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一九一五年京都府向日町上植野区長日誌(上)

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(1)

著者 高 燎

雑誌名 社会科学

巻 48

号 3

ページ 27‑56

発行年 2018‑11‑30

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000357

(2)

二七 序言

近代の国民国家構築のなか︑国民統合のための国家権力の社

会底辺までの浸透はどの国でも見られる︒西洋の衝撃を受けた

後発地域の東アジアでは︑国家の地域再編は重要な国家的課題

であり︑その進行は伝統社会に秩序再編をもたらす︒

近代中国では農村の地方エリート層である士紳は中華民国時

代まで︑ずっと影響力が強かった︒その結果というべきか︑清

朝晩期から保甲制度の強化︑地方自治の進展という国家の地方

社会の浸透は士紳階層との摩擦のなか順調に進まなかった︒中

央政権が地方社会を完全に把握するのは中華人民共和国建立ま

で持ち越されることになった︒

一方︑日本では一八八九年市制・町村制の施行により東アジ

アでもっとも早く地方自治の制度が確立した︒明治の大合併で 成立した行政町村は歴史的に変化し︑町村の行政と自治が発展した︵大石嘉一郎・西田美昭編著﹃近代日本の行政村﹄日本経済評論社︑一九九一年︶︒一方︑江戸時代の藩政村を継承した村

落は大字として定置されたが︑行政町村の変化に対応して形骸

化と現在の農業集落への基礎的共同体の交替を含む歴史的変容

を遂げる︒日中の近代化において地域社会が重要な役割を果た

すことは共通するが︑近代化と地域社会の関係性はそれぞれの

地域社会のありようを反映してかなり対照的である︒

国家の地域支配を日中比較すると︑相対的に近代日本ではス

ムーズに進み︑一方近代中国ではスムーズには進まなかった︒こ

れは︑農業・農村・農民をめぐる戦後の両国の政策や対応につ

ながっている問題である︒戦後の中国では日本の農協の問題を

ひとつ取り上げただけでも明らかなように日本ほど農村・農民

政策はうまくいっていないことが特徴であり︑この点に現代中

︽資料︾

一九一五年京都府向日町上植野区長日誌︵上︶

高      燎

(3)

二八

国の国家的課題も見るべきであるととらえられる︒その要因を

日本の農村の研究を通して考えてみたいというのが中国人研究

者としての筆者の問題意識であるが︑結論的にいえば問題を解

く伴は日本の村落にあり︑﹁行政と村落﹂あるいは﹁協同と村

落﹂等の枠組みでの研究︑両者の関係性の具体的解明が求めら

れていると認識する︒かかる問題意識は齋藤仁氏ら自治村落論

の根本にあったが︑すでに指摘があるように近現代村落の実態

については齋藤氏らも具体的に明かにしていない︒

近代日本を理解するためには︑基層社会である村落の実態と

変容がまさに重要な課題である︒膨大な蓄積がある近代行財政

史や政治史の分野では︑もっぱら行政村が重視されてきた︒農

業・農村史の分野では︑産業組合や経済更生運動の研究が数多

く行われてきた︒また農村社会学では︑村落構造や寄合の静態

的な研究が中心であった︒いずれにしても村落のありようを動

態的に総体として明らかにする研究は今後の課題である︒

本稿では︑上記近現代村落史研究の残っている課題の解明の

ため︑手がかりとなる京都盆地西南部にある旧京都府乙訓郡向

日町大字上植野区長の公務日誌を紹介する︒同日誌を歴史的に

読むことで村落のありようと歴史的変化が追跡できる︒一般的

に村落のまとまりが強い近畿や北陸の村落でないと区長日誌は

なかなか記帳されないし︑残らないといえる︒現在︑翻刻され た長期間の区長日誌は近畿の村落・滋賀県知内村区長日誌だけではないか︒東北などでは農家や農家組合長の日誌はあっても区長日誌は寡聞にして知らない︒

同日誌は近世文書・明治初期戸長役場文書・町村制施行後の

大字文書からなる三世紀にわたる約七〇〇〇点の膨大な上植野

区有文書の一部にすぎない︒所蔵先は上植野村戸長役場・区事

務所奥の土蔵そして向日市役所を経︑現向日市文化資料館に移

管された︒当資料館は二年間の調査を行い︑はじめてこれらの

史料の全貌を明らかにし︑﹃京都府向日市上植野区有文書調査報

告書﹄︵一九九五年︶を刊行した︒この報告書により︑村落日々

の事情を記された五十一冊の公的な﹁日誌﹂があり︑一八八二

年︑一八八四年から一九二一年︑一九二八年から一九三六年︑

一九三八年の分は単年度でそれぞれ一冊になり︑一九五〇年か

ら一九六一年は合わせて一冊であることがわかる︒明治前期の

日誌は筆生という係員が書いたと推測する一方︑明治後期から

表紙に﹁区長﹂が付いたものは区長自身が記録したと考えられ

る︒

上植野区有文書の﹁日誌﹂について︑高久嶺之介・西村卓両

氏は﹁村組の活動内容も含めた近代の村︵区︶のしくみとその

変遷⁝⁝近代の制度が村︵区︶のなかにどのように入っていっ

たか﹂など﹁近代の畿内村落を実態として明らかにできる﹂も

(4)

二九 のだと指摘した︒両氏は一九九六年に乙訓地域史研究会を組織し︑上植野区事務日誌の構成と性格を解明し︑内容の解読に務め︑一九九九年から二〇〇五年まで一八八二年二月〜一八八六年十月分の日誌を翻刻した︵高久嶺之介・西村卓﹁京都府乙訓郡上植野村役場日誌︵

1︶﹂﹃社会科学﹄第

62号︑一九九九年二

月等︶︒さらに︑西村氏等は上植野区有文書を利用し︑明治前期

における当地で起こった玄米窃盗未遂事件︑鉄道踏切番人官舎

強盗事件および青年日誌を解明している︵西村卓﹁鉄道踏切と

強盗明治一七︵一八八四︶年八月に起こった強盗事件﹂﹃經濟

学論叢﹄第六三巻第四号︑二〇一二年三月等︶︒しかし︑上植野

の運営実態︑とりわけ町村制定着後における基礎共同体である

大字がいかに国・府・郡等上級行政機関の政令を受け止めたか︑

いかに村落の住民が共同の事業を展開したか等︑村落の全体的

なありようについては触れられていない︒

紙幅の制限もあって今回は一九一五年の日誌だけ翻刻した︒

これだけでも近畿の郊外村落を知りうる重要な資料である︒中

国人研究者の目を通して︑血縁・宗族の影響力が大きい中国農

村と異なる地縁結合の強い近代日本村落のありようを浮き彫り

にすることができたと思う︒対象地域は近畿地方の都市近郊に

属する︒これまで農業・農村史研究が中心であった長野県・新

潟県等の養蚕地域や米作地域とは異なる村落のありようを解明 する手がかりとなり︑課題である近代村落像を豊かにすることにも多少とも寄与すると考えられる︒

これを出発点として︑庄司俊作︑竹内くみ子等の協力の下︑

一九一五年上年期の上植野区事務日誌を翻刻し︑ほかの資料等

を利用し︑解説︵必要に応じて下年期のことも言及する︶を添

え︑上記の問題を多少でも解明したい︒この時期の日誌を紹介

した理由は︑後述﹁うつりかわる時代﹂に詳しく述べるが︑短

く言えば︑町村制定着後の大正時代の冒頭に様々な出来事があ

り︑ちょうど近代転換期における村落の運営をうかがえる断片

ではないかと思われる︒また︑一九一五年分の日誌は財政年度

と合わせ︑全体としては同年四月から翌年三月までムラのこと

を記述したが︑翻刻の上年期は農繁期であり︑村落にとって一

番大事な水利等の生産活動が行われたからである︒篇幅に限り︑

本稿はまず解説全文を載せ︑四月一日〜五月二十日分の日誌を

添付する︒次回は︑残りの九月までの分を掲載する予定である︒

一 結束力のある村落

江戸時代に近世村として独立した存在であった上植野村は︑

一八八九年町村制施行にともない︑他の五つの村落と合併し︑向

日町が誕生した︒それ以降︑行政町村の下部区画として︑大字

(5)

三〇

上植野区︵以下︑﹁上植野区﹂や﹁ムラ﹂という︶となった︒同

区は近畿の村に典型的な一集落型大字︵庄司俊作﹃日本の村落

と主体形成協同と自治﹄日本経済評論社︑二〇一二年︶であ

る︒上植野区の戸数は一二六〜一四五戸というところであり︵資

料によって多少異なる︶︑近畿の中でも比較的大きな村落といえ

る︒村落内はイ︑ロ︑ハ︑ニ︑ホ︑ヘ組の六つの村組からなる︒

確認した限り︑一九一五年の区長は小野利一であり︑同年の各

組長と区会議員︵区長代理者以下は匿名化する︶は表

1の通り

である︒時期は少しずれるが一九三三年の区費徴収算出原簿と

照合して各家の財産力を反映する戸数割賦課数︵二五円以上を

上に︑五円〜二五円を中に︑五円以下を下にする︶を見ると︑彼

らは原簿記録の全一四八戸中上位五七戸までに入っている︒一

部区の有力者独占ということではなく中の上層まで役職者は下

降しているが︑中の下層以下は区の運営には参画していないこ

とは確かである︒

上植野区の特徴として︑二つの﹁村柄﹂があったと西村氏が

指摘した︒一つは︑前近代において天皇家・公家・社寺家など

の﹁支配関係が錯綜するいわば京都近郊農村地域=非領国地域﹂

であったため︑﹁領地の分断﹂と﹁頻繁な領主の交代﹂による村

落の自治と結束の強さである︒明治・大正期になっても村落は

六つの村組から構成され︑地域全般の事業を協議実行する上植 野区のありようは歴史的に形成されたこうした﹁村柄﹂を抜きにしては理解できない︒もう一つは︑自然気候により︑﹁用水確

保=特に旱魃における番水制度﹂が培った﹁村内の家同士の相

互扶助的でかつ平準的な関係﹂である︵西村卓﹁﹁盗難﹂と村の

救済明治九︵一八七六︶年に発生した﹁玄米窃盗未遂事件﹂﹂

﹃經濟學論叢﹄第六三巻第三号︑二〇一一年一二月︶︒実はムラ

の自治とイエの連合に根ざしていた上植野は他の村落と多少の

差異があるが︑日本型自治村落の特徴を共有しているといえる︒

またこのような村落性は近代になっても︑強靭的に維持されて

1︶

表 1 1915 年上植野区役人とその 1933 年戸数割賦課数

氏名 役名

(1915 年)

戸数割賦課数

(1933 年)

小野利一 区長

藤田重次郎 区長代理者

KS 会計、区会議員

KY イ組組長

MG ロ組組長

WY ホ組組長

YY ヘ組組長 (確認できず)

NH 組長

OK 組長 (確認できず)

NS 区会議員

AS 区会議員

NO 区会議員

WS 区会議員

OT 区会議員

(6)

三一 おり︑一九一五年の上植野区長日誌にも明確にうかがわれる︒

もう一点注意しなければならないのは︑上植野は一貫して京

都府の所轄であるが︑視野を少し広げれば︑伝統の淀川舟運と

近代交通手段である鉄道の発達により︑大阪にも近距離な立地

である︒日常用品の購入先である京都市から人糞尿を汲取り︑農

業生産の下肥として使っていた︒なお︑大阪府にあるアサヒビー

ル吹田工場の前身である﹁吹田麦酒会社﹂とビール麦の取引が

あり︑地産名物の乙訓筍も大阪青果市場に出荷していた︒その

ため︑京阪間にある上植野は二つの近代都市に依存する郊外性

を鮮明に帯びている︒商品農業の進展に伴い︑乙訓筍の販売ネッ

トワークはさらに神戸等に及び︑それは主産地の形成につなが

り︑近畿型農業経営方式の特徴が具現した︵池上健太郎﹁戦前

期における乙訓筍の産地形成﹂︑京都大学農学研究科比較農史学

修士論文︑二〇〇三年︶︒近畿型といっても︑その内部では土

地・労働力・商品の諸市場との結合程度に差異があり︑上植野

区を含む乙訓郡は京都府南部の﹁米+筍﹂という枠組みをもつ

近畿型商業的農業経営の形態を確立していた︵山田達夫編著﹃近

畿型農業の史的展開﹄日本経済評論社︑一九八八年︶︒ 二 うつりかわる時代

一九一五年の対象時期に関して︑世界史から見れば︑第一次

世界大戦の始まった翌年であった︒﹁欧州戦乱のため一般鉄材﹂

は高くなり︑商人らの要望により︑十二月に上植野区は﹁水道

用具たる不要金棒﹂や共有﹁金矢﹂を売却した︒大きな影響は

まだ顕在化しいなかったが︑まさに戦争はグローバリゼーショ

ンにともなった一体化した世界市場を通じて上植野のような小

さな村まで波及した︒日本国内では︑大正改元してから四年を

経過したが︑旧皇室典範と諸般の事情により︑大正天皇の即位

の礼は諒闇三年後の一九一五年秋冬の間の時点で

︑昔の都で

あった京都市で行われた︒近代国家の体裁が整った以降︑初の

天皇交代儀式として︑この年は近代天皇制の形成にとって重要

な一年といえよう︒京都市郊外にある上植野はこうした背景の

なか天皇制の直接の影響下に巻き込まれ︑御大典に緊密に関与

した︒

即位の礼は十一月十日に行われた︒儀式関係の全般は︑とく

に早くから準備が始まった︒伝統行事には欠かせない物である

竹材については︑京都府内で名産物として名高い乙訓地域が請

け負った︒御用竹の件はすでに向日町が六月七日から協議を始

めたが︑七月二十八日の区長会において上植野区は全町の二割

(7)

三二

を負担すると決定された︒そして八月八日︑御用竹指定藪の所

有者五名の承諾を得︑翌日から二日間にわたって伐採の作業が

行われた︒同十三日と十七日に御用竹運搬の協議を行い︑二十三

日上植野区九十九名の青年会員が早朝三時集合し︑計二十一輌

六十六束の御用竹を京都・大宮御所まで運搬した︒奉仕行動だ

けではなく︑六月八日から青年会は御大典記念事業を考案し︑即

位の礼当日の夜に奉祝式を開催した︒この式に参列した区長は

﹁目出度サ限リナキ今日

!!!記念スベキ今日!﹂と当日の日誌を記

した︒当時の近代天皇制のイデオロギーは上植野区という小さ

な村落の隅々まで浸透した︒

また︑一九一五年は天皇の交代だけでなく︑近代日本社会の

転換の時期にもあたる︒日露戦後以降︑﹁一等国﹂をめざして

二十世紀初期の国づくりが盛んに推進されていた︒重工業の発

達︑都市化の進展そして消費社会の形成などさまざまな面では

伝統からの移り変わりが起きていた︒酒類の趣味といえばこの

時代︑欧米から伝来したビールは徐々に市場を拡大していた︒結

果として︑市場のニーズに応え︑生産収益を高めるため︑ビー

ル麦の作付が都市近郊部に広がっていた︒ビール醸造に適する

ゴールデンメロン麦栽培先進地である京都府葛野郡川岡村︵京

都市歴史資料館編

﹃京郊農村の近代

葛野郡岡区事務日誌﹄

二〇一四年︶に近隣している上植野区でも︑農家が麦作を広げ︑ 向日駅から東海道線を利用し︑﹁吹田麦酒会社﹂にビール麦を供

給した︒上植野区における一九一五年の麦生産量は四五九石六

斗︵うち不合格麦一八石︶である︒乙訓郡全体の売上げから見

れば一九〇二年から一九〇九年にかけて一位の商品農産物は麦

であり︑一九一〇年以降筍に抜かれた︵上植野区有文書七〇二五

﹁明治四十四年  乙訓郡統計﹂︑向日市文化資料館所蔵︶︒村内で

ビールを飲む人びとが登場し︑七月十九日講会後の晩餐慰労の

ときには﹁ビール一打﹂と記されている︒また同年︑区内八十

戸前後の人家がすでに電灯を使っており︵向日市文化資料館編

﹃図録 

20世紀のむこうまち﹄二〇〇二年︶︑ライフスタイル近

代化の風はいちはやく都市近郊の地である上植野区に吹き込ん

だことがうかがえる︒

三 国政委任事務の展開

政治・経済・社会の転換期に当たる一九一五年はちょうど地

方改良運動の最中であり︑町村制はほぼ村落地域に定着した︒次

に︑町村の下の大字レベルの運営状況を見ていきたい︒上植野

区の区長日誌の読みを通して︑行政の末端であり村落自治の根

幹である大字の運営状況が把握できる︒以下では行政と自治の

二点に注目し︑上植野区の姿を浮き彫りにする︒

(8)

三三 近代の町村行政では国政委任事務を中心にアップダウンの政令伝達・行政指導・事務遂行等が行われ︑国民統合の課題に向けて︑人的資源をコントロール・動員する︒政令伝達のアプロー

チとして︑向日町ではまず町単位で各大字の区長を集め︑不定

期に区長会が開かれ︑国・府の行政指示を伝えられる︒そして︑

区長はムラに帰ると︑近日の夜間に区事務所で六つの村組の代

表者を集め︑組長会または議員会を開き︑政令に対し対応・執

行を協議した︒決定した事項はその後組長・小使または﹁普告

方﹂を介し︑各戸に通知し︑ムラの住民全員に知らせた︒日誌

の な か 確 認 で き る 村 落 内 会 議 の 開 催 の 回 数 を か ぞ え る と

一九一五年には組長会二十回︑区会十五回︑合同会議二回を除

けば両会議は年間三十三回開催された︒村落内の協議はきわめ

て頻繁に行われているが︑会議が開かれる時期はかなり偏りが

ある︒表

2に見えるように︑会議の頻度は農業生産の繁閑と正

相関であり︑農繁期の五月〜八月に組長会は十三回︑区会は九

回開かれ︑それぞれ通年開催数の

65%︑

60%を占めていた︒こ

れは︑会議の協議内容がほとんど農業生産とくに稲作に関する

水利等が中心だったからである︒

会議の内容はだいたい行政町村から村落大字へ国政委任事務

の進み方を反映しており︑向日町区長会が関連事業を提示し︑そ

れを受け︑下の上植野区において大字レベルの組長会や区会が

協議をしたり

︑対応を講じたりす

る︒そこには衛生掃除・農会・表彰・

御大禮関係などの新規・指導・臨時

事業が含まれた︒そのほか長年にわ

たって常務になった徴税・徴兵・種

痘・防疫・選挙等の事務は大字レベ

ルで自ら執行するか︑上の官庁が直

接関与する形で行われた︒

国民の三つの義務である徴税・徴

・ 義務教育を事業別に見てみる

と︑だいたいこの三つの事業は明治

初期から常務として遂行されたた

め︑区長会ではあまり協議されてい

ない︒政府運営の財源に直接かかわ

る徴税は︑所得税申告以外は役員に

よって行われた︒向日町役場助役・

収入役そして伏見税務署役員が徴

税のため上植野区に出張し︑滞納の

場合とくに年末年始の間未納者に

督促した︒四月二十五日に一度だけ

向日町各区に十一月まで納税組合

表 2 1915 年度(4 月〜翌年 3 月)上植野区関係会議の開催数

4 月 5 月 6 月 7 月 8 月 9 月 10 月 11 月 12 月 1 月 2 月 3 月

区長会 1 1 1 2 0 2 1 1 0 0 0 0 9

組長会 0 4 3 5 1 1 3 1 1 0 1 0 20

議員会 1 2 4 1 2 1 0 1 0 1 0 2 15

組長議員合同会 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 2

資料:『大正四年四月起 上植野区長日誌』

(9)

三四

を設置することが検討されたが︑この後協議されていない︒徴

兵はおおむね町レベルの事務であり︑区内はただ身体検査・抽

籤などの通知をするだけである︒﹁陸海軍人の志気を養生し︑慰

労をなす﹂ことを目的とした尚武会︵上植野区有文書四三〇一

﹁尚武會々則﹂︑向日市文化資料館所蔵︶は︑一八九七年に上植

野区に発足した︒向日町ではこの年に古藤大尉が逝去したため︑

十月二日に向陽小学校で町葬が挙げられた︒費用は各区が分担

し︑上植野区では十円五十九銭を負担した︒

義務教育は﹁殖産興業﹂・﹁富国強兵﹂・﹁文明開化﹂の重点施

策であり︑町村において小学校運営費は常に第一位の財政支出

項目であった︒当時︑六年制義務教育はほぼ普及しており︑校

舎新築・改築等の工事以外︑尋常小学校自体は通常に運営され

ていた︒しかし︑明治期から教師の人事面で不安定の状態が長

く続いていた

︒向日町でも同じ状況があったと見られるが

一九一五年五月八日に三十年間勤続の訓導木本益之氏を表彰す

るため︑各大字から有志金を拠出して小学校で謝恩式が開催さ

れた︒日常的な行政事務だけではなく︑町葬・謝恩式など表彰

的なセレモニーを介して︑村落住民のアイデンティティが行政

町村へ収斂され︑結果として近代国家の国民統合につながって

いった︒

衛生の普及・徹底に関しては日誌のなか記録は多くないが︑種 痘施行・掃除検査・伝染病等の対応の三つの事業が行われている︒まず一九一五年の種痘は︑三日前事前に施行時間・場所を接種児童二十余名の父兄に﹁告知﹂され︑五月十八日午前十時に町医と看護婦︑町役場吏員が上植野区事務所に出張して︑十時半から午後零時にかけて行われた︒衛生掃除は夏期に集中し︑室外や下水道の掃除とともに畳や衣類布団の日光消毒も行っている︒もともと︑七月二十八日夜の伍長会において︑八月四日掃除検査日になれば前日から掃除し︑各伍長をして﹁検分﹂させることが協議されたが︑事情・天気により検査日は突然八月六日の当日実施の運びとなった︒﹁竹下部長︑山崎巡査︑和田辰

之助︵町助役︶︑武山書記︑中村郡書記﹂が検査員であった︒掃

除検査の結果がどうなったかは記されていないが︑その後区事

務所・夜学場・墓地などの掃除がなされたことから見ればおそ

らくよくなかったと推測される︒にもかかわらず︑八月と九月

に巡査と書記はさらに三回検査を実施した︒警察の出番は伝染

病発生の処置にも見える︒この年︑上植野区では三人の伝染病

患者が出た︒患者が出てから巡査と町助役はすぐ患者の住宅を

消毒した︒また︑六月十日に伝染病予防のため︑もっぱら衛生

について伍長会が開かれた︒このように︑大字レベルの衛生行

政は実は警察や町役場吏員による直接な関与のもとに執行され

た︒

(10)

三五 農業政策上はもはや明治期の﹁サーベル農政﹂の時代ではなく︑明治末期から発達してきた農会がこの時期には活動していた︒上植野区では大字レベルの農会下部組織が存在したかは確認できないが︑乙訓郡農会・向日町農会から指導が行われたことは確かである︒共同苗代の視察・奨励からビール麦の生産奨励も熱心に行ない︑﹁ビール麦値段書﹂を上植野区に送ってきた︒

大字レベルの農会の事業の徹底は町農会の技手が当たり︑指導

の代わりにビール麦一石の売却金につき十六銭の農会費を徴収

した︒

町農会の事業としては︑一九一五年から実施された産米改良

とそれに伴う地主・小作の交渉が注目される︒京都府は同年米

穀検査規則を制定し︑精米の検査を十月一日から行うことを決

定した︒これを受け府下の各地域は対応をとった︒五月三日︑向

日町区長会は﹁産米改良府令﹂に対し︑地主会︵町単位︶によっ

て推進することを検討した︒﹁本町生産に係る小作米収得者すべ

て﹂を会員とする向日町地主会は︑﹁小作者を保護奨励し︑産米

改良等に農事の改良発達を図る﹂を目的として規則実行日前に

組織された︵上植野区有文書七一二三﹁地主會規約﹂︑向日市文

化資料館所蔵︶︒事務所は町農会に置かれた︒規約書には小作米

の生産検査・合格米の上納が規定される一方︑﹁已むを得ざる場

合に﹂不合格米の代納と︑一定期間に一定割合の滞納も認めた︒ また︑産米改良の実施に向け︑上植野区ではいちはやく五月から俵装仕立様式の配布・標準米の収集・産米改良用俵の購入等さまざまな準備が進んでいた︒小作人に対する啓発のため︑町農会安田技手を招き︑産米改良に関する講演会が二回開催された︒

しかし︑産米改良が伴う負担増を懸念していた小作側の反応

は農会・地主側の期待に反するものであった︒小作人会が十月

二十四日夜に夜学場で開かれた︒そこで﹁産米改良実施につい

て︑従来の米質と内俵は小作側に於て改良すべく︑外俵と生産

検査とは地主に於て改良若ば受検﹂すべきことを決議し︑翌日

に小作人代表者六人がその意見を農会・区長に伝えた︒それを

受けて十月二十八日夜地主会が開催され︑﹁小作と地主と円満な

る発達を期せんがため﹂︑一九一五年に限り小作側が負担する縦

縄・外俵の代金は地主側から支給・補助することを﹁小作に対

する同情を寄﹂せたかたちで決定した︒その後区長を介し︑小

作側と地主側との交渉が進められ︑最終的に十一月三日︑地主

会は代金の支給ではなく︑縦縄及外俵現品の交付を望んだ小作

側の依頼を﹁満場異議なく﹂承認した︒これで一応地主小作の

間で決定的な対立にはならなかったが︑京都府下初年度の産米

改良の実施がもたらした紛議は明瞭に表れた︒その中で注目す

べきは︑︵

1︶区長の積極的な仲介︑︵

2︶小作側が組ごとに意

(11)

三六

見や方針をまとめていること︑そして︵

3︶地主会がとった宥

和的な対応︑の三点である︒これは産米改良をめぐる争議の前

兆といえる︒

それに関連して︑五月四日︑隣接する寺戸区の﹁農会長岡田

金蔵外一名﹂が上植野区事務所を訪問し︑俵装改良について﹁不

実行﹂の立場を伝え︑上植野区の地主会でも同様な方針で対応

してほしい旨要請したことが注目される︒それに対し区長は自

分だけでは決断できない︑ムラ全体の協議が必要であるとして

断った︒

もう一つ︑一九一五年を﹁特別な年﹂にした事柄として︑御

大典の挙行︵前述︶がある︒行政はこれをめぐって上も下も﹁精

励﹂して対応した︒京都府・市は御大禮に向けて関係行事全般

の準備に参画しており︑下の町村そして大字は同様に決定事項

の実施に尽力した︒前期御用竹の献納・御大禮記念奉祝会だけ

ではなく︑衛生や警備の面で厳戒の体制をとった︒

衛生について見ると︑まず乙訓病院組合が﹁伝染病予防取締

に関しては一層厳重なるため︑伝染病患者は何れを問わず︑悉

く病院に収容﹂したとしている︒年間患者数は五十名︑とくに

夏には﹁一時は非常の混雑を極め︑且つ病室の不足﹂になった︒

上植野区では伝染病患者のT氏︵実扶的里亜ジフテリア︶︑M氏

︵実扶的里亜︶︑K氏︵窒扶斯チフス︶は︑発見後すぐ入院させ ており︑全治までそれぞれ七日間︑十日間︑四十四日間収容された︵乙訓自治会館病院組合文書

01 1︑京都府立京都学・歴

彩館所蔵︶︒

また︑ケガレや京都市内面貌を考慮し︑下肥である屎尿の近

郊農村部への運搬は御大典前後︵十一月六日〜同月三十日︶に

規制された︒同期間中︑屎は夜間しか運搬されない︒指定の容

器︵四斗樽及上戸の類︶を使って特定のマーク︵赤符吊下げ︶

がある町家に汲み取りをさせた︒日程によって毎日の搬出総量

が定められており︑汲取人が運搬通行できない空間︵烏丸三条

以北︶が設定された︒上植野区では十月十五日に向日町役場か

ら﹁御大典期中市内屎尿特定汲取希望者募集﹂という通牒があ

り︑翌日に区内﹁屎尿汲取人﹂九名に通知した︒その後区長会

の決定事項をさらに徹底し︑十一月五日に﹁御大典期中市内屎

尿者通行禁止箇所﹂を一枚掲示した︒

当局も警備には十分配慮し︑十一月一日〜同月二十八日の期

間︑夜間のパトロールであった江戸時代からの﹁自身番﹂を展

開していた︒十月二十六日の向日町区長会では︑各区は﹁消防

隊若ば青年会︑在郷軍人員等の助力﹂によって﹁適宜﹂自身番

を実施することが求められた︒上植野区では翌日の夜に﹁消防

取締の集会﹂を開催し︑二十九日には﹁自身番日割りの件﹂に

ついて﹁消防手の総会﹂を開いて協議した︒十一月一日から自

(12)

三七 身番は開始されたが︑四日夜には区会で﹁自身番夜食代﹂︵一人

当たり米三合・酒一合︶の支給が決定された︒その額は合計で

三十五円に及んだ︒

御大典中︑八十歳以上の高齢者・愛国婦人会員・赤十字社社

員の鹵簿拝観や各戸の国旗掲揚が表舞台で華やかに行われてい

た︒同時に︑道路側生草の刈取を含め︑行政の命令によって強

いられた村民の協力と参画も裏に数えないほどあり︑近代天皇

制を末端で支える村民の苦労と緊張がうかがわれる︒このよう

に︑さまざまな事業を通じて末端の大字・区は国政の枠組みに

包摂され︑近代天皇制の国民の教化と統合を支える地域的基盤

として陶冶されていった︒

四 共同体なかの水利慣習

町村制成立後︑村落社会は大字・区として行政組織末端の役

割を果たす一方︑地域共同体として村民にとって共益事業を継

続して行っていた︒明治前期︑地域の行政単位は一八八九年ま

で変動を繰り返し︑大区小区↓︵連合︶戸長役場↓行政町村と

激しく動いた︒しかし︑江戸時代の行政村であった近世村の多

くは行政の非制度的存在となったものの︑その継承村落として

大字となる︒齋藤仁氏は自治村落論を展開し︑近世村由来の大 字は明治以降においても共同体として機能しており︑近代日本の農業問題を規定したと指摘している︵齋藤仁﹃農業問題の展開と自治村落﹄日本経済評論社︑一九八九年︶︒上植野区はこう

した自治村落の一つであり︑ムラの生産・生活に関わる共同体

事業を遂行していた︒

稲作を基幹とする上植野区の農業構造のなか︑まず水をめぐ

る問題は村民にとって最大の共益である︒干ばつ被害予防のた

め︑﹁突井戸﹂・番水等の対策がとられた︒豪雨・洪水がもたら

す河川堤防等の工事も随時必要であり︑気候との闘いは村落社

会の共同体性を強化する要素の一つであった︒その背景となる

一九一五年の上植野区の天候を見てみよう︒一九一五年四月一

日から翌年三月末日まで確定できる雨が降った日は四十四日を

かぞえる︒雨の日は農繁期の四月〜六月に集中した︒稲の成長

期である七月〜八月になると梅雨明けで激減し

︑ とくに七月

十二日から二十日間連続の高温が続いていたことが読み取れる︒

こうした状況下︑八月四日の降雨について︑区長は﹁雨を待つ

人も草木も復活の色あり﹂と記している︒また︑六月の田植え

の時期にほぼ十日間晴れの日が続いた後︑二十日夜に各組長と

区会議員が集会し︑﹁方法を協定﹂していた時︑大雨が降り出し

た︒そして翌日も雨が続き︑﹁黄金ノ雨﹂と記されている︒

このような天候になると︑夏季生産期において用水の確保が

(13)

三八

上植野区の村民にとって﹁もっとも重要で切実な問題﹂であっ

たことが露わになる︒その対策として︑独特な番水制度が設け

られるとともに︑用水路と﹁突井戸﹂など工事的な方法も講じ

られた︒番水は︑﹁

8〜 9軒で 1組︑

4組ごとに

1つの番となり︑

全部で

4番︵

4番目は

2組︶に分かれ﹂︑﹁

1組につき

6時間ず

つ田に水を入れ︑

4日間でひと回りする仕組み﹂である︵向日

市文化資料館編﹃むらの記録上植野区有文書からみた近代﹄︑

一九九五年︶︒それは長年にわたる家を単位とする用水分配制度

として定着していた

︒一九一五年には五月二十二日の抽籤に

よって当年度の番水順番が決定され︑七月二十四日から番水が

本格的に開始された︒慣習として定着したといっても︑万般順

調ではなかった︒用水の分配・利用形態をめぐって︑小字馬立

では︑水車を使って横堰していたことが他の村民に不公平と見

なされ︑それは番水開始前の一昼夜しか認められなかった︒ま

た︑八月五日に前夜からの大雨で番水が潰れ︑半月後の二十日

まで回復しなかった︒このように︑上植野区の用水運営システ

ムである番水はシステム的に弱体な面があった︒

番水というソフト面の制度だけではなく︑ハードウェアとし

て用水整備の工事も行われていた︒桂川の支流である乙訓村大

字今里︵現長岡京市域︶と挟んでいる小畑川は上植野区にとっ

て一番の農業水源である︒小畑川の底から伏樋を使い︑河水を 和井川と小井川の二つのメイン灌漑用水路に引き︑毛細血管のような水路を経て水田に流れ込ませていた︒この用水基盤について次の三点が注目される︒

一点目は︑日誌のなか頻繁に言及された小字上川原の﹁突井

戸﹂新設のことである︒小字上川原は小畑川の井手取場上流に

近く︑和井川用水路の上流にある︒六月六日︑﹁近来番水量非

常に減少し⁝本年よりは山ノ下三反半を加入した﹂としたうえ

で︑用水維持の困難さを訴え︑区会に﹁突井戸﹂の新設を申し

込んだ︒しかし︑区会は多数の議員が昔ながらの二ツ井戸修繕

のほうを希望したことを理由として︑小字上川原の申請を拒否

した︒六月八日に﹁古井戸浚渫﹂の記録があり︑難しかったか

もしれない︒小字上川原は再度出願し︑その結果やっと八月一

日に区会に受け入れられた︒大字の力を借り︑候補地の選定・

工事の依頼・用材の購入・人足の雇入などを経︑九月十三日に

ようやく

﹁ 突井戸﹂が完了した

︒工事費に関しては

︑ 区から

十五円﹁代金の対応﹂のほか︑人足賃として反別割の形で一反

五十銭を徴収しており︑かなり自主的な運営であった︒なお︑

対照的な失敗例として︑当年ほぼ同じ時期から小字馬立も突井

戸の新設を申請したが︑結局行方不明になった︒

二点目は︑用水路の維持・浚渫のため︑年に春・夏・秋の三

回行われる川堀のことである

︒川堀は

︑協議で決まる指定日

2︶

(14)

三九 ︵一九一五は︑五月二十六日・七月二十三日・十月一日︶に各村

組一斉に人足を動員し︑浚渫を行う︒工事日がすでに決まった

なか︑実施できない村組がある場合︑その村組は事前に連絡の

うえ︑区長と協議し︑早くても遅くても浚渫させる︒たとえば︑

春期の予定川堀日にヘ組は出勤できなかったため︑四日早めの

五月二十二日に浚渫の工事執行が認められた︒川堀は生産のた

めの義務であり︑不参人足が記される一方︑区から慰労として

酒料が組長を通して各戸に支給された︒春・夏・秋のその金額

はそれぞれ計八円三十五銭︑六円三十銭︑十円二十二銭であっ

た︒

三点目は︑予測できない事態であった和井川用水路の決壊と

復旧工事についてである︒干ばつと逆に雨が激しく多すぎる場

合もある︒その例として︑農繁期前四月二十八日の豪雨で小畑

川の堤防が崩れたあと︑上植野にとって不可欠な存在である和

井川は二十九日に長さ八間にわたって決壊した︒これに対し区

長と区会議員は︑五月一日に現場視察のうえ︑用水路の復旧工

事を翌日から実施することを決定した︒五月十九日︑再び大雨

で﹁南側石垣約四間︑響然たる一音響と共に崩壊﹂し︑工事施

工は延ばざるを得なくなった︒工事は町の人足で行い︑一人一

日五十五銭の賃金であった︒工事長は中小路末造が担当し︑工

事監督は区会議員が抽籤で決定した順番で当たった︒工事中出 動した人足は石工や土工を含め︑毎日八〜十人ぐらいであった︒そうした中︑五月二十日に人足の一人が中指をけがしたことに対し︑﹁慰安﹂として大字は﹁薬餌料金一円を贈与﹂した︒六月

六日︑一ヶ月以上の全部の工事がついに終わった︒七月五日夜

区会で和井川工事決算報告がなされ︑工事費用は計百四十七円

二十四銭であり︑九十八町一反七畝七歩の水田に対し臨時養水

費を反別割で徴収することが決定された︒七月二十三日に八十

円五銭︑翌日督促のうえ十三円三十九銭が集められ︑滞納の問

題が露呈した︒

五 多様な共同体事業

上植野区の運営は︑農繁期である四月末から九月半ばにかけ

て水利・治水に重点が置かれた︒向日町政の力を借りず︑村落

の自力でさまざまな課題に向き合い︑生産にかかる多くの事務

を遂行していた︒実はこれだけではなく︑道路・消防・神社等

関連の事業も自主的にムラぐるみで完遂した︒

西国街道が通る上植野区では︑一八八七年四月︑まだ合併し

ていない時期に乙訓郡上植野村道路保護規約を制定し︑各戸主

が調印していた︒そのなかで村域内の国道・府道・里道に対し︑

道路掃除︑丁場規則︑道路・橋梁・溝梁修繕︑並木植継き︑枯

(15)

四〇

損木竹・障碍木竹伐採︑枝透などの規定が定められたのである

︵上植野区有文書三〇三七﹁乙訓郡上植野村道路保護規約﹂︑向

日市文化資料館所蔵︶︒一九一五年まで二十五年経っていたが︑

この規約はずっと機能していた︒

四月の新旧組長交代式の前︑﹁道路検聞﹂が行われた︒皇太子

洛西長岡行幸のため︑同月十七日︑西国街道の雑草を取り除い

た︒五月三日夜︑組長会は祭典渡御道路に高さ一丈三尺以下の

樹枝を切り下ろすことを決定した︒同月二十九日︑人足三人を

もって西国街道側小井川から和井川間の溝が浚渫された︒十月

六日︑町人足が出動し︑﹁田道造﹂という﹁区内道路修繕﹂を実

施した︒翌年二月五日︑青年会員が野道修繕を下請した︒そし

て︑道路保護をめぐって﹁道路講﹂という組織ができた︒七月

十五日夜︑道路講世話方が集会し︑当年度﹁満講﹂挙行につい

て協議し︑実施期日を七月十九日︑満期景品を三十銭の洋盃に

することを決定した︒このように︑生産・生活にとって肝要の

交通ルートである道路の保護事業に尽力する上植野区村民の姿

がうかがえる︒

用水・道路等施設の保護だけではなく︑住民の家や命を守る

のも共同体の重要な役割であった︒江戸時代から存在するムラ

の消防組は明治にはいると︑次第に官製化していく︵後藤一蔵

﹃消防団の源流をたどる二一世紀の消防団の在り方﹄近代消防 社︑二〇〇一年︶︒京都府は一八八四年に郡部各町村に消防心得

を布達し︑さらに一八九四年消防組規則等を制定し︑向日町消

防組を含む十四の公設消防組を発足した︵﹃京都府町村会七十年

史﹄︑一九九一年︶︒公設といっても︑向日町消防組下の上植野

区﹁第五部消防隊﹂は一九一五年に人事や財政ではまだ自主的

に運営されていた︒消防組のリーダーである小頭は区内の青年

会員のなかから選出していた︒運営費については︑消防の象徴

である法被は小頭が要請して区が

21枚分支給した︒また当年︑二

回の出火出動後︑いずれも区が白米・酒等の食材を慰労として

提供した︒一九一六年一月三日︑小頭として当日選出されたば

かりの森源之助氏に慰労金

40円を贈与した︒そして注目される

のは︑出動の範囲は単に上植野区にとどまらず︑隣の新神足村

の大字調子︵現長岡京市域︶まで及んだことである︒このよう

に地域的な協力関係は現在でも残っており︑向日市・長岡京市・

大山崎町の三自治体が乙訓消防組合を立ち上げ︑ともに地域の

安全を守り続けている︒ところで︑乙訓郡において一九一五年︑

消防組は全町村に設置され︑郡内四十五大字のところ︑小頭五十

人・消防手二千十四人をかぞえ︑当時京都市近郊の郡では最大

の規模であった︵﹃京都府誌下﹄一九一五年︶︒

次に︑信仰の世界では上植野区全体で向日神社の氏子組織を

作り上げ︑神事・祭典等に積極的に参与した︒向日神社は区外

(16)

四一 になるが︑御旅所は区内にあり︑地域の鎮守社・氏神である︒村

民は毎年大字レベルの代表者である宮総代を選出し︑神社の関

係事業に協賛している︒一九一五年五月十日から同月十三日に

かけて︑上植野区は向日神社の氏神を迎え︑﹁五年ぶりの祭典﹂

を挙行した︒このため宮総代や区長が四月に交代してからすぐ

参画しはじめ︑神事用具の取調・向日神社及御旅所破損品であっ

た張幕の買替︑松ヶ崎村から神事用馬の調達︑渡御道路障碍樹

枝の切下︑通路土橋の修繕︑鳳輦人足の雇入等全般について協

議していた︒還幸祭日に無事成功したことを見た区長はいたく

感激し︑日誌に﹁新調ノ鳳輦ハ折柄ノ日光ニ輝キ︑鳳ハ翼々ト

シテ︑白丁ノ肩ニ壮厳タル神霊ハ静カニ檐キ揚ゲラレ︑永ヘニ

福寿ノ氏子ヲ守ランズ︑青麦ノ中ニ延々タル白丁ノ其ノ色彩ノ

配合ハ恰モ油絵ヲ観ルニ髣髴タリ︑鼕クタル大鼓ノ音ハ野面ヲ

渡ツテ︑平和ヲ傳フニ似タリ鳴呼﹂と記した︒区の村民も祭典

を見ながら区長と同じ気持ちになったのではないかと推測され︑

共同体としてのアイデンティティーはさらに高まったと思われ

る︒氏神への奉りを通じて村民の信仰の拠りどころが維持され

る一方︑上植野区は経済的にも向日神社を支えていた︒上植野

区から向日神社に氏神経常費・祭典費・祭典入費・祈年祭神饌

料が支給されるほか︑村民からは献米・社廂修繕有志金・基本

積立金等が徴収された︒このように上植野区と向日神社は相補 的な一体関係にあった︒

上植野区では︑共同体の事業は生産・生活のあらゆる分野に

関与しており︑村民全員とかかわっており︑コミュニティーの

性格がうかがわれる︒事業遂行の主体に目をやると︑区長︵と

その代理者︶・会計・小使・区会議員・組長・宮総代等の個人だ

けではなく︑消防組・青年会の団体も目立つ︒なかでも一連の

事業にポジティブな役割を果たした上植野青年会が注目される︒

上植野青年会は1909年に発足したことが日誌に触れられて

いる︒道路修繕︑消防警備︑御大典御用竹運搬だけではなく︑老

人会の開催や地元困窮者・九州罹災者への義捐活動︑入退営等

公的または救済的な事業に積極的に参与した︒会員は一九一四

年に百十九名に及び︑多様な活動を行なっていた︒

まず発足の経緯に触れると︑上植野区では尋常小学校卒業の

青年を対象とする夜学を行うため︑青年会が結成された︒青年

会の下部組織であった夜学会は﹁本区内青年者風紀の振を謀り︑

処世に必須なる知能を啓発するを以て目的﹂として作られ︑夜

学場は区事務所にあった︒規約によると︑毎年十四歳〜二十五

歳の青年が集まり︑冬期・春期の二回夜学を開設する方針であっ

︒一九一五年は冬期しか開催しなかった

︵上植野区有文書

四一六六﹁上植野区夜学会規約﹂︑向日市文化資料館所蔵︶︒ま

た名義上も︑一九一四年に青年会総会は夜学会を私立上植野実

3︶

(17)

四二

業補習学校に改称することを決定した︒申込の手続きが終わっ

てから一九一五年三月十日の役員会で開設許可を示し︑四月七

日に下附補習学校補助金を得た︒当年度から第一期の学校が十

月四日に始業式を行い︑同月七日から翌月一日まで開校してい

た︒

しかし︑夜学や毎年の旅行を行うため︑少なからず工夫が必

要であった︒最初は﹁有志醵金と本区協議費﹂を主たる経費と

し︑会員一人ずつ毎週縄二把を出して運営することを考えてい

た︒しかし発足二年目の総会では︑﹁基金を作る為め︑会員をし

て毎月一把づつ縄を徴収すること﹂と区有竹林を借受けて竹材

や筍の栽培事業を展開することを決定し︑収入源の拡大を模索

した︒また︑一九一五年一月二十四日の青年会臨時総会では︑毎

月一人当たり五銭の授業料を徴収する一方︑出縄の滞納を防ぐ

ため未納者姓名の掲示と縄販売取締人の設置を講じるという旅

行積立金の確保方法をいったん検討したが︑結局︑可決するま

でには至らなかった︵上植野区有文書五〇四七﹁上植野青年会

総会議事録﹂︑向日市文化資料館所蔵︶︒さらに十二月十日の役

員会では︑毎月二銭の会費を掛ける動議が通った︵上植野区有

文書五一七一﹁上植野青年会役員会問題提出簿﹂︑向日市文化資

料館所蔵︶︒補習学校に改称したことも補助金を目当てにした経

費改善策の一環ではなかったかと考えられる︒このように経費 の確保のため苦しんだが︑自主的な運営はなんとか維持された︒﹁知能の啓発﹂のための夜学・旅行以外に︑近代的な人格の練

磨を目的とし︑青年会は図書室の開設・講演会の参加・体育会

の進出等の対策にも取り組んでいた︒他方︑伝統的な娯楽であ

る夏の盆踊りに対して青年会幹部の態度は一変し︑一九一三年

の役員会では一方的に当年度の盆踊りを取消した

︒これをめ

ぐって少数の会員との間で対立が起こり︑一時的に役員総辞職

の事態になった︒臨時総会の協議を経︑打開策として適時役員

会の決定事項をチェックする顧問を設置すると同時に︑役員会

および役員を侮辱または無視する言論や行動を禁じすることを

会則に加えた︵﹁上植野青年会総会議事録﹂︑同上︶︒それ以降︑

毎年会員の要請を受け︑協議したうえで盆踊りを従前通り開催

しており︑一九一五年も開いた︒このように︑統制されてきた

近代的な娯楽と伝統の衝突は︑青年会の体質を向上させた︒青

年会の夜学場は青年教育の場だけではなく︑一九一五年に小作

会や母の会等も開催され︑小学校や役場とともにもうひとつの

地域拠点になった︒青年会は事業団体︑修養団体の性格が濃い

が︑青年層と地域社会を結んでおり︑村落に貢献しながら社会

の基層であるムラを変える存在となった︒

(18)

四三 転換期の村落

一九一五年の上植野区事務日誌は︑近代転換期における近畿

型の都市近郊村落社会のありようをよく示している︒昔ながら

の村民同士の緊密なつながり︑そしてムラの自治自立は多くの

面で継承している︒一方で国家権力は近代国家を目指し︑上か

ら最末端であった大字に多様な国政委任事務を任せ︑セットで

あった天皇制イデオロギーが浸透した︒自治村落と国家は両方

のバランス到達点に至るまで近代という時間軸には並行してい

たわけではなく︑抑制・発達︑温存・利用︑衝突・妥協とさま

ざまな形で絡んでいた︒故に︑本稿のように︑官治と自治のこ

とをはっきり分別するのは到底ウェーバーが言った理想型

Idealtypus︶である︒後発国であった日本では︑近代化のため

急激な変革テンポのなか︑とくに日露戦後﹁一等国﹂の旗を掲

げ︑国民国家の建設が圧倒的に上位にあった︒ともに︑一九一五

年産米改良事業の実施と警察を盾とした衛生行政の展開がこの

段階性を端的に表してきた︒市場需要に対応する産米改良は地

主と小作人の利益を衝突させたが︑自治村落の結束の下に緩和

され︑地主の譲歩もあって村落秩序は維持された︒

しかし︑近代化に伴った衝突はすべて平和的に解決されたわ

けではない︒近代の象徴で人類知恵の光であった電灯をめぐっ て一九一五年に︑向日町との間で重要なエピソードがある︒段々

普及していた電灯は上植野区においてこの時点で八十戸使って

いたが︑電力供給先である嵐山電鉄軌道株式会社の電気料金の

高さに対し︑上植野区を含む向日町全町民が不満を抱えていた︒

滋賀県旧堅田町営電灯︵現大津市域︶を四月二十八日に視察し︑

会社側と交渉したうえで電力設備を買取して町営電灯を立ち上

げる方案を検討したが

︑各大字の意見を待たなければならな

かった︒上植野区では村組ごとに意見をまとめる形をとったが︑

イ組以外に外の五組は経営欠損がもたらす負担増を懸念して全

部反対であり︑結局町営電灯の計画は実現しなかった︵向日市

文化資料館編﹃図録 

20世紀のむこうまち﹄二〇〇二年︶︒地域

の意思決定において︑協議単位としての村組は︑上部の大字を

制限した︒近代の村落は近世の村から発展してきたので︑そこ

には近代になって変わった面と連続した面がある︒歴史の転換

期として一九一五年を見たとき︑伝統社会である村落は同様に

変化した面と連続した面がある︒町営電灯をめぐる以上の事項

は近代転換期における村落の連続面を示すものといえる︒

上植野区長日誌を通して近代村落を中心とする日本の基層社

会の変容を読み取り改めて同史料の貴重さを再認識することが

できた︒同時に︑日本近代史と関連させて解明すべき事柄がま

だ多く残されていることも明らかになったことから︑今後同史

(19)

四四

料の読解と分析をいっそう広く深く進めていきたい︒

凡例一 史料の翻刻にあたり︑適宜句読点と並列点を施し︑漢字は

常用漢字を原則とした︒

一 判読できない文字は︑その字数分を■で示した︒

﹇表紙  大正四年四月起  日誌  字上植野区長﹈

一九一五年四月一日    晴天

本日ヲ以テ︑區長並代理者就任シ︑出勤ス︒前區長永井弥三郎

氏ヨリ事務引続シ︑向社献米袋ヲ各伍長ニ交付方依頼ス︒午前

中会計小島政次郎氏ト前區長ト共ニ出席︑大正三年度決算サル︒

夜︑區会議員会ヲ開催シ︑前區長ヨリ決算報告アリテ︑四年度

予算確定サル︒其高︑歳入金壱千百七円八拾参銭壱厘︑歳出壱

千百拾参銭壱厘︒閉会仝十二時十分︒

四月二日   金曜   晴天

午前八時ニ出勤ス︒仝九時ヨリ向陽校始業式ニ参列ス︒午後新

旧伍長ヘ明三日交代の旨通告ス︒ 四月三日   土曜   降雨

午前八時ニ出勤ス︒電燈値下交渉費前區長取替金三円八拾五銭

現區長取替トシ︑宮総代永井弥三郎氏ニ祈年祭神饌料金七十八

銭支拂ス︒仝時ニ献米袋ヲ集メ︑向社ニ持参セシム︒午後会計

小島政次郎氏及新旧伍長等道路検聞ヲ執行シ︑之ヲ以テ交代ト

ス︒向社廂修繕金壱戸平均金拾五銭宛︑来ル十日限リ醵金取纏

ノ件及既ニ一般承認ナリタル向陽校訓導木本益之氏三十年勤続

謝恩有志金来ル五日限取纏ノ件ヲ協定ス︒

猟捕獲金三銭値下ノ件並ニ宮総代永井弥三郎氏ニ当選普告依頼

ス︒此日慰労ノタメ︑白米四斗五合︑酒三升︑筍弐貫三百目︑大

根十本︑肴金一円二十銭︑醤油五合ヲ以テセリ︒

神武天皇祭ニ付︑国旗ヲ揚ゲ︑一般祝意ヲ表ス︒

四月四日   日曜   晴天 四月五日   月曜   晴天

午前八時出勤ス︒木本益之氏謝恩有志組別名簿ヲ調製ス︒

ニ組有志金七円五拾銭領収ス︒仝時ニ領収証交付ス︒

午前尚武会貯金八拾円八拾貳銭也︑使丁ヲシテ︑取出サシム︒該

金元来預入高ハ七拾壱円四拾六銭ナリシモ︑九円参拾六銭ハ利

殖セシモノナリ︑取出理由ハ乙訓銀行預ニスルガタメ也︒

(20)

四五 四月六日   火曜   晴天

午前八時出勤ス︒︵■組︶和田伊三郎氏ヨリ謝恩有志金九円三拾

銭︑イ組小島泰次郎氏ヨリ六円七拾銭領収ス︒ヘ組謝恩金七円

十銭ノ内六円五拾銭丈領収シ︑不足金六十銭ハ急度未納督促依

頼ス︒

尚武会基金七拾壱円四拾六銭並ニ右利子金九円三拾銭ヲ会計小

島政次郎氏ニ預入ス︒

午前電燈値下交渉委員中小路仙太郎氏ヨリ委員会ノ件ニ付︑大

橋孝氏ニ通告依頼サシタリ︑依テ土山捨吉ヲ以テ通告セシム︒

四月七日  

午前八時民秋徳兵衛氏ヨリ長息徳太郎氏亡妻ノ改名記入方依頼

サル︒此時村講落札受領証調印サシタリ︒

ロ組謝恩有志金八円十銭︑森原之助氏ヨリ仝七円七拾五銭︑永

井平次郎氏ガ領収ス︒然ルニ永井浅吉仝未集金ニ付︑請求方使

丁土山捨吉ニ嘱托ス︒

本日午後降雨ノタメ︑小使室ニ於テ︑植田音吉︑堀池勇吉︑上

田乙吉︑植田嘉吉氏等︑黒白ヲ以テ︑雌雄ヲ決ス︒

四月八日   木曜   晴天 午前八時秋田三之助氏ヨリ︑小字山ノ下突井戸噴水筒破損︑修繕依頼スル︒九時両名向日町役場ニ於テ︑宅地價及雑地営業︑車

ノ異動調査シ︑午後三時帰所ス︒

大正博覧会銅牌壱個中小路仙太郎氏︑仝銀牌小野種次郎氏ニ交

付ス︒和田辰之助氏■所セラレ︑謝恩有志金左の如き処置明細

書持参サル依テ寄附計金額貳百五拾円也︒

      内訳 一金弐拾円也   先生写真調整シ︑校内ニ揚ゲ︑表彰スルコト︒

一金参拾円也   式典雑費︒

一金弐百円也   不動貯金トシテ贈呈スルコト︒

右ノ方法書︑事務所前ニ一枚掲示ス︒

四月九日   金曜   晴天

午前八時中小路仙太郎氏ヨリ銅牌受納証向日町ヘ提出方託送サ

ル︒

字山ノ下突井戸破損︑使丁ヲシテ︑修繕セシム︒

協議費根帳ヲ調製シ︑午後五時退出ス︒

四月十日   土曜   晴天

午前八時出勤ス︒消防小頭植田治良吉来所シ︑各取締其外水■

ノ法被弐拾壱枚新調︑手附金ノ請求アリタレバ︑前區長永井氏

(21)

四六

出所ヲ依頼シタリ︑永井氏ハ大正三年度ニ於テ︑仝法被十枚新

調スル筈ナリレモ︑荏苒トシテ︑翌年ニ及ビタリ︑然ルニ本年

亦更ニ拾一枚追加スルコトトナリ︑都合弐拾一枚新調スルコト

トナリ居レリトノコトナレバ︑会計小島氏ニ内金拾円請求シ︑小

頭ニ渡ス︒因ニ仝法被ハ頭巾帯共ニシテ︑一枚金壱円五拾銭也︒

又永井氏ニ氏神祭典ノ有無ニ付︑伺諮シタルニ︑来ル十三日神

主六人部氏ニ諮問シ回答スベシト︒尚旅所拝殿幕巾六尺丈弐間

半︑弐枚調製ノコト︑昨年ノ區会ニ於テ決議ニナリタルモ︑時

ニ世ハ諒闇ノ曇ニ鎮サレ︑渡御見合トナリタメ︑新調セザリシ

モ︑本年ハ渡御必セリ依テ︑新調依頼サル︒

イ組伍長小島泰次郎氏ヨリ向社廂修繕費弐円拾七銭五厘領収ス︒

四月十一日   日曜   降雨 四月十二日   月曜   降雨

午前十一時ニ列車ニテ藤田代理者ト共椅ヲ新調ノタメ上京ス︒

午後電燈交渉委員小島政次郎︑中小路仙太郎両氏ヨリ︑十三日

夜需要者集合ノ旨普告サル︒大正博覧会銀銅牌受納証向日町役

場ヘ提出ス︒

四月十三日   火曜   晴天 午前宮総代永井弥三郎氏ヨリ渡御決定及神符授与ハ毎年五月一日ニナルモ︑本年ハ仝日宮総代ノ集会ナレバ四月三十日午前九時迄ニ授与サルルコトトナレリト通告サル︒夜一老会ヲ開催シ︑渡御人足其他万般打合セス︒交渉委員ヨリ電燈値下交渉経過報告会ヲ開催サレ︑委員小島氏ヨリ報告サル︑出席者六十餘名︑十一時半閉会︒

四月十四日   水曜   晴天

大正三年度協議費決算報告書ヲ各伍長ニ交附シ︑向社廂有志金

取纏メ方依頼ス︒

四月十五日   木曜   晴天

夜八時區会開会ス︒出席議員小島政次郎︑中小路仙太郎︑秋田

三之助︑和田辰之助︑永井治良吉五氏︒區長及代理者モ出席︒區

長小野利一一九一五年度協議費予算金壱百九拾四円六拾銭ニ対

シ︑上植野田及雑地價総額六万六千貳百〇七円六拾七銭︑及宅

地價壱万弐千〇四拾三円六拾銭の賦率︑雑弐十八銭︵地價百円

ニ付︶宅︵仝︶八銭案ヲ附議セルニ︑一人ノ異議ナシ︑原案通

過可決確定ス︒次ニ昨年區会ニ於テ︑可決ナリタル旅所幕新調

ノ件附議セルニ︑是亦可決ス︒社事用提灯張替ノ件モ異議無ク

通過シ︑閉会仝十二時十分︒

(22)

四七 四月十六日   金曜   晴天

来ル十九日午前十時東宮殿下洛西長岡ヘ行啓アラセラルルニ付︑

西国街道附近ノ野壺及雪隠ニハ簀懸ヲ設備シ︑家々国旗ヲ掲揚

シ︑当日一般奉迎ハ不敬ニ亘ラザル様︑各伍長ヲ以テ︑區民ニ

警告セシム︑又沿道ヲ検察シ︑安井重次郎ヲシテ︑路傍ノ生草

ヲ削ランシテ︑汚穢物ヲ撤廃セシムルコトトセリ︒

四月十七日   土曜   晴天

午前八時ニ出勤ス︒向社廂有志金ロ組ヨリ金三円拾五銭︑ホ組

ヨリ三円八十二銭︑ヘ組ヨリ金三円三十七銭五厘領収ス︒午後

東宮殿下長岡行啓ノ義ハ御中止ノ旨其筋ヨリ通告アリタリサレ

ド︑大極殿︑栗生光明寺︑筍堀寺ハ御視聞アル筈︒

安井重次郎西国街道除草着手︒

四月十八日   日曜   晴天 四月十九日   月曜   晴天

午前八時宮総代永井弥三郎氏出所セラレ︑神事用具取り調ベ破

損品修繕スルコトトセリ︑即チ高張六張幕二掛ナリキ︒此時来

ル一日氏子総代集会ノタメ祭典式次帳︑永井氏ノ乞ニ依リ︑仝 氏ニ貸ス︒午後伍長集会シ︑水神祭ス︑肴六十五銭︑筍一貫五百目︑酒二升︑米三升︑醤油五合使用ス︒夕刻和田辰之助氏一九一五年度所得申告用紙持参サル︒中小路仙太郎氏来所アリテ︑電燈交渉委員会ノ帰路三月分燈料ハ二十五日間ノ日割ヲ以テ︑十燭ニ付六十一銭五厘︑五燭ニ付五十銭ノ勘定ニテ仕拂ス可キ様需要者ニ普告方依頼サル︒依テ各伍長ニ右依頼ス︒小字南小路ノ自家宅地圖閲覧ノ義永井治良吉ヨリ申込マル︒依テ希望ヲ充ス︒

四月廿日   火曜   晴天

午前八時ニ出勤ス︒朝西国街道除草手間及人分金壱円安井重次

郎ニ支払ス︒午後兼而役場ヨリ委託サレタル小野禎一郎氏ノ雇

用人越智タシノ原籍ヲ調査シタルニ︑古ハ伊豫国桑郡壬生川村

弐百四十五番地︵六十一歳︶ト判明ス︒又悉皆森治郎ヘ旅所幕

新調ノ件ニ付︑現住所ヲ調査シタルニ︑東洞院松原上ル所ト分

明セリ︒

四月廿一日  水曜  降雨

午前八時ニ出勤ス︒午後端書ヲ以テ森治三郎ニ旅所ノ幕注文ス︒

(23)

四八

六時退出︒

四月廿二日   水曜   晴天

午前八時ニ出勤シ︑田壱及ニ対スル国︑府︑町ノ公課調査ノ件

依頼ス︒午午後京都市大宮八条ノ提灯屋ヘ神事用高張六張張替

ノタメ持参サス︒

四月二十三日   金曜   晴天

午前八時出勤ス︒昨神事用高張六張地紙ニテ張替値段︑大宮通

八条下ル守川商店ニ於而交渉シタルニ︑代金一円九拾八銭ヲ以

テ調製ニ応ズルコトトナレリ︒而テ期日ハ五月五日限リトス︒午

後京都市東洞院松原上森治三郎出頭シ︑天笠金巾ニテ旅所拝殿

横掛幕長サ三間︑巾六尺︑壱張ニ付金五円三拾五銭ヲ以テ︑弐

枚五月五日迄ニ新調スルコトノセリ︒該幕ハ丈弐間半︑巾六尺

ノ豫定ナリシモ︑拝殿測量ノ結果三間ナラデハ頗ル不體裁ナル

ヲ以テ三間トセリ而テ古幕ヲモ測リタルニ︑長サ三間ニシテ︑其

中一枚ハ破損甚ダシクシテ短縮セルモノノ如ク︑弐間半よりナ

カリキ︒要スルニ弐間半二枚ト云フ豫定ハ昨年新調マントスル

トキ此ノ短縮セル幕ヲ測リタルノ故ナルベシ参考ノタメ︑之レ

ヲ記スノハ座巡回旅所借物覚書ハ當年ノ馬番ニ渡ス︒ 四月廿四日   土曜   晴天

午前八時出勤ス︒向日町役場助役和田辰之助氏府税地租割上半

期分徴収ノタメ當區ニ出張サル︒午後協議費上半期分徴収状令

書ヲ各伍長ニ配布シ︑一九一五年度所得税申告用紙来ル廿七日

事務所ニ於テ分布スルノ旨告知ス︒

四月廿五日   晴天   日曜 四月廿六日   月曜   晴天

午前八時一九一五年度所得税申告ノ件︑電燈町営ノ件︑大典記

念事業トシテノ納税組合設置ノ件︑奨励五石会ノ件︑苗代台帳

ノ件︑謝恩式挙行ノ件等ニ付︑區長会ニ出席ス︒

所得税申告ノ件ハ田壱及歩ニ付金十六円︑自作十九円︑畑金四

円︑孟宗畑小作七円︑自作金十円ノ割ヲ以テ︑来ル廿八日限申

告スルコト︒電燈調査委員来ル廿八日堅田ヘ出張︑町営電燈ニ

ツキ調査スルコト︒

奨励田ハ五石会ナルモノヲ組織シ︑会員希望者ハ此際區長迄申

告スル取計スルコト︑納税組合設置ノ件ハ一九一五年十一月迄

ニ之レガ実施ヲ期スルコト等協定︒午後四時閉会︒此日謝恩有

志金四十五円︑折合千百年祭緑門建設有志金四円八十銭︑橿原

神宮有志金壱円合計金五円八十銭岡崎町長ニ渡ス︒

参照

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