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鎖国前後 における日本人の西洋人観 ・黒人観の心理一歴史的背景

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(1)

埼玉大学紀要 教育学部 (教育科学)

,51(2) :7 3‑9 5 ( 2 00 2 )

鎖国前後 における日本人の西洋人観 ・黒人観の心理一歴史的背景

坂西 友秀*

キー ワー ド :

1 6

世紀未 、西 洋人 と黒 人、 日本 人、心理 一歴史的背景 、人種 ステレオタイプ

目次 は じめに

日本人の西洋人観 一銭国以前‑

1西洋人の種子島漂着

2

遣欧使節の見た世界の中の日本

3

手掴み ・唾棄する野蛮な西洋人 4礼節 を欠 く西洋人

日本人の黒人観 一哉国以前‑

1遣欧使節が語 る 「黒味 を帯びた人々」

2

遣欧使節が語 るアフリカ黒人

3

生殖上の原 因に起因する肌の色

4

汚点 ・欠点 としての黒い肌

日本人の西洋人観 と黒人観 一銭国後‑

1大隅国種子島の西洋人

2

白石が聴取で得た世界の情報

3

長崎民衆 と西洋人 ・黒人

4

丸山遊女の西洋人観 ・黒人観

考察

1

日本人 と西洋人の間の混血児

2

物珍 しい西洋人

3

無礼 ・倣慢 な西洋人 と恐怖の奴隷商人 4まとめ

*

埼玉大学教育学部教育心理学講座

**本研究は2

00 0

年度 (平成1

2

年度)および2

0 01

年度 (平成1

3

年度)科学研究費補助金 (基盤研究

C( 2

))の交付 を受け、

研究課麓 「近代 日本人の人種 ステ レオタイプの形成過程 と マイノリテ ィに対する現代的偏見の研究」の一部 として行 ったものである。

は じめに

1 6,1 7

世紀の 日本では日常人々が外国人に接す ることは皆無であった。それで も、わずかに海外 貿易 をしている港市や都 に住む貴族、武士、商人、

町人、一般の民衆はボル トガ)i,人に接する機会が あ った。特 に大村純忠 (肥前大村 )、大友義鎮 (宗麟,豊後)、高山長房 (右近,摂津) を初め と するキリシタン大名の領地 に住む住民は、イエズ ス会の宣教師 と接触 した もの も少な くない。宣教 師たちが、 日本 を布教 の地 として活動 した安土 ・ 桃 山時代は、日本人が もっとも額繁に西洋の人々、

とりわけポル トガル人に接 した最初の時期であっ た。

信長がキ リス ト教 を厚 く保護 し、布教活動 を援 助 したことは、ポル トガル人の 日本への渡来 と居 住 を可能 にした最大の要因であった。イエズス会 の宣教師が、毎年 日本 における布教活動の状況を 克明に記 してイン ドのゴアや本国の教会本部 に送 った 「日本報告」 こそ、最初期 の日本人 と西洋人 の出会いを生 き生 きと描写 している。当時 日本人 にとって、西洋人はきわめて珍 しく、好奇の的で あった。彼 らが同伴 していた黒人や 「肌の黒い人」

もまた 日本人 にとっては初めて見 る対象だった。

西欧諸国の大航海 と植民地活動 を背景 にしたアジ アへの進出が、東 アジアで ももっとも遠い東端の 未知の島国 日本 とヨーロッパ諸国 との出会いを生 んだのである。

西洋 との遭遇は、戦 に明け暮れていた戦国武将 にとっては、貿易上の関心 を呼び起 こす ことはあ って も、彼 らの日本中心の世界観 を変え、全国統 一 を目指すその野望 を乱すほど重要な政治上の問 題 になることはなかった。イエズス会宣教師の日 本報告書 を分析 した限 りでは、1

6,1 7

世紀の 日本

‑ 7 3‑

(2)

人一般 には、白人や黒人に対する驚 きや好奇心は あった ものの、定型化 された白人観、黒人観、黄 色人観は形成 されていなかった と考 えられる

(4

)0

豊臣秀吉は、武士や一般庶民の間のキリス ト教 信仰は容認 したが、1

58 7

年に次のような外国人宣 教師追放令 を出 し、キ リス ト教布教 を禁止 した。

日本ハ神国たる処、 きりしたん国 より邪法 を授侯儀、太以不可然侯事‑‑‑ 一 ‑‑伴天連 儀 日本之地ニハおかせ られ間敷侯間、今 日より廿 日之間二用意仕可帰国侯、其中に下々伴天連 に不 謂族 申懸 もの在之ハ、曲事たるへ き事 ‑‑ 天 正十五年六月十九 日

」(

12).

さらに、徳川家康は、1

6 35

年にすべての日本船 の海外渡航 を禁 じた。1

6 3 7

年か ら

1 6 38

年には島原 の乱が起 き、平定後外国人 に対する対応 をます ま す厳 しくした

‑ 自今以後、かれ うた渡海之 儀被停止之華、此上若差渡 にをひてハ、破却其船、

拝乗来者悉可処斬罪之旨所被 仰出、偽執達如件

(12)O こうして1

639

年 にボル トガ)i,船 の 日本へ の 来航 を禁止 した。1

6 41

年にはオランダ商館 を長崎 の出島に転出 させた

( l

l

)

(図 1)。 オランダは、出 島移転 に先立つ1

61 4

年に平戸で貿易 を開始 してい た。

一 ‑ ‑ ・ ・ ・ . ‑ ・ . ・ . ・ . ‑ ・ . ・ . ・ E E ] l 明 魚 呈 交 交 通 通 路 路 .

図 1 明 ( 1 3 6 8‑1 6 4 4)と日本の交通路この時

期平戸は交通の要所になっていた (家永三

郎 ,1 9

77より引用)

江戸幕府は、交易 を長崎の出島に限 り、海外 と

の交流 を一切禁止する鎖国政策 を実施するに至 っ た.一万、1

6

13年 にキリシタン禁教令 を出 し、キ リス ト教信仰 を全面的に禁止 した。信仰心の厚か った高山右近は、家康 により

1 61 4

年 にマニラに追 放 されている。安土 ・桃 山時代 まで盛んに行 われ てきたポル トガルとの交易 と、信長の庇護の下ポ ル トガル人宣教師たちが 日本人の間で行 った活発 な布教活動は、西洋人 と日本人の接触 もた らして きた。 こうした 日本 と西洋の交流 も江戸時代 に入 り、ほぼ完全 に遮断されたのである。 日本人の海 外渡航 も海外か らの異人の来航 も一切禁止 された 江戸時代、一般民衆 に限 らず武士、貿易商人にお いて も西洋人 と接する機会は全 くな くなった。海 外の事情は、ただ出島を通 じて、それ も交易 を許 されたオランダ人を介 して細々 と伝 えられるにす ぎな くなった。 しか し、海外か ら隔絶された環境 にあ りなが ら、西洋の事情 に強い関心を示す人 も いた。杉 田玄白や新井白石はその代表である。

外国船が 日本近海に現れ、乗員が 日本 に上陸す ることもまれにはあった。その際の取 り調べの記 録 には、事情聴取する役人側が海外および異人に 対 し津々たる興味 をもって臨んだ様子が よく記 さ れている。

幕末 にいた り、諸外国か ら通商 を迫 られるまで の間、 ヨーロッパ との交流のなかったほとんどの 日本人は、西洋人 に対する人種的ステレオタイプ をもっていなかった と考 えられる。本箱では、外 国人、 とくに西洋人 と黒人 に対する日本人の人種 ステレオタイプ形成の心理一歴史的背景 を

、1 6

紀中頃外国船が種子島に漂着 した頃か ら、鎖国体 制に入 った江戸時代中期 頃までの時期 に焦点 を当 てて検討する。

日本人 の西洋人観 一銭 国 以前 ‑

1 西洋人の種子島漂着

日本人が初めて西洋の人を見たのは1

5 43

年 ( 文1

2

年)のことだ (南蛮船 は、1

0 20

年 に薩州へ来 たが撃却 し

、1 408

年 には足利義持 に孔雀、弟鵡、

黒象種々貢 し

、1 41 2

年 にも入貢 した という)

( 2

7) イエズス会のフランシスコ ・ザ ビエルの日本訪問

‑ 74‑

6

年前 になる。種子島の もっとも南 に位置する 西之村の沖合 に大 きな船が現れた。船か ら何人か の異人が上陸 したが、姿、形、話す言葉 も日本人 とは全 く異 な り、意志疎通に苦労 した。上陸 した 船客の中にはポル トガル人

3

人が含 まれていた。

言葉は通 じなかったが、明国の五峰 という人がい たので、漢文 に通暁 していた織部丞時貫が砂浜 に 漠文体で話す内容 を書 くことによって問答 を成 り 立たせた という。乗員の中にはピン トという東 ア ジアに関心 を持つポル トガル人がいた ともいわれ る。 ピン トらは、揚子江 を下って海上 に出、東南 に向けて進んだが、途中海賊 と戦 うなど苦難 に遭 遇 した。「船は三 日二晩、荒れ狂 う生死 の海 をの た うちまわった。‑八月二十五 日の早暁、低 い島 影の南の端 に近 く、丸腰 の錨 をおろした。‑小舟 がおろされた。‑向かっている島が種子島 とは誰 も知 るよしがなかった

」 (9)

。 ピン ト

( 1 8)

によれば こうである。船が破損 したまま航海を続けている と、陸か ら強烈 な大嵐が襲いかか り、陸地 を見失 って しまった。追い風 に乗 って、琉球の島に避難 せ ざるを得なかった。 ミアイジマ という大 きな集 落近 くまで地元の丸木舟 に乗 った男たちに案内さ れ投錨 した。「投錨後二時間もせぬ うちに、種子 島の王 ナウタキンが、大勢の商人 と貴人を従 え、

交易用の銀 をいっぱい詰め込んだ多数の箱 を携え て‑・ジャンク船 に来た。‑私たち三人のポル トガ ル人を見 ると、この三人は何者か と尋ねた。顔立 ちが違 っているの と、麦 を生や しているところか ら、シナ人ではないことに気付 いたか らである」。

この時ジャンク船の持 ち主であるシナ人船長 との 会話の通訳 を務めたのは琉球女だった という。島 王 ナウタキンは船 を くまな く見 てまわ り、「私 た ちについて知 りたい と思 う詳細 な点 を幾つか質問 した。‑彼 は私たちとの会話で多 くの時間を費や し、あ らゆる質問において好奇心 に富んだ新奇 を 好 む人であることを示 した」。ピン トらは、「翌 日、

夜 が明ける と、上陸 し私 たち三人全員 と、鳳来 重々 しく権威のあ りそ うに思われた十ない し十二 人のシナ人 を連れていった」。島王 の邸で商品の 売買 を行 った。ナウタキンはポル トガル人三人に 強い関心 を示 し、「船長 とその部下全員 を過 らせ ると、その夜 は陸の自分のもとに残 って貰 いたい

と言ったoなぜ なら、 自分が大いに知 りたい と思 っている世界のさまざまなことについて、まだ充 分質問 していないか らである」。 日本 の人々はみ な生来大変親切で愛想が よい とピン トは書いてい る。

彼 らは、種子島を訪れた豊後 の王か らの使者に 会い、豊後訪問を要請 された。豊後 の王の手紙が 紹介 されているが、そ こには風聞による日本人以 外 の人種 についての言及があ り、興味深い。「 そなた (種子島王)の町には、世界の果ての天竺 人が三人いて、彼等 は‑外部 にある世界のあらゆ ることについてそ なたにた くさんの情報 を提僕 し、 この我 らの国 よりもず っと大 きな、我 らの判 断では信 じられないことではあるが、黒人や褐色 人の住 む土地がある と述べ ている」。彼 らは豊後 の王の依頼 を受け、彼地を訪問 し、鉄砲 を伝 えた と書いている。王の寵愛する1

6,1 7

歳の少年が火 縄銃 を撃った とき、火薬の量 を間違 え銃が破裂 し、

右手の親指がち ぎれるほどのけが を負 った。「 緒 にいた二人は宮殿 に向かって逃げ出 し、みちみ ち 『外 国人の鉄砲が王の子 を殺 した』 と叫んでい った。その声で人々の間に大騒動が持 ち上が り、

町中大混乱 とな り、人々は哀れな私のいる家 に武 器 を持ち大 きな叫び声 を上げなが ら駆けつけて来 た」。住民 との密度 の濃い交流、意志疎通が さし たることばの支障 もな く行 われたかのようにも読 み とれる。 しか し、漂着 した船が ピン トらを乗せ た ものだったのか否か確たる証拠はない。当時の 日本 の記録 と食 い違 うところもある。 ここでは、

ピン トについては岡村 の見解 に従 うことにす る。

事実 を書いた旅行記 というよ りも、荒唐無稽 な 冒険青 とみなされ、‑・ピン トは大嘘つ きの代名詞 として通 っていた。・‑最近では、『遍歴記』 は事 実 とフィクシ ョンとを巧みに織 りまぜた文学作品 であるということに研究者の意見 はほぼ一致 して お り、大航海時代の側面史 としての価値 もさるこ となが ら、純粋 な文学作品 として評価 しようとす る方向が見 られる

」 ( 1

7)。 ピン トの記録 に部分的 に真実は含 まれていると考 えられる。

日本の記録 を見 よう。「西の相浦 に一大船来す。

何 れの国より来たれるかを知 らず。其の人、形類 せず、語通ぜず、見 る者以て奇怪 と為す。西 ノ村

‑ 75

(3)

の事に西村織部丞時貫 という者あ り、枚 を以て沙 上 に書 して云 うF知 らず船客何 れの国の人な りや』

と。大明の儒 生五峰 とい う者 あ り、書 して云 う

是れ南蛮種 の要人な り、怪 しむべ き者 にあ らず』

と。即 ち時貫、人を遣わして恵時 に告げ しむ。群 臣に命 じ、軽舟 をして之 を曳か しむ。二十七 日、

舟 を赤尾木の津 に入る.貫胡の長二人あ り、‑ を 牟良叔舎 と日い、‑ を貴利志多陀孟太 という‑」

(9)

(

1 0)

(種子 島豪語の第二巻、天文十二年八 月二 十五 日)。薩摩の禅僧南清文之は、後 にこの事件

を 「鉄砲記」 として再録 していて、当時の事情 を 知ることができる。それによれば、舟 には 「船客 百除人」 とあ り、大勢乗 り組 んでいた。「船中の 客、何れの園の人なるを知 らず、なんぞその形の ことなるや」。容姿外貌が 日本人 と大 きく異 な り、

その理由を問 うている。五峰答 えて日 く、「此 は 是西南蟹種の貢胡 な り、ほ ゞ君臣の義 を知 ると錐 も、未だ穫貌その中に在 るを知 らず、 この故 に、

その飲むや杯飲 して杯せず、その食するや手食 し て箸せず、徒 に噂欲のその情に惜ふ を知 りて、文 学のその理 に通ず るを知 らざるな り」。怪 しい者 ではないが、礼儀 を知 らず、手で飲食 をする野蛮 人である と記 している。同家譜 には、「天文十三 年甲辰春。南蟹船漂束子熊野浦。」 と記 され、

翌年にも南蛮船が来航 したことがわかる。外見が 日本人 と大 きく異 な り、文化や慣習の違 う南蛮人 を目の当た りにして、住民はどのような思いを抱 いたのであろうか。先入観 も何 もな く驚 きだけが 先行 していたのではないだろうか。

その後、 日本人の西洋人 との接触 は、ザ ビエル をはじめ とするイエズス会宣教師の布教活動 を待 つ ことになる

。1 5 8 2

年 (天正10年)にキリシタン 大名 (大村、有馬、大友)は

、4

人の天正遣欧使 節 (伊藤マ ンシ ヨ、千々石 ミゲル、原マルチノ、

中浦 ジュ リアン) を西欧 に送 り出 した。彼 らは

1 5 9 0

年 に帰国し、西欧各国での

8

年間に及ぶ見聞 を口述 し記録 した。彼 らの回顧録 には、当時の日 本人が西洋人、 とりわけポル トガル人 に対 して感 じていた印象が記載されてお り、前述の種子島島 民 を初め、 日本人が出会った西洋人に対 して抱い た印象 を探 る手がか りを与 えて くれる貴重な資料 である。

2

遣欧使節の見た世界の中の 日本

天正の遣欧使節は、帰国後 ヨーロッパの実情 を つぶ さに藩に知 らせ、 日本 は世界の中の一小国で あることを教 える重要な契機 になった。千々石 ミ ゲルは

、1 5 9 0

年10月

4

日付 けでエーヴオラの大司 教 ドン ・テオ トニオ宛 に帰国事情 を書いた書簡を 送 っている。「七月二十一 日に長崎港 に着 きまし た。一行はキ リシタン信徒一同の、とりわけ母親、

友人たちの筆舌 に尽 くし難い歓喜、歓呼をもって 迎えられました。‑異教徒 自らが、私たちの幸運 な上陸に、皆 目をみは り感嘆 して出迎 えるほどで した

」 (

14)。少年使節 は巡察師 に同行 し秀吉 に謁 見 している。「関白殿 の巡察師様招曙 に際 しては、

私たちも同行 しました。私たちが この目で数々見 てきた感嘆すべ きヨーロッパ事情、なかんず くデ ウス様 の礼拝 に関す る事柄 を話す機会が設 け ら れ、人々がそれを聞き入れて くれたならば、‑不 信仰か ら信仰への道が容易 に拓 けるであろうと、

確信 しています」(14).巡察師 ヴァリニ ヤーノー 行 は、謁見のために上京する途中で ヨーロッパ事 情 を諸侯 に説 き広 めている。「室 に滞在 している ときに、・‑多 くの諸侯が、 ヨーロッパの事情 を聞 こうと好奇心 に魅せ られて、この地で巡察師、四 名の 日本の公子 (伊藤マンショら)やポル トガル 人に逢 って種々の話 を非常 に興味深 く聞いた.一 行は、携帯 していた世界地図について、 とりわけ シナで措かれた大 きい図柄の精巧 に措かれたイタ リアの図を見せ‑ローマについて説明 した。‑時 計、全園儀 (アス トロラビヨ)、お よび非常 に珍 しい書物 など、イタリアか ら持ち帰 った品々を見 せたので、皆は驚嘆 し仰天 した

」(

14)0

秀吉 は、イン ド副王の使者 として巡察師に会 う 事 を許 した。この ときの一行の行列は豪華絢欄で、

見物 した人々 を驚かせた。一行 と会 った秀吉 は、

ことさら 「(伊藤) ドン ・マ ンシ ョとは相当長 ら く留 まって (話 を交わ し)、非常 な愛情 といつ く しみ を示 した。そ して、「もし」汝 自らが政庁 に 留 まることを望むなら、汝 に多 くの職務 を与えよ うか ら、留 まっては どうか

」 ( 1 4)

と勧告 してや ま なかった (一五九二年十月一 日付、イエズス会総 長宛 のルイス ・フロイス一五九一、一五九二年 度 ・日本年報)。彼 らにヨーロッパで学んだ音楽

‑ 7 6‑

をシンバル、その他の弦楽器で繰 り返 し演奏 させ、

彼 らが 日本人であることを喜んだ という。 自らの 体験 としてヨーロッパの様子 を語 り、珍 しい物 を 提示する使節の聴衆 に与えた影響は大 きかった。

みずか ら日本人が ヨーロッパ に赴 き、 日本人 としてヨーロッパ を見 てその見 聞の成果が記 され た ものは、 きわめて少 ない。本書 はこの、 きわめ て少ない ものの一つであ り、 しか も十六世紀の見 聞録 としてそのもっとも古いものであるばか りで な く、また もっとも詳細 なものであ り、 しか もそ の見聞者たちの恵 まれた資格 と環境 によって、ふ つ う一般の旅行者ばか りか、特別の資格 を持つ国 家使節 もまた今 日でさえ、 うかがい知 ることので きない ところに参入 し、許 されることの少ない特 別 の盛儀 に参列 している

」 (5)

。使節 となった

4

人の少年は

1 2,1 3

歳の若 さであ り、柔軟 に西洋の 文化 を取 り入れ、 日本の文化、慣習 と西洋のそれ らとの違いをよく理解 していた。 このことが、当 時の日本人が もっていた西洋人観 と、彼 らの西洋 における現実の経験や印象 とを比較することを可 能 にした。彼 らは、 日本 と西洋の違いを明確 に意 識 して西欧を語 っていて当時の 日本人の 日本およ び世界の認識の し方、西洋人観 を知る上で有意義 な資料 になっている。記録は、イエズス会の信者 である日本人 レオとリノが少年使節 4人に西洋 に 関する疑問を尋ね、 4人がそれに対 して答 え説明 す るといった形式で進め られた。「レオ とリノは かつて日本 を出 しことなき者 にして、西洋の事情 につ きてはなおいまだ知るところな く、 もっぱら 他 の 4人 (マ ンショ、 ミゲル、マルチノ、ジュリ アン)‑か くも多 くの知識 を獲て帰来せ し四人に 各般 の事情 を問い質すべ きもの

」 (5)

とされ、世 界 を全 く知 らなかった 日本人が西洋人をどのよう

に とらえた らよいのか を問いかけていて興味深

い 。

ヨーロッパはどこにあるのか との質問にミゲル は次 の ように答 えている。「われわれ 日本人 は、

た とえていえば、まった くよその世界 とで もいう べ きかのヨーロッパの土地か らもっとも遠 く離れ た この島々に住んでいて、われわれはこれ ら F 国』の人々 とは交易や事物の交渉がはなはだ少な かった。このため今 までわれわれは日本 のほかに、

ただシナやシャムなどの近隣の国々のことしか知 らず、またわかって もいなかった。 これ以外 には Fナ ンバ ンジン』 (南蛮人)、す なわち南方の人々 の国々について、‑わずかに暖味な噂のようなも のが伝 えられているのみであった。 こうした速い 国々のことをわれわれは 『ナンバ ン』 と呼び、シ ナの人々は 『ナ ンフアン』、すなわち南の方面 と 呼 んでいる

」 (5)

。世界 は広大であ り、 日本人が 知 っているシナやシャムは全世界の多 くの国々の 中の極一部 にす ぎないこと、世界 はヨーロッパ、

アフリカ、アジア、アメリカ、お よび未知の土地 と呼んでいる大陸か らなっていることを説いてい る。地球上 には広大 な大陸がい くつ も広が り、 日 本 はご く」、さな島国にす ぎないことを知 る日本人 はこの頃ほとんどいなかった。地球、全世界の地 図 ・地理 を知った レオとリノの驚 きはわれわれの 想像以上に大 きかったに違いない。

3

手掴み ・唾棄する野蛮な西洋人

日本 に来た宣教師は、容貌や服装が 日本人 と全 く異 な り異形の人 として受 け とめ られた。「彼 ら の服装や暮 らし方ばか りを見 て、‑外面的な徴証 に従 って日本人たちはパ ドレ方の伝 えられる方 と いうものゐ中には、下等 な生活様式 も含 まれてい るとい うような判断、 とい うよ りは臆断 を下 し、

その他種 々の疑惑 に陥 っていた

」 (5)

とミゲルは 指摘 し、表面的な墳事 にとらわれる日本人の西洋 人観は否定的す ぎると語 っている。

日本人が西洋人、即 ちポル トガル人を野蛮人 と 見 なす理由についての彼 らの問答が興味深い。最 初期 における日本人の西洋人観形成の過程 を知 る 手がか りになると思われるので、長 くなるが丁寧 に見てお くことにす る。 リノは、 ヨーロッパ人は 床 の上 に直 に座 らず、椅子 に座 るというが、それ では礼節 を重んじ、お互いに優雅の徳 を示 し合 う ことがで きないのではないか、西洋人は優雅 さな ど一顧 だにしないのではないか、と疑問を呈 した。

それに対 し、 ミゲルは、 ヨーロッパ には優雅の徳 も、種々の考慮 も規範 も存在 し、その遵守の仕方 が 日本 と異 なるだけだ と答 えている。「寝 る方式 が大いに異 なっているし、衣食いっさいの方式 も ずいぶんと違 うのだか ら、礼儀作法の教 え もまた

‑ 7 7‑

(4)

大いに異 なっているの も不思議 はない。われわれ はそれに馴れない ものだか ら、日本‑来 るポル ト ガル人を野蛮人扱いにし、人 としての教養 に欠け ていると考 えるのである

」 (5)

、 と答 えている。

ポル トガル人が 日本人に野蛮人 としてみ られた 理由は、両者の文化 の違いに大 きな原因があった。

宣教師の最高監督者であった巡察師ヴァリニヤー ノも両文化 の食い違いを指摘 している。「我等 は 相手 に敬 意 を払 うには帽子 を とって立 ち上が る が、彼等 は反対 に履 き物 を脱 いで坐 るのであ り、

立って誰かを迎えることは、はなはだ しく無礼で ある と考 えられている

そ うしなければ、我等 は野蛮人であ り、育 ちが悪い者 と思 われる

」 ( 2)

0 文化の違いか ら生 まれた西洋人の振 る舞いに対す

る日本人の違和感、嫌悪感は、「文明開化」が行 われ西洋文化一色 に染 まる明治期 にもそのままあ てはまる点で重要である。この点については、稿 を改めて論ずることにしたい。

レオはなお も問 う.「といって も、あん別 こ理 法にはずれたことばか りす る者 どもを、 どうして 野蛮人 と思わず にいられようか。実際彼 らは靴 も 脱がず、艦当 (脚粁) もとらず に、お寺に上が り こんで、いや、そ こで ところ嫌わずやた らに唾 は 吐 くし、疾 は飛 ばす し、われわれの使 っている 畳 ・席 を、遠慮会釈 もなしに蔵す し汚す し、その 他、人 としての教養 をまった く欠 くと思われるこ の種 のことをな して憤 らないのである

」 (5)

。 ミ ゲルは答 える。「それは決 して無作法か らのこと ではな く、む しろひとえに、恭謙 ・優雅 に振舞 う ことについての彼 らの教 えや定めが、われわれの もの とは違 うところか ら生 じることに違いない。

ポル トガル人の言語 を知 らないわれわれが、彼 ら の人々の話 しぶ りをいかにも野蛮 と思い、同様 に また 日本語 にたけていないポル トガル人たちが 日 本人のわれわれをいかにも野郡で、正 しく話 をす る術 も知 らない人間 と判断す るの と同 じように、

優雅の徳 といって も、その考 え方、行 き方は、み な銘々に違 うのだか ら、おたがいに相手 を野郎だ の、無骨だのと思 うことになるのだ。だか ら今の お寺の中で、あんまり礼儀があるとはみえない と いう話 にした ところで、あの人々の坐 り方の習慣 を考 えてやれば、あなたにして もそうはお考 えに

ならないであろう。なにしろあの人々は椅子 に坐 る人たちで、われわれのように藁でつ くった席 は 用いず、床 はすべて石 なので、だか ら土地の上 に 疾唾 を吐 くのは、かの人々にしては、それほど不 作法で もないことになるのだ。特 に元来、あの人 たちは、この点では慎み深 く遠慮深い人々で、出 る疾 などは一般 に手巾で拭 き取 っている くらいだ か ら

」 (5) 0

さらに、「物の 自然 に即 して考 えてみて も、 ヨ ーロッパ風 に椅子 に坐 る方がず っと適当だ。椅子 を使 えばある種 の威厳 を保ちなが ら、無駄な く体 を休めることがで きる。 じかに床 に座 るのは、へ たばったように見 えるばか りでな く、辛 く面倒 で 耐 え難 いことだ

」 (5)

。 ミゲルの この言葉 に対 し て、「あんな坐 り方があなた方 にそれほどお気 に 召す とは、あなた方は日本人 としての生まれをま った く失 って、 ヨーロッパ生 まれの人間になって しまった ように思 われる

」 (5)

と語 り、 レオは少 年使節が 日本人 としての本質 とアイデンティティ

を失 って しまったことに驚 きを示 した。なお もミ ゲルはつけ加 える。「他 の民族 の習慣 に注意 を払 う段 になると、われわれの坐 り方は、なお分が悪 い。 ヨーロッパ を除けば相当に洗練 された優雅 さ をそなえているのは、シナ人 くらいのもので、あ とはまった く未開のものたちばか りだが、そのシ ナ人 は ヨーロ ッパ人の ように椅子 に坐 ってい る が、その他すべての未開の民族 は、床 の上に直接 に座 るの を、われわれは見 て来た

」 (5)

。 こう言 いなが らも、 ミゲルは習慣の違いの問題であ り、

この種の論争は意味がない といなしている。

4

礼節を欠 く西洋人

レオは重ねて尋 ねた。「われわれ として怪許 に 堪 えないのは、商用で 日本へ来るポル トガル人た ちの生活の仕方や、処理の仕方が、 どうもお話 と はずいぶん違 うように見 えることだ。事実、彼 ら はその食卓で清潔の規範 を守っているようには思 われないし、食べ るものにも選択 をせず、われわ れとしてはとて も食べ られた ものではないのに手 当た り次第に牛肉であれ豚肉であれ、そのほかそ うした肉類 をやた らに食べ るばか りか、箸 も使 わ ず、いきな り手掴みに取 り扱 って何 とも醜いばか

‑ 78 ‑

りか、そのほかにもこの種 のことを常 に行 なって 一向意 に介せず、われわれの性質や習慣か らは、

とて もや りきれないことをする。そのうえ彼 ら は、食卓の用 に、エチオピア人 らしい人間たちや、

そのほか とて も人間としての洗練 にはまった く縁 が なさそうな色の黒い人間を侍 らせているのをわ れわれは見ているのだ

」 (5)

0

この疑問に対 して、貿易商人、船乗 りの不廉、

粗暴 さと同様 に、 日本 に派遣 される宣教師の質が 彼 らの行動 に反映 している、 とミゲルは返答 して いる。「日本人がその不審 を心 に抱 くの も無理 は ない。そういう人たちは何分、まだ日本 を離れた ことのない人たちなのだか ら。 しか も、当然、君 が抱 くような意見 をその人たちに持たせ る原因 も い くつか、ないとはいえない。今 までふつ うの日 本人が知ってきたのは、 日本へ来 るポル トガル人

ばか りだか ら、 日本人はこの種の人たちか ら推 し て一般 にそのほかの人々 についての判断 をつ く り、すべての者 を同 じ尺度 で計 っているのだが、

しか し、それは事実か ら非常 にはずれている。 と いうのは、 日本へそういう人々は、船主や少数の 商人 を除けば、たいていは商人の手代 であって、

こうした人間は、洗練 された教養 に親 しんだこと があまりない連中だか ら、 自然都雅の美徳 に反す る答めを受ける過 ちに陥るようなこともするだろ う。のみならずわざわざ日本 まで船で来 るそれら の人間は、平素、家居 して使い馴 れた品々をわが 身 と共 に持ち運んで くることがむずか しく、 自然 また、故郷での習慣で身につけて きた都雅 な風俗 よりも、応急の必要に仕 えなければならな くなる

(5

)。 しか し、彼 らとて家郷 の自分の家 にあれば、

もっときれいで もっと都雅 な暮 らしをしているは ずだ という。

食事 について も、慣用 と習慣の違いによるもの で、優劣の問題ではないとする。その上で、 ミゲ ルは西洋食 に賛辞 を与 えている。「本質上の見方 か ら食物のことを考 えると、何 といって も、 ヨー ロッパの食物の方が、 日本のよりず っと身体の養 いに適当 し、その味において人の喉 にもず っと満 足 を与 える ものだ と私 は固 く信 じてい る

」 (5)

0 手づかみで食べるポル トガル人の 「不作法」 につ いては次の ように説明 している。「ポル トガル人

は、肉類やその他の馳走 を、手掴みに扱 うという ことについてだが、われわれの見てきた ところで は、あれはヨーロッパで教養のある人々の間で常 に行 なわれていることではな く、教養のある人々 は、ふつ う、銀の肉叉や匙 を使 って皿の料理 をと るのが常だ。そのほか ときとしてポル トガル人が 手で肉に触れることがあって もそれは許 されるべ きことであって、彼 らはその際、テーブルの垂れ 布やナプキンの類 を使用 し、食卓 に着いていると きも食卓 を離れるときも、手 を洗 って手巾で拭い、

悪 い臭いの痕跡 を少 しで も残 してはならないと考 えているのだか ら。彼 らが直接 に手で肉を扱 うの は、軍事的生活か ら来た ものか と思 われるが、こ のや り方はイン ドでは一般的な習慣である。ああ いう軍事的な生活では、都雅 よりは、迅速 と必要 とが まず考慮せ らる ものである。『君がいわれた 黒い肌』の従者について一言いってお きたいのは、

日本へ連れてこられる従者は、イン ド、あるいは そのほかの ヨーロッパ以外 の土地で、金銭的に、

あるいはその他の権利 によって、買い とられた奴 隷 なのであるが、ヨーロッパで使 われているのは、

自由人であ り、上品で都雅な教育 を受けた ものた ちばか りだ

」 (5)

。一般 のポル トガル人 もイン ド など開化 されていない地で生活す ることによ り、

F野蛮 な人々』 の粗雑 な行動 を身につける場合が 多いことを認めている。 日本 に来た宣教師が連れ て きた黒人は奴隷であ り、 ヨーロッパで使 われて いた召使 いは奴隷 ではない市民であ り、 自由な 人々であることが強調 されている。少年使節 は、

黒人が奴隷状憩 にあることを当然視 している点 に 注意 してお きたい。

異人の掴み喰いはすでに記 した種子島の漂着船

( 1 543)

に関する記録 にも記述 されていた内容で ある。 日本 の文化 にはない行動 をするポル トガル 人を粗野で無教養 な野蛮人 と見 ていた様子が この や りとか らわかる。

日本人の黒人観 一銭 国以前 1

1 遣欧使節が詰る 「黒味を帯びた人々

唐人、毛唐、紅毛人、蕃夷、夷秋、南蛮人、異

‑ 7 9

(5)

国人。外国か ら来た人々を呼び慣わす ことばであ る。中国では古 くか ら、外国ない しは異民族 を夷 秋 、番人な どと呼 んでいたo宮崎 ̀1'によれば、

江戸時代の儒者たちは、 ヨーロッパ人をいわゆ る 『夏』 (中華)に対す る 『夷』 (夷秋) として軽 蔑す る態度 をとったことか ら、こういう用語 ( 夷)が生 まれた。『番夷』の番 はすなわち野番の 番 にあた る ものである。・‑旧教 国のポル トガル 人 ・イスパ ニヤ人 を南蛮 人 (「東夷 ・西戎 ・南 蛮 ・北」の中の南蛮) とよび、お くれてやって 来たイギ リス人 ・オランダ人を紅毛人 という呼び 方 もしている」。唐人は、中国、唐 の人 をさす こ ともあるが、外国人、異人を意味することが多いo 毛唐 は外 国人 を蔑視 した呼び方で毛唐 人 ともい

う。島国 日本 に来る外国人は船 を利用 したが、南 蛮人の乗 った船 を黒船 と呼んでいたo

鎖国以来、1

9

世紀後半になるまで長崎出島以外 に日本 に欧米人が渡来することはほ とんどなかっ た。出島 といえども役人 と遊女以外 は出入 りが禁 じられ、居住するオランダ人は出入 りの際 には許 可 を要す るほど厳 しく監視 された。 日本人で ヨー ロッパやイン ド、アメリカなどの海外諸国に渡 る 人は皆無であった。1

4

世紀か ら

1 6

世紀 に中国大陸 沿岸か ら朝鮮半島近海を駿屈 し荒 らし回った和冠 は海外 に進出 した とはいえ、西洋人 とその文化 を 日本 に直接 もた らしたわけではか ‑

01 6

世紀、イ ェズス会の宣教師の来 日が 白人 と黒人の存在 を日 本人に知 らしめたが、それは城下町 ・港町などの 一部の市 (まち) に限られていた。時たま外国船 が漂着することもあった ようだ.太閤記

( 26)

には 土佐の国に黒人を乗せた船が漂着 したことが載 っ ている。「土州長曾我部居城、ち ょうかの森、か っ ら潰、うら戸の湊 より、十八里湊に彩 しき大船、

慶長元年九月八 日寄来之旨、長曾我都万へ告来 し 也。即小船 を仕立、見せ につかはしければ、南警 固より、のびすぽんと云国へ、商買のため通ふ舟 にて侍 りけるが、甚風 に過て、棉新船損 じ、地先 より盟入、水 に渇 し過半死 して候。残て黒坊二百 五十人、 しんにょろ十人徐、商人四人許有。其外 五百人僚 はかな く成 しとな り」。非常 に多 くの黒 人が乗船 させ られていた。

外国船の来航はきわめて稀 なことであった。 し

たがって、ロシアや欧米の船が瀕繁 に日本近海に 出没する幕末に至 るまで、民衆が肌の色や髪の色、

日の色、 ことばの違いによって白人、黒人、黄色 人 といったいわゆる人種 の違いを意識することは なかった。 しか し、 日本人 と西洋人の接触が限定 された範囲だった とはいえ、西洋の とらえる黒人 観や ヨーロッパ以外の国に住む人々に関する観念 は、すでに日本 に紹介されていた。前述の天正遣 欧使節の記録 にも西洋流の黒人観が展開されてい るし、新井白石の西洋紀聞において もシ ドチか ら の聴取 として中国、東南アジア、イン ド、 ヨーロ ッパ に住む人々に対する 「人種観」が記 されてい る。何れの記述にも現代 に通 じる定型的な黒人観、

人種ステレオタイプが見 られる。まず、遣欧使節 の問答か ら当時のヨーロッパの人々の 「黒味 を帯 びた人

黄色人

黒人」 に関する観念 を探 って みよう。

ミゲルは言 う。「は じめてわれわれが この ( ンガポール)海峡 に住んでいる漁夫たちを見た と きの心のなごみは、まことに何 とい うべ きもので あったろうか。‑いかにも彼 らは棲家 として も宿 りとしても、 きわめて小 さい小舟のほかには何‑

っ便宜 を持 っていないか らである。 しか も、その 小舟は気候 ・天候のあらゆる災害 に対 して、ただ 郁子 の葉で葺 いた屋根で覆われているにす ぎず、

激 しい嵐の起 こるときは船をしか と海岸に縛 りつ け、こうして彼 らは自分たちこそまった く心の憂 いを離れた人間であると考 えているのであるo彼 らは色黒 く、ほとんど裸体で常々漁獲 によって生 活の資 をこしらえている

」 (5)

o

レオは肌の黒い人について尋ねた。「あなたは あの漁夫たちが黒い といわれたが、それについて、

お尋ね したいのは、ポル トガルの人の中にも、あ るいは彼 らに似た人たちがあるのであろうかo今 までにもそういう黒い人たちが 日本へ渡って くる のをずいぶん見たことはあるが、それ らは商人の 奴隷であった し、 また聞けば、このポル トガルの 種族では、身分の貴い人々は白い色 をしているが、

卑 しい者は、あたか も奴隷 となるために生まれて きたかの ように、色が黒い とい うことであるが

(5

)。 ミゲルはレオの考 えを誤 っていると否定 し ている。 しか し、それはポル トガル人の高貴 さを

‑ 8 0‑

主張するものであ り、奴隷化 した黒人の存在 を否 定す るものではなかった。「ポル トガルの人 にせ よ、仝 ヨーロッパの他 の人々にせ よ、彼 らは黒い 顔や整わない顔、歪 んだ輪郭などの人々ではな く、

彼 らは高貴 な顔 をし、四肢 の構成 も整 っていて、

色 も優美であ り、そのほかに自然 と人工 との勝れ た資 を蔵 していることは、話が進むにつれて次第 に確かなこととしてわかって くるであろう。 これ に反 して商人 に伴 われてわが国に来る者は黒奴 に せ よ、あるいは他の黒みを帯びた者 にせ よ、東洋 の方々の国か ら買われて きた奴隷である。元来、

人間の体 にさまざまの色がついているのは 身分 の貴腐の別ではな くて、気候 ・風土の性質 による のである。 したがって世界 には種 々さまざまの土 地 ・気候があるように、人々の体 の色 も実 に多種 多様である。た とえばヨーロッパの土地では白色 の高貴な色 を持たない種族 は一つ としてつ くられ ていないように、アフリカではすべての人々、ア ジアでは多 くの ものが暗色 につ くられてい る

(5

)。人の黄塵 は肌 の色 によらない と言いつつ も、

ミゲルは、白色の種族 は高貴であ り、 ヨーロッパ の人はすべ て白色 である と西洋人 を賞賛 してい る。

日本人は どの ように見 られていたのであろ う か。 日本 を巡察 したイエズス会のヴァリニヤーノ

(2

)は、次のように記 している。「人々はいずれ も 色 白 く、 きわめて礼儀正 しい。一般市民や労働者 で もその社会では驚嘆すべ き礼節 をもって上品に 育て られ、あたか も宮廷の使用人のように見受け られる。 この点においては、東洋 の他 の諸民族の みならず、我等 ヨーロッパ人 よりも優れている」。

国民は有能で、秀でた理解力 をもち、子 どももヨ ーロッパの子 どもよりも容易 に短期 間に (ポル ト ガル語)読み書 きで きるようになるし、下層民 も みなす ぐれ、ヨーロッパ に見 られる粗暴 さがない、

と絶賛 している。 しか し当時 日本人は、ポル トガ ル人か ら 「黒人」 と呼ばれ、一般 には蔑視 されて いた。「支邦人や 日本人 をも黒人 (ネグロ) と呼 ぶ習慣 になっているポル トガル人には、特 に忍び がたい ことである

」 (2)

と記 されているほどであ った。 日本人の肌が白い とはいって も、決 して高 貴なヨーロッパ人の白きではなかったのであるO

2

遣欧使節が詰るアフ リカ黒人

イ ン ド南端 にあるコモ リン岬周辺 に住 む人々 (マラバル人)について ミゲルはこう述べている。

彼 らはその諸慾 ・諸悪 の蛎 に抑 えられ、闇に目 が くらんでキリス トの法のもっとも赫 ゝたる光輝 をさえ認めることがで きないか らである。罪はよ くわれわれの精神 を闇夜で覆い、そのため眼 も天 上か らの光 に向け られない ようにす ることがあ る。 こうい うことは何 もあの地方のみではない、

日本 に も起 こってい ることだ。ただあの地方 の 人々は体の色が黒み を帯びているように、精神 も 魯鈍であって、 ともすれば悪 に向かいやすい性質

である

」 (5)

。肌 の色 の黒 い人々は精神 的能力 に

おいて劣 っていて、魯鈍だ というのだ。

レオの 「本当に土着 といわれるのはどんな人間 なのだろうか

」 (5)

との問いに、 ミゲルはこう答 えた。「イン ド人で、ポル トガル人が渡来す る前 か らイン ドの各地方 に住んでいた者たちだ。土着 のイン ドの人たちは黒ずんだ肌 の色 をしていて も 容貌 は醜悪ではな く、性質は卑屈であって もぶ さ をとればなかなかの ものである

」 (5) 0

今 までの あなたのお話か ら私 の考 えた ところが当たってい るなら、世界 に黒い肌 の人々はずいぶん と多数 に あるようだ。‑マライ人や ピスカーリアの住民 も このような皮膚の色 をして生 まれた者だ と、あな たははっきりいってお られた。だか ら、世 にこの 色 の種族 は非常 に多 い と考 えられるのだが

」 (5)

と驚 くリノ。 ミゲルの説明は続 く。「マ ラッカか らゴアまで、‑その距離は六百 レグア、 この間は すべて黒い顔の人々が住んでいる土地である。 し か し彼 ら以外 に、ず っと多 くの黒人たちが いる。

何 となれば他の土地は しばらくお き、イン ドか ら ポル トガルに至 るアフリカのかの三千 レグアに及 ぶ地帯 も、ラテン系の人たちはエチオピア人 とい い、俗 にはカーフィル と呼ばれる者たちが住んで いるか らだが、この人たちの顔 こそ真 っ黒で髪は 縮 れ、そのほか顔だち もイン ド人 とは異 なってい る。‑アジアの真ん中 とアフリカを貫 く長い長い 地帯 にも、同じ色合いの人たちが住 んでいる。だ か ら、黒い色の者は白い色の者 よりは少 な くない

と考 えねばならない

」 (5)

0

肌 の色 が なぜ 黒 くなるのか と、 リノは問 う。

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参照

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