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ヨーロッパキリスト教民主主義試論

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ヨーロッパキリスト教民主主義試論

その他のタイトル An essay on the European Christian Democracy

著者 土倉 莞爾

雑誌名 關西大學法學論集

巻 53

号 1

ページ 56‑116

発行年 2003‑06‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00023359

(2)

かつて西川知一は﹁キリスト教民主主義政党は︑その私有財産制の個人主義的な防衛︑共産主義に対する反対︑過

度の国家干渉に対する一般的な嫌悪などから見れば保守党である︒しかしそのほとんどが十九世紀末のカトリック教

会の社会的教義から生まれた有力な社会キリスト教派を抱えており︑⁝⁝︵中略︶⁝⁝保守党そのものであるという

一九八八年︑四頁︶︒これは︑キリスト教民主主義政党の成立過程を調べればす

ぐにわかることである︒以下において西川の所説にしたがって問題を整理して行きたい︒キリスト教民主主義政党は

大戦前はいくつかのグループに分かれていた︒すなわち︑曰キリスト教民主主義的カトリック左派︑口教会を中心

とするカトリック右派︑曰非カトリック系の保守勢力などである︒キリスト教民主主義政党の成立過程を問題とす

る時には︑こうした三つのグループがそれぞれどんなグループであったか︑なぜこれらの三つのグループが合併した Jとはできない﹂と述べた︵西川︑

ヨーロッパキリスト教民主主義試論

(3)

│  

のか︑合併にはどんな問題があったのかを明らかにすることが最も基本的なポイントである︵西川︑

ただ︑巨視的に見れば︑

ローマ教会がヨーロッパの近代政治にどのように対応していったか︑という問題が根本に

ある︒そこが原初である︒その観点から問題を摘出するならば︑その第一は一八九一年の

ム ﹄

R e r u m N n o v a r u m

であり︑この中でレオ十三世は社会問題に対する関心を喚起したのであった︒第二は一八九

﹃オ・ミリュー・デ・ソリシュテッド﹄

A u m i l i e u   d e s   s o l l i c i t u d e s

であり︑この中ではフランスのカトリック

に対して古くなった君主制を捨て︑共和制を承認するよう訴えたのであった︒この二つの回勅の﹁巻き起した感激﹂

の中でキリスト教民主主義の運動が生まれてくることになった︵西川︑

次に︑キリスト教民主主義の運動はカトリック教会との関係をどう調整するかという大きな問題を抱えていた︵西

1 0

頁︶ことを指摘したい︒たとえば︑イタリア人民党は︑少なくともその最初はベネディクト十

五世の暗黙の了解の下に︑非宗教的な政党として成立した︒第二次大戦までには非宗教性をかかげた政党はこの政党

だけであった︒しかしこの政党もやがてヴァチカンからの反撃とともに崩壊しなければならなかったのであり︑非宗

教性という問題はこのイタリア人民党の経験から考えても大変むずかしい問題であった︒キリスト教民主主義政党の

むずかしさはこの点に集中的に表現されていると言えるだろう︵西川︑ 二年の 頁 ︶

教皇庁の対応としてはピウス十二世(‑九︱︱︳八ー五八年在位︶が重要である︒冷戦における反共産主義のレトリッ

クは︑百年も前に︑社会主義者の唯物論という近代的な概念にローマカトリック教会によって早くから示されていた︒

ある意味で教会の指導者は﹁冷戦の戦士﹂であった

( K e n t ,

2 0 0 2 ,  

p .  

1 1 )

︒ピウス十二世については現在までいろいろ ﹃レールム・ノヴァール

(4)

第五三巻

の評価がなされている︒その一っは︑ピウス十二世は民主主義を認め︑カトリック教会と近代社会とを和解させよう とした教皇であるという見方であり︑もう︱つは︑カトリック教会の権威主義︑神聖政治がその頂点に達した教皇で

一九八八年︑二三頁︶︒ビウス十二世ことエウジェーニオ・パチェッリ枢機卿は︑

一九一九年のミュンヘン駐在法王大使のとき︑共産主義者から頭に拳銃を突きつけられるという体験をしていた︒彼

の反共産主義のヴォルテージは︑いやが上にも高じたはずである︒

ムッソリーニに有利な協定を結んでいる︒さらに彼は︑

ダートを結んだときの当事者であった︒コンコルダートはヴァチカンがヒトラー政権にお墨付きを与えたものと解釈 された︒親独的なピウス十二世は︑反共平和の精神ゆえにナチズムを共産主義に対する防波堤と考えていた︵渡辺︑

︱︱七頁︶︒ピウス十二世が権威主義的であり︑神聖政治を目指していたという意見はいろいろな史実 によって裏付けされている︒まず︱つはピウス十二世がムッソリーニなきあとのイタリアの政治体制としてどのよう なものを構想していたかに現れている︒ピウス十二世はポスト・ムッソリーニの政治体制として﹁ムッソリーニのい ない権威王義体制﹂を考えていた︒この点はアメリカがムッソリーニの後継者の推薦を求めてきた時︑権威主義的︑

非民王的な人間を推薦しようとしたこと︑さらにバドリオがムッソリーニを倒して実権を握った時︑ピウス十二世に

近いジエッダ

L .

Ge dd

aがバドリオに手紙を送り︑

ていることに示されている︒カトリック・アクションを支柱とした体制はポルトガルのサラザール体制であり︑ビウ ス十二世はそのような体制を考えていたと思われる︒さらにピウス十二世の権威主義的な姿勢はスペインのフランコ

体制に対する態度に示されている︒ピウス十二世が即位した直後にフランコ側の勝利が確定した︒そのときピウス十 あるというとらえ方である︵西川︑

一九三一二年七月にヒトラー政権とヴァチカンとがコンコル

カトリック・アクションをバドリオ政権の支柱としたいと申し出

一九三一年にはヴァチカンの外務大臣として︑

(5)

ニニ九ー一四

0

頁︶︒まず教皇使節がロン 二世はラジオ放送を通じて︑﹁平和という贈り物とキリスト教的ヒロイズムを飾るために神の下された勝利を祝うことのできるのは大変な喜びである﹂と述べた︒さらにピウス十二世のフランコ宛の祝賀の電報はフランコの受け取った最初の祝電であった︒次に大戦後ファシズムが敗北してフランコ体制が危機に陥ったとき︑教会を利用しようとしてコンコルダートの締結を求めてきた︒ピウス十二世はそれに応じ︑

ジャン・ムーラン亡きあと︑全国抵抗評議会

( C N R )

フランコはカトリック

︵人民共和派︶はフランス解放後追放されるべき司教のリストを用意してい

た︒そのリストにはパリの大司教を初めとして約三十人の追放されるべき人物の名前と︑解放後司教となることが望

ましい人物の名前があげられてあった︒フランス解放後︑これらの司教の追放が大きな問題となった︒ただフランス

政府はこの司教の追放を行う権限は持っていなかった︒そこでフランス政府ーード・ゴール内閣を指し︑その外相は

M R

P

のジョルジュ・ビドー

G e o r g e s B i d o u l t

1

とヴァチカンとの間で折衝がもたれた︒ビドーは︑

の議長を務め︑パリ解放後には臨時政府の外務大臣に就いて

いた︒彼が作成したと推測される七月二六日付けの覚書の中で︑﹁フランスの世論を最も憤慨させたものは︑個人の

良心という最も神聖な権利に対する占領軍とヴィシーによる攻撃に直面したフランス司教団の沈黙である﹂ことが指

摘された︒そして︑司教の辞任問題をヴァチカンとともに検討する意向が表明され︑

制の四分の一を告発するリストを作成したのである︵渡辺︑ フランスではどうであろうか︒

MRP

ダートを締結した︵西川︑

スュアール枢機卿を筆頭に追放

すべき聖職者二四名と︑逆にテアやプランシェなど司教に抜擢すべき聖職者六名の名が挙げられた︒ビドーは︑位階

カルリ

A . R o n c a l l i  

(後のヨハネニ三世︶に替り︑ビドーとの交渉が進められた︒カトリック教会は

MRP

に仲介を

(6)

期待したが︑ビドーは逆に最も強く追放を求めたと考えられている︒しかし結果は三人の司教の追放で終わった︒こ の三人も解放軍の到着以前にその任地から追われており﹁教会は追放を免れることができた﹂のである︒これが

M R

P

の力によるものか︑

R

P

と他の保守派との間で中立的な立場を取ろうとしたようであり︑この姿勢はイタリアやドイツのそれとははっき

りと対照的なものであり︑

ながら︑ド・ゴールと教会の和解という側面もある︒渡辺和行によれば︑司教団の粛正は︑大山鳴動して鼠一匹とい う控えめなものに終わった︒この時までに︑大規模な粛正を求める声も静まっていた︒ムードの変化は︑

五月九日の第二次大戦の終結を祝うミサで︑ド・ゴールがスュアール枢機卿の出迎えを受けたところにも窺うことが できる︒スュアールは︑九ヵ月前にド・ゴールがミサでの立ち会いを拒否した人物であった︒九ヵ月前の措置は︑レ ジスタンス活動家の鬱積した不満が︑ヴィシーに妥協的であったパリ大司教に向けられるのを避けるためでもあり︑

ド・ゴール自身はスュアールの過去の行為を不問に付してもよいと考えていた︒したがって一九四四年九月二

0

スュアールとド・ゴールの会見がお膳立てされ︑両者の関係の修復が図られた︒ド・ゴールは過去の話をせず未来志 向で会見に臨んだ︒大司教も既成権力であるド・ゴールに﹁服従のない忠誠﹂を約束した︒そしてド・ゴールが︑八 月二六日のパリ解放を祝うミサでの対応を説明して﹁事件﹂に遺憾の意を表明したのである

た﹂と言ったと伝えられている︵西川︑

第五三巻

ロンカルリの働きによるものかは分からないが︑

西

一九八八年︑三

0

ロンカルリは﹁わたしはゼロを一っ落とさせ

一九八八年︑二八ーニ九頁︶︒全体としてはフランスのカトリック教会は

M

MRP

は﹁カトリック党﹂ではなかったのである

MRP

の選挙における実績を問題にしたい︒

MRP

の前身である戦前の人民民主党は一九三二年に三・

六〇

0)

(7)

傾聴に値する︒ えするものが相継ぎ︑

一九三六年にニ・五%の得票率しかあげることはできなかった︒しかし︑

MRP

三回の選挙で二四・一%︑二八・‑%︑二六・五%の得票率をあげた︒ではこの人民民主党と

MRP

の差はどこから来

たのであろうか︒また一九五一年の選挙で

MRP

の得票率は︱ニ・五%に下がってしまった︒ではなぜこのとき

M R

P

はその票の半分も失ってしまったのか︒これら二つの問題は

MRP

の研究を行うとき︑必ず触れなければならない

問題である

まず︑戦前の人民民主党と比較して︑戦後の

M R

P

が大きく躍進したことの説明は︑①

MRP

が何よりもカト

リック政党であったこと︑②

MRP

がド・ゴールの政党と思われていたこと︑③昔の保守勢力が力を失い︑

MRP

を共産主義に対する最後の砦と考えたこと︑④戦争とレジスタンスの中で︑

るようになり︑それを

MRP

に期待したことなどによって行われる︒その中で③の説明は最も有力であった︒

六年に人民民主党が獲得したニ・六%に保守派のそれを合計すれば︑十年後に人民共和派が獲得する二五・三%となる

RPF 

︵フランス国民連合︶が結成されると︑

一九八八年︑三九頁︶という説は フランスの選挙民が社会の変革を求め

MRP

からもそれに参加するものが出てきた︒

MRP

が二重党籍を禁止すると︑その中から国会議員を含む多くのものが

RPF

に移ってしまった︒その後も保守派に鞍替 からである︵西川︑

西

一九五一年の選挙では

RPF

や他の保守派から立候補したものが二二名にも達したとされる︒

MRP

と議員はその支持を維持するために︑その党員の希望よりももっと保守的な姿勢をしばしば

採用したが︑しかし彼らはその支持者が満足するほど右に移動しなかった︵西川︑ 一九四六年の

(8)

西川は一九七七年に刊行された﹃近代政治史とカトリシズム﹄において︑以上の問題の後景を深く論及していた︒

以下︑それらを追跡してみたい︒ヨーロッパ諸国がフランス革命やナポレオン時代を経て王政復古の時期に入った時︑

カトリシズムをめぐる政治状況には二つの類型があった︒その︱つは啓蒙的絶対主義の立場から﹁国教化政策﹂を採 る国家であり︑もう︱つはカトリック教会と同盟して反革命の路線を進める国家︑

の政策を採る国家であった︒﹁国教化政策﹂を最も典型的な形で推進したのはオーストリアのマリア・テレジア︑

ヨーゼフニ世であった︒この政策はヨーゼフ主義とも呼ばれている︵西川︑

との同盟﹂の政策を採る国家を見てみると︑

リック教会が反革命のための貴重な歴史的遺産であることを教えた︒その結果︑反革命的な勢力はカトリック教会と 同盟することによって︑その反革命を推進しようとした︒この政策が﹁王冠と祭壇との同盟﹂の政策であった︒この 政策を採用した代表的な国家が︑革命的動乱の中心となったフランスであったことは当然であろう︒そのほかサル

ディニア︑両シチリア︑

て︑アンシャン・レジームヘの復帰は一層徹底していた︵西川︑

の二つの類型は二つの方向に崩れていった︒その︱つは国教化政策を堅持していた国家の中から︑遅まきながら﹁王 冠と祭壇との同盟﹂の政策へと転換する国家が出てきたということであり︑もう︱つは自由主義的な国家が出現して

関法

第 五 三 巻 一 号

0

年ごろからこ ローマ教皇領などがその政策を採っていた

西

いわゆる﹁王冠と祭壇との同盟﹂

フランス革命は従来の啓蒙主義者を含めた革命的な勢力に対し︑

カトリック教会は革命前にもっていた特権や所領のすべてを回復することはできなかった︒フランスでは 無制限なアンシャン・レジームヘの復帰は﹁王冠と祭壇との同盟﹂をもってしても不可能だったのである︒その点サ ルディニアなどイタリアで﹁王冠と祭壇との同盟﹂の政策を採った国では︑もともと国教化政策が弱かった故もあっ

二貝︶︒次に﹁王冠と祭壇

(9)

︱つは修道会︑特に無認可修道会の経営する学校に対する攻撃であった︒政府がそのために取ったのはイエズス会を

含む無認可修道会そのものを政令によって解散させようとした措置(‑八八

0

年 ︶

リック教会の強い抵抗にあって十分な成果をあげることができず︑政府のこの方向での世俗化の試みは不成功に終

一九七七年︑九頁︶︒もう︱つは公立学校の世俗化であった︒まずカリキュラムの世俗化が

行われ︑これまでの﹁道徳的︑宗教的教育﹂は﹁道徳的︑市民的教育﹂に改められた(‑八八二年法︶︒ただし強い

反対にあって政府は﹁神に対する義務﹂を施行令に挿入することを約束しなければならなかった︒また修道会が公立

学校の初等教育に携わることは禁止された(‑八八六年法︶︒さらに一連の教育監督機関から司祭が排除され︑教育

の世俗化は少なくとも公立学校の面では成功したのであり︑それは初等教育の無償化(‑八八一年法︶︑義務化︵一

八八二年法︶とともにフランスの教育制度の三本の柱の一っとなったのである︵西川︑ わってしまった︵西川︑ の世俗化を精力的に取り上げた︵西川︑ ルギーについては︑あとで詳論する︒ きたということである︵西川︑

六 一

一九七七年︑七頁︶と言うことが可能である︒ペ 一九七七年︑四頁︶︒カトリック教会が大きな力を持っていたベルギーでは︑近代国

家において︑﹁王冠と祭壇との同盟﹂の政策以上にカトリック教会に有利な結果をもたらし︑カトリック教会の事実

上の支配を実現させたということである︒その意味でベルギーは︑近代社会の諸原則を︑キリスト教的︑カトリック

的であることを止めないで承認し︑実践している唯一の国︵西川︑

フランスでは︑反教権主義が︑共和派が権力を握り﹁共和派のいない共和制﹂に終止符をうった一八七九年ごろか

ら一八八

0

年代の半ばすぎにかけて︑集中的に現れてきた︒このフランスの反教権主義はその﹁基礎石﹂として教育

一九七七年︑八頁︶︒共和派は二つの方向から教育の世俗化を行おうとした︒

であった︒しかしこの措置はカト

1 0

頁 ︶

(10)

はそのために教皇の不可謬性を称揚する︵マルティモール︑

第五一二巻一号

フランスの キリスト教民主主義の歴史を考察する時︑大事な鍵概念はウルトラモンタニズムである︒ウルトラモンタニズムは︑ローマ教皇の側から出たものではなく︑各地のカトリシズムの中から生まれて来たものであった︒ウルトラモンタニズムは︑復古主義者によっても︑断固未来に目を向けようとする者によっても提唱された︒フランスで︑復古と言えば︑神権君王制の信奉者ボナルド

Bo na ld

(一七五四ー一八四

0 )

が一七九六年から一八三

0

年にかけてこれを称揚

したし︑ジョゼフ・ド・メーストル

Jo se ph de   Ma is tr

e  (一七五四ー一八ニ︱)はそれ以上に大きい成功を収め︑

八一九年に出版されたその

ンス革今叩の原因の︱つであった︒国家と教会の復興は︑教皇を中心にしてはじめて達成できるのであり︑メーストル

ウルトラモンタニズムの本格的な動きはラムネ

F . d e  L am en na is

 (一七八ニー一八五四︶から生まれてきたものと考

えなければならない︒彼の著書﹃市民的秩序との関係から見た宗教﹂De

l a   r e l i g i o n o   c ns id er ee   da ns   s e s   r appo rt s  av ec ' o   l r d r e   c i l v i l  

(一八二六年︶はウルトラモンタニズム宣言として︑

にも大きな影響を与えた︒各地のウルトラモンタニズムの動きは︑まずフランス革命とナポレオン体制のもとにおけ

るカトリック教会内部の大きな変動の結果生まれて来たものであった︒第一に︑この時代のカトリック教会はそれま

でその支えとなっていた王冠を失い︑

に︑この時代には司教座の多くは空席となり︑その結果下級司祭はその指導をローマ教皇に求めなければならなく

なったこと︑第三に︑

フランスばかりでなく︑ベルギーやイタリア

ローマ教皇を残された唯一の権威として仰がなければならなかったこと︑第二

フランスではガリカニズム︑ドイツでは司教中心主義の立場からローマ教皇に対してしばしば

自立的な動きを示していた勢力が一掃されたことなど︑カトリック教会の内部にはウルトラモンタニズムの発展に好 関法

﹃教皇論﹂はきわめて大きな影響を及ぼした︒メーストルによれば︑ガリカニズムはフラ

(11)

と︑それに付属する﹃誤謬表﹄

Sy ll ab us

である︒この﹃誤謬表﹄は近代社会の基本的な原則を八

0

の項目にまとめ 一八六四年の回勅﹃クワンタ・クーラ﹄

Qu an ta cu ra  

一八五四年の聖母無原罪懐胎宣言である︒こ

各地のウルトラモンタニズムの動きに対して︑最初に好意を示したローマ教皇はレオ十二世であり︑最初にそれを

支援しようとしたのはグレゴリウス十六世

Gr eg or iu

X

s

V I

であった︒そしてそれをカトリック教会の公式の路線と

して採用し︑体系的に推進しようとしたのはピウス九世であった︒このようにローマ教皇がウルトラモンタニズムの

方向に固まってゆくのは︑基本的にはカトリック的な政府はもうどこにも存在しないという状況が生まれて来るなか

で︑カトリック教会が自分自身を振り返ることを余儀なくされたからであると考えられるが︑具体的には二月革命と

ローマ教皇領の没収という二つの出来事が決定的な意味を持っていた︵西川︑

ローマ教皇の政策の中でとくに重要なのは次の三つである︒第一は︑

れは教義そのものよりも︑それがピウス九世によって一方的に宣言されたことにその重要な意味を持つものであり︑

後の教皇不可謬権宣言の走りとなったものであった︒第二は︑

て一様に誤謬として斥けたものであり︑ウルトラモンタニズムの反革命的な性格を端的に示すものであった︒第三は︑

0

年教会会議において発表された教皇不可謬権宣言である︒これはカトリック教会内部での絶対主義的な体制

の確立を決定付けたものとして非常に重要な意味を持つ宣言であった︵西川︑

0

ウルトラモンタニズムの対極をなすもう︱つの大事な鍵概念は自由カトリシズムである︒自由カトリシズムは︑

口で言えば︑カトリシズムと自由主義との和解を求める動きであったと言うことができる︒自由カトリシズムにもさ 都合な条件が生まれて来ていた︵西川︑

(12)

第 五 三 巻 一 号

西

まざまな立場があった︒すなわち︑現実的な観点からカトリック教会の発展のためにはカトリック教会と自由主義と

の和解が必要であるとする立場︑原則的な観点から社会の自由主義的な発展を進歩と見倣し民主主義を福音の実現で

あるとする立場︑それにカトリック教会の内部の改革を追求する立場︑などを含むものであった︒ラムネの自由カト

リシズムは著書﹃革命と教会に対する闘争の発展﹄

De spr og re s  d e  l a   R ev ol ut io n  e dt   e  l a   gu er re o n   c t re   l ' E g l i s e  

( I  

祭壇との同盟﹂の政策を批判した︒今度︑彼は︑さらに一歩進めて︑自由主義者との同盟によってプルボン王朝と戦

うことを求めた︒彼の自由カトリシズムは具体的には次の二つの要求となって表れていた︒それは︑第一に︑宗教︑

教育︑新聞︑結社の自由を含むカトリック教会の自由を一般的な自由の中で要求することであり︑第二に︑国家と教

会との分離を要求することであった︒つまり︑ラムネは︑国家から与えられる保護と特権とを放棄した上で︑他の思

想の自由を含めた一般的な自由の中でカトリック教会の自由を要求したのである

から始まったと考えられる︒ラムネは︑以前︑ウルトラモンタニズムの立場からプルボン王朝の﹁王冠と

フランスではこの自由カトリシズムはカトリシズムの主流となることはできなかった︒多くの司教がこのグ

ループを非難した︒これをうけてグレゴリウス十六世も回勅﹃ミラリ・ヴォス﹄

Mi ra ri v o s ,

 

S in g u la r i   n os

においてラムネとそのグループを非難した︒ラムネは︑この非難を受けて︑カトリック教会からの離

脱というドラスティックな方向を選び︑後には社会主義者となったと言われている︵西川︑

ラムネの政治的立場は外見上豹変したように見える︒すなわち︑ウルトラモンタニズムと王権擁護論から人民主権に

よる社会主義への移行︒概して︑こうした振幅の大きい政治的言動のありようがいわゆる政治的ロマン主義の一っと

考えられる

関法

1 0

二頁︶︒しかし︑ベルギーでは自由カトリシズムはカトリシズムの公式の路

(13)

ば聖職者主義の立場をとっていた︵西川︑ 線となり︑ベルギーの政治体制そのものの原理となった︒ラムネはベルギーの独立運動から刺激を受け︑ベルギーはラムネからその理念を学びとった︑と言えよう︵半田・今野︑教皇庁はこのような体制を﹁信仰を持たぬ者﹂と非難しながらも︑ラムネを非難した﹃ミラリ・ボス﹂や﹃シングラリ・ノス﹄ではベルギーに対する名指しの非難は行わなかった︵西川︑

事なのは一八四二年の初等教育に関する法律であった︒この法律によって︑カトリシズムは︑初等教育における完全

な自由を獲得したばかりでなく︑公立の学校においても宗教教育の義務付けを勝ちとり︑初等教育におけるカトリシ

ズムの全面的な支配の体制を実現したのである︒その後のベルギーの政治史を考えると︑これは重要な意味を持つも

のであった︒自由主義がこうしたカトリシズムの姿勢を見てその反教権主義を強化させていったからである︵西川︑

カトリック教会の原則的な立場から言えば︑カトリック政党は否定されなければならなかった︒その第一の理由は︑

カトリック教会は聖なる社会であり︑俗なる社会の政党によって代表されるものではない︑という立場からのもので

あった︒第二の理由は︑カトリック教会の反自由主義的な立場からのものであった︒カトリック政党を承認すること

は︑議会を︑ひいては自由主義的な国家そのものを承認することとなるから許せない︑というのがその理由であった︒

第一ー一の理由は︑カトリック教会の政治的表現の方式と直接関係するものであった︒カトリック教会は︑教会の問題を

処理する権限は教会だけがもっていて﹁カトリック系市民は教会の問題に携わる使命は持っていない﹂という︑いわ

フランスでは貴族やプルジョワジーは正統主義者︑オルレアニストなどいわば君主主義政党として結集したのであ 一九七七年︑二四頁︶︒ベルギーにおいて大

(14)

﹁サーベルと司祭との同盟﹂に他ならなかったのである︒ただし︑一八五九年頃︑教皇領がイタリア統一国家に没収

第 五 三 巻 一 号

で権力から遠ざけられていたと言うことができよう︒フランスでは正統主義的な貴族やプルジョアジーは一八︱︱

1 0

にプルボン王朝を失い︑その後に成立した七月王政︑第二共和制︑第二帝政も彼らの権力ではなかった︵西川︑

七七年︑三六頁︶︒このように︑貴族やプルジョアジーは多くの国でその権力を失っていたが︑こうした状況の中で

その失った権力を取り戻そうとする反革命的な貴族やプルジョアジーがカトリック教会を利用しようとしたのは当然

であった︒当時カトリック教会だけがただ︱つ残されたヨーロッパの反動の保塁だったからである

第三共和制の生まれた頃︑

復活を目指すオルレアニストなどの王党派と結合して︑独自のカトリック政党を結成しようとはしなかった︵西川︑

一九七七年︑四

0

頁 ︶

関法

フランスのカトリシズムはプルボン王朝の復活を目指す正統主義者やオルレアン王朝の

一方非妥協的なウルトラモンタニズムの中心となっていたヴィヨー

L o u i

s

e u i l

l o t  

(

│︱八八三︶らは︑第二帝政を﹁皇帝ボナパルトと社会主義の共和国との選択﹂として歓迎した︒ナポレオン三世も

カトリシズムと正統主義とを切り離すため︑あるいは正統主義の支持を獲得するため︑カトリシズムに好意的な態度

を示した︒宗教予算は著しく増額され︑カトリシズムは︑その他のものの活動が制限されている中で︑ひとり自由な

活動を認められた︒こうした中で司教は教会と帝国との同盟を祝福し︑下級司祭はナポレオン三世を一八五二年の動

乱からの解放者として歓迎した︒彼らは一八五七年の選挙で正統主義者を捨てて︑政府派の候補者を支持したのであ

る︒このようにして非妥協的なグループはボナパルティズムをその政治的表現とするに至ったのであり︑それは

西

り︑カトリック政党としては結集していなかった︒

0

年頃のカトリック系貴族やプルジョアジーは︑多くの国

(15)

され︑それをナポレオンが放置したころから︑カトリシズムとボナパルティズムとの関係は悪化し始めた︵西川︑

焦点をフランス第三共和制初期に移したい︒当時フランスの敗北とパリ・コミューンの衝撃の中で聖心

Sa cr

e

Co eu

rの信仰が広められていたが︑パリの大司教はキリスト教にとって縁かりの深いモンマルトルの丘の上にサク

レクール寺院を建設するように求めた︒国民議会はこの計画を承認し︑そのために必要な土地の収用を認めたが︑極

右の議員にとってそれは単なる土地収用だけでなく︑さらに聖心に対するフランスの公式的な奉献を意味するもので

一九七七年︑四五頁︶︒小高い丘の上に︑八

0

メートルの巨大なドームを持つロマネ

スク・ビザンチン様式のこの聖堂は︑十九世紀の教会が﹁カトリックのフランス﹂再建の夢を託した一大モニュメン

トである︒その白亜のドームはカトリシズムの象徴となるべきものであった︵谷川︑

一八九ー一九〇

頁︶︒極右の人たちから見ればこの計画を承認した右翼の態度は正統主義に対する裏切りであった︒しかし右翼から

見れば極右の態度こそが君主制の復活を妨害するものであった︒極右と右翼とのこの違いは両者のカトリシズムに対

する姿勢にも反映せずにはおかなかった︒極右のウルトラモンタニズムについては当然であるが︑右翼は﹁可能性の

政治﹂を達成するには極右のウルトラモンタニズムと闘わなければならなかった︒彼らはその意味で自由カトリシズ

ムの立場をとるか︑少なくとも徹底したウルトラモンタニズムの立場をとらないことが必要だったのである

西川の考察はドイツにも詳細に及んでいるが︑本稿の関心は主としてフランスとベルギーであるので︑それは省略

して︑イタリアに関して少し整理しておきたい︒イタリアのカトリシズムは︑イタリアの統一の過程で二つの大きな なければならなかった︵西川︑

西

(16)

1 0

二頁︶︒アサンプシオン会が

西

家を征服するという運動に結集していったのである︵西川︑一九七七年︑七一ー七二頁︶︒イタリアのカトリシズム

第五一二巻一号

︱つは千年の歴史をもった教皇領を没収されたということであり︑もうーつはサルディニアの反教権

的な立法がイタリア全体に適用されたということである︒こうした情勢の中でカトリシズムには二つの道が存在した︒

第一の道は﹁新しい事態を承認し︑その中に入っていってその提供する手段を使って大義の勝利のために戦う﹂︑つ

まり︑カトリシズムがイタリア統一国家の選挙活動︑議会活動に参加するという道であり︑第二の道は﹁新しい現実

のすべてを拒否し︑信仰と教会の擁護をただ︱つの目的としてかかげ︑その力をイタリア社会に拡大してゆく反体制

的な一大運動を組織する﹂という道であった︒カトリシズムは最終的にはこの第二の道を選択した︒カトリシズムは

イタリア統一国家内での選挙活動︑議会活動をボイコットし︑宗教活動によってイタリア社会︑ひいてはイタリア国

は統一国家の中で選挙活動︑議会活動を拒否した︒それは統一国家がやがて崩壊するであろうし︑それまでは毅然た

る態度をとっていることが教皇領の復活のためには必要であるという判断や︑カトリシズムが選挙活動を行うにはま

だ充分体制が整っていないという判断もあったことは確かである︒しかしその根底には自由主義国家を否認する原則

的な立場があったことは認めなければならない︒この立場からカトリック政党が生まれて来ないのは当然であろう

0

年ごろから︑保守主義の再編成が展開された︒これはラリマンと呼ばれ︑イニシ

アティプを取ったのはレオ十三世であるということができる︒だが︑カトリックとモデレ

アソンプション会を始めとする非妥協的なグループであった︵西川︑

の最大の障害は

新しい日刊紙を一八八三年に創刊した時︑彼らは決然と﹃ラ・クロワ︵十字架︶﹄を名乗っている︒なぜなら︑十字

0)

(17)

のだろうか? と︑第二に︑これまで中途半端なものであった修道会の規制︑教育の世俗化を徹底させ︑修道会はほとんどその全面的な禁止に︑修道会の経営する私立学校もその生徒数の激減に追い込んだものであったこと︑第三に︑カトリック教会の教区組織にはじめて攻撃の矢が向けられ︑カトリック教会は膨大な財産と一︱‑︑五

0

0

万フランの宗教予算を失わ

なければならなかったことである︵西川︑

西

0

年代か フランスではカトリシズムの最も公式的な部分は非妥協的な方針を貫いてゆこうとしてい

た︒それが国家と教会との分離に対する反動であったことはいうまでもないが︑極右の政治を推進するグループはフ

ランスのカトリシズムの中でも少数派であった︒つまり︑別のところでは事実上のラリマンが進展していたのであり︑

その成果はやがて第一次大戦後に現れてくることとなるのである

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‑10

四頁︶︒では︑カトリックは極右になってゆく 反教権主義の政策は︑第一に︑ れてくることとなるのである︵西川︑ 架像が各地の学校や施療院から撤去されるという︑カトリックにとっては許しがたい冒漬がまさに行われていた時だ

治の重要な要素であることを止めた︒王の城砦は放棄され︑今後はカトリシズムの防衛という土俵に立たなければな

らなくなった︒いまやカトリシズムが旧王党派の代わりとして出てくるのであり︑それがアソンプション会だったと

見ることができる︒ラリマン

1 1

宥和の崩壊後のフランスは︑社会主義者の一部を含めた共和プロック︑左翼連合とい

う形で︑まずワルデック・ルソー内閣︑次いでコンプ内閣などによって支配されることとなった︒そこでは急速にそ

の力を増加させていった急進主義が中心となって︑国家と教会との分離を含む激しい反教権主義の政策が次々と出さ

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0

年代には実現されなかった国家と教会との分離を実現したものであったこ からである︵ラングロワ︑二

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0

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年代には︑王党派はフランス政

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ら第一次世界大戦までの時期は︑フランスの農村社会にしろカトリック教会にしろ︑新たにその存在理由や存在形態

を模索しはじめたという点において︑ひとつの大きな転換期であったといえる︒そしてこの時期に︑カトリシズムに

おいて共和制への加担がはじまり︑農業部門において保護関税制度の強化︵メリーヌ関税︶が試みられたことはよく

知られている︒またより専門的な視点から︑農業組合の組織化および社会カトリシズムの台頭もかねてより注目され

てきた︵横原︑二

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二年︑二四六頁︶という指摘はそのような意味で理解できる︒

そこで︑カトリシズムの大衆社会への対応を問題にしたい︒カトリシズムはそれ自身の法的な権限を持ち︑下層階

級の漸進的な進歩を助け︑社会的に有益な機能を果たす社会有機体としての中間集団を重視し︑国家には﹁僅かの権

威﹂しか持たせないという国家観をもっていたと考えられる︵西川︑

キリスト教民主主義とは回勅﹃レールム・ノヴァールム﹂の巻き起こした﹁宗教的感激﹂の中で︑下級の司祭︑イ

ンテリ︑労働者などを中心として現れてきた運動であり︑まずベルギーから始まり︑

広がっていった運動であるということができる︒ドイツにはほとんど見るべき運動はなく︑またオーストリアではキ

リスト教民主主義という運動ではなく︑キリスト教社会党という特異な運動が出現してきていた︒このキリスト教民

主主義がカトリシズムの公式の概念となったのは︑レオ十三世が一八九八年フランスからの労働者の巡礼を前にして

この言葉を用いたときからであり︑また公式の文書に出てきたのは一九

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一年の回勅﹃グラーヴェス・デ・コムー

二 ﹄

Gr av es de  c

om

un

i が最初であった︵西川︑

フランス︑次いでイタリアヘと

﹁歴史的な﹂キリスト教民主主義は近代的であると同時に伝統的でもあるという二つの側面をもっていた︒キリス

ト教民主主義は労働者などの下からの開放を目指す民主的な運動として近代的な側面をもっていた︒しかし︑それは

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ととなった︒この事業団はド・マン

︵一八四︱│︱九一三︶とラ・トゥール・デュ・パン また一種の﹁神聖政治﹂を目指す運動として伝統的な側面をもっていた︒﹁神と民衆﹂というスローガンに示されるこの二つの側面をもっていたことが︑﹁歴史的な﹂キリスト教民主主義の特徴であった︒大切なことはこの近代的な側面に対するカトリシズムの攻撃がすでにこの第一段階で始まっており︑この攻撃の中で﹁歴史的な﹂キリスト教民主主義の運動は崩壊してゆかなければならなかったということである︱一段階のキリスト教民主主義はこうした経験の中から生まれたものであり︑それがキリスト教民主主義を名乗らなかったのもそのためであった︒この第二段階のキリスト教民主主義の特色は︑このカトリック教会からの攻撃に対してどのように対処するかという問題にその勢力を費やさねばならなかったということであり︑その中から政教分離という構想が生まれてきたということがとくに重要であった︒この政教分離という構想は一般に二つの意味をもっていたと考えられる︒その︱つは非カトリック系市民の参加を求めるという意味であるが︑この意味での政教分離は新しいものではない︒もう︱つはカトリック教会からの干渉を排除するという意味であり︑この意味での政教分離こそキ

ト教民主主義とほぼ同じころからカトリシズムの中では大きな問題として取り上げられた︒ここでも最も早く現れて

きたのはベルギーのそれであったが︑結果的に見れば最も大きく発展したのはドイツのそれであった︒これに対して︑

フランスではその発展は第一次大戦までは全くとるに足りないものであった

西

フランスでは︑カトリシズムの大衆社会への上からの対応は﹁社会カトリシズム﹂と呼ばれているが︑この社会カ

トリシズムは一八七一年﹁カトリック労働者サークル事業団﹂が成立したことによって︱つの新しい段階を迎えるこ

リスト教民主主義の打ち出した新しいものであった︵西川︑一四七頁︶︒キリスト教労働組合もキリス

西

一四六ー一四七頁︶︒第

参照

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