著者 湯本 豪一
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 39
ページ 62‑68
発行年 1987‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011009
はじめに漢では当初、半両銭がつかわれていた。半両銭はそもそも秦の統一貨幣であったが、漢になってもひきつづきつかわれたのである。本来、その名の示す通り半両(十一一銑)の重量を有する貨幣であったが、秦時代にすでに軽量化、小型化の傾向が散見される。この傾向に拍車をかけ半両銭を完全に名目貨幣化したのが漢初の通貨政策である。すなわち、漢興(中略)為秦銭重難用更令民鋳銭s史記』平準書第八)と民間での貨幣鋳造を認めるのである。なぜこのような政策をおこなったかについては諸説があるが、何はともあれこの政策により半両銭の小型化が決定的となる。その後いく度かの変革をおこなうが、漢代の半両銭は例外なく半両の重量をもたない名目貨幣なのである。文帝五年、漢代最後の形式の半両銭がつくられる。四鉄半両と
八研究ノートV
法政史学第三十九号三銑銭発行に関する疑点にっ
にとってかわられたことに加え、半両銭と五鉄銭という漢代左代 ることがなかった。その一つの理由は、わずか一年ほどで五鉄銭 銭は重要な意味を持つ貨幣であるにもかかわらずあまり触れられ 貨幣政策は五鉄銭へとひきつがれることとなる。このように三銑 して、三銑銭鋳造は漢代貨幣史上の大変革といえよう。この実質 ある。それまで流通していた半両銭が名目貨幣であったことから との記述でも知られるように、銭文と重量が同じ実質貨幣なので S史記』平準書第八)更鋳三銑銭文如其重 る。三銑銭は、 のであるが、これにかかわって新たにつくられたのが一一一銑銭であ この四鉄半両は武帝の時代までながくつくられ、広く流通した 半両といわれている。 にもかかわらず、銭面には半両と鋳出した貨幣なので一般に四銑 とあるように実質は四銑、すなわち半両の三分の一の重量である s史記』平準書第八)乃更鋳四銑銭其文為半両 いわれるものがそれで、
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一 一
三銑銭について考察するに際し、基本的作業として、その発行年代をどのように見るかという問題がある。すなわち「史記』平準書の記述によれば、武帝の元狩三年に、令縣官鎗半両銭更鋳三銑銭文如其重とあり、また同四年には、三銑銭軽易姦詐乃更詰諸郡国鋳五銑銭とある。これに対して『漢書」武帝紀では、建元元年に、行三銑銭同五年に、罷三銑銭行半両銭元狩五年に、罷半両銭行五銑銭と記されているのである。平準書によれば半両(四鉄半両)銭にかわって一一一銑銭がつくられ、三銑銭にかわって五銑銭がつくられたという順序が成り立つのであるが、武帝紀の記述にしたがえば、半両(四鉄半両)銭l↓三鉄銭l↓半両(四鉄半両)銭l↓ 表する二つの貨幣のはざまにあって流通貨幣としての意義はほとんど見い出せなかったためであろう。しかしながら史書に記された三鉄銭発行および半両銭。五鉄銭との関連性についていくつかの疑点が目につくのである。とりわけ実際の貨幣と記述された事項を比較検討する時、その感を深くする。それらを取り上げ考察を進めてふたい。1三銑銭の発行年代
三銑銭発行に関する疑点について(湯本) 五銑銭なる図式となる。両者の不一致については加藤繁氏の研究によって解明されたと(1)い』えよう。氏の論拠は注に譲るが、氏は名目貨幣である四緋・半両から三銑銭へと移行したのに再び四鉄半両にもどし、その後に五銑銭を発行するという「漢書』武帝紀第六の記述に疑問を呈し、その記述が『漢書」編纂の時の錯誤によるものであることを立証した。すなわち四鉄半両、三銑銭、五銑銭の関係は史記の記述が正しいのである。本論もこのような前後関係に立脚した上で三銑銭の考察を行なうものとする。
2変造防止対策にみる矛盾
はじめに、元狩一一一年の三銑銭及び同時につくられた皮幣と白金についての「平準書」の記述をゑてみたい。(2)自孝文更造四鉄銭至是歳四十餘年従建一工以来用少縣官往往即多銅山而鋳銭民亦問盗鋳銭不可勝数銭益多而軽物益少而貴有司言日古老皮幣諸侯以聰享金有三等黄金為上白金為中赤金為下今半両銭法重四銑而姦或盗摩銭裏取錆銭益軽薄而物責則遠方用幣煩費不省乃以白鹿皮方尺縁以藻績為皮幣直四十萬王侯宗室朝観聰享必以皮幣薦壁然後得行又造銀錫為白金以為天用莫如龍地用莫如馬人用莫如亀故白金三品其一日重八両圏之其文龍名日白選直一一一千二日重差小方之其文馬直五百一一一日復小糒之其文亀直三百令縣官鉗半両銭更鋳三銑銭文如其重盗鋳諸金銭罪皆死
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S史記」平準書)さて、このうち三鉄銭の鋳造理由については四銑銭半両の盗鋳や変造が横行したことをあげている。そもそも四侠半両は銅・錫を用い、鉛や鉄を混ぜないという条件の下に、令民縦得自鋳銭s史記」平準書)と民間での鋳銭を認めるのである。しかし弊害が出てきたために景帝時代に、定鋳銭偽黄金棄市律s漢書』景帝紀)と鋳銭を禁じた。だが法を犯して鋳銭する者があとをたたず民亦間盗鋳銭不可勝数という状態になってしまう。加えて、縣官往往即多銅山而鋳銭なることも行なわれたため当然のことながら、銭益多而軽と貨幣の素乱を引きおこすこととなる。以上は鋳銭によって利を得ようとした人々の行為であるが、これとは別の方法で利を得ようとする人たちもいた。それが貨幣の変造であり、一般的には銭をけずるという方法が用いられた。まことに姑息な方法だが、それだけに盗鋳にくらべ、だれにでも簡単にできるのである。これによっても銭は軽小化していった。しかし為政者も変造に対して決して無策でいたわけではなく、その防止策として郭をつげた四鉄半両を発行するのである。初期の四鉄半両は無郭であったが、(3)武帝時代に郭がつけられる。郭をつげることにより周縁をけずりとることはできなくなった。しかし、これによって変造は防げた 法政史学第三十九号
とかいうと、決してそうではなかったのである。別の変造を行なうのである。すなわち、郭は銭の表面にだけ施され、裏面は平らであることに目をつげ、周縁がけずれなければ裏面をけずれということになる。この方法が用いられたことは、今半両銭法重四銑而姦或盗摩銭裏取鋳銭益軽薄而物貴なる記述によっても明らかである。ここにおいて「薄」という言葉がはじめて用いられるのであるが、これは「盗摩銭裏」なる行為によってもたらされた結果に他ならない。以上のような状況の下に三銑銭がつくられたのであるが、四鉄半両が変造防止のために郭がつけられたことから考えても、三銑銭にも当然変造防止の対策がとられるべきである。とりわけ三銑銭鋳造の時点においては「盗摩銭裏」具体的な変造方法さえもわかっているのである。さて、実際はどうであったかというと、新しくつくられた三銑銭には変造に対する対策がふられないのである。裏而盗摩を防止するには当然のことながら裏面にも郭をつけるべきである。しかし三鉄銭は表面だけ有郭という四鉄半両の形式を踏襲することとなる。この理解にくるしむやりかたは三鉄銭のあとをうけて鋳造された五鉄銭の記述に接する時、いよいよ矛盾をはらんでくる。元狩四年に、有司言一一一鉄銭軽易姦詐乃更請諸郡国鋳五鉄銭周郭其下今不可摩取鋳焉a史記」平準書)と五銑銭を鋳造する。その際、周郭其下令不可摩取錯焉 六四
と裏面の盗摩に対する処置として裏面にも郭がつげられるのである。本来ならばこの盗摩防止策は、而姦或盗摩銭裏取鋳銭益軽薄両物貴ということを三銑銭鋳造の理由としているので一一一銑銭で行なわなければならなかったはずである。最初にも記したように四銭半両から三鉄銭への移行は名目貨幣から実質貨幣への転換で、貨幣政策上の大変革である。それにしては前記の如く郭に関する疑点を有しているとともに、五銑銭へと移った、三銑銭軽易姦詐という理由も現実的でない。姦詐は銭が軽いと行なわれやすいという理由はどこにもなく、それ以前から銭の軽重にかかわらず姦詐は行なわれてきたのである。そもそも銭にそれだけの注意をはらうなら三銑銭鋳造時に裏面に郭をつけて然るべきである。以上を通観すると、三銑銭は、その鋳造においても、また廃止においても記述されている事項をそのまま受け入れることはできないのである。
まず五味銭についてふれてゑたい。五銑銭は前節でも指摘したように最初から表裏両面に郭が施され銭をけずりとることを防止し発行された。しかし盗鋳は依然としてあとをたをず、郡国多姦鋳銭銭多軽(「史記』平準書第八)なる状態であった。そこで赤側銭とよばれる種類の五銑銭を発行 3三鉢銭発行のねらい
三銑銭発行に関する疑点について(湯本) する。赤側銭とは具体的にどのような五銑銭かは諸説があり定かでないが、これも定着せず、最終的には元鼎四年に上林一一一官に鋳造権を独占させ、諸郡国で鋳た銭は全部鎖かし三官に提出させた。そして三官では良質の五銑銭を鋳造する。これによって五銑銭は貨幣としての信用をえて、その後長きにわたり安定的に流通する。すなわち良質な銭であるため盗鋳しても、計其賛不能相当S史記』平準書第八)と費用がかさ承、利益にならなかったのである。上林一一一官だけが五銑銭を鋳造し、良質を維持することにより私鋳も行なわれなくなったといえる。以上の諸政策をゑても漢の五銑銭流通促進に対する意欲が窺われる。しかし本来ならば流通させるためのねばりづよい政策は名目貨幣から実質貨幣に大変革を行なった三銑銭においてなされるべき性質のものであろう。しかし三銑銭はわずか一年ほどで、ほとんど理由にもならない理由によって五鉄銭にとってかわられる。これに郭の問題点、そして三銑銭とは対照的に五銑銭に対する為政者の積極的な盗鋳・変造防止政策を通観すると、はたして本当に三銑銭を流通させようとする意図があったのかという疑問が生ずるのである。なぜこのような不可解な政策が行なわれたのであろうか。流通させることに重点がおかれていないとしたならぱぱ、発行すること自体仁何らかの意図があったとも考えられるのである。三銑銭は四鉄半両、とりわけ有郭四鉄半両に近似していることはしばしば指摘されている。共に表面の承に郭がつけられている
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(4)のに加え、両銭とも、直径は二二・五粍を標準としているらしいのである。四銑半両は、至孝文時蕊銭益多軽s史記』平準書第八)という弊害を解決すべくとつくられた銭である。芙銭とは楡萸銭ともよばれており、軽小銭を指す。茨銭の横行は高后六年に、行五分銭(『漢書』高后紀第三)と五分銭を発行したことに起因すると思われる。五分銭とは銭径が五分であるとか、半両の五分の一、すなわち二銑四素の重量の銭とかいわれているが、とにかく小型銭であったことは疑いない。このような小型銭を発行したことにより、それまでも民間で鋳造ざれ小型化していた半両銭をより軽小化させることとなり、結局は茨銭の横行となるのである。前述のように、この萸銭を排除する目的でつくられたのが四鉄半両といえる。四銑半両は法定重量が四銑であるので一目でそれより小さいと思われる芙銭はしだいに姿を消していったであろう。元狩三年の記述をゑても「軽」とか「軽薄」とは書かれているが軽小銭を意味する「爽銭」という記述はない。またかりに元狩三年当時、蕊銭が通用していたならば銭の周囲や一袰面をけずるような姑息な手段をつかわなくとも流通している規定の重量の銭を鋳潰して英銭をつくったほうが比較にならないほどの利益を得られようが、そのような事は行なわれていなかったということは芙銭が当時すでに流通していなかった証拠である。すなわち四鉄半両が発行されてからの盗鋳や変造は正規の四鉄半両として使える程度に軽量化することによって利を得る方向にかわったといえる。故に盗鋳や変造が横行したとし ても、その重量が正規の銭の半分(二銑)ほどに軽いとは思われない。そのような盗鋳銭や変造銭が流通していたという状況のもとに名目貨幣から実質貨幣への転換が行なわれるのであるが、当然それら盗鋳銭や変造銭についても配慮する必要があったと思われる。三鉄銭をわざわざ四鉄半両と同じような規格でつくったのもその現われではなかろうか。四銑半両に似た特徴を持ち、大きさも同じ銭が三銑であるならば今までの四銑半両、とりわけ正規より重量を軽くした盗鋳銭や変造銭は必然的に三銑と同様の価値となるのではあるまいか。すなわち三鉄銭は流通させることよりも発行することに意味があり、それによって四銑半両の三銑銭化、いいかえれば正規の重量により価値を決める実質貨幣化をねらったものであろう。長い間流通していた四銑半両は新銭が発行されたからといってすぐに流通段階から姿を消したとは考えられない。ある期間は新銭とともに使われていたにちがいない。その際、三銑銭の発行を経ずに五銑銭を発行したならば四銑半両は四銑という価値を有することにたるであろう。しかし盗鋳銭や変造銭をも含めた四鉄半両の四銑化は名目貨幣から実質貨幣へという政策とは相入れないものである。これらを解決し、実質貨幣化政策を進めるには四鉄一半両に対する対策を抜きには考えられない。このことが三銑銭をつくった要因であろう。そして五銑銭こそが本来流通されるべくつくられた貨幣であり、それ故に裏面に郭を施し変造防止を行なったり、様々な流通促進政策を行なうのである。 六六
名目貨幹から実質貨幣への政策変更に際してとられた処置は決 してその場限りのものではなく、様々な配慮がなされていたので ある。三銑銭発行も本格的実質貨幣としての五銑銭発行に先だっ て行なわれた政策で、五鉄銭が実質貨幣として流通するための基 礎がための役割を担っていたのである。一一一鉄銭は一般に受け入れ られず失敗したので五銑銭を発行したのではなく、また姦詐しや すいという理由による五鉄銭発行でもなかったのである。三銑銭 は四鉄半両と五鉄銭との間に鋳造されなければならない必然性を 持った貨幣であり、実質貨幣化政策上重要な意味を持っていたと いえる。その意味から、三銑銭は特異な性質を有していた貨幣と
いうことができよう。三銑銭については、あまりにも史料が乏しく、実態も明らかで
ないといえる。ここに記した疑点と三銑銭の性格づけは、あるいは窓意的推察 が含まれているかも知れない。しかし一一一銑銭にいま一度焦点をあ てて、その性格を解明する必要があるのではなかろうか。少なく とも単に四鉄半両と五銑銭との間に短期間だけつくられた貨幣と いう外面的解釈からは抜け出す必要があろう。
註
(1)加藤繁「三銑銭鋳造年分考」〔『支那経済史考証』上s東洋文庫論
叢』一一一四の上、昭和一一七年)〕による。 おわりに’一一鉄銭発行に関する疑点について(湯本) その論旨は、平準書の一一一鉄銭の記事は同時につくられた皮幣や白金の記述と切り離すことができない。またそれらの通貨をつくった
経緯も含め記事が一貫しているのに対し、武帝紀の記述に従うと一一一 鉄銭を発行したが数年後に廃止をして、また半両銭を使用させ、そ の半両銭を廃止して五鉄銭を使わせたとなるが、今までの名目貨幣 にかわって実質貨幣を発行するという政策の大転換をはかりながら またもとの名目貨幣にもどし、その後ふたたび実質貨幣である五銑 銭にするというのは不合理で、そのようにしなければならない理由 がない。また平準書は同時代的史書なので多少の年代の相違はあっ ても、半両銭廃止、一一|鉄銭発行といった大きな事項についてはほぼ 誤りはないであろう。では武帝紀はなぜ史記と異なる順序になって しまったかというと、『史記』漢興以来将相名臣年表の武帝建元五
年に、行三分銭とある。三分銭とは半両の一一一分の一、すなわち四鉄をさす。この記事をもとに武帝紀がつくられ、建元五年に四鉄半両を行なうには、その前に別の銭がなくてはならないので一一一銑銭をそれにあてはめ、一一一銑銭の発行を武帝の即位した年(建元元年)としたのであろう。そして『史記』漢興以来将相名臣年表第十の武帝建元五年の記事は同
年表の文帝五年の、除銭律民得鋳銭の記事の下に置かれて、漢書の同年の、夏四月除盗鋳銭令更造四銑銭と同じような体裁になるはずであったものが、当時元号がなく、武帝になって元号が用いられはじめたので紀年に誤りが生じ、建元五
年の条に三分銭の記事が入れられてしまったのであろう。Iとい六七
うものである。(2)五十余年の誤りと思われる。(3)加藤繁「西漢前期の貨幣特に四蛛銭に就いて」(『支那経済史考証』上)一九一一頁(4)関野雄「中国古代の尺度について」s中国考古学研究』東京大学出版会、昭和一一一十一年)三九六頁 法政史学第三十九号 当史記平準書第八』、『史記漢興以来将相臣年表第十』は長沢規矩也解題『和刻本正史史記日』(汲古書院、昭和四十七年)を典拠とし、また『漢書武帝紀第六』、『漢書景帝紀第五』、『漢書高后紀第三』は同じく長沢規矩也解題『和刻本正史漢書H』(汲古書院、昭和四十七年)を典拠とした。 法政大学史学会評議員会の開催
昭和六十一年度、法政大学史学会評議員会が、昭和六十一年十二月一一一日(水)午後六時八○年館七階の大会議室で開催されました。出席者十五名。議題は①評議員の増員について②「法政史学」仙号の記念号特集についてなお昭和六十二年度は法政大学史学科・地理学科創設五十周年に当ります。つきましては史学科と地理学科で合同の記念行事が計画されています。史学会としても参加協力していく予定です。 六八