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屋嘉比収君のこと

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Academic year: 2021

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著者 新崎 盛暉

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 38

ページ 273‑278

発行年 2012‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00007991

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ぼくが屋嘉比収の幾つかの文章を読んで彼に関心を持ち始めたのがいつであったのか、彼との直接

的付き合いが何処から始まったのか、記憶は定かではない。少なくとも、『王野丼芳郎著作集』第三巻(学陽書房、一九九○年)の編者を任されて、解説文の

代わりに「玉野井芳郎をめぐる座談会」を思いつき、金城朝夫(農業ルポライター)、多辺田政弘(沖縄国際大学教授)、安里英子会地域の目』主宰)、屋嘉比収(那覇市企画部文化振興課市史編集室嘱託)の四人に声をかけた時からは、一緒にした仕事が、はっきりと記録にも残っている。肩書はいずれも当時のもので、一九三八年生まれの金城朝夫から、一九五七年生まれの屋嘉比収まで、約二十年の年齢差がある。『け-し風』を立ち上げた時の編集代表は、ぼくと、岡本恵徳、宮里千里、平良次子の四人だったが、屋嘉比収も編集運営委員会のメンバーの一人だったことは間違いない。第二号(一九九四年三月)の特集「沖縄戦の〈語り〉と継承」の担当者は彼で、それは当然、伊波普猷賞を受賞した「沖縄

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新崎盛暉

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彼は、戦争体験者が全人口の二割を切ったといわれる現在、戦争体験を持たない世代が戦争について考えることの意味、戦争体験を共有することの可能性、いわば、非体験世代が当事者性を獲得する

ことの必要性を追求する作業を続ける。それは、戦争体験にとどまるものではない。沖縄戦に引き続く米軍占領史においても必要な作業であった。そして今なお、沖縄は日米両国の軍事的拠点にされている。「戦争体験の継承」は、「反戦意識の形

成」とも、どこかで結びつかざるを得ない。彼は、『け-し風』第四四号(二○○四年九月)に、辺野古に座り込む四人の人たちにインタビューした「辺野古座り込み人々の思い」を書き、闘いの最前線に立っているのが、特殊な活動家ではなく、普通の生活者でありながら、当事者性をもって戦争体験・戦後史体験をとらえ返している人たちであることを描き出している。彼は、こうした一貫した問題意識に基づく物書きとしての作業を継続しながら、九州大学で博士課

程の単位を取得し、沖縄大学などで非常勤講師をしていた。こんな時、沖縄大学のどん底期から再建期まで苦楽を共にしてきたぼくの同志の一人、津波古敏子が定年を迎えることになった。彼女は、国語教育や琉球方言研究を専門分野としており、沖縄大学が、一般教養科目に、「琉球方一一一一口概説」、「琉球文化論」、「沖縄法制史」、「沖縄戦後史論」などの沖縄関係科目群を設置する段階から協力し合って 戦、米軍占一持っている。

彼は、戦垈 米軍占領史を学びなおすI記憶をいかに継承するか」(世織書房、二○○九年)と連続性を

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そこでぼくは屋嘉比君を呼んで、大学の専任教員になる意思はないのか尋ねた。大いに希望しており、他大学の教員採用公募に応募したこともあるのだが、採用に至らなかったのだと答えた。このような過程もあって、「沖縄近現代思想史」専任教員の公募が決まった。ふたを開けてみると、

応募者の中には、ぼくと以前から付き合いがある若手の研究者や面識はないが論文等は読んで評価し

ている人なども交じっていた。結局屋嘉比君に決まったのだが、多分、この時応募した諸君も、屋嘉比収の採用には納得してくれたのではないかと思う。彼らもその後数年でさまざまな大学にそれぞれ職を得ているようだ。こうして二○○四年四月、屋嘉比収は、津波古敏子と入れ替わりに沖縄大学の

専任教員になった。現在の大学は、多様な学生にきめ細かく対応しながら、地域社会にもその存在価値を示さなければならない。そのような大学運営には、教員と事務職員の協働作業が必要である。ところが、教員、とくに過去の大学闘争などには全く関心のなさそうな、大学を研究の場としてしかとらえていないような若手の教員の中には、事務職員は自分たちの補助者に過ぎないかのような対応をする連中も少なく 思想史」かつた。 きた仲間である。この科目群設置の当初は、専任の国語教育や琉球方一一一一口の研究者は彼女一人しかいなかったが、彼女の退職時には、複数名に増えていた。そこでぼくは、彼女の代わりに、「沖縄近現代思想史」の専任教員採用について相談してみた。彼女にも、ほかの沖縄関係学担当者にも異論はな

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ない。そうした中で屋嘉比君は、就職当初から、事務職員にも好感をもたれる教員の一人であった。

ぼくはひそかに、次の時代のこの大学の中心的な担い手の一人になってくれることを期待していた。ところが就任から五年もたたない、二○○八年四月、突然屋嘉比君がやってきて、癌の再発を告げた。ぼくは彼がその五年近く前に癌を患っていたということを全く知らなかった。彼は、癌は治癒後

五年間再発しなければ大丈夫なのだが、その五年が近づいた直前に再発したと説明し、「残念です」と一一一一二て、休職の届けを出しに行った。

屋嘉比君と一緒にした仕事の一つに沖縄大学五○年史の執筆がある。『小さな大学の大きな挑戦l沖縄大学五○年の軌跡」(高文研、二○○八年)がそれである.もちろん大学の五○年史なので

学長以下十数名の編集委員会が組織され、そこでの様々な討議の結果出版されているのだが、この本の第一稿の執筆は、「I沖縄初の私立大学」、「Ⅱ学園民主化の嵐の中で」、「Ⅲ大学存続への道のり」は屋嘉比収、「プロローグ」や「あとがき」と「Ⅳ地域に根ざす大学をめざして」はぼく、

「V今も続く模索と挑戦」は山門健一が執筆している。この本は、大学の五○周年記念日である○八年六月一○日付の発行で、ちょうど屋嘉比君が病気休

職に入った直後のことであったが、彼は、先輩、知人にこの本を送っていたらしい。鹿野政直さんに高く評価してもらったことに感激して、メールで知らせてきたりしていた。

○九年一月、屋嘉比君は、かなり詳しい近況報告の手紙をくれた。抗がん剤を投与した週はほとん

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そして五月二九日、沖縄大学でシンポジウム「アジアのなかで沖縄現代史を問い直す」が行われ、屋嘉比収は生前最後の報告となった「沖縄現代史を東アジアのなかで叙述する可能性」を行った(シンポジウムの記録は、「方法としてのアジア/方法としての沖縄」研究会編「アジアのなかで沖縄現代史を問い直す』沖縄大学地域研究所、二○一○年、として出版されている)。発言者には、彼と旧知の孫歌(中国社会科学院文学研究所研究員)、陳光興(台湾交通大学教授)、鄭根埴(ソウル大学教授)などがいた。屋嘉比君は、後輩たちが彼の体調を気遣って簡易ベットまで持ち込んでいることも知らぬげに、一日愉快そうであった。シンポジウムの後の懇親会では、司会のマイクまで奪って、自分が次々に発言者を指名していた。そんな彼を見ながら、ぼくは、もしかすると彼はこのシンポジウ

ムに出るために無理して復職したのではないか、と感じていた。ぼくのそんな予感は、町田宗靖「出 認められた。 どベットから動けない状態になること、しかし次の週は家の中ではほとんど通常の生活ができる状態になること、動ける週にはこれまで書いた文章を本にする作業を少しずつ続けていること、などが書かれていた。こうしてまとめられたのが、先の「沖縄戦……」や沖縄タイムス出版文化賞正賞を受賞した『〈近代沖縄〉の知識人l島袋全発」(吉川弘文館、二○’○年)である.一○年四月、屋嘉比君は復職することになった。抗がん剤を投与しつつの復職であるため、講義の

担当は月曜日と土曜日という条件付きであった。学内には多少の異論もあったようだが、復職願いは

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会いから看取りまで」(『け-し風』第六九号)を読むことによって裏付けられた。 癌の再発以来、彼は、自分に残された時間と、自分に与えられた課題を見つめつつ、自分のなすべ きことに全力を挙げて取り組みながら、その人生を生き抜いたのである。あっぱれな生き方だったと

い塾えよ』フ。

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