特集 中村秀之教授を送る
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解題|中村秀之『暁のアーカイヴ——戦後日本映画の歴史的経験』
東京大学出版会、2019
藤井 仁子
ふじい じんし 早稲田大学 文学学術院教授 映画学
この
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年ほどのあいだ、さまざまな折に書きためられた論考を収めた本書は、占領期の特殊な映画状況、岩波映画とその系譜、撮影所時代からポスト撮影所時 代にかけてのスターと作家といった具合に、個々にはかなり趣を異にする多彩な 主題をあつかった戦後日本映画論集である。帯に並んだキーワードをそのまま引 くなら、「ヤミ市/黒澤明/
CIE
映画/岩波映画/教材映画/土本典昭/高峰秀 子/高倉健/北野武/相米慎二/森﨑東」となる。したがって、明確に時期が限 定されていた『敗者の身ぶり―ポスト占領期の日本映画』(2014
年)や、サイレ ント映画にかんする雑誌連載を中心に据えた『瓦礫の天使たち―ベンヤミンか ら〈映画〉の見果てぬ夢へ』(2010
年)のような過去の論集とくらべても、構成上 の求心性は望むべくもない。この著者の単著としてはいささか特異な位置を占め る一冊なのだ。むろん、一定のキャリアを積んだ研究者がこの種の論集をまとめることじたい は何もめずらしいことではない。あるときは偶然にまかせた自分の研究者人生 を事後的に意味づけるため、またあるときはたんに出版の機会をあたえられた というだけの理由で人はそうした論集を編む。しかし本書が異彩を放っているの は、初出時に置かれていた文脈―雑誌の特集や科研費の共同研究といった―
から個々の論考を引き剝がし、ときに加筆して、さらに後記を付すといった著 者による再構成の手つきが隠すことなく曝け出されているからだ。それは、「敗 戦後日本のヘテロトピア―映画の中のヤミ市をたずねる」と題された最初の論 考からあきらかであろう。この章は巻末の初出一覧にあるとおり、かつて『東京 スタディーズ』(
2005
年)と『〈ヤミ市〉文化論』(2017
年)に寄せられた論考に、「二〇一九年」という年号を持つ書き下ろしの「後記」を付け足すことで成り立っ ている(本書のために書き下ろされた「後記」にはすべて同じように年号が添え られている)。ところが、『〈ヤミ市〉文化論』の論考じたいが「一〇数年前」に発
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表した『東京スタディーズ』所収のエッセイへの長大な後記として書かれており、
さらに本書ではそのエッセイがいわば自己引用のかたちで挿入されているのだか ら、ここでの時制は複雑に入り組んでいる。
こうした論述のスタイルは、読者からすると端的に読みづらさをともなうもの だ。「一〇数年前」といわれても、起点がいつなのかがとっさには摑めないので ある。過去の自分の文章に再構成を施すとき、たいていの書き手は素材の継ぎ目 を注意深く消し去り、あたかもすべてをたった今考えついたかのように装いなが ら、初めから終いまでを現在時で連続的に語りなおす。たとえば、早すぎる晩年 に『映画とは何か』のアンドレ・バザンが没頭していたのもそうした作業であった
(有名な「映画言語の進化」などは、時期が異なる三つの文章を再構成したもので ある)。にもかかわらず、『暁のアーカイヴ』の著者はこのような普通のやり方を 意識的に拒んでいる。「意識的に」と確信をもっていえるのは、書き下ろしの序章
「アーカイヴの時代に映画を語る」から著者が問題にしているのが、映画につい て語るとき、対象となるべき映画は「作品」としてはそこに現前しておらず、絶 えず逃げ去るおぼろげな「うしろ姿」でしかありえないという事実だからだ。つ まり、「作品」を過不足なく視界に収めながら、現在時においていくらでも好きに 解釈できるなどという無邪気な錯覚からはもっとも遠くあろうとしている書物な のである。そして、それに続く先述の第一章では、ヘテロトピアというフーコー の粗削りだがきわめて啓発的な概念に依拠しつつ、映画のなかのヤミ市が論じら れている。ここで著者は、ヤミ市が重要な役割を果たす最初期の作例である大映 作品『雷雨』(
1946
)にかんして、ヤミ市は「時空の歪みを生じさせ、まるでSF
の ワームホールのように、過去と現在」を短絡させるとまで主張しているのだった(
40
頁)。著者の真意は問わないとしても、重層的に時が折りたたまれたような 本書の論述が、主張される内容に見合ったものであることは否定できまい。映画を語る言説それじたいのありようは、初の単著である『映像/言説の文化 社会学―フィルム・ノワールとモダニティ』(
2003
年)から著者の主要な関心事 であった。そこでの著者のねらいは、フィルム・ノワールという事後的に批評家 が見いだした特殊なカテゴリーに対象を限定しつつ、実際には、常にすでに事後 的なものでしかありえない映画を語るという行為一般の問題を逆照射することに あったと思われる。一方、『映画の神話学』(1979
年)での蓮實重彥を手がかりと する本書序章では、著者はいきなり映画を語るという行為の本質に切りこんでい く。まず、どんなにあやふやであろうとわれわれの心的現実を確かに構成してき特集 中村秀之教授を送る
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た映画にまつわる記憶や知覚が、記録装置の発達と普及によって絶えず物質的現実と照合されるようになった現在の「アーカイヴ的環境」について指摘がなされ る(アーカイヴ4と表記することで、著者は具体的な組織や機関としてのアーカイ ブ4からこれを区別している)。この問題じたいは、『敗者の身ぶり』の小津安二郎 論において、『晩春』(
1949
)をDVD
で何度か見なおすうちに反復される無頭の女 のイメージに気づかされたという体験に即してすでに素描されていたものであろ う。しかし、ここで「アーカイヴ的環境」は、たんに新しい技術が可能にした現 代のメディア環境の問題としてではなく、私に自己の同一性への安住を許さず、他者の審級、すなわち「歴史」との直面を強いる条件として捉えなおされるので ある。アーカイヴの時代に、「作品」は映画の夜と日常の昼のはざまに一瞬出現し て、われわれに何かを訴え、再び去っていく亡霊のようなものとなった。「映画 を語ろうとすることは、今やまさに、それ4 4が去ろうとする暁に、その呼びかけに 応えて私たちの側から問いかけを返す行為なのである」(
20
頁)。しばしば歴史を希薄化ないしは消去するものとして批判される今日的な状況の ただなかに、むしろ歴史との直面を人に強いる苛酷なる契機を見いだす著者の 視点は刺戟的だといえよう。フレドリック・ジェイムソンの名も、本書ではポ ストモダニズムの理論家としてではなく、あくまでもフィクションにおける階級 関係の表象という問題系で引かれるのである。ただし、亡霊の比喩は、ことに よるとその擬人化において警戒を要するものかもしれない。実際、逃げ去る「作 品」の「うしろ姿」を作家のそれと意図的に同一視したところに、反復可能な方法 としての蓮實的な作家主義が帰結したのだった。書くたびにいちいち「存在の崩 壊」など賭けていては身が持たないわけで、蓮實からすればこの擬人化4 4 4は、頽廃 というより多産な批評家として生きながらえるための職業上の智恵だったのだろ う(『映画の神話学』以降の蓮實の変節については、著者も控えめにほのめかして いる)。だがここでの著者は、たとえ作家を論じているときでも、自らが直面さ せられているものが作家というもう一つの自己同一性などでは断じてなく、他者 としての「歴史」であることに一貫して意識的である。論じられている作家とス ターの大半が、執筆の時点で故人であったことも著者には幸いしただろうか(例 外が北野武と森﨑東であるが、前者は誰にとっても対等な個人というか同じ人間4 4 4 4 としてはイメージしづらい一種の怪物であり、後者はちょうど最後の監督作を撮 り終えたばかりで、老齢ゆえに表舞台からは遠ざかってしまっていた)。
おそらく、本書で著者が一個の人格をそなえた現実の作家にもっとも接近した
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のは、「活動とは別の仕方で―土本典昭の作品における映画的身体の生成」と
「声と顔のアレンジメント―『水俣―患者さんとその世界』論」の二章にまた がる土本典昭論においてである。著者自身、土本映画の最良の批評家は土本典昭 自身であると認めているのだが、それでも作家の発言と照らしあわせて答えあわ せをするように作品を解説する愚は犯していない。批評家としての土本が、自ら の支配を超える他者として自身の映画と向きあっていることを見逃さなかったた めに違いなかろう。映画を語ろうとする著者にとって、作家とは自分で監督した はずの映画に驚かされたり悩まされたりする、特権的ではあっても一人の先行者 にすぎない存在なのだ。このとき、作家自身にとってさえも映画は、「私が自分 の親しい記憶や空想にもとづいて自己の同一性に安住することを許さない外部の 領域、つねに資料にもとづいて事実の検証を迫る他者の審級」、すなわち著者の 定義する「歴史」として立ち現れている。
こうして、再構成の跡を隠さず、何層にも時が折りこまれたような本書の特徴 的なスタイルが、気まぐれに選ばれたものではないことがはっきりする。ここで 著者は、既発表の論考という自分自身の亡霊の出現に立ちあいながら、何やらい いたげなその思いを酌みとり、去り際に問いを律義に投げ返しつづけているの だ。突然大風呂敷を拡げるならば、個人のあらゆる言行がログ4 4として保存、共有 される現代の「アーカイヴ的環境」にあって、自分自身の亡霊といかにつきあっ ていくかは誰にとっても切実な生き方の技術の問題となっていよう。どうやら社 会は、それらすべての亡霊を自己同一性の鋳型に再び回収し、時空を超えて言行 を一致させることを成員に要求しているように見える。そんなことが誰にも簡単 にできるはずはないので、初めから余計なことはしない、いわないのが賢い生き 方になってしまった。何もそうした社会的圧力への一つの「反逆」として本書が 構想されているなどと主張するつもりはない。ただ、カバーにマーク・ロスコを あしらった本書を構成するすべての言葉は、いたずらに夜の闇に沈みこむのでは なく、いっさいをしらけた昼の光に引きずり出そうとするのでもなく、「夜の深 さから暁の到来にかけての時の隙間4 4 4 4」に踏みとどまろうとしている。そのことを 何より貴重に思う。