒こうした書の流通は﹁御階﹂説の浸透する基盤となったであろう ⒁ ︒
そして︑近代に入り明治二十七︵一八九四︶年に出版された佐々木︵後
に佐佐木と称する︶信綱の﹃百人一首講義﹄もやはり﹁御階﹂説を採る︒
⁝⁝皇国にても︑この事をかさゝぎのより羽の橋など歌によみて︑
鵲の橋といへば︑天上にある橋の事となりたり︒しかるに禁中の事
を︑すべて天上にたとへていふ事ゆゑ︑天漢の烏鵲橋になずらへて︑
禁中の御殿へ上る御階をしかいへるなり︒
引用を省いた前半部も︑ほぼ﹃一夕話﹄の説に依るが︑信綱が﹃一夕
話﹄を読み︑かつ執筆にあたり大いに参照していたことは︑同書の﹁緒
言﹂に明記されている︒他に︑契沖の﹃百人一首改観抄﹄︵一六九二年︶︑
真淵の﹃初学﹄︵一七六五年︶︑香川景樹﹃百首異見﹄︵一八一五年︶の書
名も挙げている ⒂ ︒彼は十七世紀から十九世紀に至る研究成果をふまえ
た注釈書を世に送り出したのであった︒
二十世紀に入っても︑﹁宮中の御階﹂説が継承される︒﹁かささぎの﹂
歌は﹃新古今集﹄所収の和歌であるが︑その注釈書である﹃新古今和歌
集詳解﹄︵塩井正男︑明治書院︑一九二五︶の﹁語解﹂に︑
⁝⁝禁中 8
を天上 88
に例へて︑禁中の御階などをも︑かく詠むにて︑こ 8
の歌のはそれなり︒冬夜︑宮中に宿直したる時に詠みたる歌にて︑
禁中の御階を天漢の鵲橋に擬して︑その御階を︑直に鵲の渡してあ
る橋と詠みなしたるなり︒彼の﹁鵲の渡せる橋
8 8 8 8 8
の霜の上を夜半にふ 8
みわけ殊更にこそ﹂などのも︑同じくこの禁中の御階なり︒
とある︒著者である塩井は︑雨江と号する詩人としても知られる人物で︑
所属学科は異なるものの信綱と同じく東京帝国大学に学び︑日本近代に
おける﹁国文学﹂の草創期にそれぞれの功績を残している ⒃ ︒塩井が教
科書編集の監修もしていることを考慮すれば︑国語教育における詩歌の
教材化に関わる重要な視座となり得る︒ もちろん︑﹁御階﹂説が有力となる経緯を明確にするためには︑戦前
戦後を通じた教科書等︑さらに多くの資料を調査する必要がある︒しか
し︑少なくとも︑﹃新古今和歌集詳解﹄に︑真淵らの説にはない﹁宿直﹂
という語が見えることから︑﹃一夕話﹄を踏襲したと考えてよいだろう︒
真淵らの﹁宮中の橋
﹂説は江戸時代の末に﹁宮中の階 0
﹂説へと変容し︑ 0
さらに近代に入って︑碩学によって﹁宮中の階
﹂が継承され︑現代に至 0
るまで注釈書類に多大な影響を与えていることが推定されるのである︒
五︑春満・真淵以前の解釈
見てきたように︑真淵らの主張に始まった﹁宮中の橋﹂説には従いが
たく︑そこから派生したと思われる﹁階﹂説にも確たる論拠が示されて
いないことを確認した︒では︑真淵以前には︑どのような解釈が主流で
あったのだろうか︒
﹃百人一首﹄の注釈史は古く︑中世以来︑幾多の書物が書き継がれて
きた︒平成に入り︑和泉書院から﹃百人一首注釈書叢刊﹄全二十二冊が
刊行されたが︵一九九一〜二〇一二年︶︑残念ながら既に入手困難なもの
も多く︑通観するには困難が伴う︒現在︑古注釈から注目すべき内容を
摘記し便益をはかった﹃百人一首古注抄﹄︵和泉書院︑一九八二︒オンデ
マンド版︑二〇一七︶がある ⒄ ︒同書により︑まず︑二種類の説を引用
し︑真淵以前の説を概観しておく︒先に﹃発起伝﹄が批判的に取り上げ
ていた宗祇の言︵﹃宗祇抄﹄︶を引用する︒
此歌の心は︑冬ふかく成て月もなく雲も晴たる夜︑霜は天にみちて
さえにさえたる深夜などにおき出て︑此歌を思はゞ余情はかぎり有
へからずとぞ
冴え冴えとした冬の深夜︑白く輝く銀河のイメージを見ることは︑﹁誤
り﹂であると否定してよいのだろうか ⒅ ︒宗祇よりも遡ることおよそ三
百年前の歌人である能因の歌学書である﹃能因歌枕﹄︵広本︶には以下の
ような記述がある︵﹃日本歌学大系 第壱巻﹄風間書房︑一九五七︶︒
かさゝぎのはしとは︑七夕の天の川にむすびわたすを云︒
あまのがはとは︑そらにしろくてわたりたる也︒
﹁かささぎの橋﹂を七夕の景物であると限定すること︑それとは別に︑
天の川の白さに言及することに注目される︒
さらに︑﹃経厚抄﹄︵十六世紀半ばに没した鳥居小路経厚の著︶には︑
﹁かさゝぎの橋に霜を読事︑此歌より始れり﹂とある︒つまり︑﹁かささ
ぎの渡せる橋に置く霜﹂は実景としての橋や霜ではなく︑歌や詩のこと
ばとして磨かれ︑継承されてきたイメージを重層させつつ︑冬の夜の冴
え冴えとした冷気と天の川を詠んだものという解釈である︒家持の﹁か
ささぎの﹂歌は︑そうした興趣を和歌に織り込んだ嚆矢であったと考え
てよいだろう︒
その他︑長享元︵一四八七︶年書写との奥書を持ち︑﹃百人一首﹄の注
釈書としては現存最古の一本とされる吉田幸一氏架蔵の注釈書︵﹃百人一
首古注﹄︶においては︑﹁かささぎのわたせる橋﹂=﹁天の川﹂説が述べ
られている︵﹃百人一首古注﹄古典文庫︑一九七一︶︒
かさゝきの渡せる橋とは︑天の河の事也︑七夕につはさをならへて︑
七夕をわたすといふ事あり︑これより天川をかさゝきのわたせる橋
といふ也︑をく霜とは︑あなかちまことの霜にあらす︑冬の夜のあ
けかたに︑この河のきら
く
とするを︑銀河といへり︑きらく
とするをみれは︑よのあくるといふけいきを云也︑月落烏鳴霜満天︑
といふも︑このこゝろ也
夜空に天の川の白さを見て︑それを﹁かささぎの橋﹂に見立てる︒こ
の場合︑橋に置くのは﹁まことの霜﹂ではない︑冬の夜の明け方に天の
川が﹁きらきら﹂としているのを﹁置く霜﹂に見た︑といい︑張継の詩
と和歌の﹁こころ﹂とを重ね鑑賞すべきことを述べる︒
天の川は︑漢語では﹁銀河﹂︑﹁銀瀇﹂︑﹁銀湾﹂ともいうが︑田中幹子
氏は︑﹃芸文類聚﹄や﹃白氏文集﹄︑﹃和漢朗詠集﹄の例を挙げ︑白とい
う色彩に結びつく例があり︑その白さが霜を連想させることを指摘して
いる︵﹁鵲について︱平安詩歌を中心に︱﹂﹃札幌大学女子短期大学部紀 要﹄
27︑一九九六・三︶︒
真淵や春満に先行する古典学者であり︑時に春満の代わりに四大人の
一人に含まれることもある契沖もまた︑﹃百人一首改観抄﹄という注釈書
を残す︒契沖の師である下河辺長流の﹃百人一首三奥抄﹄を踏襲するも
ので︑前半部分はほぼ﹃三奥抄﹄による︒しかし︑契沖ならではの実証
主義的考証は存分に発揮される︒
詳細は注に譲るが ⒆ ︑﹃日本書紀﹄景行紀︵十八年七月条︶所収の歌
謡︑晩唐の温庭筠の詩︵﹁商山早行﹂︶︑繰り返し参照されてきた張継の
詩︵﹁楓橋夜泊﹂︶の一節の他︑﹃古今和歌六帖﹄や﹃千載和歌集﹄﹃新勅
撰和歌集﹄といった歌集︑曽根好忠の歌などを引き︑
誠に彼橋におく霜の見ゆるにはあらね共ことの理をもて見たるやう
にいひなすは歌も詩も皆かくのことし
と述べる︵﹃百人一首注釈書叢刊
10 百人一首三奥抄 百人一首改観抄﹄
和泉書院︑一九九五︶︒もちろん︑﹁かささぎの橋﹂に置いた霜というの
は実景ではないが︑橋には霜が降りるという道理を応用して︑そういっ
た景を見たようにいいなすのは漢詩も和歌も同じようなものであると説
くのである︒そうした契沖の主張は︑後に真淵や春満によって否定され
るのであるが︑﹁見たるやうにいひなす﹂という見立ての技法による解釈
は︑現代に再び顧みられてもよいのではないか︒
真淵らよりも後の世代︑本居宣長門下の石原正明は従来の説に納得で
きず︑﹁或人﹂の説を紹介する︵﹃新抄﹄︒十九世紀初頭に成立︒﹃百人一
首古注抄﹄による︶︒
或人いはく︑上二句はひろく天の川をさしていふとみるべし︒一首
の意は︑天の川などすみわたる大空に︑霜の置べきけしきのみちた
るをみれば︑もはや夜がふけたるよとよめる也︒詩にも霜満天とつ
くれるなど同じけしきにて︑霜の置べく寒くすごきけしきの空にみ
ちたるをいふ︒大空の事を鵲の橋といひ︑霜の置べきけしきをしろ
きといへる︑かやうにさださだとたしかにいへるが一首の趣向にて
たくみ也といへり︒此説︑契沖が説に似て今すこしおだやか也︒此
説にやよらまし︒猶いかゞあらむ︒
﹁或人﹂は上二句︵﹁かささぎの渡せる橋﹂︶は天の川を指していると
見るべきであるという︒橋が天の川そのものであるとするのは︑﹃百人一
首古注﹄にも見える説であった︒そして︑澄み渡る大空に霜の置くほど
の気配︵詩にあるような寒く冴え渡った空気︶が満ちているのを見ると︑
もはや夜が更けたことだと詠んだ︑というのである︒正明は続けて︑こ
の説は契沖の説に似ているが今少し穏当であるという︒和歌の解釈に迷
い︑問題点を整理した上で︑これまでの説を精査し︑他者の言説を取り
入れ比較対照させつつ自ら納得できる解釈を模索するのである︒
中世から近世に至るこうした思索の軌跡をたどれば︑現行の﹃便覧﹄
が多く採用する︑宮中で実見した霜を詠んだとする説よりも︑冬の夜︑
天の川の冴え冴えとしたきらめきに︑伝説上の恋の媒をするかささぎと︑
孤閨の寒さを想起させる霜とを連想し一首となしたという理解が︑より
和歌のことばに即した解釈であると判断されるのである︒
おわりに︱解釈の多様性を通して学ぶ
見てきたように︑﹃百人一首﹄という一般に普及した歌集の内にも︑長
きにわたる享受の歴史がある︒それぞれの時代︑論者によって主題とす
るところは異なっており︑解釈をめぐって今も種々の議論が展開してい
る︒高等学校において︑生徒が複数の﹃便覧﹄を比較する機会を得るの
は稀であろう︒しかし︑こうした資料を紹介し︑和歌の成立と享受︑そ
の変遷や汲み取られる主題の相違を概観することを通して︑より多彩な
意見を誘発することが可能になるのではないか︒現代語訳が文法的知識
のみによって成り立つとする認識を改める機会になり得る︒
むしろ︑生徒には︑学校文法の範囲内における﹁正しさ﹂のみでは︑
和歌の解釈に届かない場合が往々にしてあること︑現代語訳ではなく解
釈の段階に進めることが和歌を学ぶ際の眼目であることを理解してもら
いたい︒和歌の理解はセンスにのみ依拠するものではない︒和歌の主題 をいかにとらえるか︑どういったことばに着目するかといった﹁自らの
考え﹂を持ち︑それを主張するために適切な資料を選び︑比較対照させ
つつ論点を整理する必要性に気づいてもらうことは︑高校での学びを大
学での学びへと発展させる︑いわゆる﹁高大接続﹂を意識するという観
点からも有益であろう︒
また︑和歌を教材とする場合︑平仮名による創作︑日本固有の文学形
式︑いわゆる﹁国風文化﹂の精華としての側面が重視されることも多い︒
しかし︑多くの注釈書が言及するように︑﹁かささぎの﹂歌は中国にお
ける七夕伝説を和歌に取り入れることによって誕生した︒
古典などを読むことを通して︑我が国の文化の特質や︑我が国の文
化と中国など外国の文化との関係について理解を深めること︵前掲
﹃高等学校学習指導要領﹄253ページ︶︒
こういった指導のための格好の教材となるだろう︒﹃万葉集﹄以来︑漢
詩文の表現を積極的に摂取し︑時代により︑歌人の個性により︑和歌の
ことばとして洗練していく過程があったこと︑それと平行して︑和歌を
読み解く営みが批判と創造を繰り返しつつ続けられてきたことを伝える
ためにも︑﹃百人一首﹄は重要な役割を担い得る︒
現代では夜の銀河のきらめきを実見できる機会は多くない︒霜が降り
るという景になじみのない生徒も存在することであろう︒﹁かささぎの﹂
歌の学修を通して︑﹁かささぎの渡せる橋﹂が﹁逢いがたい恋﹂のイメー
ジを伴うこと︑そして︑冬の夜空にかかる天の川を霜のきらめきに譬え
るという解釈について︑思いを巡らす機会になることを願う︒
︻注︼
⑴ ﹁和歌教材としての﹁百人一首﹂︱小野小町﹁花の色は﹂歌の課題と展望︱﹂︵﹃滋賀大学教育学部紀要﹄
68︑二〇一九・三︶ ﹁在原業平﹁ちはやぶる﹂歌の解釈 和歌教材としての﹃百人一首﹄︵
︵﹃滋賀大学教育学部紀要﹄ 2︶﹂
69︑二〇二〇・三︶
⑵ ⁝⁝墓は武蔵国荏原郡品川駅東海寺地内︑少林院の山上にあり︒翁︵引用者
注︑真淵︶東都に下られて︑南郭先生といとしたしくむつびかはされつゝ︑
詩を先生に学ばれしに︑先生は国学を翁にとはれて︑かたみによき学びがた
きにおはせしかば︑先生の墓所も︑此寺なるちなみに︑翁も墓地をこゝにし
めおかれしとぞ︒︵十七︶
県居翁と南郭先生とは︑もろこし学とやまとざえとをかえ
ぐ
にして︑かたみにとひ学ばれしとかや︒︵十八︶
︵新日本古典文学大系﹃当代江戸百化物 在津紀事 仮名世話﹄岩波書店︑
二〇〇〇︶︒
⑶ 同題を有する二首にいずれも﹁烏鵲橋﹂﹁鳳凰楼﹂が詠まれることについて︑
目加田誠氏は︑﹁あるいはこの別荘に︑烏鵲橋・鳳凰楼とよぶ橋や楼が実際
にあったかと思われる﹂とする︵新釈漢文大系﹃唐詩選﹄明治書院︑一九八
五︒初版︑一九六四︶︒また︑加藤有子氏は︑初唐には﹁奉和春初幸太平公主
南荘応制﹂の詩題を持つ詩が約十首あり︑内半数の詩に﹁烏鵲﹂﹁鵲橋﹂が
詠み込まれていることを指摘し︑
﹁鵲橋﹂が﹁七夕﹂に限定されず︑仙境や天上世界を表現するのに用い
る例が少なからずあると言える︒
と述べる︒︵﹁かささぎの渡せる橋に置く霜の︱比較文学的立場から︱﹂︒大
東文化大学﹃日本文学研究﹄
53︑二〇一四・二︶︒
⑷ 上代における﹃懐風藻﹄の例から︑寂蓮︑定家に至る和歌の表現史を概観
しつつ検証した蔵中スミ氏によると︑漢詩における﹁烏鵲︵橋︶﹂を和歌の
表現として摂取する過程には︑﹁誤用とされた語がのちには却って歌語とし
て定着する﹂といったような詩と歌における表現上の﹁混和﹂ともいうべき
﹁多様な展開﹂が指摘し得るという︵﹁﹁かささぎの橋﹂︱詩語から歌語へ︱﹂
﹃帝塚山学院短期大学研究年報﹄
23︑一九七五・一二︶︒
⑸ 拙稿﹁﹁家なる人も待ち恋ひぬらむ﹂︱﹃万葉集﹄巻四︑大伴坂上郎女の六 五一歌の解釈をめぐって︱﹂︵﹃上代文学﹄123︑二〇一九・一一︶
⑹ 近松門左衛門の﹃曽根崎心中﹄にも︑お初と徳兵衛の道行きを描写する中
に︑﹁北斗は冴えて影映る︑星の妹背の天の川︒梅田の橋を鵲の橋と契りて︑
いつまでも︒我とそなたは女夫星︒かならずさうと縋り寄り︒二人がなかに
降る涙︑川の水嵩も増さるべし﹂という一節がある︵新編日本古典文学全集
﹃近松門左衛門集
3﹄小学館︑二〇〇三︑初版一九九八︶
⑺ ただし︑﹃古典文学全集﹄頭注には︑﹃淮南子﹄の一節として︑﹁烏鵲︑河︵銀
河︶ヲ塡︵うづ︶メ橋ヲ成シ︑織女ヲ渡ス﹂を挙げ︑﹁ここから︑宮中や貴
人の邸宅を天上になぞらえて︑その階段をいうようになる﹂とする︒ ⑻ ﹁現在まで︑春満の説が﹃百人一首﹄の研究史において特筆されることはほ
とんどなかった︒契沖の﹃百人一首改観抄﹄が︑その師である下河辺長流の
﹃百人一首三奥抄﹄と渾然一体となっていることと同様に︑春満の説も真淵の
﹃百人一首古説﹄に吸収されてしまっているとすれば︑両者の説を明確に腑
分けすることは困難であろう︒﹂﹁︻解題︼﹃百人一首発起伝﹄について﹂︵﹃新
編荷田春満全集 第七巻﹄おうふう︑二〇〇七︶
⑼ 香川景樹﹃百首異見﹄に﹁此句何に出たるにや︒諸書に淮南子にありといへ
るハ杜撰也﹂とある︵﹃百人一首注釈書叢刊 百首異見 百首要解﹄和泉書
院︑一九九九︶︒
⑽ 原文は漢文で︑横井金男氏﹃古今伝授の史的研究﹄︵臨川書店︑一九八〇︶の
﹁附説 細川幽斎古今伝授の日次に就いて﹂に翻刻が掲出されている︒以下︑
細川護貞氏﹃細川幽斎﹄︵株式会社求龍堂︑一九七二︶により読み下したも
のを掲げる︒
古今集御伝授之事︵二条家正嫡流︶御門弟と為り︑御説を請るの上は親
子の如く疎意を存ず可からず候︒猶ほ義理︑口伝︑故実に於て他言口外
の儀曽つてこれある可からず候︒又︑他流に於て混乱せしめ︑是非の褒
貶︑禁制の儀︑道の法度の如く其の旨存じ候︒将た又︑御伝授の儀︑免
許を蒙らざる者︑道を聞き道を説くの儀︑努々あるべからず候︒聊か爾
か候︒此の若く条々違背せしむるに於ては︑大日本国中神祖神并びに天
満天神︑梵釈四王︑殊に和歌両神の冥罰忽ちその身上に罷り蒙るべき者
なり︒仍つて誓状件の如し︒
⑾ ﹃時代別国語大辞典 上代編﹄︵三省堂︑一九六七︶には︑﹁橋﹂﹁梯﹂を一つ
の項目にまとめ︑①に橋の説明を︑③に階段︑きざはしの説明をしている︒
︻考︼には︑﹁橋渡しとなるもの・媒介物という原義が想定される﹂と述べる︒
⑿ 翻刻は中村正明氏による︒
⒀ なお︑□で囲んだ箇所について同書では﹁橋﹂と翻刻されているが︑影印に
よって確認すると︑歌本文の﹁橋﹂の字体とは明らかに異なっており︑﹁階﹂
であると判断される︒
⒁ ちなみに︑香川景樹自身による注釈﹃百首異見﹄では︑﹃初学﹄が唐詩二首
と﹃大和物語﹄とを根拠として﹁宮中の橋﹂説を唱えることに対して痛烈に
批判している︵注
9に同じく﹃百人一首注釈書叢刊 百首異見 百首要解﹄
による︶︒
⁝⁝からにもやまとにも烏鵲橋を大内の事になそらへたる例ハなき事
に侍り︒たとへ有とも歌の意さる事に侍らす︒おそらくは序なる例をわ
すれて解わつらひたるより出きたる附会の説にそ侍らん︒ そもそも書名自体が国学派に対する﹁異見﹂を提示することに依るという
︵大坪利絹氏﹁解題﹂︶︒
⒂ 国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができる︒﹁緒言﹂には
この他︑信綱の父︑弘綱の手になる﹃俚諺解﹄も参照したと記す︒﹃俚諺解﹄
を書名とした﹁百人一首﹂解説書の出版広告はされたものの︑刊行には至ら
なかったという︵永田信也氏﹁佐々木弘綱の俚諺解﹂北海道教育大学﹃語学
文学﹄
45︑二〇〇七・三︶
⒃ 品田悦一氏﹃万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典﹄第二章﹁千
年と百年︱和歌の詩歌化と国民化﹂︵新曜社︑二〇〇一︶︑﹃﹁国書﹂の起源
近代日本の古典編成﹄新曜社︑二〇一九︶参照︒﹃日本近代文学大事典 机上
版﹄︵講談社︑一九八四︶を参照するに︑歌人であり学者でもあった落合直
文は共通の知人であったことがわかる︒落合直文を介して両者の接点があっ
たことも否定できない︒
⒄ 同書は︑﹁百人一首の数多い古注釈群の中から︑一首ごとにできるだけひろ
く抄出︑編集﹂することを意図して編まれたもので︑﹁抄出に当っては︑古
注の独自的な説︑初出の見解︑注釈史の流れを窺わせる説などの視点から選
んだ﹂ものである︵﹁凡例﹂︶︒島津忠夫氏︑上條彰次氏の合議により編まれ
た︒引用書の数や内容は対象歌によってそれぞれ異なるが︑全二十八種の書
物に及ぶ︒
⒅ 宗祇の弟子であった宗長は日記﹃東路のつと﹄に︑ かささぎやさえわたる橋の夜半の月 かささぎの渡せる橋か天つ霜 という句を残している︵新編日本古典文学全集﹃中世日記紀行集﹄小学館︑
二〇〇七︑初版一九九四︶︒一方︑芭蕉は︑﹁かささぎの橋﹂は暗い夜空のこ
とを言ったものとする独創的な解釈をしていたらしいことが弟子である服
部土芳の﹃三冊子﹄に記録されている︵新編全集﹃俳論集﹄小学館︑二〇〇
八︑初版二〇〇一︶︒
﹁かささぎの歌は︑夜をうば玉といふより︑かささぎの橋と︑夜くらき
空のことをよめるなり︒空の事を天の浮橋など︑橋にいひたる事多し︒
ただ夜のくらき空をよみたる趣向︑この歌ばかりなり﹂︒趣向の本所か
はりたるをほめたる義なり︒
⒆ ﹁霜は橋におけるがことによく見ゆれは︑景行紀の歌にも朝霜の御木の竿橋
とよみ︑温庭筠か詩にも人迹板橋ノ霜と作れり︒誠に彼橋におく霜の見ゆる にはあらね共ことの理をもて見たるやうにいひなすは歌も詩も皆かくのこ
とし︒月落烏啼霜満レ天ニと作れるも其折の心を得て満天とはいへるなり⁝⁝
或説に常の橋を鵲の橋にいひなせる歟の心あれと此家隆卿の歌にて然らぬ
事聞え侍り﹂︵﹃百人一首注釈書叢刊
10 百人一首三奥抄 百人一首改観抄﹄
和泉書院︑一九九五︶
なお︑契沖が参考として掲げた和歌は以下の通りである︵歌番号は﹃新編
国歌大観﹄による︶︒
・﹃古今和歌六帖﹄ かさゝきのはねに霜ふり寒き夜を獨やわかねん君待かねて ︵﹁ひとりね﹂二六九八︶ 夜や寒き衣やうすきかさゝきの行相の橋に霜や置らん ︵﹁かささぎ﹂四四八九︶ ・﹃好忠集﹄ かさゝきのちがふる橋のまとほにて隔る中に霜や置らん︵三〇八︶ ・﹃千載集﹄︵藤原基俊 巻六冬・三九九︶ ひさ木おふる小野の浅茅に置霜の白きを見れは夜や更ぬらん ・﹃新勅撰集﹄︵藤原家隆 巻六冬・三七五︶ かさゝきのわたすやいつこ夕霜の雲井に白き峯のかけはし
︻参考文献︼
田中宗作氏﹃百人一首古注釈の研究﹄︵桜楓社︑一九六六︶
丹羽博之氏 ﹁唐張継﹁楓橋夜泊﹂詩と日本文学・韓国文学﹂︵﹃大手前大学論集﹄
13︑
二〇一三・三︶
山岸徳平氏﹁古文辞学と賀茂真淵の古語研究﹂︵﹃文学研究﹄
24︑一九六六・一一︶
吉海直人氏﹃百人一首で読み解く平安時代﹄︵角川学芸出版︑二〇一三︶
吉海直人氏﹃百人一首の正体﹄︵角川文庫︑二〇一六︶
︻付記︼
本稿は︑平成三十年度滋賀大学教育学部国語教育講座卒業生である藤井幸子さ
んの卒業論文︵﹁﹁百人一首﹂家持歌をめぐる一考察︱かささぎの渡せる橋におく
霜の︱﹂︶執筆を指導する際の井ノ口の着想を基盤とし︑調査・検討を加えたも
のである︒難題に向き合い粘り強く卒論執筆に取り組んだ藤井さんに︑記して敬
意を表します︒