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清末 中国 にお け る中国人 技 術 専 門家 李 鳳 苞 と徐 建 寅 に関す る研 究

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清末 中国 にお け る中国人 技 術 専 門家 李 鳳 苞 と徐 建 寅 に関す る研 究

田 育 誠

目 次

は じめ に

一 、李 鳳 苞 と近 代 西 洋 技 術 の 導 入 1.(上 海)江 南製 造 局 時 代 の李 鳳 苞 2.欧 州 駐在 時 代 の李 鳳 苞

3,帰 国 後 の 李 鳳 苞

二 、徐 建 寅 と近 代 西 洋 技術 産 業 の導 入

1.徐 建 寅 と近 代 西 洋 技術 産 業 につ い て の概 要

2.徐 建 寅 の欧 州 に お け る近 代 西 洋 技術 の視 察 と導入

結 び

は じ め に

清 末 中 国 にお い て 近代 西 洋 技 術 産 業 導入 に 参 与 した の は 外 国 人 だ け で は な く,中 国 人 で あ る李 鳳 苞 と徐 建 寅 が 近 代 西洋 技 術 及 び産 業 導 入 に果 た した役 割 に も注 目す る必 要 が あ る。 彼 らは 一 般 の技 術 導 入 者 で は な く,近 代 中 国 有 数 の 技 術 専 門 家 で あ る。 二 人 は ま た,(上 海)江 南 製 造 局 お よび 欧 州 滞 在 中,

と も に職 務 に励 ん だ 旧知 の 間柄 で も あ る。

李 鳳 苞 はす べ て の 中 国駐 欧 州 大使 の なか で,中 国 へ の 近 代 西 洋 技 術 導 入 に 果 た した 貢 献 度 が最 も大 き い人 物 で あ る とい え よ う。 中 国 へ の 近 代 西 洋 技 術

清末 中国における中国人技術専門家李鳳苞と徐建寅に関する研究157

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導 入 に 関 わ っ た 人 々 の 中で,彼 は 欧州 で の滞 在 期 間 が 一番 長 く,そ う した こ とか ら も最 高 の 国 際 技 術 者 で あ る とい うこ とが で き よ う。 彼 の 勤務 す る ドイ ツ大使 館 は 当 時 西洋 技 術 導 入 の本 部 で あ った と言 って も過 言 で は ない 。

徐 建 寅 は数 十年 間,中 国 に ある複 数 の 大型 国 立製 造 会 社 の 技術 責 任者 で あ っ た。 彼 は清 末 中 国 にお け る 中 国人 技 術者 の代 表 者 とも い うべ き人 物 で あ り, 軍 事 工 業 の専 門 家 で あ る と と もに 西洋 科 学 技 術 著 作 の優 れ た 翻 訳 家 で もあ っ た。 彼 は 国 内 に お い て 造船 ・化 学 ・電 工 ・冶 金 ・機 械 製 造 ・火 薬 ・土 木 建 築 な どの技 術 を導 入 す る とと もに,欧 州 にお いて調 査 した軍艦 製 造 ・軍 事 装備 ・ 化 学 ・建 築 材料 生産 ・軽 工業 ・印刷 ・機 器 製 造 ・冶金 ・金 属 材料 加 工 ・電 工 ・ 採 掘 ・土木 な どの洋 式技 術 を導 入 して い る。 そ して彼 は導 入 だ けで な く技 術 革 新 や 発 明 も多 くお こな っ て い る。 彼 は欧 州 に長 期 間 滞 在 して 欧州 諸 国 の近 代 産 業 の 実情 を最 も詳 細 に視 察 し,そ の成 果 を 中 国 に導 入 した 人 物 で あ る。

本 稿 に お い て は紙 幅 の 関 係 か ら,「 一,李 鳳 苞 と近 代 西 洋 技 術 の 導 入 」 及 び 「二,徐 建 寅 と近 代 西 洋 技 術 産 業 の 導 入 」 につ い て 考 察 す る こ と と し,次 稿 にお い て,「 三,徐 建 寅 と(上 海)江 南 製 造 局 」,「四,徐 建 寅 と近 代 造 船 産 業 」,「五,徐 建 寅 と山 東機 器 局 」,「六,徐 建 寅 と天 津機 器局 」,「七,徐 建 寅 と 近 代 火 薬 産 業 」,及 び 「八,徐 建 寅 と福 州 船 政 局 」 にっ い て 考 察 した い。

一 ,李 鳳 苞 と 近 代 西 洋 技 術 の 導 入 1.(上 海)江 南 製 造 局 時代 の 李 鳳 苞

李 鳳 苞 は1834年,江 蘇 崇 明(現 在 の上 海 市)に 生 まれ た 。 彼 は 子 供 の 頃 か ら聡 明 で,広 く様 々 な 種 類 の 書 物 を読 ん で い た。 少 年 の 頃,《 詩 経 》 を読 ん で い て天 象 に 関 す る詩 句 が よ く判 らなか っ た彼 は 天 文 に 関 心 を持 ち,《 甘 石 星 経 》,《 丹 元 子 》 な どを捜 し求 め て読 み,成 長 して か ら も根 気 よ く各 種 の 数 学 関係 の 著 作 を読 ん で い る。 さ らに 『泰 西 新 法 』 を研 究 して 天 文暦 法 や 算 数 に精 通 した 。 そ の ほか,地 理,歴 史,兵 法,医 学,薬 学 な どす べ て の分 野 を 渉 猟 して い る。 若 い 頃 に 『崇 明 県 誌 』 の編 纂 に加 わ り県 誌 の 中 の,『 日出昏

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旦 星 表 』,『道 里 表 』 な どは す べ て彼 の 手 に な る も の で,ま さ し く博 学 多 才 の 人 と称 す る に値 しよ う。

1860年 代(同 治 初 年),彼 は清 朝 政 府 か ら江 蘇 地 域 の 地 図 の製 作 を命 ぜ ら れ,準 望 法 に よ り崇 明 図 を製 作 して い る。 崇 明 図 は精 確 な 測 量 に基 づ き製 作

され て い た の で,江 蘇 巡 撫 丁 日昌の め が ね に か な い,彼 は そ の 後 め き め き と 頭 角 を現 す こ と とな る。 丁 日昌 の李 鳳 苞 に対 す る信 頼 は極 めて 厚 く,ま ず 手 始 め に彼 を江 蘇 土 地 局 に 派 遣 し,そ の 後 長 江 の 南 ・北 地域 の 『地 方 利 害,官 吏 賢 否(各 地 方 の 良 い と ころ 悪 い と ころ,官 吏 が 清 廉 で あ るか ど うか)』 を 調 査 させ て い る。 李鳳 苞 はそ う した 多 くの 役 所 に お け る巡 撫 に よ り豊 富 な経 験 を積 む こ とが で きた 。 後 に丁 日昌は 丁 憂(父 母 の 喪 に服 す る こ と)に よ り 職 を辞 す る とき,両 江 総 督 曾 国 藩 に李 鳳 苞 を推 挙 して い る。 曾 国藩 は 李 鳳 苞

に江 蘇 漸 江 沿海 諸 島 の測 量 を命 じて い る。 ま た彼 を(上 海)江 南製 造 局 へ 派 遣 して,世 界地 図 の 製 作 に参 加 させ て い る。 この 地 図 は経 線 と緯 線 に よ っ て 方 位 を確 定 す る も の で,四 大 州 と大 小 の 島 々す べ て に地 名 が 記 され る な ど,

そ の 内 容 は き わ め て 豊 富 で,7年 を か け て 完 成 され た。 数 年 後,イ ギ リス ・ ロ ン ドン に滞 在 す る 中 国公 使 郭 嵩 蕪 は この 『天 下全 図(世 界 地 図)』 の 原 稿 を 見 て,「 偉 大 な 功 績 だ!」 と称 賛 して い る。 残 念 な が ら 『天 下 全 図 』 は,彼 の訳 書 《地 誌 》 と同様 に つ い に 出版 され ず,李 鳳 苞 の 地 理 学 著 作 は 『平 圓 地 球 論 』 のみ が 出版 され て い る。 や が て,李 鳳 苞 は 江 南 製 造 局 翻 訳館 勤 務 を命 ぜ られ,さ らに呉 湘 砲 台 工事 建 設 に も加 わ っ て い る。 仕 事 の過 程 で多 数 の 外 国 人 の接 触 した こ と に よ り,彼 は英 語 と近 代 物 理,化 学 知 識 を 学 び,製 造 技 術 を相 当程 度 習 得 す る こ とが で きた。 こ の 時 期,李 鳳 苞 とア メ リカ 人 の カ ー ル ・T・ ク ライ ヤ ー(CarlTKreyer,中 国名 金 楷 理)は 共 同 して 多 くの 西 洋 軍 事 技 術 に 関す る著 作 を翻 訳 して い る が,そ の 中 に は,『 行 海 要 術 』 三 冊,

『クル ップ(Krupp)砲 説 』 三 冊,『 クル ップ 砲 操 作法 』 二 冊,『 クル ップ砲 表 』 二 冊,『 クル ップ砲 弾 製 造法 』 三 冊,『 攻 守 砲 法 』 一 冊,『 陣 営 図 説 』 一 冊 な ど が あ り,近 代 西洋 化 学 技 術 及 び 戦 術 原 則 を伝 え る こ とで 大 き な 役 割 を果 た し

清末 中国における中国人技術専門家李鳳苞と徐建寅に関する研究159

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て い る。 李 鳳 苞 の 著 作 に は 政 治 学 と国 際 関 係 学 の 分 野 の もの も あ り,大 著

『各 国 交 渉 公 法 』 十 六 冊 もそ の 中 の ひ とつ で あ る。 こ の 時 期,李 鳳 苞 が編 訳 に参 加 した著 作 のな か で極 め て重 視 す べ き もの と して 『四喬 編 年 表 』 が あ る。

近 代 の 中国 人 の 西 洋 に 対す る理 解 は 「単 な る地理 学 か ら地 理 歴 史学 へ 」 とい う道 筋 を経 て深 め られ た とい うこ とが で き よ う。 魏 源 の 『海 国 図 誌 』,『癩 簑 志 略 』 な ど西 洋 を紹 介 す る早 期 の 著 作 にお い て は西洋 各 国 の地 理 分 布 と歴 史 概 況 を記 述 して い るが,李 鳳 苞 の 『四喬 編 年 表 』 は西 洋 の歴 史 を は じめ て年 表 形 式 で 専 門 学 術 的 に紹 介 して い る。 そ れ は紀 元 前2349年(少 昊10年)か ら 1861年(成 豊11年)ま で を年 表 形 式 に よ り,各 時代 の 主 な 国 の 盛 衰 を西 暦 と 中国 年 号 を対 比 させ て 述 べ て い るの で,自 国 の歴 史 を熟 知 して い る士 大 夫 層 (官 僚 層 や 知 識 人 層)は,バ ビ ロ ニ ア,ギ リシ ャ,ロ ー マ,イ ギ リス,フ ラ ン ス,オ ラ ンダ,ス ペ イ ン,ポ ル トガ ル,イ タ リア,ロ シア,ア メ リカ,デ ンマ ー ク,ノ ル ウ ェー な ど,各 国 で 起 こ っ た 出 来 事 に つ い て,中 国 の どの 時 代 に該 当す るか を一 目瞭 然 に知 る こ とが で きた 。 この 著 作 を読 ん で,中 国 が 世 界 文 明 の 中心 で あ る とず っ と考 え て き た 士 大 夫 層 は,中 国以 外 に も ま た別 の 世 界 が あ る とい うこ とを は じめ て 知 る こ と とな っ た。 この 著 作 は 中 国 人 が 世 界 の 文 明 史 を系 統 立 て て 理 解 す るた め の代 表 的 な もの で,文 明 史 学 上 高 い 評 価 を 与 え られ るべ き もの と考 え る。

1875年(光 緒 元 年),丁 日昌 が 北 京 で 朝 見 す る とき李 鳳 苞 は 同行 を許 され てお り,ま た 天 津 で 直隷 総 督 李 鴻 章 に接 見 す る機 会 を え た とき,李 鳳 苞 は 豊 富 な 近 代 歴 史 知 識 を駆 使 して 世 界 情 勢 を 論 じ,「 山海 関 の 外 旅 順 口(港)を 京 師(北 京)の 東 北 方 面 の 軍 事 上 の要 害 とす る た め,早 急 に 防 備 の た め の 方

策 を と るべ き で あ る。」 と提 言 して い る。 これ は旅 順 を海 防 基 地 と して設 置 す べ き とす る最 も早 い 建 議 で あ る。 『崇 明 県 誌 』 に は,「 彼 の 深 く広 い 学 識 と 人 並 み 優 れ た 才 能 は 李 鴻 章 に強 い 印 象 を与 え,そ の後 李 鳳 苞 は命 令 を受 け, 旅 順 口の 軍 事 的 地 勢 な どの 調 査 に赴 い た 。」 と記 述 され て い る。 そ の 後,丁

日昌 は 福 建 巡 撫 兼 船 政 大 臣 を命 ぜ られ,李 鳳 苞 も福 州 船 政 局 総 考 工 を命 ぜ ら

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れ た 。

2.欧 州 駐 在 時代 の 李 鳳 苞

1876年(光 緒 二 年),南 洋 ・北 洋 両 大 臣 は,船 政 局 の 船 政 学 堂 学 生 と造 船 所 の若 い 技 術 者 た ち を英 仏 両 国 に 派 遣 して,軍 艦 の操 船 方 法 と建 造 技 術 を学 ば せ る こ とを決 定 した 。 しか しな が ら,李 鴻 章 と沈 棟 槙 は 留 学 生 の 監督 者 を 誰 にす べ きか を決 め か ね て い た 。 当 時,「 洋 務 の風 」 が 吹 き 始 め て い た 。 清 朝 政 府 は ア メ リカ へ120名 の 児 童 を留 学 させ るべ し との容 閨 の建 議 を受 け入 れ た ば か りで あ り,ま た そ の 前 年 に は,郭 嵩蕪 が 英 国 大 臣(大 使)に 任 命 さ れ,中 国派 遣 駐 在 大 使 の 先駆 け とな った ば か りで あ っ た。 洋 務 従 事 や 西 洋 へ の 大 使 派 遣 は 当 時 の 士 大 夫 層 が 蔑 む こ とで あ り,郭 嵩,,,.は1(民 族 の 裏 切 り者)と さ え看 倣 され た 。 そ の た め,西 洋 の 先 進 的 な知 識 を学 び た い と考 え, しか も生命 や名 声 や 職 務 も顧 み ず に毅 然 と して 外 国 で職 務 に従 事 す る こ との で き る人 物 はそ の 当 時極 めて 少 な か っ た。 熟 慮 のす え丁 日昌 は李 鳳 苞 を 中国 留 学 生 の 監 督 者 と して推 挙 した が,李 鴻 章 と沈 藻 槙 は この 人 選 に 大 い に 賛 同 した。 李 鳳 苞 が 母親 の服 喪 の た め仕 事 に空 白が 生 じた に もか か わ らず,李 鴻 章 と沈 藻 禎 は 変 わ らず 力 を尽 く して 李 鳳 苞 を支 え続 けた 。 彼 らは,「 三 品 脚 侯 選 道 李 鳳 苞 は,学 識 該 博,志 遠 大 に して,西 洋 の 地理,学 術,各 国 の盛 衰 の 歴 史 な どす べ て の 分 野 に通 暁 し,外 交 交 渉 も練 達 で あ りき わ め て優 れ た 人材 で あ る。 よっ て,必 ず や 監督 の任 に堪 え うる も の と思 料 す る も の で あ る。」

と奏 上 して い る1)。

1877年(光 緒 三 年)3.月 末,李 鳳 苞 は も うひ と りの 監 督 者 で あ る フ ラ ンス 人 の プ ロ スペ ・M・ ジ ケ ー ル(ProsperMarieGiquel,中 国 名 日意 格,1835年

〜1886年)と 随 員 の馬 建 忠 ,陳 季 同 を伴 い,福 州 船 政 学 堂 製 造 学 生 の 鄭 清 演, 羅 蝶 禄,李 寿 田,操 船 学 生 の 劉 歩 蜷,林 泰 曾,蒋 超 英,方 伯 謙,嚴 宗 光(復), 林 永 昇,薩 鎮 泳 な ど28人 の留 学 生 を連 れ て 欧 州 行 き の船 に 乗 っ た。 これ らの

学 生 た ち は 後 に,中 国 造 船 ・海 運 界 と 中国海 軍 の 中堅 を構 成 す る こ と とな る 清末 中国における中国人技術専門家李鳳苞と徐建寅に関する研究161

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人 々 で あ る。[図1]、[図2]

こ の とき李 鳳 苞 は,欧 州 滞 在 が8年 も の長 き に わ た る こ とに な る とは 夢 に も考 え て い な か っ た 。 李 鳳 苞 は 欧 州 へ 到 着 す る とす ぐ に,ジ ケ ー ル と とも に 留 学 生 一 人 一 人 の 専 門 分 野 と養 成 目標 に応 じて,イ ギ リスや フ ラ ンス の海 軍 大 学 や 造 船 大 学 に入 学 させ る と とも に,彼 らを 実 習 生 と して 受 け入 れ て くれ る軍 港(軍 艦)や 造 船廠 を手 配 した 。 さ ら に,李 鳳 苞 に は 軍 事 技 術 学 習 の た め ドイ ツ に派 遣 され て い る7人 の 陸 軍武 官 の観 察 の 役 目も負 わ され て い た 。 郭 嵩.,,.は,「特 参 副使 劉 錫鴻 の 召 還 と李 鳳 苞 の駐 ドイ ツ使 臣任 命 を懇 請 す る」

奏 上 の 中 で,李 鳳 苞 につ い て 言 葉 を 尽 く して推 挙 して い る。1878年8月25日 (光 緒 四 年 七 月 二 十 七 日),李 鳳 苞 は ドイ ツ勅 使 に任 命 され た 。 翌 年,李 鴻 章 は さ ら に総 理 衙 門2)に 対 して,李 鳳 苞 を ドイ ツ 公 使 に任 命 す る よ う建 議 し て い る。 李 鴻 章 は 建 議 書 の 中 で,「 丹 崖(李 鳳 苞 の 号)は 心 が穏 や か で,誠 実 勤勉 で あ る。 ドイ ツ に は何 度 も行 って お り,知 人 も多 い し,声 望 も あ る。

最 近 西 洋 の 言 語 や 文 明 を 学 び 始 めた 。 仕 事 の進 め方 は極 め て細 心 で 適 切 で あ り,過 激 で は な い が 付 和 雷 同で もな い。 彼 は人 材 で あ り,公 使 の任 に充 分 堪 え られ る。」 と述 べ て い る。1879年5月12日,上 奏 は裁 可 され た。 さ ら に,1 881年(光 緒 七 年)春,李 鳳 苞 はオ ー ス トリア,イ タ リア,オ ラ ンダ な どの勅 使 も兼 任 す る こ と とな っ た。 この よ うに李 鳳 苞 は洋 務 科 学 技 術 専 門家,翻 訳 者,留 学 生 監 督 か ら職 業 外 交 官 に な っ て い た。 あ る人 は彼 に つ い て,「 彼 は 積 極 的 に 各 国 の要 人 と交 わ り,商 務 貿易 交 渉 ・決 定 をお こな い,戦 艦 ・大 砲 ・

鉄 砲 ・水 雷 艇 の 製 造,使 用 方 法,水 陸 の 攻 守 方 法 を学 び,ヨ ー ロ ッパ 人 の 風 俗 習 慣 を探 り,多 くの 西洋 諸 国 の 書 物 を翻 訳 し,西 洋 の 新 しい 情 報 を収 集 し

た 。 こ う した 彼 の活 動 は,我 々 に と って 西 洋 近 代 文 明 を 映 し出す 鏡 の よ うな 役 割 を果 た して くれ た 。」 と述 べ て お り,李 鳳 苞 が 科 学 技 術 に 関す る知 識 を 駆 使 して 中 国 の科 学 技 術 を進 展 させ るた め に努 力 した こ とを 高 く評 価 して い

る3)。

洋 務 派 の 「強 国 」 運 動 の 中 で,「 海 防 」 は 一 貫 して重 要 な位 置 を 占 め て い

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た 。 李 鳳 苞 は 多 く の 海 軍 技 術 関 係 の 著 作 を 翻 訳 し て い た の で,近 代 海 軍 科 学 技 術 に 関 す る深 い 学 識 を 有 して お り,そ の こ と が 李 鴻 章 の 注 意 を 引 く こ と と な っ た 。 そ れ 以 前 に も洋 務 派 は 「緊 急 に 海 軍 を創 設 す る た め に 外 国 に 発 注 し て 軍 艦 を購 入 す る と い う簡 便 な 建 国 方 針 」 を 提 出 して い た が,西 洋 海 軍 に っ い て の 技 術 知 識 や 情 報 を ほ とん ど持 っ て い な か っ た の で,軍 艦 購 入 に 関 す る 一 切 の 権 限 は 税 関 の 総 税 務 司

,イ ギ リ ス 人 の ロ バ ー ト ・ハ ー ト(sirRobert Hart,中 国 名 赫 徳,1835年 〜1911年)の 手 中 に あ っ た 。 彼 は イ ギ リ ス の す べ

て の 造 船 会 社 の 代 理 人 で あ っ た の で,清 朝 政 府 に 対 して 試 作 の 砲 艇(蚊 子 船) を 推 薦 して,中 国 に150万 両 の 銀 を 浪 費 させ た 。 ま た 北 洋 艦 隊 に 「新 型 磁 快 船 」 や 「加 大 磁 快 船 」 を 売 りつ け た 。 こ う した 状 況 を 変 え る た め,李 鴻 章 は 李 鳳 苞 が 欧 州 に 赴 任 す る 前 に 西 洋 の 軍 艦 を仔 細 に 調 査 す る よ う特 に 指 示 して い る 。1879年(光 緒 五 年),李 鳳 苞 は 軍 艦 や 大 砲 の 研 究 を さ ら に 進 め る た め に,江 南 製 造 局 時 代 の 同 僚 で,西 洋 軍 事 技 術 書 籍 を 共 同 で 翻 訳 した 科 学 技 術 専 門 家 の 徐 建 寅 をベ ル リ ン公 使 館 へ 派 遣 す る よ う奏 請 した 。

1880年,李 鴻 章 は 李 鳳 苞 に 対 し て,2隻 の 鉄 甲 軍 艦 の 購 入 を イ ギ リス と交 渉 す る よ う訓 令 し た 。 こ の 交 渉 は 後 に,イ ギ リス 側 の 豹 変 に よ り頓 挫 す る こ

と と な る。 李 鳳 苞 と徐 建 寅 は 欧 州 各 国 の 造 船 所 と軍 港 な ど を 繰 り返 し調 査 し て 比 較 した 結 果,ド イ ツ の フ ァ ル カ ン(Vualcan。 現 在 は ポ ー ラ ン ドの シ チ ェ チ ン)造 船 会 社 に 発 注 す る こ と と し た 。 李 鳳 苞 の 主 宰 の も と,極 東 最 大 の2 隻 の 軍 艦,す な わ ち 北 洋 艦 隊 の 主 力 艦̀定 遠'と̀鎮 遠'が 東 プ ロ シ ャ の ダ ン テ ィ ン 港 の 船 台 上 に 巨 大 な 姿 を 現 した 。 イ ギ リス の 「型 最 新,鉄 甲 最 厚, 大 砲 最 大 」 の 鉄 甲 軍 艦 「イ ン フ レ キ シ ブ ル(lnflexible)」 と ドイ ツ の 最 新 鋭 軍 艦 「ザ ク セ ン(Sachsen)」 の 長 所 を 併 せ 持 っ た2隻 の 軍 艦 は 先 進 的 な 「鉄 甲 墜 塁 」(タ ー ビ ン と砲 塔 の 周 囲 を14イ ン チ の 鉄 鋼 板 で 被 い,防 護 作 用 を 有 効 に 果 た す 。)式 鉄 甲 軍 艦(CertralCitadelShips)で あ っ た 。 両 艦 は,排 水 量7 335ト ン,6000馬 力,時 速14.5ノ ッ トで,305ミ リ主 砲2門 を 備 え た 「露 台 旋 砲 」 式 砲 座 が 対 角 線 上 に2カ 所 配 置 され,同 一 方 向 へ の4門 一 斉 砲 撃 が 可 能

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で あ り,攻 撃 火 力 を集 中 させ る こ とが で き る。 艦 上 に は さ らに魚 雷 発 射 管3 門,魚 雷 艇2隻,150ミ リ砲2門,75ミ リ砲4門,機 関 砲10数 門 が備 え られ, 火 力 は き わ め て 強 力 で あ っ た。 徐 建 寅 は,「 この2隻 の軍 艦 が 計 画 通 り順 調 に建 造 され 完 成 す れ ば,世 界 最 高級 の鉄 甲軍艦 に な る だ ろ う。」 と評 価 した 。 李 鳳 苞 は,軍 艦 の 調 査,設 計,発 注 な どの 交 渉,そ して 軍 艦 建 造 の監 理 な ど に心 血 を 注 い で 取 り組 ん だ。

1883年(光 緒 九年),ロ バ ー ト ・ハ ー トは 李 鴻 章 に イ ギ リス の ア ー ム ス ト ロ ン グ(Armstrong)造 船 会 社 の 「加 大 磁 快 船 」 図説 を奉 呈 した。 李 鴻 章 は この 図説 の 写 しを李 鳳 苞 に送 る と と もに,彼 に対 して 各 国 の 加 大 磁 快 船 を十 分 に調 査 す る よ うに命 じた 。 李 鳳 苞 は各 国海 軍 部 との 検 討 の結 果,イ ギ リス の加 大 磁 快 船 は時 代 遅 れ で 不 適 と判 断 しr代 わ りに ドイ ツ の 「宥 甲快 船 」(Ar mourDeckCruisers。 あ るい は 「装 甲巡 洋 艦 」 と訳 され る。 後 の̀済 遠'で

あ る。)を 発 注 した 。 李鳳 苞 の こ の決 断 は イ ギ リス側 か らす る と極 め て 不 満 で あ っ た。 彼 らは,ア ー ム ス トロ ン グ造 船 会 社 の ホ ワイ ト技 師 が̀済 遠'の い くっ か の欠 点 を指 摘 した 文 書 を 関係 各 方 面 へ 送 りつ けた。 こ う した行 動 は 西 洋 列 強 の 中 国 大船 舶 市 場 争 奪 と中 国海 軍 に対 す る技 術 支 配 権 の掌 握 とい う 争 い と矛 盾 を反 映 した もの で あ る。 ホ ワイ トの 文 書 の具 体 的 な 内容 に つ い て

い え ば,イ ギ リス と ドイ ツ 両 国 造 船 界 の最 新 鋭 艦 で あ る 「弩 甲快 船 」 にっ い て の 設 計 思 想 の 違 い とい うこ とに 帰 着 す る4)。 ホ ワイ ト技 師 の 考 え 方 は す な わ ちイ ギ リス 造 船 界 の 「宥 甲快 船 」製 造 に つ い て の 見解 で あ り,同 時 に ド イ ツ の 設 計 と施 行 過 程 に存 在 す る欠 陥 を 的 確 に指 摘 す る もの で もあ っ た が,

この こ とをす べ て 李 鳳 苞 の 責任 とす るの は少 し酷 な よ うな気 もす る。 一 方, '済遠'の 建 造 工程 を さ らに 万 全 な もの とす る とい う点 か らい え ば

,こ の 指 摘 は積 極 的 な意 味合 い が あ っ た とい うべ き で あ る。 事 実,李 鳳 苞 の後 任 の駐 独 大 使 の許 景 澄 は李 鳳 苞 か らこの 軍 艦 の建 造 を 引 き継 い だ後,日 記 の 中で 何 度 も,「 李 鳳 苞 は̀済 遠'を 優 れ た 軍 艦 だ と 自慢 して い る が,私 は そ の意 見 に は 同調 で き な い 。」 と記 して い る。 許 景 澄 は ドイ ツの 造 船 会 社 と さ らに 交 渉

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をお こな って そ の 技 術 的欠 陥 を 補 い,̀済 遠'を 当 時 の最 高 の性 能 を有 す る 軍艦 につ く りあ げ て い る。

当時 の状 況 下 で,近 代 の軍 艦 と大 砲 に 関 す る最 先 端 の知 識 を有 す る洋 務 派 の技 術 専 門 家李 鳳 苞 は,自 己 の 豊 富 な 専 門 知 識 と欧州 長 期 滞 在 公使 とい う有 利 な 地 位 を利 用 す る こ とが で き,中 国 の 西 洋 列 強 の束 縛 か ら も 自由 で あ り, 本 国 の 指 示 を うけ て 国 際 市 場 で最 新 の 軍 事 装 備 を 自 由に選 ん で 購 入 す る こ と

が で きた 。 こ う した彼 の 西 洋 産 業 技 術 導 入 へ の 貢 献 は 十 分 に評 価 され るべ き で あ る と考 え る。 こ う した李 鳳 苞 の 一 連 の積 極 的 な 技術 導 入 活 動 は 中国 人 の 西 洋 近 代 軍 事 技 術 に 対す る理 解 が新 た な段 階 に到 達 した こ とを 明 らか に示 す

もの で も あ る。

3.帰 国 後 の李 鳳 苞

1885年(光 緒 十 一 年)夏,李 鳳 苞 は 帰 国 命 令 を受 け,8年 間 に わ た り成 果 を挙 げ て きた洋 務 事 業 活 動 に終止 符 を打 つ こ と とな った 。 香 港 に到 着 す る と, 広州 の海 防 準 備 責任 者 で あ る 彰 玉麟 と両 広 総 督 張 之 洞 か ら 「軍事 に関 す る諮 問 に応 え る と と もに広 東 で 軍 事 関係 の管 理 責 任 者 に就 任 して ほ しい。」 と要 請 され た が,李 鳳 苞 は皇 帝 へ の 帰 朝 報 告 が あ る こ とを理 由 にそ の 申 し出 を辞 退 して い る。 同年10月,李 鴻 章 は李 鳳 苞 を北 洋 水 私 学 堂 の 監 督 とす る よ う上 奏 して裁 可 され た が,彼 はま もな く弾劾 を受 けて 罷 免 され 故郷 の 崇 明 に戻 り, そ の 後 清 朝 政 府 か ら重 用 され る こ とは な か っ た。

故 郷 の 崇 明 に 戻 る と,著 作 と翻 訳 に没 頭 した 。 著 作 と して は,『 自恰 軒 算 書 』 十 二 種,『 聞政 匿 編 』,『使 徳 日記 』 が あ る。 彼 は ま た8年 間 の 欧 州 滞 在 中,ド イ ツ,フ ラ ン ス な ど西 洋 各 国 の 近 代 科 学 技 術 に 直接 触 れ る こ とが で き た の で,多 忙 な 状 況 に もか か わ らず,『 陸戦 新 義 』,『海 戦 新 義 』,『プ ロ シ ャ軍 艦 操 練 』,『鉄 甲軍 艦 程 式 』,『米 国 銃 法 』,『各 国 水 雷 魚 雷 』,『魚 雷 艇 図 説 』 な ど多 数 の 軍 事 技 術 に 関 す る文 献 の 翻 訳 をお こな っ て い る。 彼 は,中 国 と西 洋 の 科 学 技 術 の 比 較 を お こな い,「 西 洋 の 科 学 技 術 者 は 中 国 古 代 の科 学 発 見 と

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技 術 発 明 につ い て は高 い評 価 を 与 え てお り,例 え ば,化 学 の 源 は 中 国 の錬 金 術(錬 丹 術),ガ ス灯 の源 は 四川 の 天 然 ガ ス 井 戸,羅 針 盤 や 火 薬 の 発 明 な ど

も 中国 に始 ま る と して い る。 西 洋 諸 国 の 技 術 革 新 は 日進/7歩 で あ る の に 対 し て,中 国 の技 術 力 の 世 界 へ の伝 播 は 日々 薄 れ て い る。 科 学 技 術 の貧 困状 態 は 改 めな けれ ば な らな い 。 そ して 改 め る こ とが で きれ ば 世 界 の 技 術 大 国へ の 道 を開 く こ とが で き る。 ま さ し く,現 在 の わ が 国 に とっ て この こ とが な に よ り も急 務 で あ る。」 と述 べ て い る。 彼 の 例 証 が 正 確 か ど うか は別 と して,こ れ は,い ず れ に して も李 鳳 苞 の祖 国 で あ る 中 国 が 富 み 栄 えて 強 国 に な り,世 界 有 数 の 先 進 国 に伍 す こ とが で き る よ うにな って 欲 しい との彼 の強 い 願 望 を 表 現 した もの で あ る。

李 鳳 苞 は長 い 年 月 をか けて 手 が け た翻 訳 本 や 著 書 及 び 西 洋 諸 国 の 科 学 技 術 を紹 介 す る こ と と祖 国近 代 化 の実 現 の た め に,合 金 活 字 を購 入 し 自費 出版 す る こ とを考 えて い た が,当 時 彼 は職 を失 い 経 済 的 に 困窮 して い た うえ,健 康 を 害 して い た の で実 現 で きな か っ た。

そ の後 海 軍 の 責 任 者 醇親 王 変 設 はふ た た び 李鳳 苞 を海 軍 の任 務 に 起 用 す る こ と を決 め,李 鴻 章 も三度 任 官 を勧 め る手 紙 を 李 鳳 苞 に 出 した が,李 鳳 苞 は 欧 州 で の長 期 に わた る激 務 に よ り病 を得 て お り,つ い に要請 に応 え られ な か っ た 。1887年8月7日(光 緒 十 三 年 六 月 十 八 日),李 鳳 苞 は わ ず か54歳 で こ の 世 を去 っ た。 かれ の事 跡 は 『清 史 稿 』 に収 め られ,故 郷 の 崇 明 に 『崇 明 県誌 』

と して残 され て お り,ま た 崇 明 に は 塑像 が祭 られ て い る。

二,徐 建 寅 と 近 代 西 洋 技 術 産 業 の 導 入 1.徐 建 寅 と近 代 西 洋技 術 産 業 につ い て の概 説

徐 建 寅 は1845年,江 蘇 無 錫 で,近 代 科 学 の傑 出 した技 術 家 で あ る徐 寿 の 二 男 と して 生 まれ た。 幼 少 の 頃 か ら父 親 や 父 親 の友 人 で あ る華 翼 論,華 衡 芳 親 子 な どに よ る科 学 技 術 に 関 す る学 術 的 な活 動 を 日常 的 に 目の 当た りに して い た の で 自然 と科 学 技 術 に対 す る知 識 が養 成 され た もの と思 わ れ る。1860年,

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16歳 の とき,太 平 天 国 軍 の無 錫 進 軍 に よ り一 家 で上 海 に移 り住 ん だ。1862年 (同 治 元年),18歳 の とき,曾 国 藩 の 要 請 に よ り父 親 と共 に安 慶 軍械 所(軍 事 工 場)に 蒸 気 船研 究 と製 造 の た め入 所 し,父 親 の助 手 と して活 躍 し,19歳 の とき,彼 らは小 型 蒸 気 船 の試 作 に成 功 して い る。1863年1月28日,曾 国 藩 は 彼 らの建 造 した蒸 気 船 に乗 り込 み 試 験 航 行 を 実施 して い る。1864年10月,さ

らに 大 き な蒸 気 船 を製 造 す るた め に金 陵 の 軍 事 工 場 に研 究 場 所 を移 転 し,18 65年,蒸 気 船 「黄 鵠 」 を建 造 した 。1866年,22歳 の と き父 の徐 寿 と とも に 再 び 上 海 に戻 り,上 海 江 南製 造 局 で,蒸 気 船,大 砲,鉄 砲,機 器 な どの設 計,製 造 の 仕 事 に 従 事 して い る。 そ こ で彼 は,蒸 気 船 「恵 吉 」,「操 江 」,「測 海 」,

「澄 慶 」,「駅 遠 」 な どの製 造 責 任 者 の ひ と り と して 仕 事 に従 事 す る と と もに, 軍 艦 用 の 大砲,砲 弾 な ど も 自 ら設 計 して い る。 ま た 強 酸 棉 火 薬 や 水 銀 爆 薬 の 発 明 な どに も貢 献 して い る。

1868年6月,上 海 江 南 製 造 局 翻 訳 館 が設 立 され る と,彼 は科 学 技 術 書 の 翻 訳 及 び 出版 の 任 務 を命 ぜ られ た 。 彼 は,イ ギ リス人 の」・フ ライ ヤ.̲.̲(Fryer,

中国 名 傳 蘭雅,1839年 〜1928年)と 共 同 して 『運 規約 書 』 を翻 訳 し,同 書 は1 870年 に 出版 され て い る。 さ らに フ ラ イ ヤ ー一の 協 力 の も とに,1871年 に 『器 象 顕 真 』 を,1872年 に は 『化 学 分 原 』,『汽機 新 製 』 を翻 訳 して 出版 して い る。

1873年,徐 建 寅 は江 南 製 造 局 提 調(総 技 師)に 任 命 され,同 年,フ ライ ヤ ー と共 同 して,『 汽 機 必 以 』 を翻 訳 して 出版 して い る。1874年(同 治 十 三 年), 父 の徐 寿 と と もに 上海 格 致 書 院(技 術 学校)の 理 事 に招 かれ て い る。 同 年, 江 南 製 造 局龍 華 火 薬 工 場 が設 立 され た。 そ の 後 徐 建 寅 は清 朝 政 府 の命 に よ り 天 津 機 器 局拡 大 の た め に天 津 に派 遣 され た。 徐 寿 と徐 建 寅 は そ れ ぞれ 上海 と 天 津 の 両 局 で 中 国最 初 の洋 式 に よ る硫 酸 の 大 量 生 産 に成 功 して い る。 この こ と に 関 して は,当 時 中 国 で 最 も有 名 な科 学 技 術 雑 誌 『格 致 匪 編 』 が,「 徐 寿 を 中心 とす る上 海(江 南製 造 局)龍 華火 薬 工 場 及 び徐 建 寅 を 中心 とす る天 津 火 薬 工 場 で そ れ ぞ れ 洋 式硫 酸 製 造 が お こな われ て い る が,両 工 場 は質 量 と も

に 西 洋 の 工 場 と同一 レベ ル で あ る。」 と述 べ て い る。 この よ うに 両 工 場 が 建 清末 中国における中国人技術専門家李鳳苞と徐建寅に関する研究167

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設 さ れ た こ と に よ り,海 外 か らの 輸 入 に 頼 る こ と な く,自 給 自足 で き る よ う に な っ た5)。1874年,徐 建 寅 は フ ラ イ ヤ ー と共 同 して,『 声 学 』,『水 師 操 練 』,

『輪 船 布 陣 』 を 翻 訳 して,江 南 製 造 局 か ら 出 版 し て い る。1875年,31歳 の と き,徐 建 寅 は 山東 機 器 局 設 立 の 責 任 者 と して 山 東 に 派 遣 さ れ,山 東 機 器 局 は そ の 後2年 の 歳 月 を か け て,中 国 人 技 術 者 だ け の 手 に よ り完 成 され て い る 。 同 年,徐 建 寅 は フ ラ イ ヤ ー と 共 同 し て,『 格 林 炮 操 法 』 を 翻 訳 して 出 版 し て い る 。1879年,徐 建 寅 は フ ラ イ ヤ ー と共 同 し て,『 藝 器 記 珠 』,『器 象 顕 真 』 を 翻 訳 して 出 版 して い る 。

1880年(光 緒 六 年 一 月 十 二 日),徐 建 寅 は 欧 州 技 術 の 視 察 及 び 導 入 の た め に,フ ラ ン ス ・パ リ に 赴 き,鉱 務 院,機 器 博 物 館,測 量 機 器 工 場,石 鹸 工 場, ガ ラ ス 工 場 な ど を 視 察 して い る 。 同 年1月 下 旬,ク ル ス の シ ナ ドク 製 鉄 所 の 製 鋼 工 場,圧 延 工 場,鋳 鉄 工 場,錬 鉄 工 場 な ど い く っ か の 工 場 を 視 察 し,さ

ら に リ ヨ ン の 紡 績 工 場,商 務 学 堂 も視 察 し て い る 。2月7日,ド イ ツ ・ベ ル リ ン に 戻 り,同 月 中 旬 か ら下 旬 に か け て 国 有 製 磁 工 場,器 具 製 造 工 場,工 学 器 具 工 場 な ど を 視 察 し,さ ら に3月 中 旬 に は シ メ ン シ ー 電 器 機 械 工 場 を,4

.月12日 に は 人 口石 工 場 を,5月1目 に は ガ ラ ス 工 場 を,5月5日 か ら10日 に か け て バ ン ベ ル ク の 火 薬 工 場,棉 薬 製 造 工 場,実 験 研 究 室 を 視 察 して い る 。 視 察 後sド イ ツ と 中 国 の 火 薬 産 業 を 比 較 した と こ ろ,ド イ ツ の 各 火 薬 工 場 の 機 械 設 備 は す べ て 中 国 天 津,南 京,山 東,上 海 の 各 製 造 局 よ り劣 っ て い る こ とが 判 明 した が,火 薬 製 品 に 関 して は ドイ ツ の ほ うが 優 れ て い た 。 そ の 理 由 と し て は,ド イ ツ に お い て は,実 験 研 究 時 に,爆 発 力,速 度 率,衝 撃 力 な ど の 改 善 向 上 に 全 力 を 尽 く し,不 足 な 点 や 問 題 点 が あ れ ば 即 座 に 改 善 に 努 め た 結 果 に よ る も の と 考 え られ た 。 そ の 後,皮 製 造 工 場,光 学 器 具 工 場 も 視 察 して

い る 。5月11日 か ら14日 に か け て,キ ー ル 基 地 の 天 文 台 を 視 察 した ほ か,造 船 所 で 建 造 した 新 鉄 甲 軍 艦 の 装 備,性 能 な ど に つ い て 調 査 して い る 。 併 せ て 鉄 甲 軍 艦 に 関 連 す る 大 砲 倉 庫,ド ッ ク,魚 雷 倉 庫 を 視 察 し,さ ら に 各 砲 台 の デ ザ イ ン,砲 台 の 配 置 な ど の 調 査 も お こ な い,加 え て 海 軍 病 院,製 粉 工 場,

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弾 薬 庫 を 視 察 して い る 。5月20日 か ら23日 ま で,ハ ノ ー バ ー の 鉄 鋼 精 錬 所 と鉱 山 を 視 察 し,26日 ベ ル リ ン に 戻 っ て い る。6月 上 旬,間 門 を 視 察 後, ベ ル リン の 機 器 工 場 製 ジ ェ ッ トエ ン ジ ン を 使 用 した 吸 い 上 げ ポ ン プ な ど を 視 察 し て い る 。 こ の 時 期 に,シ メ ン ジ 工 場 に 電 光 灯,ボ イ ラ ー な ど を 予 約 注 文 し て い る 。6月 下 旬,工 場 に お い て 魚 雷,水 雷,魚 雷 外 売 圧 力 な ど の 測 定 実 験 を 実 施 後,工 場 の 鋳 鉄 現 場,軟 鉄 現 場 を 視 察 して い る 。7月23日,シ チ ェ チ ン の フ ァル カ ン 造 船 所 の 視 察 と併 せ て 建 造 中 の 鉄 甲 軍 艦 を 視 察 して い る。

7A29日,機 器 工 場 の 人 員 構 成,人 員 管 理,製 造 工 程 管 理,コ ス ト管 理 な ど に つ い て 調 査 して い る 。

8月,イ ギ リス ・ロ ン ドン,リ バ プ ー ル な ど を 視 察 して,イ ギ リス の 造 船 設 備 技 術,鉄 甲 軍 艦 の 性 能 と価 格 な ど を 調 査 して い る 。

そ の 後,9月 か ら翌 年 の10月 に か け て,彼 は ドイ ツ の 水 雷 工 場,通 信 機 工 場,ク ル ポ 砲 廠 フ ァル カ ン造 船 所,キ ー ル 海 軍 基 地 な ど を 視 察 して い る。

鉄 甲 軍 艦 に 関 して は,彼 は イ ギ リ ス と ドイ ツ の 造 船 所 な ど を 重 点 的 に 調 査 し た 結 果 と,彼 の 考 え 方 を 取 り入 れ た 未 曾 有 の 鉄 甲 軍 艦 を ドイ ツ の フ ァル カ ン 造 船 所 に 発 注 して い る。

1881年,ド イ ツ か ら上 海 に 帰 国 し た 。

そ の 後,福 州 船 政 局,湖 北 火 薬 局 な ど の 技 術 責 任 者 を 歴 任 し た が,1990年 3月31日(光 緒 二 十 七 年 春 二 月 十 二 日),新 火 薬 の 開 発 実 験 中 に 爆 発 事 故 に よ り死 亡 し て い る。

2.徐 建 寅 の欧 州 にお け る近 代 西 洋技 術 の 視 察 と導入

徐 建 寅 は海 外 視 察 の 期 間 中,西 洋 先 端 の艦 艇,火 薬,砲 弾 な どの 兵 器 技 術 に っ い て 熱 心 に視 察 し,調 査 を実 施 して い る。

1879年(光 緒 五 年)9月11日,徐 建 寅 は駐 ドイ ツ公 館 二 等 参 事 官 の 資 格 で, 上 海 か らフ ラ ン ス の汽 船 「揚 子 」 号 に搭 乗 して,欧 州 視 察 に赴 い た。 彼 は欧 州 で の2年 間 の 滞 在 中,2隻 の 当時 世界 最 先 端 の鉄 甲軍 艦(北 洋 水 師 の 主 力

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艦̀定 遠',̀鎮 遠')を 購 入 し,80余 りの 工場,鉱 山 な ど を視 察 した ほ か, 200余 の 工 業 技 術 を記 録 して い る。 同 時 に,欧 州 の政 治,軍 事,教 育,文 化 な どに つ い て も調 査 を実 施 して い る6)。

① 先 進 艦 艇 製 造 技 術 の調 査

徐 建 寅 は 欧 州 に赴 く以 前,既 に 一般 的 な蒸 気 兵 船 の 生 産 技 術 を身 に つ け て お り,彼 の 父 徐 寿 や 華 翼 論,華 衝 芳 親 子 な ど と と もに数 隻 の 蒸 気 兵 船 を設 計, 建 造 す る実 績 が あ っ た が,鉄 甲軍 艦,特 に 当 時 の 世 界 最 先 端 の鉄 甲軍 艦 の建 造 技 術 に 関す る知識 は なか っ た。 彼 は こ の欧 州 派 遣 で視 察 や 調 査 の ほか に鉄 甲軍 艦 を発 注 す る任 務 も負 っ て い た の で,彼 は この機 会 を利 用 して,「 現 在 地球 上 で 最 高 の鉄 甲軍 艦 を入 手 す る と同 時 に世 界 最 先 端 の 造 船 技 術 を可 能 な 限 り自分 の もの に した い。」 と,心 に決 め た の で あ っ た。 鉄 甲軍 艦 は 海 上 作 戦 の た め の もの で あ り,作 戦 遂 行 上 どの種 の 艦 船 の型 や 様 式 が優 位 で あ るの か が,艦 船 設 計 製 造 に際 して ま ず 考 慮 され な けれ ば な らな い。 徐 建 寅 は 欧 州 に到 着 す る と造 船 所 の視 察 や 調 査 は 後 回 しに して,ま ず ドイ ツ の キー ル 海 軍 基 地 に赴 き,基 地 の 色 々 な様 式 の鉄 甲軍艦 を視 察 して,そ れ らの構 造,性 能, 航 行 速 度,火 力 配 備,建 造 費 な ど を調 査 す る と と もに,基 地 司 令 官 に も直 接 会 見 を求 め て説 明 を受 け て い る。 彼 は この 視 察,調 査 結 果 と中 国 国 内 にお け る軍 艦 に 関す る理 論 研 究や 製 造 実 践 の成 果 とを結 び 付 け て,鉄 甲軍艦 を建 造 す るに際 して の検 討 事 項 と思 われ る もの を9項 目に ま とめ て い る。 す な わ ち,

① 航 行 速 度 ② 船 体 の 大 き さ,③ 旋 回能 力 な ど船 の扱 い 易 さ,④ 燃 料 積 載 量,

⑤ 甲板 及 び 両 舷 側 部 分 の装 甲鉄 板 の厚 さ,⑥ 船 体 の 堅 固 さ,⑦ 艦 砲 数 と砲 口 径 及 び砲 身 の 長 さ,⑧ 砲 弾 発 射 角 度,⑨ 砲 台 の位 置 の9項 目で あ る。 そ して, こ の9項 目が そ れ 以 後,中 国 が鉄 甲軍艦 を発 注 す る と きの 基 準 に な っ た7)。

しか しな が ら,こ れ らの 要 素 は 互 い に矛 盾 を 内 包 して お り,設 計 製 造 の と き に は そ の矛 盾 を解 決 しな けれ ば な らな か った 。 例 え ば彼 は,「 鉄 甲板 を厚

くす れ ば船 体 が 重 す ぎ て航 行 速度 に影 響 が 出 る。 そ れ な らば船 の 前後 は鉄 甲 を薄 く して,前 後 の減 ら した 分 を船 体 の 中腹 の急 所 の部 分 に加 え てや れ ば よ

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い 。 前 後 は 鉄 甲 が 薄 く て,破 れ 易 く な る が 水 面 下 の 鉄 甲 を 亀 の 甲 羅 の 形 に し て お け ば 船 が た と え 傷 つ い て も沈 む こ とは な い だ ろ う。」 と述 べ て い る8)。

彼 は,鉄 甲 軍 艦 の 性 能,設 計 要 素 な どの 基 本 要 素 を修 得 後,ド イ ツ とイ ギ リス の 海 軍 部 に 赴 き 両 国 の 造 船 規 則 と験 船 規 則 を 手 に 入 れ,そ の 後 各 造 船 所 の 調 査 に 赴 い て い る 。 そ れ と前 後 して ドイ ツ の シ チ ェ チ ン,フ ァル カ ン 造 船 所,イ ギ リス の セ ン マ ダ,パ ー マ ー,ダ ミス,ポ ー ツ マ ス,ラ イ ト,ア イ レー ダiマ ン シ レー,サ ー メ ン ス な ど の 各 造 船 所,そ し て フ ラ ン ス の 地 中 海 造 船 所 な ど を 調 査 して い る 。 そ う し た 調 査 を 実 施 しな が ら,彼 は 後 々 どの 造 船 所 で ど の 種 の 鉄 甲 軍 艦 を 購 入 す る か を 決 定 しや す い よ う に,各 造 船 所 の 設 備, 技 術,船 型 と価 格 を調 べ 上 げ て い る 。 彼 は 当 時 世 界 最 先 端 の 鉄 甲 軍 艦 で あ る

イ ギ リ ス の 「イ ン フ レ キ シ ブ ル 」 と ドイ ツ の 「ザ ク セ ン 」 を 比 較 検 討 した 結 果,「 イ ン フ レ キ シ ブ ル 」 と 「ザ ク セ ン 」 の そ れ ぞ れ の 長 所 を 活 か して 短 所 を 除 き,さ ら に 「喫 水 は6.5メ ー トル を 越 え な い よ う に し,中 国 沿 岸 及 び 港 湾 の 水 深 に 合 わ せ 設 計 す る よ う。」 要 請 して い る。 彼 自身 は,「 こ の よ う に す れ ば 世 界 第 一 の 鉄 甲 軍 艦 と い え る だ ろ う」 と 自負 して い た9)。

1880年12月,最 良 の 設 計 プ ラ ン が 完 成 す る と,徐 建 寅 は 最 も 安 く見 積 も っ た フ ァル カ ン 造 船 所 を 選 定 して 第1隻 目の 鉄 甲軍 艦 を発 注 し,翌 年 同様 に フ ァ ル カ ン 造 船 所 を選 定 し て 第2隻 目の 鉄 甲 軍 艦 を 発 注 して い る 。 李 鴻 章 は 自 ら こ の2隻 の 鉄 甲 軍 艦 を̀定 遠',̀鎮 遠'と 命 名 して い る 。1884年,̀定 遠',

̀鎮 遠'は 進 水 し

,翌 年 中 国 に 入 港 した 。[図3]、[図4]、'o)、11)。 徐 建 寅 は 各 造 船 所 で の 調 査 に 際 し て は,造 船 所 の 先 進 的 な 造 船 技 術 を 真 剣 に 習 得 し よ う と努 め て お り,例 え ば,フ ァ ル カ ン 造 船 所 を 視 察 した と き,彼 は 鉄 甲 軍 艦 の 穴 を 開 け る 工 程 を 細 心 の 注 意 を 払 っ て 調 査 して い る12)。 彼 の 『欧 遊 雑i 録 』 を 読 め ば,こ の 技 術 専 門 家 が どの よ うに 調 査 を 実 施 し た か の 詳 細 が よ く わ か る。 そ の 内 容 は 今 で は す で に 旧 式 とな っ て し ま っ た が,彼 の 真 剣 に 習 得

し よ う とす る 精 神 は 人 々 に 感 動 を 与 え る も の で あ る 。 欧 州 に お い て 長 期 間 の 調 査 を 実 施 し て い る 間 に,徐 建 寅 の 艦 艇 建 造 技 術 に 関 す る 知 識 は 当 時 す で に

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高 い レベ ル に達 して い た13)。

② 火 薬 の 生 産 設 備 と工 程 の 理 解

徐 建 寅 は 欧 州 で の調 査 に際 して 火 薬 の 製 造 に は特 別 の 関 心 を払 っ て い る。

彼 は,中 国 国 内 で父 徐 寿 と共 に 先 進 的 な黒 色 と栗 色 の火 薬 を製 造 して い た と き か ら,国 際 的 な 新 しい火 薬 製 造 技 術 に既 に 注 目 して い た 。 当時,彼 は 国 際 的 な新 しい 火 薬 製 造 技 術 に 関 す る資 料 を持 っ て い な か っ た が,傳 蘭 雅 と共 同 で 『火 薬 机 器 』 を翻 訳 す る過 程 で,そ の 糸 口を 見 つ け 出 して い た。 そ こで, 彼 は 欧 州 に赴 く と,ハ ン ブ ル ク の ジ ュ デ ホ薬 局,棉 薬 火 薬 工 場,フ ォル フ火 薬 工 場 や 火 薬 製 造 に 関す る化 学 工 場 な ど を視 察 して い る が,各 工場 の 火 薬 製 造 設 備 と製 造 工 程 を 詳 細 に 調 査 した結 果,淋 硝,提 硫,原 料 の 配 合 や 磨 く,

引 き砕 く,押 しつ ぶ す,笛 に か け る,貯 蔵 す る ま で の 全 プ ロセ ス を具 体 的 に 理 解 す る こ とが で き た 。 例 えば,彼 は フ ォル フ火 薬 工場 の視 察 に3日 間 を費 や して,き め細 か く深 い調 査 を実 施 しそ れ を詳 細 に記 録 して い る。 彼 は,棉 火 薬 餅 の製 作 工 程 に 関 して,「 … … 高 さ,直 径 が それ ぞ れ 約2メ ー トル の 木 桶 を用 意 して 水 を入 れ る。 柔 らか く した棉 花 を水 の 中 に沈 め てs炭 酸 ソー ダ を少 し加 えて 棒 で何 回 もか き混 ぜ る。2日 間 そ の ま ま に して お き,3日 目に 桶 か ら棉 花 を 取 り出 して水 分 を絞 り出す。 ま た桶 に入 れ て 清 水 で濯 ぐ。 この よ うに何 回 も水 を入 れ 替 え て炭 酸 ソー ダ を完 全 に 除 去 す る。 そ の後 転 籠 内 に 入 れ て 遠 心 力 で 乾 か す 。」 と記 述 して い る。 徐 建 寅 は転 籠 の 形 状,構 造,使 用 方 法 に つ い て も具 体 的 に記 述 して い る。 そ の ほ か,火 薬(六 角 百餅)の 製 成 過 程 に つ い て も詳 細 な記 録 を残 して い る。 徐 建 寅 は調 査 を通 して,当 時 世 界 最 先 端 の火 薬 で あ る棉 薬 の製 造 技 術 を知 り尽 くす こ とが で きた。 後 に,彼

は張 之洞 の招 き に応 じて 湖 北 に行 き,漢 陽鋼 薬 廠 の 西 洋 技 術 者 た ち が 工場 に 来 た が らな い 状 況 下 で 無 姻 火 薬 を製 造 す る とい う重 い使 命 を背 負 い な が ら, 毅 然 と して取 り組 み 短 期 間 で 試 験 的 製 造 に成 功 した の で あ る。 彼 は,生 産 工 程 上 の安 全 措 置 につ い て も詳 し く記 述 して い る。 例 え ば,薬 餅 を押 しつ ぶ し て堅 い 木 籍 で保 管 す る,砂 や 石 が 建 物 の 中 に入 り摩 擦 で 火 気 が 生 じる の を防

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ぐた め火 薬 を製 造 して い る建 物 に入 るに は 必 ず フ ェル トの 靴 に 履 き替 え る, 建 物 と建 物 の 間 は 泥 の 山 で分 け隔 て を して爆 発 に よ る被 害 を 防 止 す る等 々 で

あ る。1901年,徐 建 寅 は 新火 薬 の 開発 実 験 中 に爆 発 事 故 に よ り死 亡 し,張 之 洞 もま た 清 朝 へ の 上 奏 文 中 に,「徐 建 寅 は火 薬 の爆 発 事 故 に よ り死 に至 っ た。」

と奏 上 して い る が,彼 の こ う した 慎 重 な対 応 か ら考 えた と き,こ れ に は 大 い な る疑 問 が 残 され る。 徐 建 寅 の後 喬 は何 者 か の謀 殺 と考 え てお り究 明 に値 し

よ う。

③ 先 進 的 な銃 砲 弾薬 生 産 技 術 へ の 大 い な る 関 心

徐 建 寅 は視 察 中銃 砲 弾 薬 の生 産 技術 に極 め て 高 い 関心 を寄 せ て い る。 彼 が 出 国 時,中 国 にお い て は先 進 的 な后 瞠 銃 砲 とい え る も の を 生 産 で きず,江 南 製 造 局 の み が40ポ ン ド前瞠 連 射 砲 を模 造 で き る とい う状 況 で あ っ た。 張 之 洞 は か つ て ドイ ツ か ら技 術 者 を招 い て 中 国で 弾 薬 を製 造 させ た い と思 った こ と が あ る が,得 られ た 答 え は 「弾 薬 の製 法 は 秘 密 に され て い て模 倣 しに くい 。」

で あ っ た。 そ う した状 況 に あ っ た の で,徐 建 寅 は 欧 州 へ 赴 く と,ド イ ツ の ク ル ポ砲 廠 ウー ペ ン ダ ウモ ー ゼ ル 銃 廠,ル ー ハ 機 器 廠,パ ル ス フ弾 薬 工 場, ベ ル リン水 雷 廠 や そ の他 の銃 砲 製 造機 械 工 場 な どを視 察 して い る。 彼 は クル ポ砲 廠 で,砲 管外 円,内 瞠,弾 倉 内 の ライ フル 線 条,砲 の 台座,回 転 軸,砲 門, 砲 弾 な どの製 作 工 程 と技 術 に 関 して 非 常 に 詳 細 な調 査 を実 施 し,そ れ を詳 細 に 記 録 して い る。 そ の 詳 細 さは,磨 か れ た 炮 瞠 内 の ライ フル 線 条 の加 工 工程 の 記 述 を挙 げ るだ けで も想 像 で き る も の で あ る。 こ の技 術 は現 在 か ら見 れ ば そ れ ほ ど高度 で は な い が,当 時 中 国 にお い て は 后瞠 技 術 に 関 す る情 報 は ほ と ん ど何 もな か った こ とを考 え る と,彼 の こ の よ うな習 得 の熱 意 に は深 く感 服

させ られ る。 彼 は,中 国 の 軍 事 工 業 が で き る だ け早 く后 瞠 砲 製 造 技 術 を把 握 で き る よ うに と考 え て,『 閲 克 鹿 卜廠 造 砲 記 』 を 書 き上 げ,雑 誌 『格 致 匿 編 』

に発 表 して い る。 そ の ほか,彼 は銃 や 弾 丸 を生 産 す る工 場 の視 察 に 際 して, 製 造 工 程 の 問題 点 を 見 つ け 出 して い る。 例 え ば,ル ン ツ薬 棊 工 場 視 察 に 際 し て,工 場 内 の新 型 押 し抜 き機(パ ンチ プ レス)に 深 く興 味 を 覚 え な が ら も,

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同時 に小 砲 の薬 爽 押 し抜 き機 に対 して は 「工程 が 長過 ぎ て動 作 が 遅 い 」 と し て改 良 しな けれ ば な らな い と感 想 を述 べ て い る。

徐 建 寅 は 帰 国 した と きに は既 に后 瞠 銃 砲 及 び 各 種 弾 丸 の生 産 技 術 工 程 を完 全 に把 握 して お り,金 陵機 器 局 に お い て 后 瞠 銃 砲 を造 り始 め た。 ま た これ は 軍 事 技 術 専 門家 の 眼 力 とい え よ うが,彼 は 欧州 にお け る銃 砲 生 産 技術 視 察 の 過 程 で,い くつ か の 工 場 にお い て は 中国 か らの発 注 に 関 わ る製 品 は価 格 が 高 く,品 質 が 悪 い こ とに気 づ い た。 そ の原 因 は仕 入 れ 人 の 責 任 感 が薄 く,真 面 目に調 査 研 究 を お こ な わ な い こ とに よ る も の で あ るが,な か に は賄 賂 を受 け 取 り見 て 見 ぬ ふ りをす る者 もい た 。 例 えば,駐 ドイ ツ公 使 李 鳳 苞 の 手 を経 て ドイ ツ の ロ ウ機 器 廠 へ 発 注 した 薬 棊 製 造 機 器 に つ い て,徐 建 寅 は そ の機 器 を 江 南 製 造 局や 天 津 製 造 局 の機 器 と同 レベ ル の もの と一 目で 見 抜 い た。 ロ ウ機 器 廠 は この機 器 は一 日当 た り薬 爽 を2万 枚 製 造 で き るが,江 南,天 津 の機 器 は1万 枚 しか製 造 で き な い と説 明 して い た。 明 らか に ロ ウ機 器 廠 の説 明 は真 実 で は な か った が,李 鳳 苞 は 高 い価 格 で そ の機 器 を発 注 す る こ とに同意 した 。 徐 建 寅 は 異議 を 申 し立 て た が 李 鳳 苞 は聞 こ う と しなか っ た。 彼 は 再度 異 議 申 立 書 を提 出 し,契 約 書 に も明 記 した が 李 鳳 苞 は そ れ も聞 こ う と しな か っ た 。 結 果 は 明 白で,そ の機 器 は 毎 分12個 が 限 界 で2万 枚 の 製 造 は で きず,速 度 も 遅 い 上 に で き 上 が っ た薬 萸 もす ぐに壊 れ て しま う とい う状 況 で,つ い に は機 器 本 体 も壊 れ て しま っ た。 そ の後 李 鳳 苞 は収 賄 が 発 覚 して罷 免 され て い る。

④ 魚 雷,機 雷 の製 造 及 び そ の他 兵 器 技術 の 習 得

魚 雷,機 雷 は海 上 作 戦 にお け る重 要 な武 器 で あ る。 当時 中 国 に は ま だ そ れ らの製 造 工場 が 存 在 せ ず 使 用 す る魚 雷,機 雷 は み な 国外 か ら買 い付 け な けれ ば な らな か っ た。 徐 建 寅 は欧 州 赴 任 後,こ れ らの武 器 に 重 大 な 関心 を寄 せ た 。 彼 は 事 前 に魚 雷,機 雷 生 産 の 工場 を視 察 して 生 産 過 程 を探 り,同 時 に海 軍 の 魚 雷 艇 の 視 察 をお こな っ て魚 雷 の性 能 や威 力 を調 査 し,さ らに魚 雷 発 射,機

雷 敷 設,爆 発 の 状 況 な ど も何 度 も調 査 して い る。 これ らは,彼 の 『欧 州 雑 録 』 にす べ て 記 載 され て お り,例 え ば,ド イ ツ の シ ュ ワル ツ コ フ廠 で魚 雷s機 雷

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の製 造 を視 察 した 後,特 に魚 雷 の 耐圧 試 験 を調 査 して い る。 さ らにベ ル リン 機 雷 工場 を視 察 の とき も機 雷 殻 の製 造 生 産 工 程 を詳 しく記 録 して い る。 彼 は, 視 察 の結 果 を 『水 雷 録 要 』 と して 纏 めて い る。 ま た彼 は,欧 州 視 察 時,兵 器 生 産 に 関 わ る石 炭 採 掘,錬 鉄,機 器 製 造 な ど の生 産 技 術 に 注 目 し,特 に 各 種 部 品 の型 を作 る鋳 造,型 か らの 押 し出 し,切 削,押 し抜 き,ド リル,磨 き,フ ライ ス盤 加 工,ブ ロー チ,圧 延,焼 入 れ 等 々 の 技 術 工 程 を 真 剣 に 観 察 し詳 細 に記 録 して い る。 さ らに 工具 や 取 り付 け金 具 につ い て も研 究 を進 め て お り, 例 え ば,ド イ ツ機 器 工 場 を視 察 の 際 は旋 盤 の 取 り付 け 具 につ い て 記録 し図 面 に も画 い て い る。

⑤ 中 国産 業 技 術 発 展 に 関 す る認 識 の昇 華

徐 建 寅 は欧 州 視 察 の 際,西 洋 先 進 の 兵器 や 工業 技 術 を真 剣 に 調 査 して い る が,そ れ 以 外 に も西 洋 の 政 治,軍 事,教 育 文 化 な どに つ い て も注 意 を払 っ て い る。彼 は元 来 「師 夷 長 技 以 制 夷 」(夷 の長 じた 技 術 を以 っ て 夷 を制 す 。)の 思想 に基 づ き科 学 技 術 を以 っ て 「救 国 之路 」 を歩 も う と して い た がs科 学 技 術 の み に頼 っ て い て は 国 を救 い きれ な い とい う思 い が 徐 建 寅 の な か で 徐 々 に 醸 成 され て い った 。 彼 と同郷 の 改 良主 義 思 想 家 醇 福 成 の影 響 もあ る も の と思 われ る。 と りわ け,欧 州 諸 国 の 立 憲 君 主制 度,議 会 制 度 は徐 建 寅 に興 味 を抱 かせ た だ け で な く,彼 は そ れ らの 制 度 が 当 時 の 中 国 的封 建 制 度 と比 較 して き わ め て 進 歩 して い る こ とを 実感 した。 彼 は 『欧 遊 雑 録 』 の 中で,ド イ ツ 帝 国 議 会 の 様 子 を 点描 してお り,ま た 晩 餐 会 に お け る ドイ ツ皇 帝 皇 后 の親 しみ や す い 態 度 を描 写 して い るが,こ の こ とか ら も彼 の 改 良 主 義 へ の 筋 道 を垣 間 見 る こ とが で き よ う。 彼 は,『 ドイ ツ議 院 章 程 』 と 『ドイ ツ合 盟 記 事 本 末 』 を 翻 訳 して い るが,そ こ か ら もま た 彼 が 中国 にお い て 立 憲 君 主制 度 が実 現 す る こ とを望 ん で い る こ とを見 て 取 る こ とが で き る。 そ う した 経 緯 もあ っ て 戊 戌 の 変 法 で彼 は 光 緒 帝 に よ っ て農 工 商 務 大 臣 に任 命 され て い る が,変 法 の 失 敗 に よ っ て た だ ちに 罷 免 され て しま った 。

徐 建 寅 は 欧 州 視 察 の 際 の 日記 を帰 国後 取 り纏 め て,『 欧遊 雑 録 』 と して 刊 清末中国における中国人技術専門家李鳳苞と徐建寅に関する研究175

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行 して い る。 この 本 は兵 器,電 気 機 械,計 器,化 学 工業,軽 工業,冶 金,機 械 等 各 種 工 業 技 術 の 記 録 に と どま らず,さ らに は 当 時 の 欧 州 の 政 治,文 化,経 済,軍 事,教 育 な ど多 方 面 の様 相 や 風 俗 民 情 を 記 述 して お り,当 時 の ひ とっ の科 学 教 科 書 と も看 倣 せ る し,あ るい はひ とつ の文 明史 書 と して読 む こ と も 可 能 で あ る。 い ま100年 余 りが 経 過 して,『 欧 遊 雑 録 』 を 見 る とき,徐 建 寅 の 欧 州 先 進 技 術 運 用 を広 げ よ う とす る姿 勢,彼 の愛 国 思 想 と知 へ の渇 望,そ し て 実 務 に励 む 精 神 が ま るで 眼 前 にそ の人 を 見,そ の声 を 聞 い て い る よ うに感 ぜ られ,知 らず 知 らず の うち に感 化 され,教 育 され,啓 発 され て しま うの は 私 ひ と りで あ ろ うか 。

結 び

清 末 は 中国 に お い て 西洋 近 代 技 術 の導 入 とそ の展 開 の うね りが大 き く盛 り 上 が っ た 時 代 で あ る とい え よ う。 す な わ ち,中 国 の従 来 か らの伝 統 的 工 業 生 産 方 式 か ら西洋 近 代技 術導 入 に よる大 規模 生 産 方 式 に入 っ て い く時代 で あ る。

李 鳳 苞 と徐 建 寅 は傑 出 した科 学 技 術 専 門家 で あ っ たが,そ れ だ け で な く彼 ら は,こ うした 時 代 の流 れ を的確 に把 握 して 中国 の進 む べ き方 向 を指 し示 す, 鋭 敏 性 と先 導性 を有 して い た。 彼 らは 中 国 へ の 西 洋 近 代 科 学 技術 導 入 と発 展 に 極 め て大 き な 貢 献 を果 た した とい え る。 彼 らの輝 か しい功 績 と彼 らの起 業 家 精 神 そ して献 身 性 は 中 国近 代 化 建 設 の 歴 史 に い つ ま で も記 録 され るで あ ろ

う。

参 考 図

[図1]福 州 船 政 局 前 学 堂 [図2]福 州 船 政 局 後 学 堂

[図3]「 鎮 遠 」 号 鉄 甲軍 艦 外 型 図 [図4]「 定 遠 」 号鉄 甲軍 艦 模 型 図

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[図1]福 州 船 政 局 前 学 堂 [図2]福 州 船 政 局 後 学 堂

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[図3]「 鎮 遠 」 号 鉄 甲軍 艦 外 型 図

[図4]「 定遠 」 号 鉄 甲軍 艦 模 型 図

清末中国における中国人技術専門家李鳳苞と徐建寅に関する研究177

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1)戚 其 章 著 『晩 清 海 軍 興 衰 史 』 人 民 出 版 社(北 京)185〜186頁,1998年 第 一 版。

2)中 国 の 国 内 外 の 洋 務 事 業 を 推 進 した 中 枢 の 国 家 機 関 で あ る 。 外 国 と の 交 渉,国 内 の 企 業,税 関,教 育,医 療,新 式 軍 隊 な どに 係 る 外 国 人 専 門 家 に 関 す る 広 範 な 事 務 を 所 掌 し た 。 中 国 の 近 代 工 業 化 へ 向 け て き わ め て 強 い 指 導 力 を 発 揮 し,国 内 は も ち ろ ん 国 外 に お い て も 強 い 影 響 力 を及 ぼ し た 。

3)焚 百 川 著 『清 朝 洋 務 新 政 』 上 海 書 店 出 版 社1008〜1010頁,2003年 第 一 版 。 4)「 宥 甲 快 船 」 の 特 徴 は,ア ー チ 形 で 防 弾 用 の 鋼 鉄 板 で 覆 わ れ て い て 速 力

が 速 い こ と で あ る。 ま た 軍 艦 の 形 か ら 「亀 甲(亀)船 」 と も称 され た 。 徐 建 寅 著 『欧 州 雑 録 』59頁 。

5)『 格 致 匪 編 』 光 緒 二 年 二.月巻 。187頁 。

6)鐘 叔 河 著 『縦 東 方 到 西 方 一 走 向 世 界 叢 書 叙 論 集 』 岳 麓 書 社 出 版 社(長 沙),407〜410頁,2002年 第 一 版 。

7)徐 徹 著 『徐 徹 晩 清 史 論 』 遼 藩 書 社132〜133頁,1993年 第 二 版 。 8)徐 建 寅 著 『欧 州 雑 録 』59頁 。

9)徐 建 寅 著 『欧 州 雑 録 』65頁 。

10)姜 振 簑 主 編 『技 術 史 研 究 』A爾 濱 工 業 大 学 出 版 社63頁,69頁,2002年 第 一 版。

11)游 戦 洪 稿 「ドイ ツ 軍 事 技 術 の 北 洋 海 軍 へ の 影 響 」 『中 国 科 技 史 料 』 第19 巻 第4号,1998年 。

12)徐 建 寅 著 『欧 州 雑 録 』63頁 。

13)劉 鈍 稿 「.>X線 と強 国 へ の 夢 」 『科 学 』 雑 誌(上 海)第56巻5号,20 04年9月 。

参 考 文 献

1.姜 振 簑,謝yf1主 編 『中 日露 近 現 代 技 術 発 展 比 較 研 究 』 恰 爾 濱]二 業 大 学

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出 版 社,2002年 第 一 版 。

2.戚 俊 傑,劉 玉 明 主 編 『北 洋 海 軍 研 究(第 二 輯)』 天 津 古 籍…出 版 社,2001 年 第 一 版 。

3.周 積 明 著 『近 代 化 の 画 期 一 中 国 早 期 現 代 化 研 究 』 高 等 教 育 出 版 社(北 京), 1996年 第 一 版 。

4.張 梅 燈 著 『李 鴻 章 』 民 族 出 版 社(北 京),2003年 第 一 版 。

5.注 広 仁,徐 振 亜 著 『海 国 纈 珠 の 徐 寿 親 子 』 科 学 出 版 社(北 京),2000年 第 一 版 。

6.辛 元 欧 著 『中 国 近 代 造 船 工 業 史 』 上 海 古 籍 出 版 社,1999年 第 一 版 。 7.林 慶 元 著 『福 建 船 政 史 稿 』 福 建 人 民 出 版 社,1986年 第0版 。

8.江 広 仁 主 編 『中 国 近 代 科 学 の 先 駆 者 徐 寿 親 子 研 究 』 清 華 大 学 出 版 社(北 京),1998年 第 一 版 。

9.孔 令 仁,李 徳 征 主 編 『中 国 近 代 化 と洋 務 運 動 』 山東 大 学 出 版 社,1992年 第 一 版 。

10.陳 舜 臣 著 『香 港 』 文 藝 春 秋,1997年 第 一 版 。

11.清 ・魏 允 恭 著 『江 南 製 造 局 記 』 江 南 製 造 局 出 版,清 末 光 緒 三 十 一 年 編 印 。 12.田 育 誠 著 『中 国 と世 界 科 学 文 化 発 展 』 吉 林 科 学 出版 社,1993年 。

13.田 育 誠 稿 「洋 務 運 動 時 期 に お け る 中 国 近 代 技 術 産 業 の 導 入 と発 展 の 研 究 (一)」 神 奈 川 大 学 『国 際 経 営 論 集 』 第23号,2002年3月 。

14.田 育 誠 稿 「清 末 中 国 に お け る 西 洋 近 代 産 業 導 入 に 貢 献 した 外 国 人 」 神 奈 川 大 学 『国 際 経 営 論 集 』 第28号,2004年11月 。

15.田 育 誠 稿 「清 末 に お け る 李 鳳 苞 と徐 建 寅 に よ る 欧 州 大 型 軍 艦 導 入 に 関 す る 一 考 察 」 日本 科 学 史 学 会 年 会(東 京 工 業 大 学)発 表,2004年5月 。 16.田 育 誠 稿 「中 国 と 日本 近 代 蒸 気 船 産 業 の 比 較 研 究 」 中 国 科 学 史 国 際 学 術

検 討 会(恰 爾 濱 工 業 大 学)発 表,2004年8月 。

清末 中国 にお ける中国人技術 専 門家李鳳 苞と徐建 寅 に関する研 究179

参照

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