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Robert ParsonsのA Conference about the Next Succession to the Crown of England : 1590年代 のイングランドにおいて弾圧の対象となった書物に みる政治と宗教

著者 勝山 貴之

雑誌名 同志社大学英語英文学研究

号 81‑82

ページ 25‑49

発行年 2008‑03

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011362

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Robert Parsons の

A Conference about the Next Succession to the Crown of England

―1590 年代のイングランドにおいて弾圧の対象となった書物にみる政治と宗教

勝 山 貴 之

I.序論

 英国史を紐解く時,16世紀末のカトリック教徒と言えば,まずその信仰を 貫いて殉教したエドマンド ・キャンピオン(Edmund Campion)の名が思い 浮かべられるであろう。かたや同じくカトリック教徒であったロバート ・ パーソンズ(Robert Parsons)の名は,政治という俗世に染まった活動家とし て後世にその名をとどめている。キャンピオンの殉教という英雄的イメージ の陰で,パーソンズの存在はともすればイングランド王位継承をめぐりスペ イン王室のプロパガンダを展開した政治宗教家として軽視されがちであった。

現代においてパーソンズの名は,彼がR.ドールマン(R.Doleman)の偽名を 使って出版した『次期英国王位継承をめぐる会議』(A Conference about the Next Succession to the Crown of England, 1595)が,シェイクスピアの『リ チャード二世』との時事的関連性において言及されることから,われわれの 記憶にとどめられている程度であろう。1

 ここでは,1580年代および1590年代におけるパーソンズの政治・宗教活 動を跡付けながら,彼の書『次期英国王位継承をめぐる会議』を政治思想と カトリック信仰との関連において再考してみたい。同時に,この書がエセッ クス伯爵(Robert Devereux, Earl of Essex)に献呈されたことによって,伯爵 に与えた影響について考察するとともに,1590年代末,スコットランド王

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ジェームズ六世(JamesVI)のイングランド即位が現実的なものになるにつれ て,この書がどのような運命を辿ったかについても解明していきたい。

II. パーソンズの『次期英国王位継承をめぐる会議』

 1580年4月,パーソンズとキャンピオンはグレゴリウス十三世の祝福を受 けてローマを出発,イングランドをプロテスタントから改宗させ,カトリッ ク勢力に引き戻すという大事業に取り掛かった。同年6月12日,パーソン ズは兵士に身をやつしイングランドに渡り,ロンドンから5マイルほど離れ たエセックスにカトリックの書物を印刷するための印刷所を設けている。

キャンピオンも6月の末には英仏海峡を越え,パーソンズに合流した。当初 から法王の動きに敏感であったイングランド政府は,1581年初頭,イエズス 会士の動きに警戒を強め,同年3月,彼らの活動を取り締まる法案が議会に 提出されている。数ヶ月後,キャンピオンが逮捕され厳しい尋問を受けた後 に,12月1日公開処刑された。パーソンズは迫害の手を逃れ大陸へと落ち延 び,その後,再びイングランドに戻ることはなかった。

 1580年代の一連の活動におけるパーソンズの目論みはジェームズ六世をカ トリックの救世主として,イングランドの君主に迎えることであった。

[F]rom our [i.e., Parsons and Campion’s] first entrance into England in the year 1580, one special care of mine was by request and order of this our new king’s [i.e., James VI] good mother to seek his conversion to [the] Catholic religion, and to that end also his greatest advancement that could be wished or hoped for, in which desire and endeavor concurred all our friends both in England, and out of England. (Parsons, “A Political Retrospect” in Pollen 213.)

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ジェームズが母親メアリの影響下にあるうちに,そしてプロテスタント勢力 の手に落ちる前に,彼をカトリック勢力に引き入れるため,あらゆる手段が 取られなくてはならなかった。カトリックとプロテスタントの間で揺れ動く ジェームズの立場は,どちらの勢力からしても決して楽観視できるものでは なかった。

The right of succession to the English throne belongs to the Queen of Scots and her son since the line now reigning is at the end. Of the son himself some hope has been conceived, especially after the murder of the Earl of Morton.

It is important to cultivate him sufficiently while he still shows a considerable spirit of obedience to his mother, and before he becomes confirmed in Protestantism, and while he remains offended by Protestants, as he has been recently. We thought that we should not neglect such opportunities.2

パーソンズはジェームズに,自分たちの勢力に加担すれば,カトリック友好 国の支援を背景にイングランドの王冠が手に入ることを示唆している。実際 に彼は,フェリペ二世から24000クラウン,グレゴリウス十三世からは4000 クラウンという資金をジェームズのために調達しているのである。そして ジェームズ自身も,カトリック勢力になびく可能性を匂わせながら,1584年 2月には法王に更なる資金援助を求める嘆願書をしたためたりもしている。

 しかし,この時期はジェームズにとっても決断の難しい時であった。カト リックの勢力を頼みに強硬手段に訴えてイングランドの王座につくべきか,

あるいはエリザベスとの和解の道を探るべきかは,行く末の彼の運命を左右 する大問題であった。悩みぬいた挙句,最終的にジェームズはエリザベスと 組みし,プロテスタントの側につくという選択肢を選ぶこととなる。既に パーソンズは1584年10月の手紙で,ジェームズのカトリック側への信頼が 揺らぎ始めていることを記している。ジェームズのカトリックへの接近は,

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むしろ経済的援助を引き出すことが最大の目的であったことが明白になりつ つあった。翌年の1585年7月には,ローマにいるスペイン大使オリベール 伯(the count de Olivares)が,むしろジェームズではなくスコットランド女 王をイングランドの王座につけたほうが賢明であろうとの意見を表明し,

1587年3月にはパーソンズ自身が,フェリペ二世がイングランド君主となる 権利を主張されてはどうか,と進言しているのである。しかしフェリペは事 態を楽観視しており,ジェームズがカトリックへ改宗すれば,神の助けのみ ならず,スペイン王からも望みのままの援助を引き出すことができるだろう と公言していた (Carrafiello 27, Hicks 292-94)。(実際,ジェームズの改宗の可 能性は,1580年代末まで,いやエリザベスの崩御する1603年に至るまで,

度々議論されたことは事実である。)

 1580年代半ばになり,ジェームズ六世がカトリック勢力を支持する見込み が消え去りつつあった時点で,パーソンズは次なる可能性として他のカト リック君主候補者を探し始めたのであった。1587年3月,パーソンズはフェ リペ二世の王女(Infanta)がイングランド王座につく可能性について,すな わち彼女の血統の上での可能性について考察を始めている。この政治活動の 一端ともいえる彼の主張が活字の上での論考という形をとって結実したのが,

『次期英国王位継承をめぐる会議』(A Conference about the Next Succession to the Crown of England)の出版である。

 「会議」(A Conference)という標題が示すように,この書は1593年にアム ステルダムに集まった様々な国籍,職業の人物が議論を繰り広げるという形 式を取ることによって,執筆者の責任問題を曖昧にしていることがうかがわ れる。

There chanced not long ago ( I mean in the monthes of April and May of this last year 93.) to meat in Amsterdam in Holland certain Gentlemen of divers nations, qualities and affections, as well in religion as otherwise: (yet the

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most part English and Irish) and they had been in divers countries, studied different arts, and followed unlike professions: some of soldiers, some of lawyers both temporal and civil, others of mere travelors to learn experience and policy: (“The Preface” B1)

議論全体は2部構成になっており,まず第1部で出席者たちが16世紀にお ける君主論を披露し,続く第2部で,現実的な視点にたってイングランドの 君主候補を列挙しながら,それぞれの妥当性を吟味するという展開である。

 まず法律家が自論を展開し,血統による王位継承を否定する。彼によれば,

国家の政治形態は,自然や神の法(natural law)によるものではく,それぞ れの国で人の定めた法律(positive law)によって定められたものである (Part

I. Chap.1. p.3)。 各国の政治形態には,民主制(Democratia),貴族制

(Aristocratia),君主制(Monarchia)の3つの形態が見られるが,どの形態を 選ぶかは国によって異なる。これらは,神によって定められた政治形態では なくそれぞれの国が選んだ政治形態である以上,合理的な理由に基づいて変 更することは可能であり,権力者の権限も法の拘束を受けるという (I. 1. 12)。

君主は,法に従うことを義務付けられていることが明言される。

. . . as first, that Kings and Prince are bound to learne law and discipline, and secondly to obserue the same with great humility and feare of Gods wrath, and thirdly that if they do not, they shal perish fró the way of righteousnes.

(I. 2. 23)

 イングランドの場合,これら3つの政治形態を組み込んだ形を取っている と考えられる。すなわち君主を戴いているという点では君主制であるが,相 談役の立場が設けられているという点では貴族制であり,民衆の声を反映を する議会が確保されているという点では,民主制であるという(25)。そして,

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たとえ王位継承者が血筋からいってもっとも相応しい者であろうとも,国民 の反対があれば王位継承を認めないということがあるように,法の名のもと に王位についた者が法を遵守しない場合,当然,国民は君主の退位を求める ことができるとの主張が展開される。続いて各国における君主の退位の例が 挙げられ,イングランドでは,ジョン王,エドワード王,リチャード二世,

ヘンリー六世,リチャード三世の例が紹介される。法によって王位についた 君主である以上,悪政を行えば国民によって法的に退位させられることが過 去の例により示されるのである(Chap. 3)。

 更に,たとえ暴君であろうとも,自ら押し戴いた王である以上,その圧政 に国民は耐えていかなくてはならないとの意見があるが,君主といえども,

法と秩序の僕であることを忘れてはならないことが繰り返し強調されている。

. . . for that al law both natural, national, and positiue, doth teach vs , that Princes are subiect to law & order, and that the common wealth which gaue them ther authority for the commõ good of al, may also restrayne or take the same away agayne, if they abuse it to the common euil. (I. 4. 72)

国民を前に誓った契約を破り,国民を奴隷とするような君主は,神の法と人 の法によって裁かれなくてはならない。君主の役目は国民を幸福にすること であり,君主は良心,正義,法などによって国を支配しなくてはならないは ずであるという。

 続く議論のなかで各国の戴冠式や国民による即位承認の儀式が紹介される。

儀式は国民の承認を得るという点で重要な意味を持つからである。フランス の影響を受けていると思われるイングランドの戴冠式では,儀式の最後にカ ンタベリーの大司教によって君主の国民に対する誓約が読み上げられ,ちょ うど男女の結婚の儀式において新郎新婦の相互に義務が約されるように,君 主と国民の契りの証となる指輪が王位につく者の指にはめられることが言及

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される(I. v. 117)。もちろん様々な政治状況においては,血統による王位継 承が望ましいといえるが,血筋だけを重視するなら不適格者や悪政を行う君 主を認めなければならないことにもなりかねない。血統をある程度重んじな がらも民意を反映し,選ばれた王という立場を取ることが望ましいとされる のである。

 ここでパーソンズの展開する議論は,イングランドにおける共和主義思想 の流れの中で理解されるべきものである。既に1530年代にトマス・スター キー(Thomas Starkey)が君主の権限を制限する法の確立をヘンリー八世に 求めており,政権の安定が難しかったエドワード六世やメアリ・テューダー の時代にも,多くの共和主義思想を示す議論が展開され出版されてきた。な かでもサー・トマス・スミス(Sir Thomas Smith, 1513-77)の執筆した『共 和主義の論説』 (A Discourse of the Commonweal, 1581)と『イングランド共 和国―イングランド共和主義の論説』(De Republica Anglorum: A Discourse on the Commonwealth of England, 1583)は,原稿の形で回覧されて話題とな り,ようやく彼の死後,印刷・出版されて知識人の注目を集めた。スミスは 既にその著書のなかで,アリストテレスに倣って政治形態を,君主制,寡頭 政治制,民主制に分類し,これらの混合形態の政治体制が望ましいとの主張 を展開している。そしてその議論を踏まえたうえでイングランド議会の重要 性が説かれているのである。1590年代に入りパーソンズの書物と時期を前後 して,リチャード・ビーコン(Richard Beacon)の『ソロンとその愚かな企 て−征服され,没落,腐敗した共和制の復興をめぐる政治論説』(Solon his Foliie, or a Politique Discourse touching the Reformarion of common-weales conquered, declined or corrupted, 1594)が出版され,君主の血統と有能な政府 との緊張関係を取り上げ,知識人たちに盛んに読まれた。ビーコンの書物は,

ギリシャとローマの政治に照らしてイングランドのアイルランド政策を論じ,

マキャベリ流政治的策略の影響を色濃く反映したものであった。従ってパー ソンズの書物の登場も,イングランドにおいて醸成されつつあった共和主義

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思想の潮流のなかに位置づけられるべきものなのである。

 しかしパーソンズの書物では,このあたりから議論が共和主義思想から大 きく政治における宗教の重要さへと振れ,君主の信仰問題が取り上げられる こととなるのを見落としてはならない。まずフランスの戴冠式では,王に選 ばれた者は三度,国王の位階を与えられることが紹介される。

. . . that the king of france in his coronation is new appareled three tymes in one day, once as a prieste, & then as a iudge, and last as a king armed. Thereby to signifie three thynges committed to his charge, first religion, then iustice, then man-hood and chiualry, for the defence of the realme.(I. 9. 202)     

戴冠式で儀式化されている王の三つの衣装,すなわち信仰,正義,騎士道を 象徴する装束は,君主の役割をよく表している。そしてイングランドの場合,

この中で信仰が最も重要であろうと議論が続けられ,国民にとって最も重大 な問題は「魂の永遠」の問題であり国民の崇高な目的は神への奉仕であると いう,宗教家らしいパーソンズの見解が表明されるのである。

. . . yet is it euident heerby (and this is sufficient for our purpose) that by God

& nature, the highest and chiefest end of euery common wealth, is Cultus Dei, the seruice of God, and religion, and consequently that the principal care & charge of a prince and magestrate euen by nature it selfe, is to looke thereunto, . . . (I. 9. 207)

近年,多くの不敬の輩が,信仰をないがしろにし,政治的策略(“politique”)

こそ君主の一大関心事と称しているが何たることか,とパーソンズは憤る(I.

9. 209)。異なる信仰を持つ者でさえも,政治的策略から王位継承させようと することの愚劣さは目を覆いたくなるばかりであり,君主に選ばれる者の信

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仰については,確証がなければならないと彼は主張するのである。一般に言 われるような,単なる政治策略家としてのパーソンズ像は誤りであり,彼の 真意があくまでイングランドにおけるカトリック君主の擁立であり,カト リック信仰の復興であることがここから窺える。彼の一連の活動は,イング ランドにおけるカトリック勢力の復活を目指したものであったのである。宗 教家としてのパーソンズの面目躍如たる部分である。

 書物の前半部で展開された政治理念を受けて,続く第2部では具体的な次 期国王候補の吟味が展開されることとなる。ウィリアム征服王から説き起こ し,ランカスター家からヘンリー四世, ヘンリー五世, ヘンリー六世, ヘン リー七世が,ヨーク家からはエドワード四世, リチャード三世 ,ヘンリー八 世 ,エドワード六世と歴代の王が列挙され,なかでもリチャード二世の廃位 とヘンリー四世の王位継承問題が入念に検討される。リチャード二世の退位 がいかに正当であったか,悪政を強いる暴君には武器を取って立ち上がるこ とも必要であるとの見解が堂々と披露され,ここにこの書物がシェイクスピ アの『リチャード二世』の材源と成り得た可能性が窺われるのである。更に,

歴史を見る限り,ヨーク家の者が王位についた時代は国が平穏ではなく,血 なまぐさい事件が続いているのに対し,ランカスター家の者が君主であった 時代は平和と繁栄が続いた,とパーソンズは主張する。

. . . we shal finde, that God hath seemed to prosper and allow much more of those of Lancaster, then of those of Yorke, for that vnder those of Lancaster the realme hath enioyed much more peace, and gayned far greater honor, and enlarged more the dominions of the crowne then vnder those of Yorke, and that it had done also much more if the seditions, rebellions, and troobles raysed and brought in by the princes of the house of Yorke. (II. 4. 97-98)

そもそもエドワード三世の後継者としては,孫のリチャード二世ではなく王

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の三男であったランカスター公,ジョン・オヴ・ゴーント(John of Gaunt)

が王位につくべきであり,そうすることによってヘンリー四世とそれに続く ランカスター家の後継者たちの王位継承権が自明のものとなるはずであると いう。そしてこの点からすれば,ヘンリー七世の王位はランカスターよりも 劣るヨークの血統によって継承されたものである,とパーソンズは指摘する。

パーソンズのこの指摘は,ヘンリー七世からヘンリー八世,そしてエリザベ スへと続くテューダー朝の王位継承権そのものに疑問を投げかけることとな り,まさにエリザベス政権に対する挑発ともとれる発言といえるのである。

 引き続き議論は,イングランド国外における王位継承候補者へと話題を広 げ,スコットランドのジェームズの王位継承可能性が吟味されることとなる。

ジェームズの王位継承について(1)外国生まれであること(2)ヘンリー 八世の遺言では,サフォーク家の王位継承権がスチュアート家に優先される べきであるとされること(3)母メアリが反逆罪で処刑されていること,な どの点が問題として指摘される。そして,イングランドとスコットランドの 合併は,宮廷の内外に多くのスコットランド人が流れ込むことが予想される ことや,宗教家の間でも混乱が起こりうるであろうことが案ぜられ,ジェー ムズの王位継承に対して否定的見解が披露されるのである(Part II. Chap. 5.)。

 この後,様々な候補の可能性を検証した結果,最終的には国内の候補とし てはハートフォード伯の第二子(Second son of the Earl of Hartford)あるい はダービー伯爵夫人の子孫たち(Issues of the Countess of Darby)がふさわし いことを認めつつ,やはり最も有力なのはスペイン王女であろうとの結論が 導かれる(Chap. 10)。スペイン王女は,(1)イングランドの古い家系の出 身であること(2)ヘンリー二世の長女エリアノア(Lady Elianor)の血をひ くこと(3)ジョン王の退位の後,ヘンリー三世が即位したが,本来ならル イ(Lewis, Prince of France)が即位すべきであり,王女はその血をひいてい ること(4)ヘンリー三世の流れからも王女の王位継承権を確認することが できることなどがその理由として挙げられる。そして王女の信仰が,イング

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ランドの宗教すなわちプロテスタントと異なると異論を唱える者もあるだろ うが,カトリックへの信仰の復活を願う者にとってはむしろ歓迎すべき事柄 であると,イングランドにおけるカトリック勢力復活というパーソンズの計 画がその全貌を明らかにするのである(Part II. Chap. 7.)。

III. 『次期英国王位継承をめぐる会議』の危険性

 この書が,パーソンズではなくR.ドールマンという作者の筆になるもの として出版されているように,王位継承のような極めて政治的な題材を扱っ たこの種の書物が,作者や印刷場所を隠蔽して出版されることは当時よくあ ることであった。パーソンズはこの書を,1 5 9 3 年1 2月にヴァラドリド

(Valladolid)の神学校で書き終えている。スペイン語版はフェリペ二世のも とへ届けられ,英語版はアントワープでパーソンズの出版を引き受けていた リチャード・バースティガン(Richard Verstegan)に送られた。書物は1594 年初頭,アントワープの印刷屋アルノー・コニンクス(Arnout Conincx)に より印刷され,当時としては異例の2000部が刷られたという。しかしこの 時点で,イエズス修道会総会長アクワヴィーヴァ(Aquaviva)が,パーソン ズがイングランド王位継承にまつわる政治的書物を準備しているという噂を 聞きつけ,出版を思いとどまるよう介入してきた。イングランド国内のカト リック穏健派の立場を慮り,彼らの反応に配慮してのことであった。パーソ ンズとしては,ことをローマに託すしかなかったが,出版を勧める声もあり,

1595年ようやくローマから出版許可がおりた。さっそく書物は,イングラン ドへ密輸され,またアイルランドを経由して検閲の手をすり抜けながら,イ ングランド社会に広まったのである。3

 パーソンズの書物がイングランドの人々の手に渡った時,イエズス修道会 総会長の予想した通り,国内のカトリックたちはこの書物に対して否定的な 態度を示した。たとえ信仰は違えども,プロテスタント君主への忠誠を誓う

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Robert ParsonsのA Conference about the Next Succession to the Crown of Englandより

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部分

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穏健派の彼らにとって,またジェームズのイングランド王即位を容認する彼 らにとっては,パーソンズの書物へ攻撃を加えることによって,自分たちの 立場を表明し正当化する絶好の機会となり得たことも事実である( C l e g g

439)。実際,ロバート ・セシル(Robert Cecil)に宛てた1599年6月27日

付けの手紙の中で,ヘンリー・ネヴィル(Henry Neville)はスペイン王女の 王位継承権を持ち出してイングランド内のカトリックたちの忠誠心を試すこ とが可能であるとも示唆している(Sawyer 1:52)。国内穏健派カトリックたち にとって,パーソンズの書は,カトリック信仰擁護の書物というよりも,ス ペインとの政治的連携を推し進めようとするイデオロギー性の強い政治的出 版物であるとして糾弾するほうが自分たちの身を守るうえで都合が良かった のである(Holmes 425, Clegg 440)。またパーソンズにはカトリック宗派の中 にも敵が多く,彼の敵対者たちはこの書物の内容が極端に偏向した政治的見 解であること,またイングランドの王位継承という非常に微妙な問題を扱っ ていることを断罪したのであった。そればかりか,国外追放となっていたカ トリック教徒たちの中でも,ジェームズの即位を待望する者たちの間では,

パーソンズの考えるスペイン寄りの王位継承について強い反発を唱える声が あった(Holmes 422)。その一方で,もちろんスペイン側からは著者の卓見を 賞賛する意見が寄せられ,イングランド国内においても継承問題を客観的に 分析していると書物を評価する声があがったことも事実である。イングラン ドにおいては,パーソンズの書物に展開された共和主義思想よりも,書物の 中に展開される具体的な王位継承問題にまつわる生々しい議論に意図的に注 目が集められたといえる。王位継承問題とスペインとの政治的連合問題だけ が取り上げられ,とりわけ脚光を浴びたといえるだろう。

 実際,エリザベスの後継者問題は非常に難しい問題であった。即位して間 もない1562年12月,エリザベスは一時重病に倒れ,当時秘書官であったウィ リアム・セシル(William Cecil)は,万が一の場合に備えて,「君主不在の審 議会」(‘conciliar interregnum’)を組織する権限を議会に与えるための文書を

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作成している。そこにはエリザベスが崩御した場合,審議会はふさわしい王 位継承候補を選抜し,次期君主を決定する権限を有することが明記されてい た。エリザベスが危機を脱したため,この文書が効力を発することはなかっ たが,女王の後継者問題はその在位中,繰り返し議論の俎上に上ったことは 事実である。その都度エリザベスは,王位継承については議会が決定するこ とではない,とこれらの議論をはねつけていた(“monstrous that the feet should

direct the head.” Clegg 441)。やがて女王が高齢となり,問題が深刻化するに

つれて,宮廷では益々王位継承問題を口にすることが憚られ,女王に問題の 再考を嘆願する者とていなかった。(再度,世継ぎ問題について議会からの圧 力をかけようと小冊子を出版した ピーター・ウエントワス[Peter Wentwoth]

は,ロンドン塔に幽閉された。Clegg 441)こうした緊迫した政治状況を背景 に,エリザベスの次期王位継承問題を真正面から論じたパーソンズの書物が 登場したのである。そしてこの書物がエセックス伯爵に捧げられたことから,

事態は一層深刻な色合いを増していった。

 既に1590年代初頭に,エセックス伯爵はカトリック勢力と親交があった とされる。伯爵が親交を結んでいたのは,信仰の違いはあれどもイングラン ドの王権に忠誠を誓っていたカトリック穏健派であった。伯爵は,1593年に 国教忌避者サー・トマス・トレシャム(Sir Thomas Tresham)の釈放に手を 貸したと伝えられているが,そうした矢先に出版され,伯爵に献呈された パーソンズの書物は,その著者がカトリック急進派であることともあいまっ て物議をかもさずにはおれなかった。

 書物の献辞においてパーソンズは,まず自分の友人たちに伯爵が救いの手 を差し伸べたことに対する感謝を述べる。そして伯爵の,高貴なる先祖に言 及することにより,彼の血統の由緒正しさを浮き彫りにしながら,伯爵こそ が王位継承という重大な判断を委ねられるべき人物であると訴えることで,

エセックス自身をまさにイングランドの王位継承問題の議論へと巻き込んで いこうとしているのである。

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But for he second pointe of publique vtilitie, I thought no man more fitt then your honour to dedicate these two bookes vnto, which treate of the succession to the crowne of Ingland, for that no mã is in more high & eminent place or dignitie at this day in our realme, then your selfe, whether we respect your nobilitie, or calling, or fauour with your prince, or high liking of the people,

& consequently no man like to haue a greater part or sway in deciding of this great affaire (when tyme shall come for that determination) then your honour, and those that will assist you & are likest to follow your fame and fortune.

(“The Epistle Dedication”)

この書物の評判がかなりのものであったことは,次のロバート ・ ビール

(Robert Beale)がサー・ロバート・シドニー(Sir Robert Sidney)に送った 手紙からも明らかである。

I hear of late a vile book has been printed in English in Antwerp touching the succession of the Crown, and deriving a strange pretence from John of Gaunt upon the King of Spain. If you could procure me one of the books, I should be beholden. I hear it is dedicated to the Earl of Essex, of intent surely to bring him in jealousy and disgrace. (Kingsford, 2: 165)

まさに書物はエセックスを王位継承問題において中心的役割を果たす人物へ と仕立てあげるものであった。エセックスは自分の立場を考慮し,窮余の策 として自らこれが危険な書物であることを女王に訴え出ている。1595年11 月3日,パーソンズの書に目を通したエリザベスはエセックスに詰め寄り,

伯爵は窮地に陥ったのであった。

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Vpon Monday last, 1500[Queen Eliz.] shewed 1000[Earl of Essex] a printed Book of t–t, Title to a–a: In yt their is, as I here, daungerous Praises of 1000 of his Valour and Worthiness, which doth hym harme here. At his comming from Court he was obserued to looke wan and pale, being exceedinglie troubled at his great Piece of Villanie donne vnto hym; he is Sick, and continewes very ill. 1500 visited hym Yesterday in Thafernoone. He is mightelie crossed in all Things . . . . (Spedding 1: 374)

 パーソンズにとって,この書物を伯爵に献呈することの意図はどこにあっ たのかを憶測することは興味深い。カトリック勢力とも親交を結ぶ伯爵の姿 勢に,単なる政治的策略ではなく,真の信仰を訴えることであったのか。そ してカトリックとの親交を深めつつあるエセックスを一層自分たちの勢力の 内側に誘い込むことであったのであろうか。それとも反スペインを標榜する 伯爵に,国際情勢におけるイングランドの立場を今一度,再考させることが 狙いであったのか。はたまたイングランドの分裂を企て,プロテスタント女 王エリザベスと伯爵の距離を遠ざけることが,一つの目的であったのかもし れない。そして女王が決定するのではなく,エセックスが王位継承の決定権 を握ると訴えることをとおして,議会を動かすよう伯爵に密かにささやきか けたものだったという大胆な憶測も一概に否定できるものではないであろう。

そうした意味において,パーソンズの書物が王位継承問題における議会の重 要性を前面に押し出している点は注目に値する。

 他方,パーソンズの書物は,スコットランドにおいてイングランドとは 違った反応を引き起こしたように思われる。いくつかの証言が示しているよ うに,パーソンズの書物は1595年に出版されるや否や,ジェームズ六世の もとにも届けられ,スコットランド王はこの書の内容に激怒したという (Holms 426)。もちろんこの書が,ジェームズのイングランド王位継承権を踏 みにじり,スペイン王女を次期君主に推薦するものである以上,その部分が

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ジェームズの逆鱗に触れたことは想像に難くない。しかしジェームズが最も 危惧した点は,それよりもスコットランドにおける共和主義思想の隆盛に あったと思われるのである。

 16世紀におけるスコットランドは,早くから共和主義思想の萌芽が見ら れ,ジョン・メイジャー(John Major)の『大ブリテン国の歴史』(A History of Greater Britain, 1521)や,ヘクター ・ボイス(Hector Boece)の『スコッ トランドの歴史』 (Scotorum Historiae, 1574)の中に,暴君が国民の反感を 買って廃位に追い込まれる様子が綴られている。君主の暴政に対する抵抗は,

ジョン ・ノックス(John Knox)などにより正当化されてきたが,なかでも 人文主義者ジョージ・ブキャナン(George Buchanan)の存在は大きい。長ら くフランスの地で教育を受け,1561年にスコットランドに戻った後は,カル ヴィン改宗者としてプロテスタントの布教に尽力をつくしたばかりか,セン ト・アンドリューズ・コリッジの学長となり,1570年からは若きジェーム ズの家庭教師を務めた人物である。ブキャナンの残した多くの著作の中で,

『スコットランド女王メアリの活動調査』(Ane detectioun of the duinges of Marie

Quene of Scottes, 1571),『スコットランド人の間で交わされた君主の法をめ

ぐる対話』(De Iure Regni apud Scotos Dialogus, 1579),『スコットランドの歴 史』(Rerun Scoticarum Historia, 1582)は,共和主義思想を展開しながら,暴 君への叛逆の正当性を訴え,メアリの君主としての不適格さを立証しようと するものであった。ブキャナンの展開する君主論は,王権もまた法の支配を 受けることを明言し,暴君の廃位の正当性を主張している。

. . . For I recall that he is not only a king but a human being as well, erring in many things through ignorance, often transgressing of his own will, often almost against his will, since he is a creature readily changing with every breath of his popularity or hatred. This natural vice is usually only intensified in a magistrate, so much so that here especially I find that famous aphorism

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of comedy to be true, that ‘everyone becomes worse if he is allowed to do as he pleases’. That is why men of the greatest wisdom have proposed that the law should be yoked to the king to show him the way when he does not know it or to lead him back to it when he wanders from it. From these remarks, I think, you can see, ‘as in a relief’, what I believe to be the function of a true king. (Buchanan 33)

現実に君主の退位を求めるという事件が発生していたスコットランドは,ま さにブキャナンに代表されるような共和主義思想が大きな盛り上がりを見せ ていたのである。

 自らの母が断罪され,廃位に追い込まれるという経験を持つジェームズに とって,プロテスタント勢力のブキャナンや,カトリック勢力のパーソンズ から寄せられる共和主義思想および君主への叛逆をも容認する政治思想は,

自分自身の将来をも脅かす危険思想に他ならなかったことは言うまでもない。

そして自分を取り巻く政治状況への対抗手段としてジェームズが自ら筆を取 り執筆したものが,彼の『独立君主国の真の法律』(The True Law of Free Monarchie, 1598)であり,『バジリコン・ドロン』(Basilikon Doron, 1599)で あった。ジェームズは,これらの書をとおして王権神授を唱え,君主の聖性 を讃えることによって,共和主義思想に真っ向から反論を試みたのである。

まさにジェームズの王権神授説は,スコットランドとイングランドで声高に 唱えられつつあった共和主義思想への彼なりの抵抗であったといえるだろう。

IV.結び

 王位継承問題は,1599年の段階でもまだまだ予断を許さない状況であっ た。エセックス伯爵がカトリック穏健派と親交を保っていたのと同様,ロ バート・セシルも国内外のカトリック勢力と綿密に連絡を取り合っていたと

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思われる。そのひとつの証拠として,セシル自身がスペイン王女と交渉をす る可能性も模索していた形跡が知られている。1599年8月から11月にかけ て,セシルはフィリッポ・コルシーニ(Filippo Corsini)という人物と頻繁に 密書を交わしており,その中でスペイン王女の所在を知りたがり,彼女の肖 像画を入手するように命じているからである(Mayer 113)。

 しかし,やがて時の流れとともに,ジェームズのイングランド王即位の可 能性が強まるのに従って,パーソンズ自身の態度にも変化が訪れている。

1600年に,彼はアンガス(Angus)伯爵に宛てて書をしたため,その中で ジェームズがプロテスタント側についたため,自分としては彼への支持をや めた経緯が記されていた(Holmes 427)。パーソンズは,ジェームズとの関係 修復を望んでいたが,彼の書『次期英国王位継承をめぐる会議』の存在は両 者の間にもはや取り返しのつかない大きな軋轢を生み出していた。

 パーソンズの書物は,本来の目的としてはイングランドにおけるカトリッ クの復興を願ったものであったが,同時にイングランドにおける共和主義思 想展開に一翼を担ったことも事実である。しかしエリザベス政権は,そこに 展開された共和主義思想よりもむしろ次期王位継承候補それぞれの可能性が 具体的に論じられていることに不快感を示し,エセックス伯爵に献呈された ことを最も危険視したのであった。他方,スコットランドのジェームズは,

自国において共和主義思想が大きな盛り上がりをみせるなか,パーソンズの 書物の中の共和主義思想そのものに脅威を感じていたことが理解できる。そ してこのジェームズの警戒心が,後に彼がイングランドの国王の座に着くこ とによって,いよいよ議会との対立を深めさせることとなるのである。そう した点で,17世紀におけるスチュアート朝の王権神授説と真っ向から対立す る言説として,議会の重要性を意識したパーソンズの主張は,17世紀の革命 へと繋がる時代のうねりの萌芽とも思えるのである。事実,パーソンズの書 は,オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)の広報官を務めたヘンリー・

ウォーカー(Henry Walker)によって,部分的に盗用され,海賊版として1648

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年に,再び世間の目に晒されることとなった。パーソンズの宗教書の投げか けたイングランドおよびスコットランドの政治体制への影響を軽視すべきで はないであろう。

01 シェイクスピアの『リチャード二世』(1595)に描かれたリチャードの退位の場と,

次期を同じくしてイングランドに密輸され,たちまち発禁処分となったパーソンズ の書物の中での暴君リチャードの退位への言及は,時事的関連性からしばしば指摘 されてきた。Charles R. Forker編のKing Richard II, p.21参照。

02 Robert ParsonsがClaudius Aquavivaに宛てた1581年10月21日の手紙。The Elizabethan Jesuits: Historia Missionis Anglicanae Societatis Jesu (1660) of Henry More, ed. Francis Edwards (London, 1981), 144に収録。

03 果たして検閲は機能したのか。1586年6月23日にエリザベス直属の最高司法機関 である星法院(The Star Chamber)が,書籍の印刷・出版・販売に関わる法律を発 令した。ここでは,印刷・出版・販売に関われるのは書籍商組合員であることや,

印刷所の設置はロンドン市とオックスフォード大学およびケンブリッジ大学に限る こと,ロンドン主教またはキャンタベリー大主教の許可を受けることなどが定めら れていた。2年後にはキャンタベリーの大主教が12人の聖職者を指名して検閲にあ たらせることにした。(実際には,書籍商の幹部による検閲代行も行われていた。 しかしこうした出版物の統制は,外国から密輸されてくる書物の規制に対して,何 ら効力を発しなかった。パーソンズは,その抜け道をついて,自分の書物をイング ランド社会に送り込んだのであった。

参考文献目録

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Synopsis

Robert Parsons’ Conference about the Next Succession to the Crown of England:

Politics and Religion in a Book Suppressed by the Elizabethan Government in the 1590s

Takayuki Katsuyama

When we talk about the Catholic martyrs in the sixteenth century, we think of the saintly demise of Edmund Campion. Leading the Jesuit mission to England in 1580, he was arrested and imprisoned in the Tower. Despite torture he refused to recant his beliefs. Finally Campion was convicted of treason and hanged. He became a martyr for his faith. On the other hand, his companion Robert Parsons’ political activism and pro-Spanish campaign were bitterly attacked both by the Catholic loyalists and Protestants in England.

He was viewed as the archetypal Jesuit who tried to subvert English society.

Behind the heroic image of Campion as Catholic Martyr, the image of Parsons has been debased as that of a political propagandist who was an ardent and monolithic supporter of Spain.

However, it is necessary to reconsider this prevailing view of Parsons. It would be oversimplified to condemn Parson for his political purpose. Rather, religion was the most important consideration for Parsons in judging the quality of a ruler. From this point of view, worth considering is his Conference about the Next Succession to the Crown of England, which was published in Antwerp in 1594 and secretly imported into England. In his book Parsons offered a critical analysis of sixteenth-century theories of kingship and discussed the practicalities of the various claims to the English throne. He wished to find the best Catholic successor to Elizabeth, because he strongly maintained that

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England should become Catholic and be governed by Catholics once again.

Once his book was circulated in England, its offence rested more on its particular arguments about the English succession, especially with relation to the Earl of Essex, than on its ecclesiastical message. The Catholic loyalists tried to distance themselves from the political programs of the Jesuits and prove their loyalty to the English crown. By embracing absolutist theories, they could demonstrate to the Elizabethan government their belief in non- resistance to Protestant rulers. In Scotland, on the other hand, Parson’s work was seen as demonstrating deep sympathy with the tenets of Continental resistance theory, particularly the secular nature of political society and the monarch’s subjugation under law. Parsons’ book attacked two of the things closest to James’ heart – his right to the English throne and the theory of the divine right of kings. As a result, the circulation of Parsons’ book became a catalyst to King James’ writing of The True Law of Free Monarchie (1598) and Basilikon Doron (1599).

It was not easy to separate the “spiritual” activities of the missionaries from the “political” intrigues of the papacy in the sixteenth century. This essay tries to explore Parsons’ religious motivation in his book and to investigate the various reactions among the Catholic loyalists and Protestants that the publication of the book caused in the 1590s.

参照

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