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(1)

数学第一類・第二類の検定教科書の使用と教科書国 定化 : 戦時下の中学校数学教育

著者 長崎 栄三

雑誌名 國立教育研究所研究集録

巻 26

ページ 53‑66

発行年 1993‑03

出版者 国立教育研究所

URL http://hdl.handle.net/10297/6336

(2)

数学第一類・第二類の検定教科書の使用と教科書固定化

一戦時下の中学校数学教育一

I.はじめに

長 崎 栄 一

I.はじめに

II. 

r

数学第一類・第二類』の教室での使用 一昭和18年 度 ‑ 1[.中学校数学科で初めての国定教科書 一中等数学一

IV戦時下での数学教育の営み 一昭和19年~20年一

V.おわりに

昭和15年9月,中等学校の数学教育を改革することを目的とした数学教育再構成研究会が,日本 中等教育数学会の中に設立された。昭和16年の初めには,この勤きに呼応するようにして文部省に 中等学校数学新教授要目調査会が設げられ,昭和17年3月に新しい中学校教授要目が公布された。

これは,数学をそれ以前のように算術・代数・幾何・三角法と分けるのではなく,数学を総合的に 扱おうとして「第一類

J

と「第二類

J

の2領域に分げたものであり,内容的にも,関数の観念,図 形の動的考察,図的表現,測量,統計を重視し,近似値や極限の概念を扱い,微積分の基礎や力学 などを含むという,画期的なものであった。そして,昭和17年から18年にかけて,この要呂に沿っ た検定教科書(これは検定とは言っても1種類しかないので. 1種検定教科書と呼ばれた)の編纂 が進められ,昭和18年1月から刊行され始めた。この教科書は,生徒自らが数理を発見することを 目指したものであり,各宣言の構成は,問題場面に布いて事象を数学化する己とから数学の世界に入 り,問題を次々と解きながら数学的な理解を深めていくという問題中心主義を取っており,それま での中学校数学教科書には見られない翠想と形式を持ったものであった。この教科書の名称が,

f数 学 第 一 類

J . r

数学第二割であった(以下,まとめて『数学第一類・第二類』と呼ぶこ とにする)0"本論においては,この教科書を中心に,昭和18年から昭和20年の終戦にかけての中学 校数学教育の主な変遷を明らかにする。

(3)

1I. 

r

数学第一類・第二類』の教室での使用 一昭和18年度一

新しい中学校数学科教科書『数学第一類・第二類

J

(1種検定教科書)が,昭和18年度から使 われることになった。戦局は徐々に日本にとって不利になりつつあり,戦場に赴く教師もすでに出 てはいたが, しかし,まだ日本の圏内においては中学校の授業を行う己とができた1年であった。

そこで, との新じい教科書が,教師や生徒からどのように迎えられ,評価されたかを見ることにす る。

1. 

r

数学第一類・第二類』に対する教師の評価

昭和18年4月から,この教科書を使い始めて半年たった段階で,ある東京高等師範学校附属中学 校教諭は,

r

自分ノ頭ハ自分ガ中学校,高等学校/時学yダ体系ユヨッテ数学ガ排卵jサレテヰル。

従ツテ新教科書ヲソノ頭デミテ変ツテヰルナ7ト恩7。ダカラ扱ヒニクイ,ソノ故ニ自分ハ先ヅ白 紙ニ立帰ツテ教科書ヲミタイト恩7。……兎ニ角教科書ニハ実ニ豊カナ材料ニ満チテキルカラ,生 徒ト一緒ニ充分考へテユツクリ扱ツテユキタイト恩7jと述べている08また, 8月6・7臼に東京 女子高等師範学校で開催された日本中等教育数学会第25回総会の中学校部会は約300名が参加して 行われたが,叫そこでは「新教科書使用上ノ困難」が議題となり,主として,①公式の作り方(1 年一類), @:図形の書き方,③論証の扱い方 (2年二類),④指数法則と対数性質 (3年一類),⑤ 軌跡の扱い方 (3年二類),⑥計算力不足の補充の6項目に焦点が当てられた。

数学教育再構成運動から続いた改革に期待を抱いた教師逮であったが,O実際に教科書を手にし た指導においては,改革精神に共鳴しつつも,新教科書が主張していた問題中心主義や幾何の直観 的な扱いなど,戸惑いや困難を感じた教師が多かったようである。

このような批判は教科書の編纂にかかわった文部省にも届いていた。この年の7月,文部省教学 官の内藤卯三郎がラジオ放送で行った「新宿

l

中等学校理数科の教育」の説明の中に窺うことができ る♂内藤は,その「質疑」のなかで次のような,

r

数学第一類・第二類』の教授要目及び教科書 に対する教師の批判的な評価があることを紹介している。例えば,

p

新しい要目で見ると論理の厳 正さといふものが薄らぎはしないであらうか。例へば,点とか線とか半直線とかいふ定義が新しい 教科書では除かれてゐるので,その用語を用ひればはっきりと言ひ表し得ることも,廻りくどく且 つあいまいな表現でしかできないやうな気がする j,

r

新教科書によると自習が全然不可能だと思は れる。病気その他で欠席したやうな生徒は自学自習によって追ひっくことが出来ないと恩ふj,

r

新 要自によると生徒の学力が低下しはせぬかと患はれる節があるが,この点についてはどう考へるか」

など。このような批判が,後の固定教科書の編纂方針に反映していくことになる。

2. 

r

数学第一類・第二類』に対する生徒の評価

この教科書を使った生徒の声は当時の文献には見当たらないが"戦後に著された彼らの回想に よって,この教科書に対する評価とともに,この時期の数学教育を見ることにする。

1年生の入学時にこの教科書に出会った生徒は,次のように回想している。「このころから中学 の数学の教科書がかなり変わったとかいう話で,われわれの聞いたところでは,因数分解よりもグ

‑54

(4)

ラフを重んずるのだというようなことであった。グラフの導入, したがって関数紙念の新しい解説 が要請されているので若い先生がやるのだというのが,近所にいた先登の解説であった。…・・昭和 20年には,中学3年のわれわれも土方仕事ばかり

J

(矢島敬二.計算幾科学戸となった。また. 3  年生からこの教科書で学んだ生徒は,次のように回想している。 f3年生になって,解析・三角法・

軌跡・対数などの授業内容に,かなり新要目の指導方針が活かされるようになったらしい。しかし.

こちらは,受け身で授業についてゆくばかりで,それが新しい数学教育だという実感はなかった。・

4年生になってからの新要巨先生ときたら,二言自には新要目なのに,新要目ではどうなのかさっ ぱり要領を得なかった

J

(村上光彦:仏文学)♂なお,学年ははっきりしないが.次のような回想 も当時の特徴をよく表している。「中学に入って幾何の最初の時間に出された宿題をおぼえている。

「細長い帯状の紙で結び目をつくると正五角形ができる。これを証明せよ

J J

(江沢洋:物理学).叫 f1年を終わったと己ろで授業は不可能になり,我々は勤労動員を兼ねて集団疎開L.半年ばかり はほとんど勉強しないまま,気象図を写したり,肥えお伐をかついだりして過ごした。……多分そ のころは実用的なことが重視されていて,後半になると計算尺のことを習った

J

(斉藤正彦・数 学)01Q)これらの回想からは,何か漠然としてはいるが新しい数学教育が始まったのだということや 教師の戸惑いを生徒が意識していたことが読み取れるが,それとともに,戦争が散化していくにつ れて勤労動員によって学校教育が十分に行われなくなっていったことが分かる。

当時の生徒だった人々の中には,この教科書の印象をその後も強く持ち続けた人もいる。この教 科書の特徴を学習者の立場から浮き上がらせるために,評価が否定,肯定と明確になっている回想 をあげることにする。否定論としては,公田蔵(現在立教大学教授:数学:1928‑)によるものが ある♂公団は,昭和18年に,東京の中学校で第3学年からこの教科書で学び始めた。「教科書のス タイルはどちらかといえば.中学校の教科書より,小学校の教科書の感じがした。内容は,それま での中学校で教わってきた数学とは全然迷う感じがして(特に. 3年第二類の軌跡の,その中でも 最初の部分).とにかく勝手が違うという印象を受けた。教科書では説明が不十分(というよりも 説明していない〕な上に,適当な参考書もなく,勉強するのに大変苦労した」。ここでは,学校段 階の途中で学習スタイルが異なる掛糟へ移行することの難しさ,つまり,説明中心主義の教科書 から問題中心主義の教科書へと急激に変わった難しさが指摘されている。肯定論としては,板倉聖 宣(現在国立教育研究所室長:物淫学史・科学教育:1930‑)によるものがある。m板倉は,昭和 18年に東京の中学校の第1学年でこの教科書に出会った。「中学校の数学の教科書は私の学年から,

文部省が新しく作った教科書を用いることになっていたe……粕谷先生は,その教科書に適合した 数学の参考書を書くつもりで毎回プリントを作ってきたようであった。その内容は,私にはとても よくわかった。

J .

f私は, 4... 5年生が私たちの数学の教科書を見て「俺たちにはわからない」と 言い. r:君たちはこんなむずかしいことを教わっているのか」と感心するのを何度か見た。それで 私は,何となく誇らしかった。そして教育にとって,いい教科書がどんなに大切なものかを再び感 じ入ったりした」。ここには,教科書は,教師の情熱ある指導と一体となって,初めてその真価を 発揮することがよく窺える。

「勝手が違う」とする生徒がいる一方で.fよく分かつた

J

とする生徒がいたのである。生徒の

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段階でも.

r

数学第一・第二関に関する数学者や数学教育者の聞の評価の食い違いと同様な食 い違いが現れているのである。教科書や教師という鏡点に加え.i出来上がったよい数学を習得し ていく」数学教育と「生徒自らが数学をつくり出していく」数学教育との対立である。

llL中学校数学科で初めての国定教科書一中等数学一

戦争の影響は中等学校制度にも及び,新しい教科書が発行され始めた昭和18年1月には.i中等 学校令」が公布され,中等学校制度が変わることになった。

中等学校令と教授要自の改定一理数科数学一

昭和18年1月20日に文部省は.i中等学校令」を公布した

J 3

そこでは,昭和18年4月1日からは,

「中等学校ハ皇国ノ道ニ刻リテ高等普通教育又ハ笑業教育ヲ施シ国民ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」

とし,中学校・高等女学校・実業学校の修業年限を5年から4年へと短縮させ(ただし,昭和17年 までに入学した生徒は5年制).数学は噂数科数学」とし,教科容は検定から国定へと変えると した。そして,中学校の理数科数学の授業時間は. 1年から3年までが4時限. 4年が5時限とし

Z

'a uz t

た 。 " ,

そして,新しく制定された「中学校教科教授及修練指導要因

J ' .

によって,理数科数学の教授妥 旨は.i理数科ハ事物現象ヲ正確ニ考察処理スルノ能力ヲ錬磨シ事物現象ヲ貫ク理法ト其/応用ト ノ一般ヲ会得セシメ之ヲ国民生活ニ活用スJレノ修練ヲ為サVメ合理創造ノ精神ヲ長養シ国連発展ノ 実ヲ挙グルノ資質ヲ啓培スルコトヲ要旨トス。理数科数学ハ数・量・空間ヲ中心トシテ事物現象ヲ 考察処理スルノ能力ヲ錬磨シ数理ト其/応用トノ一般ヲ会得セシメ之ヲ国民生活ニ活用スルノ修練

ヲ為サシメ数理恩想ヲ酒養スルモノトス。理数科数学ハ数・量・空間ノ基本的性質ト其ノ重要ナル 理法並ニ国防・産業及国民生活へノ応用ユ付テ授クベシ」となった。これを,前年昭和17年に制定 された教授要目と比べると,趣旨は同じであり,以下.i教授方針」も同じ趣旨であり,内容にも 新しく付け加えられたものはなく,内容をあげる形式も同じである。ただし. 5年制が4年制に短 縮させられたために,内容が次のように再編成されている。週当たりの授業時間数は,第一類・第 二類とも 2時間である杭第一類の 4年だけは 3時間である。

【第一類】:(1年〕図表ト式,正/数ト負ノ数,一次函数(其ノー).(2年)一次函数僕ノコ,

二次函数,式ノ計算.(3年)筒数/処理,系列ノ考察処理,近似値ト誤差,何年)

逮続的変化,統計。

R E

‑ ‑ 3 J : :

 

【第二類】:(1年)測量,図形ノ書キ方,対称・回転・合同.(2年)平行ト相似,直角三角形,

円ト球.(3年)対数,三角函数,軌跡.(4年〕立体図形ノ表現。

内容の編成を,昭和17年の教授要固と比べると,第二類の「球面上ノ図形

J

(4年).i円錐曲線

J .

「カト運動ノ考察

J

(5年)が削除されている。その他の特徴は次の遜りである。第lに,式指導が 再編され,方程式・不等式を「一次函数・二次函数Jの中で扱い,平方根を「図表ト式」で扱うこ ととした。第 2に,徴積分と確率・統計を残すために 4・5年から 3・4年へと学年を下げた。また,

昭和18年のl種検定教科書と比べると.i比例

J

が表面上なくなっていることが目立つ。

56

(6)

その後, 7月21日になって,日本放送協会のラジオ放送「教師の時間」において,文部省教学官 の内藤卯三郎が「新制中等学校理数科の教育

J

と題してこの教授要目の解説を行った。凶ただし,

その記録が日本放送協冶から『文部省新宿j中等学校教授要目取扱解説』として発行されたのは,翌 年昭和19年3月初日になってからであった。同

2 固定教科書の編纂

昭和17年3月に教授要目が改定され,昭和18年1月に新しい教科書が刊行され始めたが,この 1 月にときを同じくして教授要目は変わり,教科書は国定教科書になることになった。先に見たよう に,昭和17年教授要目と昭和18年教授婆自は本質的に変わらなかったが,

r

中等学校令」によって,

新たに固定教科書を編纂しなければならなくなった。

教科書については,m小学校の国定教科書は大正9年以降は「教科書調査会」で,中学校の検定 教科書は昭和12年以降は「中等学校教科書調査委員会」で扱われていたが,国定教科書の発行を目 指して,昭和16年5月に青年学校等も含めてすべての教科書調査会は,整理i統合される形で「教科 用図書調査会」となった。これは,会長を文部大臣として,総勢60名からなる委員会で, 3部構成 となっており,中学校の国定教科書は第2部で審議されることになった。なお,数学関係者として は,

r

カズノホン・初等科算数』を審議した第一部会に渡辺孫一郎(東京工業大学教授)が含まれ ていた。

文部省でほ,m昭和18年5月頃に国定数学教科書編纂委員を委託し,委員と監修宮とで,今まで あげられてきた検定教科書への意見や批判(例え氏前章の教師の評価における文部省教学宮内藤 の説明)を検討し,それらをもとに8月下旬には原案を作成していたと思われる。この当時の文部 省の算数・数学の図書監修官は,丸山俊朗,和田義信の2名であり,森規矩男が図書監修宮補を務 めていた。

8月下旬には国定教科書の原案ができ,国10月21日の教科用図書調査会総会にかけられることに なった。この会で,固定教科書『中等数学第一類・第二類』の1・2年用合計4冊が審議・決定 された。その後の新聞には,叩これらの教科書について,次のように報道された。「数学も物象も国 民学校時代からの精神を受けついで,常に実生活と交流する活きた教育となって躍動しており,ー その学び方も今までのやうに紙と鉛筆だけの数学ではなく実測,作業をふんだんにとり入れた,目 や耳や手足の数学として進み直観L推理がいつも一つのものとして働き,一方工夫創造の面を磨き,

数理と応用との一般を会得せしめるよう工夫された。この意味で,食糧問題や厚生問題に関する教 材や,機械器具に関する教材が非常に多く,計算尺や計算図表などを使って,……教室外での動き が豊富に取り入れられてゐる。

J

(朝日新開),

r

食糧問題や体力に関する事柄を統計約処理の対象と して採りあげ,国民としての自覚を促し文科学技術の向上を図るものとして,機械器具の理解を深 める教材及計算尺,計算図表等を採りあげ生産増強に資する。尚測量等を課して軍事教育の基礎た らしめる

J

(教育週報〕。前者によると,生活と数学の融合が強調され,後者によると軍事教育が強 調されている。

(7)

3.初めての国定教科書『中等数学第一類・第二類』

昭和19年1月25日から4月1日にかけて,文部省著作の

r

中等数学第一類・第二類

J

,第1学 年・第2学年用,合計4冊が発行された。これは,明治時代からの日本の中学校数学教育で初めて

の国定教科書である。 4冊の各章,発行月日,総頁数は,次の適りである。

【第一類】 (1年)図表ト式,比例,一正/数負1数 日 月25日, 88頁

J

,(2年)一次函数,式ノ計 気二次函数(1月25日, 88頁〕

【第二類】 (1年)測量,図形ノ書キ方,図形ノ観察 (2月10日, 88頁

J

,(2年)図形ノ移動,相 似形,三角函数,円ト球 (4月1日, 88頁]

これら『中等数学第ー類・第二類

J

(以下,国定教科書と略す)の各章の内容は,昭和18年発 行の『数学第一類・第二割(以下,検定教科書と略す)と『理数科数学教授要目』の折衷案の ようになっているが,検定教科書の1年の第1章「図表ト式

J

にあった計算尺, 2年の「比例」が なくなった。

この教科書の内容構成の仕方は,基本的には,検定教科書の問題中心主義に則った形式が継承さ れている。つまり,一つの節が,導入の「場面」から入り,それに関連した「問」を出題し,その 後,

r

練習問題」が数題あって,その節は完結L,各章の最終節は「種々ノ問題

J

になっている。

また,第二類に「作業」があるのも検定教科書と同様である。さらに,間,練習問題には,検定教 科書と同じ内容のものが多い。頁数は, 4冊すべて88頁であり,検定教科書よりも多い(1年第一 類だけ少ない)が, 1頁当たりの問題数(間の個数と練習問題の個数の和)は,約3題で,両者で

ほとんど同じである。

各節の導入の場面・問題は,検定教科書と同様に工夫されており, 1年第一類の場合の導入場面・

問題とその節の標題は,次の通りである。世界主要国の人口(統計図表),中学生の身長・体重・

胸囲(統計図表),正方形・平行四辺形の面積(文字ノ使用),梯形の土地(方程式),電燈の影 (比例),つる巻パネと鐙(実験ニヨッテ関係ヲ知Jレコト),てんびん(反比例),島の面積(平方粉,

温度の計算(正/数負ノ数)などである。つる巻パネは,検定教科書と同じであるが,その他は新 しい場面を工夫している。また,幾何の扱いも,直観的・実験的に導入し,動的扱いに主眼を霞く など,検定教科書の精神は変わっていない。

しかし,先に述べた現場教師の批判や時代の制約ゆえに,次の点で検定教科書と異なっている。

第1に,数学の系統性をより明確にした。例えば,文字式の計算の規約を明示するようになったり,

生徒に公式や定理を記入さす余白をなくした(検定教科書では,根ノ公式,三角形ノ合同定理・相 似定理は,余白に生徒が記入するようになっていた)。第2に,漢数字を多用するようになった。

間や問題番号がアラビ7数字から漢数字に変わり,問題文でも漠数字が多用されるようになった。

第3に,度量衡の単位が漢字系に変わった。メートル法の単位は英字から漢字へと変わり(例えは 佃→糧, g→瓦,f!→立など),尺貫法の単位が多用されるようになり,剖平方寸,立法寸なども使 われるようになった。 4冊の教科書で,回,四などは,グラフや図に2か所残っただげである。多 分,これは見落としであろう。第4に,軍事関係の内容を含む問題が, 4冊で1冊平均4.5題とや や増えた。例え成以下の通りである。軍鑑,主砲,弾着,長距離砲(平方根:1年一類P.42), 

‑58

(8)

徒歩兵,乗馬兵(等速運動 1年一類P.81)空砲(一次方程式:2年一類P.21)爆撃機,戦闘総 基地(聯立方程式:2年一類P.28)敵陣,攻撃,観測班(高サヲ測ルコト:1年二類P.17)敵味 方,両軍,斥候(正弦ト余弦:2年二類P.59)。

4 その後の算数・数学科の教科書の発行

昭和19年から終戦時にかけては,戦争が激化しても,さらに国民学校・中学校などの算数・数学 科の教科書が発行されていた。昭和19年の6月から7にかけて, 1種検定教科書『数学』の4・5 年用が発行された。この教科書の1年用から3年用までは,杉村欣次郎(東京文理科大学教授),

田中良運(東京高師附中教諭),和田義信(東京高師教授),島田茂(東京高節附中教諭),黒田孝 郎(東京物理学校教授)が編纂に参加して昭和18年3月から4月にかけて発行された。しかし,編 纂途中で,黒田は編纂方針の食い違いにより編纂から去り,その後,和国は文部省図書監修官にな るために昭和18年7月に,島田は陸軍応召のために昭和18年9月に,それぞれ編纂から去っていっ た。結局,杉村,田中の2名が引き続いて,編纂を続けたようであるが.杉村が主たる任に当たっ ていたようである。曲4・5年用4冊の各章,発行月日,総頁数は,次の通りである。

【第一類】 (4年〕系列ノ考察,連続的変化h統計ト確率 (7月17日, 95頁

J

,(5年)系列ノ考察,

連続的変化,統計ト確率 (7月17臼, 95頁

J

(4年用と5年用は全く同じ)

【第二類】 (4年)立体図形ノ表現,球面上ノ図形,円錐曲線 (6月12日, 74頁

J

,(5年)円錐曲 線,カト運動 (7月17日, 49頁〕

この教科書は,度量衡は依然としてメートル法でしかも,単位の多くは英字で表されており,先 に発行された国定翻糟とは,異なる方針で編纂されていたことが窺われる。つまり,教科書の国 定化の中で,これは1種検定教科書の発想で編纂されていたことになる。ただし5年二類の「カト 運動

J

においては,雷撃機からの魚雷,手摺弾,弾丸,落下傘,軽機関銃,戦闘機の機関銃 (39‑

47頁)などの軍事的な内容を含む問題が, 13題も挙げられているのが自につく。なお,これらの編 纂趣意書は,第一類の4・5年用 (29頁)と第二類の4年用 (31頁)が11月20日に発行された。そ れらは, 3年用までの趣意書を簡略化し,1.各章要旨, 1I.各節注意事項の2章だけからなって いる。しかしながら,いずれも非売品であった。なお, 5年二類の編纂趣意書は見いだされていな L

。 、

その後,国定教科書

F

中等数学』第二類の1・2年用の修正版が,昭和19年12月20日に発行され ている。これの内容や頁数などは,その前のものと全く同じである均え表紙の「中等数学」などの 文字が横書きから縦書きに変わった。叫そして,国定教科書3年用第一類も昭和20年4月に発行さ れた。この教科書の各章,発行月日,総頁数は,次の通りである。

【第一類】 (3年)箇数ノ処理,系列ノ考察,誤差ト近似値 (4月27日, 57頁〕

己の教科書は, i中等数学」という表紙の文字が縦書きになってはいるが,尺貫法は使われてい ない。ただし,昭和20年4月からは授業は行われなかったので,実際には,この教科書は生徒の手 には渡っていない。

なお,これらに加えて,昭和19年には,和田義信が編纂したm国民学校高等科教科書の

r

高等科

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算数 一』が7月に発行され,戸田清が編纂した師範学校用教科書の『師範数学本科用二』が11 月に発行されたが, しかしながら,この2つの教科書はいずれも全く使われずに終わってしまった。

このようにして,昭和16年に始まった中等数学教育の改革は,昭和19年までの高等科算数・中学 校(中等)数学・師範数学の教科書の発行によって,一応の結実を見た。しかし,それらの教科書 は戦時下主いラ極限的なもとで

ι

か使用されずに終わってしまい,改革の理念を検証することはで きなかった。しかし,この改革期の努力があったからこそ,戦後の混乱期を乗り越えて,それらの 思想を後の世に生かしていくことができたともいえよう。羽

N.戦時下での数学教育の営み 一昭和19年‑20年一

新しい教科書は揃いつつあったが,しかし,昭和19年に入ってからは,戦局の悪化とともに,学 徒勤労動員が強化され,そのために数学の授業は行われなくなっていった。回しかし,昭和19年か ら昭和20年の終戦にかけての戦時下においても,数学教育にかかわるこの時代特有の営みがいくつ かなされていた。

1.  謄写版刷りの教科書と受験雑誌

昭和19年度の新学期は,第1・2学年は国定教科書『中等数学:J.第3学年はl種検定教科書『数 学』で授業が始められることになっていた。そして,第4・5年用のl種検定教科告は1学期の終 わり頃になってやっとできあ泊まってきた。しかし,教科書がたとえ発行されていても,戦争の激化 とともに,資源の不足や交通の悪化によって,教科書が行き渡らない地域も出てきた。鉛

教科替が行き渡らない所では,教科書に変わる教材を用意するための努力が行われていた。前年 度配付された1種検定教科書を原本として,謄写版刷りの「教科書」を作成したのである。この例 としては,昭和19年中頃に京都で印刷したと思われる『数学1 第一類

J . r

数学1 第二類

J . r

数 学2 第二類

J . r

数学3 第二類』の4冊の勝写版刷りの「教科書」を現在のところ自にすること ができる。幼いずれも原本と内容も頁数も全く伺じで,揮絵なども同じように入っている。これら が学校教育を目的としたのか受験勉強を目的としたのかは定かではないが,戦時下での学習への意 欲を感じざるを得ない。

また,この時期には,高等学校入学試験のための受験雑誌もまだ発行されており,旺文社の『蛍 雪時代』では,戸田清(瞭島高師教授).大原完,山本博之,倉信敏(以上,民島高節鮒中教諭〕

が,昭和18年4月号から,昭和19年12月号にわたり「新数学の学習態度

J

などと題して『数学第 一・第二類』の解説を続けた叫(なお,これと同様の内容のものが,戸田清著の単行本目として発 行されている)。また,井上義夫(都立三中教諭,その他,東京高師附中教諭)は,昭和19年4月 号から数度にわたり上級学校の入学試験問題を紹介しながら新数学の考え方を伝えていた。却しか

しながら.

r

蛍雪時代』も,昭和20年4月号を最後として,発刊中止に追い込まれてしまった。

2 藤森良蔵の活躍

学校教育や社会が戦争によって圧迫されだしたのに対して,学校外の教育によってそれを補充し

‑60

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ょうとする人が現れた。藤森良蔵剖(1882‑194のは,すでに「考へ方研究社」の活動で受験界で 名が知られており,雑誌『数学園渓考へ方』舗や『高数研究』などの受験雑誌を発行しており,

数学の「考え方」を重視した学習法でつとに有名であった。藤森は,昭和19年4月15日,多くの数 学者の協力を得て,

r

日本数学錬成所」を開講した。田当時,高等教育における理数重視による数学 教員不足ということに対して,文部省は高等師範学校の数学教員養成課程の拡大によって対処しよ うとしていたが,藤森は民間の立場から「臼本数学錬成所」を開講して対処しようとしたものであっ た。当時,藤森は,数学大衆化運動を行っていたが,それは民間の数学教育運動であり, しかも,

学校教育の及iまない,家庭の母親や,正規の高等教育外にいる青年を対象としていた。前者を対象 にしては,

r

母の算数講演会」を100回以上も開き,

r

精神力と協力の数学」ということから家庭教 育の重要性を強調し,羽後者を対象としたものが「日本数学錬成所

J

であった。藤森の理想は,現 代流に言えば数学教育を学校教育の枠だけに押し込めずに,より大きな生涯教育の枠の中でとらえ ようとしたものであり,時代に先駆けた試みであったと言えよう。

3.  特別科学教育の実施

昭和19年が終わろうとしていた12月268,文部省は「特別科学教育研究実施要綱」を発表した。

これは,科学教育に関する英才教育であり,中学校の数学教育史における唯一の英才教育の実験と 言えるものである。これには,東京高等師範学校附属国民学校・中学校のほか,広島高等師範学校,

金沢高等師範学校,東京女子高等師範学校,京都帝国大学(京都府立第一中学校)が参加して いた。聞東京高師附属中学校の場合,胡勤労動員に参加していない第1学年,第2学年で各学年1学 級 (15名〕で編成して開始した。この学級では科学が重視さ札数学は衛星8‑9時閣の授業があっ た。この学級は,昭和21年まで続けられたが,上級学校への進学準備・新制中学校の発足などによっ て,昭和22年4月に消滅した。

4.  自然科学や数学の重視

昭和19・20年代比戦時下でも一番状況の悪い時期であったろう。しかし,自然桝学や数学にとっ てはかならずしもそうではなかった。戦争の激化とともにすべての産業状況が悪化したが,このこ とは出版状況についても変わりがない。しかしながら,それでもなお多くの新刊舎が発行されてい た。それらを

r

出版年鑑』紛の分類に従い,新刊書の総数とそれらの中で自然科学や数学等の占め る割合を算出すると,昭和19年から昭和20年にかけて,全体の総数が減少しているにもかかわらず,

かえって自然科学関係の出版の割合は高くなっているのである。例えば,昭和19年には,自然科学 一般1.2%,数学0.9%,理学6.0%となっており,昭和15‑17年と比べると, 3‑4倍になっている。

これらの中で,昭和19年から20年終戦時にかけて,発行された数学思想書・数学教育関係の単行 本を内容的に大きく分けると,第11こ数学の普遍的な哲学や歴史に関する本,第2に和算に関する 本,第3に日本的数学に関する本の3種類に分かれる。第1に属するものとしては『数学の本質一 講演集ー

J

(大塚数学会),

r

数学と数学史J(末網如‑),

r

無限論の形成と構造

J

(下村寅太郎),

『数学発展の跡をたづねて

J

(清野耕千台),

r

数学史J(今野武雄訳(スミス)),

r

現代数学の基礎概念

(11)

上.1(粥永昌吉〉などがあり,第2に属するものとしては,

r

算法章子問

J

(大矢真一校注(村井 中漸)),

r

和算の話

J

(細井主主)などがあった。これらの多くは数学の普遍性を根拠にしており,中 には『数学と数学史』のように現在でも発行されているものもある。第3に属するものとしては,

『日本科学論序説J(前田隆‑),

r

戦時下の数学.1(小倉金之助),

r

日本科学道j(岩付寅之助・渡辺

市郎)があづた。己れらはドずれもi戦時下め閉塞された状況に£って日本独自の科学・数学の 優越性・建設を呼び掛けたものである。なお,岩付は,数年前から日本的数学の主張を唱えはじめ,

前年には『我が国数学教育への道

J

を著l,それを古らに極限的に進める形で『日:本科学道』を著 した。

数学・数学教育関係の本は,数学の哲学や歴史であろうと,いずれの性質を持っていても,

r

科 学戦

J

としての戦争を有利に進めるための背景として重視され,それによって用紙が制限されてい る中でも種々の本の出版が認められたのであろう。後者の国本的数学はこの時代特有のものである が,前者の数学の哲学や歴史は現在でも通ずるものが多く,数学・数学教育の進歩にとって貴重な 一時代を画していたといえよう。

V おわりに

本論においては,昭和18年から昭和20年終戦までの中学校数学教育の変遷について,

r

数学 第

一・二類』の1種検定教科書,及び国定教科書を中心に述べてきた。この間の出来事をまとめたの が「数学第一類・第二類関係年表(昭和18年 昭和20年)Jである。

1種検定教科書は,昭和15年に始まった数学教育再構成運動からの中学校数学教育改革の理想を 担って昭和18年に使用されはじめたが,戦時下という限られた状況の中で教師がこの教科書を使い こなすには大変だったようである。この教科書で学習した生徒は,状況によって,この教科書を肯 定的または否定的に受け取っている。それを左右する大きな要因は教師の数学教育に対する姿勢で あったと思われる。昭和19年には国定教科書が登場した。この教科書は,検定教科書に対する数学 者・教師の批判や軍国的な社会的状況によって,検定教科書を修正したものであったが,

r

生徒が 自ら数理を作り出す」という検定教科書の理想はきちっと受け継いだものであった。しかしながら,

戦局は悪化の一途をたどり,学校教育そのものが崩壊していった。

本論においては,昭和20年の終戦までを一つの区切りとした。しかし,

r

数 学 第 一 類 ・ 第 二 閣 の思想は,終戦によって途絶えることなし戦後へと受け継がれていく。わが国の歴史の記述にお いては,戦前・戦後を全く異なる時代かのように分けることもあるが,少なくとも数学教育におい てはそうではない。このことを明らかにするのが,今後の課題である。

引用文献

1)長崎栄三「数学教育再構成運動と数学第一類・第二類の誕生一戦時下の中学校数学教育ー

J

『国立教育研究所研究集録』第20号.1990.pp.85 ‑102. 

r

数学第一類・第二類の検定教科書の編 纂とその思想一戦時下の中学校数学教育ー

H

国立教育研究所研究集録』第21号.1990.pp.43‑

56. 

r

戦時下の中学校教科書『数学第一・二類』の分析ー題材と生徒の活動ー

H

数学教育論文

‑62‑

(12)

発表会論文集』第24号.日本数学教育学会.1991.pp.305‑310.

2)宮崎勝弐「中学校新要目第一年ノ一年生数学ヲ取扱ツテ

H

白本数学教育会雑誌』目本数学教 育会.第26巻第1・2号 1944.p.20. 

3) 

r

第二十五回総会記事J

r

日本中等教育数学会雑誌』日本中等数学教育会.第25巻第6号.1943.  pp.182 ‑183. 

なお,この大会で本会の名称が,

r

日本数学教育会」と変わった。

4)例えば,早川学而「苦難・困難激動期の数学教育

H

日数教 NewsLetter J日本数学教育 学会ーNo.10.1989.p. 4. 

5)日本放送協会編『文部省新制中等学校教授要目取扱解説』日本放送出版協会.1944.pp.29 ‑48.  6)教授要目だけの昭和17年度については,当時の生徒による記録がある。江上水男「新制数学に

徹するの道

H

蛍雪時代』昭和18年7月号.pp.88‑91. 

7)矢島敬二「なまじっかな数学観は不必要か

H

数学セミナー・リーディングス「数学との出会 い』日本評論社, 1988. p.166. 

8)村上光彦「新要目世代

H

数学セミナー』日本評論社.Vol.  28. No. 4.  1989. p.33. 

9)江沢洋「先生・時間・階梯

H

数学セミナー・リーデイングス「数学との出会いJJ日本評論社 1988. p.19 

10)斉藤正彦「西暦1944年の中学一年生

H

数学セミナー・リーデイングス「数学との出会い』日 本評論社 1988.p.54. 

11)公回蔵氏の日本数学教育学会数学教育論文発表会 (1991年11月21日)における発言及び氏の筆 者宛の手紙による.なお,否定論としては,次のものもある。前原昭二「物理と数学基礎論」

『数学セミナー・リーデイングス「数学との出会いJJ日本評論社.1988. p.162. 

12)板倉窒宣『私の生いたちと今の私ー幼年時代から旧制高等学校までー』キリン館.1990.  pp.  49‑50.板倉霊室編「私の受けた理科教育

H

理科教育史資料第3巻理科教授法・笑践史』

東京法令出版.1986. pp.638‑639 

13) 

r

中等学校令J劾令第36号(昭和18年1月20日〕近代日本教育制度史料編纂会編『近代日本教 育制度史料』講談社.1956.第二巻.pp. 490‑493 

1

「中学校規濯」文部省令第2号(昭和18年3月2日)r:近代日本教育市民史料』第二巻.pp.493‑

504. 

15) 

r

中学校教科教授及修練指導要目」文部省訓令第2号(昭和18年3月25日)

r

近代日本教育制

度史料』第二巻.pp.508‑577. 

16) 

r

朝日新聞』昭和18721日朝刊ラジオ欄。このラジオ欄によると,教授要自の解説は, 7  月19日から30日にかけて行われた。

17)日本放送協会編

r

文部省新制中等学校教授要目取扱解説』日本放送出版協会.1944.154p.  18) 

r

教科用図書調査会書類綴 自昭16年5月 至昭18年5月』国立公文書館所蔵文書。なお,こ

の中には,中学校数学教科書に関する記述はない。

19)大島文義『踏穫録

J

(大島文義年譜 5 ~11)J (国立教育研究所所蔵文書).5・25‑5・29.

(13)

れは,理科に関する記録であるが,それから,数学の場合を推測したものである。

2

『教育週報』昭和18年9月4日付「中等国定教科書/四十冊原案成る」

21) 

r

朝日新聞』昭和18年10月23日朝刊「生活と科学の交流

J . r

教育週報』昭和18年10月初日付

「決戦に臨む教科書」。なお,調査会の期日を,朝日は22日,週報は21日としている。

22)良質法につい

τ

は,時の文部大臣・一岡部長景が主張したという(井上越『国定教科書編集二十 五年』武蔵野書院.1984. p.78.)。

23)当時. 1種検定教科書の編纂に加わっていた,和田義信氏,島田茂氏の両氏からの聞き取りに よる。

24)縦書きの主張は,文部大臣・岡部長景と言われている(井上越『国定教科書編集二十五年』武 蔵野容院 1984.p. 78.)。

25)和田義信氏からの聞き取りによる。

26)例えば,長崎栄三「わが国の中等数学教育における平面図形の指導の変遷

J r

学芸大数学教育

研究』東京学芸大学数学教育研究会.1992. pp.133‑141.に,この時期の図形教育の発想が現代 に伝えられていることが明らかにされている。

2

り蔵原清人「戦後教育改革期の学力問題一数学教育の場合

H

東京大学教育学部紀要』東京大 学.第16巻.1976. pp.213‑222.に戦前から戦後にかげでの法規を中心に数学教育がまとめられ ている。

28)文部省『文部時報』第810号.1944. 

r

内政部長事務打合会ニ於ケル注意事項(二月二十八日)J (pp.  79‑80)に.

r

新編纂図書種目ノ増加並ニ時局ノ影響ニ依リ諸資材,篭力,労務関係」によっ て遅れていることが記されている。また.

r

朝日新開』昭和19年5月5日朝刊「教科書 初等科 は今月中に,新編纂で遅れる高等科,中等学校jとある。

29)謄写版刷り教科書は,板倉聖宣氏所蔵。印刷所は.

r

京都市上京区河原町丸太町下ル」の「吉 井昭文堂」とあり,持ち主は,大阪府

00

中学校の「吉田宏

J

氏とある。氏が表紙の裏に残した メモによると.

r

数学 1 第二類』は.19年8月27日に読み始めたこと.

r

数学 2 第二類』

は.20年12月に読み始めたことが分かる。

30) 

r

蛍雪時代』昭和184月号では.

r

改正要目学習指導講座(第一回〕 新数学の学習態度

J

で始まり,その後,標題を変えつつ連載している。なお,最終号の昭和19年12月号は,戸田,倉 の2名が著者となっている。

31)戸田清『新制数学の研究〔第一駒.1.

r

新制数学の研究〔第二類).1いずれも,庇文社によって 昭和19年に発行されている。

32)井上義夫「陸軍入試ニ現レタ 正三ノイ理数科学習ノ道

H

蛍雪時代』昭和18年11月号,その後,

官立高校,官立専門学校,陸軍予科士官学校,海軍兵機関経理学校の入試問題について書いてい る。

33)板倉聖宣「藤森良蔵と考え方研究社

H

かわりだねの科学者たち』仮説社.1987. pp.185‑240.  34) 

r

数学・国漢考へ方』は,昭和18年6月号から『考へ方』に変わり,さらに,昭和18年10月 号からは『数学錬成』となった。なお.

r

考へ方』には因島一郎,渡辺彰,岩田至康による「新

64 

(14)

中等数学の研究

J

186月号から9月号にわたり連載された。

35) 

r

教育週報』昭和18410日付「数学者大量/養成講習会/いよいよ開講」

36) 

r

教育週報』昭和16719日付「権威を迎えて/母の算数講習会/主催母の新聞社日土講習 j.昭和17829日付「母に呼びかける/算数講演の奉仕/諜森氏大運動を展開j.昭和17

95日付「精神力と協力の数学/藤森良蔵

J

など。

37)鈴木一正「特別科学教育の実施から打ち切りまでj

r

福岡教育大学紀要』福岡教育大学.第40 号・第4分冊.1991. pp.377‑394. 

38)筑波大学問属中学校・高等学校百年史編集委員会『創立百年史 1888‑1988J筑波大学附属中 学校・高等学校.1988. pp.131‑134. 

39)東 京 堂 編 『 出 版 年 鑑 昭 和16年 版J.日 本 出 版 文 化 協 会 見 犠 年 鑑 昭 和17年 版J.日本出版会 監 修 ・ 協 同 出 版 社 編 纂 『 日 本 出 版 年 鑑 昭 和18年 版

J .

日本出版協同株式会社刊『日本出版年鑑 昭和192021年 版J.日本出版協同株式会社刊『日本出版年鐙昭和2223年版』いずれも 文泉堂による復刊。

昭和18

I

85 95 920 1943 

1012 1021 1025 1120 1130 121 1210 1220 1220 1225 昭和19 115 118 1944  125 126 211 212 215 216 220 220

「数学第一類・第二類」関係年表(昭和18 昭和20年)ー 数学教育及び教育一般

日本中等教育数学会第25会総会(東京女子高等師範学校‑6 今野武雄 r~白樽物館』新潮社刊

小野勝次『数学とは何か』弘文堂刊

岩村寅之助『我が国数学教育へ白道』育芳社刊

「教育ニ関スル戦時非常措置方策J閣議設定(動物動員をI年由3分自1)

『新輯教育数学講座 8J共立出版刊

長野師範学校男子部附属国民学校教科研究会『児童申数理生活と技縮訓練J信設毎 日新聞社出版部刊

中村茂汚『生活と数学』文進堂刊

文部省『高等学校高等科教授要綱及修線要綱の解説』文部時報第802号<D2 学徒出陣始まる

矢野健太郎・黒田孝郎『背年技術者のため白幾何学』大鉱倉院刊 三本霊長『世界数学史物語上巻』第一書房刊

文部省「教育ユ関スル戦時非常措置方策ニ基ク中等学校教育内容靖置要綱ニ関スル件」

鍋島信太郎訳(リーツマン

H

初等数学史減要』三省堂刊 大塚数学会編f数学白本質ー講演集ー』甲烏書林刊 閣議決定F緊急、学徒勤労動員方策要綱」

文部省著作『中等致事ー第一類中学校中撃校周』中等学校教科書株式会社事j (中学校1‑2年までの国定教科書刊行関始〉

疎開命令

官山勇『図表を主とせる数学』横山実刊

『教育週報』最終号

大矢真一校注(村井中斯Hr.r法章子間』大絃書院刊

日本放送協会ラジオ放送「中等学校の戦時非常措置J(18日.24日も) 末縞如‑r.数学と数学史』弘文堂刊

下村寅太郎『無限論由形成と構造』弘文堂刊

(15)

225政府「決戦非常措置要綱」発表

2・(?)文部省『師範学校理鮪ヰ教科曾編纂趣意書ー』文部省刊 320細井涼『和算白話』三省掌刊

320消野耕治

r

数学発展由跡をたっねて』三省堂明j

320 日本放送協会編『文部省新制中等学校教授要目取扱解説』日本放送出版協会事J 320 日本放送協会編『文部省国民学校五,六年教科書編纂趣旨と取扱q方i日本放送出版

協 師i

324文部省「決戦非常時措置要綱ニ基タ中等学校教育内容ニ関スル措置要綱ノ件J(適年勤 労動員)

51蕗森良蔵『母白算数』国民図書刊行会刊

53文部省「決戦非常時措置要綱ニ基ク中等学校教育内容ユ関スル措置要綱実施基準J 520 日本放送協会績『文部省中等学校教育 内容ニ関スル臨時措置要綱解説』日本放送出

版協会刊

525戸田清『新制数学由研究〔第一類日』旺文社刊 610今野武雄訳〈スミス)

r

数学史』紀元社刊

612中等学校教科書株式会社編『敏感第 二 類 中 事 校 用J中等学校教科書株式会社 Ij(中学校4‑5年白l積設定教科書刊行開始〕

6・19マリアナ沖海戦

630

r

学童疎開促進要綱J閣議決定 71前田隆一『日本科学論序説』育英出版刊 7・7 サイパン島玉砕

710清水辰次郎『新中等数学下巻』修学館刊 718文部省『高等科算数ー』大阪書籍刊

719文部省「学徒勤労動員ノ徹底強化ニ関スル件J

8

23

' l

宇佐勤労令J公布

930 日本数学教育会『日本数学教育会雑誌』第26巻第12号(最終号) 1020戸田清『新制数学の研究〔第二類)J 旺文社刊

10

24 レイテ沖海戦 II・1東京空襲

II10小倉金之助『戦時下の数学』創元社刊

II10松浪信三郎他訳『パスカル』餐徳社事Ij(粛永昌吉解説〕

II10文部省『師範数学本科用二J(非売品〉

II20蒲永昌吉f現代数学の基礎概念上』弘文堂刊

II20中等学校教科替株式会社編『蚊翠編纂趣意書第 二 類 中 翠 校 用j中等学校教科 書株式会社刊(中学校45年也刊行開始〕

1226文部省「特別科学教育研究実施要綱j発表 昭和初年

I

125高木友加技『少国民自測量j邦進社'fIJ

220 318 1945 

522 726 86 88 89 815

岩付寅之助・渡辺市郎『日本科学選』目黒容庖刊

閣議決定「決戦教育措置要綱J(4月18より国民学校初等科を除き授業停止) 東京大空襲

「戦時教育令j公布 対日ポツダム宣言 広島へ由原爆投下

ソ巡対日参戦 長崎へ申原爆投下 終戦白詔勅放送

‑66 

参照

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