画家たちの描写 : 日本人旅行者の見たイタリア(4)
著者 真銅 正宏
雑誌名 人文學
号 185
ページ 57‑90
発行年 2010‑03‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012168
画 家 た ち の 描 写
│
│ 日本 人 旅 行者 の 見 たイ タ リ ア︵ 4
︶
││
真 銅 正 宏
石 井 柏 亭 イ
タ リ ア は︑ バチ カ ン を始 め
︑美 術 の宝 庫 で あ る︒ また
︑ロ ー マ 時代 の 遺 跡 も
︑国 中 に た く さ ん 残 る
︒当 然 な が ら︑ 画家 たち にと って
︑ス ケッ チの ため にも 絶好 の土 地と いえ る︒ 多く の外 国人 の画 家た ちが
︑こ の国 の風 景や 文化 遺産 に憧 れて きた であ ろう こと は︑ 想像 しや すい とこ ろで ある
︒ 石 井柏 亭の
﹃欧 洲美 術遍 路﹄ 上巻
︵東 雲堂 書店
︑一 九一 三年
︶の
﹁凡 例﹂ には
︑次 のよ うに 書か れて いる
︒ 一︑
巻中 の諸 編は 明治 四十 三年 十二 月日 本を 出て から
︑埃 及土 耳古 伊太 利亜 を経 て仏 京に 入り
︑其 処に 翌四 十四 年 十月 迄滞 留し た︑ 其間 に書 いた もの であ る︒
― 57 ― 画
家 た ち の 描 写
つ まり
︑一 九一 一年 頃の ヨー ロッ パに お け る 絵画 の 実 情を 報 告 する の が︑
﹃ 欧 洲美 術 遍 路﹄ であ る
︒こ こ には
︑イ タリ アを 扱っ たも のと して 次の 章が 用意 され てい る︒ 上巻
南 欧の 春 羅 馬よ り 羅 馬と 水絵 万 国美 術博 覧会 ア ツシ ヽよ り ペ ルー ヂャ より ト スカ ーナ ト リノ 雑観
﹁南 欧の 春﹂ の章 に︑
﹁予 がコ ンス タン チノ ープ ルか ら伊 太利 亜へ 行く 船も また 偶然 メサ ヂエ リー ので あつ た︒
﹂﹁ 船 がナ ーポ リの 港へ 入つ たの は美 しく 晴れ た春 の旦 で あ つ た︒
﹂と 書 か れて い る ので
︑ト ル コ か ら船 で ナ ポリ に 入 った こと が分 かる
︒ナ ポリ では
︑﹁ ピ アツ ツア
・ム ニチ ピオ のヲ テル
・ヂ ュ・ グロ ーブ
﹂に 泊ま って いる
︒ 同 船の フラ ンス 人﹁ サヂ ユー ス﹂ とい う男 と一 緒 に 昼 餐を 食 べ にで か け た際 に
︑石 井 の 視線 は
︑﹁ 其 途に ウ ン ベル
画 家 た ち の 描 写
― 58 ―
ト一 世の ギヤ レリ ーを 抜て サン
・フ ラン チヱ スコ
・ヂ
・パ オラ と対 ひ合 つた 王宮 の前 を通 る︒ 歴代 の王 の彫 刻を 以て 其正 面が 飾ら れて は居 るが
︑見 馴ぬ 所為 か王 宮の 建 築 と して は 甚 異様 に 感 じら れ た︒
﹂ と︑ こ の王 宮 に 冷や や か に向 けら れて いる
︒ こ れに 対し
︑こ の土 地の 人に つい ては
︑次 のよ うに 見て いる
︒ ヴ
イラ
・ム ニチ パー レの 細長 い公 園を 歩い て大 理石 の彫 刻に つか まり なが ら身 を屈 めて 噴水 を飲 む男 を見 るの は愉 快で あつ た︒ 予は 嘗て 名は 忘れ たヴ ヱネ チヤ の画 家が 水際 のキ ユピ ドの 彫刻 の下 に意 中を 語る 男女 を画 いた のを 見た が︑ 今此 処に は其 悪く 巧ま れた くす ぐり がな いか らい ゝ︒ さう して 同じ 人間 の形 の静 止と 活動 との 対照 も亦 興趣 の因 とな る様 だ︒ こ
こに はや はり 画家 独特 の視 線が 感じ 取ら れる
︒ 画 家の 視線 は︑ 時に 惨酷 であ る︒ ある 日︑
﹁ サン タ・ ルチ アの 電車 路に ある 小料 理屋
﹂で
︑﹁ サヂ ユー ス﹂ と昼 食を とっ てい た時
︑二 人は
︑近 くで 交通 事故 が起 こっ たこ とを 知り
︑か けつ ける
︒ 人
の団 から 少し 離れ た地 面に は血 がこ ぼれ て︑ 其上 に砂 がか けて ある
︒娘 は十 歳位 であ ると 云ふ
︒此 小さ い命 を滅 ぼし た車 は自 働車 かま た馬 車か
︑そ れは 訊か なか つた
︒酷 いに は酷 い︑ が予 は海 の彼 方に 煙を 吐く ヴエ ヂユ ヴイ アス を後 景と して
︑サ ンタ
・ル チア の埋 立地 の曇 日に ウン ベル トの 銅像 の下 で変 死の 骸を 見る と云 ふこ とに
― 59 ― 画
家 た ち の 描 写
或興 味を 覚え たの であ る︒ さ
らに 二人 は︑
﹁ カポ
・ヂ
・モ ンテ
﹂に 向か い︑ 美術 館の 前で
﹁立 派な 葬式 に出 逢﹂ い︑
﹁馬 車馬 の黒 装束 や火 の点 いた 蝋燭 を持 つて 行く 尼の 行列 など を見 て伊 太利 に旧 教の 生き て居 るこ とを 感じ
﹂て いる
︒ ナ ポリ から は︑ 近く にポ ンペ イを 初め とす るい くつ かの 見物 すべ き場 所が 点在 して いる
︒ナ ポリ はい わば ベー スキ ャン プの 役割 を果 たす 場合 が多 い︒ 二人 は︑ 少し 西の
﹁ポ ツツ オリ
﹂に もで かけ てい るが
︑そ の様 子は
︑以 下の とお りで ある
︒ トン
ネル を抜 けて 電車 はバ ニヨ リと 云ふ 鉱泉 浴場 の処 を過 ぎ︑ 海岸 の明 るい 道を 走つ てポ ツツ オリ に着 く︒ 蒼 蠅 く 附 纏ふ 案 内 者や 馬 車 を断 つ て 町 の門 外 の 道を 登 つ て︑ 予等 は 間 も なく ア ン フイ テ ア トロ の な か に 入 つ た︒ ポツ ツオ リは 昔仲 々繁 昌し た町 であ つた さう で︑ まだ 外に も羅 馬時 代の 祠の 跡が 近所 にあ るの だが
︑此 アン フイ テア トロ が最 よく 保存 され て居 るの であ る︒ ま
た︑ ポン ペイ の﹁ 廃趾
﹂も 宿 泊 し て見 物 し てい る
︒宿 は﹁ ヲ テル
・デ ル
・ソ ー レ﹂ と いう
︑﹁ 少 し 汚い が 風 雅な 家で
︑よ く外 国の 美術 家が 泊る と云 ふこ とで ある
﹂と 紹介 され てい る︒ ポ ンペ イを 訪れ た翌 日︑ 二人 は︑
﹁ アマ ルフ ヰ﹂ に向 かっ た︒ 行程 は︑
﹁避 暑地 にな つて 居る カ と云 ふ山 村を 過ぎ つて 間も なく サレ ルノ 湾に 面し たヴ イヱ トリ に着 き︑ 其処 から 馬車 を雇 つて 海辺 の道 を伝 ふ﹂ とい うも ので あっ た︒
画 家 た ち の 描 写
― 60 ―
途 中の
﹁マ イオ リ﹂ とい う町 で︑
﹁ パレ ツト を持 つた 画 家 の姿 が 其 壁に 描 い てあ る
﹂一 軒 の 貸画 室 に 目を 惹 か れて いる
︒ ア マル フィ では
︑﹁ 昔 の僧 院を 直し た﹂
﹁ヲ テル
・デ ラ・ ルー ナ﹂ とい う宿 に泊 まっ た︒ 次 に︑ ペス タム とい う廃 趾も 訪れ た
︒や が て︑ ナ ポリ に い った ん 帰 った 後
︑市 内 見 物に 日 を 費や し
︑さ ら に︑
﹁プ ロチ ダ︑ イス キア と云 ふ二 つの 島﹂ のう ち︑ イス キヤ にも 上陸 した
︒こ の﹁ 南欧 の都
﹂を 石井 はか なり 気に 入っ たよ うで ある
︒ 次 に︑ 石井 はロ ーマ に向 かっ た︒
﹁ 羅馬 より
﹂の 章に は︑ 宿に つい て︑
﹁停 車場 附近 の二 三流 の宿 屋ア ルベ ルゴ
・リ グ リア と 云 ふ のに 三 フ ラン ば か りの 室 を 借 りて
︑飯 は 外 で喰 ふ つ も りだ
︒便 利 な 処に し て は廉 い 方 だ
﹂と 述 べ て い る︒ 知 人 の
﹁長 沼 氏
﹂を
﹁ピ ン チ ア ナ 門 前 の ヲ テ ル・ フ ロ ラ﹂ に 訪 ね た と も 書 い て い る︒ こ の﹁ ピ ン チ ア ナ 門 前﹂ は︑ 今も 大き なホ テル の立 ち並 ぶヴ ェネ ト通 りで
︑日 本人 の高 級な 旅行 客の 多く がこ のあ たり のホ テル に泊 まっ た︒ オテ ル・ フロ ラは その 代表 であ る︒ や がて
︑ロ ーマ 見物 を始 めた 石井 には
︑ロ ーマ の町 自体 が美 術品 に映 った よう であ る︒ 今
朝カ ラブ リア と云 ふ町 に大 使館 の今 井書 記官 を訪 ねた ら昨 夜遅 かつ たの でま だ床 に居 ると 云ふ 訳で
︑そ れか ら勝 手に 方々 歩い て見 た︒ ピン チア ナの 門を 抜け て広 いボ ルゲ ーゼ の園 をピ アツ ツア
・デ ル・ ポー ポロ へ出 た︒ 四疋 の獅 子が 水を 吐く ヲベ リス クの 下に
︑乞 食と も限 らぬ ブラ
! "
の人 間が 居眠 りし て居 るの や︑ 子供 が獅 子の 背へ 乗つ たり
︑通 りが ゝり の荷 車が 噴水 で馬 に水 飼つ たり して 居る のを 僕は 面白 いと 思つ て見 た︒
― 61 ― 画
家 た ち の 描 写
こ のよ うに
︑石 井に 限ら ず︑ 当時 の日 本人 にと って も︑ この 何気 ない 風景 が︑ よけ いに この 土地 を異 国と 見せ たの であ ろう
︒一 方で
︑サ ン・ ピエ トロ 大聖 堂に つい ては
︑次 のよ うに 書い てい る︒ 有
名な サン
・ピ ヱト ロの 前ま で行 つて 見た が︑ 其ピ アツ ツア に向 つた 店に は法 王の 肖像 だの 御寺 の写 真や 拙い 画杯 が飾 つて あつ て︑ とん と京 都の 本願 寺前 と云 ふ体 裁さ
︒ま あ御 有難 向き の処 だね
︒サ ンタ ンヂ ヱロ の橋 とヴ イツ トリ オ・ ヱム マヌ エレ の橋 との 間に 電車 の通 る釣 橋が かゝ つて 居る が︑ 之は 隅田 川の 諸橋 と同 格で 周囲 に対 して ひど いぶ ちこ はし をや つて 居る
︒羅 馬は 随分 破壊 され まだ これ から も破 壊さ れる こと だら うと 思ふ
︒ こ
れ は︑ 当 時 日本 に お いて
︑夏 目 漱 石が
﹁そ れ か ら﹂
︵ 一九
〇 九 年 六 月 二 七 日〜 一
〇 月 一 四 日︑
﹃ 東 京 朝 日 新 聞﹄
︶ で︑ また 永井 荷風 が﹁ 冷笑
﹂︵ 一 九〇 九年 一二 月 一 三 日〜 一九 一
〇 年二 月 二 八日
︑﹃ 東 京 朝 日新 聞
﹄︶ で 行っ た 近 代日 本 への 文 明 批 評の 視 線 と実 に よ く似 て い る︒ 違 いは 石 井 がそ れ を か のロ ー マ に対 し て 行っ て い る とい う 大 胆さ で あ る︒ さ て︑ 石井 は︑ ヴァ チカ ンの 博物 館を も見 学し た
︒こ こ に つい て も︑
﹁ もと 法 王 の御 殿 で あ るか ら 宝 物の 陳 列 と云 ふ臭 がし て︑ ナー ポリ の博 物館 のや うに 学術 的に 整 頓 し て居 な い と云 ふ こ とに 気 が 附 いた
﹂と 容 赦 がな い
︒﹁ カ ペル ラ・ シス チー ナ﹂ のミ ケラ ンジ ェロ の﹁ 最後 の審 判
﹂に つ い ても
︑﹁ 祭 壇 の画 と 云 ふ装 飾 的 使 命か ら 見 て予 は 其 構図 に同 情出 来な いと 云ふ こと を白 状す る﹂ と書 きな が ら︑ し か しや は り︑
﹁ ただ 全 幅 に溢 る ゝ 力 の人 を 圧 する も の ある こと は否 み難 い事 実で ある
﹂と も書 いて いる
︒や がて
︑﹁ ラ フア ヱロ のス タン ゼ﹂ にも 入っ たが
︑こ こで も︑
﹁全 体の
画 家 た ち の 描 写
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構図 より も個 々の 人物 を賞 讃し なけ れば なら なか つた
﹂と 殊更 に書 きつ けて いる
︒ 石 井が ロー マに 着い てほ どな く見 学し たの は︑
﹁ 羅馬 と水 絵﹂ に拠 ると
︑
Galleria D ’arte M oderna
とい う
︑﹁ 近 代の 諸作 を集 めた 美術 館﹂ であ った とい う︒ この 古美 術の 都で の行 動と して は︑ やや 皮肉 な行 動に 見え るが
︑こ の町 にお いて は︑ 美術 にと って
︑若 干の 古さ も新 しさ も︑ 遠い ロー マ時 代と の比 較の 縮尺 で云 えば
︑大 した もの でな いの かも しれ ない
︒
﹁羅 馬よ り﹂ の章 の最 後に は︑ ボル ゲー ゼの 画廊 に二 度 目 に訪 れ た 際︑ 偶然 に も 和田 三 造 に 邂逅 し た こと が 記 され てい る︒ 全く の偶 然で ある が︑ 彼ら の画 家と して の行 動の 共通 性が
︑邂 逅の 確率 を高 めた こと はい うま でも ない
︒ 折 しも
︑石 井が イタ リア に滞 在中
︑﹁ 伊 太利 亜統 一 五 十年 記 念 博覧 会
﹂と い う︑ 大規 模 な 博 覧会 が 各 地で 開 催 され てい た︒ とり わけ
︑ロ ーマ の﹁ ウン ベル ト一 世の 公園 の北 に続 くヂ ユー リオ の谷
﹂で 開催 され てい た﹁ 万国 美術 博覧 会﹂ は︑ ヨー ロッ パの 美術 を学 ぼう とす る 石 井 にと っ て︑ 願 って も な い機 会 で あ った
︒﹃ 欧 洲 美術 遍 路﹄ 上 巻も
︑こ の博 覧会 の見 物記 であ る﹁ 万国 美術 博覧 会﹂ の章 に︑ 多く のペ ージ を費 やし てい る︒ ただ しこ れに つい ては
︑美 術鑑 賞記 であ るの で︑ ここ では 詳し く触 れな いこ とに する
︒ さ て
︑こ の の ち︑ 石井 は
︑ロ ー マ を 出 て︑ 近 郊 の﹁ ヲ ル ヴ イ ヱ ト
﹂で ま ず
﹁画 嚢 を 下 し
﹂て い る
︒そ し て
﹁ア ツ シヽ
﹂を 訪れ た︒ これ らの 見聞 は﹁ アツ シヽ より
﹂の 章に 収め られ てい る︒ 画家 の名 を取 った
﹁ヂ オツ ト﹂ とい う宿 に泊 まっ たよ うで ある
︒ロ ーマ もま た︑ ナポ リ同 様︑ 近く に多 くの 小さ な魅 力的 な町 を持 って いる
︒そ の後
︑ペ ルー
ベ レ︑ ア ル チ
ヂ ヤ へ
﹁後 戻 り
﹂︵
﹁ ペ ル ー ヂ ヤ よ り﹂
︶ を し て い る︒ こ こ で は︑
﹁﹃ 美 術﹄ と 云 ふ 第 二 流 の 宿﹂ に 泊 ま ろ う と し て い る︒ この
﹁ベ レ︑ アル チ﹂ とい う名 もま た興 味深 い︒
― 63 ― 画
家 た ち の 描 写
次 に訪 れた のは トス カー ナ地 方で
︑こ れ に つ いて は
︑﹁ ト スカ ー ナ﹂ と いう 一 章 が 設け ら れ てい る
︒ま ず︑ 山 の上 の﹁ モン テ・ プル チア ーノ
﹂に 向か い︑
﹁ マル ツ オ ツコ
﹂と い う 宿に 荷 を 解い た
︒こ の 土 地の 名 は︑ ト スカ ー ナ 産の 赤ワ イン の名 とし て日 本で も有 名で ある
︒次 に
﹁シ ヱ ー ナ﹂ を訪 れ た 際に は
︑﹁ サ ツカ ラ と 云 ふパ ン シ ヨン へ 行 つた 処が
︑室 が一 ぱい なの で︑ 二三 軒先 の別 の家 へ﹂ 泊ま って いる
︒ま た︑
﹁ サン
・ヂ ミニ ヤー ノ﹂ では
︑﹁ レオ ネ・ ビア ンコ
﹂す なわ ち白 獅子 とい う名 の宿 に立 ち寄 った
︒ 次 に﹁ フロ レン ス﹂ を訪 れた 石井 は︑
﹁ ハー バー ト・ ヴイ ツケ リー
﹂と いう 画家 を︑
﹁ヴ イア
・ヂ
・ピ ンチ
﹂と いう 町に 訪ね てい る︒ 二人 は︑
﹁ フヰ
ソ レ の 丘 の中 腹
﹂に 遊 んだ り し てい る が
︑石 井 は︑ 先の
﹁サ ヂ ユ ース
﹂と い い︑ この 英国 人と いい
︑行 きず りの 仲で も︑ すぐ に親 しく なる こと がで きた よう であ る︒
﹁フ ロレ ンス
﹂が 美術 家に とっ て重 要な 聖地 であ るこ とは 云う まで もな い︒ 石井 自身 も次 のよ うに 述べ てい る︒ フ
ロレ ンス にあ る美 術品 に就 て委 しく 述べ る段 にな ると それ は大 事で ある
︒ウ フヰ ツチ とピ ツチ との 美術 館に は実 にう んざ りす る程 沢山 のも のが 詰め 込ま れて また 傑作 も少 くな い処 へ︑ バル ヂヱ ロの ムセ オに 彫刻 及美 術工 芸品 があ り︑ メヂ チの 墓処 にミ ケラ ンヂ ヱロ の彫 刻が あり
︑美 術学 校に も附 属し た一 美術 館が ある
︒其 外寺 々の 壁画 にま た重 要な もの が少 くな い︒ 到底 短い 滞在 では これ 等の もの を充 分に 念を 入れ て見 るこ とが 出来 ない
︒実 際 羅馬 で は 予 自身 の 選 択が 割 合 に楽 で あ つ たが
︑此 処 へ 来て は 其 選 択に 困 難 を感 ず る 程品 物 の 数 が多 い の で あ
る︒ 画
家 た ち の 描 写
― 64 ―
例 の如 く︑ 美術 鑑賞 記は 省略 する
︒次 に︑
﹁ ピー ザ﹂ を訪 れた 際に は︑
﹁光 景が 一寸 一変 した
﹂と 述べ
︑そ こが 海に 近い こと を感 じて いる
︒そ のせ いか
︑ル ンガ ルノ の﹁ 海神
﹂と いう 宿に 泊ま って いる
︒ や がて
︑ト スカ ーナ を後 にし た石 井 は︑ ト リ ノを 訪 れ た︒ ここ に つ いて は
︑﹁ ト リ ノ雑 観
﹂の 章 を設 け
︑次 の よう に書 いて いる
︒ ト
スカ ーナ の旧 市を ぶら
! "
歩い て来 た予 には 近世 的に 碁盤 目に され たト リノ の市 街其 もの が一 向に 面白 くな い︒ ト
リノ はむ しろ
︑近 代都 市と して イメ ージ され
︑ま た現 実に もそ のと おり であ った よう であ る︒ ここ でも 石井 は︑ 博覧 会見 物に 時を 費や した
︒﹃ 欧 洲美 術遍 路﹄ 上巻 の旅 行記 はこ こで フラ ンス へと 移っ てい る さ て︑
﹃ 欧洲 美術 遍路
﹄の 下巻
︵東 雲堂 書店
︑一 九一 三年
︶に も︑ イタ リア 旅行 記は 収め られ てい る︒ 下巻
ヂ ノ ワよ りヴ
ネ チア ペ ルツ カの 壁画 マ
ル セ イ ユか ら ド イツ の 荷 物船
﹁セ ツ ト﹂ に 乗 って
︑石 井 は 再び イ タ リア を 訪 れ た︒
﹁ヂ ェ ノ ワ よ り ヴ ェ ネ チ ア﹂
― 65 ― 画
家 た ち の 描 写
の章 には
︑船 で鞄 が見 つか らな いの で︑ 回送 して もら う間 に見 物し た﹁ ヂェ ノワ
﹂︑ 湖 水地 方の
﹁コ モ﹂
︑郵 便局 で料 金 に つ い て 小 さ な 押 し 問 答 を し た﹁ ヴ ェ ロ ー ナ﹂
︑寂 し い
﹁パ ド ワ﹂
︑そ し て
﹁ヴ ェ ネ チ ア﹂ と そ の ラ グ ー ン︵
﹁鹹 湖﹂
︶ につ いて の見 聞記 が書 かれ てい る︒ それ ぞ れ︑ エ ピソ ー ド も含 ま れ︑ 町 や人 に 投 げ る視 線 も 注意 深 く︑ 長 い旅 が︑ 石井 の観 察を やや 変化 させ たこ とを 窺わ せる
︒ 次 に﹁ ミラ ノ﹂ に一 週間 滞在 した
︒﹁ ペ ルツ カの 壁画
﹂の 章に よる と︑
﹁ブ レラ の画 堂に 集め られ たル イニ の諸 作に 画家 的同 情を 寄せ た﹂ と書 かれ てい る︒ 彼 の旅 は︑
﹁ 美術 遍路
﹂と 呼ぶ にふ さわ しい もの であ っ た が︑ 予め 図 版 や紹 介 文 によ り 想 像 して い た 美術 品 の 見物 とは おそ らく かけ 離れ た体 験と なっ た︒ 彼の 多く の記 述は
︑土 地の 風景 と異 国の 画家 の特 徴と を関 連づ けた もの とな っ てい る
︒イ タ リ アは
︑街 全 体 が﹁ 美術
﹂品 で あ り︑ この こ と が︑ 著 名な 画 家 たち と 土 地 と を 結 び つ け て い る こ と を︑ 改め て認 識す るこ とに なっ たの であ る︒ 岡
田 泰 祥 岡
田 泰 祥 は︑ 大正 一
〇 年︑ すな わ ち 一九 二 一 年 に欧 州 遍 歴を 思 い 立ち
︑足 か け 三 年 に わ た り︑ 欧 州 を 経 巡 っ た︒
﹃ 絵筆 を 載 せ て﹄
︵内 外 出 版印 刷
︑一 九 二五 年
︶は
︑そ の 記 録で あ り︑ 一 九二 五 年 に 出 さ れ た が
︑一 九 三 六 年 一 月 に は︑ 九版 を出 すほ どの ベス トセ ラー であ った
︒イ タリ アを 扱っ た章 の冒 頭に おか れた
﹁伊 太利
﹂と いう 前書 には
︑フ ラン スと 比較 して 次の よう に書 かれ てい る︒
画 家 た ち の 描 写
― 66 ―
同じ 芸術 の国 でも 伊太 利の 文化 は中 央集 中主 義で ない
︒ロ ーマ
︑ヴ エニ ス︑ フロ レン ス︑ ミラ ン︑ ナポ リな ど地 方々 々に 絵画
︑彫 刻︑ 建築 など の諸 芸術 が分 割さ れ︑ それ
"
!
に 或 る特 色を 示し て居 る︒ しかし なが らこ の書 にお いて イタ リア は︑ ロー マと ナポ リを 中心 に︑ その 近辺 に記 述が 集め られ てい る︒ 目次 は以 下の とお りで ある
︒ 欧洲
の巻
◎伊 太利 ロ ーマ の都 タ イタ ス凱 旋門 ピ サの 斜塔 ナ ポリ ベ スビ アス 火山 ポ ンペ イの 死市 こ
のと おり
︑ピ サだ けが 例外 であ る︒ ヴェ ネツ ィア も︑ ミラ ノも
︑フ ィレ ンツ ェも 扱わ れて いな い︒
― 67 ― 画
家 た ち の 描 写
挿 絵も また
︑こ れに 合わ せた もの で︑ 以下 のも のが 掲げ られ てい る︒ 二八
◎ ナポ リ二 趣 二九
◎ アツ ピア 街
◎ピ サの 斜塔 三〇
◎ 伊仏 国境 モダ ン二 趣 三一
◎ タイ タス 凱旋 門 三二
◎ ポン ペイ 遺跡
◎ ベス ビア ス噴 火口 こ
こ に は︑ や はり 岡 田 の興 味 の 所在 を 見 て 取る こ と がで き よ う︒ 例え ば
︑羅 馬 に つい て は 次の よ う に 書 か れ て い る︒
ロ ーマ は一 言に して 尽す と彫 刻の 都で ある
︒二 十余 のミ ユゼ ーを 有し てゐ ると いふ 偉大 なる 事実 は︑ 如何 なる 皮肉 家を も文 字通 りの 驚嘆 に値 する もの でな けれ ばな らぬ
︒︵ 略
︶ た ゞし 彫刻 の都 ロー マは 初印 象に 於て こそ 観る 者の 眼を 威圧 し眩 耀せ しめ るが
︑軈 てそ の懐 中に 馴れ るに 従つ て人 々は
﹁彫 刻に 中毒 した るロ ーマ
﹂を 見出 す で あ らう
︒︵ 略
︶真 の 芸術 味 に つい て は 今 一息 の 感 があ る や うに 思は れる
︒
画 家 た ち の 描 写
― 68 ―
こ の真 の芸 術味 を探 るこ とが
︑岡 田の イタ リア 見物 の目 的の 一つ とな った
︒彼 はヴ ァチ カン を訪 れた が︑ やが て︑
﹁ 羅馬 城外 のア ツピ ア街
﹂に 二千 年前 の昔 を偲 び︑
﹁聖 ペテ ロの 大伽 藍﹂ を見 る一 方︑ また 廃墟 とな った
﹁カ ラカ ラ浴 場﹂ にも 舌を 巻く
︒こ の二 千年 とい う時 間を
︑古 城跡 など に殊 更に 重ね 合わ せる こと によ り︑ ロー マの 魅力 を再 発見 しよ うと して いる かの よう であ る︒ その 代表 的な 興味 が﹁ タイ タス 凱旋 門﹂ へ向 けら れた 視線 なの であ る︒ ポン ペイ やベ スビ アス 火山 への 興味 もま た︑ この 古代 への 視線 に支 えら れた もの であ るこ とは 云う まで もな い︒ 矢
崎 千 代 二 矢
崎千 代二 は一 九二 三年 の春
︑パ リに 滞在 して いた が︑ リウ マチ のた めに 本業 の絵 を描 くこ とが でき なく なり
︑た また まパ リに 留学 して いた 朝日 新聞 社の
﹁S
﹂氏 の 勧 め で︑ ヨー ロ ッ パ見 聞 記 の執 筆 に 取 り掛 か っ た︒
﹃東 京 朝 日新 聞﹄ 紙上 に一 九二 四年 三月 一一 日よ り五 月一 八日 まで
︑ま た︑ 一九 二五 年一 一月 一五 日か ら一 二月 一五 日ま で連 載し た もの を ま と めた の が︑
﹃ 絵の 旅 か ら﹄
︵東 京 朝 日 新聞 発 行 所︑ 一 九 二 六 年
︶で あ る
︒石 井 柏 亭 が
﹁序
﹂を 書 い て い る︒ 新聞 に毎 日載 せる
︑エ ッセ イの よう な発 表形 態で あっ たこ とか ら︑ 実に 気の きい た海 外見 聞記 とな って いる
︒こ のこ とは
︑以 下の タイ トル を見 るだ けで 想像 され る︒ イタ
リー 篇 一
︑化 物屋 敷
― 69 ― 画
家 た ち の 描 写
二
︑猫 と狼 三
︑骨 董 四
︑コ ロセ オ 五
︑暗 黒面 六
︑聖 地と 魔窟 七
︑行 商人 八
︑キ ヨー ジヤ 九
︑ヒ ゲの 女 一
〇︑ 画舫 とゴ ンド ラ 一 一︑ カプ リの 島 一 二︑ 馬車 の中 から 一 三︑ フヰ エソ レの 喜劇 一 四︑ ピサ のは なし 一 五︑ シエ ナの 今昔 一 六︑ アツ シシ の聖 者 以
上︑ 直接 的な 場所 の観 光案 内で ない こと が窺 える
︒そ こに は︑ それ ぞれ の物 語が 見て 取ら れて いる
︒し かも それ
画 家 た ち の 描 写
― 70 ―
らに は︑ 画家 の視 線を 殊更 に意 識し たも のが 多い
︒ 例 えば
︑﹁ 五
︑暗 黒面
﹂に は︑ 次の よう なこ とが 書き 留め られ てい る︒ 次
に少 しき たな い話 だが
︑ゑ かき でゝ もな けれ ば︑ 見出 し得 ぬ事 があ る︒ ロー マの ビツ トリ オ・ エム マヌ エル 橋と いへ ば︑ 巴里 のア レキ サン ドル 三世 橋と 同じ く︑ 金ピ カの 銅像 など が︑ 飾ら れて あつ て︑ いか にも 新興 国の 威勢 を誇 り顔 の立 派な もの であ る︒ 自動 車な どで 風を 切つ て見 物し たの では わか らな いが
︑徒 歩で その 橋を 渡れ ば︑ 臭気 紛々 たる に気 がつ く︑ 更に 画を かく 為に 橋の 傍の
︑石 階の 四五 十段 を河 岸に 下れ ば︑ 驚く べし
︑一 歩に 一つ づゝ の人 糞の 列が あつ て︑ 迚も 近づ く事 はで きな い︒ こ
れは
︑大 都会 の裏 面を 画家 の視 線で 気づ くこ との 報告 であ る︒ ま た︑
﹁ ゑか きと わか つて る時 には
︑な りな どは 問題 でな いが
︑ゑ をか ゝな い時 の︑ この みな りで は︑
﹂︵
﹁ 七︑ 行商 人﹂
︶ と︑ 通常 の 旅 行 者の 恰 好 と は 違 う 身 な り も
︑画 家 で あ る こ と を 特 権 と し て で き た こ と が 書 か れ て い る
︒ま た
﹁ 一二
︑馬 車の 中か ら﹂ には
︑﹁ チボ リ
﹂の
﹁エ ス テ の宮 殿 の 庭﹂ で︑
﹁例 の 如 く三 脚 を 据 ゑて る と︑ 土 地の も の も観 光客 も押 あつ て見 物す る︑
﹂ と書 かれ て い る︒ ま た︑
﹁一 三
︑フ ヰ ルソ レ の 喜劇
﹂に は
︑﹁ フ ヰ ルソ レ か らフ ロ レ ンス が眺 めら れる
﹂場 所で
︑絶 好の 写生 の場 所を 見つ け た と ころ
︑﹁ 見 る から 憎 さ げな 一 人 の 老婆
﹂に 風 景 を邪 魔 さ れた エピ ソー ドが 書か れて いる
︒話 は︑ そこ に﹁ 美し い娘
﹂が やっ てき て︑ 親切 にし てく れた こと で締 め括 られ る︒ 画 家が 三脚 を持 って 旅を する 様子 を殊 更に 書き 留め たの が︑ 矢崎 の書 の特 色で あっ た︒
― 71 ― 画
家 た ち の 描 写
八 木 彩 霞 八
木彩 霞︵ 熊次 郎︶ は一 九二 六年 七月 一五 日︑ パリ を発 ちス イス に向 かっ た︒ そう して ロー ザン ヌか ら︑ シン プロ ンの 大ト ンネ ルを 経て
︑イ タリ アに 入っ た︒ 七月 一六 日 の 夜 八時 過 ぎ にミ ラ ノ に着 い て い る︒
﹃彩 筆 を 揮て 欧 亜 を縦 横に
﹄︵ 文 化書 房︑ 一九 三〇 年︶ には
︑以 下の よう な行 程と
︑さ らに
﹁雑 話﹂ が収 めら れて いる
︒ 第四
編 瑞西
︑伊 太利 旅行 一 伊 太利 及瑞 西旅 行と 語学 二 巴 里よ りス ヰス を経 由ミ ラノ 迄 三 ミ ラノ より 水都 ベニ スへ 四 ベ ニス より フロ ーレ ンス へ 五 フ ロー レン スよ りロ ーマ 迄 六 ナ ポリ 及ポ ンペ イ 七 ロ ーマ より ピザ
︑ゼ ノア を経 て再 びミ ラノ 迄 八 ミ ラノ より チユ リヒ 迄 一 一 伊瑞 雑話
画 家 た ち の 描 写
― 72 ―
A 三画 聖 B 自国 の恥 を明 るみ へ出 す伊 太利 人 C カタ コン ブ D 乞食 E カン カー ド F コロ ンバ ス 目
次の とお り︑ この 行程 は︑ スイ スか らミ ラノ に入 り︑ 再び ミラ ノか らス イス に抜 ける ルー トで
︑ナ ポリ まで 足を 伸ば して いる ので
︑ほ ぼ典 型的 なイ タリ ア縦 覧の 行程 とい えよ う︒ 例 えば フィ レン ツェ では
﹁ジ ヨコ ンタ
﹂と い う ホ テル に 泊 まっ て い るが
︑こ の 宿 は︑ 同 書に よ る と︑
﹁日 本 人 が多 く泊 る宿 で非 常に 親切 であ り︑ 日本 語を 少々 知 つ て ゐる の で 気持 が よ かつ た
︒﹂ と 書 いて い る︒ 一 九二 六 年︑ つ まり 昭和 の始 まる 年の こと であ る︒ こ の書 には
︑画 家と して の独 自の 視線 はさ ほど 認め られ ない
︒﹃ 彩 筆を 揮て 欧亜 を縦 横に
﹄に は︑ 最後 に︑
﹁あ れや
・こ れや
﹂の 一節 とし て﹁ D︑ 渡欧 前後 先 輩 知 己と の 問 答一 束
﹂が 収 めら れ て い るが
︑そ こ で︑
﹁ 渡欧 の 目 的﹂ を問 われ
︑﹁ 無 論洋 画研 究が 主だ が︑ 人間 とし て体 験の 出来 る だ け体 験 し てみ た い と日 頃 か ら の心 願 で あつ た の で︑ 其を 遂行 する 考へ です
︒﹂ と 答え てい るが
︑イ タリ アに お い ては
︑洋 画 研 究は そ っ ちの け で︑ 一 通 りの 観 光 旅行 を 試 みた よう であ る︒
― 73 ― 画
家 た ち の 描 写
三 宅 克 己 三
宅 克 巳 は︑ 一九 一
〇 年一 月 一 九日
︑安 芸 丸 で ヨー ロ ッ パに 向 け て横 浜 を 出 帆し た
︒こ の 行 程 を 報 告 し た 書 が︑
﹃ 欧洲 絵行 脚﹄
︵画 報社
︑一 九一 一年
︶で ある
︒ こ の書 の﹁ 緒言
﹂に は︑ 画家 と欧 州旅 行と の関 係に つい て︑ 極め て明 快に 書か れて いる
︒そ れは
︑三 宅の 決意 であ った と共 に︑ 多く の画 家た ちに も共 通す る動 機で あろ う︒ 自
分は 画を 描き 始め てか ら︑ 彼是 既に 二十 余年 にな るが
︵略
︶何 時か 知ら ぬ間 に画 筆を 握つ て渡 世す る一 種の 労働 者と なつ てし まつ た︒
︵ 略︶ 画を 描く こと が既 に 職 業 とな れ ば 濫作 を や る傾 は 免 れ ない
︒濫 作 は 遂に 単 調︒ 平凡
︒月 並に 陥ら しめ ねば 措か ぬこ とは 極ま つて 居る
︒独 り絵 画の みで 無い
︒詩 歌に せよ
︑小 説に せよ
︑有 ゆる 芸術 が斯 うい ふ運 命に 陥る のは
︑実 に 已 む を得 ぬ こ とで あ る︒
︵ 略︶ そこ で 作 品 の単 調
︒月 並 を破 る に は︑ 先づ 自己 の生 活状 態の 単調
︒平 凡を 破ら ねば なら ぬと 深く 心に 感じ た︒ こん な動 機か らし て︑ 一昨 年の 秋︑ 不図 思ひ 付い たの が欧 洲写 生で ある
︒そ の目 的は 唯だ 新ら しい 変つ た作 を得 やう とい ふの みで 無く
︑山 川︒ 気候
︒風 俗︒ 人情 の異 つた 外国 を旅 行し て︑ 倦み 疲れ た自 分の 生活 状態 から
︑今 少し 抜け 出た いと いふ 切な 希望 であ つた
︒ ま
た三 宅は
︑こ の欧 州旅 行の 費用 につ いて
︑次 のよ うに も書 いて いる
︒
画 家 た ち の 描 写
― 74 ―
元 来画 かき の旅 と云 ふも のは
︑内 地に 於て すら 別段 に外 見を 飾り
︑贅 沢を 尽す 必要 は無 い︒ 旅行 は此 方の 遣り 方で
︑其 費用 は幾 くら でも 節減 され る︒
︵ 略︶ 例へ ば 相 当の 官 職 に居 る と か︑ 或は 地 位 の ある 所 謂 御歴 々 の 人々 は︑ 確に 本国 の対 面に も関 する 訳で ある から
︑そ こは 無理 算段 を為 し︑ 痩我 慢を して もそ れ相 応の 事を
︑や つて も らい た い
︒併 し そん な 心 配の 無 用 な︑ 画家 仲 間 の 旅行 に 至 つて は
︑出 来 る だけ の 節 減 を 守 り
︑な る べ く 自 由 に︑ 成る べく 呑気 にや つて もら いた いの であ る︒ こ
こに
︑画 家の 旅の 特殊 性を 見て 取る こと もで きよ う︒ さ て︑ 三宅 は︑ 五十 日の 船旅 を経 て︑ 一九 一〇 年三 月九 日︑ マル セー ユに 到着 した
︒当 時︑ パリ には 和田 三造
︑ロ ンド ンに は武 内鶴 之助
︑ベ ルギ ーの ガン 市に は太 田喜 次郎 と児 島虎 次郎 とい う友 人が いた ので
︑彼 らの 世話 にな るべ く︑ フラ ンス
︑イ ギリ ス︑ ベル ギー と廻 り︑ ドイ ツと オラ ンダ を訪 ね︑ 再び ベル ギー やパ リに 立ち 寄っ た後
︑マ ルセ ーユ から イタ リア に入 った
︒﹁ ゼ ノア
﹂に 着い たの は一
〇 月 一九 日 の こと で あ る︒ 同書 の イ タ リア 旅 行 記の 目 次 は以 下の とお りで ある
︒ 伊太
利旅 行の 序幕
││ ゼノ アと ピサ 寒い フロ レン ス市 奈良 のや うな シヱ ナ 羅馬 の滞 在
― 75 ― 画
家 た ち の 描 写
湯ケ 島に 似た チヴ オリ チヴ オリ より ネー プル スへ ネー プル スを 逃出 して ポム ペイ へ 車馬 のな いヴ ヱニ ス ま
た︑ 挿絵 に用 いら れた 三宅 自身 の絵 や絵 葉 書︑ 風 景 写真 等 は︑ 以 下の と お りで あ る︒
︵ 図 版の 種 が 書か れ て いる ので
︑﹁ 挿 画目 次﹂ の一 覧を 用い た︒
︶ 一ゼ
ノア の町
︵網 目版
︶ 一フ ロレ ンス
︵網 目版 二度 刷︶ 一フ ロレ ンス
︑ア ルノ 河︵ 網目 版︶ 一フ ロレ ンス の裏 町︵ 同上
︶ 一ア ンジ ヱロ ー作 ダビ ツド の像
︵同 上︶ 一フ ロレ ンス 市滑 稽な る日 本劇
︵同 上︶ 一シ エナ の町
︑其 一︵ 同上
︶ 一同
︑其 二︵ 同上
︶ 一ロ レン ゼツ チ筆 肖像
︵同 上︶
画 家 た ち の 描 写
― 76 ―
一ソ ドマ 筆肖 像︵ 同上
︶ 一羅 馬フ オー ラム
︑サ ター ン殿 堂の 跡︵ 網目 版二 度刷
︶ 一ロ ーマ 宿屋 前の 眺望
︵ゼ ラチ ン版
︶ 一サ ン︑ アン ゼロ ー城 とサ ン︑ ピヱ トル 寺︵ 網目 版二 度刷
︶ 一フ オー ラム
︑ロ ーマ の全 景︵ 網目 版︶ 一コ ロセ オの 内部
︵同 上︶ 一チ ヴオ リの 瀑布
︵網 目原 色版
︶ 一チ ヴオ リの 山裾
︵網 目版
︶ 一ネ ープ ルス より ヴヱ スヴ ヰユ スを 望む
︵同 上︶ 一ポ ムペ イ附 近の 景︵ 網目 版︶ 一ポ ムペ イ博 物館
︵同 上︶ 一犬 の屍 体︵ 同上
︶ 一カ サ︑ デイ
︑ヴ エツ チの 台所
︵同 上︶ 一ヴ エニ スの 全景
︵同 上︶ 一ヴ エニ ス︵ 同上
︶ 一ヴ エニ スの 堀割
︵同 上︶ 一ヴ エニ ス市 場︵ 同上
︶
― 77 ― 画
家 た ち の 描 写
一グ ラン ド︑ カナ ル︵ 同上
︶ こ
のと おり
︑各 地の 訪問 が︑ 時に 絵の 題材 とも なり
︑画 家の 正し く﹁ 絵行 脚﹂ の書 とな って いる
︒
﹁ゼ ノア
﹂で は﹁ カン ポサ ント
﹂を 見物 して い る︒ 墓 地と い う ので
︑日 本 の イメ ー ジ を 持っ て で かけ た と ころ
︑大 いに 驚い てい る︒ これ は︑ 西洋 の墓 地の 多く に共 通す るイ メー ジで ある が︑ そこ は︑
﹁ 墓の 大博 覧会
﹂の よう で︑
﹁大 理石 の彫 刻を 見に 来た 様な もの だ︒
﹂ と書 かれ てい る︒ しか しな がら ここ では
︑一 枚も 写生 はし てい ない
︒﹁ 早く フロ レン ス﹂ に行 きた いの と︑ マル セー ユ に 似 てい る た めで あ っ た︒ ピサ で は︑
﹁ オ テル
︑ナ シ ヨ ナル
︑エ ー
︑エ ト ラン ジ ヱー
﹂と い う 宿 に 泊 ま っ て い る︒ ピ サ は 乗 換 駅 で も あ り︑ 多 く の 旅 行 者 が 立 ち 寄 る
︒三 宅 は
︑﹁ ピ サ の 町 の 見 物 は︑ ナポ レオ ン一 世の 建て た美 術館
︒有 名な 傾斜 塔︒ カム ポサ ント など
﹂と 述べ てい る︒ 一 一 月 二 二 日 に フ ロ レ ン ス に 着 い た
︒こ こ で は
︑通 り が か り
﹁
Pension F rancioli-Crocini
﹂と い う 宿 に 直 に 談 判 し て︑ ここ を宿 に決 めた
︒こ の宿 の決 め方 は︑ 三宅 がよ くや る方 法で
︑概 ね成 功し
︑安 く居 心地 のい い宿 を見 つけ てい る︒ こ こで は︑ 美術 館の 見物 か︑ 写生 を行 って いる
︒美 術館 は﹁ 最も 重な るも のが
︑都 合四 ヶ所 ある
︒﹂ と して
︑﹁ パラ ッツ オ︑ ピツ チ﹂
﹁ ガレ リ ア
︑ウ フ イツ チ
﹂﹁ ム ゼオ
︑ナ チ オ ナー レ
﹂﹁ ア カ デミ ヤ
︑ヂ
︑ベ レ︑ ア ルチ
﹂の 四 つ を順 に見 て回 って いる
︒ 次 に︑
﹁ 奈良 のや うな シヱ ナ﹂ を訪 れた が︑ ここ には 約二 週間 を過 ごし た︒
﹁見 物と 写生 の両 方を 一時 にす る事 は六 ヶ敷 ので
︑主 とし て写 生を
﹂し てい る︒
画 家 た ち の 描 写
― 78 ―
そ うし て遂 に︑ 一二 月一 五日
︑憧 れの ロー マに 入っ た︒ ここ でも
︑歩 きな がら 宿屋 を探 し︑ ウン ベル ト一 世橋 の近 くの
﹁
Albergo D ell’ Orso.
﹂と いう 宿屋 を見 つけ
︑こ こに 試み に宿 泊す るこ とに した
︒こ こで 見物 に明 け暮 れて いる
︒ そ の後
︑チ ヴォ リに 立ち 寄 り︑ こ こ で︑
﹁オ テ ル︑ シ ビラ
﹂に 泊 ま り︑ 一九 一 一 年 の新 年 を 迎え た
︒そ し て︑ 一月 五日
︑﹁ ネ ープ ルス
﹂に 向か った
︒ し かし なが ら︑ ナポ リの 宿引 きの 五月 蠅さ や︑
﹁ 襤褸 を 纏 つた 無 宿 の浮 浪 人 とも 云 ふ や うな 怪 し 気な 男 が︑ 頻 に名 所の 案内 をし やう とか
︑或 は無 理に 絵葉 書を 買 つ て くれ ろ と か︑ 寄り 集 ま つて 来 る﹂ の に 閉口 し て いる
︒﹁ ヴ エ スヴ ヰユ スの 火山 が︑ ネー プル ス湾 に臨 んで 居る 景色 は︑ 吾国 の富 士の 様に 余り に︑ コン ベン シヨ ナル な図 では ある が︑ 美し い暖 かい 色で
︑相 応に 絵に もな る景 であ る︒
﹂ と感 心は した が︑ 人が 集ま って きて 妨げ るの で︑
﹁道 具を 据へ て写 生な どす る事 は困 難﹂ で諦 め︑ 早々 にポ ンペ イに 移 っ て いる
︒﹁ 至 る 所の 空 気 が危 険 で︑ 穏 か なら ぬ の で終 に 此 地で は写 生す る気 にも なれ ず一 枚の スケ ツチ も得 なか つた
﹂の であ る︒ こ れに 引き 換え
︑ポ ンペ イ で は︑ ド イツ 人 の 経営 す る﹁ グ ラン ド
︑オ テ ル︑ ポ ムペ イ
﹂が
﹁予 想 外に 好 く﹂
︑ 心地 よく 過ご すこ とが でき た︒ 次 に︑ 一九 時間 の列 車旅 行を 経て
︑﹁ ヴ エニ ス
﹂に 向 か い︑ 味を し め たの か
︑こ こ でも ド イ ツ 人の 宿 に 泊ま っ た︒
﹁ 停車 場の 向河 岸の 宿屋
﹂で あっ た︒ ここ でも
︑写 生 と 見物 に 日 を費 や し てい る
︒そ し て︑ 和 田三 造 と 偶然 の 再 会を 果た した
︒和 田は これ から フロ レン スへ 向か うと のこ とで あっ た︒ そう して 三宅 は︑ 一月 二八 日に マル セー ユを 出帆 する 丹後 丸に 乗船 して 帰国 の途 に着 くた めに
︑﹁ ミ ラン
︒ゼ ノア を経 て︑ マル セー ユ﹂ に向 かっ たの であ る︒ こ の後
︑三 宅は 何度 も外 国を 訪れ るこ とと なる
︒﹃ 写 真器 さげ て欧 米へ
﹄︵ アル ス︑ 一九 三三 年︶ には
︑自 ら﹁ 私の
― 79 ― 画
家 た ち の 描 写
持病 とそ の再 発﹂ と題 して
︑﹁ 無 病息 災の 私に もた つ た 一つ の 病 気が あ る︒ 而 もそ の 病 気 は陽 気 の 変り 目 毎 に︑ 時々 起る ので 困る
︒そ の病 気と は即 ち外 国旅 行と 云ふ こ と で ある
︒﹂ と 書 くほ ど で ある
︒画 家 と し ての 修 業 のた め と いう より
︑旅 行自 体が 目的 とな った もの のよ うで
︑ス ケッ チの 筆も
︑写 真機 に代 わっ てい る︒
﹃欧 洲写 真の 旅﹄
︵ア ルス
︑一 九二 一年
︶は
︑三 宅の 四度 目の 外遊 の記 録で ある
︒イ タリ アへ は二 度目 の訪 問で あっ た︒ この 時三 宅は
︑一 九二
〇年 二月 に日 本を 出発 した
︒こ の際 には カメ ラを 携え
︑現 像道 具一 式ま で揃 え︑ 途中 で消 えて しま わな いよ う万 端の 準備 を整 えた
︒こ のと おり
︑今 度の 書は
︑画 家が ヨー ロッ パの 風景 につ いて 自ら 描い た写 生と 共に 上梓 した 本で はな く︑ ヨー ロッ パの 風景 を︑ その 写真 とと もに 報告 した 書と なっ てい る︒ 本文 に挿 入さ れた 写真 の外 に︑ 一〇
〇枚 もの 別刷 の写 真が 巻頭 を飾 って いる こと から
︑当 時の 三宅 が︑ 写真 に以 下に 入れ 込ん でい たの かが 窺え る︒ 目 次の うち
︑イ タリ ア旅 行の 部分 は以 下の とお りで ある
︒ 羅馬
へ 羅馬 郊外 羅馬 で見 た写 真器 羅馬 を立 つて ナポ リへ ナポ リよ りシ シリ イ島 へ メ シナ の町
画 家 た ち の 描 写
― 80 ―
パレ ルモ パレ ルモ より シラ キユ サ カタ ニヤ の町 タオ ルミ ナ 再度 のナ ポリ 又も 羅馬 へ アッ シジ の町 フイ レン ツエ
︵フ ロオ レン ス︶ フイ レン ツエ 郊外 フイ ヱソ ーレ 恋し い雨 シエ ナの 町 フイ レン ツエ より ヴエ ネチ ヤへ ボロ ナと パド ヴア ヴエ ネチ ヤ ヴエ ネチ ヤ出 発 ミラ ノよ り瑞 西
― 81 ― 画
家 た ち の 描 写
今 回 は マ ルセ ー ユ から ロ ー マに 直 行 し た点 と
︑シ チ リア 島 を 訪れ た 点 に やや 特 色 が見 ら れ る︒ 一九 二
〇 年 四 月 三 日︑ マ ルセ ー ユ を 立ち
︑真 夜 中 には イ タ リア に 入 っ てい る
︒途 中 下車 の 機 会 もあ っ た の で あ る が
︑乗 換 駅 の
﹁ゼ ノ ア﹂ は﹁ 生憎 大雨 でカ ムポ サン トの 見物 も止 め︑
﹂﹁ ピ サ﹂ は﹁ 深夜 通過 した ので
︑斜 塔に も昇 らず
﹂一 直線 にロ ーマ に向 かっ たと のこ とで ある
︒四 月五 日の 早朝 に︑
﹁ テル ミ停 車場
﹂に 着い た︒
﹁ゼ ノア
﹂か らロ ーマ まで の列 車の 車窓 風景 につ いて は︑
﹁こ の間 殆ど 地中 海の 海岸 に添 うて
︑其 眺望 は天 下の 絶勝 と云 ふ可 く残 念な がら 日本 には これ だけ 美し い 色と 建 築 物 と︑ 樹木 と を 見る こ と は出 来 無 い もの と 思 ひま す
︒﹂ と︑ その 色彩 の印 象に つい て書 き留 めて いる
︒ こ の際 のロ ーマ につ いて の第 一印 象も また
︑以 下の とお り︑ 写真 に関 する もの であ った
︒ 羅
馬に 着い て第 一に 感じ たの は︑ この 色彩 でし た︒ 水彩 画の 絵具 で云 へば
︑ネ ープ ルス ヱロ ーで 何ん でも 支配 され て居 るや うに 見え まし た︒ 然し 写真 の方 には
︑こ の色 彩が 交渉 無い もの とす れば
︑羅 馬の 色彩 に関 して は︑ この 数行 で尽 くさ れて 居ま す︒ そ れで 写真 を透 して の羅 馬は 奈何 かと 云ふ と︑ 写す 可き 図題 が余 り豊 富で
︑却 て迷 ひま す︒ 結局 私は 何の 獲物 も無 く終 りま した
︒と 云ふ のは 彼の 大建 物の サン ピヱ ート ロ寺 院に して も︑ アン ゼロ ー城 にし ても
︑コ ロセ ーム にし ても フオ ーラ ム︑ パン テオ ン又 ボル ゲゼ ーの 公園 にし ても
︑余 り完 全に 写真 印画 や絵 葉書 に写 され て居 るの で︑ 自分 が今 更態 々撮 影す る気 には なれ ませ んで した
︒
画 家 た ち の 描 写
― 82 ―
こ こに は︑ 近代 にお ける 風景 と写 真と の極 めて 典型 的な 逆転 現象 が写 し取 られ てい る︒ すな わち
︑我 々が 往々 にし て︑ 観光 写真 と同 じ風 景を 街に 求め ると いう 皮肉 な現 象で ある
︒ロ ーマ が殊 更に その
﹁風 景﹂ に富 んで いた ため に︑ 写真 機を 携え た三 宅に とっ て︑ その 現象 が殊 更に 意 識 さ れた よ う であ る
︒そ こ で彼 が 撮 ろ うと し た のは
︑﹁ な る 可く 写真 画や 絵葉 書に 無い 場所
﹂で あっ たが
︑な かな か困 難で あっ た︒ 実際 に彼 が写 した 写真 は︑ 別刷 の写 真と して 掲げ られ た次 のよ うな もの であ った
︒︵ 個 々の キャ プ シ ョン で は なく
︑撮 影 場 所が 書 か れ てい る
﹁別 刷 口絵 目 次﹂ に 拠っ た︒ 一 ︶
〇 粉 屋の 老爺
︵羅 馬郊 外チ ブオ リ︶ 一一
ナ ポリ の裏 町 一二
カ タニ ヤ山 羊の 乳売
︵伊 太利 シシ リイ
︶ 一三
乳 売の お神 さん
︵カ タニ ヤ町
︶
ママ
一四
シ ラキ ユリ 町の 朝︵ 伊太 利シ シリ イ︶ 一五
カ タニ ヤ町 のレ モン 売り
︵伊 太利 シシ リイ
︶ 一六
カ タニ ヤの ある 町︵ 伊太 利シ シリ イ︶ 一七
羅 馬ピ ロツ タ広 場の 噴水 一八
ア ツシ ジの 町︵ 伊太 利︶ 一九
主 を待 つ驢 馬︵ アツ シジ 町︶
― 83 ― 画
家 た ち の 描 写
二〇
ア ツシ ジの 城外
︵伊 太利
︶ 二一
ア ツシ ジの 水汲 娘︵ 伊太 利︶ 二二
フ イレ ンツ エ︑ アル ノ川 二三
ア ルノ 川の 砂取 り船
︵フ イレ ンツ エ︶ 二四
彫 刻台 の下
︵フ イレ ンツ エ︶ 二五
ポ ンテ
︑ヴ エツ キヨ
︵フ イレ ンツ エ︶ 二六
シ ニオ リヤ 広場
︵フ イレ ンツ エ︶ 二七
ウ フイ チ美 術館 前︵ フイ レン ツエ
︶ 二八
ア ルノ 川︵ フイ レン ツエ
︶ 二九
友 を待 つ︵ フイ レン ツエ
︶ 三〇
ア ルノ 河畔 の写 生︵ フイ レン ツエ
︶ 三一
フ イエ
︑ソ ーレ の町
︵フ イレ ンツ エ郊 外︶ 三二
シ エナ 町の 広場
︵伊 太利
︶ 三三
シ エナ のあ る町 にて
︵伊 太利
︶ 三四
ボ ロナ の百 姓娘
︵伊 太利
︶ 三五
パ ドヴ ァの 掘割
︵伊 太利
︶ 三六
ヴ エネ チヤ
︑停 車場 前の 寺
画 家 た ち の 描 写
― 84 ―
三七
サ ンタ マリ アデ ラサ ルト 寺︵ ヴエ ネチ ヤ︶ 三八
ア カデ ミヤ より
︵ヴ エネ チヤ
︶ 三九
サ ンマ ルコ の塔
︵ヴ エネ チヤ
︶ 四〇
朱 色の 帆︵ ヴエ ネチ ヤ︶ 四一
グ ラン ド・ カナ ル︵ ヴエ ネチ ヤ︶ 四二
ヴ エネ チヤ
︑宿 の女 中 四三
雨 のミ ラノ
︵伊 太利
︶ 四四
ミ ラノ 公園
︵伊 太利
︶ 四五
ド モド ツソ ラ附 近︵ 伊太 利︶ 以
上︑ 何気 ない 人物 写真 など が多 いこ とが 見て 取れ る︒ ここ には
︑三 宅の 世界 的な 観光 地を 前に して 写す 場所 が見 当た らな いと いう 皮肉 な苦 労の あと が窺 える ので ある
︒そ れで もこ の書 の一
〇〇 点の 写真 の中
︑三 六枚 をイ タリ アの 写真 が占 めて いる
︒フ ラン スで さえ 一七 枚で ある
︒い かに 三宅 が︑ イタ リア の写 真を 掲げ たか った のか が︑ ネガ のよ うに 浮か び上 がっ てく る︒ ロ ーマ にお いて は︑ 近郊 をも 訪れ たが
︑こ こに も興 味深 い記 述が 見ら れる
︒ 羅
馬近 郊に はな か
!
"
景 色の 好い 所が あり ます
︒テ ルミ 停車 場の 傍よ り京 浜間 式の 電車 に乗 ると
︑二 時間 足ら
― 85 ― 画
家 た ち の 描 写
ずで
︑ア ルバ ノ湖 や︑ ネミ の湖 畔に 行け ます
︒フ ラス カチ より マル ノを 経て
︑ア ルバ ノ町 を通 つて
︑シ ンザ ノに 行く 途中 の景 色と 来て は︑ 真に 何と も云 へま せん
︒ア ルバ ノ町 では
︑兎 を放 し飼 ひに 飼つ て居 まし たが
︑日 本に は味 はへ ぬ一 種の 風流 でし た︒ フ ラス カチ の美 酒は
︑こ れは 写真 には 写せ ませ むが
︑世 界中 にこ んな うま い酒 は無 から うと
︑元 来下 戸の 私も 酒の 有難 味を つく
"
!
と 悟 りま した︒ こ
の と お り︑ 絵葉 書 な どに は な い日 常 の 風 景の 記 述 とと も に︑ 酒 の味 と い う︑ 写 真に は 写 せな い 視 覚 外 の 要 素 を も︑ この 書は 書き 留め よう とし てい るの であ る︒ 次 に訪 れた ナポ リで も︑ 画家 の視 線を 発揮 して いる
︒以 下の とお りで ある
︒ 羅馬
はネ ープ ルス エロ ーで 包ま れて 居る と申 しま した が︑ ナポ リは ロー ズマ ダー にコ バル トで す︒ 日本 では 美し い青 い色 彩を
︑直 にコ バル ト色 と云 うて 囃し 立て ます が︑ 本統 のコ バル ト色 は日 本で は容 易に 見ら れぬ
︒日 本の 青い 所謂 コバ ルト 色に は︑ 冷た い寂 しい プロ シヤ ンブ ルー
︑乃 至そ れよ りも 未だ 暗い
︑イ ンデ ゴが 含ま れて 居ま す︒ ま
た︑ 一〇 年前 にナ ポリ を訪 れた 際に は︑ 町の 人気 につ いて
︑不 満が 主で あっ たと ころ が︑ 今回 は︑ やや 余裕 を持 って
︑こ の街 の風 俗を 見る こと がで きる よう にな って いる
︒
画 家 た ち の 描 写
― 86 ―
ナ ポリ に来 て一 番私 の気 に入 つた のは
︑彼 の汚 い裏 町の 光景 でし た︒ これ は羅 馬で は一 寸見 られ ぬ︒ 細い 路次 の家 の窓 から 窓に は干 物を 一面 につ るし て居 る︒ 其下 を物 売の 馬車 や往 来の 人人 が雑 沓す る︒ 何処 を見 ても 美し い強 烈の 色彩 が現 はれ て居 るの で︑ 其儘 画と して 観る こと が出 来ま す︒ 油絵 を描 くに して も︑ こん な図 題を 描い てこ そ︑ 油絵 の値 打が 初め て現 れる のだ と思 ひま した
︒然 し好 図題 と頻 に感 服は する もの ゝ︑ 其実 不潔 極ま るこ とも
︑天 下一 品と 思ひ まし た︒ 石敷 の往 来に は上 町か らイ ンキ 色の 下水 が流 れて 居ま す︒ オレ ンヂ の皮 や野 菜の 枯葉 や鶏 の羽 など が︑ 唯さ へ狭 い往 来に 取乱 され て居 ます
︒︵ 略
︶ 然 し画 を描 く吾 々に は︑ この 地獄 の光 景が 何と も云 へぬ 面白 い︒ こ
のよ うな 余裕 こそ は︑ 画家 であ るこ とが 与え た僥 倖で あろ う︒ こ の後
︑﹁ シ シリ イ島
﹂か ら︑ 再 び ナポ リ
︑そ し てロ ー マ︑ ア ッシ ジ
︑フ ィ レ ンツ ェ
︑シ エ ナ︑ ボロ ー ニ ャ︑ パド ヴァ
︑な どを 経て
︑ヴ ェネ チア とミ ラノ を訪 れた 後︑ 一九 二〇 年七 月二 日︑ ミラ ノか らス イス に抜 けた
︒ と ころ で︑ ここ に︑ 三宅 克己
﹃世 界 め ぐ り﹄
︵誠 文 堂︑ 一 九二 八 年︶ と いう 不 思 議 な書 が あ る︒ これ は
︑著 者 とし て三 宅克 己の 名が 表紙 にも 奥付 にも 内扉 にも 記 さ れ てい る が︑ 別 人の 手 に なる も の で ある
︒﹁ は し がき
﹂に は 次 のよ うに 書か れて いる
︒ わ
たく し自 身︑ 外国 を旅 行し て︑ 最も 切に 感じ たこ とは
︑折 角わ れ
!
"
が 宝の 山に 分け 入り なが ら︑ 不知 案内 のた めに
︑途 惑ひ ばか りし て︑ つひ に見 るべ きも の︑ 味ふ べき もの を通 り過 して から 後に
︑こ れを 知つ て悔 いる
― 87 ― 画
家 た ち の 描 写
こと 屢々 であ りま した
︒こ れは 要す るに
︑他 の諸 外国 では ベデ カー はじ め各 種の 重宝 な案 内書 があ るの に︑ 日本 には さう した もの が少 いの で︑ われ
! "
の世 界的 知識 の乏 しい ため であ りま す︒ かく の如 きは 一つ の国 辱で ある のみ なら ず︑ お互 に非 常な 不便 不利 であ ると
︑切 実に 感じ まし た︒ そ こで わた くし は︑ 今か ら七 年前 のこ と
︑以 来 直 ちに こ の 種の 便 利 なも の の 述 作を 志 し まし た
︒︵ 略︶ こ の二 十年 来︑ 数次 とな く外 遊し て︑ 足跡
︑各 大陸 に遍 ねか らざ るな き︑ 洋画 大家 三宅 克己 先生 に校 閲を 仰ぎ
︑且 つ足 らざ るを 補つ て︑ わた くし の浅 才寡 聞な 叙述 に無 上の 完璧 と光 彩と を添 へて いた ゞき まし た︒ それ で︑ 著者 とし て︑ 先生 の名 をお 願ひ しま した が︑ 内容 の責 につ いて は︑ 勿論
︑わ たく しが 負ふ 次第 であ りま す︒ し
かし なが らこ の﹁ はし がき
﹂に 書名 はな く︑
﹁ 編者
﹂と ある のみ であ る︒ さ て︑ この 書に おけ るイ タリ ア紹 介 の章 は
︑﹁ イ タ リア と び
!
"
記
﹂と の 題 をも ち
︑以 下 の よう な 構 成に な っ てい る︒
︵ 上︶ ロー マ見 物 セン トペ テロ 寺 ヴア ンテ イカ ン宮 古代 の遺 跡 ナポ リ見 物
画 家 た ち の 描 写
― 88 ―
ポン ペイ イ廃 墟
︵ 下︶ 北イ タリ ー フロ ーレ ンス ピザ の斜 塔 ミラ ノ ヴエ ネチ ヤ トリ ノ こ
の書 は確 かに
︑﹁ は しが き﹂ にあ った とお り︑ 日本 版 ベ デカ ー を 目指 す 旅 行案 内 記 の 性格 を 持 って い る︒ こ の案 内記 の性 格に つい ては
︑別 の章 を設 けて 詳述 した い︒ さ らに
︑三 宅に は︑ 前掲 の﹃ 写真 器さ げて 欧米 へ﹄ の書 があ る︒ これ は︑ 一九 二三 年一 二月 一二 月に 東洋 汽船 のサ イベ リヤ 号で 横浜 を出 版し
︑ハ ワイ から アメ リカ 合衆 国本 土に 向か った もの で︑ 翌一 九二 四年 五月 には ニュ ーヨ ーク を 出帆 し て フ ラン ス に 渡っ た
︒一 九 二五 年 春 に はイ タ リ アを 再 訪 し た︒ この こ と を書 き 留 めた の が
︑以 下 の 章 で あ る︒ 三度
目の 伊太 利旅 行︵ 上︶ 三度 目の 伊太 利旅 行︵ 下︶
― 89 ― 画
家 た ち の 描 写
日本 リヴ ヰヱ ラと も云 ふべ き相 州真 鶴地 方 同
書で 三宅 は︑
﹁ 三度 目の 今度 の旅 行に して も︑ そこ に一 々相 違し た印 象を 得た
﹂﹁ 何度 来て も︑ 写し たい 図題 は容 易に 尽き さう にも 見え ない
︒﹂ と 書い てい る︒
﹁唯 多少 の相 違は
︑外 国人 の旅 行者 と同 様の 宿屋 廻り をせ ずに
︑出 来る だけ 伊太 利人 並の 旅行 を試 みた 事で ある
︒画 家と して の旅 とし ては
︑こ の位 に呑 気で 愉快 な事 はな い︒ 特に 今度 は珍 ら しい 日 本 の 女性 と 云 ふと 豪 さ うだ が
︑即 ち 荊 妻な る 日 本の 女 を 引 連れ て 居 るの で
︑如 何 かと 思 つ て 居た こ の 懸 念 も︑ 何等 の問 題は 無く
︑寧 ろ到 る所 厚遇 を 受け た 事 は︑ 心 地よ い 限 りで あ つ た︒
﹂と も 書 い てい る
︒三 度 の訪 問 は︑ 自ず と︑ 三宅 を︑ イタ リア 通と した よう であ る︒
画 家 た ち の 描 写
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