〈特集「海外での日本語教育事情」〉
タイにおける日本語教育
ブッサバー・バンチョンマニー
1.はじめに
タイの日本語教育は第2次世界大戦終結直後の1947年に始まり、短い中断の時期も経 験したものの、その後は官民の努力で著しい発展を遂げてきた。現在は世界では7位、東 南アジアではインドネシアに次いで2番目に学習者が多い国である。また、日本語能力試 験受験者数も世界で4位と数多く、タイ人の日本語学習に対する熱意を物語っている。
本稿では、タイにおける日本語教育の発展の経過、現状、課題を中心に述べる。
2.タイにおける日本語教育の略史
以下のようにタイの日本語教育の歴史を三期に大別する。
草創期:1947−1969年。日本語がタイではじめて教えられ、タイ国元日本留学生協会 付属日本語学校、タマサート大学、チュラーロンコーン大学の順で日本語講座が設置され
た。
発展期:1970−1989年。大学で設置された日本語講座が主専攻課程に昇格し、またカ セサート大学、チェンマイ大学など国立大学で新たに日本語講座が設置され、主専攻に昇 格した。高等学校、中学校で日本語が正規科目として採用された。全国日本語弁論大会、
日本語能力試験が開始され、日本語教育研究会が発足した。日本語教育が飛躍的に発展し た時期である。
充実期:1990年一現在に至る。大学の主専攻設置校の増加、国際交流基金バンコク日本 語センター開設、教育省中等教育日本語教員養成プロジェクト開始、修士課程の設置、大 学入試科目に採用、タイ国日本語・文化教師会発足、中等学校用日本語教科書作成など、
日本語教育が質量ともに充実した。
日本語学習者の多い他の国では日本語教育は初・中等教育から始まり、高等教育に普及 する様相を見せているが、タイの場合は略史でわかるように高等教育から始まり、中等、
初等へと広がっており、他の国と異なる特徴が見られる。
3.現状
21世紀に入って、タイの日本語教育はますます盛んになり、学習者、教師、日本語教育 機関は増加する一方である。本章では国際交流基金の2003年度及び2006年度の機関調査
の結果を比較し、その変遷を概観する。
3.1 日本語学習の多様化
学習動機については、タイで日本語教育が始まった当初は「就職に有利」などという、
実利志向の色が濃かった。近年では、高等教育機関の日本語学習者には依然として実利志 向が色濃く残っているものの、「日本文化の知識」という動機も比率が高くなった。また、
初・中等教育機関および学校教育以外の機関の学習者には、就職・留学などの実利志向よ りも「日本文化を知りたい」「日本語によるコミュニケーションができるようになりたい」
という回答が多く、多様化してきた。
学習動機のみならず、機関数、教師数、学習者数にも変化が見られる。
表1
学校教育
初・中等教育 高等教育 学校教育以外
機関数
i機関)
教師数
i人)
学習者数
@(人)
機関数
i機関)
教師数
i人)
学習者数
@(人)
機関数
i機関)
教師数
i人)
学習者数
@(人)
2003年 165 236 17,516 82 309 22,273 27 319 15,095 2006年 243 398 31,679 99 359 21,634 43 396 17,770
国際交流基金(2003)『海外日本語教育の現状一日本語教育機関調査・2003年』p.16−17および 国際交流基金(2006)『海外日本語教育の現状一日本語教育機関調査・2006年』p.16−17より
表1に見られるとおり、高等教育の学習者数を除いてすべての項目で数字が伸びている。
しかも、学習者の中心層にも変化が見られる。2003年には高等教育機関の学習者が最も大 きな割合を占めており、初・中等教育の学習者は学校教育以外の学習者数とほぼ同数にな っているのに対して、2006年には初・中等教育機関の学習者がもっとも高い割合を示して おり、学校教育以外の学習者を大きく引き離す結果になっている。日本語学習者の中心層 は、高等教育レベルから初・中等教育レベルに移行し、低年齢化する傾向が見られる。
以上述べたように、学習者、教師、および教育機関の量的変化には明るい状況が見られ る。その背景にはどんな要因が働いているだろうか。
第一に、経済的な要因が挙げられる。多くの日系企業がタイに進出し、日本語のできる 人材の需要が高まったことである。日本語ができると就職しやすく、高給が得られるため、
日本語学習熱を煽る結果になる。
第二に考えられる要因は1998年に日本語が大学入試の選択科目に採用されたことであ る。今では外国語科目の中で日本語を選択する受験者数は、フランス語、中国語に次いで
3番目に多いという報告がある。
そのほかの理由として考えられるのは現地向けの教科書の完成である。国内の学習者の
ニーズに合わせ、タイの高等学校の生徒を対象に作成された教科書『あき子と友だち』が 2004年に完成し、教師用指導書、語彙集、補助教材の作成など、中等教育の教師にとって 教えやすい環境が整備されたと思われる。
3.2 中等教育機関での日本語学習が高等教育機関の日本語学習に与える影響
初・中等教育機関で日本語講座が開講され、日本語が大学入試科目に採用されてから、
大学での日本語の授業は未習者と既習者が混在するクラスになった。特に主専攻のある大 学では専攻生の人数がそれほど多くないため大部分が1クラス編成である。同じクラスに 既習者と未習者が混在しているとどのレベルの学生を中心に授業を進めるかが問題になり、
機関によって様々な対策を講じている。既習者のみを選抜し、入学させるところもあれば、
既習者・未習者の区別なしで、授業はまったくの初級から勉強させる機潤もある。また、
既習者・未習者別のクラスを設け、各クラスから一定の割合で主専攻課程に選抜する機関 もある。しかしこれらの方法には欠点もある。既習者のみを入学させる場合、日本語の素 質があり、学習意欲はあるが、たまたま自分の高校に日本語講座がない学生は日本語の勉 学の機会を断たれてしまう。また、既習者・未習者とも入学させて授業は初級から始まる 形態も、既習者にとっては高校で学習した時間が無駄になり、大学で無意味に時間を過ご す結果になる一方、未習者は既習者と一緒に勉強することを強いられ、自分の力では到底 既習者に追いつかないと不安になり、日本語の勉強をあきらめてしまう。一方、既習者・
未習者別のクラス編成は教師数の余裕がないと不可能であるし、どの段階に至れば未習者 と既習者が同じクラスで学習できるかも問題である。各機関では、こういった問題の対策 を模索している状況である。
また中等機関と高等機関の授業に一貫性がなく、高校で習ったものと異なる説明により 学生が混乱したり、高校の日本語教育が無意味ととらえられるという批判もあるが、こう いった批判は的を射ているとは思われない。高校での第二外国語教育の方針は全国の高校 生を念頭に置いて作成されており、大学に進学せず就職する高校生のニーズにも応えられ るよう、コミュニケーション中心の授業を進める方針を採用している。大学入学後は、機 関・学部ごとの教育方針によって相違点が出るのは当然であり、文法説明に関して多少の 齪酷はありえることである。私見では、未習者のみの時代と比較し、高校で初級を習い、
大学1年目の初級レベルで高校の学習内容を復習しつっ語彙・文法・発音・会話力の向上 を目指し、その後中級・上級と進んでいけば、日本語能力は従来の大学生より上級のレベ ルに達することができる。日本語能力試験で言えば、未習者のみの時代には、大学卒業ま でに2級程度の能力しかつかなかったのに対して、近年は、高校から継続的に日本語を学 んだ大学生は3年次で2級に合格したり、能力の高い学生では1級合格者も存在する。こ のことから、高校での日本語学習は決して無駄ではないと考えられる。しかし、よりレベ ルの高い教育を目指すためには大学と高等学校のカリキュラムの見直しなどの協働体制が
望まれる。
3.3教師間のネットワーク作り
日本語教育の現状に関して、言及すべきもう一つの点は教師間のネットワーク作りにつ いてである。教師の能力向上のための研究会や教師会は古くから存在した。タイ国日本語 教育研究会は今年創立20周年を迎えるほど歴史が長く、セミナーの発表者・参加者は国 内の人のみならず、海外に及ぶ。その他タイ人教師を対象とするタイ国日本語・文化教師 会もその活躍が注目されている。
以上述べた通り、学習者数・教師数・機関数ともに増加したこと、中等教育機関にも日 本語講座が開設され、従来の第二外国語であるフランス語、ドイツ語に代わる位置づけと なったこと、大学でも日本語主専攻課程が設置されてから久しく、卒業生を数多く送り出 し、タイ社会で活躍していることから、タイにおける日本語教育の地位は確立したと言え
る。
4.今後の課題
タイにおける日本語教育が急速に発展した過程で生じたいくつかの問題点について以下
に述べる。
4.1学習者数
上述のように学習者は増加の一途を見せ、大学生から、高校生、中学生に及んでいる。
学習者の中心層も、高等機関の学習者から初・中等の学習者に移り、低年齢化した。また、
社会人向けの民間学校で学んでいる学習者もいる。このように学習者層の変化に伴い、学 習の目的・ニーズが多様化し、それを考慮したカリキュラムの見直し、改定、学習目的・
ニーズに合った教材開発、参考書作成が必要とされている。
これまで学習者数は増加する一方であったが、近年の傾向として、中国語や韓国語教育 が大変な勢いで学習者の数を増している。中国語はその経済力により学習者をひきつけ、
しかも、世界各地の孔子学院設立で学習者数を伸ばそうとしている。韓国語はK−POP、映 画、ドラマなど文化的な面から学習者の数を増やしている。こういった状況に加え、日本 語は大学の入試科目に採用されてから、高等学校を中心として学習者を増やしてきたが、
2010年から第二外国語を入試科目からはずす動きがあった。全国の国立大学・高等学校の フランス語語学教員をはじめ、日本語、ドイツ語、中国語の教員の反対で辛うじて入試科 目として留まることになったが、入試全体の成績に対する比率が現在の15−35%から10%
に減少されることが確定し、将来的にははずされる可能性がないとは言えない。
以上述べた2つの要因から、日本語学習者は、これまでのような伸び率が期待できない と予想される。
4. 2 教師の問題
教師の質量不足の問題は深刻である。量的問題については、特に初・中等機関のタイ人
教師の確保が困難である。タイの大学で日本語主専攻課程が設立されて久しく、卒業生を 数多く送り出しており、日本語教師の予備軍は数多いにもかかわらず教師不足が起きてい る。その最も大きな理由は勤務環境の悪さである。教師と日系企業の給与の差は大きく、
企業の初任給が10−15年の経験のある教師とほぼ同額である。しかも、教師は日本語教 授以外にも様々な雑務もこなさなければならない。高等学校や中学校の場合は1週間に15
−20時間と担当時間数が多く、その上、日本語の授業だけでは1人あたりの最低担当時間 数に満たないので、日本語以外に、英語や数学などもう1つの教科を担当しなければなら
ない。また、国際交流基金の調査によると、1人の教師が教える学習者は高等教育機関で 約45人、学校教育以外の機関では約31人であるのに対して、初・中等教育機関では135 人というように、初・中等教育の教師が担当する学生数は多すぎる。このような環境では 教師が自己の能力を研鎖することが困難である。
重労働に加え薄給ではますます教師のなり手がいない。しかし、日本語教師のみに特別 な給与制度や勤務制度を設けることも困難であり、国家レベルの対策が待たれる。
教師不足の問題と関連して質の問題もある。日本語主専攻の卒業生が高校の教師になろ うとしないため、高校では他の教科を担当している教師に1年程度の短期間の日本語研修 を受けさせて、日本語の授業を担当させる。大半の人は30代であり、新しい語学の学習 にふさわしい年代とは言えない。この年齢層の教師に対する短期間の語学研修はあまり成 果が期待できない。こういった教師は自分自身の授業に満足できず、不安を抱いており、
辞職する教師もいる。残った教師も日々の仕事に追われ、自己の能力向上の必要性を感じ ながらも思うように勉強できないのが現状である。この点に関しては、国際交流基金など が、教師のための日本語能力向上のための研修などを積極的に企画しており、問題解決に 貢献してはいるが、まだ不十分なところがある。
5.おわりに
以上、タイにおける日本語教育の歴史、現状、課題について述べた。
これまで見てきた通り、タイにおける日本語教育が盛んになる一方、近年になって教師 不足、中等教育機関と高等教育機関の連携の改善など、いくつかの課題はあるものの、全 体として見通しは明るい。今後の発展のためには、タイ人教師も日本人教師も、また初・
中・高等教育機関のいずれの教師であるかを問わず、関係者が一丸となって努力する必要
がある。
《参考文献》
国際交流基金(2005)『海外の日本語教育の現状一日本語教育機関調査・2003年』凡人社 国際交流基金(2008)『海外の日本語教育の現状一日本語教育機関調査・2006年』凡人社
齋藤正雄(2008)「タイ国目本語教育小史」『バンコク日本文化センター日本語教育紀要』5号
タサニー・メータピスィット(2008)「タイにおける言語政策の動向と日本語の位置付け」『東南アジアに おける日本語教育の展望』日本語教育国際シンポジウム予稿集
中井雅也(2008)「タイ国日本語教育研究会20年の歩み」『タワン44号』バンコク日本文化センター ブッサバー・バンチョンマニー(2000)「タイにおける日本語教育の現状・日本への期待」『留学が拓く 21世紀の国際文化交流』東京外国語大学留学生日本語教育センター設立30周年記念国際シンポジウ ム論集
松井嘉和(1995)『タイ王国における日本語教育一その基盤と展開一』