香川県三豊市仁尾町の伝統的街並みの形成と建物の 地域特性
著者 露木 優
出版者 法政大学大学院デザイン工学研究科
雑誌名 法政大学大学院紀要. デザイン工学研究科編
巻 9
ページ 1‑7
発行年 2020‑03‑02
URL http://doi.org/10.15002/00023471
法政大学大学院デザイン工学研究科紀要 Vol.9(2020年3月) 法政大学
香川県三豊市仁尾町の伝統的街並みの形成と 建物の地域特性
FORMATION OF TRADITIONAL STREETS AND REGIONAL CHARACTERISTICS OF VERNACULAR ARCHITECTURE IN NIO TOWN, MITOYO CITY, KAGAWA PREFECTURE
露木優 Yu Tsuyuki
主査 高村雅彦 副査 岩佐明彦・北山恒
法政大学大学院デザイン工学研究科建築学専攻修士課程
The purpose of this study is to clarify the transition of the townscape and vernacular architecture in Nio town, Mitoyo city, Kagawa prefecture. Nio Town prospered during Edo era through the brewing industry and the trade of Nio tea. Although the industry declined during Meiji era, the town prospered again in Taisho era with the industrial shift to salt farming by Chuzaemon Shiota.
With the background of such industrial changes, this study will clarify how the town has changed by studying old maps and literature. In addition, by the measuring survey on existing architecture and by the analysis of layout, appearance dimensions how the architecture of Nio Town has evolved through the ages would be clarified.
Key Words :Nio, vernacular architecture, Edo era
はじめに
仁尾の町はその繁栄の起源を平安時代とし、寛治 4 年
(1090)に京都賀茂神社の御厨9カ所のうちの一つに指定 され、津田島(現在の大蔦島)に賀茂神社の分社が鎮座す る。以来、京都との交流は深く、平安時代の仁尾町は京都 との交易により栄えたといえる。江戸時代には醸造業や 仁尾茶など様々な産業で繁栄した。明治期には一時衰退 するものの、大正時代には塩田忠左衛門によって塩田と 塩の製造・輸出により街は再度賑わいを見せる。
本研究の目的は、これだけの歴史的背景と産業の変化 を背景に持ち、古い町の骨格を残している仁尾町がどの ように形成されているのか、あるいは変遷してきたかを 古地図や文献、ヒアリングなどのフィールドワークによ り明らかにする。また、仁尾町の建築が時代の変遷を辿り いかに形を変えて発展してきたのか、仁尾町の建築には どのような地域特性があるのかを、現存している建物の 実測調査を行い、間取りや外観形状、寸法体系の観点から 分析することで明らかにする。
1. 仁尾町の地形と地区割り
(1)仁尾町の地理的特徴
仁尾町は香川県三豊市に属し、丸亀・多度津より西、荘 内半島の南に位置する町である。仁尾の町は一方を海、そ して三方を妙見山・七宝山・稲積山に囲まれた地形となっ
ている。三方を山に囲われているため陸上交通は不便で あり、活路を海に開こうと湊が発展した。
江戸時代に入り、湊が栄えると交易が盛んになり、仁尾 茶や砂糖の積出し、塩の生産、酒や醤油などの醸造業の発 展も伴い仁尾は西讃の大都会として栄えていった。この ように湊が栄え海上交易の発達に伴い、仁尾の町の中心 部も海の近くに形成され、仁尾町は海のある湊側から開 けてゆく。
図1 仁尾地形図(国土地理院地形図を元に筆者作成)
(2)地区割と地区別の特色
図2 仁尾の地区割り(国土地理院基盤地図を元に筆 者作成)
仁尾町の中心部は複数の地区に分かれており、それぞ れの地区ごとに多様な特色を持っている。仁尾の町は海 側から発展をしたため、江戸時代には港に近い海沿いは 宿や商店によって栄えていた。
古江地区は古くより塩田のあった地区であり、古江の 塩田は天保 4 年(1833)に築造され、仁尾塩田あるいは仁 尾古浜と呼ばれていた。
宿入地区は江戸時代に港を持つ、海側の玄関としての 役割を備えていた地区である。その名前の通り、海運にお ける宿場町としての特色を持っていた。現在は陸地であ る、江戸時代の海岸線沿いにはこんぴら灯篭が今も残っ ており、江戸時代の港の場所を示している。また、治水と 航海の神を祭神とする賀茂神社も平安時代より宿入の地 に鎮座している。図3の「金毘羅参詣名所図絵」に見られ るように、江戸時代の宿入の港から沖合まで数々の商船 が往来している様子が描かれており、港の賑わいがみら れる。賀茂神社が古くから鎮座していたため、商港の中心 地として江戸時代に宿入に港が作られたのである。
図3 仁保ノ湊(『仁尾町誌』「金毘羅参詣名所図絵」
より)
中津賀地区・矢田地区近辺では質の良い水が得られる。
中津賀の東にあたる地区、矢田にある金光寺の前には萬 斛泉という井戸水があり、この水は非常に質が良いこと で有名であった。江戸時代、醸造株を所有し酒や醤油など を製造していた仁尾では、この萬斛泉の水を用いて作ら れた製品には特別な印をつけて販売することができた。
矢田の萬斛泉だけでなく、道場前の石積みの井戸や中 津賀においても非常に質の良い水が出る。醸造業が主産 業であった仁尾において質の良い水が得られるというこ とは重要であり、中津賀・矢田・道場前の立地は商い上良 かった。このような土地条件もあり、中津賀では、江戸時 代に店を構えていた松賀屋(醤油製造)や蛭子屋(魚問屋)
により当時は賑わいを得ていた。
境目には普門院の前には江戸時代の辻の札場が現存し ており、江戸時代においてはここが仁尾の町の中心であ った。そのため、境目には両替屋である辻銭屋(塩田半左 衛門)や油・茶を扱う東松屋(塩田信蔵)などの豪商が軒 を連ねていた。
境目と同様に新道・中の丁は商店が立ち並んでいた地 域である。吉津峠(仁尾峠)を越えて樋の口から来た人々 は町の中心部に出る際に必ず中の丁や新道を通る。その ため新道・中の丁は人馬の往来が多く賑やかであり、商人 にとっては格好の場所であった。
2.仁尾町の歴史と産業の変遷
(1)江戸期から明治期における仁尾の産業 a)江戸期における仁尾の産業と隆盛
仁尾の産業は江戸時代に急速な発達を迎える。特に寛 政から幕末までの 80 年ほどは豪商も多くひたすら盛況 であった。醤油・酒などの水物の製造は丸亀藩により許可 された酒造株・醤油株などの株仲間にのみ、その製造が限 られており、それらの製造業者は仁尾に多く存在した。所 有していた株は酒:5株 醤油:5株 油:2株 酢:1株の 計13株で、この株は所有者によって自由に売買すること ができた。
「仁尾茶」の販売も江戸時代の仁尾をさらに繁栄させ ることとなった産業の一つである。仁尾茶とは土佐で作 られていた「碁石茶」で、土佐の山間部は瀬戸内の特産で ある塩を仁尾商人から仕入れ、それと引き換えに仁尾の 商人は土佐茶を仕入れ「仁尾茶」として販売していた。
これらが仁尾の主要な産業となっていたが、これだけ でなく仁尾町内には先述した醤油、油などの醸造品の他 にも北海道の干鰯や小豆島の素麺、さらには人形等、遠方 の産物まであらゆるものが取引されていた。
b)明治期における産業の衰退
明治時代に入ると、様々な要因により仁尾の産業は度 重なる火事や地震、水害などの災害の被害を被る。また、
明治維新以降においては時代の変化に伴った交通・輸送 の手段の変化に仁尾の町は対応できなかった。湊を中心
に栄えていた仁尾の町において、陸上交通が主要交通と 移り変わることは不安要素でしかなかった。その上仁尾 町の北東部の多度津を始点に大正 2 年に開通した予讃線 は仁尾の町を通らず、完全に時代の流れに取り残されて しまった。
さらに土佐茶の取引で使用していた土佐藩札の下落も 仁尾の商人にとっては大きな打撃となった。これらの原 因が重なり、仁尾の産業は明治期に衰退する。
(2)松賀屋と塩田業
図4 仁尾古浜(旧塩田)と仁尾浜(新塩田)
明治時代に産業の衰退を辿った仁尾町だが大正時代に 入り、塩田業が新たな産業として台頭した。仁尾の塩田の 始まりは天保 4年(1833)に、塩田広太郎・山地治郎兵 衛・河田安右衛門・荻田弥兵衛により、賀茂神社の北に築 造されたことによる。この古江地区の塩田は仁尾塩田あ るいは仁尾古浜とも呼ばれ、面積は約6.5haでこの塩田は かなり成績を上げていたものの、明治時代において度重 なる堤防の決壊などにより荒廃した。大正 8 年(1919) に仁尾塩田株式会社が設立され、松賀屋の塩田忠左衛門 が計画し、塩田正太郎や浪越鷹太郎らが主導となって仁 尾町の西側の海岸沿いに仁尾浜塩田(新塩田)を作るため、
大規模な埋め立てが開始された。
この塩田は大正12年に完成し、塩の製造が開始された。
塩田業は大正期以降の仁尾町を支える産業となった。こ の松賀屋の塩田業によって、明治時代に衰退した仁尾町 は再び活気を取り戻した。
3.仁尾町の神社と小祠
(1)賀茂神社と八幡神社
仁尾町には町の形成を論じる上で欠かせない神社が二 つあり、それが賀茂神社と八幡神社である。
図5 賀茂神社と履脱八幡神社の位置
賀茂神社は大蔦島に鎮座していたものを遷座したもの で、観応二年(1351)に細川顕氏によって現在の位置へと 移された。賀茂神社には京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)
の賀茂別雷大神が祭神として鎮座しており、賀茂別雷大 神は治水の神である。つまり海を納める神として現在の 位置に置かれ、江戸時代に宿入に港置かれたのは賀茂神 社が鎮座していたからである。
八幡神社は正式名称を履脱八幡神社といい、仁尾町に おける農村部と都市部の境界に位置している神社であ る。
(2)仁尾町の小祠
仁尾町では数多くの小祠や灯篭に祭神が祀られている。
ほとんどの地区に一つあるいは複数の小祠があり、祀ら れている神は様々である。
図6 仁尾町中心部に置かれている小祠
これらは地区の有力者や地区の住民たちにより改修さ
れ、現在まで祠としての形を保ち祀られてきた。小祠に鎮 座している神社と祭神の位置と性格を読み解くことで仁 尾の町や地区の性質を読み解いていく。
樋の口と宮の端と宿入の灯篭として祀られている金比 羅神社には大物主命が祀られている。江戸時代当時は港 の灯台として仁尾の町の中心への入口を表している。そ して宿入の江戸時代の港付近のものは国づくりの神及び 交通・航海の神として置かれたことはその配置からも明 らかである。
新道には地区南側に羽神社という小祠もあり、こちら には大山咋命が祀られている。大山咋命は産業振興の神 あるいは酒造や醸造の祭神であり、江戸期に醸造業で栄 えた仁尾の町においては多くの信仰を集めていたことは 容易に推測できる。
は航海の安全と商売繁盛のご利益を持つ神である。海 に開けた仁尾町の中で、商店街としての特性を持ってい た中の丁地区においては重要な祭神であった。こちらも 江戸時代の地図にすでに描かれていることから勧請され たのは江戸時代以前である。
中津賀と南には天満神社の小祠があり、京都の北野天 満宮でも有名な菅原道真公が祭神として祀られている。
図7 中津賀の小祠(左)と宿入のこんぴら灯篭(右)
中津賀には加喜屋という江戸時代に寺子屋をしていた 場所があり、それに由来し小祠に菅原道真が祀られてい るものと考えられる。一方で南の天満神社は、菅原道真が 休息したという言い伝えが元に建てられたものである。
このように仁尾町においては、点在している小祠が地 区の特性や役割を反映していることが窺える。この小祠 が現在においても地域の人々の手により、形を残し続け ている。
4.仁尾町の建築の歴史と建築的特徴
(1)建物の形状と間取りから見る仁尾町の民家の祖型 昭和 59 年発行の仁尾町誌では仁尾における古い住居が 二軒取り上げられている。一つは中津賀にかつて建って いた嶋田屋という呉服屋で、明治 14 年(1881 年)頃に全盛
期を迎えた町屋である。もう一軒は仁尾町の北部の詫間 越に位置する農家の三宅家である。
a)三宅家
図8 三宅家の外観(四方蓋造)
三宅家は仁尾町誌から建物年代は宝暦四年の江戸中期 に遡り、仁尾町の建物で現在判明している中では、現存す る最も古い民家であるとわかる。屋根は藁葺きの上屋に、
上屋と下屋の間に小壁を設けず瓦葺きの下屋を葺いた形 状で、かつ建物の四方に瓦屋根の下屋を回している。この 形式を四方蓋造と呼び、とりわけ香川県の民家に多く見 られる屋根形状である。夏の日差しの強い香川県では直 射日光を遮り、冬は暖かな陽だまりを軒下から家の中へ また、農作業を行う軒先空間へ導くものとして重要であ ったため、四方蓋造が発展したと考えられる。仁尾町内に はこの四方蓋造の屋根形状が原型となった建築が多く見 られ、三宅家は江戸以降の時代に仁尾に建てられる住居 の原型といえる。
三宅家の間取りはシンプルで典型的な民家の四つ間 取りである。土間(にわ)は、農家にとって重要な作業場で あり、梁が現しとなっており、農作業が行いやすい大きな 空間である。また、土間は炊事空間でもあり、土間の上部 には煙だしの小屋根が見られる。藁葺き屋根に瓦の下屋 根が廻り、煙出しの小屋根が付いた農家の姿は四国の讃 岐平野でよく見られる原風景であった。「ざしき」は一般 的な座敷であり、畳敷きで床の間が設けられており、長押 が廻る一番格の高い部屋である。また来客のための部屋 であり、一番日当たりの良い南東に面する。「ざしき」北 東には、次の間である「中の間」がある。中の間には仏壇 が置かれている。「おく」は家人が普段腰を下ろしている 室である。一般に来客の際には家人用のプライベートな 動線と来客動線は明確に分けられている、合理的なプラ ンである。
図9 三宅家平面図
なお基準寸法は、「本間」と呼ばれる寸法体系が採用さ れている。これは柱芯を基準とした、芯々制のモジュール であり、柱芯6尺5寸(1969.5mm)を一間としている。
この寸法体系は瀬戸内に多く、仁尾の特徴でもある。京間 は内法制で畳の寸法が6尺3寸×3尺1寸5分(1908.9mm
×954.5mm)と決まっているため、実際の柱芯の数値とし
ては近い値になることもあるが、そもそもの寸法体系の 形式が芯々制か内法制かで異なっており、仁尾町におい ては古くから本間が採用されてきた。
三宅家は、江戸時代に建てられその形状・形式を残して いる希有な事例である。シンプルな間取りや外観から当 時の生活を想像することができる。仁尾町中心部の町家 の場合には、生業や敷地条件などに合わせて変化してゆ く。
b)嶋田屋
嶋田屋は現存しておらず、建物年代も明確ではないが、
昭和 59 年発行の仁尾町誌に約 100 年前が最盛期と書かれ ていることから、幕末〜明治初期のものであると推測す る。嶋田屋をこの時期の町家の事例として分析を行った。
図10 嶋田屋間取り図(『仁尾町誌)より)
まず玄関となる部分は「ちょうば」と書かれており、
町家においては店としての役割を持つ室である。嶋田屋 は呉服屋だが、これと同様の空間はどの町家にも備わっ ている。「ごふくものおきば」は、ここに位置する室は
町家ごとの生業によって室名も用途や大きさも多少異な るが「ちょうば」の隣は商売のための部屋と言える。三 宅家と明らかな違いを見出せるのは「けしょうべや」の 存在と「おく」の配置である。「おく」の位置は「ざし き」の外庭を設けるためにずらしたものと考えられる。
嶋田屋の間取りは三宅家の農家としての間取りを町家 として、生業に必要な室を確保しつつ変化させた間取り である。この嶋田屋の間取りは仁尾町における町屋のプ ランの典型的な形である。
(2)仁尾町の町家建築の特徴 a)多喜屋
図11 多喜屋外観写真(株式会社菅組提供写真) 多喜屋は中の丁に店を構えていた荒物屋で、通りに面 した東棟と西棟が平行に建てられていた。平入の本瓦葺 きの建物で、下屋が錣葺きであることを除くと、一階との 間に小壁を設ける厨子二階を持った形をしており、これ は江戸時代〜明治時代において日本中で見られる一般的 な形である。東棟から発見された棟札により、東棟の竣工 年は万延元年(1860)であることが判明した。
b)小倉屋
図12 小倉屋の外観(本瓦錣葺き)
仁尾町新道地区に現存する米屋で小倉屋は納屋二つに 土蔵を持つ町家である。家相図によって描かれているこ とから竣工年は明治37年(1904)であると判明した。小 倉屋は平入であり、間口は六間で外観の大きな特徴とし て本瓦錣葺きの屋根形式が挙げられる。錣葺きは四方蓋 造と同じく上屋根と下屋根との間に小壁を設けずに葺く
二段状の屋根である。これは三宅家で述べた、四方蓋造の 発展系といえ、上の屋根の藁葺きは瓦葺きとなっている。
その背景では近世の梁間規制の影響を受けていると推測 される。このように錣葺きの屋根を持つ住居が仁尾には 数件現存している。錣葺きは社寺建築において、梁間規制
(梁間3間+錣庇3間で側柱総間六間規制)の影響によ り生まれた形とされ、民家や町家に使われることは少な い。しかし瀬戸内海の町の一部や大阪エリアに錣葺き町 家が残っていることは大場修氏が「平入指向の町家形成
-近世町家の在来形式と新興形式 前編-」の中で論じ ている。その中で格式的な意味を持っていると考えられ ており、仁尾の錣葺きも商家としての格式からくる形で あると推測できる。しかし仁尾町では元来、祖型となる建 築が四方蓋造りであることも影響している。
図13 小倉屋の平面図
嶋田屋の図面の「ちょうば」「土間」についてはほほ 同じ構成をとっている生業が米屋であるため、呉服屋の ように商品置き場のために取るスペースは比較的小さ く、土間に商品を陳列することもできる。寸法体系はほ とんど本間による柱芯6尺5寸(1969.5mm)を使用して いることが実測図面から一目で読み取れる。しかし縁側 や押入部分に関してのみ本間ではなく京間寸法が用いら れていることがわかる。これは一畳分のスペースをより 大きく取るためであろう。小倉屋の間取りも嶋田屋のも のにかなり近いプランである。
c)松賀屋
江戸期の地図によると松賀屋は一つ南側の街区に屋敷 を構えていたことがわかる。母屋はその規模のみならず、
建築細部からも繁栄のほどが窺える。垂木は扇垂木にな っており、屋根もむくりをつけており、松賀屋の繁栄ぶり と大工の技術の高さも垣間見ることができる。また、東棟 は本間を採用しており、母屋は京間であることから別年 代の建物であることがわかる。
図14 松賀屋東棟の外観
また、仁尾町の明治時代の建築と大正時代以降の建築 は軒高が明らかに変わるため、比較的見分けやすい。大正 時代になると厨子二階から二階建てに変化し、その分軒 高が上がることは外観からも容易に判断できる。そして それは松賀屋も例外でなく、東棟の明治時代に建てられ たと思われるものについては軒高が低く、母屋は発見さ れた棟札から大正 5 年に竣工したことが判明したが、や はり軒高の違いは顕著に表れている。
(3)仁尾町の建築の特徴と変遷
仁尾の民家の原型は藁葺きの四方蓋造の形状で、間取 りの祖型としても三宅家に代表する農家のプランが元に 変化してきたことを示した。三宅家から、江戸時代中期の 農家が藁葺きの四方蓋造で建てられているため、この形 状の起源はそれよりも前である。高松市にある小比賀家 住宅は、国の重要文化財となっている住宅であるが、推定 慶長年間に建てられた建物で、既に四方蓋造の様式を作 り出している。
また多喜屋(万延元年)の外観や図15に見られるよう に、幕末には仁尾の町中は瓦屋根の建物が立ち並んでい た。
図15 幕末から明治初期の仁尾の街並み(『仁尾町の文
化財』より)
そして多喜屋は下屋を錣のように葺いてあり、小倉屋
(明治 37 年)は綺麗に錣葺きで四方蓋を形成している。
つまり仁尾町の錣葺きは幕末〜明治中期にはすでに建て られていた。一方で、江戸期〜明治期の日本において一般
的な小壁をもった厨子二階の形もまた同時期に多く建て られていた。そして大正時代に入ると、厨子二階はなくな り二階を設けることが多くなり、それは軒高という形で 外観に表れることになった。
図16 仁尾町の建築外観変遷図
また、寸法体系は本間が多く用いられていたが、これは 瀬戸内海の町独自の寸法モジュールである。小倉屋の縁 側や松賀屋の母屋のように本間と同時に京間寸法を用い ることもあるが、明治時代以前に建てられた建築は本間 を基本モジュールとして使用していた。
戦後になると、仁尾町では「四国間」という寸法体系が 存在する。四国間は芯々制の寸法体系であり、一間を柱芯 6尺2寸7分(1900mm)とするモジュールである。これは 仁尾町においては現代の基準寸法であり、寸法値から見 てもミリメートル制で考えられており、現代住宅のため のものであり、例えば同じ 6畳間を計画しても部材寸法 は本間や京間のモジュールで建てられた建築よりも使用 する部材寸法少なくて済むのである。
仁尾町では江戸時代から大正時代には四国間は見られ ない。つまり本間のモジュールで建てられているという ことは建築年代を判断する上で重要な要素の一つである。
長らく仁尾町において用いられてきた本間によって生み 出されるスケール感は土着的である。
5.結論
1 章と 2 章では仁尾の地域の地理特性及び江戸時代以 降の産業の変遷を明らかにし、平安時代に繁栄の起源を 持っている、仁尾の町や地区がいかに形成されてきたか の背景を論じた。
地区の立地やそこに存在した商家の生業を読み取りつ つ、3 章ではまた地区ごとの特色を論じる上で小祠に祀ら れてきた祭神を読み解く事でより深く地区の特色を裏付 けた。これによって仁尾町の街区や地区、道などの町の骨 格が、少なくとも江戸時代以前に形成されたものである
ことが分かった。さらにはこれだけ古い歴史的背景を持 ち、その古い町の骨組みを持ちながらそこに建つ建築は どのように生まれたか、発展してきたかを本論文の 4 章 において論じた。
建築の特徴として、江戸から明治期の古い建物は、柱の 基準寸法を本間という仁尾特有の寸法体系を用いている ことがわかった。建築の形状は現存する江戸中期の建築 から読み解くと、四方蓋造を用い平屋としている。幕末か ら明治に入ると藁葺きを上屋根とする四方蓋造りは、瓦 の上屋根に変わり錣葺きとされるパターンと、小壁をも った厨子二階型がうまれる。大正時代になると、厨子二階 は作られなくなり、二階建ての商家が増えていく。
三方を山で囲われ湊に活路を見出した仁尾町は、幕末 まで海からの文化や物資の流入と交易が盛んに行われた。
そのため、海沿いの町の中心部にある町家は、山側の農家 の住居に比べて建築そのものの発展も一早かったことは、
幕末期の絵図からも読み取れる。そして明治維新によっ て明治から大正期に陸上交通が主要交通となる時代に移 り変っていく中、鉄道の通らなかった仁尾の町は取り残 された。大正期に松賀屋の塩田業で再度町に活気を取り 戻したが、それも戦後には下火となり再び高度成長の流 れからは取り残されていた。しかし高度成長の波に飲ま れなかったことで現在まで生き残った古くからの町の骨 格と、その上に建つ幾つもの明治大正期の建築たちは現 在まで開発されることなくその形を留めていられた。
江戸時代以前に作られた町の基盤の上に、瀬戸内海に 面した町である仁尾町特有の寸法体系や伝統的な間取り を残す仁尾町の町と建築は江戸期から大正期の生活を読 み解く上での貴重な遺構なのである。
参考文献
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