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社会体育国際シンポジウム

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Academic year: 2022

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社会体育国際シンポジウム 華南師範大学

社会体育におけるアート教育の役割

広島大学大学院教育学研究科教授 樋口聡

はじめに

社会体育国際シンポジウムにお招きいただき、皆様の前で研究発表ができますこと を、大変光栄に思います。私は、哲学の研究者であり、社会体育の専門的な研究者で はありませんが、この機会に、社会体育についての小さな哲学的考察を展開してみた いと思います。

「社会体育」という言葉は、日本において「社会教育」という語との関係において 理解されます1が、「体育」と「スポーツ」の概念の違いが明らかにされることによっ て、日本では現在、「生涯スポーツ」とか「コミュニティ・スポーツ」と言うことの方 が一般的になっています。生涯スポーツにしてもコミュニティ・スポーツにしても、

学校での体育授業や課外活動でのスポーツ経験とは別に、人々がスポーツに継続的に 親しむことを意味しています。生涯に渡っての、あるいは学校外のコミュニティにお ける、一般の人々のスポーツ活動のことです。

そうした具体的な活動である社会体育を、いかにしたら発展させることができるか というのが、現在の中国の現実的な課題だと聞きました。オリンピックを目指すよう な特別な選手たちのためのスポーツ活動ではなく、普通に生活する市民のスポーツ活 動の普及の問題です。しかしながら、そうした具体的な問題に取り組むにあたっても、

哲学的な視点が重要です。この場合の哲学的視点は、例えば、何のために社会体育を 普及させるのかといった根本的な問題を考えてみることを意味しています。どのよう にしたら社会体育を普及させることができるかと言うhow toの問題をいくら積み上げ たとしても、それらが何のためにそこにあるのかという大きな方向性が見えていなけ れば、それらは、結局は意味を失ってしまうのです。

本日の私の発表では「アート教育」という視点を取り上げてみたいと思います。私 は、長い間、美学という学問に取り組んできました。私の研究者としての出発点は、「ス ポーツの美学」という研究でした。それは私の学位論文となり、1987年には『スポー

1 細谷俊夫ほか編『教育学大事典 3』第一法規、1978年、265-267頁。

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ツの美学2』という書物として出版されました。美学という哲学的学問は、研究対象と して「芸術」を主に取り上げます。美学という学問において、芸術についての見方が、

ここ 10年くらいの間に明らかな変化を見せており、芸術や芸術教育についての新しい 考え方が生み出されようとしています。この発表では、その最先端の議論から、社会 体育について考えてみようと思います。

1.アート教育とは何か

アート教育を英語で言ってみますと、それは art educationとなりますが、日本語で

は art education はこれまで「芸術教育」と訳されてきました。art は「芸術」です。

この「芸術」という語は、単に art という英語に対応する日本語であるというだけで なく、或る特定のことがらを意味する言葉でもあります。今、普通に日本語で「芸術」

と言えば、それは、美術、音楽、文芸、演劇、建築、舞踊などといったことがらを総 称する言葉です。さらに、美学という学問で、例えば「音楽」についての議論が展開 されるとき、その場合の音楽はヨーロッパの近代以降の音楽、いわゆるクラシック音 楽を意味することが一般的でした。現代のポップ・ミュージックやラップ・ミュージ ック、あるいは中国や日本の伝統的な民俗音楽などは、通常の「音楽」とは見なされ なかったのです。

このことは、私たちが音楽を身近に体験することを考えると、実に奇妙なことです。

また、ヨーロッパの芸術家たちが日本や中国の美術に大きな影響を受けた事実を考え ても、不可思議なことです。しかし、芸術についての哲学的思索としての美学という 学問では、このようなヨーロッパ中心主義的な見方が、長い間支配的だったのです。

ところが、このところ、ヨーロッパの近代的な概念としての芸術は決して普遍的な ものではない、ということが、美学者の間でもはっきりと述べられるようになりまし た。私がこの問題に深く関わるようになったのは、先に言及した「スポーツの美学」

の研究からです。伝統的な美学の考え方では、スポーツなどは芸術とは見なされない ことになります。しかし、美学者ではない一般の方々に「スポーツは芸術かどうか」

を尋ねると、ほとんど 100%、「スポーツは芸術と見ることができるのではないか」と 答えます。例えば、皆様ご存知かどうか知りませんが、今、アメリカの野球のメジャ ー・リーグで活躍しているイチローという日本人選手のバッティングや、あるいは現在、

2 樋口聡『スポーツの美学』不昧堂出版、1987年。

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中国のヒーローだと聞いております、陸上の 110mHの劉翔選手のハードリングなど、

芸術ではないかと尋ねてみると、まずほとんどの人がそうだと答えるのではないでし ょうか。

このことは何を意味するのかと言うと、私たちの日常生活に生きている「芸術」の 概念は、美学者がこれまで規定してきた学問的概念を、はるかに超えた広がりを持っ ているということです。逆に言うと、その日常的な芸術の観念は、概念規定をずらし てしまう、弛緩し拡散した観念です。先に指摘した、美術、音楽、文芸、演劇、建築、

舞踊などは、「制度化された芸術」です。この芸術には、テクネー(技術)、ミーメー シス(模倣・再現)、ポイエーシス(創造的制作)という基本原理があることが、指摘 されています。さらに、近代における「美」という観念と芸術の結び付き、近代的な 自我の表出と重なる「表現」という考え方の前面化、そして現代芸術に見られる「批 評性」といった特性が、私たちの芸術の観念の背後にはあるのです。こうしたさまざ まな構成要素が交叉し、例えば「表現」という語についても、美術や音楽などをモデ ルにした考え方にとどまらず、日常を生きることそのものにまで「表現」を拡張して しまうといったことが、私たちの現実において生じているのです。劉翔選手のハード リングは、上に挙げた構成要素の「テクネー(技術)」と「美」の結び付きにおいて観 られるのであり、そのときに「芸術」という語が立ち上がるのだと解釈することがで きるでしょう。

以上のような、従来の芸術ともつながりを持ち、現代的な変容を受け、さらに日常 生活の中に拡散している「芸術」の広がりを、カタカナという日本語表記の特性を生 かして「アート」と呼んでみることができるのです。ここでいうアートは、まず私た ちが身体的存在であるということを前提にします。技術にしても表現にしても、人間 の身体を媒介にして成立することがらだからです。そして、想像力によってさまざま に展開されるテクネー(技術)、ミーメーシス(模倣・再現)、ポイエーシス(創造的 制作)の行為、そこに開花する美と表現、身体的経験に根ざした生きた知、そうした ものが生成される場を生きる技法が、アートなのです。このようにアートを考えるこ とができれば、スポーツは、人間の身体性に立脚したテクネーが開花する美の領域と 捉えることができ、アートと見なすことができるのです。

このようなアートの考え方を受けて、芸術教育とは異なるアート教育を考えてみる ことができます。これまで芸術教育と言えば、端的に美術教育か音楽教育、あるいは

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言語による表現を含んだ国語(言語)教育の一部を指すものでした。具体的な問題が 議論されるとき、これまでの芸術教育は個別的な教科の問題でした。しかし、上で述 べたアートの考え方を導入してアート教育を捉えてみれば、人間の身体性に立脚した 美と表現の行為は、私たちが生きることのすべての領域に関わっていると見ることが できますから、それは単に個別的な教科の問題には留まりません。教育の中の小さな 領域がアート教育なのではなく、教育という営みそのものがアートであると考えるこ とさえ可能なのです。私たちは、生きていく中でさまざまな経験をしますが、その経 験が自らの身体によって何かを表現し制作する行為を生み出し、さらにそれは連鎖的 に再創造を引き起こします。その際の具体的な行為の形として、これまでの芸術や、

さらにはスポーツなどが重要な役割を果たすことは確かです。このようなアートの良 き観照者であるとともに実践者である人々を育てること、それがアート教育なのです。

アート教育に関連して、「美的教育(aesthetic education)」に触れておきたいと思 います。この「美的教育」も、ヨーロッパ語の翻訳語であり、ヨーロッパ的な観念で す。フリードリッヒ・シラーの美的教育論が有名です。シラーの議論は、政治的な思 惑も含んだ多義的な議論ですが、通常、美的教育と言うとほとんど芸術教育を意味す るのがこれまでの状況です。それは、近代の美学と芸術の強固な結び付きを反映する ものです。この「美的」という観念が、やはり美学において反省がなされており、例 え ば 、 ド イ ツ の 美 学 者 、 ヴ ォ ル フ ガ ン グ ・ ヴ ェ ル シ ュ の 一 連 の 研 究 に あ る よ う に 、

aestheticをその原義である「感性」と読み直す流れがあります。このことを考慮する

と、アート教育は、「感性教育」と捉えることも可能になるのです3

2.アート教育の役割

アート教育という視点から、社会体育について考えてみましょう。

先にも述べましたように、社会体育の実際の中身は、生涯スポーツとコミュニティ・

スポーツと考えることができます。いずれも学校外でのスポーツ活動ですが、特に日 本の場合、生涯スポーツにしてもコミュニティ・スポーツにしても、学校が基準となり、

学校でのスポーツ活動の拡張という性格を持っています。それは、日本が近代スポー ツをヨーロッパやアメリカから受け入れた歴史的経緯と関係があります。19世紀の後

3 樋口聡「スポーツの美学とアート教育」佐藤学ほか編『子どもたちの想像力を育む』東京大 学出版会、2003年、190-207頁。

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半、近代スポーツが日本に入ってきて普及していくのは、学校教育を通してでした4。 したがって、日本においては、子どもたちが最初にスポーツと出会うのは学校におい てであり、或る特定のスポーツ競技を選んでその競技に打ち込んでいく場も、ほとん どの場合、学校を中心にして、でした。水泳やテニスなど、学校外の商業的なスポー ツクラブが実質的な活動の中心となっているスポーツもすでにありますが、そういっ たスポーツにしても、高校生の全国スポーツ競技大会である「インターハイ」は、高 校生のスポーツ競技者にとって今なお大きな意味を持っており、それは学校..

対抗の競 技大会なのです。

学校体育から社会体育へという流れを考えたとき、学校教育の問題として、先ほど 見た個別的な教科の問題へと陥ってしまう芸術教育のことを、思い出してみることが できます。個別的な教科の問題となると、多かれ少なかれ、焦点は、音楽や美術など の具体的なテクニックの指導などに傾斜しがちであることは、学校教育の現状を見れ ばわかります。プロの音楽家や画家を育てるのではない、一般の人々の芸術教育を考 えたとき、音楽や美術に親しむ活動を生涯に渡って、あるいはコミュニティにおいて 継続するということは、学校教育の単純な延長としてではうまくいかないでしょう。

なぜならば、学校教育は、芸術教育の限られた一部を特定の仕方で扱うことしかでき ないものだからです。

このことは、同じ様に、スポーツ活動についても言うことができるでしょう。これ までの学校体育の延長上に社会体育を描いてみても、おそらくほとんどの人々はそれ に関心を持つことはないでしょう。それは、社会の学校化

...

を助長するだけですから。

ここで考えてみるべきなのが、アート教育です。アート教育は、芸術やスポーツとい ったこれまでの制度化された文化財を有効に活用するものでした。と同時に、その個 別的な文化財を超え、美や表現の行為を目指すものでした。当然、学校の教科の枠組 みを超えるものです。

このアート教育の視点から社会体育を考えたとき、次の二点を指摘することができ るでしょう。それは、社会体育におけるアート教育の役割とも考えることができるも のです。

一つは、社会体育としてなされる活動をアート教育と考える広い視点を持つという ことです。ということは、学校体育からの延長上で、特定のスポーツ活動に社会体育

4 樋口聡『身体教育の思想』勁草書房、2005年。

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を限定する考えを止めるということです。私たちが現在有している近代スポーツは、

文化財として貴重です。それをアート教育として有効に活かすことが、引き続き求め られます。しかし、近代スポーツにこだわらずに、スポーツ的なるものの多様な変異 体を創造する問題意識が必要です。或る子どもたちにとっては、近代スポーツにつな がらない身体的経験においてこそ、アートの経験が成立する可能性があるのです。例 えば、中国古来、日本古来の武術、舞踊、音楽、あるいは旅や冒険、さらにはボラン ティア活動などにも、多くの可能性があるでしょう。これによって、社会体育は、大 きな広がりを持つことになるでしょう。

もう一つは、学校との連携を新しい形で考え、延いてはアート教育の視点から現在 の学校教育を変容させることです。学校でのスポーツ活動を生涯やコミュニティに向 けて拡張することを社会体育は望むわけですが、それは決して易しいことではありま せん。今、日本で普及が期待されている総合型地域スポーツクラブを見ても、特に学 校教育との関係を考えた場合、学校と社会体育との連携は必ずしもうまくいっている とは言えないことが、実地調査から浮かび上がっています5。その原因の一つは、社会 体育としてなされるスポーツ活動が、従来型のスポーツ活動、それも競技を目指した パターン化したあり方から抜け出すことができていないことにあるように思われます。

コミュニティ・スポーツクラブを考えたとき、ヨーロッパのような、学校教育とは完 全に切り離されたクラブのあり方は、現在の日本においては取りえません。先にも述 べたように、日本における近代スポーツの受容は、学校教育を媒体としてきたからで す。学校との連携ということになると、どうしても、教員にスポーツの指導者として の役割を期待することになります。そうした期待に、学校の現状は答えることができ ないのです。学校の教員は、体育の教員も含めて、いろいろなスポーツのすぐれた指 導者であるとは限らないからです。ここで社会体育をアート教育の視点から眺めるこ とができれば、学校が果たしうる役割は拡大されることになるでしょう。そこでの活 動は、スポーツを手がかりとしながらも、それを越えた行為の全般に広がっているか らです。従来の教科の縦割りを超えたところにあるアート教育への注目は、その結果、

学校の教科システムがとりあえずの制度的なものでしかないことを、改めて気づかせ てくれるのです。そこから、現行の学校体育を含んだ学校教育を変容させる手がかり

5 張寅成「学校教育との関係の視点から見た総合型地域スポーツクラブに関する研究-広島県 の公立学校管理職へのインタビューから-」『体育原理研究』第35号、2005年、33-39頁。

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を得る可能性があるのです。

3.まとめ

ここまで、競技を一元的に目指す従来型のスポーツ活動に留まらないアート教育の 視点を取り入れた社会体育のあり方について述べてきました。しかしながら、それは 近代スポーツの持っている豊かな側面をないがしろにするのではないことは、ここで 強調されるべきです。スポーツに出会い、関心を持ち、それに真摯に打ち込むことに よって、子どもたちは、まず自分の「世界」を広げます。例えばサッカーを知り、観 戦・実践の両方の体験を得た子どもは、それを得ることがなかったときと比べ、明ら かに違った一つの世界を獲得しているのです。そして、どんな個人スポーツでも、関 心を共有する仲間たちと一緒に取り組むのであり、そこに他者関係が必然的に生まれ ます。他者を理解するという重要な学びの経験を、スポーツの経験で子どもたちは持 ちます。さらに、こうした世界の構築や他者理解を通して、達成することのできるも う一つの重要なことは、自分自身を理解することです。スポーツの経験を単なるスポ ーツ競技の実践と見るのでなく、それがこのような学びの実践となるように考えるこ と、そのことがアート教育の視点から生み出されてくるのです6

これからの社会体育は、学校を超え、個々人の生涯とコミュニティに開かれなけれ ばなりません。スポーツ活動を手がかりとしながらも、アートという大きな広がりに つながっていなければなりません。その基本は、テクネー(技術)、ミーメーシス(模 倣・再現)、ポイエーシス(創造的制作)という自らの身体的行為において、美と表現 を生成することにあります。それは、広い意味での学びの実践(世界制作、他者理解、

自己発見)であり、それこそがアート教育なのです。何のために社会体育を普及させ ようとするのか。それは、スポーツの競技人口を増やしてそのスポーツ競技の隆盛を 誇示したりするためにではなく、アート教育によって、一人ひとりの学びの実践を豊 かに展開するために、なのです。

6 樋口聡「スポーツの美学とアート教育」、前掲書。

参照

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