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「敗者」のナショナリズム : 東海散士『佳人之奇 遇』を通じて

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(1)

遇』を通じて

著者 竹内 加奈

雑誌名 社会科学

巻 43

号 4

ページ 47‑81

発行年 2014‑02‑28

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013391

(2)

「敗者」のナショナリズム

─ 東海散士『佳人之奇遇』を通じて ─

竹 内 加 奈

東海散士柴四朗は会津藩出身の明治から大正期に活動した,政治家であり,ジャー ナリストであり,作家である。明治 18 年から 30 年にかけて刊行された彼の著作『佳 人之奇遇』は当時のベストセラーとなり,若者に絶大な支持を得たが,この著作を通 じて見られる彼のナショナリズムは,弱国の強国に対する「抵抗」を声高に唱えなが らも,一方でアジアに対しては,日本が「自国中心」に振る舞い,清国に対する「膺 懲」行為を肯定していく側面を持った。

このような彼の「錯綜」するナショナリズムの根底には,会津の亡国によって認識 された,正義と力の相克状態があった。彼の亡国体験は,世界の弱国に存在する「亡 国ノ遺臣」に対し共感しその連帯を訴えることを可能にした一方で,強者への憧れを,

力への憧憬をも刻み付けた。結果,散士は,会津の亡国を体験したが故に,正義は必 ず勝利するものであるという確信に基づいた理想主義を唱えながらも,その世界に完 全に没頭することが出来ず,最終的なところで,リアリズムの世界に引きつけられ,武 力や軍事力の存在に依頼し,力を持つ存在への憧憬を持つこととなった。この理想主 義とリアリズムのもつ論理的矛盾を内包し,双方の相克状態を持つからこそ,散士の ナショナリズムは「抵抗」・「自国中心」・「膺懲」三つの形態を持ちながら「錯綜」す る。

は じ め に

幕末に,外圧によって突如呼び起こされた近代日本のナショナリズムは,西洋に対す る憧憬と,アジアに対する侮蔑,連帯そして畏怖の混在した複雑な感情のなかで,様々 な形態を持ちながらその姿を現すこととなった。そして,このナショナリズムは最終的 にアジアを蹂躙するウルトラナショナリズムに変容していく。

東海散士柴四朗1)は会津藩出身の,明治・大正期に活動した作家であり,政治家であ り,ジャーナリストである。白虎隊に編成されながらも出撃することなく生き延びた彼 が,自己の体験を織り交ぜながら著した『佳人之奇遇』(明治 18 年(1885)〜同 30 年

(1897)全 8 編 16 巻)は当時のベストセラーとなり,若者に絶大な支持を得た。この作

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品の中で散士は,終始弱国の強国に対する抵抗を声高に唱え,その愛国心を称賛する。そ の反面,日本のアジア諸国,特に清国・朝鮮に対する姿勢については,実に強国同様の 文明的先進国としての振る舞いを積極的に肯定する。

なぜ弱国に共感・同情を示す散士が,アジア諸国の持つ自主性を考慮する思考を持ち 得なかったのだろう。「亜細亜ノ盟主」としてアジアに対して強国同様に振る舞うことを 推奨していくのであろう。これは丸山眞男氏が日本のナショナリズムについて,「東アジ アをヨーロッパ帝国主義から防止するという意味と,日本自身がヨーロッパ帝国主義と 伍して東アジアに進出するという意味とが重なり合っているという事態,そこから生ず る日本の東アジアにおける二重の役割」2)を指摘していることからもわかる通り,散士だ けではなく近代日本のナショナリズムの持つ特徴点であると同時に問題点でもある。

こうした日本のナショナリズムの持つ相矛盾する側面が,散士自身においてどのよう に発現したのかに焦点を当てることで,近代日本のナショナリズムの発現の一例として,

その内側から理解することを本稿の目的とする。

1 『佳人之奇遇』に見られる「錯綜」するナショナリズム

1.1 弱国への共感と「抵抗」ナショナリズム

では,実際この『佳人之奇遇』には,散士の如何なるナショナリズムを読み取ること が出来るか。一つは,『佳人之奇遇』内に描かれる弱国の叙述を通じて弱国同士の連帯そ して抵抗を訴える「抵抗」ナショナリズムの側面である。

『佳人之奇遇』には,散士の実体験(アメリカ留学・谷干城との洋行)を通じて知り得 た様々な国の歴史話や亡国話が盛り込まれている。実際散士の蔵書にも,世界各国の地 理や歴史,社会についての書物が揃っており3),散士の世界の国々に対する関心の高さが 窺える。中でも,世界の弱国の存在は散士の心を惹きつけた。彼は世界の弱国に対して,

人一倍関心を示している。この点に関して,谷干城との洋行4)をもとに書かれた『佳人 之奇遇』11 〜 16 巻と,谷干城『洋行日記』5)を比較してみると,二人の関心の違いがよ くわかる。谷は滞在期間が比較的長かったウィーン・パリ・ロンドンなどの記事を詳細 に記載しているのに対し,散士は,谷が記した地域に『佳人之奇遇』ではほとんど触れ ることはない。エジプト・ハンガリー・ポルトガル・トルコなど,当時の世界における 弱国の記述がその多くを占めており,散士がそのような世界の弱国の存在に特別な思い を持っていたことがわかる。

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では,彼は『佳人之奇遇』内において世界のどのような国を弱国と認識し,一体何が 原因で弱国となると考えていたのか。

『佳人之奇遇』において世界の弱国として登場する国々は,エジプト・アイルランド・

ポーランド・トルコ・ハンガリー・スペイン・朝鮮・清国などであり,世界の国々は「英 米ヲ除クノ外皆抑圧非道ノ治下ニ呻吟シ」6)ている状態であると散士には認識された。例 えば,アイルランドは「英国ノ虐政ニ窘メラレ国権憲法ノ自由ヲ殺ガレ貴族汚吏ノ為メ ニ全国ノ田畝ヲ掠奪セラル(中略)或ハ息ヲ倍シテ之ヲ貧人ニ貸シ以テ其利ヲ罔ス我民 其弊ニ堪ヘズ餓死スル者八十万ヲ超ユルニ至」7)った状態でおり,「名ハ聯邦タリト雖モ 実ハ臣妾タルニ過ギ」8)ないと散士の眼には映っている。

では,そのような国々はなぜ強国に虐げられ,支配される=弱国になるのであろう。

弱国になる理由として散士が考えていたことの一つに,専制政治の存在が挙げられる。

ポーランドやスペインの政治を「貴族専横ノ害」と評した上で散士は,そのような弱国 で行われている専制政治を,「私怨ヲ以テ公道ヲ忘レ」9)た政治であり,国内における民 権や自由の確立を阻害するものとして痛烈に批判し,実際に政治に関わっている人物も 国民も現状を顧みることなく,「国家独立ノ実力ヲ傷ケ自治ノ大権ヲ失ヒ外人ノ鼻息ヲ窺 ヒ他邦ノ虚喝ヲ恐レ三千余万ノ衆上下恬然トシテ愧ヅル所ヲ知ラ」10)ない状態であるこ とこそが,自国を弱国にしてしまう大きな原因であると指摘する。

さらに,弱国になる二つ目の理由として散士は,〈自由〉への理解不足を挙げる。ポー ランド滅亡の歴史を叙述する際,散士は,

抑々彼民ヤ自由ノ理ヲ誤リ一身ノ自由ヲ以テ無上ノ自由ト為シ国家独立ノ自由更ニ 貴キヲ悟ラズ是故ニ外患アルノ日ニ当テ人人独立ノ志ヲ忘レ徒ニ一身ノ自由ヲ嗷嗷 シ国ニ死スルノ義ヲ以テ一身ノ自由ヲ傷クト為シ其極ヤ貴族ハ下民ヲ凌ギ下民ハ貴 族ヲ怨ミ政権下ニ達セズ民情上ニ通ゼズ尾大掉ハズ11)

と,その亡国の理由を言及しているが,このことからもわかるように,散士は国権が民 権や自由よりも重きものであると認識している12)。散士にとって,国権が確立されなけ れば,自由など到底獲得できるはずもなかった。だからこそ,「方今焦眉ノ急務ハ十尺ノ 自由ヲ内ニ伸バサンヨリ寧一尺ノ国権ヲ外ニ暢ブルニ有リ」13)と,国権の確立を何にも 先立つ最優先事項として,対外的な政策を重視しなければならないのである。にもかか わらず,弱国となってしまう国々はそこを理解していない,故に過激な民衆による内乱

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がおこり,強国に付け込まれてしまうのだという。

このような弱国叙述の裏には,伊藤博文・井上馨に代表される藩閥政府に対する批判 や,板垣退助らを中心に当時盛んに行われていた民権運動の動きに対する散士の批判が 込められていることも見過ごしてはならない。

さて,こうした弱国叙述は,一方で,世界の強国の非道・不義を浮き彫りにする。

散士は強国の存在を,「他ヲ軽侮シ弱国ヲ凌辱」14)する,具体的には「英仏専横跋扈」15)

の世界と表現している。即ち強国とは,パワーポリティクスの世界での勝者であって,力 をもって弱を制圧し,思いのままにふるまう存在であった。ここでは「是レ皆義ヲ忘レ テ利ヲ射ルノ徒ニシテ」16)自国の利益のために他国に侵略してくるという利己主義的な 行動をとる存在としての強国が強調される。このような「弱ヲ凌ギ非ヲ遂ゲ禽獣野蛮ノ 世ニ模倣シ恬然愧スル所ナク傲然自ラ以テ得タリトナス」17)行為に,散士は文明国のも つ野蛮性・加害性を見た。そして,こういった強国の行為を,「今夫レ強ハ弱ヲ窘メ狡ハ 朴ヲ欺キ世人見テ怪シムコトナシ豈之ヲ開明ノ域人文ノ世ト称ス可ケンヤ」18)と痛烈に 非難するのである。

散士にとって本来強者は弱者を教え導く存在でなければないのであり,文明とは「弱 ヲ扶ケ強ヲ挫」く存在であった。しかし,現実の文明と言われる国々は,自己の利益の 為に弱国を虐げる振る舞いをとっていた。散士はこういった強国のもつ加害性・野蛮性 を,弱国の状況を通じて同時に描き出す。そして,強国の人々に「公道を忘れた非道な 欧人」という評価を下すのである。中でもイギリスに対する評価は厳しい。『佳人之奇遇』

において,英王は「暴戻残酷」で英民は「奸黠貪縦」な側面が強調されており,獣でも 不義であると避けるような不義を平気で行い,人をだますことで外交上の利益を得る存 在としてのイギリスが描かれているが19),これはイギリスだけのことではなく,『佳人之 奇遇』に登場する強国は概してこのような側面を持った。

つまり,散士は西洋の強国の存在を「弱ヲ扶ケ強ヲ挫」く「文明」国という捉え方よ りも,力で他者を抑圧する「列強」国として認識していた。そして,当時文明国と言わ れていた国々の振る舞いを,「今十九世紀ハ才学芸術ノ競争ニシテ往古野蛮ノ単騎勇闘身 体筋骨ノ強壮ニ誇リ弱ヲ凌ギ寡ヲ圧シ優勝劣敗ヲ試ミシ時ニ非ザルナリ」20)と痛烈に批 判するのである。

世界における弱国の現状と強国の非道な姿勢を叙述する中で散士は,強国の不義に対 する徹底的な抵抗を訴え一国の独立を勝ち取るために,弱国同士の連帯を声高に唱えて いくのであるが,彼が強国の姿勢を非難し,弱国の抵抗を訴える根拠の最たるものとし

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て「天賦国権論」21)がある。

『佳人之奇遇』内に描かれる弱国は先にも触れた通り,対外的に国権の確立や独立がな されていない国,つまり被圧国・植民地であり,内治干渉を受けている国々であった。し かし散士は,そもそも「一国ノ独立ハ天ノ賦与スル所」22)のものであり,自国の独立を 守る「一国ノ権」23)がすべての国家にあると考えていた。散士にしてみれば,この権利 を守ることは,天が認めた行為であって「正義」であり「道義」であった。むしろ,本 来天賦である一国の権利が「欧人ノ蹂躙剥奪スル所トナリ万機ノ政務ハ欧人ノ左右陟黜 唯意ノ欲スル所トナ」24)っている現状において,大義は弱国側にあるのであり,不義を 行う強国に抵抗して当然であると主張された。このとき

是十九世紀ノ人民ガ国権ヲ維持シ已ニ賦与セラレタルノ権利ヲ保全シ掠奪セラレタ ルノ自由ヲ恢復セント欲セバ柔順ノ策ヲ仮ル可ラズ必力ヲ剣戟ノ鋭利ニ求メザル可 ラザルノ止ムヲ得ザル25)

と,武力をもった抵抗は容認される。天から与えられた一国の権利を保護するためには,

武力での抵抗も散士にとっては当然の行為であった26)。このように,散士は世界におい て強国(英・露・仏など)の「蹂躙剥奪スル所」27)となってしまった弱国に強く共感を 示し,「天賦国権論」という大義をもって

然ラバ則チ他日東洋列国ヲ連衡シ印度ヲ助ケテ独立タラシメ埃及馬島ヲシテ英仏ノ 干渉ヲ絶タシメ朝鮮ノ独立ヲ保護シ清国ト連合シテ遠ク露人ヲ退ケ亜細亜洲中欧人 ノ鼻息ヲ納ルナカラシメ屹然宇内ヲ三分シ亜欧米鼎立シ武ヲ偃セ道ニ仗リ人生安楽 四海平和ノ大業ノ基ヲ建ツルハ豈泰山ヲ挟テ北海ヲ超ユルノ類ナランヤ28)

といった「現実に望みえなかった世界各地の独立運動や半植民地闘争の連帯と相互の支 援」29)を『佳人之奇遇』内で声高に唱える。そして,弱国の抵抗を訴えていく上で,散 士は実際に抵抗活動を行う人々=「亡国ノ遺臣」の行動を高く評価した。

『佳人之奇遇』の登場人物の多くは弱国において,強者の不義に対する抵抗活動を行い,

敗北を喫した「亡国ノ遺臣」たちであった。そして何を隠そう主人公の東海散士本人も,

会津の「亡国ノ遺臣」なのである30)。散士はそのような作中に登場する「亡国ノ遺臣」の

「今国家傾覆ノ形勢ヲ坐視シ人民塗炭ノ惨状ヲ傍観スルニ忍ビズ衆ノ為メニ推サレ兵ヲ

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挙ゲ義ヲ唱」31)える姿勢を「義気人ヲ動カシ士民皆感動セザルハナシ」32)と称賛する。

また,弱国において抵抗活動に従事した「亡国ノ遺臣」に対する称賛は,そういった 人々への共感を物語ると同時に,日本人も愛国心を持って強国に抵抗することを訴える 主張と表裏一体のものであった33)。『佳人之奇遇』に描かれる「亡国ノ遺臣」の愛国心を もった抵抗は,散士にとって日本という国家つまり共同体に対する忠であり,それは具 体的に,日本の国権の確立という形をもって主張される。国権の確立,対外的独立とい うものこそが,日本という国家における最大の理念であって,日本国民は「国権恢復ヲ 以テ各自任ジ国家ノ盛運ヲ以テ自期シ」34)ていかなければならないものとされたのであ る。そういった意味で,『佳人之奇遇』内でも,亡国話の語り手は,国家の独立や自由の 為に立ち上がり,国家と運命を共にした人々であって,散士は『佳人之奇遇』に世界の

「亡国ノ遺臣」を描くことで,彼等のような抵抗行為の必要性を日本国民に対して説いて いった35)

つまり,散士の持っていた弱国への共感は,被圧国・弱国という当時置かれた状況に 対するものだけではなく,国家に忠を尽くそうとする心,愛国心への共感でもあった。こ ういった共感に基づいて,彼は弱国同士の連帯を唱え,強者の不義に対する抵抗を声高 に唱えていくのである。

1.2 朝鮮政策からみえる「自国中心」ナショナリズム

しかし,弱国に強い共感を示しその抵抗・連帯を訴えていく散士であったが,アジア に対しては,他の弱国に対するものとは少し異なる態度を提示していくこととなる。散 士は,

方今東洋大ニ為スベキノ秋ニ当リ牛耳ヲ執テ亜細亜ノ盟主

4 4 4 4 4 4

ト為リ東生民倒懸ノ難ヲ 解キ西,英仏ノ跋扈ヲ制シ南,清人ガ陋習ヲ壊リ北,俄人ノ覬覦ヲ絶チ欧州諸邦ガ 東洋ヲ蔑視シ内治ニ干渉シ遂ニ之ヲ内属ト為サントスルノ攻略ヲ拒ギ彼億兆ノ蒼生 ヲシテ初テ自主独立ノ真味ヲ嘗メ文物典章ノ光輝ヲ発セシムル者ハ貴国ニ非ズシテ 其レ誰カ之ニ当ラン36)

と日本を「亜細亜ノ盟主」として規定し,アジアに対して強硬な姿勢・雄飛論をとって いく。

そもそもなぜ日本が「亜細亜ノ盟主」となりうる存在であると散士は規定したか。そ

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の根拠には大きく分けて三つの日本の〈特異性〉が存在していた。

一つ目に,日本の文明的先進性がある。

今ヤ貴国(―日本)旧政ヲ釐革シ欧ノ長ヲ取テ其短ヲ舎テ米ノ実ヲ摭テ其花ヲ去リ 文化月ニ新ニ富強日ニ進ミ旧邦維レ新ニ柔ヲ守テ競ヲ執リ見ル者ハ駭テ目ヲ拭ヒ聞 ク者ハ驚テ耳ヲ傾ク其勢方ニ旭日ノ東天ニ昇ルガ如ク東洋ニ屹立シ聖帝与フルニ自 由ノ制憲ヲ以テシ人民誓テ聖明ニ報ゼンコトヲ期シ干戈已ニ定マリ天下安楽五穀年 ニ豊ニ四民業ヲ楽ミ朝鮮使ヲ通ジ琉球内附ス37)

と,散士は,日本の明治以降の文明開化の成功と,明治天皇による国会開設と憲法制定 が決まったこと(明治 14 年)を挙げ,「近来日本大ニ開ケ漸ク千古ノ宿弊ヲ蝉脱シ自由 ノ拡張セザル可カラザルヲ覚リ民心振興到ル処自主自由ノ論ヲ唱道セザルハナ」38)い状 態にまで達した日本の文明化の成功による,アジアにおける先進意識を鮮明にする。

一方で,そのような物質的な文明化だけではなく,文明的精神においても日本は特別 であったという。散士は前節でも触れたように,「強ヲ挫キ弱ヲ助ケ」ることが文明の本 来の姿であると考えていた。散士によれば,「日本ノ士風強ヲ挫キ弱ヲ助ケ人ノ為メニ急 難ニ趨キ往往囚繫ニ陥ルモ猶且辞セズ情ヲ撓メ意ヲ抑ヘ児女ノ泣ヲ為サゞルコト天下ノ 称賛スル所ナリ」39)と,日本の士風に元々そのような「強ヲ挫キ弱ヲ助ケ」る精神が存 在していたのであって,日本はそういった文明的精神を元来持っていたのだという。こ れが,日本が「亜細亜ノ盟主」たりうる理由の二つ目であった。

そして最後に散士は

海端国有り扶桑と名く。俗と風光と皆雅嫺。綿綿たる皇統万世に垂れ。昭昭たる威 名遐裔に及ぶ。士は信義を重じて末利を軽んじ。小心翼翼聖帝を仰ぐ。孤棹風に嘯 く琶湖の舟。万古雪を含む芙峰の頭。花は香し一目千樹の春。月は高し八百八島の 秋。40)

と日本の文化的・風土的優位性を主張する。これは「徒らに欧米の文化に眩惑し浮慕し 以て欧米の事々物物を我国に採用し以て外観の文明に甘んずるが如きは吾輩の深く執ら ざる所とす,殊に芸術上の緻巧,忠孝節義の如きは是れ本邦固有の美俗なるを以て将に 務めて之を保存せんとす」41)というような,散士のもつ国粋保存の思想に基づくものと

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考えられるが,散士は日本の持つ風土や文化など日本「固有の美俗」を尊重し,世界の 国との差異を図る42)

このような理由から,散士は日本を「亜細亜ノ盟主」たりうる存在と捉え,「亜細亜ノ 盟主」としての日本の役割というものを考えていく。その際,散士の脳裏に浮かんだも の,それがアジアの文明的先進国として,日本が「朝鮮の独立」を援助することであっ た。

散士がアメリカ留学から帰国した当時の朝鮮は,清国が自国の属国と主張する一方で,

北方からはロシアが進攻の機会を覗っている危機的状況にあった。そのような状況にも かかわらず,朝鮮国内は親日派の独立党と親清派の事大党が対立し,実に安定を欠いた 状態に陥っていたのである。明治 17 年には両党の軋轢はピークに達し,最終的に独立党 が日本を頼ってクーデターを起すに至る(甲申事変)。しかし,その企ては失敗に終わり 独立党の幹部数名は処刑され,党の領袖であった朴泳孝・金玉均(『佳人之奇遇』内では 古筠居士の名で登場)らはかろうじて日本に亡命して,その危機を逃れていた。事大党 の勝利は,朝鮮国内における清国の地位をさらに優位なものにした。朝鮮をめぐる清国 との対立が日に日に激しくなる中,散士は日本に逃れてきた金玉均らが居住していた旅 館「鎗屋旅舎」を訪ね,「その国事尽瘁の労を慰め,かつ朝鮮問題から東亜の将来を論じ 合」43)い親交を深めている44)

散士は,金たちは「日本ニ流寓シ交ヲ朝野ノ人士ニ結ビ故国ノ為ニ尽瘁スルノ念一日 モ輟マ」45)ない者たちであり,彼等進歩党は「欧米文明ノ余光ヲ誘引シ我ガ勢力ニ頼リ テ多年ノ弊政積害ヲ革メ清国ノ干渉ヲ絶チ大イニ国是ヲ定メ東洋ニ独立ノ一新国ヲ現出 セント努力計画セル一党」46)であると高く評価した。反対に,事大党は「朝鮮士民清国 ヲ奉戴シ一ニ大国ニ依頼シテ国家ヲ維持セント欲スルモノ」47)であるとして,非難され た。こういった朝鮮の政治に対する認識は,閔妃政権への批判的態度にあらわれ,最終 的に閔妃暗殺事件へのコミット48)へと繋がっていくが,散士の朝鮮の現状に対する認識 は,金ら朝鮮の「亡国ノ遺臣」達に対する共感と支援を通じて形成されていくこととなっ た。

散士にとって朝鮮は「絶交孤立ハ強国ノ為ニ滅サレ万邦ノ傍観救護セザル」49)国であ り,亡国の危機を逃れるための保護を必要としている国であった。故に今こそ隣国であ り文明化を遂げた日本が保護の手を差し伸べ,「以テ彼国(―朝鮮)ヲ誘導シ誓テ清国ガ 有名無実ノ空権ヲ振フノ路ヲ断チテ宇内万国ト対等ノ位ニ立タシメント欲」50)すべきで あると主張する。この朝鮮を保護する日本という考えは,谷との洋行中におけるシュタ

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インの講義においてもみられる。シュタインは散士に「日本ハ第一ニ朝鮮ノ国ニ對シテ ハ之ニ干渉保護スルノ権十分ニアル邦国」であると説き「早ク朝鮮ヲ占領セサルヤ」と 助言したが,これに対して散士は「僕ノ持論亦如此」51)と応答するのである。

つまり,散士には,孤立無援の状態にある朝鮮に対して,「亜細亜ノ盟主」である日本 が朝鮮に文明を教え,その独立を確立させる役割を担っているという意識が存在してい た。この散士の考えには,「アジアの文明開化のリーダーは日本であるという優越意識の 下に,中国・朝鮮を蔑視し,その近代化を導こうとする指導者意識」52)が垣間見えるが,

朝鮮に対する日本の指導の必要性は,当時の日本においては特に珍しい主張ではなかっ た53)。朝鮮を日本が保護し,清国の侵略の手から救おうという一種の正義感は,当時の 日本人の大部分が違和感なく持ち得た認識であったのである。

では,日本が「亜細亜ノ盟主」として朝鮮を文明化し,その独立を保つ具体的政策を 散士はどのように捉えていたのであろう。散士は朝鮮に対する具体的政策として,

今我国(―日本)ノ朝鮮ニ於ケルヤ宣戦ノ大詔ヲ遵奉シ之ヲ扶植シテ以テ独立ノ基 ヲ建テシメザル可カラズ而シテ其尤モ急ナルモノハ攻守同盟ノ誓約ヲ堅クシ疾風卒 ニ至ルモ催抜ノ憂勿カシメ弊政更革ノ費用ハ我ヨリ之ヲ貸与シ以テ上下ヲ繫絆シ永 ク相離ル能ハザラシメ鉄道電信航海拓殖ノ諸業ハ其機先ヲ制シ以テ両国互恵ノ約ヲ 締シ海関税局ヲ改革シ半清半韓ノ外人ヲ解雇シ更ニ良吏ヲ択任シ厚ク在韓有為ノ外 人ヲ懐ケ兵馬ヲ訓練シ訴訟ヲ公明ニシ警察ヲ厳粛ニスルニ在リ(中略)夙ニ興キ夜 ニ寝ネ兢兢業業簿書推裏ニ刑ヲ刻ミ法ヲ鏤メ典範ヲ制シ歳計ヲ定メ八道ニ日本紙幣 ヲ通用セシメ一朝ニシテ千有余年ノ制度風俗ヲ一変シ之ヲ 皇化 セシメント欲ス是 レ豈其道ヲ得タルモノナランヤ光化門外八省ノ組織外観ニ孳孳タランヨリハ寧ロ正 使ヲ八道ニ派シ民ヲ虐スル汚吏ヲ罰シ国ヲ蠧スル苛政ヲ除キ反側ヲ安ジ蒙昧ヲ啓キ 邪説流言ヲ禁遏シ以テ列国ノ疑惑ヲ避ケ恩威並ビ行ヒ以テ大国寛宏ノ度量ヲ失ハザ ルニ若カザルノミ54)

と日本・朝鮮が一体になって改革を行い真の独立国とする,という政策を提示している が,ここで散士の意味するところの朝鮮の近代化は皇化,つまり日本化を意味している。

これはアジアの文明国・日本としての自負から生まれる,日本を手本として朝鮮の近代 化を為し得ようとする意識の具体的な表れでもあった。実際に,金玉均も「朝鮮ヲシテ 貴国ノ為ス所ニ習ハシメント欲シ」55)ていたことも事実である。しかし金の主張は,あ

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くまで朝鮮の自主性を重んじた文明化であって,散士の主張するような日本による一方 的な押しつけによる文明化ではなかった。世界の弱国に共感しその抵抗を声高に唱える 散士も,朝鮮の文明化に関しては,朝鮮の自主性への視点が欠落してしまう。まさしく ここに日本の持つ「近代の暴力」の側面が顔を出しているのであり,アジアの連帯・解 放を唱える散士の「興亜論」のなかにも,「文明化論がはらむオリエンタリズム・植民地 主義の刻印がされている」56)のである。

では,散士が朝鮮の保護を訴える目的とは何であろうか。散士は「是ニ於テ廟堂内ニ 恐ルベキ敵ナキヲ以テ朝鮮ニ対スル政略ヲ履行シ東洋ノ安寧平和ヲ保持シ以テ侵略ノ慾 ヲ抱キ封豕長蛇荐リニ上国ヲ呑マントスル欧米ノ強敵ニ当タラント欲シ」57)と,朝鮮の 保護は東洋の平和に深く関係していると考えており,東洋の安寧を維持するための朝鮮 保護を訴えている。この時散士は,幕末期に日本が「米国正義公道ヲ執リテ常ニ邦人ヲ 啓発シ事毎ニ忠告スル有ルアリ故ニ頼ニ他ノ専横ヲ制シ国威ヲ損ゼザルヲ得タ」58)経験 をもとに,朝鮮にとって,日本に開国をもたらし,近代の帳をこじ開けたアメリカのよ うな存在に今度は日本がなることこそ,「最モ我ガ勉メタル所」59)としている。

一方で,東洋の安寧のための朝鮮独立という目的以外の側面もある。当時,朝鮮問題 の背景にはロシアの南下政策と,朝鮮をめぐる日清間の衝突が存在していた。こういっ た朝鮮を中心とした,日本・清国・ロシアとの駆け引きの中で,散士は朝鮮の「独立ヲ 堅固ナラシメ彼富強ヲ謀ランコト独リ隣保相親愛保庇スルノ徳義ノミニ非ズ実ニ我ガ将 来ヲ慮ルノ長計ナリ」60)と,朝鮮の独立が東洋の安寧のためだけではなく,日本の将来 をも左右するという,一種の朝鮮防波堤論のような運命共同体的連帯意識を洩らしてい る。散士の中には「信義ヲ重ンジ正理ニ則リ隣近ノ弱国ヲ撫育保護」61)するといったア ジアに対する優越意識の裏で,西洋諸国による東洋侵略への警戒が未だ根強く存在して おり,この東洋への侵略に対する警戒と,それに伴い自国の安全が脅かされる危険性に どう日本が対応するかについて,具体的な形を持ったものこそ散士の朝鮮政策であり,

「亜細亜ノ盟主」論であった。

つまり,散士には「亜細亜ノ盟主」として,日本こそ朝鮮の近代化を導く存在である という優越意識・使命感とともに,日本を含む東洋に迫り来る西洋諸国への警戒から考 えても,朝鮮の独立は急がれるものであるという危機意識が同時に存在していたのであ る。ここに,散士の「自国中心」ナショナリズムの発露があった。

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1.3 清国に対する「膺懲」ナショナリズム

そして,散士は清国に対して複雑な認識を持ちながら,「亜細亜ノ盟主」論をさらに推 し進めた形で対峙していく。

そもそも当時の日本の中国認識とはいかなるものであったか。松本三之介氏は明治前 半期の中国認識について,「アヘン戦争後の中国に関する日本の認識に,固陋の国という 軽侮の感情と,古代聖人の母国という畏敬の感情とが重なり合った,一種の両義性がみ られた」わけであったが,こうした相矛盾する側面を含んだ中国認識は,明治維新以降 も引き継がれ,「清朝が新たに西洋の軍事力を導入することによって軍事的脅威の対象と なり始めた」ことによって,清国を脅威とする感情が日本の中国認識に新たに加わるよ うになり,「いわば中国は,日本にとって軽侮と畏敬と脅威というまことにややこしい存 在性をもった国としてイメージされること」となったと分析する62)。このように明治前 期の中国認識には,「蔑視と敬愛と脅威の思いが複雑に交錯する多義性」63)が存在してい た。

では,散士の清国認識はどうか。散士は,清国に対して「日清元是兄弟唇歯ノ国ナリ」64)

や「夫レ清国ノ我ニ於ケル唇歯輔車相依ルノ勢アリ」65)といった唇歯・兄弟といった言 葉を使い,その連帯意識を述べ,

夫レ能ク東洋列国ヲ連衡シ以テ西洋諸邦ト頡頏セント欲セバ埃及ヲ以テ其鎖鑰トナ シ坐ナガラ地峡ヲ拒ガシメ印度ヲ以テ其藩屛トシ進ンデ亜典ノ要害ヲ奪ハシメ土耳 其ヲシテ奮テ北向黒海ヨリ強露ノ横ヲ窺ハシメ英露ヲシテ猜忌相争ヒ以テ欧人ヲシ テ欧人ヲ攻メシメ而シテ我国清国ト相合シ小邦ヲ率ヰテ其背ヲ拊タザル可カラズ66)

と,東洋の独立の維持のためにも,日本は「清国ト相合シ」なければならないと感じて いた。清国は日本と唇歯輔車の関係にある国として,東洋の為にも手を携えて協力して いかなければならないと考えていたのである。

しかし,同じアジアにあり唇歯輔車の関係であると規定しながら,一方で清国に対す る強い侮蔑の念も同時に存在する。

まず清国は,専制的で「陋習」にとらわれており「驕傲」な側面をもつ国であり,「驕 慢ノ気加ハリテ頑陋ノ風長ジ文明ノ政望ム可カラズ革新ノ治期ス可カラ」67)ざる状態で あるという。明の遺臣達が散士の元を訪れた際に,散士は「何ゾ清朝ノ苛政ヲ鳴ラシ汚 吏ヲ追ハザル何ゾ自由ノ正理ヲ説キテ同情ヲ五洲ニ求ムルノ策ヲ建テザル」68)と彼等の

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軽挙を諭しているが,ここからは「固陋」で専制的な清国の政治的腐敗の様子が読み取 れる。

さらに散士は,清国が文明国の仲間入りをした日本に対し,「頻年清国ノ我ヲ猜忌シ我 ヲ嫉妬スル一日ニアラズ」69)さらに「清人亦我現状ノ斯ノ如クナルヲ見相和シテ嘲リテ 曰ク(中略)倭人徒ニ泰西ノ文明ニ眩惑シ妄リニ其俗ヲ易ヘ風ヲ移サントス豈沐猴ニシ テ冠スル者ニ非ズヤ」70)と日本を侮蔑する態度をとっていることを指摘し,「自尊傲慢ノ 大国ヲシテ益々我(―日本)ヲ軽侮スル心ヲ生ゼシメ」71)ている清国の現状を非難する。

そして,かつては文化的中心であり「中華」であった清国も,実際は列強の侵略に喘ぎ,

徐々に支配されているような現実において,清仏戦争の際仏人に「彼清人自国ノ征討セ ラルルヲ聞キ却テ之ヲ悦ブハ何ゾヤ清人ノ愛国心ナキ真ニ憫笑スベシ」72)と言われるに 至る,清国人の愛国心のない気質に散士は驚き呆れるのである。

また,そもそも清国が満州人という異民族の国であるという点で,散士は清国が「不 義」の成り立ちをもって生まれた国であると規定する。登場人物に明の遺臣・范卿が出 てくるのもそのためであった。このような清国蔑視の認識は,散士がアメリカ留学の際 に体験したアメリカにおける清人差別も大きな影響があったと考えられる。

つまり散士には,明治初期の日本の清国イメージ同様に唇歯輔車の相手としての清国 と,蔑視の対象としての清国という相反した清国認識が存在していた。このような複雑 な認識を清国に抱いていた散士にとって,朝鮮に対する日清両国の衝突をめぐっての清 国の対応は実に「虚礼空式ニ頼リ猶藩属ヲ主張」73)しているにすぎないものであり,「客 気ニ乗ジ征台ノ旧恨沖縄ノ余憤ヲ洩ラサントスルモ知ル可カラザル」74)ものであった。さ らに,そのような態度を清国がとることによって,朝鮮が文明化し,自主独立の国とな ろうとするのを妨害しており,朝鮮の「事大」勢力はそれに追随しているという。また 朝鮮のみならず,日本をも侮蔑し,「濫ニ兵器ヲ弄シテ我国旗ヲ射我将士ヲ撃チ我公署ヲ 攻メ我商民ヲ窘メ我ガ婦女ヲ辱」めるといった行動に出る清国は,「是レ国家ノ公敵人民 ノ大讐ナリ」75)と散士の眼には映った。甲申政変における清国の態度は,まさに「是レ 開戦ノ宣布ニ非ズシテ何ゾヤ」76)といったものであったのである。

清国のこのような対応は,先にもみたように「亜細亜ノ盟主」として日本が朝鮮を保 護することを当然視する散士には,到底許されるものではない。散士にとって,朝鮮に 対する出兵・介入は東洋の安寧を維持するために至極正当な行為であり,

今彼(―清国)苟モ我ガ正当ナル要求

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ニ応ゼザルモノアラバ断断乎兵馬ヲ以テ決シ

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而ル後ニ互イニ手ヲ握リテ胸襟ヲ開キ宿怨ヲ洗滌シ興亜ノ策ヲ講ジ攻守同盟ノ約ヲ 固フシ北強俄ヲ禦ギ西英仏ヲ控ユルノ長計ヲ建ツル亦好カラズヤ77)

と,日本の「正当ナル要求」に応じない清国に対する軍事的対決をも辞さないという姿 勢をとっていく。その姿勢が現れた端的な例が,散士の唱える「戦争毒薬論」にみられ る,日本が清国を「膺懲」するという方針であった。彼は,

頻年清国ノ我ヲ猜忌シ我ヲ嫉妬スル一日ニアラズ(中略)而シテ其猜忌嫉妬ノ念心 腸ニ入ルコト深ク尋常ノ計ヲ以テ医スベキニアラズ蓋シ良医ノ大疾ヲ治ムルヤ時ニ 毒薬ヲ用フ毒薬ヲ用フルハ其病ヲ去ラントスルガ為ナリ今清国ト我国トノ間ニ凝結 スル痼疾ヲ駆除シ能ク其病根ヲ絶チテ再起ノ憂ナカラシメント欲セバ劇薬ノ力ニ倚 ラザルヲ得ズ劇薬トハ他ナシ剣戟ニ在ノミ弾丸ニ在ノミ78)

と,清国を更生つまり「膺懲」するための毒薬としての武力を推奨する。ここでは,あ くまで「膺懲」であるというスタンスが取られ,「胸襟ヲ開キ宿怨ヲ洗滌」して,今まで の日清両国間に存在したわだかまりを解消するための戦争であって,決して侵略戦争で はないという。

しかし,これは「毒薬」という言葉を用いてのアジアに対する力での攻勢の正当化に ほかならない。このような散士の朝鮮・清国に対する政策は,言葉の上では朝鮮・清国 に対する内政干渉を否定し,「膺懲」という言葉を用いて西洋諸国のアジアに対する侵略 行為と区別しているが,朝鮮・清国の立場からみれば実際は,「日本名ヲ義ニ仮リ虐ヲ我 ニ恣ニス壬辰ノ事鑑ムベキノミ且今ヤ日人我ガ政柄ヲ左右シ国王在レドモ無キガ如」79)

き,実に自分勝手な行為そのもの,つまりは侵略行為に他ならず,散士の提唱する政策 には他国(ここでは清国,朝鮮)の視点が全くと言っていいほど欠如しているのである。

このように,散士は『佳人之奇遇』において弱国の「抵抗」を訴え,強国の抑圧行為 を痛烈に非難しながらも,一方で,強国同様にアジアの諸国に対して振る舞うことを積 極的に肯定していく一面も持った。朝鮮と清国に対する強硬な姿勢は,弱国の「抵抗」に 共感を示し,その連帯を声高に訴えていた散士のもう一面での意見とは相容れないもの であり,矛盾するものである。まさに彼のナショナリズムの発露は,このような矛盾を 内包しながら「錯綜」する。

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2 「敗者」のナショナリズム

2.1 理想と現実の相克

前章で述べたように,散士のナショナリズムは「抵抗」・「自国中心」・「膺懲」といっ た形態を持ちながら「錯綜」していったわけだが,この根底には散士の正義への思い,そ してそこから生まれる一種の使命感と,現実世界における武力や軍事力に対する認識と の間での相克があった。

散士には当初,日本が世界における弱国であるという痛烈な認識が存在していた。日 本が弱国であると考えられる最大の理由として,散士は日本に存在する不平等条約を挙 げる。アメリカ留学時,経済学を専攻していたため,不平等条約の中でも特に関税自主 権の問題について言及し,

今ヤ我條約改正ノ期ニ際シ海關税徴収法及其利害得失ヲ研究スルハ吾輩經濟學生ノ 忽ニスヘカラサル所ナリ其利害得失ハ実ニ國家經濟ノ存亡安危ニ關シ一タヒ其政策 ヲ誤ルトキハ我日本同胞カ日夜憂慮シタリシ税権ヲ恢復スルモ其功甚タ薄カルへシ 是茲ニ吾輩カ其利害ヲ探究シ䮒セテ世ノ邪説ヲ排撃セント欲スル所以ナリ80)

と,日本の欧米諸国との間に存在する不平等条約の改正の必要性を訴える。また,世界 の弱国がどのような扱いを受けているのかについて,例えば自由貿易の下で,強国の弱 国に対する経済的搾取が行われているということをアメリカで学んだ散士は,イギリス を列強の代表として捉え,イギリスの自由貿易に対抗した形で,「國家ヲ保持シ人民ヲ安 寧ニシ獨立ノ秩序ヲ固フ」81)するために,弱国日本の「位置時勢ニ適スルモノハ即チ保 護政策ナリ」82)と,保護貿易の採用を提唱する83)。そして,列強の横行する世界におい て,不平等条約を抱えながらも,その改正が未だできない日本の状況を鑑みて,

反て想ふ我国事。憂患歔欷するに堪へたり。彊魯北門を窺ひ,狡英藩籬を攪す。諸 老苟且を事とし。大勢日に萎靡。財政其節を失ひ。生霊凍飢に号ぶ。此の累卵の危 きに当たりて。邪説是非を乱る。経国変通を要す。84)

と,警鐘を鳴らす。このように,日本=弱国として認識され,その亡国の危機が感じら れたとき,『佳人之奇遇』内で描かれる,ナポレオンへの抵抗,イタリア,ハンガリー,

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エジプトの独立運動,アイルランド,スペインの惨状など,強国の圧力に苦しめられて いる国や,圧力をはねのけて独立しようとしている国々への共感が生まれる。

そして,『佳人之奇遇』内において,弱国が強国によってどのような支配を受けている かをより鮮明・強烈に描き出すことで,そのような国々の状況が「列強にとりかこまれ た日本の立場,運命と重なり,作中に,日本の運命を考えさせる熱情を呼び起すことに つながってくるのであ」85)り,日本の亡国への危機感を高揚させ,愛国心の発露を促す こととなった。

つまり,散士の認識の中では,日本も世界における弱国で,西洋の植民地化の危機に 瀕している一国であって,世界にはそのような国が日本の他にも多く存在し,悲惨な状 況に歎き苦しんでいるという現実を描き出すことで,弱国同士の連帯,そして西洋への 抵抗を強く訴えようとするのである。散士はそういった危機感のなかで,世界における 他の弱国・被圧国とともに,世界の列強に対しての抵抗の必要性とその正当性を『佳人 之奇遇』内で声高に唱えていくこととなった。

この時,弱国間に多少の差(文明的・国富的)はあれども,弱国として同列に扱われ ている。散士のこの弱国認識からは,小説の底流となっている散士の史観が,「いわゆる 欧米を中心とする進歩史観とはうらはらの,もうひとつの歴史の側面に重点を置いたも のであった」のであり,「欧米中心の進歩史観に対立する非欧米の世界の現状と動静とに 視点が置かれる史観であった」86)ことがわかる。散士は世界の勢力を強と弱の二項的に 認識した上で,天賦国権論に基づいて弱国の抵抗,そして連帯を,当然の行為として受 け止め推奨していく。強国の不義に対する弱国の抵抗という正義がここでは高らかに主 張されていたのであった。

一方で,日本は文明化に成功し,一応近代国家としての体裁を整えたとき,〈アジアの 中では強国〉という存在となった。当時の日本の現状認識について,「かつてはアジアの

「中等国」だった日本も,今や「民智大ニ開達シ幾ンド東洋上等国ノ地位ヲ占メントスル」

地位に達したとするような自意識は,むしろ一般化しつつあった」87)ものであり,明治 10 年代後半から徐々に浸透していく認識であった。実際に小野梓は「我邦は実に東洋文 明の先導者たり」88)と発言し,福澤諭吉も「則ち方今東洋の列国にして,文明の中心と 為り他の魁を為して西洋諸国に当るものは,日本国民に非ずして誰ぞや。」89)と,アジア における日本の地位向上を謳っている。

坂野潤治氏も指摘するとおり,特に壬午事変(明治 15 年)以降,「日本は他のアジア 諸国と異なり欧米側に属しており,欧州の後進国をはるかに凌ぐという自負が日本には

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あった」。90)そして甲申事変(明治 17 年)を契機に一層激しくなる朝鮮をめぐっての清 国との衝突によって,この種の自負心は一層強固となっていった。

このように当時の日本において,日本は東洋における一等国であるという認識が生ま れていく中,散士は日本を世界におけるどのような位置にある国として認識していたか。

それは『佳人之奇遇』内に登場する人物たちの

曰ク近来日本大ニ開ケ漸ク千古ノ宿弊ヲ蝉脱シ自由ノ拡張セザル可カラザルヲ覚リ 民心振興到ル処自主自由ノ論ヲ唱道セザルハナシ(紅蓮)91)

今貴国ノ富強弊邦ニ卓越セリ宇内豈又其正義ヲ救助スルモノナカランヤ(メキシコ 人サンタ)92)

抑々聞ク貴邦ハ数千年来東海ニ屹立シ山高ク水峻ニ土地肥沃ニシテ民人義勇ノ気ニ 富ミ富国ノ策ヲ講ジ強兵ノ術ヲ施シ能ク欧米ノ長処ヲ採リ欧米ノ利器ヲ用ヰ彼言ヲ 聴キテ溺レズ彼説ヲ聞キテ迷ハズト真ニ宇内ノ美国ト謂フ可シ(アラヴィ・パシャ)93)

というセリフからもわかるように,実に近代化に成功した「東洋ノ強邦日本」94)として の存在と為り得た日本,というものだった。散士も,小野梓・福澤諭吉ら当時の日本人 同様に,日本を文明化・富国強兵に成功した,「東洋ノ強邦」として捉えるようになって いたのである。

しかしながら,日清対立の激化の一方で,条約改正をめぐる欧米と日本との関係性に おいて,欧米列強の対日態度への不信は依然として残っていた。「而シテ其外患ヲ挙グレ バ即チ条約改正未ダ成ラザルアリ

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豈能ク更ニ眼光ヲ大ニシテ欧人ガ東南洋ヲ侵掠押領ス ルヲ防禦スルノ策ヲ建テゝ以テ東洋ノ沈論ヲ救済スルノ俊傑アランヤ」95)とあるように,

条約改正問題がある限り,西洋諸国から見れば日本はいつまでも東洋の一国であり弱国 であった。そして,「熟ヽ五洲ノ勢ヲ通観スルニ弱肉強食一歩ヲ進ムモノハ進テ奮ヒ一歩 退クモノハ退テ衰フ殊ニ東洋甚シトス」96)る現実が教えるように,その西洋諸国による より深刻なアジア進出への危機感とそれに対する警戒が増加していく中で,散士は,こ ういった日本を取り巻く西洋列強の振る舞いや,日本の置かれた現状を世界的視野で見 たとき,依然として西洋は強者として日本の眼前に存在しているという事実を痛感する。

西洋という存在がある限り,いくらの日本が文明化に成功したとはいえ,「東洋人ハ智力 金力体力三ノモノ共ニ西洋人ニ及バザル」97)存在であって,日本はその東洋の一国とい う意味で,未だ弱国の域を脱し得なかったのである。

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このように,日本は近代国家としての体裁を整え,他のアジア諸国と比較して文明的 先進国となったとはいえ,未だ西洋の前では弱国であったのであり,西洋は以前にも増 して東洋に侵略の手を伸ばそうとしていた。この「亜細亜北部ハ彊俄ノ為メニ䮒セラレ 南方印度ハ英王ノ臣妾トナリ安南ハ仏国ニ隷属シ土耳其清国モ亦萎微已ニ亡滅ノ運ニ傾 ケリ嗚呼鯨鯢浪ヲ蹴テ東洋ヲ縦横シ豺狼食ヲ求メテ戸外ヲ窺ウ」98)という現実のなかで 散士は,列強の侵略に喘ぐ東洋の危機を,その東洋の一員である文明化を遂げた日本(=

「亜細亜ノ盟主」)が親身になって救い西洋に抵抗していくことに,日本の「亜細亜ノ盟 主」としての使命を見出す。文明を「弱ヲ扶ケ強ヲ挫」く存在として定義する散士にとっ て,アジアの文明国である日本こそ「眼光ヲ大ニシテ欧人ガ東南洋ヲ侵掠押領スルヲ防 禦スルノ策ヲ建テゝ以テ東洋ノ沈論ヲ救済スル」99)責任があると思われたのである。

真の文明国としての日本の使命感を持つ散士にとって,「亜細亜ノ風気ヲ蟬脱シ進取活 路ノ計ヲ取リ富強文明ノ西洋諸国ト連結シ機智敏捷巧ニ其間ニ処シ合従連衡東洋諸邦ノ 領土ヲ占掠シ自ラ進デ欧人ト伍シ欧人ト伴トナリ一ハ国土ヲ拡張シ一ハ欧人ノ憐情ヲ受 ケ以テ其独立ヲ維持セザルベカラズ」100)というような脱亜論は断じて認められるもので はなかった。福澤のように「脱亜論」101)を展開することは西洋側に就くことを意味する。

それはつまり,日本が強者の仲間に入るということであり,抑圧する側への転身そのも のであった。これは強者への抵抗を重んじる散士にとって到底認められるものではなく,

この「脱亜論」を散士は「覚エズ歎ジテ」102)批判するのである。そして,

此時ヲ以テ貴国唯東洋ノ安危ヲ以テ自ラ任ジ私心ヲ去リ旧怨ヲ捨テ大ニ胸襟ヲ開キ テ藩籬ヲ設ケズ清国ト攻守同盟ノ約ヲ結ビ欧人ヲ以テ東洋ノ公敵トナシ先ヅ同盟軍 ヲ興シテ台湾ノ封鎖ヲ解キ仏ノ巡洋艦隊ヲ追撃シ東京ヲ克復シ朝鮮ノ保護者トナリ 強俄ヲ防ギ再ビ琉球藩主ヲ封ゼバ清国必ズ貴国ヲ徳トシ旧来ノ怨ヲ解キ猜忌ヲ脱セ ン是又興亜ノ大計ナリ103)

と,「亜細亜ノ盟主」日本による興亜論を展開し,「弱ヲ扶ケ強ヲ挫」く存在である文明 国としての「正理ヲ説キ大道ヲ論ジ暴ヲ倒シ弱ヲ援ケ貪利ノ徒ヲ斥ケテ災厄ニ罹ルノ窮 民ヲ救」104)う責務を果たそうとした。しかしながら,散士のアジアに対する正義の主張,

そしてそこから生まれ来る使命感の根底には,アジアという枠組みからの脱却はないも のの,日本こそが〈盟主〉であり,アジアの弱国を指導していく立場にあるというアジ アの中での強者意識を内在していていることを忘れてはならない。

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さらに,このように西洋列強の侵略行為という不義に対し,天賦国権論をもってその 不義を批判し,抵抗を声高に訴え,その思いから出る「弱ヲ扶ケ強ヲ挫」く存在として の使命感を持ながら理想主義を押し広げる散士であったが,同時に彼は弱国の「亡国ノ 遺臣」たちの武力抵抗や,日本の清国に対する膺懲のための武力衝突を容認し,力の必 要性を説いていく面も持った。

散士は,西洋に抵抗するには東洋の発展・進歩が必要不可欠であると言う。なぜなら,

「国アレドモ財ナク兵アレドモ力ナク空シク豺狼ノ恣ニ屈シ王室ノ財政宮殿器物ヨリ土 地牛羊ニ至ルマデ皆其掠奪スル所トナル」105)現実が教えるように,国が存在しても財力

=富国が無ければ,兵がいても力=強兵がなければ,結局は支配されてしまうからであ る。

本来,理想主義を唱えるのであれば,力の必要性を説く必要はない。なぜなら理想主 義において,正義・道理は武力に必ず勝利すると確信するからである。この時,最も重 要視されるのは正義や大義の所在であって,決して力の差は問題にならない。しかしな がら,散士は大義や正義を訴えながらも,最終的には武力や軍事力の問題に帰着し,そ の必要性を訴えている。こういった面で散士はリアリズムの世界の住人であった。だか らこそ,朝鮮が「国家ノ危キ累卵ノ如キモ肉食者潰潰憂フルナク互イ援引人ノ為ニ官ヲ 設ケ吏ノ為ニ職ヲ択ビ秀士ヲ叩ケバ書ヲ知ラズ孝廉ヲ察スレバ濁ル泥ノ如」106)き状態で あり,清国もその朝鮮を属国扱いしながら「驕慢ノ気加ハリテ頑陋ノ風長ジ文明ノ政望 ム可カラズ革新ノ治期ス可カラ」107)ざる状態であるにも関わらず,両国とも変化を望も うとしないことは,散士にとって実に耐えがたいものであった。いつまでも弱者のまま ではいけない,日本のように近代化・文明化し力を持たなければ強者に併呑されてしま う,という朝鮮・清国両国にむけた危機意識が,散士の興亜論の根底には存在していた のである。

こうして散士は興亜を唱えていくことになるが,彼の興亜論のなかで,同じ東洋に属 し,日本の隣国である朝鮮と清国,この二国への対応に差が生じることとなった。それ が,「清国膺懲

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朝鮮扶植

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108)である。ここで散士は,朝鮮を保護,清国を膺懲の対象とし て認識していく。

まず,朝鮮に対して,朝鮮は,一国としての独立が未だできていない,つまり東洋の 一国にまだなれていない国であり,しかも清国の属国という形で,同じ東洋の一国に支 配されている国であった。しかし,朝鮮には金玉均や朴泳孝のような強者の不義に対し て抵抗し独立を勝ち取ろうとする勢力がいる,散士はそこに「亡国ノ遺臣」として強く

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共感を示すこととなる。さらに,東洋という地域の独立を獲得するためにも,同じ東洋 の一国に支配されている朝鮮の現状は認められないものであって,まずは朝鮮に立派な 独立国となってもらわねばならないとも散士は考えていた。この時,停滞は強国の支配 を自ら招くこととなるために認められず,文明化・進歩が独立の確保にとって必要不可 欠な要素であったために,日本が東洋の文明的先進国として朝鮮を保護・教育して一独 立国にしなくてはならないという使命感が散士に生まれることとなった。しかしこの考 えは,そのためには先に文明化した日本が先生となって文明を教える,といったエスノ セントリズムを強く押し出していく点で,「自国中心」ナショナリズムにつながっていく こととなる。

一方,清国は前章でも述べた通り,列強の国々が「日清二国ノ未ダ大ニ振ハザルニ乗 ジ藩図ヲ拡有セント欲」109)し,東洋に侵略の手を伸ばそうとしている現状において,「唇 歯輔車」の関係である清国と連携していくことは当然必要であるとしておきながら,清 国は朝鮮の独立を属国扱いすることで阻害しており,更にそれだけでなく,「清ハ猥ニ自 尊大我ヲ軽ンジテ隣交ニ信ナク」110)本来は提携すべき相手である日本に対して「猜忌シ 我ヲ嫉妬スル一日ニアラ」111)ざる状態であると散士には認識されていた。清国は世界の 中では東洋の一弱国であったが,アジアのなかでは朝鮮の独立をおびやかす一大国で あったのである。こういった複雑な清国認識のなかで,東洋が西洋に抵抗していくこと を主眼にしたとき,散士の中で,清国は固陋で進歩を拒む停滞した地域であり,このま ま何もしなければ西洋に取り込まれてしまうという思いが先行し,同じ東洋として,西 洋に抵抗するためにも清国は連携しなければならない国であることは百も承知である が,今の清国とは手を組めない,と考えるようになる。そして清国膺懲,戦争毒薬論へ と展開していくのである。

この時,先にも述べたように,散士は清国を積極的に侵略しようとは考えていない。清 国と戦った後は,両国間に存在していたわだかまりがなくなり,連携して西洋に対抗で きるようになる(=東洋として団結できる)という楽観的な観測をもっている。つまり,

散士にとっての清国膺懲は,西洋に抵抗することが目的の「やむをえない」行為であっ た。そして,朝鮮を保護し,清国を膺懲した上で,日本を中心に東洋がまとまることに よって,「朝鮮ヲ懐ケ清国ヲ拉ギ凱歌振旅威名五洲ニ轟キ勇武四海ニ震ヒ初メテ欧人ノ為 メニ敬憚セラレ東洋盟主ノ実権ヲ握リ興亜ノ大計ヲ建ツル真ニ此時ヲ然リトス」112)とあ るように,東洋として,西洋という絶対的強者に対抗していけると散士は考えたのであ る。

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このような散士のアジアに対する態度には,東洋として西洋に抵抗するという大義名 分を持ちながらも,その裏には朝鮮や清国の文明化を進める盟主日本の軍事的圧力を正 当化する論理が存在し,そこには散士がどう否定しても「西洋によるアジアの文明化は アジアの植民地化を意味するが,日本によるアジアの文明化はアジア諸国の独立を侵さ ない,何故ならば日本自身も西洋による被圧国であるから,という主張」113)が見え隠れ してしまうこととなる。しかしながら散士は,東洋の独立を維持し,西洋に抵抗するた めの「やむをえない痛み」として,アジアに対する日本の振る舞いを肯定していったの である。

散士は,弱国の抵抗を天賦の権利としてとらえ,世界の弱国との連帯を訴え,そして,

アジアにおいては,日本が「亜細亜ノ盟主」としてアジアを導き,西洋列強に抵抗して いく使命を帯びていると認識し,朝鮮や清国に対して積極的に関わりを持とうとした。一 方で,そのような正義や使命を達成するための必要要素としての力を求め,最終的には

「如何トナレバ勢弱ケレバ則制ヲ巨制ニ受クレバナリ」114)と力こそすべての「弱肉強食互 ニ相併呑スルヲ事トスル社会ニ生息」115)していると自覚した上で,パワーポリティクス の世界を容認し,力を追い求めていくのである。

本来ならば,散士の持つ理想主義とリアリズムの側面は論理的矛盾をもたらすはずで ある。なぜなら,正義=力ではないにもかかわらず,正義を行うための武力の必要性や 力の優位性を容認してしまっているからである。しかし,散士はこの論理的矛盾を無自 覚に超越する。『佳人之奇遇』のなかでは,この本来は相矛盾する双方の側面が,どちら ともさも当然のことのように展開し,主張されているのである。そしてこの理想主義と リアリズムの相克は,散士のナショナリズムの発現,そして「錯綜」にも大きな影響を 与えていく。

2.2 「錯綜」する理由

ではなぜ散士は,正義を唱えながら力へ,理想主義からリアリズムの方向へひきつけ られてしまうのであろう。その理由はやはり彼の生い立ち,つまりは会津の亡国を経験 した「亡国ノ遺臣」である,という事実にある。松井幸子氏の指摘のとおり「白虎隊の 討死に参加できず,僅かの差で生き残り,生き残ったが為に落城後の会津藩士としての 辛苦の生活を嘗めてきた時,それが東海散士の心中に与えた影響,その後の生きざまを 規制したものとして,抜いて考えることができぬものである」116)ことは容易に想像がつ く。

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会津亡国後の人生は,

嗚呼散士幼ニシテ家国ノ喪敗ニ遭ヒ父ト兄弟ト各地ニ幽囚セラレ一家団欒ノ楽ヲ得 ズ其父ノ側ニ侍スルヲ得タルハ唯戊辰ノ後檻車放謫セラレタル時ニ在ルノミ其日タ ル僅ニ一歳ニ過ギズ其後東西ニ瓢零シ南北ニ落魄シ壁ヲ切リテ燈光ヲ盗ミ雪ヲ積ミ テ読書ヲ助ケ苦学十年未ダ一日ノ孝養ヲ尽サズ117)

と散士自身が邂逅するように,苦労の連続であった。会津人には「会津降人という国賊,

犯罪者のレッテルが貼られ,苦難の明治が待っていた」118)のである。

そもそも,会津亡国についての会津人の認識は如何なるものであったか。会津戦争に ついて,散士の弟・柴五郎は

郷土会津にありて余が十歳のおり,幕府すでに大政奉還を奏上し,藩公また京都守 護職を辞して,会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるるよと教えられ しに,いかなることのありしか,子供心にわからぬまま,朝敵よ賊軍よと汚名

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を着 せられ,会津藩民言動に狼藉を被りたること,脳裡に刻まれて消えず。119)

と邂逅しているが,ここにみられる「朝敵」「賊軍」という汚名

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という言い方は,本来会 津は賊ではない,自分たちは正義であったという思いの裏返しである。現に,会津では 薩長の新政府軍を官軍とは決して呼ばず,官賊あるいは西軍(この場合,会津が東軍)と 呼ぶ。この呼び方にも,薩長に対する憎しみと,会津人の無念の思いが秘められている120)

つまり,会津人は会津藩こそが,「自國の存亡を顧みず,一意皇室に忠誠を盡」し孝明 天皇の信も厚く,会津戦争は「朝廷に向て,恭順の意を表し且つ謝罪降伏の表を上がり たるも,中間に遮ぎる者ありて闕下に達せず猥りに兵を加へ且つ暴掠せられたるに依り,

之を眞正の王師と見做さず,王師の名を冒して我に抗する復讐軍として正當防衛したる」

ものであり,幕末期の一連の会津の動きは「当時大義名分を失はざらんこと」と考えて いた121)。実際,散士も『佳人之奇遇』内において

却リテ我ヲ責ムルニ違勅ノ罪ヲ以テシ世人挙リテ我レヲ目スルニ国ヲ売ルノ姦臣ヲ 以テシ内ハ軽佻ノ徒宇内ノ形勢ニ暗ク朝威ヲ挟ミテ攘夷ノ命ヲ下スコト星火ヨリモ 急ナリ蓋シ先帝ノ真意ニ非ザルナリ122)

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と叙述しており,戊辰戦争時,孝明天皇の意志に反して君側の奸が道を誤ったのであり,

忠誠をつくした会津藩が,逆に汚名をきせられたことも天皇の意志とは関係のないとこ ろで行われた,と会津の正義を主張している。

このような本当は正義であるはずの会津の亡国の経験は,散士たち会津人に明治の世 を「敗者」として生きることを要請する。故に,『佳人之奇遇』に描かれる散士も,自己 に非はない,不義などでは決してなかったが,敗けてしまったから賊軍となってしまっ たという「虜囚の身の屈辱感」123)を持ちながら,「亡国ノ遺臣」としてその雪辱を胸に生 きていくことになる。そしてこのような会津の雪辱を果たしたいという思いは,

武士の子たることを忘れしか。戦場にあり兵糧なければ,犬猫なりともこれを喰ら いて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ど も餓死して果てたるよと,薩長の下郎どもに笑わるるは,後の世までの恥辱なり。こ こは戦場なるぞ,会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ。124)

と,五郎が父に言われた台詞も物語るように,会津人に共通してみられるものであった。

では会津の雪辱とは,実際にどのような形でなされるのか。

一つ目に,藩から国家,会津から日本への忠誠心の転換がある。明治の世において,「会 津藩士の為すべき課題は,謀られて朝敵とはなったが,省みて天に恥じぬ正道を歩んで きたという自信を持ち,会津藩士の生きざまを新しい維新後の日本の社会の中で認めさ せ,押し拡げてゆくこと」125)であった。つまり会津の雪辱とは,会津人の生き様・心意 気が間違っていないということの表明を意味している。

会津人の生き様・心意気とは何か。それは,会津人が自己の利益や私心を排して,藩 の運命として,藩祖の理念126)に尽くしてきたこと,つまり,自己の属する大きな共同体 への忠そのものである。散士も落城直前の鶴ヶ城にて「空シク死シテ名ヲ滅センヨリハ 恥ヲ忍ビ生ヲ全フシテ一旦外患アルノ日誓テ神州ノ為メニ生命ヲ鋒鏑ニ委シ而シテ是非 正邪ヲ死後ニ定メンニハ若カズ」127)と「国ニ報ユルノ赤心」128)の発露と「国家ト共ニ亡 ブル」129)覚悟を志すことに会津の正義を見ることで,会津藩の降伏を受け止めたのであっ た。

実際に,柴五郎や山川浩,山川健次郎など多方面から国家の発展に尽力した会津人は 多数存在した。彼等は,方法は違えども,会津が滅んだ今,「他日我帝国ノ為メニ鞠躬命

(24)

ヲ致シ往年ノ志ヲ天下後世ニ伸ベ死者ニ泉下ニ謝セント欲スルノミ」130)と,自己の属す る大きな共同体への私心を排した忠を実践し,会津の雪辱を果たそうとしている。

そういった国家への忠誠心の転換の一方で,会津の歴史を後世に伝えようとする努力 もなされていく。その代表的なものとして,北原雅長『七年史』(明治 37 年),山川浩『京 都守護職始末』(明治 44 年),山川健次郎『会津戊辰戦史』(昭和 7 年)があるが,これ らはいずれも帝に忠誠をつくした主君松平容保の潔白を証明し,会津藩の正義の戦いを 記録したものであり,薩長が正義で会津が不義とする明治新政府の歴史観への痛烈な批 判でもあった131)

ではそのような会津の雪辱とは,散士にとってはいかなる手段でなされるものであっ たか。一つ目の手段として,『佳人之奇遇』における「亡国ノ遺臣」を通じた自己主張が ある。前田愛氏は「『佳人之奇遇』16 巻をつうじて散士が執拗に問いつづけたのは敗者に とって正義とは何かという難問であり,賊軍の汚名をこうむった会津藩の雪辱は,『佳人 之奇遇』の執筆を促した有力な動機のひとつであった」132)と『佳人之奇遇』執筆と会津 藩雪辱の思いの関係を指摘している。

散士はアメリカ留学の経験から,世界の情勢やその情勢の中に置かれた日本の状況を,

客観的に見る機会を得た。そして,世界における弱国の状況や,日本に迫る強国支配の 危機を実感することになる。故に,この「多年客土ニ在リ国ヲ憂ヘ世ヲ慨シ千万里ノ山 海ヲ跋渉シ物ニ触レ事ニ感ジ」133)たことをまとめ,「亡国ノ遺臣」である散士と『佳人之 奇遇』内で各国の「亡国ノ遺臣」と交流を通じて,日本の亡国の危機に警鐘を鳴らす。こ れは同時に,日本を亡国の危機においやった当時の政権を担当する薩長の政治に対する 痛烈な批判の表れでもあった。

そして,散士は「他日我帝国ノ為メニ鞠躬命ヲ致シ往年ノ志ヲ天下後世ニ伸ベ死者ニ 泉下ニ謝セント欲」134)し,会津から日本に忠誠心の対象を転換しながら,『佳人之奇遇』

に描く世界の「亡国ノ遺臣」の行動を通じて,強者の不義に対する抵抗を称賛し,日本 の亡国の危機を救うことで,会津人としての生き方を証明しようとしたと考えられる。こ のような,亡国の危機に対する憂い,そして憤りは滝川資言による十巻跋文にも

憂国愛民之情。慷慨悲憤之気。溢紙上。真是経国之大議論。警世之大文字135)

と書かれるように,『佳人之奇遇』を貫くテーマでもあった。一方,このような散士の叙 述の背景に存在する,会津の亡国という自己の体験に基づく「亡国ノ遺臣」としての強

参照

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