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現代教育思想の原型︵その一︶

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(1)

現代教育思想の原型︵その一︶

堀  内   守

はじめに IB・ラッセル

  一︑文明批判の方法的限界

  二︑中立一元論の意義

  三︑幼児教育論−中立ご兀論の具体的展開1

π皿 J・デューイ

  一︑ ﹁有機的視点﹂の自信

  二︑ ﹁習慣﹂の発見

  三︑ ﹁意識の流れ﹂とシンボル

而皿  E・クリーク

  一︑ ﹁民族精神﹂の追発見

  二︑Oo日o芦・りo庁P木富冨ぴoロの原機能

 現代教育思想の原型︵その一︶       二七

(2)

現代教育思想の原型︵その一︶       二八

は じ め に

 第一次大戦の終結した一九一八年︑正確にいえば︑まだ大戦の終結を見ぬ同年の夏︑ドイッの歴史家シュペングラ

ーの﹃西欧の没落﹄ ︵O隅q巳雲σqp⇒西口oω﹀ひΦロユ訂昆①︒︐︶が出版された︒誰でも知っているように︑この無名の歴

史家が一躍名声を博すに至った事情は︑その難解な表現︑あるいは歴史叙述の科学性のためではなく︑その非科学性

のゆえであった︒歴史における﹁循環﹂あるいは諸文明間の﹁比較可能性﹂は従来の歴史学にも作業仮説としては暗

黙の前提とされていた︒しかし︑作業仮説を公理として用い︑﹁西欧の没落﹂をドラマティクに表現したこの書物は︑

あらゆる面で疑問を起させる内容をもつ書物であるにもかかわらず︑先例のない多数の読者をもった︒その理由は︑

第一次大戦が当時の知的雰囲気に与えた衝撃をぬきにして考えることはできないであろう︒歴史の単線的進歩に対す

る期待を否定し︑歴史の﹁循環﹂を肯定するドラマティクな歴史解釈は︑大衆の間に生成した文明の危機の感覚に直

戦に共鳴し︑これに特異な形態を与えることになった︒

 ところで︑この非科学的な書物によって形態を賦与された知的雰囲気︑それによって形象化された文明の危機の感

覚は︑その賦与者とは切断され︑別個の独立した形態となった︒知的雰囲気が︑その基底にある社会構造に規定さ

れ︑社会構造から醸成されるものである以上︑それは当然のことである︒かくて︑それは︑研究すべき対象として︑

あるいは研究方法上の視座の変更の必要性として意識され︑学問分野にも微妙な影響を及ぼすことになる︒相対主義

と心理主義はその典型的な結果であろう︒そのような微妙な影響は︑一九二〇年代初期に現われたと見ることができ

る︒その論証は本稿の課題から外れるので︑ここでは極く大まかな事実の指摘にとどめる︒第一の示標は︑この時期

には︑それ以前の知識人と新しい知識人の知的エネルギーの交替が見られるということである︒H・ヒューズの指摘

(3)

するところに従えば︑ コ九二〇年から一九二三年にかけては︑人間が神に祭られるρO︒夢oω一︒︒時期である﹂ω︒巨

大なエネルギーを発揮したソレル︑パレート︑ウェーバー︑トレルチュは残しており︑生存者たちも新しく出現した

事態に対処できぬまま︑従来の方法をもって従来の研究を継続していた︒エネルギーの交替も結局新しく出現した事

態の複雑性に原因をもっているといえるであろう︒第二に︑この種の事実上の断層とは異なり︑従来の研究を継続し

ていた者の中に︑方法上の大きな転換を意識する者が続出したことである︒第一次大戦を衝撃と受けとめた思想家た

ちが︑方法上の変更を必要視したことは︑本論でも確証されるが︑さまざまなヴァリュエーシヨンが見られるにもか

かわらず︑第一次大戦を衝撃として受けとめ︑これを契機として彼らが新しい方法を探ろうとしたことにおいては共

通している︒第三に︑シュペングラー的な思想への一時的な共鳴は去り︑代って新しい︑ある意味では今日まで多大

の影響を与えている・思想︑換言すれば今日の知的雰囲気に形態を与えている思想︑がこの時期に現われるというこ

とである︒思想のレベルから新たに現実の国家をもったマルクス主義はもちろん︑歴史と階級意識を追究するルカー

チ︑知識社会学の枠を提示したシェーラー︑現象学のフッサール︑実存主義のハイデッガー︑分析哲学のラッセル︑

ウィーン学派の論理実証主義者たち等々もこの時期に活躍を開始する︒

 教育学の分野では︑どうであろうか︒正確にこの年だけに限ることはできないが︑一九二二年という年は︑教育学

にとっても重要な意味のある年のように思われる︒この年には︑その後の教育学に大きな影響を与えた諸著作が出版

された︒教育科学︵oo∩一Φ目nO 匹Φ 一wひ匹已O口叶一〇﹈ρ︶ の唱導者で一九一七年になくなったE.デュルケムの遺稿﹃教育と社

会学﹄︵団臼已O騨叶︷O口 O古 むOO口︷O一〇旭四声Φ︶が後継者フォコンネの手によって出版された︒それは︑頚徳的な意味での出版で

はなく︑実際上の必要からの出版のゆえに重視されねばならぬ︒また戦勝国アメリカではJ.デューイが︑それまで

の諸著作の集成ともいうべき﹃人間性と行為﹄︵国已目①pZ巴葺oo口巳Ooロ音o⇔︶を︑敗戦国ドイッでは教育科学

   現代教育思想の原型︵その一︶       二九

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   現代教育思想の原型︵その一︶       三〇

︵陣恩魯已口σqω三︒・ω050﹈﹈騨津︶の唱導者E・クリークが︑その後の多くの著作の原型を盛りこんだ﹃教育の哲学﹄

︵勺庁巳︒ω︒bヨΦ臼︒﹃団﹃恩o庁巨σq︶を出版している︒これらの書物の出版の年が一九二二年であったことは偶然の一致で

あることはいうまでもない︒しかし︑第一次大戦後の諸事情を含めて教育について考えるとき︑これらの書物が早晩

相続いて公刊されるべぎ内容の書物であったことは否定できないであろう︒そこには当然のことながら先に素描した

シェーマと共通するものがある︒

 本稿はこのような観点から︑ラッセル︑デューイ︑クリークの教育思想を特に二〇年代に限って考察したものであ

る︒このようなことから︑本稿では個人の思想の生成と構造の研究とはおのずから異った方法をとり︑考察の焦点を

一九二〇年代初期に限定することによって︑彼らがその時代の知的雰囲気にいかなる形態を賦与したかを浮き彫りに

しようと思う︒前述した極く大まかなシェーマはこの特殊なアプローチのしかたを導く手がかりを得るためにとられ

た予備作業である︒

 つぎに︑この三人の思想家をとりあげた理由について簡単に触れておきたい︒正確にいえば︑一九二〇年代になっ

てシュペングラーのごとく突如一躍名声を博するのは︑この三人のうちでクリーク一人である︒すでにラッセルは

﹃プリンキア.マテマティカ﹄︵勺ユロo富忌①夢o日巴声o①︶を著しており︑デューイにいたっては多くの著書をもつプ

ラグマティズムの泰斗であった︒これらの三者に共通の問題を求めるとすれば︑それぞれが第一次大戦を衝撃的に受

けとめ︑教育について新たな関心を示していったことのみであろう︒つまり︑相異点の方が大きいのである︒相異点

の最たるものは︑彼らの属する国家の置かれた違いによる︒しかし︑そのような相違点以上に大きいのは︑彼らの戦

争に対する態度の違いであり︑それと密接に係りをもつ教育観の違いであり︑殆んど常に一方は他方によって否定さ

れる関係にあるということである︒

(5)

その他のことについては本論中で逐次触れることにしよう︒

IB・ラッセル

一、

カ明批判の方法的限界

 一九一四年︑大戦の勃発とともに徴兵反対同盟︵20 0qZO力O知﹈勺弓﹈O Z ヴ国﹇﹇Oぐく白り國一勺︶︑略称N・C・Fに依

って平和主義のプロパガンダを行っていたバートランド・ラッセルは︑翌一九一五年に︑今度の大戦が﹁既往の信念

の変更﹂を要求している②と記し︑後になって︑第一次大戦の衝撃は自分の思想的転換をもたらしたと回顧している

③︒ ﹁既往の信念の変更﹂の必要性の意識は︑第一次大戦に触発された危機意識の一つの表現である︒当然︑批判の

対象は部分的なものに限定され得ず︑現代文明の総体に向けられることになり︑批判の主体は︑直載にその信念を表

白することになる︒一九一六年に出版された﹃社会改造の原理﹄ ︵勺ユp島宮oωo︷ωo昆巴国Φ8口・・☆9江8︶はその成

果であった︒それがどのように受けとめられたかは︑当時の各紙によって本書が︑ ﹁所有の衝動および創造の衝動の

検討と比較﹂の書︵↓げo弓一日oω︶︑﹁大いなる生きた書﹂︵司プoZ①亘oロ︶あるいは﹁文明に対する罪を厳しく糾弾す

る﹂書︵一﹁庁O ﹈﹇①︼P臼 ρ目臼 之く①けO﹃︶等と評価されたことからも察せられるω︒しかし︑本書が広範な読者に受け入れら

れたのは著者も記しているように︑本書の内容が﹁人間の生活の形成にあっては︑意識的な目的よりも衝動︵一日冒一ωo︶

の方がより効力をもつという信念に基づく政治哲学﹂を提示する㈲という︑従来の政治哲学とは異質の衝撃的なもの

であり︑それが第一次大戦によって動揺していた大衆心理に深く共鳴するものをもっていたためであると考えられ

る︒一般に︑文明批判は︑仮説の設定︑実証等の抽象的レベルにおける操作過程を経るよりは︑通常こうした危機意

   現代教育思想の原型︵その一︶      =二

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   現代教育思想の原型︵その一︶      三二

識の生の表現をとることによって︑大衆の心情に共鳴現象を惹き起こす︒それは︑表現において感性的.直戴的であ

り︑詩的ですらある︒ということは︑現実認識の枠組みが︑簡単であり︑ある場合には粗雑ですらあることを意味し

ている︒現実から抽象され︑構造化された理論体系をこれに期待することはできないし︑そこに文明批評の理論的限

界が存することはいうまでもないが︑同じ文明批評なるものの本性からして︑それが抽象的な理論体系よりも︑直戦

に現実を反映していることは否定できぬ︒ラッセルのいう﹁衝動﹂も︑この限りでは多分に誤解され易く︑具体的な

人間も社会もすべて﹁衝動﹂に還元されてしまうようにさえ見える︒しかし︑このような表現形式は︑文明批判の本性

から規定される結果であり︑またA・ウッドの指摘するように﹁情熱の懐疑家︵ロOpω︒︒ざpgo︒︒80江6︶ラッセル﹂⑥

が文明批判をする際の常套の逆説というべきである︒むしろ﹁衝動が人間の根底にある﹂ωという規定は︑ラッセル

が︑第一次大戦とともに醸成された衝動的な知的雰囲気のもつリアリティを衝撃的に受けとめた証左であり︑盲目的

な狭隆な﹁衝動﹂をいかにして知的な知識の流れに導き入れるかという後の諸構想の伏線となっている︒

 第一次大戦によってラッセルが受けとめた衝撃は異常なリアリティの出現︑たとえば︑ドイッ人は残酷で︑残虐で

あるという信念がイギリス中に充満し︑事実上のリアリティをもったということであった︒

   ﹁人間が信じている誤った事柄︑また人間が信じぬ正しい事柄は︑彼らの衝動1いずれの場合も︵軽信は伝染するがゆえに︶個

 人的衝動とはならず︑必然的に公衆の一般的衝動となるのだがーに対するインデクスである︒われわれは皆信ずるに足る根拠をも

 たぬ︒というのは︑われわれの本性は︑或る見解が正しいとすると︑それを正当化する或る種の衝動を切望するからである︒無根拠

 の軽信は︑衝動が理性に払う敬意である︒かくして︑この国の人間︑またドイツ人をして戦争遂行を義務なりと信じこませるのは︑

 方向は違うにしても︑同じこの軽信なのである﹂⑧

 それが個人をも包みこみ︑巨大な力を発揮するのではないか︒これに対して事実をもとに合理的な説得を試みるこ

とは悲観的とも思える︒そこに︑ラッセルの平和運動の体験を看取することもできよう︒しかし︑それ以上に重要な

(7)

のは︑彼が理性的人間という既往の人間観から大衆として動く人間に考察の射程を移し︑これにあわせて以下の論述

を進めているということである︒T・ガイガーやオルテガ︑ヴィーゼ等が大衆︵日Oo力ω︶行動の分析を行ったのは二〇

年代後半のことであるが︑早晩﹁大衆﹂は分析の対象となる必然性があったとはいえ︑第一次大戦中の文明批判は︑

このような形で大衆を射程にのぼらせたのである︒しかし︑このマイナスのシンボルをもった﹁大衆﹂をプラスのシ

ンボルをもった﹁大衆﹂にしない限り︑文明批判はきわめて悲観的な結論を出さざるを得ない︒ラッセルはこのこと

を意識している︒彼の真の狙いは︑こういう直載的・感覚的な表現をとりながら︑心理伝染の素地の生成とその組織

化のメカニズムが下からの自発性という擬態をとってあらわれるものとして帝国主義・ナシ︒ナリズム等のメカニズ

ムを説明することであった⑧︒しかし︑その真の狙いを表現上の感覚性・直蔵性をこえて表わすことは︑マイナスの

シンボルをもった﹁大衆﹂にこそ訴えねばならぬという増を突破することになる︒目標はあくまでも後者に置かれね

ばならぬ︒

 ラッセルは︑ ﹁衝動﹂のうちに国家・財産・戦争等を生む﹁所有の衝動﹂︵もoωωΦ︒︒︷<o一目O巳ωo︶と教育・結婚・宗

教等を生む﹁創造の衝動﹂ ︵o器巴#Φ一日O巳ωo︶を区別する⑩︒だが︑いずれにしても﹁衝動﹂という概念を中核に

置く文明批判にとどまる限り︑右の区分は畢寛現代の諸機構が︑個人の認識能力の範囲を超え︑統御の範囲を超えた

巨大な機構︵o蹟①巳N旬江oロ︶として出現していることωの指摘ではあり得ても︑これを人間が統御し︑人間の創造性

を発展させる条件として再建しようとする意図は具体的な方途を示し得ず︑期待可能性の表明にとどまらざるを得な

い︒そのことは︑たとえば政治制度の一つと化しているとされる公教育批判の中に看取されよう︒ ﹁殆んどすべての

教育は政治的動機をもっている﹂︒それはある集団  国家・教会・社会  が他と区別し︑他と競争するために︑特

定の知識や価値観を注入し︑学校の維持者に反する知識や論争的問題を教育内客から排除しているところに端的にあ

   現代教育思想の原型︵その一︶      三三

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   現代教育思想の原型︵その一︶       三四

らわれている︒その結果盲目的衝動・所有の衝動のみが拡大され︑個人は巨大な機構のうちに組み入れられていなが

ら︑それを認識し得ず︑徒らに機構に支配され︑盲信の虜となってきたのである︑とラッセルは指摘する︒だが︑こ

の告発も﹁政治的武器としての教育﹂に対して﹁子どもの権利﹂を対置することで一応の終止符を打たざるを得ない

という文明批判の本性から来る限界に当面する︒

 ﹁政治的武器としての教育は︑われわれが子どもの権利を尊重するならば存在し得なかったであろう︒われわれが子どもの権利を

尊重するなら︑彼らに独立した意見を形づくるに必要な知識と精神的習慣を与えるように教育すべきである︒だが︑政治的制度とし

ての教育は︑型にはまった意見しか持てぬように習慣を形成し︑知識を制限するように努めている﹂⑫

 同様の表現と論理は︑一九一七年の﹃政治的理想﹄︵勺o巨片巴包o巴ω︶にも見出される︒この書も巻頭から﹁所有

の衝動﹂と﹁創造の衝動﹂から説を起しているが︑そこでは﹁政治・社会制度はそれらが個人に与える善・悪によっ

て判断されるべきである﹂⑬とされている︒これは︑さきのプラスとマイナスの双方のシンボルをもつ﹁大衆﹂の両

シンボル間の緊張を超えたプラスのシンボルとしての﹁個人﹂であり︑絶対的価値規準としての個人である︒この

﹁個人﹂と︑ ﹁財産と権力﹂に基礎をもつ制度ooとの対置が彼の現代文明批判の背後にあるシェーマである︒そのシ

ェーマによって現代文明を解剖するならば︑危機意識は生の表現をとらず︑凝縮され科学的方法を媒介として財産論⇔

権力論とならざるを得ない︒しかしながら︑正負のシンボルの緊張をもって﹁大衆﹂を発見したラッセルにとってこ

れを財産論・権力論に解消することは︑科学の名において﹁大衆﹂とは無関係なレベルに飛翔するものと映った︒危

機意識の生の表現を特徴とする文明批判は科学の名による迂回を待ってはいられない︒文明批判の本性からくる幾多

の制約は︑こうした性急さをもつにもかかわらず︑その性急さは︑通常問題をあくまで人間の問題と把握するという

美しい名辞に覆われてあらわれる︒

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二︑中立一元論の意義

 以上見てきたところから察せられ乱ように︑ ﹁衝動﹂という概念の機能は︑ある意味では︑近代の思想家が出発点

に据えた﹁人間自然﹂︵出已︹口ρ︼声 ウ臼①げ已﹁O︶とアナロジカルにとらえられる︒彼らがこの概念によって明確にしたのは︑

人間と自然との関係に連続性を与えるとともに︑人間自然に相応した社会像を構築し︑人間と社会に連続性を与える

ことによって現状批判の規準とすることであった︒しかしながら︑このような自然−人間−社会の連続と調和は現実

には常に破られようとする︒古典的近代におけるこの構図自体が︑神の創造を前提とした虚構であることはあらため

て指摘するまでもないが︑この調和の破綻は近代人に虚構としての社会像の説明原理の修正に向かわせる︒自然との

類比から発見された技術を自然に対置し︑これを人間の手で馴馳するという原理が人間自然をとらえたとき︑それは

開発さるべき対象と意識あれた︒人間自然のもつこの相反する二重性︑すなわち文明批判の価値規準としての人間自

然と開発さるべき対象としての人間自然︑は機能的にはラッセルにおける絶対的価値規準としての﹁個人﹂とマイナ

スのシンボルをもった﹁大衆﹂に相応する︒

 ところで︑ラッセルが﹁人間の衝動は︑一部は生来の︵ロ9一くo︶素地により︑一部は機会と環境︵o旨09巳昌③昆

oロく冒oロ日窪坤︶︑とくに初期の環境によって形づくられる﹂⑮と考えるとき︑彼は︑前述の文明批判の制約の増を越

えたといい得る︒ここにはいくつかの重要な問題が含まれている︒第一の問題は︑彼はここで遺伝と環境の決定論の

双方を一種の宿命論に陥るものと見︑いずれにも与せずに︑両者の関係を追究するという態度をとったということで

ある︒当然そこには文明批判の態度に見られたごとき危機意識の生の表現は見られない︒この姿勢は一九二六年の

﹃教育論﹄︵Op両臼ξp江oロ︶︑一九三二年の﹃教育と社会体制﹄︵国臼ξ①江8①ロ含白りo島巴○﹃口隅︶等にも引き継がれる

   現代教育思想の原型︵その一︶      三五

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    現代教育思想の原型︵その一︶      三六

であろ一つ︒第二の問題は︑ラッセルの﹁機会﹂のとらえ方の問題である︒国家の管理する教育制度にあっては︑ ﹁機

会﹂は個人の選択の余地のない﹁機会﹂となっている︒現代の教育制度においては︑人間形成は環境と人間との相互

交渉一般に還元できず︑その交渉過程白体が政治過程となっている︒とラッセルは指摘する⑯︒第三の問題は︑ラッ

セルの環境のとらえ方の問題である︒彼によれば︑環境一般は現代社会においてはあり得ず︑家族・学校・職場等の

集団︑なかんずく経済組織に規制される集団としてとらえられねばならぬ⑰︒個人の判断や行為に力を及ぼしている

これらの集団をつきつめて行けば︑最終的には国家と経済組織に行きつかざるを得ない︒これをラッセルは逐次示唆

し︑明示しながらも︑問題をすべて国家あるいは経済組織に還元することを拒む⑱︒この際の拒否の根拠は︑第一に

指摘した姿勢と係わっている︒環境の側からとらえれば︑国家あるいは経済組織は︑常に家族・学校・職場集団を媒

介として個人に不断に接する︒個人の側からとらえれば︑これらの集団こそが日常接触するものであり︑それらを通

して国家あるいは経済制度を感覚する︒個人が不可避的に接触し︑加入せざるを得ないこれらの集団は︑さらに民族

性.地域性等の特殊な文化的伝統に着色され︑習慣として貯蔵され︑日常の人間行動を規制している︒それが個人の

成長に深く係わるのである︒それゆえに︑個人の成長に着目するならば︑個人の成長過程に影響するさまざまな集団

の貯蔵する伝統を無視することはできない︑とラッセルは考える︒

 一九一八年︑反戦運動の廉で投獄されたラッセルは︑獄中の四ケ月半の間に﹃数理哲学入門﹂ ︵冒言o口ξ江oo 9

§夢Φ日①江nρ;匡︒ω︒︒ξ︶を執筆し︑さらにJ・デュ←の﹃実験論理学論集﹄︵団・・§ぎ日弓豊目葺・二゜σ・芭

に関する長文の批評を書いている⑲︒同年九月︑第一次大戦終結の直前に出獄した彼は﹃精神の分析﹃︵吋プo巨ロ巴ぺω︷ω

︒h呂芦巳︶の執筆にとりかかった︒この書物は彼がソビエト・中国旅行をした後の一九二一年に出版されたが︑そこ

にはW・ジェームズやワトソンの行動主義の批判的摂取のあとが看取されるであろう︒ラッセルは︑プラグマティズ

(11)

ムの価値観を批判しながら︑他の面ではこれに接近し︑いわゆる﹁中立一元論﹂︵﹈POρ︷﹃騨﹂ ︹口O口︷ωb﹈︶の立場︑物質と

精神を二元論的に対立させるのではなく︑両者をともに世界構成物と見︑感覚における主客の区別を放棄する立場に

立っている︒危機意識の生の表現をもった文明批判から中立一元論への道程には第一次大戦の終結が重要な意味をも

っていることは否めないが︑思想的にはプラグマティズムの批判的摂取が契⁝機となっていると見るべきであろう︒

三︑幼児教育論−中立一元論の具体的展開ー

 普通ラッセルの﹃教育論﹄と呼ばれている書物は一九二六年に出版された︒それは︑﹃教育論︑特に幼年期におけ

る﹄︵○旨国口仁np江oP国︒︒Ooo冨一百冒ひ匡包ゴoo創︶という副題をもっている︒ここからもわかるように︑本書の主要

な関心は幼年期に置かれ︑ラッセルは自分の子どもの観察をもとに︑人間の性格形成は六歳以前で決定すると見てい

る⑳︒  本書の序文でラッセルは︑つぎのように論を進める  幼児をできるだけよく教育しようと思いながら︑現存の教

育制度がもっている弊害に彼らを曝したくないと考えている多くの両親がいる︒だが︑彼らが当面するこの重要な問

題は個々の親の努力によって解決しはしない︒現存の教育制度の在り方に反対であるとしても︑子どもたちを学校に

入れないで保母や家庭教師を雇う私教育の再現でこれを解決しようとしたら︑ ﹁それなしには当然教育の本質的要素

が欠けてしまう仲間との交際を奪いとる﹂ωことになり︑問題は出発点に逆戻りしてしまう︒それゆえ︑良心的な両

親は︑学校改革が社会のためであり︑自分自身の子どものためになることを信じて︑否応なしに学校改革に駆り立て

られざるを得ない︒だが︑両親の抱いている社会と個人の要求の調和にたいする期待は︑両親の属する階級によって

意味が異なる︒裕福な両親にとっては個人的な問題の解決は学校全体がよくならなくてもよい︒しかし︑労働者の両

   現代教育思想の原型︵その一︶       三七

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   現代教育思想の原型︵その一︶       三八

親にとっては︑全体の小学校の改革以外に解決の方途はあり得ないのである︒

  ﹁このようにして︑われわれ自身の子どもたちに対する愛情から出発してわれわれは一歩一歩政治や哲学といった非常に広い世界

 に連れ出されることになるだろう︒

  こういう広い世界のことについては本書の中ではできるだけ触れぬことにしようと思う︒本書でのべねばならぬことの大部分は︑

 われわれの時代の大きな論争的問題に関して私が抱いている見解とは係わりをもたないであろう︒しかし︑この点でまったくこれに

 係わらぬことは不可能である︒われわれが自分の子どものために希望する教育は︑当然人間の性格についてのわれわれの理想︑そし

 てかかる理想が社会において演ずる役割についてのわれわれの希望と係らずにはおれぬ﹂②

 ここには彼の基本的な視点が集約的に表現されている︒現代社会においては︑教育はさまざまな原因によって論争

的問題たらざるを得ない運命にある︒その追究は必然的に政治や哲学等の広範な問題領域へわれわれを導くことにな

る︒ ﹁こうした問題が出てくる場合︑これを避けることは怠惰であろう﹂㈱︒

 それでは﹃教育論﹄はこれらの論争的問題をいかに扱っているか︒ラッセルは右の証言とは矛盾するかのごとく︑

﹁私の目的とし︑志すところは︑できる限り論争的問題を避けることである﹂と言う︒その理由はいくつかあげられ

る︒しかし︑最も重視されるべき理由は︑教育学や心理学における注目すべき一団の新知識︑﹁教育と密接な係りを

もちながら上述の究極的な問題とは別個である﹂ような知識の生成によって︑生後最初の五ケ年間の教育は︑ ﹁今や

比較にならぬほど大きな意義を与えられ﹂︑両親の教育的役割が重視されるに至った︒この段階の教育に論争的問題

を持ち込むよりは︑新しい知識を両親のものにしてやり︑現に子どもを抱えてどうしたらよいか困惑している両親に

見通しを与えることの方がより緊急であり︑より具体的である︒

 良心的な両親は︑マイナスのシンボルをもった﹁大衆﹂ではなく︑あきらかにプラスのシンボルをもった﹁大衆﹂

である︒つまり︑﹁自分の子どもへの愛情から出発して︑一歩一歩政治や哲学といった非常に広い世界へ進みに行く

(13)

﹁大衆﹂である︒ ﹁論争的問題を避ける﹂という前提には︑それから完全にインデペンデントであり得るとか︑小状

況にこもることとも違い右のごとぎ働きかける天衆﹂のシソボルの違いがあった︒﹁中立二兀論﹂は︑この﹁大衆﹂

に支えられて意味をもつ︒こうして文明批判の生の直載な危機意識の表現はマイナスのシンボルをもつ﹁大衆﹂をと

らえたのにたいし・その﹁大衆﹂をプラスのシンボルでとらえた﹃教育論﹄においては︑ ﹁中立一元論﹂は﹁大衆﹂

の立場に立つ教育論を生むことになる︒その内容についての詳細は当面の問題ではないが︑彼の﹃教育論﹄の中に書

かれている幼児教育観は依然高く評価さるべきものであることを指摘するにとどめよう︒

皿 ﹂・デユーイ

一、

@﹁有機的観点﹂の自信

 J・デューイは一八五九年︑ダーウィンの﹃種の起源﹂︑マルクスの﹃経済学批判﹄の出版された年に生まれ︑﹁た

とえずつきまとう﹂この二つの思想を意識しながら⑳プラグマティズムの泰斗として活躍し︑ 一九五二年にその長い

生涯を閉じた︒

 デューイの晩年︑一九四五年にB・ラッセルは大著﹃西洋哲学史﹄︵巨口︷ω9﹃町昆綱oω吟o日勺匡ざ゜︒︒O庁く︶を著し

た︒その第三〇章でラッセルはデューイの思想について論じているが︑その中につぎのような一節がある︒

 ﹁デューイは﹁ただの﹂哲学者と呼んでいいようなものであったことはこれまで一度もなかった︒ことさら教育ということが︑彼

の前面にあったのであり︑アメリカの教育にたいする彼の影響はまさに甚大なものがある︒それには見劣りするかもしれないが︑わ

たしは自分のやり方で︑彼の影響ときわめて似通った影響を教育に与えようと努力してきている︒﹁00

  現代教育思想の原型︵その一︶      三九

(14)

    現代教育思想の原型︵その一︶       四〇

 そして以下ラッセルは﹁自分と同じように彼は⁝⁝﹂という言い方で自分とデューイの思想を五点  ①自らの思

想的追随者たちの行動に必ずしも満足していないこと︑②露中両国を訪れ︑多大の影響を受けたが︑前者には否定

的︑後者には肯定的︒積極的な評価を与えたこと㈱︑③﹁第一次大戦を彼は本意ならずも支持したこと﹂︑ ④トロッ

キーの罪状が無根であることを証明すべく努めたこと︑⑤一度もマルクス主義者ではなかったことーにわたって比

較し︑デューイが彼に語ったという﹁伝統的な正統神学から若干若労してみずからを解放したのだから・自分を再び

いま一つの神学で縛るつもりはない﹂ということばに賛意を表しつつ︑すべてこれらの点で彼の見地はほとんどわた

し自身の見地と同一なのであるL⑥とのべている︒だが︑このうちの③は︑右のラッセルの証言にもかかわらず両者

の思想と行動における相違︑ある意味では対立さえしかねない相違を示していると思われる︒ ﹁第一次大戦を本意な

らずも支持した者と︑反戦運動の廉で投獄された者との行動面における相違︑また一九二〇年という時点で︑国家を

さまざまなアソシエーションの利害の対立の﹁調停者︵﹃〇一四已︼ρけO﹃︶﹂︑﹁オーケストラのコンダクター﹂と見た者⑳と︑

国家を暴力をもった巨大な機構と見た者の理論面における相違は決定的であるといわねばならぬ︒ラッセルの真の意

図は︑後述するように︑デューイと自分との類似点を羅列することよりもむしろ一見類似して見えるもののうちに決

定的相違があることを示すにあった︒ラッセルにとって﹁既往の信念の変更﹂を迫った第一次大戦は︑デューイにと

っても従来の学問.科学への衝撃と受けとめられた︒その衝撃をデューイは一九一八年に﹁第一次大戦は従来の社会

科学がすべて一片の神話であった09﹂ことを教えたと表現する︒それから三〇年後︑すなわち第二次大戦の終結した

後の一九四八年︑デ︑▲は︑新しい思想の再興が必要である︑それは笙次大戦直後と少しも変っていないと強調

しつつ︑﹁第茨世界大戦は︑民族や階級の間の相互理解への持続的進歩の信念とか︑それゆえに調和と平和への確

実な動きがあるのだという広範な信念を行きわたらせた初期オプティミズムの時代に対する決定的な衝撃であった﹂

(15)

⑳とものべている︒この衝撃は︑表現上はラッセルのそれと似ている︒だが︑ラッセルのそれと似ている︒だが︑ラ

ッセルに思想的転換をもたらした第一次大戦の衝撃は︑デューイにおいても思想的転換をもたらしたのであろうか︒

これをしばらく検討しょう︒

 第一次世界大戦はデューイに﹁有機的観点﹂︵o﹁σq①巳︒廿o日叶昆く甘笥︶の必要性⑳を痛感させた︒一九二〇年に出

版された﹃哲学の再興﹄︵勾oooロ゜︒含ξ江oロo︷勺巨ぎ・・o匂ゴ町︶全体を貫く基調はこの観点の必要性の強調にほかならぬ︒

﹁有機的観点﹂とは何か︒デューイはこれこそ今日の社会哲学に必要なものであると説きながら︑従来の社会哲学の

﹁誤謬﹂は︑それらが用いた抽象的な実体概念と学問の体系の構築を自己目的とした形而上学にある︑と言う︒その

一例として彼は︑ ﹁個人﹂と社会を対立的にとらえる弁証法を二重の意味で誤っている︑と見る⑬︑なぜそうなのか︑

についてはつぎのことから説明される︒形而上学の否定は当初からデューイに科学的根拠をどこに求めるかという課

題を課した︒彼が多くの著書の中で明示しているように︑彼はこの課題を生物学から多くの示唆を得て解決した︒す

なわち︑彼は有機体と環境の関係を﹁状況﹂︵ω津§江o昌︶という場の論理で把握し︑そこにおける機能面を重視する︒

この論理からすれば︑有機体と環境の厳しい対立は消滅し︑有機体と環境はもっぱら適応の関係でとらえられること

になる︒人間と自然の関係も適応と再適応の過程に溶解する︒もちろん︒この論理が︑人間と人間の関係にも適用さ

れ︑そこにおける厳しい対立はコミュニケーションの中に溶解する63︒この二つの溶解が﹁有機的観点﹂にほかなら

ぬ︒そしてこれこそ︑第一次大戦以前の三十年間にデューイが強調してきたところであった︒その意味では︑第一次

大戦の衝撃はデューイに自分の観点に対する自信を一そう強めさせるように作用したといえる︒これは重要な事実で

ある︒第一次大戦に﹁西欧の没落﹂を見︑あるいは国家間の衝動的対立を見た者が︑暗い絶望的な基調を帯びた危機

意識を直載的に生に表現せざるを得なかったのにくらべ︑デューイにはそれがいささかもうかがえぬ︒それは︑先に

   現代教育思想の原型︵その一︶      四一

(16)

   現代教育思想の原型︵その一︶       四二

引用したデューイの反省的な証言にもかかわらずいかにも明るく︑さまざまな根元的対立をもコミュニケーションに

乗せ得ると信ずる明るさにみちている︒そこに第一次大戦を契機として世界に覇していくアメリカ社会に生まれた楽

観性を看取することができよう︒もっとも︑このように︑思想家の時代による存在被拘束性を認めることは︑ラッセ

ルの証言通り︑デューイの最も嫌悪するところであった60が︒

二︑ ﹁習慣﹂の発見

 自己の立場に対するデューイのこのような自信は︑一九二二年の﹃人間性と行為  社会心理学入門﹄に至って頂

点に達する︒彼の使う表現によってこのことを﹁遡行的﹂︵﹃o言o名Φo江くo︶にいえば︑それ以前に書かれた﹃学校と

社会﹄︵一九〇〇︶︑﹃子どもとカリキュラム﹄︵一九〇二︶︑﹃学校と子ども﹄︵一九〇七︶︑﹃教育における道徳の原理﹄

(一

縺Z九︶︑﹃明日の学校﹄︵一九一五︶等の教育論もその他の書物もすべて﹃人間性と行為﹄に盛られた内容の逆流

であると見ることができる︒ ﹃人間性と行為﹄がデューイの思想のそれまでの綜括であり︑その後のデューイの思想

的発展の大きなステップとなっていることは誰しも認めるところであろう︒

 ﹃人間性と行為﹄の中心テーマは︑社会心理学への鍵として﹁習慣﹂を正当に位置づけること⑮︑ ﹁人間性﹂を超

歴史的な不変のものと見る立場と社会の形式物であると見る立場の調停︑本能と社会的影響という﹁二つの力の均衡

を保つこと⑯﹂等々と表現されている︒さまざまな表現が可能であるが︑その中心テーマが﹁すべての行為は人間性

と自然的・社会的環境の諸要素間の相互作用︵一b戸Φ﹃①0坤一〇﹈P︶である⑰﹂に集約的に表現されていると見ることができ

る︒この表現のうちに﹁有機的観点﹂を読みとることは容易であろう︒環境と有機体のインタラクションが︑有機体

の側から見れば︑有機体が環境に適応していく過程であるとすれば︑人間の社会生活にこの論理を適用すれば︑人間

(17)

の社会生活は﹁習慣・制度・信仰・成功・失敗・娯楽・業務等﹂におけるインタラクション︑すなわちコミュニケー

シ・ンを通した不断の再適応の過程である︑ということになる︒このような不断の再適応の過程に焦点をあてること

よってデューイの立場は・有機体と人間とのアナロジーから察知されるように︑人間の生活における習慣的行為︑非

反省的経験を第一義的にとらえる立場となる︒ホモ・サピェンスの姿は︑老大な社会の習慣の群の中に浸し去り︑代

って習慣の律する中で再適応し︑シチュエーションの変化が生ずる場合に限って︑過去の経験をもとに反省的思考を

する人間像が前面に出てくる︒この人間像は︑さきにラッセルが発見したプラスとマイナスの双方のシンボルをもつ

﹁大衆﹂︵Oば騨ωoo︶︑それを絶対値でとらえたものである︒ ﹁大衆﹂という概念は︑デューイの指摘をまつまでもなく︑

有機的擬態と類比される概念である︒それゆえに︑﹁大衆﹂を絶対値的﹁大衆﹂としてのレベルで考察している限り︑

有機体の行動の類比何上の成果をあげることはできぬ︒デューイは﹁大衆﹂的人間を視野に置きつつ︑それを生み出

した原因よりはその結果を重視し︑コミュニケーション過程が個人にいかなる作用を及ぼすかという個体発生に焦点

をあてる︒有機体との類比からすれば︑これは個体発生が社会の中でいかに行われるかということになろう︒人間が

社会的習慣︵∩⊆ω9日︶との無限のインタラクションの過程で個人的習慣︵ゴ菩芭を獲得し︑再適応していくとすれ

ば︑これを主張したデューイは︑人間の生活の中に見出される無意識的な無限回数のインタラクションは︑意識的な

教育に時間的にも空間的にも先行し︑意識的な教育以上に巨大な影響力を有することを示そうとしたといえる⑱︒す

なわち︑各個人の行為・思考・感情のパターンは習慣によって形成され︑個人は生活する能力を社会によって︑社会

の中で獲得する︒社会はそのことによって︑そのことの中で代謝を営み︑持続する︒デューイは以上の論理によっ

て︑教育といえば学校教育と見なされていることを批判し︑教育が一生涯続く再適応の過程であることを明らかにす

るとともに︑学校教育は右のような生活の過程を原理として再編されねばならぬことを繰り返し強調する︒これはた

   現代教育思想の原型︵その一︶       四三

(18)

   現代教育思想の原型︵その一︶      四四

しかに教育を新たにとらえ直すーデューイの表現によれば教育における﹁コペルニクス的転回﹂をもたらすー考

え方であった︒それがいかに展開するかは後述することにして︑デューイの着目した﹁大衆﹂ ︵デューイのそれはプ

ラス.マイナスのシンボルの対立がない︒いわば絶対値をもってとらえられている︶の生活において無限回数も生起

するインタラクションをさらに別の角度から検討して見なければならぬ︒

 ﹁大衆﹂の生活をマイナス・プラスのシンボルなしのシンボルでとらえたデューイは︑右のインタラクションを主

客の溶解したシチュエーションの中でとらえた︒こうして︑ ﹁大衆﹂の生因も︑その社会生活の基底にある厳しい対

立︑あるいはコミュニケーションを支える社会の物質的基底はデューイの視野に入らず︑すべてはコミュニケーショ

ンに溶解される︒つまり︑ ﹁単に社会生活がコミュニケーションと同一であるだけではなく︑すべてのコミュニケー

ション︵従ってすべての純粋な社会生活︶は教育的である09﹂という言い方に示されているように︑無限回数のイン

タラクションはコミニュニケーションにほかならず︑それは広義の教育なのであり︑この無限回数のインタラクショ

ンコミュニケーションこそ社会生活である︑とデューイは言う︒ ﹁有機的観点﹂はここに至って実体概念の完全な否

定に達する︒別三口すれば︑社会という実体はコミュニケーションのうちに完全に溶解し︑コミュニケーションの内容︑

さらにそれを基礎づけている物的条件も捨象されることになる︒

三︑意識の流れとシンボル

 デューイが﹃人間性と行為﹄を著したとき︑すでにE・カッシラーは﹃シンボル形式の哲学﹂⑩︵勺宮古︒・ε三〇巳o﹃

乙リ

y日ぴo一冨∩廿o昆自日窒︶を執筆していた︒彼が明らかにしたのは︑人間は他の動物のごとく物理的宇宙における感受

系と反応系の間にシンボルのシステムによって第三の連結を獲得した︑この新たな機能の獲得は人間の全生命を変形

(19)

させ︑人間はシンボルを使う動物︵﹀巳日巴の町日ぴo声︷o已日︶として動物とは異質の新次元の実在のうちに生きている

ということであった︒カッシラーにとっては︑シンボル的思考・シンボル的行為こそ人間の本質であった︒デューイ

が強調する﹁有機的観点﹂をカッシラーはシンボルのシステムによって否定しようとする︒.前者は無意識的な﹁習慣﹂

の世界を︑後者はシンボルの世界を発見し︑前者はそこにおいて有機体と人間とを溶解し︑後者はそこにおいて動物

と人間とを切断する︒デューイにおける人間がシチュエーションの変化のない限り思考せず︑習慣の中に葡旬する人

間とすれば︑カッシラーにおける人間は常時シンボル的世界で思考し︑行動する︒

 それではデューイは思考をいかにとらえたか︒デューイは一九一〇年の﹃思考の方法﹄︵国o≦綱o書甘吋︶の中で

思考とは﹁意識の流れ︵の﹇﹃OP巳P O噛 OOb﹇ω○一〇已ωb﹇Oωω︶﹂であると規定している︒ ﹁教育過程にたいする反省的思考の関

係⑫﹂を説いた本書では︑思考作用の中心的要素は表示︵︒・︷σqロは司︶の機能と明証︵oぐ宣88︶に基づく信念であり︑

思考作用はシチュエーションの中で起る困惑︵Oo壱宮×一q︶・混乱︵8自皆巴8︶・疑い︵口o已宮︶から生じ︑思考の価

値は行為に対する組織的な準備と創意を可能にし︑事物の意味を豊かにするところにあると説かれている00︒それは

﹃人間性と行為﹄にもそのまま引き継がれる︒だが︑ここでは新たな事実認識︑つまり社会的習慣の変容・対立・シ

チュエーションそのものの急激な変容の意識⑬も看取される︒デューイは︑今日習慣のパターンは急激に変化し︑今

日の社会的習慣は相互に矛盾するoo﹂に至り︑階級・男女・世代・国家・国民・民族等の間には︑歴史上かつて見ら

れなかったほどの対立がある㈲︑と指摘する︒当然以上の事実認識はデューイに再適応の指針である反省的思考︑ひ

いてはコミュニケーションに関する理論に重大な修正を迫るであろう︒なぜならば︑そのような事実認識は経験や反

省的思考の枠を超えた事実の変容の原因の追究にほかならぬからである︒だが予想に反してデューイは自説を修正せ

ず︑思考を経験の枠内に閉じこめ︑ ﹁意識の流れ﹂に従属させようとする︒彼が部分的に自説を修正するのはパニッ

   現代教育思想の原型︵その一︶       四五

(20)

   現代教育思想の原型︵その一︶      四六

クの後︑一九二九年以降であるが︑右のようにデューイが自説の修正を拒否した理由をさぐるためには︑さしあたっ

て﹃民主主義と教育﹂にまでさかのぼればよい︒そこでデューイは言っている︒

 ﹁形式的な教育がなければ︑複雑な社会の全財産と全所得とを広く伝達普及することができない︒なお︑この形式

的教育は書物や文字を教えるところから︑無意識的非形式的教育が与えない一種の経験を学ばせる︒しかしながら︑

この間接的教育から形式的︵直接︶教育に移るときに︑著しい危険が伴なう  抽象的で学究的になり易い︒⁝⁝進

歩した社会では知識は多くは符号として保存されており︑日常の行為や事物にそのまま転化することができない⁝⁝

すなわち︑教育は社会的必要より生じたものであり︑意識的生活に影響するあらゆる人間的インタラクションが教育

であるという事実を無視して︑偏に実際生活とかけ離れたことを教え︑また文字によって学習することをもって教育

と考えるようになったのである︒﹂㈲

 これは﹃民主主義と教育﹄中のデューイの教育観の骨子を明確にしている興味ある一節である︒ここでデューイ

は︑今日の学校教育における日常的感覚的な経験とシンボルの乖離現象を指摘しているのである︒彼は︑日常の感覚

的経験︑自己の確証し得る空間内での経験︑予見し得るための経験を重視することによって︑シンボルをその生成の

段階に還元し︑シンボルを経験によって再確認し︑人間の発達段階における経験はそれ独自の完結性をもっているこ

と︑そこでは思考と行動が有機的に結合していると見た︒それが﹁有機的観点﹂の基調を帯びていることは否めない

にしても︑問題を別の角度からとらえれば︑それはデューイのこの書物を書いた頃から急速に姿を現して来た機械的

なシンボル造出による大衆操作︑初期大衆社会に対する対抗策であったとも見られる︒だが︑デューイの書物におけ

る成長の概念に関して恐らく誰もが気づくように︑﹁有機的観点﹂の背後に暗黙の仮説ー個体発生は系統発生を繰

り返す  があった︒それがシンボルを発生の段階に還元し︑そこにシンボルと感覚の有機的結合を見る下地となっ

(21)

ている⑰︒大衆社会のシンボルの体系マス・コミュニケーションに対抗するためにパーソナル︒コミュニケーション

の意味を再確認すること︑教育をパーソナル・コミニュケーションの論理で再検討すること︑それがデューイの課題

であった︒それは︑デューイが対決した二つの問題︑教育そのものがマス・コミュニケーション化せざるを得なくな

っていること︑また他方で教育が経験とは無関係な時代遅れの書物主義を脱しきっていないこと︑これら二つの矛盾

する問題︑急激な機構的変容と教育制度の極端な伝統性に対するアンチ.テーゼであった︒デューイにはこの両者と

もシンボルと感覚の乖離と映じたのである︒デューイが感覚とシンボルの有機的結合を強調する理由もそこにあっ

た︒それによってデューイは子どもの発達に自己完結性をもたせようとした︒しかし︑他面そのことによって︑デュ

ーイの思想は︑自然科学の方向を指示し得ず︑あるいは歴史的な観点が稀薄であると批判されることになった⑱︒

 以上の考察からも明らかなようにデューイの前には二つの方向があった︒デューイは︑このうちの一つの方向︑コ

ミュニケーションの追究の方向をとった︒デューイがその意義の重要性を指摘しつつも︑その方向に進まなかった方

向︑つまり人類の知識の遺産の再吟味︑生活に必要な知識の構造︑端的にいえば教育内容の再吟味︑再編成の方向は残

されたと見てよい︒当然そこには科学の成果も繰りこまれ︑価値観も含まれざるを得ないし︑コミュニケーションそ

のものも含まれざるを得ない︒子どもの発達段階に即してそれが更に系統的に配当されねばならぬものであることは

論をまたぬ︒だが︑子どもの発達段階の発見というデューイの功績にくらべると︑この問題に関するデューイの言及

はまことに弱い︒いや︑殆んどふれていないといっても過言ではない︒この事実は︑デューイのコミュニケーション

論︑ひいては子どもの発達論の弱さにつながるものではないか︒すなわち︑一般的な図式でいえば︑オリジナルとコ

ピーという二つの相応的対立的な概念がコミュニケーション論の前提には不可欠であり︑しかもこの二つの概念をと

らえるにあたって︑これらの両者の関係を無機的物質的なものをモデルとしてとらえるか︑それとも有機的なものを

   現代教育思想の原型︵その一︶      四七

(22)

   現代教育思想の原型︵その一︶       四八

モデルとしてとらえるかによってコミュニケーションの構造は決定的に異なってくる︒前者の立場をとったのはラッ

セルであり︑後者の立場をとったのがデューイである︒いずれのモデルも子どもの認識発達をとらえるにあたっては

重要であるが︑デューイはこの後者に視点を限定した結果︑オリジナルとコピーの相応関係は発見し得たが︑対立関

係は繰りこみ得ず︑ために子どもの発達の発見は一面的なものとならざるを得なかった︒そしてまたすべてをコミュ

ニケーションに溶解することになった原因もここに再確認されよう︒後年ラッセルはデューイの思想には﹁天文学の

コスモスが存在することはもちろん認められているが︑それはほとんど常に無視される﹂と指摘し︑客観的事実に依

存する真理を認めない立場は︑無根拠の想像に基づく世界をつくり出し︑力の陶酔へ向かう﹁現代における最大の危

険﹂な立場であると批判している09︒これに似た批判はその後もデューイの思想にたいして加えられた︒しかし︑そ

れ以上に重要なのは︑アメリカの教育学者の中からデューイの思想に批判が加えられ︑しかもそれが先に指摘したよ

うに︑人類の文化遺産をいかに次世代に伝達すべきかという視点がデューイには無視されている︑という批判だった

ことである︒人間として十全な生活をおくるためには︑各年令段階発達段階を通して︑どのような知識を修得すべき

かという視点がそこから帰結されたことはいうまでもない︒かくて︑デューイから相反する二つの教育学派︑いわゆ

るプログレシィヴイストとエセンシャリスト︑が流れ出ることになる︒

皿 E・クリーク

一、

@﹁民族精神﹂の追発見

デューイの﹃人間性と行為﹄が出版された一九二二年︑敗戦国ドイツの一都市で﹃教育の哲学﹄︵勺匡ざω8巨Φ画窪

(23)

出目富げ已5σq︶という書物が出版された︒著者の名はエルンスト・クリーク︒その時までにプラグマティズムの泰斗と

して名を馳せていたデューイと異って︑その名は殆んど知られてはいなかった︒彼が活躍するのは一九二〇年代の後

半︑なかんずく一九三三年ハイデルベルク大学総長就任以降︑つまりヒトラー政権下においてであった︒しかし︑そ

の後のクリークの多くの著書を検討すればただちに明確になるように︑その教育思想は︑本書において殆んどその全

体像を形づくっており︑敗戦国ドイッの複雑な国情・国際関係を反映して︑ラッセル・デューイとはあきらかに異質

の危⁝機意識に支えられている︒

 すでに見たように︑第一次大戦後の世界の諸情勢を見たラッセルは︑ナショナリズムと民族問題に深い関心を寄せ

た︒彼がショービニズム化したナショナリズムと民族問題を区別し︑あるいはコスモポリタニズムのイデオロギー性

を鋭く批判していることは十分注目に値する⑪︒他方デューイは中国訪問中﹁五四運動﹂をまのあたりに見︑中国の

将来に積極的評価を与えたが︑その思想のうちには民族の問題は脱落している︒しかし︑クリークの場合には︑敗戦

はドイッ民族の滅亡の危機と意識された︒これはクリークに限ったことではないであろう︒民族を歴史の主体と見︑

文化史・精神史のうちにその具現を見る立場は︑十八世紀の古典主義・ロマン主義とともに古く︑それはドイッ的思

惟の最大の特徴とさえいわれている︒だが︑ドイッ古典主義・ロマン主義がすでに市民革命を経て新しい統一国家と

して出発した英・仏をモデルとした市民革命の精神的な具現形であり︑精神面での先進国との対等意識の思想的表現

であったとすれば︑ナポレオンによる支配に対抗して起ったフィヒテ︑フンボルト︑シュライエルマッヘル等のドイ

ツ国民への呼びかけは︑文化的な対等・優越意識の強調による統一国家の再興の構想であり︑それはなかんずく教育

による新しい民族の造出を手段とするものであった㈲︒このような構想はその後もさまざまなヴァリュエーションを

生みながら二十世紀前半のドイツ思想の中に流れている︒歴史主義︵︸︼声ωけO﹃声ω︷ω5P一﹄ω︶ の立場をとる歴史学者がこれ

   現代教育思想の原型︵その一︶       四九

(24)

    現代教育思想の原型︵その一︶       五〇

を認めるのは当然であるが︑ ﹁現実科学﹂︵♂<一﹃犀一︷Oげ一︵O声件≠<一〇〇ωO口ψ06庁P峠﹇︶を標榜し︑この種の問題には殆んど関心を

示さないかと思われるある社会学者でさえこのことを以下のように記し︑ドイツの精神史のうちに流れている∧民族

精神Vの形而上学性を認めている︒

   ﹁ロマン主義は民族および民族精神という︑形而上学的に最も深遠な概念をつくりあげた︒この概念はフィヒテの﹃ドイツ国民に

 告ぐ﹄のなかで哲学的に企図され︑へーゲルによって哲学的に完成され︑歴史学派はそれによって精神科学的に研究している︒民族

 精神は生産性の無尽蔵な貯蔵庫として現われ︑あらゆる個人的な創造をもたらす歴史的な原動力となる︒国民と国家とが一致せず分

 離しているドイッの状況は︑個人を秩序づける偉大な精神的有機体が国家ではなくて民族であるという学説の真の基礎をなしている  ㈲﹂

 第一次大戦の敗戦が︑この思想的基調を再度噴出させたのは決して偶然ではない︒いわゆる生の哲学の洗礼を受け

ていたクリークの最初に著した書物が︑文化哲学批判を意図した﹃人格と文化﹄︵勺窪のO邑︷n庁犀Φ詳已巳民已一けξ︶二

九一〇︶であったことは意味深長である︒そこに盛られた内客は︑明らかに先に紹介した社会学者の指摘する坪内に

ある︒しかし︑その副題の示すように︑文化哲学の批判を試みたこの書物は︑ブイヒテ︑へーゲル︑歴史学派とも︑

文化哲学とも明確に異った方法をとっている︒クリークは︑ ﹁民族精神という形而上学的に最も深遠な概念﹂を民族

の生活︵↑oぴ6⇒︶の次元に引き下ろし︑民族の生活様式の中に民族的一体化を作り出すメカニズムを発見しようとす

る︒  敗戦後︑その理念においては史上かつてないワイマール憲法をもったドイッは︑ドイツ共和国学校法︵問o皆庁叩

ω︒げ巳ぬΦω窪N︶によって理念的には歴史上未曽有の教育制度を樹立するはずであった︒だが現実には︑敗戦に続く経済的

疲弊と階級対立︑ケインズをして天文学的数字と評さしめたほどの賠償の前に理念は理念のままにとどまらざるを得

なかった︒ ﹁生産性の無尽蔵な貯蔵庫﹂である民族精神が復活する条件もそこにあったのである︒しかし︑ ﹁生産性

(25)

の無尽蔵な貯蔵庫Lといういい方は﹁民族精神﹂概念の多義性を物語る事実といわねばならぬ︒すなわち﹁民族﹂は

文明批判の直裁な︑生の危機意識の表現のもとでは︑出Φ︷日をベースとする共同体︑それゆえにしばしば超歴史的な

価値を賦与されるくo臣であり︑外に向けては国家統一のシンボルとしての2ρ江8となる︒ ﹁生産性の無尽蔵な貯

蔵庫﹂はかくて﹁民族﹂概念の多義性にひとしくなる︒かつてこのことを指摘したE・H・ヵーは︑ネーションとい

う概念は多義的であり︑その多義性のゆえにナショナリズムもプラスとマイナスのシンボルをもっており︑その究明

はいたる所で陥穽にみちていると指摘した㈲︒クリークの教育思想には文明批判的な危機意識の生の表現というより

は自民族の置かれた状況に関する危機意識が具体的に表現されているが︑そこにはあいまいな民族概念が絶えず支配

的につきまとう︒さまざまなあいまいさをもちながらもクリークが︑自民族の置かれている状況について具体的に把

握しようとしたことは︑ ﹁教育科学﹂︵ω0一〇﹈口OO 臼O ﹈︑伽創已O①け一〇b﹇︶の唱導者︑フランスのデュルケムと並び彼が﹁教育

科学﹂︵国嵩甘ゴ§σqωSω・︒o口ω合①津︶の唱導者として一つの方法をもっていたためである︒デュルケムが︑普仏戦争二

八七〇1七一︶に惨敗したことを契機に教育改革に力を入れはじめたフランスにあって︑教育制度︑特に中等教育制

度を社会的事物︵n﹈ OωO ωOn一但一〇︶として追究したとすれば︑クリークは︑第一次大戦による敗北をこうむったドイッ

の教育を民族文化の角度からとらえ直そうとする︒デュルケムの﹁教育科学﹂論の性格は彼の主要な関心が中等教育

の制度的側面に注がれていたことから諒解される︒それは当時のフランスの教育が初等教育段階において完備したが

ゆえに中等教育に関心が注がれたことを意味しない︒共和国の教育政策が︑カトリックの力の強い初等教育を差し置

いて︑その力の比較的弱い中等教育の改革に集中していたこと︑またより積極的な問題としては︑普仏戦争後のプラ

ンスが新しい中間的指導者層を必要としていたことのためである︒デュルケムの﹁教育科学﹂論は以上のごとき教育

政策に呼応して︑道徳は宗教に依拠するものではなく︑社会的習慣の集成物であることを実証することによって道徳

   現代教育思想の原型︵その一︶       五一

(26)

   現代教育思想の原型︵その一︶       五二

と宗教を切断し・カトリックの力を学校から排除する一方︑中等教育の制度的変遷を追跡することによって教育内容

の世俗化を論証し︑その延長上に中等教育の制度改革の方向を示すものであった60︒対極に置かれたのは教育政策で

はなく︑カトリックであったこと︑そしてこのような方法の前提にフランスの復興という課題意識が強くあったこと

を見落してはならないであろう︒ ﹁教育科学﹂から﹁没価値性﹂をこのような背景と切り離してとらえ来ること︑あ

るいは﹁没価値性﹂の問題を彼らの﹁教育科学﹂論から引き出すことはあまり生産的ではないと思われる︒同様のこ

とはクリークの場合にもあてはまる︒第一次大戦後の世界をクリークは︑全人類が﹁巨大な運命﹂1露わな帝国主

義と世界貿易・世界経済  の前に直面したと見る66︒ 一言でいえば︑それはテクノロジーの時代︑﹁科学技術が現

実化した﹂時代である⑰︒しかし︑この超国家的な科学技術は︑国家間の対立の激化した現代にあっては︑その対立

を緩和するようには作用せず︑ますますその対立を激化することになる︒したがって︑かかる現実に伍していくため

には民族の一体化︵団巨庁Φ芭がますます強調されねばならぬ68︑というのである︒このライトモチーフはクリーク

の教育科学論の基底となっており︑デェルケムの場合と同様にクリークに没価値性︵綱O﹃けパ﹃O︷庁O︷け︶の考えを求める

ことは困難である︒

二︑めo日o甘︒・6庁旬喘☆冨ずo目の原機能

 一九二二年の教育の哲学は従来の教育学︵霊合σqooq声Φ︶・心理学︑更に現存の教育制産に対する批判の書であった︒

批判は彼が提起した教育科学︵両§一Φ庁巨σqω忌ωωoロω合騨津︶の基本的視点︑つまり﹁教育は共同社会の原機能︵Φ日o

d隅ニロ吋庄oβ一日Oo日o芦ω︒庁ρ津ω一Φぴo目︶である﹂ことの認識︑言語・宗教・法律・技術等々の有機的結合体である共

同社会︵家族・種族良族︶が営む生活機襲共同体の各成員に技能.技術のみならず共同体意識をも同時的に伝達

参照

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積極性 協調性 コミュニケーション力 論理的思考力 発想力 その他. (C) Recruit

注:一般品についての機種型名は、その部品が最初に使用された機種型名を示します。

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取組の方向 0歳からの育ち・学びを支える 重点施策 将来を見据えた小中一貫教育の推進 推進計画

の原文は“ Intellectual and religious ”となっており、キリスト教に基づく 高邁な全人教育の理想が読みとれます。.

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