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台湾初期近代詩におけるタゴールの受容について 

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(1)

唐   顥 芸

はじめに

1913 年、ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore,1861–

1941)は『ギタンジャリ』(Gitanjali: Song Offerings)によってアジア人初 のノーベル文学賞を受賞した。多くのアジアの国々がヨーロッパ列強の植民 地だった当時において、タゴールの受賞はヨーロッパとアジアにとって大き な出来事であり、日本と中国にタゴール熱が巻き起こった。日本では 1915 年だけでもタゴールの詩や思想などに関連する翻訳、研究の著作が 15 冊ほ ど出版された 2。1916 年にタゴールは日本を初めて訪問し、熱烈な歓迎を受け、

1929 年までに合わせて 5 回訪問した 3。一方、タゴールが中国を初めて訪問し たのは 1924 年だったが、その前に、中国では作品がすでに翻訳されていた。

まず、1915 年の『青年雑誌』にタゴール詩の翻訳が掲載され、1922 年に鄭 振鐸による『迷い鳥』(Stray Birds)の部分訳が出版された。さらに、1923 年には鄭振鐸と王独清がそれぞれ『新月集』(The Crescent Moon)を翻訳 した。1925 年には『園丁集』(The Gardener)、『採果集』(Fruit-Gathering)

などから抄訳した『太戈爾詩』(タゴール詩)が出版された。

タゴールは、日本においては特にその思想および政治に関する発言が注目 された。それに対し、中国においてはその詩が中国の白話詩に大きな影響を 与えた。すなわち、1920 年代に流行した「小詩」の創作であった。

そのタゴール・ブームの中で、1920 年代に近代詩の創作が試み始められ た台湾においても、中国語と日本語を介して、タゴールを直接的あるいは間 接的に受容したのである。莫渝は、タゴールの詩集に書いた序文に「1920 年代、台湾において新詩活動が始まった際に、中国語で創作する楊華は冰心、

『コミュニカーレ』9(2020)41–64

©2012 同志社大学グローバル・コミュニケーション学会

(2)

梁宗岱とタゴールの影響を受けて、多くの小詩を書いた。(中略)1930 年代、

王白淵の日本語詩文集『棘の道』に論文「詩聖タゴール」が収録された。こ の時の王白淵の読書経験は、完全に日本語からえたのである」と述べ、日本 統治期台湾の詩人たちが異なる言語を媒介して、タゴールとの繋がりがあっ たことに言及した 4。楊華が謝冰心と梁宗岱の影響を受けたことについては、

秋吉久紀夫をはじめ、多くの研究者が論じている 5。一方、タゴールの影響に ついてもよく言及されたが、楊華がなぜ、どのようにタゴールの影響を受け たのかについては、あまり具体的に分析されてこなかった。王白淵とタゴー ルの影響については、柳書琴、橋本恭子などが思想の面における受容を分析 している 6。しかし、創作の面における影響についてはまだ詳しく論じられて いない。

本論文は、1920 年代に出発した台湾近代詩が、当時のタゴール・ブーム の中でどのような影響を受け、タゴールを受容したのかを跡付けながら、そ の受容を通して、台湾近代詩がいかに創作されたのかを分析する試みである。

1.雑誌『人人』と楊雲萍の白話詩

台湾初期白話詩について考えるとき、雑誌『人人』をまず取り上げる必要 があるだろう。『人人』は、1925 年 3 月、当時台北州立第一中学校の学生であっ た楊雲萍とその友人江夢筆によって創刊された。「雲萍器人 7個人雑誌」と題 された第 1 号には、その言葉通り創刊者二人の詩文のみ掲載された。『人人』

は結局 2 号しか発行されなかったが、台湾最初の白話文文芸誌という歴史的 な意義を持つのみならず、その第 2 号は白話詩の特集といえるほど初期の白 話詩作品が多く掲載されたのである。さらに、のちに日本語詩の創作で詩人 としての名を確立した創刊者の一人、楊雲萍が初期に創作した中国語詩は、

ほぼ全て『人人』に収録されていたため、楊雲萍の中国語詩を研究する上に おいても重要な参考資料である。

その第 1 号に、楊雲萍によるタゴール詩の翻訳「女人呀」(女の人よ)が 掲載されている。訳詩は以下の通りである 8

(3)

女人呀!奶們不只是被神創造的、又是被男人所造的。看呀!男人們為 欲裝飾奶們何等地無他念呵!

為著奶們、以形容之金絲、而織絹的是詩人之業、贈與奶們之姿容的永 遠生命、這是畫家之務呢。海以真珠、山以黃金、而夏天的花園、以繚亂 的花、薰、映、使奶們聖、凈!

男人的心願、盡灑在奶們青春之上了。

奶們的身心、半是女人、半是夢!

筆者の調査によると、この詩はタゴールの『園丁集』第 59 首の翻訳であっ た。原文は以下の通りである 9

O woman, you are not merely the handiwork of God, but also of men; these are ever endowing you with beauty from their hearts.

Poets are weaving for you a web with threads of golden imagery;

painters are giving your form ever new immortality.

The sea gives its pearls, the mines their gold, the summer gardens their flowers to deck you, to cover you, to make you more precious.

The desire of men’s hearts has shed its glory over your youth.

You are one half women and one half dream.

訳詩において、楊雲萍は女性の三人称に文言文で使われている「奶」を用 いたり、「呀」「呢」「呵」など白話文で使われ始めた語気助詞を多用した。「為 欲」や「形容」などの表現は、現在使用されている中国語で読むと意味が通 じないところもある。白話文の運用にまだ不慣れであることがうかがえる。

さらに原文と比較すれば、訳されていない箇所、あるいは原文にないのに加 えられた文句などがあるため、成功した翻訳とは言えない。しかし、これら の問題点はまさに台湾近代詩の出発に際して、楊雲萍が白話文の書き方を模 索していた痕跡だといえるだろう。

この詩を翻訳した経緯について、楊雲萍はのちに『人人』の創刊に関する 回想文「『人人』雑誌創刊前後」の中で以下のように述べた。

(4)

あの時、私はタゴールの著作を 2、3 冊読んだことがあった。タゴー ル氏の著作が好きなわけではなく、タゴール氏の英語が比較的に分かり やすかった(少なくとも、あの時の私は分かりやすいと思った)からだ。

当時、私はまだ台北州立第一中学校の学生だった 10

この回想によれば、楊雲萍はタゴールの詩を英語で読み、白話文を用いて 翻訳を試みたのである。当時、台湾においてもタゴールの詩が読まれていた ことがわかる。新しい文体を試み始めたとき、翻訳という作業を通して新し い文体を模索、創造することは、有効かつ重要な方法の一つである。楊雲萍 は、タゴールの詩を英語から白話文に翻訳することによって、漢詩とは異な る新しい「詩」の書き方を試行錯誤したといえるだろう。

では、楊雲萍はどのように白話文という新しい文体を知ったのだろうか。

「『人人』雑誌創刊前後」によると、当時、一緒に『人人』を創刊した江夢筆 の父親は、仕事上の関係で度々中国と台湾を往来し、中国の雑誌『小説月報』

『詩』『東方雑誌』『礼拝六』などをよく購入して台湾に持ち帰っていた。そ のために、楊雲萍は江夢筆の家で、当時の中国で最新の雑誌を読むことがで きたのである。さらに、楊雲萍は中学校の卒業旅行で中国と香港に行った時 に、商務印書館の支店で『雪朝』『膈膜』など、多くの新文学雑誌と作品を 購入したという 11

楊雲萍はこのように中国新文学の雑誌と作品を通して、中国白話文を学び、

白話詩の創作を試みた。『人人』第 1 号に掲載された楊雲萍の白話文小説「罪 与罪」(罪と罪)と随筆「無題録」や、白話詩「相片」(写真)「即興」「月児」

(月)「小鳥児」(小鳥)などにおける白話の運用は稚拙であることが否めな いが、最初期の習作であるために、白話文という道具や近代詩という概念に ついて、まだ完璧に把握できていなかったのだろう。

1925 年 12 月に『人人』の第 2 号が発行されたが、当時江夢筆は中国に渡っ ていたため、実質的な編輯者は楊雲萍一人だった。楊雲萍以外の投稿者によ る白話詩、随筆、評論なども掲載され、第 1 号より充実した内容となった。

白話詩は、楊雲萍の「夜雨」、「無題」、「泉水」、「暮日的車中」(夕暮れの車中)、

「送夢筆哥哥」(夢筆兄さんを送る)、「小詩幾首」(小詩数首)や、一郎(張

(5)

我軍)の「乱都之恋」の前半、縦横(鄭作衡)の「乞孩」(子供の乞食)と「小 詩二首」のほかに、鶴痩(鄭嶺秋)、肖梅(江肖梅)、啓文(黄瀛豹)、澤生(翁 澤生)の作品など、10 数首が掲載された。楊雲萍の「編輯雑記」によると、

この号に白話詩を投稿した啓文や縦横、肖梅、鶴痩たちとは『人人』の発行 を通して知り合い、彼らは当時新竹で「白話詩研究会」を結成したという 12。 青年たちの白話詩に対する関心の高さをうかがうことができるだろう。第 1 号に掲載された楊雲萍の作品は全て 1924 年に創作されたものだが、第 2 号 の作品は表記されていない「小詩幾首」を除き、全て 1925 年の創作だった。

わずか一年の差とはいえ、白話文の書き方はより自然になり、詩における表 現の仕方も少し掴めるようになったことがみてとれる 13

ここで注目したいのは、小詩の創作である。小詩とは、当時中国で流行し ていた数行ほどの短い詩を指している。内容は刹那の感触を表現したり、警 句のような教訓を伝えたりするものである。発表する際には、一つの題目に 数首から数十首、内容に関連性のない小詩を集める形式をとることが多い。

小詩の創作と流行については、タゴールの影響が一つの原因だと考えられる。

1922 年 1 月、謝冰心が『晨報副鐫』に「繁星」を発表した。数行ほどの 短い詩が合わせて 164 首収録され、1923 年には一冊の本として商務印書館 から出版された。その冒頭で謝冰心は、創作のきっかけは 1919 年の冬に、

タゴールの『迷い鳥』を読んで、ヒントをえたからだと述べている 14。『迷い鳥』

は 1916 年に出版され、一句から数句の短詩を 326 首収録した作品である。

中国の小詩の多くが一つの題の下に数首を集めた形式で発表されるのも、お そらくタゴールの影響だと考えられる。『迷い鳥』の抄訳が中国で出版され たのは前述したとおり、1922 年の鄭振鐸によるものだった。胡懐琛による と「この訳本が出版される前に、中国の詩壇はすでにその影響を受けていた。

たくさんの人があちらこちらに数首を訳して、新聞あるいは雑誌に載せた。

さらに、たくさんの人がその英語の原本を読み、それは自由自在で、一切の 束縛もされないものだと思って、学んで作ったのだ。とても短い間に、中国 の詩壇にある種の変化を起こすことができた」のである 15。1922 年に中国で タゴールの訳本が出版される前に、すでに英語の本や新聞、雑誌に載せた抄

(6)

訳の影響で、小詩の創作がブームになっていたというのである。

縦横の「小詩二首」には 4 行と 2 行の詩が収録され、楊雲萍の「小詩幾首」

には 2 行から 4 行の詩が 7 首収録された。台湾の詩人も小詩という名称、一 つのタイトルに数首を収録する形式、一首は数行しかないという中国におけ る小詩の書き方について認識していたことがうかがえる。

まず、縦横の詩の 1 首目を見てみよう 16

涼風飄盪着、 涼しい風がそよそよ、

星光閃爍着、 星の光がきらきら、

 可愛的秋啊!  愛しい秋よ!

汝為何来得這麼遅! 来るのがなぜこんなに遅かったのか!

この詩は秋の夜の清々しい風景を描いて、秋の到来を長く待ち焦がれてい た気持ちを表している。4 行のうちに、最初の 2 行において秋の涼しさと空 の高い感覚をうまく描き上げたため、秋が来るのが遅いと責める後半の部分 は読者の共感をえることができたであろう。

さらに、楊雲萍の「小詩幾首」の第 2 首を見てみよう 17

昨夜演戯的熱閙那里去了? 昨夜の演劇のにぎやかさはどこへ?

只有盡地甘蔗粕的萋々罷! 地面にいっぱい残されたサトウキビ粕 の寂しさだけだ!

この詩は 2 行のみで祭りの後の寂しさを嘆いた。一面に残されたサトウキ ビ粕を通して、集まった人の多さとそのにぎやかさを想像させ、人がいなく なった現在との落差がより大きく感じられる。

両首とも、一瞬の感情を描くという小詩の性質を的確に把握しているとい えよう。

このように、1925 年末、すでに中国の小詩は台湾に伝わり、白話詩に興

(7)

味のある青年たちは小詩を巧みに創作したのである。楊雲萍はタゴール詩の 翻訳を試みることで、白話文の使用を模索したのである。一方、中国の白話 詩、特に小詩を手本にして白話詩の創作を試みたことは、中国における小詩 の発展から考えると、中国が介在し、タゴールによる間接的な影響を受けた といえるだろう。

当時の台湾における小詩の創作に関しては、楊華という詩人がその代表者 といえる。以下では楊華について論じてみたい。

2.楊華の小詩創作における中国白話詩の影響

楊華(1900–1936)は、短い生涯におよそ 320 首の近代詩を創作した。そ の多くは数行のみの小詩である上、主な作品である「小詩」(5 首)「小詩十 二首」(12 首)「黒潮集」(53 首)「心絃」(52 首)「山花」(124 首)「晨光集」

(59 首)などは、全て一つの題名に数首から数十首を収録したオムニバス形 式をとっている。

彼が最初に発表した白話詩は、1927 年 1 月 23 日『台湾民報』第 141 号に 掲載された「小詩」(5 首)だった 18。この詩は、1926 年の秋に新竹青年会が行っ た白話詩の懸賞に応募し、2 位をとった作品である。5 首のうち、3 首目が 3 行あるほか、全て 2 行のみの詩である 19。ここではその第 5 首をみてみよう 20

人們散了後的秋千、 人々が去った後のぶらんこに、

閒掛着一輪明月。 のどかに掛かっている一輪の明月。

一句目は、現在のがらんと空いているぶらんこの状態を表すと共に、つい さきほど人々がぶらんこで遊んでいて、にぎやかだった様子も想像させられ る。二句目では、空いているぶらんこに、まるで夜空の明月が掛かっている ようにみえると描いた。風景の描写しかされていないが、人々がばらばらに 去っていったのに対し、団欒を象徴する一輪の月が静かにその場に佇んでい るという対照的な描写が、寂しさの感情や、人間世界の変わっていくさまと 自然界の不変の対比を考えさせる。わずか 2 行だが、絵画のような映像構成、

(8)

時間の流れと共に絶頂から静まっていく感情の全てが淡々と描かれ、余韻の 深い詩となっている。

上述した楊雲萍の小詩と比べると、同じ祭りの後を描いているが、楊雲萍 の詩は直截な表現であるのに対し、楊華は風景を描くことによって読者の想 像を呼び起こしたため、より詩的な趣があるといえよう。

このように、楊華はデビュー作から一貫して精力的に小詩の創作をした。

短い詩幅の中に、風景の描写を通して、哀婉な抒情を歌い上げた。

では、楊華はなぜ白話詩を書くようになったのか。その勉学の歴程からみ ると、彼は幼い頃に台湾人用の小学校である公学校に入学しておらず 21、1917 年から 23 年の間に鹿港の漢詩人施梅樵の門下で漢学を勉強したと言われて いる 22。そのために、彼は漢学の教養を持ち、創作も漢詩から始まった 23。中 国白話文との接触は、おそらく 1925 年 4 月に文化協会が指導する「台北青 年体育会」の幹部を務め 24、一時蒋渭水の家に籍を置き、台北で暮らした時 から始まったと考えられる 25

2、3 行のみの短い詩とはいえ、デビュー作から楊華は高い表現力を持っ ていた。台湾の初期近代詩によくみられるような、描写が直截的で、深みが 欠けている詩もあるが、精錬された言葉で風景や心情を巧みに描写し、読者 の感情を喚起するような傑作もたくさんある。文体の面において、文言文と 台湾語の混入はあるが、日本語の語彙はほとんどなく、より中国白話文に近 い感じの文体になっている。その理由として、まず楊華の詩はほとんど数行 しかない短いものなので、台湾式白話文の特徴があまり現出されていないと も考えられる。また、彼は中国の白話詩を熟読しており、その文体に強い影 響を受けた。さらに模倣や改作などを通して、書き方を練習したということ とも関係しているだろう。

楊華と中国の小詩創作、特に謝冰心と梁宗岱との関連については、先行研 究でよく言及されている 26。梁宗岱との関連については、1932 年に発表され た「心絃」の冒頭に梁宗岱の「絮語」の第 37 首を引用したことで注目され た 27。「黒潮集」にすでに「絮語」45 番の改作があったことから考えると 28、楊 華は 1927 年以前に梁宗岱の詩を読んだと考えられる。そして重要なのは、

楊華は梁宗岱の詩を模倣して書いたり、詩句を自分の詩に取り入れたり、台

(9)

湾話文 29詩に翻訳、改作したりしたことである 30。 例えば、梁宗岱「絮語」の 21 番は以下の通りである 31

暮春到了 暮春がきた

白蝴蝶全披上黃的喪服 白い蝶々はみな黄色い喪服を羽織り 去弔那滿地繽紛的落花了 一面の鮮やかな落花を弔いに行った 楊華「心絃」の 28 番は以下のようである 32

粉蝶攏穿起了黃的喪服, 白い蝶々はみな黄色い喪服をきた、

想是預弔那憔悴的花。 憔悴している花をあらかじめ弔おうと しているのだろう。

「心絃」は当時、台湾話文を積極的に推進した雑誌『南音』に連載された 詩作であり、楊華が意識的に台湾話文詩の創作を試みた作品である。例えば この詩の「攏」は台湾語口語の当て字で、「すべて」を意味する。「心絃」の 詩は「絮語」の詩の第一句がないことを除いて、同詩を台湾話文に翻訳、改 作したものだといえる。しかしながら、二つの詩は異なる読後感を読者に与 える。梁宗岱の詩は、蝶が一面に散った花を弔っていると描いた。「繽紛」

の二文字によって惜しむ気持ちの中に、にぎやかさと暖かみが加えられた。

一方、楊華の詩では、蝶はまだ散っていないけれどもすでにしおれている花 を、あらかじめ弔うと描写した。花が散る悲しみを予知したのに、どうする こともできなかったという悲哀が読みとれる。このような、どうにもならな い絶望感と悲しみは、実は楊華の抒情詩に一貫している風格なのである。

楊華は「心絃」以降も「山花」、「晨光集」において台湾話文詩を創作した。

そして、その台湾話文詩の集大成ともいえる「女工悲曲」という傑作を残し た。梁宗岱の詩からの翻訳と改作は、楊華にとって、文体作りの練習になっ たと考えられる。

楊華と謝冰心の関連については、特に「晨光集」においてその影響がうか

(10)

がえる。「心絃」における「絮語」の改作とは異なり、「晨光集」では、謝冰 心の「繁星」と「春水」の詩句を取り入れたのみである 33。以下、「繁星」か ら一つの例をみてみよう。

まず、謝冰心の「繁星」の 49 番は以下の通りである。

零砕的詩句 こまごまとした詩句は

是学海中的一点浪花罷 学問の海にある少しの波だが 然而他們是光明閃爍的 彼らは明るく輝いている 繁星般嵌在心霊的天空裡 星のように心の空にはめている そして楊華の「晨光集」の 6 番は以下の通りである。

幽默的園中 静かな庭に

撒了滿地的落花 ばらまかれた一面の散り花 這是零砕的詩句呵! こまごまとした詩句だな!

楊華の詩は「零砕的詩句」(こまごまとした詩句)という言葉を取り入れ たが、全く異なるテーマの詩になっている。謝冰心の詩では、こまごまとし た詩句が詩のテーマであり、そのような詩句は広い学問の世界の微々たるも のだが、一粒一粒の星のように、心に光を放っている。一編の文章になって いない一つ一つの詩句も、光る力を持っているというのである。それに対し、

楊華の詩では散った花が詩のテーマである。静かで人気のない庭に、花はひっ そりと散り、地面にいっぱいになった。楊華にとって、その花々は一つ一つ の詩句のように美しく語りかけていると感じられた。散った花への痛惜な愛 情が溢れている。

楊華はこのように、謝冰心の詩句を取り入れながら詩を作ったことが見受 けられる。それは中国語を話せず、あくまでも創作の書面言語として白話詩 の書き方を勉強している楊華がとった方法だと考えられる。重要なのは、楊 華が改作した詩や、詩句を引用して作った詩は、楊華の風格を備えた一つの 作品になっていることである。同様に優しくて甘い抒情詩を書いているよう

(11)

に思われがちだが、謝冰心の抒情詩「繁星」と「春水」は、優しさと甘さの 中に、積極性と明るさも溢れている。それに対し、楊華の抒情詩にはほとん ど痛切といえるほどの悲しみや救いのないような絶望が潜んでおり、哀婉な 詩風である。二人の風格は明らかに異なっている。

以上みてきたように、楊華は中国の小詩を創作する詩人、特に粱宗岱と謝 冰心から強い影響を受けた。一方、中国の小詩は、特に謝冰心自身がタゴー ルの詩に触発されて小詩を創作したと述べたように、タゴールによる影響を 受けていた。楊雲萍がタゴールの詩を英語で読んだ記録があるのとは異なり、

楊華にはそのような記録がない上、おそらく英語ができないと考えられる。

そのような楊華が書いた詩に、もしタゴールの影響があるとするならば、そ れは中国の小詩を介して、タゴールを間接的に受容したとしか考えられない だろう。

タゴールの影響のほかに、楊華の詩は、特に一瞬の風景と感情を描くため、

日本俳句の影響があるとしばしば言及される。例えば許俊雅は、楊華の詩作 は「日本の俳句の清雅さ、平淡さ、機知のきいた風格や、タゴール詩の人生 の哲理、さらに冰心の詩の言葉遣いを融合したものである」と述べているが、

典型的な評論といえる 34

実は 1935 年に楊華の「晨光集」がまだ『台湾文芸』に連載されていた時、

早くも第 2 巻第 4 号で HT 生は「詩歌的批評及其問題的二、三」(詩歌の批 評とその二、三の問題)において、楊華の「晨光集」は「内容的にとても薄 い。形式上の体形は、冰心女史の春水集の影響を受けたのである。このよう な体形は、日本の短歌の文学史上において相当な価値があり、例えば短歌、

俳句、川柳等々である。我ら台湾においては、楊花(引用者注:楊華のもう 一つの筆名である)氏の紹介によって、台湾詩歌の建設に大きな影響を与え たため、注目すべき作品である」と評した 35

楊華が受けた教育と生活環境から見れば、日本語ができるとは考えられな いため、日本語から直接に俳句の影響を受けたとは考えにくい。楊華の詩に 俳句の影響がみえるのは、おそらく許俊雅も言及したように、中国において 小詩が流行したもう一つの原因として、周作人が俳句を翻訳、紹介したため

(12)

である 36

胡懐琛は小詩のもう一つの起源について、以下のように述べている 37

人がいうに、このような小詩は日本の短い詩歌 38の影響を受けて始 まったのである。それは民国 10 年(引用者注:1921 年)のことである。

周作人は「日本の詩歌」を書き、日本の短い詩歌を中国に紹介した。こ の時にちょうど中国の新体詩が勃興し、古い形式を全て壊した。偶然に 外来の新しい形式をみて、きっといいものに違いないと思い、尽力して 学ぼうとしたのだ。そのために、日本の短い詩歌が中国に伝わると、短 い間に中国の詩壇に大きな変化を起こさせた。そのために中国では小詩 が流行したのである。

周作人の「日本の詩歌」は、1921 年、『小説月報』に発表された。その中 には日本の短歌、俳句、川柳などが紹介され、与謝野晶子や松尾芭蕉、小林 一茶、ほか数人の作品が翻訳された 39。周作人はほかに「一茶の俳句」 40、「日 本の小詩」 41などを発表し、日本の俳句を翻訳、紹介した。このような俳句 の翻訳とタゴール詩の翻訳を合わせて、中国の小詩創作がいっそう流行した と考えられる。

そもそも、タゴールにおける『迷い鳥』のような短詩の創作には、日本の 俳句との出会いによって変化を遂げたところがあったと言われている 42。楊 華の小詩に、もし俳句の趣があるのであれば、それはこのような複雑な受容 と変化の影響で発展した中国の小詩の創作による影響だといえるだろう。

一方、日本語詩を創作した王白淵は別のルートからタゴールを受容した。

次にそれをみていきたい。

3.王白淵の日本語詩におけるタゴールの受容

日本統治期にタゴールの影響を受けた詩人として、よく言及されるのは王 白淵(1902–1965)である。

(13)

彼自身が「我的回憶録」(私の回想録)の中で、東京に留学した時にちょ うどタゴールが訪日し、「その時、私はすでに彼の詩と哲学を読んだことが あり、この東方主義的な詩人を非常に敬慕している」と述べた 43。そのほかに、

『棘の道』に収録された論文「詩聖タゴール」や、岩手女子師範校友会誌に 発表された「魂の故郷」 44にも、王白淵のタゴールに対する敬慕とその哲学 への理解が見受けられる。タゴールの哲学が王白淵の思想形成に与えた影響 については、先行研究で言及されている 45。ここでは、詩を創作する面にお いて、タゴールが王白淵にどのような影響を与えたのかをみてみたい。

1931 年 6 月、王白淵は日本語詩文集『蕀の道』を盛岡で出版した。この 本には、彼が 1923 年に東京美術大学に留学してから創作した日本語詩 66 首、

タゴールとガンジーに関する論文 2 編、短編小説 1 編と左明の演劇「到明天」

(明日にいたる)の翻訳が収録されている。『蕀の道』は台湾人が出版した最 初の日本語詩集であり、王白淵が出版した唯一の詩集でもある。本書の出版 によって、王白淵は詩人として認識されるようになったといえよう。

しかし、1923 年に日本へ留学する際、王白淵は台湾のミレーになり、世 間との関わりを持たずに、象牙の塔の中に絵を描くような画家になりたいと 思っていた 46。「我的回憶録」によれば、王白淵が国語学校に在学時、親友の 謝春木はすでに政治のことを考えていたが、自分は世間のことを考えず、「た だ毎日勉強して、テニスをする」だけだったという。やがて工藤直太郎の『人 間文化の出発』に感銘を受けて、東京への留学を決心したが、ただ「台湾の ミレになり、象牙の塔の中で一生を過ごしたい」と思っただけであった。し かし、東京に着いてから、「台湾のミレになりたかった私は、美術に満足で きず、美術から文学、文学から政治、社会科学に進んだ」のである 47

王白淵が象牙の塔の夢から目覚めて、植民地の人間としての運命を自覚し、

社会運動に身を投じたことは、東京留学中に大正デモクラシーの風潮に影響 を受けたことと、中国革命とインドの独立運動を理解したことと関係してい る 48。しかし、その前に、なぜ「美術から文学」に転換したのだろうか。

『蕀の道』の序文を書いた謝春木は次のように述べた。「美術学校に於ける 君は憂鬱そのもので、画よりも詩を研究し、台湾人の運命を下宿屋の二階で 夜明迄語ったのは一度や二度ではなかった」 49。ここで謝春木が述べる、王白

(14)

淵が絵画よりも研究していた詩とは、おそらくタゴールの詩を指していると 考えられる。

上述した王白淵の「我的回想録」の回想文から見ると、彼が 1924 年に東 京にいた頃、すでにタゴールの詩を読んでいた。美術学校にいた王白淵は台 湾の状況や政治、社会運動などを考えるようになり、同じ植民地であるイン ドにも関心を抱き、タゴールやガンジーなどの政治、哲学思想の著作を読む ようになった。タゴールの詩はその思想を表現したものでもあり、この時期 の王白淵にとって、詩を読むことと政治問題への関心は緊密な関係にあった。

やがて王白淵は詩を読むだけではなく、詩を書くことで心情を表現するよ うになった。美術学校の学生であるのに、なぜ絵画を、心情を表現する道具 にしなかったのか。考えられるのは、まず彼がなりたかったのは象牙の塔の 中の画家であることからみて、彼にとって、絵画は政治や社会と関係のない ものだとみなしていたのではないだろうか。そのために、政治問題などに悩 む自身の心情を表すのに、絵画はふさわしい道具ではなかった。さらに、当 時の王白淵は画家になる夢もあきらめきれずにいて、社会運動とは両立でき ない、二元相克的な問題として捉え、苦悩していた 50。そのために、悩みの 原因でもある絵画を用いて心情を表現することはできなかったのだろう。そ して何よりも重要なのは、彼がタゴールの詩を読み、詩を用いて思想と心情 を表現することを学んだからだと考えられる。『蕀の道』には、王白淵が東 京と盛岡にいた時の創作が収録されている。詩を書くことについて、王白淵 はどのように考えていたのか。その詩作からみてみよう。

「詩人」

バラは黙って咲き 無言の儘で散っていく 詩人は人知れず生き 自分の美を食って死ぬ 蝉は中空で歌ひ

結果を顧みずに飛び去る

(15)

詩人は心の中に詩を書き 書いては又消して行く

月は一人で歩み 夜の暗黒を照らす 詩人は孤独で歌ひ 万人の胸を語る

王白淵にとって、詩人は無名のままに黙々と自身の美を飲み込んでいる存 在であり、結果にかかわらず創作の困難と戦っている存在でもある。しかし、

たとえ孤独であっても、詩人は万人の気持ちを歌うため、月のように暗闇を 照らすことができるという。詩は詩人自身の気持ちを表現するだけではなく、

普遍性を持っているのである。

このように、東京に来てから自身の前途と台湾の運命を考え始めた王白淵 にとって、詩は心情を表現する道具となっていった。その詩において自分自 身を表現するほか、彼の多くの詩は生命への賛美を描いている。『蕀の道』

の詩には大量の自然風物が取り入れられているが、「晩春」を除けば、その 自然風物の多くは固有名詞ではなく、ただの普通名詞である 51。特定の場所 の風景を歌うのではなく、普遍的な自然風景を歌っているといえる。そして、

その自然風景は概念としての風景であり、その自然風物の全ては象徴として 用いられているのである。

普遍的な自然風景を歌っていることについて、橋本恭子はタゴールの影響 だと指摘し、更に王白淵の美術評論「府展雑感」を引用しながら、王白淵の 考えは「自然における自然と芸術における自然は異なり、芸術家が表現する のは自然そのものではなく、自然の本質である」と述べた 52。つまり、王白 淵は実在の自然を相手に、その風景を描写したわけではなく、概念として自 然を詩に表現したと考えられる。

タゴールの詩も、ほとんど特定の場所の自然風景ではなく、概念としての 自然風物を詩の中に用いたものであるため、確かに王白淵はタゴールの影響 を受けたと考えられる。それについて、一つ具体的な例をみてみたい。『蕀

(16)

の道』に収録された論文「詩聖タゴール」の中に、タゴールの『ギタンジャ リ』の 74 番が引用されている。

日はもう暮れて蔭が地上に落ちた。河へ下りて私は水甕を満たす時が 来た。夕ぐれの大気は水の悲しい楽に聞き惚れている。ああ、それが私 を薄闇の中に誘い出す。寂しい小路には人影もなく風は落ちさざ波が河 の上に躍っている。私は自分の家へ帰れるだろうか。ふとして誰かに遇 いはしまいだろうか。あそこの浅瀬で知らない人が笛を吹いている 53。 そして、『蕀の道』に収録されている王白淵の「薄暮」は以下の通りである。

日はとっぷり暮れて虫も歌ひ出した 西の空はまだほんのり明い

木梢にためらふ月に心ひかれて 小暗い森蔭を只一人歩み続ける 途中で道に迷いはしまいだらうか 河向ふで見知らぬ人が笛を吹いている 花咲く春私の心はなやましかった 微風に波打つ胡蝶に心奪はれて 昼の暑さを忘れる静かな夕方だ 東の方から涼しい風が吹いて来る 私は何時家路に辿り着くだらうか 懐かしい母さんが私を待っている 54

『ギタンジャリ』の 74 番は日が暮れて、詩人が夕暮れの空気と河の音にひ かれて、河辺を歩きながら、帰れない不安と未知との出会いの期待を抱いて いると、ふと河の向こうで見知らぬ人が笛を吹いているのが聞こえた、とい う内容である。一方、「薄暮」は日が暮れて、詩人は昇ったばかりの月にひ かれて、森を歩きながら、一人で歩くことと道に迷うことへの不安を抱いて いると、ふと河の向こうで見知らぬ人が笛を吹いていることに気づいた。そ

(17)

れから夕暮れの風景を見ながら、帰路につくことへの不安と期待を感じた、

という内容である。

このように比較してみると、二つの詩は場面の設定と詩句が類似している ことがわかる。王白淵はタゴールの詩の背景設定を用いて詩を書いたといえ るだろう。その改作の部分からみて、王白淵は模倣によって、タゴールの詩 と同じ雰囲気を出すように創作の練習をしながら、詩の後半においては『蕀 の道』の詩に一貫しているテーマを描いた。まず、『蕀の道』の詩によく見 られる春に咲く花と胡蝶の描写は、美と生命の讃美と考えられる。次の三句 は、様々な解釈ができる。もちろん、単純に懐郷の気持ちを描いたとも考え られるが、『蕀の道』の詩と彼の文章などを合わせて考えれば、永遠の魂の 故郷への憧れを表現したと読み取れる。さらに、タゴールが西洋の文明を批 判し、アジアの文明の価値を唱え、王白淵が彼を「東方主義の詩人」と呼ん だ 55ことを踏まえれば、「東の方から涼しい風が吹いてくる」という描写は タゴールへの敬慕や、アジア文明の再生を描いたと解釈できる 56。そして、家 路にいつたどり着くのだろうという思いは、いままで忘れてきた、懐かしい 母親であるアジアの文明への回帰を期待していると考えられる。

上述したように、この詩の中に用いられている自然風物も全て普通名詞で あり、背景となっている自然風景は時空を特定できないものである。王白淵 は本当に日の暮れた森の中で彷徨った実体験を描写したのではなく、郷愁と 前途に対する不安な心情を、春の夕方の森のなかに孤独に歩き続けているよ うに描写したと読み取れる。すなわち、本当の風景ではなく、概念としての 風景である。このように王白淵はタゴールの詩を通して、詩を書くことを学 んだといえよう。

しかしながら、この例からもわかるように、王白淵が読んだのは日本語に 翻訳されたタゴールの詩であるため、王白淵の詩作が受けたタゴールの影響 には、あくまでも日本におけるタゴールの翻訳と理解が介在していると考え られよう。

(18)

おわりに

以上みてきたように、台湾初期近代詩の創作は、異なる言語を媒介にして、

異なるルートからタゴールを受容したことが指摘できる。

楊雲萍と楊華の中国語詩の創作からわかるのは、台湾初期白話詩は翻訳、

模倣、改作などを通して、まず言語使用の面において、白話文の使い方を掴 もうとし、さらに文学創作の面において、漢詩の規律から抜け出し、新しい 文体である近代詩の書き方を模索したということである。その過程において、

特に中国白話詩を受容する際に、間接的にタゴールを受容したということが 考えられる。一方、王白淵の日本語詩の創作からは、彼がいかに日本語に翻 訳されたタゴールの詩文などを通して影響を受けたかがうかがえる。思想の 面のみならず、詩の創作について、特に詩における背景の設定や雰囲気の創 出、言葉と概念の運用などにおいて、タゴール詩との関連性が見受けられる だろう。

このように、台湾初期近代詩は日本統治期に始まったため、中国語や台湾 語、日本語など異なる言語による創作が試みられ、まさにそのような多様な 創作言語により、当時の東アジアにおけるタゴールの受容を、異なるルート を通して再受容することが可能になったと考えられよう。一方、中国語で創 作された詩には、日本の俳句やタゴールの詩、中国の小詩などにおける複雑 な影響関係が絡んでいることから、台湾の近代詩が出発した当初からこのよ うな重層的な影響関係の文脈の中におかれていたことがうかがえるだろう。

これは、台湾近代詩が発展する過程において、絶えず見受けられる現象であ り、例えば 1930 年代に日本語を通してモダニズムを受容した背景にも、こ のような重層的な影響があったと考えられる。

日本統治下の 1920 年代に始まった台湾近代詩は、出発した当初から中国 および日本で先に発展した近代詩の作品を手本として、創作が試み始められ たのである。本論文では、そのような状況に置かれた台湾近代詩が、いかに して東アジアにおけるタゴールの影響という文脈の中からその詩作を受容し、

台湾自身の近代詩創作を進めたのかを分析した。台湾近代詩の発展を解明す るには、さらに内部からの問題や同時代の台湾近代詩との対話関係を考察す

(19)

る必要がある。これについては、今後の課題にしたい。

1 本論文は 2009 年 11 月 17、18 日に台湾中央研究院で開催された「欧亞文化 語境中的現當代漢語詩学学術研討会」において「東亞中的泰戈爾:從 1920 年代的台灣現代詩談起」で口頭発表した内容に加筆修正したものである。

2 中島岳志「タゴール、現る——大正初期の『タゴール熱』と初来日を巡って」

『大倉山論集』第 55 輯、2009 年、224 頁。

3 1916 年 5 月、1917 年 2 月、1924 年 6 月、1929 年 3 月と同年 5 月である。我 妻和男『タゴール』、講談社、1980 年、6 頁を参照。

4 莫渝「無限寛広的遐思——タゴール『新月集』『飛鳥集』読書筆記」、タゴー ル著/鄭振鐸訳『新月集・飛鳥集』の序文、台湾桂冠図書、2004 年、12 頁。

5 秋吉久紀夫「台湾の孤魂の詩人楊華——1930 年代中国文学の一齣」『文学論 輯』第 30 号、1984 年。李魁賢「楊華詩中の憂患意識」『詩的見証』台北県 立文化中心、1994 年。許俊雅「『薄命詩人』楊華及其作品」『台湾文学散論』

文史哲出版社、1994 年。唐顥芸「楊華の白話詩における『古典』と『現代』

の影響」『現代中国』79 号、2005 年。

6 柳書琴『荊蕀之道——台湾旅日青年的文学活動与文化抗争』台湾聯経出版社、

2009 年。橋本恭子「尋找霊魂的故郷:王白淵日本時期的思想形成——以『荊 蕀之道』為主」莫渝編『王白淵 荊蕀之道』台湾晨星出版社、2008 年。唐 顥芸「王白淵の東京留学について」『日本台湾学会報』第 10 号、2008 年 5 月。

7 器人は江夢筆の筆名である。

8 『人人』第 1 号、人人雑誌発行所、1925 年 3 月、1 頁。本論文では『台湾新 文学雑誌叢刊』第 2 巻、東方文化書局復刻本、1981 年を参照した。

9 R. Tagore, The Gardener, London: Macmillan and CO., Limited, 1914, p.

100.

10 楊雲萍「『人人』雑誌創刊前後」『台北文物』第 3 巻第 2 期、1954 年 8 月。

本論文では『日拠下台湾新文学明集 5・文献資料選集』に収録されたものを 参照した。「『人人』雑誌創刊前後」『日拠下台湾新文学明集 5・文献資料選集』、

台湾明潭出版社、1979 年、328 頁。

11 「『人人』雑誌創刊前後」『日拠下台湾新文学明集 5・文献資料選集』、台湾明 潭出版社、1979 年。

12 『人人』第 2 号、1925 年 12 月、人人雑誌発行所。本論文では『台湾新文学

(20)

雑誌叢刊』第 2 巻、東方文化書局復刻本、1981 年を参照した。

13 詩の分析については、唐顥芸「日本統治期における楊雲萍の詩——白話詩と 日本語詩集『山河』を中心に——」日本台湾学会報第 9 号、2007 年を参照。

14 謝冰心「繁星」『晨報副鐫』1922 年 1 月 1 日から 1 月 26 日に掲載された。

本論文では卓如編『冰心全集』第 1 冊、2012 年に収録されたものを参照した。

15 原文は以下の通りである。「在這譯本沒出版以前,中國的詩壇上已先受着他 的影響了。因為已有許多人,東一首西一首的,已先譯了幾首登在日報上,或 雜誌上;也有許多人,已先讀了他的英文原本,也覺得他自由自在,不受一切 的束縛,所以便學著做。在很短時期內,能使中國詩壇上發生一種變化」。胡 懐琛『小詩研究』、商務印書館、1924 年、43–44 頁。

16 『人人』第 2 号、人人雑誌発行所、1925 年 12 月、4 頁。本論文では『台湾新 文学雑誌叢刊』第 2 巻、東方文化書局復刻本、1981 年を参照した。この詩 の創作年について、『人人』は 1824 年となっているが、1924 年の誤植だと 考えられる。

17 『人人』第 2 号、人人雑誌発行所、1925 年 12 月、5 頁。本論文では『台湾新 文学雑誌叢刊』第 2 巻、東方文化書局復刻本、1981 年を参照した。

18 もう一つの作品「灯光」は 7 位をとったが、掲載されなかったため、内容に ついては不明である。

19 詩の分析については、唐顥芸「台湾白話詩草創期における楊華とその作品——

その抒情的側面を通して——」『未名』21 号、2003 年を参照。

20 『台湾民報』141 号、1927 年 1 月 23 日。本論文では、『乱都之恋』台湾遠景 出版社、1997 年に収録されているものを参照した。

21 楊順明が楊華の本籍地にある大龍峒公学校(現、大龍小学)の卒業生記録を 調査した結果、楊華の名前を発見できなかった。ほかの学校に入学した可能 性も否定できないが、新しい資料が出ていない限り、この調査結果に従う。

楊順明『黒潮輓歌——楊華及其作品研究』春暉出版社、2007 年、22 頁。

22 楊華が施梅樵の門下に入ったこととその期間については、楊順明が二人が唱 和した漢詩を考察して推測したものである。楊順明『黒潮輓歌——楊華及其 作品研究』春暉出版社、2007 年、25 頁。ちなみに、楊華の幼少期の経歴は 不明なので、それ以前に漢学の勉強をしたかどうかは確認できない。

23 最初に発表したのは、1923 年 12 月 5 日『台南新報』に掲載された「牡丹菊」

(5 首)と「蝴蝶蘭」、「題画牡丹」だった。羊子喬編『楊華作品集』春暉出 版社、2007 年、130–131 頁。

24 『日本統治下の民族運動(下巻)——政治運動篇』風林書房、1969 年、883 頁。

(21)

ちなみに、本書は台湾総督府警務局刊行した『台湾総督府警察沿革誌』第 2 篇「領台以後の治安状況」(中巻)の復刻版である。

25 蒋渭水の家に籍をおいたことは呂興昌「引黒潮之洪濤環流全球——楊華詩解 読」(『台湾文芸』新生版第 3 期、1994 年)において最初に言及された。ち なみに楊順明はその期間を 5 か月としている。楊順明『黒潮輓歌——楊華及 其作品研究』春暉出版社、2007 年、28 頁。

26 秋吉久紀夫「台湾の孤魂の詩人楊華——1930 年代中国文学の一齣」『文学論 輯』第 30 号、1984 年。李魁賢「楊華詩中の憂患意識」『詩的見証』台北県 立文化中心、1994 年。許俊雅「『薄命詩人』楊華及其作品」『台湾文学散論』

文史哲出版社、1994 年。唐顥芸「楊華の白話詩における『古典』と『現代』

の影響」『現代中国』79 号、2005 年などを参照。

27 秋吉久紀夫「台湾の孤魂の詩人楊華——1930 年代中国文学の一齣」『文学論 輯』第 30 号、1984 年。

28 「黒潮集」50 番と「絮語」45 番の比較については、唐顥芸「楊華の白話詩に おける『古典』と『現代』の影響」『現代中国』79 号、2005 年を参照。

29 当時、台湾語で書かれた文が台湾話文と称されていた。

30 このことについて、秋吉久紀夫「台湾の孤魂の詩人楊華——1930 年代中国 文学の一齣」が最初に言及した。そのような詩は、「黒潮集」に 1 首、「心絃」

に 9 首、「山花」に 3 首があると思われる。唐顥芸「楊華の白話詩における『古 典』と『現代』の影響」『現代中国』79 号、2005 年を参照。

31 『小説月報』第 15 巻第 1 号、商務印書館、1924 年。

32 『南音』第 1 巻第 8 号、南音発行社、1932 年 6 月。本論文では『台湾新文学 雑誌叢刊』第 1 巻、東方文化書局復刻本、1981 年を参照した。

33 このような詩は「晨光集」に 13 首あると思われる。唐顥芸「楊華の白話詩 における『古典』と『現代』の影響」『現代中国』79 号、2005 年を参照。

34 許俊雅「『薄命詩人』楊華及其作品」『台湾文学散論』文史哲出版社、1994 年、

165 頁。

35 原文は以下の通りである。「(前略)内容非常的薄弱、形式上的体格、是受了 氷心女士春水集的影響、像這種的体格、在日本短歌的文学史上頗有相当的価 値、如短歌、俳句、川柳等々、我們這台湾経過了這楊花氏紹介了後大有影響 於台湾詩歌的建設、也是値得注目的一件的作品(後略)」。HT 生「詩歌的批 評及其問題的二、三」『台湾文芸』第 2 巻第 4 号、1935 年 4 月、102 頁。本 論文では『台湾新文学雑誌叢刊』第 1 巻、東方文化書局復刻本、1981 年を 参照した。

(22)

36 許俊雅「『薄命詩人』楊華及其作品」『台湾文学散論』文史哲出版社、1994 年、

164 頁。

37 原文は以下の通りである。「有人說:這樣的小詩,是受着日本短歌的影響而 始產生的。便是於民國十年,周作人做了一篇「日本的詩歌」介紹些日本的短 歌到中國來;這時候中國的新詩,方在勃興的時代,將舊的格式,一律打破了,

偶然見了外來的一種新的格式,覺得總是好的,盡力的去學;所以日本的短歌,

一到中國來,能使中國的詩壇,在很短的時間內,發生很大的變化。於是中國 的小詩乃盛行了」。胡懐琛『小詩研究』、商務印書館、1924 年、38 頁。

38 原文は「日本短歌」だが、周作人が紹介したのは短歌だけではなく俳句など もあったため、ここは「短歌」そのものではなく、「短い詩歌」という意味 だと理解し、訳した。

39 周作人「日本的詩歌」『小説月報』12 巻 5 号、1921 年 5 月 10 日。本論文では、

鍾叔河編『周作人散文全集』広西師範大学出版社、2009 年に収録されたも のを参照した。

40 周作人「一茶的俳句」『小説月報』12 巻 11 号、1921 年 11 月 10 日。本論文 では、鍾叔河編『周作人散文全集』広西師範大学出版社、2009 年に収録さ れたものを参照した。

41 周作人「日本的小詩」『晨報副鐫』1923 年 4 月 3 日。本論文では、鍾叔河編『周 作人散文全集』広西師範大学出版社、2009 年に収録されたものを参照した。

42 丹羽京子「タゴールの短詩——日本との関連から見る短詩の変容とその受 容——」『大倉山論集』第 58 輯、2012 年 3 月。

43 王白淵「我的回憶録(四)——象牙塔裡之美夢」『政経報』2 巻 1 号、1946 年 1 月 10 日。この文章の中で、王白淵はタゴール訪日の年を 1926 年と書い ているが、記述の間違いだと考えられる。

44 1926 年 8 月 29 日に書かれて、女子師範校友会誌第 6 号、1928 年 12 月 5 日 に収録された。小川英子(毛燦英)/板谷榮城(英紀)「盛岡時代の王白淵 について」咿啞之會編『台湾文学の諸相』、綠蔭書房、1998 年を参照。

45 柳書琴『荊蕀之道——台湾旅日青年的文学活動与文化抗争』台湾聯経出版社、

2009 年。橋本恭子「尋找霊魂的故郷:王白淵日本時期的思想形成——以『荊 蕀之道』為主」莫渝編『王白淵 荊蕀之道』台湾晨星出版社、2008 年。唐 顥芸「王白淵の東京留学について」『日本台湾学会報』第 10 号、2008 年 5 月。

46 王白淵「我的回憶録(三)——被分裂的民族」『政経報』第 1 巻第 4 号、

1945 年 12 月 10 日。

47 王白淵「我的回憶錄(三)——被分裂的民族」『政經報』1 卷 4 號、1945 年

(23)

12 月 10 日。この中で、王白淵は『人間文化の出発』を工藤好美の著作とし たが、筆者の調査によると、王白淵が読んだのは工藤直太郎の書籍である。

唐顥芸「王白淵の東京留学について」『日本台湾学会報』第 10 号、2008 年 5 月を参照。

48 柳書琴『荊蕀之道——台湾旅日青年的文学活動与文化抗争』台湾聯経出版社、

2009 年。橋本恭子「尋找霊魂的故郷:王白淵日本時期的思想形成——以『荊 蕀之道』為主」莫渝編『王白淵 荊蕀之道』台湾晨星出版社、2008 年を参照。

49 謝春木『蕀の道』の序文。『蕀の道』久保庄書店、1931 年。本論文では、河 原功編『台湾詩集』緑蔭書房、2003 年に収録されている復刻版を参照した。

50 王白淵「我的回憶録(四)——象牙塔裡之美夢」『政経報』2 巻 1 号、1946 年 1 月 10 日。

51 「晩春」に「高砂の島」「中央の連山」「濁水の溪」という句があり、それぞ れ台湾島、台湾の中央山脈、濁水溪を表現している。このような場所を特定 できる名詞は「晩春」のみで、ほかの詩には全くなかった。

52 橋本恭子、前掲論文を参照。

53 王白淵「詩聖タゴール」『蕀の道』久保庄書店、1931 年、84 頁。本論文では、

河原功編『台湾詩集』緑蔭書房、2003 年に収録されている復刻版を参照した。

王白淵が自分で訳したのか、あるいはどこから訳文を引用したのかは不明で ある。ちなみに、訳文の最後に「笛を吹いている」と訳された部分は、原文 では「琴(lute)を弾いている」。参考のために、原文は以下のようである。「The day is no more, the shadow is upon the earth. It is time that I go to the stream to fill my pitcher. / The evening air is eager with the sad music of the water. Ah, it calls me out into the dusk. In the lonely lane there is no passer-by, the wind is up, the ripples are rampant in the river. / I know not if I shall come back home. I know not whom I shall chance to meet.

There at the fording in the little boat the unknown man plays upon his lute.」

54 『蕀の道』久保庄書店、1931 年、41 頁。本論文では、河原功編『台湾詩集』

緑蔭書房、2003 年に収録されている復刻版を参照した。

55 王白淵「我的回憶録(四)——象牙塔裡之美夢」『政経報』2 巻 1 号、1946 年 1 月 10 日。

56 柳書琴『荊蕀之道——台湾旅日青年的文学活動与文化抗争』の第三章第二節 では、王白淵の東方主義についての考えが詳しく論じられている。

(24)

ModernPoetryinTaiwanandtheReceptionofTagore

Hauyun T ang Keyword: Taiwan literature, Modern Poetry, Tagore

要約

本論文透過楊雲萍和楊華的中文詩以及王白淵的日文詩,來看台灣初期近代 詩如何在 1920 年代東亞的泰戈爾熱潮中,直接或間接地接受到泰戈爾的影響。

在序章裡先論述 1920 年代泰戈爾如何在中國及日本掀起熱潮。第一章分析『人 人』雜誌中,楊雲萍的泰戈爾詩翻譯以及小詩創作。第二章討論楊華的小詩如 何受到中國小詩的影響,以及小詩和泰戈爾詩的關係。第三章考察王白淵寫詩 的契機和泰戈爾的關係,以及王白淵的詩如何受到泰戈爾影響。

参照

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