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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

身心相関体としての人間存在の諸問題 −カント、

ハイデッガー、禅仏教に関説して−

著者 有福 孝岳

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 23

号 1

ページ 127‑151

発行年 1974‑11‑15

その他のタイトル Zur Problematik des menschlichen Daseins als Korrelat von Korper und Geist (Leib und Seele)

−Unter besonderer Berucksichtigung des philosophischen Denkens von Kant, Heidegger und des Zen‑Buddhismus−

URL http://hdl.handle.net/10105/2675

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身心相関体としての人間存在の諸問題

‑カント、ハイデッガー、禅仏教に閑説して‑

"I !" 〔'i  / I:i

(倫理学研究室) (昭和49年4月30日受理)

序 人間存在と世界の真相

そもそも人間とは何であるのか。カントは、形而上学(理論的知識)、遺徳(実践的行為)、宗 敬(理論的且つ実践的願望)を以て人間の本質(Was)を明らかにするものである、としたこと 周知の如くである①。之を要するに大別すれば、理論と実践、思惟と延長、心身、心物の二大分 野を以て人間存在を特色づけることができる。それは、人間自身の内的区分であると同時に、人 間と世界(自然)との外的区別でもある。即ち後述の如く、人間は世間、世界の内にある存在 であるO かかる位置付けにあって、人間は、理論的、恩弁的には、世界の一切事物(Sache, Ding)

‑心(Seele)や自我(Ich)をも含むものとしての‑の、 「河」 (Was)や「如何」 (Wie) を究問し、解明せんとする。その際、人間もまたかかる「認識の対象」としては物の一例にすぎ ない。併し、人間は単なる物の如く、常に眼前に存在するもの、対象、客体(初)として存在す るのみならず、かかる対象化、客体(観)化を可能にするもうー方の極としての主体(観)自身 として存在し、物の何を「知り」、事の如何を「造り、変革する」作用の主体、即ち総じて「実 践的主体」である①。即ち人間は他者‑自己内他者(人間)であれ、自己外他者(世界)であれ

‑に「関心」 (Interesse)を抱くことに於て、それへと働きかけ、自ら「実践的」となる「心 身」である。端的に理的存在者は心であり、端的に事的存在者は物であるが、普通、人間はその 何れにも偏極せずに、両者の相関体として、物心(身心) ‑如の実相的有として働く。そこに、

概念と対象、恩憶と有、理論と実践、知と行、白と他等々にみられる二つの異質的要素の同時存 在的特質‑ 「絶対矛盾的自己同一」 (西田哲学) ‑としての人間の中間存在的特色がある。

何故に、人間存在にとって、かくの如き矛盾的、異質的要素が、畢離しつつ、同時存在するの か.極言すれば、或いは一切の分別は尽く唯一のものの自己変様態にすぎないのではないか.或 いはスピノザの言う如く、一切の健界存在の諸事象は、唯一の不変的・普遍的実体たる「神」の

「様態」に他ならないのではないか.或いは「三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差 別」 (華厳経)、 「一月普く一切の水に現じ、一切の水月は一月に摂す」 (永嘉玄覚『証道歌』)と 言う如く、一切の変化差別(個的多)は、唯一のもの(全的‑)の自己変様態に他ならず、それ は恰も「一切の水橋も叉大海に帰する」が如しであるO即ち海面を鰍こすれば、一切の土地の高 低も陸続きの唯二大地の自己変様態にすぎぬと知り乍ら、何故に吾々はこの個々の水滴を追い求 め、分別境界付けられた小土地を維持せんとするのであろうか。元々、大地寸土、日月星辰、あ

りとしあらゆるものは、唯一つのものであることは恐らく宇宙の真相であろうO然るに吾々は何

127

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128 有 裾 孝 岳

故に、殊更に、心意識のなせる分別相、小区分に執着し、元々の実相である「無分別」の「唯一 性」を観察し、之に観入し、之と‑如なることに番であるのか。

更にまた問うことができる。若し、究極の実相が唯一の円相であるならば、如何なる変化もな く、知るとか、認識するとかということも生じ得ない、寧ろ、知るとはまさに変化有るを知るの であって、如何なる変化もなき処に向っては、知るということさえも起来し得ない。空漠たる処 に於ては、人間的分別心は、何ら手を着け、足を踏む場を有する能わず、さすれば、例えば、哲 学とか倫理学とか、或いは歴史学、物理学、生物学、幾何学等々の区別や鶴城は如何にして成立 するか、と。

或いはひとは言おうO元々、吾々の「知る」べき対象領域全体は不変であり、宇宙のありとし あらゆるものである。諸学の特殊領域は勿論存在するが、それは究極的なものではなく、寧ろ各 学問の問の立て方の差異によって各々の学問が成立する。それゆえ、問い方を異にする種々の問 即ち学問を問う「人間」主体そのものが、如何なる「実相」を有しておるかを究明すれば、吾々

は、 「如何にして分別・区別が人間主体に於て生じ来るか」の問に多少なりとも答え得るであろ う。

当面の課題を遂行する為に、吾々は先ず、カントの認識能力分析に於ける、悟性と感性との中 間に介在する「構想力」を把え、その本質を究明し、更に実践的遺徳的分野に於ける、理性(逮 徳法則)と感性(人間窓意)との相互関係に於て生ずる「尊敬の感情」を解明する(節‑章)0

ゾ,vケ'

次に、人間を「現有」 (Dasein)として把え、 「現有の有」 (Sein des Daseins)を「慮知心」

(Sorge)として親足し、かくて人間は自らの「有」が「無」に帰する「死」を最も恐れ, 「寛 有」を「死への有」として正視し、引き受けることに於て、 「将来」への「先駆的覚悟性」 (Die vorlaufende Entschlossenheit)が生じ来るとする‑イデッガーの諸説を退尋する(第二章)0 最後に、かかる西洋の二大哲学に対して、東洋特に禅的見地に於ては、身心問題は如何に考えら れているかを、特に「身心学道」を提唱する永平道元の思索を中心にして反省を加える。その際、

決定的相違点は、身心に対する二元論的分離観とその不二‑如観であり、そのことを通じて、自 我、人格、心に対する考え方の相違(意識的思量的自己と無心的非思量的自己)と生死に対する 考え方の相違(「魂の不滅」 〔心常身減〕と「不生不滅」)が生じて来る。それは、東西の人生観、

他界観を分つ根本的差異の一つでもある(第三毒)0

第一章 構想力と尊敬の感情 ‑カントの場合‑

§ 1.超越論的構想力(Die transzendentale Einbildung'skraft) (1)直観と思惟、多と一

周知の如く,カントは『純粋理性批判』に於ては、範噂の演縛に最大の力を用い、従って範鴫 を駆使すべき人間主体にあってはその「乗物」 (Vehikel)としての「超越論的統覚」即ち"Ich denke"の普遍妥当性を導出することにも最大の関心を払ったが(特に第二版演緯論参照)、そ

のことを通じて、高級認識能力としてほ「思惟‑般」の能力、自然への立法者としての悟性の客

観性に真理を託し、まさに人間的認識能力の有限的特色としての構想力、即ち感性と悟性の中間

的、第三者的、根源的能力としてのこの神秘力を、人間的感性的なものとして、そこから「退

却」⑧し、その限りで主体性を放棄し、客観的真理性へと己れを託した。此処では、カントの第

一批判に於ける構想力‑身体的感性と精神的悟性の問の中間媒体的認識能力‑の素描に従い

(4)

つつ、若干の反省を加えて見ようO

カントは「感性論」の冒頭に日く「如何なる仕方で及び如何なる手段を通じていつも認識は対 象に関わるのであれ、それを通じて認識が対象に直接的に関わり、それを全ての思惟が手段とし

0 0

て目ざしているかのものは、直観である」 (B33)c かかる受動的直観、受容された表象を、即ち それ自身多であり、バラバラなものを、概念的規定として統一されたものへともたらさねば、一 つの「認識」は生じ得なかった。つまり「直観」と「概念」は吾々の全認識の契機をなすもので

ある。蓋し「内容なき恩考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」 (B75)c さて然らば、一 つの認識が成立する時には、この直観と概念の綜合的統一が成立しておらねばならない。同時に、

感性と悟性、即ち空間、時間なる純粋直観を生み出す能力と純粋悟性概念としての範噂を生み出 す能力との媒介的統一が成立している筈である.同時に、主語と述語の媒介的統一(少くとも一 つの認識が判断の形態を取ることが可能である限り)、更に認識の主観と客観との媒介的統一が 成立しておらねばならない。事実、カント自身、 「超越論的図式論」に於て「超越論的構想力の 超越論的産物」としての「純粋図式」の機能をば‑ッキリと(i)感性的直観を純粋悟性概念の下 へと「包摂」 (Subsumtion)すること、 GO範鳴(純粋悟性概念)を現象一般へ「適応」

(Anwendung)すること、 (iii)かくしてそれは一方に於てば範鴫と、他方に於ては現象と同種性 の内にある「第三者」 (ein Drittes)である、と述べている(B176f)c かかる媒介的能力は当 然「知性的」 (intellektuell)且つ「感性的」 (sinnlich)でなければならぬ。

然らば以上の如き働きは如何にして可能かO カントE]く「悟性概念(範暗)は多様一般の純粋 な綜合的統一を含む。時間は、内宮の多様の形式的制約として、その純粋直観の内にア・プリオ

0 ° 0

リな多様を含む。さて一つの超越論的時間規定は,それが普遍的であり、ア・プリオリな規則に

CI  0

基づいている限りに於て範療(それは多様の統一をなす)と同種的であるO それは併し他面に於

o o       o o

て時間が多様の各々の経験的表象の内に含まれている限りに於て現象とも同種的である。だから 範晦の現象‑の通用は、悟性概念の図式として現象を範境の下へと媒介する超越論的時間規定

(Zeitbestimmung)を介して可能となるのである」 (B177f)。このことは後述の如く、相異な るものの出会はまさに「時」に於て可能である、ということに根本的に相即するであろう。

超越論的感性論に於てはカントは空間と時間とを「感性の形式」としては並列させてはいるが、

畢尭するに「時間」の方が、吾々人間心性の形式としてより精神的、抽象的である。何故なら、

単に「外的現象の形式」 「外宮の形式」として諸物(吾々の外なる)の「形態」や「状態」を規 定する「空間」とは異なって、 「時間」は「内官の形式即ち吾々自身の、及び吾々の内的状態の、

直観の形式」として「吾々の内的状態の内なる諸表象の関係を規定する」のであるから(B49f)0 即ち「観る者」としての「人間認識能力」を考察する限り、 「時間」は「直観一般の形式」とし て、 「空間」に比して、人間にとってより内在的親密性を有するであろう‑之に対して「働ら

0 0      0

く者」としての人間主体の行為能力を考慮する場合は主体即ち身体畢尭して物の働らきの場とし ての空間が極めて重要な鍵となるであろう。物の規定に直接関わる空間は吾々の心性にとって時 間よりも一層外的であるo何故なら、吾々の心性の変様態に他ならぬ時間は「主体の外に於ては 無」 (B51)であり、 「時間はそれ自身で成立したり或いは客観的規定としての諸々の物に附属 したりする或るものではない。つまり、時間という直観の全ての主観的制約を捨象する時にも、

残留したりする様な或るものではない」 (B49)のである。

ともあれ、感性、現象、直観は既にそれ自身の内に「超越論的構想力」の「超越論的時間規定」

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130 汀 福 ‑t is

へと還元・昇華される人間心性の「純粋直観」として「時間」的性格を物語っていたが、それで は「我考う」の「純粋思惟」即ち「純粋統覚」の方は果して如何なる状況下にあるか。此処で昔 々は、超越論的観念論にして同時に経験的実在論であることを端的に物語っている「全綜合判断

o  o  o  o  o      o  o  o  o  o  o  o  o  o  o  o

の最高命題」 ‑ 『経験一般を可能にする諸条件は同時に経験の対象を可能にする諸条件である』

(B197)‑の内に示されたこと、即ち、超越論的即経験的、形式的即質量的としての「同時」

的な、二異質的要素の出会い、 「即」の意味、深意を熟慮しなければならぬ。 「純粋統覚」とし

0 0

ての「純粋思惟」はまさに「純粋」であるが故に、それは「形式的統一」であり、多を己が内実

c  c、

として含んだ‑であり、それゆえ「綜合的統一」であり、全ての経験的個別的表象に於ても常に

「我考う」として「同一的・根源的」統一として予め前提されており‑「『我考う』は私の全表 象に伴われねばならない」 (B131)  、この多様な且つ個別的表象が、各表象として単独に成

り立ち得るのは、全ての経験に先行して始めて各経験を可能にする、この純粋統覚の「超越論的 統一」ある故にこそ、であるO併しそれ自身で見れば、純粋統覚は、諸知覚(多)を一にする一 的作用能力であるが故に、己れの内に如何なる内容をも有せず、恰も一切の「有るもの」 (Sei‑

endes)の根源としての「有」 (Sein)が「最普遍的」であった如くに、諸々の同心円の中心をな すO 己れは一切の有形のものを規定する規定者であるが、自らは他者によっては決して規定され ず、それ自身「定義不可能」であり乍ら、各表象に於て絶えず「我考う」として全く「自明的」

に働く(‑イデッガ‑ 『有と時』第‑節参照)0

かかる純粋形式性に着目した場合の「純粋統覚」が「範噂」の乗物である。然るに「範噂」は 単なる悟性的能力の産物にして、 「知性的」性格を有するものに留まる限り、吾々人間には如何 なる内容ある認識をももたらさない。経験するとはまさに経験される何ものかがあって始めて可 能なことであり、然らざれば何ら認識は増加しない。逆言すれば多様ー内容、諸対象は範噂的統 一に迄もたらされないならば、多はまさしく雑多に留まり、その限り、 「一定の対象」としての

「規定された或るもの」には全然成り得ないのである。

(2)多から‑へ。 「産出的構憩力」 (Die produktive Einbildung‑skraft)

かくて吾々にとって多様は統一へともたらされねばならず、統一はあくまで統一すべき多様を 己が内容としなければならぬ。さて然らば、この多を一にする道程そのものは一体全体如何なる 様相を呈しているのであろうか。カントに於ては感性的段階は尚未完成的であり、悟性的段階は 完成的である。然らば、未完から完‑、多から‑へ、元初から終点への移行そのものは如何に展 開されているかO即ち、吾々は多様を統一する前に、少くとも多様を「かき集める」こと、即ち 同類を取り、異類を捨てることによって統‑の可能性が準備されねばならぬ。これ即ち多様の統 一に先行する多様の「綜合」であるOカントは「さまざまな表象を相互に附加し、その多様性を

0 0

一つの認識に於て把える働らきを最も一般的な意味に於て綜合(Synthesis)」 (B103)と理解す るoかくて、吾々の表象の仝分析に先行して、綜合は与えられなければなら率い。蓋し如何なる

0 0 ° o  o  o  o  o  o

統一された概念と雌も、 「その内容に関しては」 (dem Inhalt nach)分析的に生ずる能わずO 多様の綜合は、成程始めはまだ粗雑で、混乱した(roh, verworren)ものであり、従ってまだ分 析を必要とする認識を与えるであろう。併し乍ら、 「綜合だけが、本来のところ、認識に対する

o o o o      o o O O O

諸要素を寄せ集め、或る内容へと結びつけるものである」。それは従I.,て「吾々が認識の第一源

泉について判定を下そうとする時には、注目しなければならぬ第‑のものである」(BIO3)c然る

に「綜合一般」は「構想力の魂の一つの不可欠的ではあるが、盲目的機能であり、 〔さりとて〕

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それなしには吾々は何処にも認識を全然有し得ないであろう。併しそれを吾々は稀にしか意識す

O  CI

ることはない」のである(ibid)。勿論、この綜合を「概念」へともたらす機能は、悟性(純粋統 覚)に属し、それによっで陰性が本来の完成的「認識」を吾々にもたらすべきだということはカ ントの持論である。

今、一つの認識形成を、人間認識能力の構造面より分解するならば‑勿論一つの認識はあく までまさに一つであるが故に、悉く同時的に働くべきであり、そのことは「三重の綜合」に於て 見られる如く、感性(純粋直観)にも、悟性(純粋統覚)にも尽く「構想力」的綜合が侵透作用 していることを物語るものである‑、一切の対象のア・プリオリな認識の為に吾々に与えられ

° CI

ておらねばならぬ第‑のものは「純粋直観の多様」であり、第二のものは「構想力によるこの多

° o       0 0

様の綜合」であり、併しまだそれは如何なる認識でもなく、この純粋綜合に「統一」を与え、こ の「必然的綜合的統一」の表象の内にのみ成立し、一つの現われ来るべき対象の認識の為に第三 の仕事を為し悟性に基づいているのは「概念(範鳴)」である(B104)e

サ^Kォ

かくの如く、それ自身では「単なる思考形式」であり、純粋に「知性的」な「範嘘」を、媒介 者としての構想力は、果して如何なる仕方で「現象」 (感官一般の対象)に適用し得るのである か.それがつまりは範噂の客観的実在性(objektive Realitat)成立如何の問題にも通ずるので あるO カントは「感官一般の対象への範噂の通用について」 (第二版の演群論§24参照)、以下の 如く語って日く「ア・プリオリに可能的であり、必然的である感性的直観の多様.のこの綜合は① 形態的figiirlich (synthesis speciosa)と名づけられることができ、 ⑧直観の多様一般に関して 単なる範嘘に於て思惟されておるであろう、且つ悟性結合(synthesis intellektualis)と呼ばれ

o  o  o  o

ている綜合とは異っている。両者は超越論的である。なぜなら、それらは自らア・プリオリに先 行するが故にのみならず、ア・プリオリな爾余の認識の可能性をも基礎づけるが故にである。併 し乍ら①その形態的綜合は、単に統覚の根源的綜合的統一、即ち董噂に於て思惟されねばならな いこの超越論的統一にのみ関わる場合には、 ⑧単なる知性的結合と区別して、 ⑧構想力の超越論

o  o  o  o  o  o  o  o  o  o  o  o

的綜合と呼ばれねばならない。構想力は一つの対象をそれが寛在していなくとも直観の内に表象 する能力である(i)さて全ての吾々の直観は感性的であるので、構想力はその下に於てのみ悟 性概念に対して呼応する或る直観を与えることのできる主観的制約の故に、感性に所属する。

00併し乍ら、その綜合が規定する(bestimmend)のであって、感官の様に単に規定され得る (bestimmbar)のではない自発性の行使である限りに於て、つまり感官を、その形式上、統覚の 統一に従って規定し得る限り、構想力はその限りに於て感性をア・プリオリに規定する能力であ

O  O  D  O  Q  O ° o     a  o  a

り、直観のその綜合は、範境に従っていて、構想力の超越論的綜合であらねばならない。そのこ とは悟性の感性への結果であり、吾々にとって可能な直観の諸対象への悟性の第‑の適用(同時 に爾余一切の根拠)であるO形態的〔綜合〕としての〔構想力の〕綜合は一切の構想力を欠いた、

単に悟性による知性的綜合から区別される。構想力がさて自発性である限り、私はそれをまた往 往生産的構想力(produktive Einbildungskraft)と呼んで、それによって之をその綜合が単に経 験的法則に、即ち連想(Assoziation)の法則に従っている再生的(reproduktiv)構想力と区別 する。後者はかくてア・プリオリな認識の可能性の解明の為にも何ものも寄与せず、その故に超 越論的哲学に属さず、心理学に属するものである云々」 (B151 f)。

以上の所論によって「超越論的生産的構想力」が邦辺に位置しているかが些か明かになったo

対象が存せずとも、之を直観に於て表象する能力とは既に自己矛盾的概念であり、その自己矛盾

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132

打 福 音Ifi

性にとりわけ、相桔抗する両極を仲介しつつ、従って自己否定的に自己を形成する能力としての 構想力の特色が瞥見されるのである。人間的直観が感性的である限りは、対象は何時か、何処か で経験的対象として個別化特殊化されねばならない。即ち現実性(経験)への可能性を港たさね ばならない。今此処に有らずとも、過去・未来に於て、何処かに於て、経験可能なものとしての 諸条件を満たすべき対象を「創造的」に「生産」する構想力のみが、かの「純粋直観」と「純粋 統覚」の媒介的綜合を可能にするのである。それは単に「多様」を「綜合」し、之を統覚の「統 一」に委ねる如き、三能力の‑即ち、材的役割しか果し得ぬ、三者並列的中間能力以上のもので ある。併し乍ら構想力は「感性論」と「論理学」とに大別される「純粋理性批判」の内には己れ 自身の固定的定住居を有きず、己れ自身の具体「相」を露わに示さないO そのことは逆に構想力 に「転住可能性」 (Freiziigigkeit)を与え、神出鬼没の機能(「用」)を可能ならしめ、かくて構 想力は、或いは感性的直観との其働作用に於て、 「形像的」連関で以て直観中に現存しない対象を 表象せしめ、或いは更に悟性的連関作用に於ては、それ自身では「対象一般」 (Gegenstand iiberhaupt)に関わる「思惟の形式」にすぎない「範噂」に対して具体的な認識を与えるべく

「図式」 (Schema)を生み出す。それは「経験から自由にして、経験を始めて可能にする純粋な 生産的構想力」として相桔抗する、悟性と感性、 ‑多、範噂と現象、思惟と直観、主語と述語、

主観と客観、等々の創造的「媒体」であることに於て己れ自身を形成して行く「形成的媒体」

(Die bildende Mitte)に他ならない(Vgl. KPM, § 26)0

‑イデッガ〜に従えば、 「吾々の心性の能力を超越論的能力として理解することは、これら諸 能力が如何にして超越(Transzendenz)の本質を可能にするか、ということに向ってこれら諸

t 4 ° ° t ° ° °

能力を富わならしめることであり、能力とは此処では、魂の内に休らい憩うている如き原動力で

o  o  o  o  o      o  o  o  o  o  o o ° o o  o  o

はなくて、有論的超越(die ontologische Transzendenz)の本質的構造を可能にする、という 意味に於てかかる現象を為し能うものを意味する」 (KPM. 124, §27)c 即ち、可能性とは何か 静的な対象物の有している性状の如きものではなくて、 「有るものが真に有る」ことを可能にす る、動的活動作用そのものを意味するのである。かく解すると、超越論的構想力は純粋な直観と 思惟との間の先行媒体であるのみならず、先行的根源であり、両者の等根源性の当体のもつ能力 であり、両者と共にあって両者の根源的統一を可能にする「根本能力」であり、そこへと向って 両者が両者でなくなり、そこから両者が両者として出現し来る、両者の超越全体の本質的統一の 根拠であり、之を可能にするものである。蓋し「吾々は全てのア・プリオリな認識の根底に存す る人間的魂の根本能力として一つの純粋な構想力を有する」 (A124)。相を現わさず、用として 働らく超越論的構想力の内実的綜合は、外面傍観者にとっては不明であり、当事者のみがよく知 る事柄の本質的出来事である。 (「唯独自明了・余人所不見」)。然も構想力はそれなしには吾々 は如何なる認識をも持ち得ざる必須能力であった。何故なら構想力を通じて範境は始めて現象に 適用され得る、従ってレアールな、言わば生きた範鳴となるO範噂と現象との出会いは両者が「

時間規定」へと自己否定され、並列的二重性が三重的一重性へともたらされることに於て可能で あるOそこで始めて一つの「認識」が生じた。認識の「契機の所謂三重性は、超越論的演縛に於 てその可能的統一という点で究明され、超越論的図式論を通じて基礎づけられる」 (KPM 124 f)0 然るにカントは他の箇所で人間的心性にただ二つの根本源泉即ち感性と悟性との「二つの斡」

だけがあり、 「これら二つの認識源泉以外には吾々は他のものを全然もたない」 (B350)と言う。

この矛盾は如何にして解決されるか。元々、構想力は,故郷を失い、感性論に於ても直観の内に

消失し、主題化されず、論理学に於ても、純粋恩憶の名の下に主導的役割を駆逐されている。併

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し乍らそれは、人間認識の二大特色である「直観」と「思惟」の能力を抽象化孤立化して、その 能力そのものを機能的に分析せんが為の‑方便であり、熱々考うれば、実際は認識は一つであり、

前二者の等根源的綜合に於て、つまりは構想力の働らきの内で成立する。かの二面的成果は、そ れらが共通地盤に向って自己否定的に超越されるべき何処へ(Wohin)を示す指針(等根源的‑) に他ならない。だから、感性と悟性は「二本の幹」ではあるが、構想力は両者の共通な「一本の 根」である、 「幹」を見る同じ見識で以ては「根」を見ることはできない。幹が幹として始めて 可能にされたその大元を、従って全体的遵餌を考慮しなければならぬO そこでは第三項は二をも 含んだ‑であり、そこで二が一になり、その‑の内で二が働くO二が己れならざる‑を通じて共 通の三を含んだ‑として働く。かくの如く真実は鼎関的形態(三重的一重性)をなしている。従 ってカントが「主体(観)的認識源泉」 (subjektive Erkenntllisquelle, Al15)と言う場合、特 に感性と悟性との問にではなく、感覚〔宮〕 (Sinn)と統覚(Apperzeption)との問の能力として 構想力を提示している如く、認識の客観的差異からではなく、認識形成の主観的根源から認識 成立の具体的構造を究明する時、認識形成の影の主役としての構想力を呈示せざるを得ないで あろう④、。以上が身心としての人間の理論的認識能力即ち構想力の分析究明であるが、さて然ら ば、かかる悟性乃至理性と感性との中間存在たる人間は、実践哲学の分野では、道徳法則と我意

(Willkur)との問にあって如何なる積極的創造的能力を発揮するのであろうか.

§ 2.尊敬の感情(道徳的動機) (1)道徳的動機の純粋性

カントは『宗教論』中の「根元悪」を論ずるに当って、先ず「人間的本性に於ける善への根

o  o  o

源的素質」を開明化すべく、人間を規定する三大要素として①生物体としての人間の動物性 (Tierheit)への素質、 ⑧生物体且つ理性的存在者としての人間の人間性(Menschheit)への素

o  o  o  o

質、 ⑨理性的存在者且つ同時に責任帰属能力ある存在者としての人間の人格性(Personlichkeit) への素質を提示する(R25)。之に従えば人間はまさに動物的感覚性と神的理性とを止楊綜合的

に同時的に己れ自身の内に取り込んだ矛盾的・媒介的・中間的性質である。然るに、遺徳法則は カントにあってはあくまで感性(人間的自然)の繋縛を離れた純粋実践理性の産物であり、自然 のメカニズムからの独立性(Unabh邑ngigkeit von)を有した、完全な「自由」 (Freiheit)の世 界の法則である。蓋し「道徳法則の理念は人格性そのもの(全く知的に解された人間性の理念) である」 (R27)。まこと道徳法則は「最も厚顔如[,な無法者をも痩え上らせ、身のおきどころを

a^K

なからしめ」 (P93)、或いは「吾々がより艮き人間に成るべきであるという命令は、吾々の魂の 内に減ずることなく、響きわたる」 (R49)、従って「子供でさえ、不正な動機の混入のほんの僅 かな足跡でさえ発見することができる」 (R53)程である。人間性がそれ自身で端的な人格性の みから成立するならば、遺徳法則がそもそも人間にとって問題となり、その先天性や純粋性・形 式性が態々「清輝・展示」される必要もなく、行為の動機の純・不純を云々するには及ばない。

遺徳法則が敢えて道徳法則の「神聖・不可侵性」を主張し(PIOl)、人間にとって絶対的至上 命令即ち「定言命法」として出現し、従ってそれ自体はあくまで「神聖性・自由」の法則であり乍

すイン        ゾレン

ら、人間にとってはそれは「存在」ではなく「当為」であり、 「義務」 (Pflicht)の法則であり、

道徳的「強制」を伴い、 「拘束性」 (Verbindlichkeit)を有し、遺徳的「必然」の法則である。

即ち、人間意志(我意)と道徳法則との問には絶えず或る隔たりがある。然らばかかる主観(戟

意)と客組(法)との問の溝に架橋し、法を自らの意志の「規定根拠」 (BestimrTlungsgrund)

(9)

134 ilK腐 ヨ 闇

として採用することを可能にするものはそもそも何ものか。

この間を明らかにするべく、先ず、人間意志即ち我意(Willkur)の定義を確認しよう。我 意は感性の動因によって受動的に触発される限り、感性的(sensitivum)であり、受動的に強制

される(necessieren)場合、動物的我意(arbitrium brutum)となるが、併し人間は感性によっ て触発されはするが、それのみでは規定されず、感性の受容性(自然必然性)に帰せしめ得ぬ

「悟性」や「理性」という能力をもつ(Vgl. B574f. B562, B830)c 従って人間の我意は感性 的我意(sinnlicheWillkur‑arbitrium sensitivum)ではあるが、自由な我意(freie Willkur‑

arbitrium liberum)である(B562)c かくの如く人間意志も亦、構想力的意志であり、身心相関 的意志であるが故に、如何に「超感性的」道徳法則と雌も之を実現する場は、行為主体たる人間 身体と同種性を有する物の場、即ち自然界、感性界である。カントは、かかる人間意志の行為決 定に際しては「動機」 (Triebfeder)、 「関心」 (Interesse)、 「格率」 (Maxime)の三契機が有る と言う(P93)。畢責するに一切の人間的行為の私的規準である「格率」が客観的道徳法則と合致 することに於て道徳的善が実現される。従ってカント日く「汝の意志の格率が常に同時に普遍的 立法化の原理として妥当することができる様に行為せよ」 (『純粋実践理性の根本法R7J』 P36)と.

併しかかる意志の格率が普遍妥当性を有する為には既に実践的感性としての「動機」が純正であ ったのでなければならない‑ 「我考う」に呼応させれば「我行為す」 (lch handle)の「我」

(我意)が、普遍的理性的自我(紙粋意志・純粋実践理性)とならねば、 「法則」と「格率」との 合致としての実践的真理はもたらされないであろう‑0

即ち、カントの求める善は、行為の結果がたまたま合法則的である「文字上の」(detn Buchstabe nach)善、行為の「適法性」 (Legalitat)は問わず、ひたすら法の為に法を「尊敬」し、善の為 に善を為す「精神上の」 (demGeist nach)純粋性、心の奥底の「道徳性」 (Moralitat)が求めら れているのであり、それは「義務に通った」 (pflichtmaBig)行為ではなく、 「義務から」 (aus Pflicht)の行為である(P95)。

従って何時何処に於ても只遺徳法則のみが行為への動機とならざる可らず。然るに道徳法則 (+1)が人間に於て動機となることは、之に積極的に反抗する反道徳的動機(‑1)を排除する ことである。即ち、通常「傾向性」 (Neigung) 「我欲」 (Selbstsucht) 「我愛」 (Selbstliebe)

「自惚」 (Eigendiinkel)の虜囚となりはてた人間が「道徳法則、即ち純粋実践理性の声」を聞 く時、我愛や自愛にふりまわされる「いとしき自己」 (das liebe Selbst)に尽きざる「本来の自 己」 (das eigentliche Selbst)のあることに気づき、道徳法則への「尊敬」 (Achtung)の感情 を抱くであろう(G84f)c

尊敬とは、とりわけ遺徳法nlJへの尊敬として行為の判定の為に役立つものではなく、遺徳的行 為の後にではなく、それ以前に遺徳的行為そのものを始めて可能にするものである。法則への

「尊敬はその内で法則が始めて吾々にとって近づき得るものとなる仕方である」(KPM 144. §30)c 即ち遺徳法則への尊敬を通じて、法則が、それとは距離をもった人間にとって自己の範域、射程 距離へと引き入れられる。かくして、 「法」と「人」との媒体となるこの尊敬感情は、 「法」を して実現されるべき活鮫々地たる法たらしめ、 「人」をして、法の「主体」、 「人格」、 「本来的 自己」へと自己形成せしめるのであるo まさしく「遺徳法則への尊敬は、唯一の且つ同時に不可 疑の遺徳的動機」 (P92)である。従って尊敬は「唯一の真正なる遺徳的感情」である(PIOO)e

(2)道徳的自己意識(das moralische Selbstbewufitsein)

遺徳法則を己が格率として引き受ける実践主体の内でそもそも何ごとが性起しているか。道徳

(10)

法則への尊敬を抱く主体は、自らの内なる反遺徳的契機、傾向性、我愛、自惚に纏綿された「い としき自己」を「恥じ入らしめ、卑下せしめ、謙虚ならしめる」 (demutigen)ことによって、

遺徳法則促進の為の諸障害を「断絶し」 (Abbruch tun) 「弱化し」 (schwachen)、 「粉砕する」

(niederschlagen)c 即ち、消極的側面に関しては、道徳法則は主体の内に自己否定的に「知的軽 蔑」 (die intellektuelle Verachtung, P88)としての「謙息」 (Demut, Demutigung)の感情を 呼び起し、否定すべき自己の「面目を失わしめる」ことにより、己れの内なる反遺徳性を告知せ しめる。これ即ち道徳に於ける「無知の知」であり、この「謙虚」という自己反省的感情を徹底 的に掘り下げることは畢寛するに、自己俄悔の究極としての「根元悪」 (das radikale Bose)の

内省へ至るであろう。⑤

かかる自己否定はそのことと表裏一体的に、自己肯定的に、小我的自己に纏綿されざる、自由 な自己自身、己れの人格への「尊敬」を喚起する0 ‑万に於て「感性界」に属する者としての人 間は、同時に「叡知界」に所属する限りに於てその「人格性」に従属しており、かく両世界に跨

0 0

がる中間者としての端的なる人間自身は「成程、充分神聖(heilig)ではない、が併しその人格

0 0 0

に於ける人間性(die Menschheit in seiner Person)は彼にとって神聖でなければならない。」

(Pl02)。己れ自身を単に手段としてではなく、 「目的自体」として取り扱い、己れの「人格」

を「目的の王国」の構成員として単に自然のメカニズムに属さぬ別仕界の一員たらしめ、己れ自 身を新たに造りゆく契機がかの法への「尊敬」感情である。従って「尊敬は人格(Person)にの み関り、事物(Sache)には関わらぬ」 (P89)c 尊敬は成程「動機・感情」として人間の実践的

[*^k>:

感性への結果であるが、その根拠・原因はあくまで「遺徳的・実践的」 「知性的・ア・プリオリ な」 「理性の原因性」にあるが故に、 「積極的」なものである。かくの如く、法への尊敬を抱く ことに於て、己れ自身(本来の自己)への尊敬を抱くが故に、法への尊敬の内で、自己が自己に 法則を与え、自己を法に従わせることを通じ、自己に従わせ、自己の自己従属を通じて自己を高 め、自己の本質を、自己の「威厳」 (Wiirde)の内に開示するO 尊敬とはまさに最高の「道徳的 自己意識」 (KPM143 §30)に他ならない。法への尊敬は、かくて、法をも人をも「尊敬」すべ きものとしてそれらの本質を具体的に呈示し、親密ならしめるが故に、主観的にはたとえ、遺徳 的「感情」或いは「動機」とみなされても、実践的客観的には「遺徳性そのもの」と言うことが できるのである(P89)c

然るに他面、 「感性界に属すると同時に悟性界に属する」人間にとっては、 「法則に対する尊

o o      o o o

敬」は同時に「背反への、少くとも不純性への、即ち法則の遵奉の為の多くの不正な(道徳的な らざる)動因の混同への連続的性癖の意識」従って「謙虚と結合した自己尊重」に他ならない

0 °  O  O  O  O ° 0 0 0

(P147)。かくしてその人間的有限性に着目すれば、尊敬とは「吾々にとって法則である理念の 達成への吾々の能力の不一致の感情」 (UI02,ァ27)として、神聖な法則そのものからの隔絶と それへの緊張関係を自己意識せしめるものである。人間の到達し得る全ての道徳的完全性は「徳」

O  O  O  o

(Tugend)であり(P147)、然も「徳」とは「戦闘状態にある道徳的心術」 (moralische Gesin‑

o o o      o o o

nung im Kampfe)であり、 「意志の心術の完全な純粋性を所有しているとみなされる神聖性」

ではない(P99)c即ち人間意志は実践的境位にあって「我愛の原理」と「道徳法則」の中間に

あって何れを採用すべきかの「岐路」 (Scheidweg)に立ちつつ(G18)、端的に両立不能なる善

悪の矛盾対立としての「実践的矛盾」 (praktischer Widerstreit)を意識する‑それ自身は不

善不悪にして、然もそこから善悪が生じ来る‑鼎関的弁証法的意志であった(P41)e然も行為

(11)

13(1 amm 田 思

.、  o ^ 蝣> o  r>

主体として真に当為即能為となる為には、先ずかかる矛盾的意識的自己たることを放下着しなけ

O  CI

ればならない。動機・関心・格率の実践的表象の順序差に明らかな如く、尊敬は「義務表象」で

o  o      o  o

あって「義務遵奉」ではない(P93)c それ故に実践的表象が行為となる為には、実践的意識的 尊敬の感情を徹底突破して、没意識的身体の内に投入し、之と一体となり、心意識が物となり、

自然となって働く実践そのものとならねばならない。この点「尊敬」や「義務」に終始するだけ では不充分であり、 ′這辺にカント遺徳哲学の限界が存するであろう(第三章参照)0

第二章 慮知心(Sorge)としての人間存在‑ハイデッガーの場合‑

J  .t ・‑I

§ 1.慮知心としての現有の有(Sein des Daseins) (1)慮(cura)と感知心(Sorge)

ハイデッガーは『有と時』 §42 「現有の前有論的自己解釈に基づいてなされた、現有を慮知心 として実存論的に解釈することの、確証」に於て、人間即ち現有(Dasein)を有論的(ontologisch)

'′ 'L,グ

に「慮知心」として規定するに先き立ってその前有論的自己解釈としてラテン語≫cura≪(慮・

秦)に纏わる一つの寓話を導入提示している。⑧それによると、

「昔々、 『慮cura』が河を渡って行った時、 『慮』は粘土の土地を見た、 『慮』は思いに沈みつ つ、その一片を取りあげて、形造り始めたO 『慮』が造り終えたものについて、思いをめぐら している間に、ユーピテルがやって来たO 『慮』はユーピテルに、形造られた一片の粘土に精 神(Spiritum,Geist)を戚与してくれるように乞うたO ユーピテルは喜んで『慮』の頼みを叶 えた。併し、 『慮』がその形造られたものに自分の名を与えようとした時、ユーピテルはそれ を禁じて、その形造られたものには自分の名が与えられねばならないと要求した。名について

『慮』とユ‑ピテルとが争っていた問に、地(Tellus)も起き上ってきて、自分こそ実にその 形造られたものに自分の身体の一部を提供したのであるから、その形造られたものには自分の 名が与えられることを欲求した.争っている者達は、サートゥルヌスを裁判官にした。そこで サ‑トゥルヌスは彼等に次の如き見たところ公平な判決を与えたOすなわち『汝、ユーピテル よ、汝は精神を与えたが故、このものの死ぬ折、精神を受け取るべし。併し、 『慮』はこの有 るものを最初に形造ったが故、このものの生きている問は, 『慮』がこのものを所有するがよ い。併し名前について争いが行われているについては、この有るものはフムス(humus 土) から造られているが故、 『ホモ』 (homo蝣人間)と呼ばれるのがよい』と」 (SZ 197f)0

ターラ

当該比職は一体全体何ごとを語り示すのか0 ‑イデッガ‑が、慮としての人間の前有論的自己

ニ′ルグ

解釈に応じて、実存論的、有論的な人間規定としての「現有の有」を「慮知心」と解する如く、

確かに人間は「憂い、慮り、心配し、気遣う」心をもった物(身体、土humus)である。蓋し 人間の抱く「関心」 (Das Interesse)とは、 「中間存在」 (Inter‑esse, Dazwischen‑sein)即ち

「介在」を意味し、それは身心相関する人間存在の特色、中間者としての入間、即ち常に己れ自 身に留まり得る自足円満者にあらずして、己れの内に不足・要求(Bediirfnis)を見出し、他者 の内にそれを探索すべく、他者との「関(拘・係)り」を求め、他者に「興味」を抱き、他事に rt関与」する。かくて、自己と他己相互間に「利害」関係を看取し、己れの為に「利益.」となる 'ものをのみ、己れの内に引き入れ、取り入れんと「打算」する人間の特色を呈示する。

故に漢語「人」の成り立ちにも明らかな如く、人間は「ひとり」では未だ「人間」を構成せず、

少くとも「ふたり」以上のものが相互関連、即ち社会的関係の内に入ることを通じて、始めて

(12)

「人間」となる。⑦人間とは人(自)と人(他)との問に介在するものであり、社会の中に即ちこの 他の中にある(In‑der‑Welt‑sein)。世間とは世の中であり、且つ世は殊更人の恒であるが故に、

人間の他聞なのである。世俗であれ、超世俗であれ、尚末だこの仕の中の話である。かくて、人間 はひととひと、自他の問に在ることに於て世の中、世間の内に在る。 「世間に知れたら困る」とい うことは、自分が他人の存在を前提、他人の自己に対する評価、判断、裁定を予め「慮」り「憂」

えているのであり、それは、人間が「自」 (主体・心)にも「他」 (客観・物)にも徹底し得ざる

「介在者」たることをよく示す。よし、多くの物が寄せ集められても、それらは社会を、従って 他聞を構成しないO諸物は相互連関を何ら知らないO物は自他の意識を有せず、各自的、個別的 であり、自足円活も意識せざる自足的完結的存在である。併し、人間は個別的単独性に徹し得ず、

他己を意識する「慮知心」としてこの他問に去出没し、身心の相関を己が本質とする。さてとこ ろで、先の比職に於ける「慮」としての「この有るものは、その名(homo)を彼の有への顧慮 によって得るのでなく、その有るものが何(‑humus)からできているのか、ということへの関

&^M*^ax

連の内でその名を獲得する」、然も「この形造られたものの根源的有が何処にみられるべきか、

そのことについて決定を下すのは、サートゥルヌスつまり時である」0 ①人間の元としての前有

ホキ      テルス

論的「慮」と⑧その体(身・物)を与えることを通じて「人間」なる名を貸与した「大地」と⑧ その体の用(働き)としての精神(心意識)を与えた「ユ‑ピテル」、これら三者の争いを調停, するものが「時」であるとする事態は、世界内有に於ける人間的現有の時的性格を表示している ものに他ならず、 "Sein und Zeit"の書名の深意を物語る。全て有は時の内に有り(「いはゆる 有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」道元、正法眼蔵『有時』)、過去・現在・未来の 三時業が吾々の有の全てであり、一切は嘗って有ったか、今有るか、何れ有るであろう。時的現 成を待って有は真に有となる。 「因縁時節、寂然として昭著す。細には無間に入り、大には方処 を絶す」 (洞LLl艮併『宝鏡三味』).まことに「桐一葉落ちて天下の秋を知る」。 「時満ちる時」、有 るものがその創こふさわしき有るものとして現成到来する.慮に於ける身心の出会い‑既に有 的には三者が出会い、相争っていたのであるが‑が有論的に現成し得たのは、サートゥルヌス 即ち「時」を通じてであった。神的存在者(純粋精神)は時間的起減を有せず、従って場所の如 き有限的限定をも受けないQ ストア哲学者ーセネカは彼の最終書幹(ep.24)に日く「四つの存 在する自然(樹木・動物・人間・神)の内で後二者だけが理性を斌与せしめられているが、それ

らは神が不死的であり、人間が可死的である、ということによって区別される。彼らに於てのみ 善が為され、前者即ち神の善を完成するのは、彼の本性(natura)であり、後者、人間に於ては 慮(cura)である」と。

既述の如く世間の内にあって始めて人間である様な存在者は、絶えず受動的能動的身心相関体 である。即ちひと(他人・仕問)を意識しつつ、自分自身を造らんとする「『慮』の『二重の意

o o o o o o

義』は被投的投企(der geworfeneEntwurf)という本質的に二重的構造をもった一つの根本体

0       ゾルゲ

制を意味している」 (SZ 199)c かくて一つの根本体制たる慮知心は二つのことを己が「所業」

(Leistung)としてもつ、即ち① 「人間の最も本来的な可能性に対して自由であること(Entwurf) の内に於て、有り得るものに成ること」としての人間の完成(Perfectio)及び⑧それと等根源的

(gleichursprunglich)に「有るものが、それに従って顧慮された仕界に譲渡されているこの有 るものの根本的有り方(Geworfenheit)」を規定すること、この二つである(Ibid),先の前有論

ク‑ラ       ゾルダ

的「慮」が、本来的には有論的実存論的根本体制、世界内有として慮知心から可能にされるのは、

(13)

138 有 福 孝 岳

一切の特殊(有るもの)が普遍(育)から根拠づけられることと軌を一にする. 「『普遍化』は、

一つの先天的・有論敵普遍化である。それは何時も登場して来る諸特性を意味せず、その都度、

タ‑?

既に根底に存在する有の体制を意味している。この有の体制が、この有るものが有的には虜とし て語られるのを始めて有論的に可能にしているのである」 (Ibid)c

(2)慮知心と現有の自己解釈

ところで、ハイデッガーは、 「直前的存在者」(Vorhandenes)の如き、言わば物的、対象的、

有的なものを己れの内容とする「範鳴」 (Kategorie)を求めるカント‑典型的な主観客観の二 元論理に立つ‑の如き客観論理とは異なって、主体的な「現有」の自己規定に基づく「実存噂」

(Existenzial)を明らかにして行く点で既存の西洋哲学とは甚だ趣きを異にしており、その点で 非西洋的とも言え、そこに東洋の仏教と些か乍ら類似点が認められるO ともあれ「現有とは、こ の有が自らにとって関心(慮・知)の的になっている有るものである」O それ故「膚知心」は一 切の「心配・配慮」や「理論・実践」や「意欲・願望」や生を廻る「執着・衝動」に先行して、

それらの根底に常に有る(Vgl. SZ.蚤41)。

ゾ,レグ

ノ、イデッガ‑は「自己」 (Selbst)を以て「慮知心の恒常的先行的根拠」とはみなさないO そ もそも「自己」とか「我」とかが語られ得るということの根拠に慮知心を置くこと、既に前有論 的な「慮」概念の分析に於てみた如くであるO先ず人間を「現有」 (Dasein)と把えるところに ハイデッガーの特殊性があるO "Ich bin Lehrer"とかHDas Wetter ist schon"とかの文章に 於て「有」 (sein)は既に自明的で、説明不要なものとして使われている。 r有る」ということ は何らかの意味で「理解」されて「有る」 (Seinsverstandnis)。併し乍ら「有」は何か己れ以外 の他者によっては説明定義され得ず、ただ己れ自身、 「有」を以てのみ理解される。 ‑他者に よって定義説明されたら、それは一つの「有るもの」 (Seiendes)となり「有」ではもはやない。

然も物である「直前的存在者」 (Vorhandelles)や「用具的存在者」 (Zuhandenes)は、己れの 有の意味「前に有ること」 「為に有ること」をも解することは不可能である。ただひとり慮知心 としての人間的現有のみが、このこと有るを知見解会し、慮知念覚することができる。即ち絶え ず「現有の有には自己解釈(Selbstauslegung)が所属している」。現有の有が慮知心であるが故 にこそ、この現有の有の自己解釈を渦動の中心として一切の有が理解され、有の意味が轟動し始 めるのであるo

§2.死への有(Sein zum Tode)としての現有 (1)慮知心の構造と死への有

この人問という有るものにとって、まさしく、何時でも何処でも、その有が大問題、関心の的 なのである。 「この有るものにとっては、彼の有という点でこの有そのものが問題(関心事)な のである」 「現有とは、その都度、それにとってそれ自身それ〔有るもの〕である、有るものの 有が問題なのである」。⑧人間にとって、自己自身がまきに有るものであるが故に、その有るもの たることを維持保存すること、換言すれば、有が無にならぬこと、生が死にならぬこと、生きる ことが、まさに憂(配・顧)慮の的である、己れの無を塞止めることが最大の関心事である.併 し、人間の「有るもの」たることは、全くの束の間であり、 ‑刻一刻が有の終りとしての「無」

への接近の道程の内にある。かくて、現有は、自己の本質である「死への有」(Sein zum Tode)、

「終り‑の有」たることを正視し‑即ち、通常、この「死への有」をのがれ、死に門戸を閉ざ

して、所謂、 「ひと」 (das Man)としての「瀕落態」 (Verfallenheit)に陥いっているが‑

(14)

この有を敢然と己が有として引き受けるならば、死への覚悟を最高位とする、 「将来」的現有へ の「先駆的覚悟性」 (Die vorlaufende Entschlossenheit)が生じ来るであろうO ともあれ、現

ゾ'L'〆

有の慮知心的構造は「死への有」として、無に成り行く有として、有無の対立を露わに意識する ことに於て一層明確となった。全て生存するものはその生(育)を保持すべく、計算し、思量し、

工夫し、営繕する。即ち慮知心が慮知心として働く行動の指針は、何はともあれ、己れの有を維 持することであり、自己の有が無に成ることは先ず如何にしても避けんと「慮知」をめぐらさ ねばならない。蓋し「人間という実体は実存である」 (Die Substanz des Menschen ist die Existenz.)が故にO

ゾJレ ケー

ところで、かかる「慮知心」的現有を‑イデッガ‑ほ三重的に分節して、 ① 「(内世界的に出 会う有るもの)の傍に有ることとして」 (als Sein‑bei (innerweltlich begegnendem Seienden);、

⑧ 「自己自身に先き立って」 ⑧ 「既に(世界)の内に有ること」 (Sich‑vorweg‑scho∫i‑sein‑in (‑der‑Welt))と規定し(SZ 192)、夫々① 「頚落性」 ⑧ 「実存性」 (Existenzialitat)、 ⑧ 「事 実性」 (Faktizitat)と命名し、時間的に考察すれば①現在性②末(将)来(悼) ㊥過去(既有)悼 を示すもの、とみなしている(SZ327,Vglリ§41, §65)e この三重構造は勿論、それ自身一つ

ゾLL'ゲ

である「慮知心」自身を分析的に示したものであるが、中でも「死への有」をめぐる自覚を通じ ての「頚落性」から「実存性」への転換が鍵となるo現有は自己を理解せんとするに当って、即 ち自己自身を規定するに先き立って、最も本来的な自己を「有り得る」 (Seinkonnen)可能性と して自己を予め「投企」している‑それが「実存」であり、その徹底態が「先駆的覚悟性」

に他なるまい。併し乍ら、現有はかかる自己投企を為す時に、既にその投企するに先き立って永 劫の過去から現在の現有として「投げられている」自己として一つの枠、つまりこの世界(世

ひと

間)の内にある‑それはいわば「宿業」であろう。そこで他人の限、即世間を「気」にし、己 れならざる他者(人、物、事)を配慮し、自己を他己の内に投入し、真の自己を忘却している有 り方を示す。即ち「内他界的」に個々に「出令うもの(物、者)」 (他己) 「の傍らに有り」つつ、

「既に」全体的枠としての一つの「世界の内に有る」のであるO

内世界的に避遠する諸事、諸物の多種多様性に眼耳鼻舌身意を奪われて、それらの表面を次か ら次へと猟り歩くことに於て、自己を取り失っているこの「頚落性」とは、恐らく、多分、お互 同志、なれ合い、ごまかし合いを黙話し合う、並列的凡人的現有をも含んだ「内世界的に出会う

IL  LL   Ilk

有るもの」の慮知心的様態に他ならない.然るにかかる「額落性」に甘んぜんとするのほ、 「現 有」が本来、 「死(終り)への有」であることに対し眼を開かざる所にあった。そのことは「死」

のみならず同時に現有の「有」それ自身に対しても盲目であるに等しい。かかる「現有」が未だ 非本来的「現有」である碩落態としての「非本来的実存」から「本来的実存」への転換は、現有 がもはや現有自身としては無に等しい「死」としての現有の終りに対して「先駆的覚悟性」が出 来ることによって可能である。蓋し「先駆的覚悟性とは、最も白的な(eigenst)卓越した有り得

° 0

ることへの有である」 (SZ325)c (2)先駆的覚悟性と時の問題

「死」とは「自己自身の有」の「終淵・過ぎ去り(Vorbei)」である。 「現有」が「本来的実 存」となるとは「死への有」としての「現有」を直視し、不可避的な「死」としての「自己自身 の無」から、自己自身が自己自身に帰還するのであり、従って時的に言えば、 「将来」に「先駆」

することに於て「将来」から「現有」自身が自己自身へと呼び戻されることである。かかる意味

(15)

140 有 福 孝 岳

o  O      C  O

に於て「将来」 (Zukunft)とは「末だ≫現実的≪となっていず、何れ有るであろう如き今(Jetzt)」

を意味せず、 「そこで現有がその最も白的な有り得ることという点に於て自身に帰来する意味で

o o o o o o D O      ° o o o o o

の到来(Kunft)」を意味している(SZ325)c かくて「根源的、本来的時〔間〕性の第一義的現

o o o o o ° o

象は将来である」 (SZ329)。かくて「時性は根源的に将来から時熟する(sich zeitigt)」 (SZ 331)。同時に将来性から時熟する「現有」の無化を通じて現有は自らの「有限性」 (時性)を自 覚する。まさにその自覚に於て「将来」(死)から時が時熟し乍ら、あくまでその自覚の場は「現 在」の「現有」であり、そこに「被投的既有性」 (過去・伝統・遺産)が内蔵されているO そこ に、現有の歴史性、即ち現有の時性の自覚問題が存しているが、この時の自覚が依って以て可能

とされたのは、現有自身が空無に帰するという死の自覚であり、従ってまた、現有を死への有と して敢然と引き受け、その現有の終淵としての死に向って先駆的に覚悟ができている、という本

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来的実存に於てである。それ故「現象的に根源的に、時性が経験されるのは、現有の本来的全体

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有に於て(am eigentlichen Ganzsein des Daseins)であり、つまり先駆的覚悟性という現象に

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即してである」 (SZ304)c かくの如く、先駆的覚悟性に於て時性は己れ自身を根源的に露呈す るが故に、先駆的覚悟性を成しているところの時性は、時性それ自身の或る一つの「卓越的様態」

である。蓋し時性はさまざまな可能性とさまざまな仕方に於て「時熟する」ことができようが、

先駆的覚悟性は、最も本来的な全体的現有の時性の時熟を可能にするであろう。

なんとなれば「覚悟性、つまりその内で現有が自己自身へ還帰する覚悟性は、本来的実存のそ

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の都度の事実的諸可能性を、その覚悟性が被投的覚悟性として引き受ける(ubernehmen)遺産

V^KS

から〔に基づいて⊃ (aus dem Erbe)開示する。被投性へと覚悟を決めて還帰することは、伝来

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された諸可能性を自己自身に伝承すること(Sichiiberliefern)を己れ自身の内に蔵している、も

0 0 0

っともそれは必然的に伝来された諸可能性としてのそれではないが0 ‑切の『善きもの』は相続 された遺産であり、而も『善さ』という性格が本来的実存を可能にすることに存するとすれば、

その際、その都度、遺産の伝承は覚悟性の内で構成される。現有がより本来的に覚悟すればする 程、つまり、決然と、最も白的な卓越的可能性に基づいて、死への先駆に於て理解されればされ る程、それだけますます、その実存の可能性の選別的発見はより明確で、より非偶然的なものとな るのである。ただ死への先駆のみが、一切の偶然的な且つ『束の間の』可能性を駆逐するのである。

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ただ死に対して開かれて〔自由で〕有ること(Freisein filrdenTod)だけが、現有に対して目 標を与え、実存をその有限性へと衝き入れるのである。」 (SZ383f)c 而して、死‑の先駆のみ が、運命を、寛有の歴史性を偶然性から必然性へと転ずるO即ち「実存の掴み取られた有限性は、

安逸・軽挙妄動・怯情などの提供されたる最も身近な諸可能性の限りない多様性から現有を奪い

0 °

返すと共に、その現有をその運命(Schicksal)の単純性へともたらす。運命ということで以て、

吾々は、本来的覚悟性の内に存している、現有の根源的生起(Geschehen)のことを表示するの であるが、而もその現有の根源的生起の内で、現有は、死に対して自由に開かれつつ、或る一つ

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の相続された、にも拘らず選び取られた可能性という点で、自己を彼自身に伝承するのである」

(SZ384)c

現有がその本来的実存に於て「既有的遺産の継承」となることは、いわば現有の自受用三昧に

於て「運命」としてひき受けられることによってである。かくて「終淵への有」は死への先駆を

通じて「元初への有」へと起死回生する。 「頚落態」としての井本的実存の内にある「ひと」た

る有り方を打破せんとする「先駆的覚悟性」の内に於てのみ、 「終淵への有」が「元初への有」

(16)

へと転換する。勿論、この本来的実存と錐も被投性としての「既に一つの世界の内に有る」事実 性は免れない。そこには過去的既有的遺産がうごめいている。併しかの「ひと」たる有り方では 遺産を単に「有的」 (ontisch)に財産の如くに、物の如くに受動的に受け取るのみであり、かか る通俗的伝承としての財産的相続を「超えて」 (iiber‑)、その遺産を真に遺産として「受け取る」

(‑nehmen)有論的自覚的有り方が成立しないであろう③.かかる既有的遺産、伝統の伝承(超越 一相続iibernehmen)に於て、現有は本来の寛有自身に還帰するOかく、現有は極めて歴史的で あり、その歴史的実存に於て、その本来的現有となる。この様な、己れ自身の有限性、時性に基 づく現有の歴史性は、讃落的現在性と事実的既有性を突き破るという仕方で「将来」から「時熟」

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するO蓋し「本質上、彼の有に於て、将来的(Zukijnftig)に有り、かくして彼の死に向って自 由に開かれつつ、死に当って砕けて彼の事実的現(Da)へ投げ返され得る有るものだけが、即ち 将来的に有るものとして等根源的に既有的(gewesend)に有るところの有るものだけが、遺産 として相続された自己自身に伝承しつつ、自己の被投性を引き受けることができ、かくて『彼の

0 ° 0 0

時代』に対して瞬間的に(augenblicklich)有り得る。ただ本来的時性、それは同時に有限的で

0 0

有るが、それだけが運命の如きものを、即ち本来的な歴史性を可能にすることができる」 (SZ

385)c⑲

第三章 身心の不ニー如‑禅仏教の場合‑

デカルトを典型的実例として、大略西洋的恩考は身心の二元分離観を基調とする。因みに、カ ントやハイデッガーの「構想力」 「慮知心」概念が、感性と悟性、身体と精神の二元対立を「綜 合媒介」的に「受け持つ」第三の能力として繰り出されたという事実は、とりもなおきず前二者 があくまで「二」であって「不二‑如」ではないことを示すo即ち東洋的には身蝣'frの二は「不二」

の二であるが故に、新たに第三項が加えられなくとも、身心それ自身の内に「‑」が成り立って いると言えよう.かかる立場は第一に、身心一如‑心に於て無心なれば既に「心即是物」であ

り、 「我、山を観、山、我を観る」ならば既に「物我一体」である‑の立場は、それ自体非思量

・賂亡\である物(身)体に対す舌的能力としての思量・意識作用をのみ「心」に帰せしめる立場 とは逆対応せる「無心・非思量」の立場を開示し、かくて第二に身心を分離対立させ「心常身滅」

とし、 「魂の不滅(不死)」をのみ証明せんとする立場を排斥し、身心の「不生不滅」を提起す る。

喜1.無心の立場

デカルトの≫cogito, ergo sum≪やカントの「超越論的統覚」に於て典型的にみられる如く、

西洋哲学の主眼は「思惟的自我」の普遍性を演緯することであった。然るに東洋的伝統の核心を 成すものは、如何に卓越的なものであれ、 「自我」 (Ich)に関わる一切のこと(慮知念覚・念想 観・是非善悪等々)を払拭・拾離するところに究極の「道」が成就されるとし、即ち、 「無我・

無私・無欲」に徹することを以て最高の至上命令としてきた。⑪ 因みに「仏道を習ふといふは自 己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり」 (道元『正法眼蔵』項成公案の巻)Oつま り「無位の真人」 (臨済録)と言われる如き、 「無心」的「忘我」的自己‑それは「個体」 (In‑

dividuum)としての自己ではなく、 「自己とは尽大地なり」とする宇宙的自己である‑を究極 位とするのに対して、西洋的諸学問は決して「我」無き非「人格」的存在者を最高原理とせず、

その点あくまで「有我・有心」に留まり乍ら決して単に「エゴ」的自我に非ざる、普遍的な理性

参照

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