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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

『ドン・ジュアン』における視点の二重化 −バイ ロンにおける黙示録的崇高と楽園願望との関連につ いて−

著者 門田 守

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 45

号 1

ページ 35‑54

発行年 1996‑11‑25

その他のタイトル The Double Viewpoint in Don Juan −In

Connection with the Apocalyptic Sublime and the Wish for Heaven in Byron−

URL http://hdl.handle.net/10105/1574

(2)

>a巾ILt L.F'l''蝣ご 恥ir>拝 蝣T,i蝣蝣; ll、し・‡「 蝣I':tSil iull. Nara Univ. Educ, Vol.45, No. 1 (Cult.&Soc.) , 1996

『ドン・ジュアン』における視点の二重化

バイロンにおける黙示録的崇高と楽園願望との関連について

門 田   守 (奈良教育大学英米文学教室)

(平成8年4月30日受理)

は じ め に

バイロン(Byron,GeorgeGordonNoel)の『ドン・ジュアン』 {DonJuan, 1819‑24)では、

二重の視点が貿かれている。それは対象に対し、天上への憧れと地上性の制限を重ね合わせてし まう性癖である。これは『マンフレッド』 (.Manfred, 1818)でも観察できる。マーティン (John Martin)の『マンフレッドとアルプスの魔女』 (Manfred and the Witch of the Alps, 1837)では、主人公は視覚的に二重化されている。この絵画の左側には実際の彼が、右側にはは ぼ透明の彼が描かれている。トィッチェル(JamesI】. Twitchell)はこの事情をこのように説明 する。

…Martin perceived the duality of Man fred s life, split between fire and clay, psyche

and soma, theurgy and humanity. So here Man fred is literally split: the magical

part off to the right in ghost outline ; the mortal part to the left. (134)

この二人のマンフレッドはバイロン自身の内面の在りようを示している。一方では崇高なる孤我 の世界を求め、他方では卑俗性を恥じたバイロン自身の姿をである。

『ドン・ジュアン』とは主人公の放浪というモチーフの上に構築された訊刺詩である。つまり、

マンフレッドの放浪が具体化したものと見てよい。その放浪は一定のパターンを含んでいる。

ジュアンの道行きとは楽園の探索とその失墜なのである。その点で彼は永遠に楽園の周辺を漂い、

決して楽園へと足を踏み入れることはない。バイロンの二重の視点がいかに楽園への懐疑感と崇 高の破綻をもたらしているかについて見てみよう。

I 喜劇的なる楽園追放

ジュアンがスペインを逐われる件は人類の楽園喪失が基盤となっている。ただし、荘重な調子 は微塵もない。あるのは人間の実態とは否応なく堕落する存在だという、一種諦めを帯びた喜劇 的人間観である。 "I wanta hero,an uncommon want" (I. 1)と、この叙事詩は始まる。壮 麗さこそ忌むべきものとばかり、人間の愚行こそが描写の対象とされる。叙事詩を書きたいが、

叙事詩の必須要件としてのと‑ローがいないのだ。バートン(Anne Barton)はバイロンが伝 統的ドン・ジュアンを逆転させたのは、世の気取り屋たちを咽るためであったと言う(3)。そ

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:描 門 田   守

の通りであろうが、それ以外の意味もありそうだ。世の中には実際、ヒーローに値する人間がい ないのかもしれない.バイロンは『ドン・ジュアン』において、徹底的にリアリズムを貫き、世 の真理を迫っている。しかしどこまでその真理を追求しても、出てくるものは虚偽しかない。こ こに『ドン・ジュアン』のアイロニーが存在する。すなわち真理を追求するほど、人間存在の虚 偽の部分をクローズアップしてしまい、泥沼のようなまやかしの世界に脚を掬われてしまうので ある。

『ドン・ジュアン』は3層構造の叙事詩である。第1層には人類の楽園喪失の記憶、第2層に はバイロン自身の自伝の回想、第3層には物語のプロットがある。たとえば第1巻でジュアンが 人妻ドニヤ・ジュリア(DonnaJulia)と浮気し、故郷を逐われる件には楽園追放のニュアンス が加えられている。彼が地中海で難破して味わう飢餓地獄を考えれば、なおさらそうである。楽 園を逐われたアダムの悲哀がここには込められている。これは第1層である。第2層としては、

ジュアンの母親ドニヤ・イネス(Donna Inez)が学殖豊かな淑女であることが問題となる。彼 女は道徳的に厳しく、かつ数学を得意分野としていた。これはバイロン夫人を想像させずにはお かない。また第3層としては、この件はピカレスク的なヒーローの放浪談の始まりと言えよう。

ジュアンとジュリアの関係は当初、頗るプラトニックであった。それは天上の愛を思わせる。

And then there are things such as love divine, Bright and immaculate, unmix d and pure, Such as the angels think so very fine,

And matrons, who would be no less secure, Platonic, perfect, ̀just such love as mine : '(I. 79)

神聖な愛とは清浄かつ純潔で、志操堅固なる婦人に相応しいプラトニックな愛であった。バイロ ンはこうした愛を否定してはいない。しかし、この後奇妙な発言がある。ジュリアが自分の愛情 を汚れなく思ったことに関して、語り手はこうつけ加えずにはおれない。

And so Id have her think, were I the man On whom her reveries celestial ran. (I. 79)

マクガン(JeromeJ.McGann)によれば、もともと『ドン・ジュアン』の詩形であるオッタ バ・リマ(ottava rima)は、ロマン派のモノローグ的詩形への反駁として採用されたものであ る(55)c この詩形との出会いは詩人の友人キネアド(Douglas Kinnaird)と詩人ローズ (William Rose)の訪問から始まる。ローズはフレア(John Hookham Frere)の謁刺詩『ホ イッスルクラフト』 (Whistlecraft, 1817)を携えていた。これはイタリアの説刺詩人パルチ (Luigi Pulci)の擬英雄詩形であるオッタバ・リマを採用していた。ポイアルド(Matteomaria Boiardo)の『恋するオーランド』 {OrlandoInnamorato, 1487)を書き換えたのは、パルチであ る。そのパルチの作品を英訳したのがローズであった。この詩形の自由聞達さに惹かれたバイロ ンは『ベッポー』 (Beppo,1818)をなし、 『ドン・ジュアン』の執筆へと至ったのであるo

さて、オッタバ・リマとはいわば会話的詩形である。特に、最終カブレットでその達をまとめ あげる手法は、視点の逆転や複数化を許容している。バイロンがこの詩形に没頭したのは、それ が物語の叙述に適しているだけではなく、この複数の視点を求めていたからである。ジュリアの 夢想の相手が私ならば、その相手になってみたいという叙述は、ジュリアのプラトニック性への 疑いの念以外にはありえない。いったん愛の至高性を詠うかに見えた詩人は、最終的には自ら讃 えた愛を虚偽だとして否定してしまう。この視点の二重性こそ、ロマン派詩人バイロンと猟刺詩

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『ドン・ジュアン』における視点の二重化 37

人バイロンを繋ぐ鍵であると考えられる。視点の二重化の問題をさらに迫っていこう。

ジュアンのプラトニック性の描写にも、語り手は怠りない。ここでも彼の視点は二重化されて いる。ジュアンは自分自身、全世界、人類、星群が何故生まれたのか、そして地震や戦争にも思 いを巡らせる。もちろんランド‑ (GeorgeP.Landow)の言うように、大災害は崇高を催させ る現象である(133‑34)c世界に対する無垢な思考はジュアンの潔癖性を保証するし、彼の楽園 との均質性も暗示している。最初に楽園に降り立った人間の風貌を、彼は帯びている。ところが、

最終連での彼の思考は"And then he thought of Donna Julia's eyes" (I.92)なのである。こ の荘重な調子を不意に平俗なる調子に落とす急落法bathosは、また別の連にも明らかである。

He pored upon the leaves, and on the flowers, And heard a voice in all the winds; and then He thought of wood nymphs and immortal bowers,

And how the goddesses came down to men:

He missd the pathway, he forgot the hours, And when he look'd upon his watch again, He found how much old Time had been a winner‑

He also found that he had lost his dinner. (I.94)

この連の前半は無時間の領域を詠っている。トポグラフイも楽園的状況を描いている。風の音、

森の妖精、永久のあずまやなどは天上の雰囲気を伝えていると言えよう。 "immortal bowers"

は神の住まいかもしれない。そして、天上の女神たちが人間のもとに降下してくるさまが詠われ ているO あの『天と地』 {Heaven andEarth, 1823)の状況を恩い起こそうo その荘重さが不意 に最終カブレットで否定されてしまう。中世以降の鎌と砂時計を手にして現れる「時の老人」の 姿を出現させ、語り手はこともあろうにディナーにあぶれたジュアンを描かずにはおれないのだ。

最終カブレットは「時」の参入であるとともに、ロマン的夢想の否定である。この急落法は『ド ン・ジュアン』の生理とも言える、バイロンの現実的息づかいなのである。

自由気値に言葉を紡ぐ語り手にも、ある一定の方針が認められる。それは(1)真実を語るこ と、あるいは少なくとも真実に即して詩作することと、 (2)その真実に則って言えば、人生と はひたぶるに虚しく、目的の達成や成就等は熱こ無を重ねる行為に過ぎないということだ。この 世の中の諸境象を鳥轍的に示すことが『ドン・ジュアン』の目的である。語り手は…Tis pity

though, in this sublime world, that / Pleasures sin, and sometimes sin's a pleasure; /

Few mortals know what end they would be at" (1. 133)と言う。この世は崇高かもしれない が、善悪の方向が定まらないのである。方向の喪失とはロマン的な妨栓のテーマであるが、同時 にバイロンにとっては迷いのテーマでもある。人間存在であることそれ自体が、迷いへの参入に 他ならない。同時にかりそめにも、自らの定めた目標に到達したとしても"…andwhen/The goal is gain'd, we die, you know‑and then‑" (1.133)と頼りなくこの運は閉じる。目標 もなく、目標に達したと思えば寿命の尽きている人間とは、荘漠とした崇高なる空間に足下を掬 われていないだろうか。初期のロマン的詩群を残したバイロンは、ここでもやはり崇高の論理に 従っているのである。

楽園のエコーはジュアンに妻ジュリアを寝取られた夫ドン・アルフォンソ(DonAlfonso)に も認められる。ジュアンと妻の姦通の寝床に押しかけた彼は、最初女中アントニア(Antonia) の手練手管も手伝って、この間男を見つけられない。その様子は"He [Alfonso] stood like

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38 門 田   守

Adam lingering near his garden, / With useless penitence perplex'd and haunted" (1. 180) といかにも情けない。彼の後悔の念は、直接には徒に妻の貞節を疑ったことに起因している。し かし妻との親愛なる関係を懇願する男の姿は、楽園を逐われたアダムの影を帯びている。という ことは、妻との融和とはいわば楽園の変奏と言えよう。ここでは、バイロンと妻アナベラ (Anne Isabella Milbanke)との関係もエコーしている。

裏切りは裏切りを呼ぶ。妻に自分の腰罪を乞うアルフォンソに対し、本当は妻の方が罪を重ね ていたのである。必死に謝っていた最中に、彼はジュアンの一対の靴を発見してしまう。ジュア ンと彼との取っ組み合いの格闘が始まり、女たちは悲鳴を上げる。逃げるジュアンの様子にまた 聖書的ニュアンスが重ねられている。彼は旧約聖書「創世記」第39章(Genesis 39)における

ヨセフ(Joseph)のように、破れたシャツ一枚残して逃げ去る。ヨセフが言い寄る主人の妻か ら逃れて身の潔白を守ったのと較べ、ジュアンの逃走劇はアイロニカルである。すなわち逃げれ ば逃げるほど、彼は罪を深めるだけなのだから。人の世とは罪に罪を積み重ねるだけの愚行の連 続ではあるまいか。ジュアンは罪を犯し、ジュリアもそれに与った。アルフォンソにも罪はある

のではないか。齢50にして若妻を孤独に陥らせたという、シャリバリを受けるに値する罪が。

ジュアンはスペインからヨーロッパ、特にフランスとイタリアで新種の風紀を身に付けるため に船出する。いかにもアイロニカルな旅路である。この船出は18世紀イギリス貴族の大陸旅行 を郷旅している。当時フランスやイタリアは最も風紀の乱れた国であった。そこで堕落した息子 に道徳教育を施そうとする母親の態度はまさに愚行である。ジュリアは尼寺に送られる。しかし イネスの夫ドン・ホセ(Don Jose)には数人の愛人がいたのであり、ジュアンを巡っては罪が 罪を呼ぶ構造があった。一瞬のジュアンとジュリアの天上を思わせる愛は潰え、現世の罪の構造 がそれを覆ってしまったo バイロンはそれをあくまで喜劇的に描ききろうとする。笑いの中に一 種諦観的姿勢を見せつつ、彼は楽園とその奪還を願いっつ、現実の中に生の真理を暴き続けるの である。

II 飢餓地獄と楽園

黙示録的崇高はカディス(Cadiz)に船出するジュアンの航海中に最高潮に達する。バイロン 自身が大陸旅行でカディスを訪れたことも活かされている。そしてイネスは日曜学校の経営を始 め、次代の教育に成功を収める。これはバイロン夫人の離婚後の行動と一致する。個人的レベル の経験の吐露は『ドン・ジュアン』全体に散在している。先に見た急落法も健在である。ジュリ アの手紙に涙するジュアンの真筆な愛情は、語り手の差し挟む括弧の中でその実態を示される。

̀Sooner shall heaven kiss earth'‑ (here he fell sicker) Oh, Julia! what is every other woe?‑

(For God's sake let me have a glass of liquor, Pedro, Battista, help me down below.) Julia, my love!‑ (you rascal, Pedro, quicker) ‑

Oh Julia !‑ (this curst vessel pitches so) ‑ Beloved Julia, hear me still beseeching !

(Here he grew inarticulate with reaching.) (II. 20)

括弧内の語り手の独白は、今まで見た最終カブレットと同じ効果を生んでいる。すなわち、ここ

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『ドン・ジュアン』における視点の二重化 39

には人間の潔癖さや至高を目指す意志とは裏腹に、必ず人間は卑近な地上性や環境に縛られてい ることを認めざるを得ない姿勢がある。 " ̀Sooner shall heaven kiss heaven'"とは黙示録的な 天と地の交流である。すなわち、最後の審判の日の栄光を考えればよいであろう。至高の愛を語

らんとするジュアンは、船酔いのために使用人に酒を要求し、挙げ句は唱畦をせざるを得ない。

永遠の急落法の中で坤吟する人間存在こそが、生の実態なのである。船の名前もアイロニカルで ある。よりによってトリニダーダ号(Trinidada)と命名されている。三位一体どころか、これ

は本当は人間性を極限の獣性にまで格下げしてしまう死の船なのである。

トリニダーダ号はほどなく嵐に通過し、難破する。パニックに陥った船員や乗客は命の瀬戸際 に酒を乞い、酒蔵へと押しかける。ジュアンの教師役の牧師ペドロも例外ではない。聖職者も極 限状態では紳士面していても、ただの迷える人間に過ぎない。波を被り、風の慰み物となった難 破船は傾き始める。どこにも陸の影はない。イギリス製の高性能ポンプでも何ともならない破損 を、船は負ってしまっている。遂に船大工も匙を投げ、船は徐々に傾き始める。人間たちはあら ゆる差異を失い、命にしがみつく愚衆と化す。ジュアンと父の形見の犬、そしてペドロは何とか 長艇に乗り込む。しかし従者のパティスタは酒にありつこうとして、死んでしまった。この様子 はドラクロワ(Eugとne Delacroix)の『ドン・ジュアンの難破』 (TheShipwreckofDonJuan, 1840)に明らかであるが、バイロンも実に写実的に人間の生の真相を描き出していく。ブラウン (David Blayney Brown)は、バイロンは後期の詩と詩劇の中でヨーロッパの風景から心の風 景へと興味の中心を移したと言うが(62)、リアリズムは生涯彼の詩的信条であった。

バイロンの筆致は黙示録的崇高の場面を表している。ウィルトン(Andrew Wilton)は黙示 録的崇高の絵画で著名なマーティン(John Martin)の『洪水』 (The Deluge, 1834)やター ナー(J.M.W. Turner)の『雪嵐‑アルプスを越えるハンニバルと彼の軍隊‑』 (Snowstorm:

Hannibal and his army crossing the Alps, 1812)と黙示録的崇高とを関連づけ、特に後者に前 者の崇高性の源を認めている。さらにウィルトンは後者の絵画において"Ambush,rape,

looting and murder are dimly suggested ; the grim battles of men with each other and with the storm that [sic] envelopes them are evoked by mere indications: agitated

mobs and half‑lit figures shrouded in haze''(74)とも主張する。さて、このような人間の原 型が明かされる光景は崇高性を帯びている。飢餓や苦悩は人間を安全な守られた空間と彼の命に 拘わる状態の境界線上に置く。そういう危機に瀕した人間は自己保全と自己喪失の識閥上に置か れている。われわれは崇高の心理的分析で知られる18世紀人バーク(Edmund Burke)の苦悩 に関する次の発言に耳を傾けるべきである。

Of Feeling little more can be said, than that the idea of bodily pain, in all the modes and degrees of labour, pain, anguish, torment, is productive of the sublime; and nothing else in this sense can produce it. (86)

人をして存在の縁まで追い込む苦悩とは、その体験者に自己存在の究極の意味を問い質す。崇高 とは自我意識を滅却し、絶対的力や神の威光の中に己の卑小さを痛感する心理現象であり、その 意味で難破とは崇高なる事件なのである。また難破と関連して、大洪水とはマーティンの得意の テーマであり、彼は自らの画集の中に『天と地』の一節を引用するはどバイロンに心酔していた (Paley 141)。崇高はその迫力の伝達において、文学や絵画等のメディアを選ばない。

飢餓地獄は長艇の乗員を情け容赦なく襲う。ジュアンのスパニエル犬は食用に供され、ペドロ とともにジュアンはやむなく犬の前足を留る。飢餓はますます深刻化し、犠牲として食われる人

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m n m   守

間を決める我として神聖なジュリアの手紙が裂かれる。犠牲者は運悪くペドロであった。手首と 首の血管を切開され、彼は死に至る。船上で彼の遺体は解剖され、脳や臓物類は迫って来た鮫の 餌となり、他の部分は乗員の食料となる。不幸にも、彼の遺体を海水で洗い食らった連中は次々 に気が狂い、痩撃を起こし、口から泡を吹き、海水を徒に飲みまくり、怒鳴り声を挙げ、大笑い して死んでいく。それでも次の犠牲者を決める話がもちあがる。食われる白羽の矢は最も太った 一等航海士であったが、彼が梅毒病みであったため、この計画はご破算となる。次々と乗員は死 に、残った者は死体を海中に投じる力さえない。絶体絶命の状態はジュアンを運命の慰み物とす る。というのは、長艇がギリシアのキクラデス(Cyclades)諸島の孤島に流れ着く際に、追っ て来た一匹の鮫が岸まで泳ぎ着こうとするジュアンと別の男のうち、後者の腿肉に食らいっいて

しまうのだから。残った乗員は残念ながら、泳ぎができず、長艇と運命をともにするしかない。

ここにもバイロンの二重の視点がある。崇高な風景の中で生の実態を暴きっっも、最終的な生き 死にの問題は泳ぎの不出来や全くの偶然という、事態を急落させた描写で片づけてしまのだから。

黙示録の生き地獄の後は、楽園が待っている。常春の(島)楽園である。バイロンの楽園願望 が切々と詠われる。砂浜に打ち上げられたジュアンの身体は"As fair a thing as e'er was formed of clay" (II.110)であり、彼の地上性は極限まで削減される。事実、彼と く島)楽園 の娘ハイディー(Haidee)との関係は、天上における愛の達成のニュアンスが強い。もちろん、

バイロンはそこに二重の視点をもち込んでいるのではあるが。

ジュアンと‑イディーの恋にはアンビバレントな価値がある。一つは生の開花という側面と、

他方は死の予感という側面である。 17歳の汚れを知らぬ‑イディーは残酷にも死と蛇の性格を 帯びさせられている。 彼女の眼は死の如く黒く、 捷毛も同じ色。 その視線は"the swiftest arrow" (ll. 117)の如く飛び̀‥Tis as the snake late coil'd, who pours his length, / And hurls at once his venom and his strength." (II. 117)と形容されている。死の要素は実際は 己に死をもたらすのであるが、ジュアンをも死に淵に誘い込むのは事実だ。ハイディーの原型は もちろん、オデュセウス(Odysseus)がオーギュギア(Ogygia)島に漂着したときに、 7年間 彼を引き留めたニンフのカリュプソー(Calypso)である。しかし、魔力や超自然的な能力はハ

イディーにはさらさらない。彼女もまた運命の慰み物であり、自分の内に起こった恋の呪力に縛 られているのである。

語り手は切々と‑イディーの純粋さ、優しさを紡ぎ出す。彼女は"the lady ofthecave" (II.

120)であり、いわばダ・ヴィンチ(LeonarddaVinci)の描く岩窟のマドンナと言えよう。彼 女と侍女のゾ‑ (Zoe)は洞窟でジュアンを優しく介抱するのだから。彼女の父親ランプロー (Lambro)にもまた二面性がある。彼は使徒ペテロの如くに人を漁る漁師であった。ただし彼 は実はただの海賊であり、商船を狙って、積み荷はいただき、奴隷はトルコ貿易用に回していた。

ジュアンはハイディーと島の楽園で至福の時を過ごすが、その島は罪によって成り立った、堕落 の中心地でもあったのである。 ‑イディーは"...with hush'd lips, that drank his scarce‑drawn breath" (II. 143)と、ジュアンの息を飲み干す。彼女は彼の息を吸い取る死の娘、

運命の女でもある。彼女とゾーは卵、果物、コ‑ヒ‑、パン、魚、蜜、さらに葡萄酒まで怠りな く恋人に与える。具体的に食べ物の種類まで書くのは、崇高な愛を措きっつ、急落法の使用の与 える効果を狙っているからだ。何せ"I can't say that she gave them any tea" (II.145)と、

食事に紅茶が付いたかどうかは知りませぬと悦ける語り手である。おまけにこの連の最終行では

‑and all for love, not money" (II. 145)と言われ、崇高は急落法の犠牲となる。

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『ドン・ジュアン』における視点の二重化 41

それでも二人の愛は楽園を現出させる。描写のモチーフは天上の愛の地上への降下である。

A long, long kiss, a kiss of youth and love, And beauty, all concentrating like rays Into one focus, kindled from above ;

Such kisses as belong to early days,

Where heart, and soul, and sense, in concert move, And the bloods lava, and the pulse a blaze, Each kiss a heart‑quake, ‑for a kiss s strength, I think, it must be reckon'd by its length. (II. 186)

彼らのキスの炎は天上の火を受け、太古の日々に(おそらくは人類のエデン的記憶に)起源し、

血潮はたぎる溶岩の如くである。感覚の強烈さが前面に打ち出されている。感覚の激しさとは崇 高の源ではなかったか。ウィルトンはこう言う。

The common fascination with death (especially violent death), human tragedies and natural disasters, the love of grandiose spectacle and everything grotesquely out

of the ordinary.‥, all this is a popular and perverted manifestation of the power of

the sublime. (29)

なるほど、難破も、後に登場するトルコとロシアの戦争も、燃える恋も、死による別れも崇高な 体験であろう。ただ、 『ドン・ジュアン』には天を見上げる目と地を排御する目の二つの視点が 必ず共在している。そして先の連における最終行のように、愛の強さはキスの憩さであり、キス の強さとは畢売、その長さでしか計り得ない。ここには、自分で崇高感に浸っていながらも、そ の崇高感に疑いの目を向けざるを得ないバイロンがいるのだ。

ところが、もう一度バイロンはわれわれを無時間の領域に導く。直後の第187達で、そのキス の長さは持続(duration)であると説かれる。このように。

By length I mean duration ; theirs endured

Heaven knows how long ‑ no doubt they never reckon d ; And if they had, they could not have secured

The sum of their sensations to a second: (II. 187)

持続とは体感された時間であり、客観的には計り得ない。経験の強さの総量こそが、持続として の時間を計り得るO とすれば、ジュアンとハイディーは彼ら自身の時間の世界におり、客観的に

は無時間を体験していることになる。だが、 ‑イディーの人格に彫り込まれた死を暗示する性格 故に、彼女はジュアンとのセンセーションの世界に終わりをもたらさざるを得ない。ライドナー (GeorgeM.Ridenour)は『ドン・ジュアン』には3匹の蛇がいると言う(83‑85)c 第1の蛇 はランプローであり、彼は"theserpentin theEdenofJuan andHaidee" (83)であり、かつ

"the force of the past and the adult world" (83)であるとも言われる。第2の蛇は生そのも のだと、ライドナーは言い切る.彼の指摘しているのはこの部分である。ジュアンとハイディー の生は

Their faces were not made for wrinkles, their Pure blood to stagnate, their great hearts to fail ; The blank grey was not made to blast their hair, (IV. 9 )

の性格をもち、

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n5 門 田   守

‥. but to trail

A long and snake‑like life of dull decay

Was not for them‑they had too little clay. (IV. 9)

であると言われる。蛇とは人間に背負わされた生の宿命と言ってよいであろう。第3の蛇は愛そ のものである。ライドナーは"the most potent enemy to innocence (as embodied in young love) is simply love itself." (85)だと言う。生の源泉だった純粋な愛そのものが、死と堕落、

そして楽園追放の杏の始まりであった。それは『マンフレッド』におけるアスク‑チ (Astarte)が、主人公にとって生の支えであり、かつ死の源であったことと一致しよう。彼女 に生への活力を求めっっも、マンフレッドは"Manfred! T0‑morrow ends thine earthly ills.

(II.iv.152)という言葉しか、彼女から得られなかった。主人公の生と死に重大な影響を与える 女として、アスターテも‑イディーも運命の女(カmmefatale)の変奏であると言ってよい。

ライドナーの言う第3の蛇は楽園に潜む最悪の相手であった。逆に言えば、そういう蛇的女を 描かざるを得なかったバイロンには、自らの生に食い入った二重の視点があったのである。しか

しジュアンと‑イディーの楽園的状況を、語り手は切々と紡ぎ出していく。 "And they were happy, for their young eyes / Each was an angel, and earth paradise" (II. 204)と彼らの 視線は互いを互いの楽園とみなす。だが、愛されることは死をもたらす。 "Oh, Love! what is it in this world of ours / Which makes it fatal tobe loved?" (III. 2)であり、愛は矛盾の 源なのだ。結婚は恋から生まれるが、次第に"its high celestial flavour" (III. 5)を失い、た だの月並みな夫婦生活が待っているだけだ、と語り手は言う。バイロンの結婚経験がこの発言の 裏にあることは否定できまい。これは実体験に裏打ちされた、愛の真の姿の吐露なのである。

‑イディーの瞳は"all we can imagine of the skies" (III.74)を備えている。恋人と一緒の とき、彼女は"another Eden" (IV.10)にいる思いであった。しかしこの楽園はランブローに よって破壊される。 "His arms were like a serpant's coil" (IV.48)のように、彼の腕は蛇の臆 局である。手下の海戚どもは"anangryasp" (IV.48)の如く、獲物に襲いかかる。蛇のイメー

ジは散在している。捕縛されたジュアンは奴隷船に載せられ、コンスタンティノープル (Constantinople)に売られに行く。そしてハイディーは罪の子を学んだまま、悲嘆の裡に萎れ るように死んでいく。彼女の母親はムーア人であり、生まれた地フェス(Fez)は"Where all is Eden,orawilderness" (IV.54)なのであった。つまり、 ‑イディーの家系は二重の意味で 楽園を逐われたのである。 『カイン』 (Cain, 1821)における主人公の妻エイダ(Adah)が母親

イヴ(Eve)から二重に堕落して、楽園の縁を追われ荒野を妨裡う罪を負ったことも、 ‑イ ディーの境遇の低音として響いている。

飢餓地獄から楽園へというサイクルは、バイロンにおいて一定の律動性を帯びている。彼の視 点は常に聖と肉、天と地、上昇と下降、栄光と陰影といったように二重化されている。彼のロマ ン的傾向の強い詩群では、それは宗教的崇高‑の憧れとそれへの懐疑の眼差しという形で具現化 されていた。 『ドン・ジュアン』では、バイロンはそんな健保をもつ自分をさえ茶化すほどに醒 めた視点を備えているのだ。その喜劇性は苦々しい楽園失墜の恩いを含んでいるはずだ。

III ガルベヤーズと工カチェリナ

ジュアンはコンスタンティノープルに売られ、サルタンの4人の愛妾のうち最もお気に入りの

(10)

『ドン・ジュアン』における視点の二重化 .13

ガルベヤーズ(Gulbeyaz)の性の奴隷となる。とは言っても、彼には堕落したという様子はほ とんどない。酔っぱらいの赤ら顔の女と鎖で番いにされたジュアンは、世慣れたイギリス大男に 会う。彼はバイロンの世間知を代表している。彼は将軍スヴォ一口フ(Suwarrow)の下、ロシ

ア軍に加わって戦役に就いていた。ハイディーとの悲しい別れを託つジュアンに、 30歳前にし て3人の妻と別れた彼は"And one by one in turn, some grand mistake / Casts off its bright skin yearly like the snake."と語り、醒めた人生観を吐露する。歳取る毎に目は覚め、

人生への崇高な視線はその輝きを失う。若いジュアンは未だに前世の輝きをこの世に求めている、

あるいはその残津の存在を信じているのだ。ワ‑ズワス(William Wordsworth)の「霊魂不 滅のオード」 (̀Intimations of Immortality of Early Childhood, '1807)よろしく、バイロン も表層上は超越的な始源の世界への視点を失ってはいない。先取りして言えば、ジュアンの無垢 さとはこの世に下った天使のそれを表しているのだ。ジュアンはいわば『天と地』のサミアッサ (Samiasa)やアゼイジェル(Azaziel)のような人間の女に恋する天使に似ている。彼の無垢さ は『ドン・ジュアン』の大目的である、虚偽に埋まった世の中に真実の姿を示すことにうまく合 致しているのである。

ガルベヤーズはただの肉欲の虜と化した、堕落の淵に墜落した女ではない。彼女もその堕落の 底から天上の至福の愛に憧れる眼差しをもっている。彼女もこの地上の犠牲者なのだ。召使いパ パ(Baba)に先導され、ジュアンはこのサルターナに謁見する。 26歳を越えたばかりの女盛り の彼女には、ジュアンは魅力的この上ない。彼女の輝かしい顔には"a tumult strange" (V.

108)が起こり、その頬には夏の日の夕暮れの血の赤みが差す。これは明らかな肉欲の顕現であ る。

彼女の姿にはまたも蛇の様相が窺われる。

Her form had all the softness of her sex, Her features all the sweetness of the devil, When he put on the cherub to perplex

Eve, and paved (God knows how) the road to evil; (V. 109)

悪魔は蛇の格好をし、頭上に天使の頑を付けてイヴを誘惑したのだから、ガルベヤーズの印象は まことに人を堕落に追い込む悪女である。方向としてはジュアンはもう一歩深く、堕落の淵に足 を踏み入れたと言えよう。しかし、ジュアンには堕落という事態は起こらない。エルフェンパイ ン(Andrew Elfenbein)が"Juan matters little except as an occasion to generate a kaleidoscopic variety of incidents" (41)と言うほど、ジュアンは不必要な人物とは思えない が、少なくともジュアンは語り手による訊刺のための視点の位置にあるため、彼が堕落してしま えば詩全体が瓦解を始めかねない。ガルベヤーズの最初の一言は、図らずも彼女の本心を呈示し ている。その言葉は…Christian,canstthoulove?'" (V.116)であった。この言葉には二様の 解釈が可能だろう。一つには、ジュアンには肉欲の経験があり、愛の閏房術に長けているのかと

いうこと。物語の流れから通常解釈されるのはこの意味である。もう一つは、愛の在り方の本質 を知っているのかという心の本音からの問いである。彼女自身も己を性の堕地獄から救って欲し いのである。その救済‑の願望が自ずから出た発言が" ̀Christian, canst thou love?‥'という 唆味な台詞ではなかったろうか。グレックナー(Robert F. Gleckner)は"...for Byron true love does indeed re‑create paradise, indeed is paradise regained" (340)と言う。この肉欲 の女にも、真の愛は天上への階梯であったのだ。

(11)

BE! 門 田   守

ジュアンはさて、この不朕な問いかけにどう答えたのか。その応答は‑イディーとの愛の楽園 を追われた悲しみの涙であった。ガルベヤーズも何故かわからぬか、自分の目に熱いものがこみ 上げてくるのを感じる。彼女の感情は溶け始め、生来女がもつべき優しさが彼女を支配し始める。

それに追い打ちをかけるのが、ジュアンのさらなる受け答えであった0

̀Thou ask'st, if I can love? be this the proof How much I have loved...

Whateer thy power, and great it seems to be, Heads bow, knees bend, eyes watch around a throne, And hands obey‑our hearts are still our own.'(V. 127)

話が前後するが、ジュアンは女装させられ、後宮の性の愛玩物として売られに来ている。サルタ ンにわかればただでは済むまい。とすれば、ジュアンを買う行為はサルタンの慰み物として所有 されているという堕落に、さらに逆に奴隷を所有するという堕落をつけ加える行為となる。この 二重の堕落に陥ろうとする瞬間、ガルベヤーズは不意に誠の愛に出会ってしまった。愛すること

は自由人の行為に他ならないことは、彼女にとって誰も言ってはくれぬ至言であった。

彼女の感情は嵐のように動揺し、女のか弱い感情がかき乱される。

And then her sexs shame broke in at last, A sentiment till then in her but weak, But now it flow'd in natural and fast, (V. 137)

凍りついていた彼女の感情は溶け始め、彼女は己が血も肉もある熱い肉体の持ち主であることを 悟る。初めて彼女は恥をかかされた。だがこの感情の目覚めも、また新たな堕落の始まりかもし れない。事実、彼女は狂ったようにジュアンを求め、彼の心を得るために自分の胸に短剣を刺そ うとさえ考える。 59歳にして1,500人の妾をもつサルタンの寵愛を得たとしても、ただ一人ジュ アンの心を失えば何にもならない。

ガルベヤーズの心情の動きは、 『海賊』 {The Corsair, 1814)のガルネア(Gulnare)のそれと 響き合う。ガルネアはトルコの太守サイド(Seyd)の最もお気に入りの奴隷である。サイドの 愛妾たちを助けるために捕囚の身となったコンラッド(Conrad)に、彼女は誠の愛を感じる。

彼女はサイドを刺してコンラッドを助けるが、そのとき受けた返り血がちょうど自分の朝を汚し てしまう。これはカインが額に帯びた罪の焼き印と等価である。ただガルネアは『海賊』の連作

『ララ』 {Lara, 1814)において、主人公に身を寄せて放浪の旅に出る、世間の枠を越えた崇高な る魂の巡礼と化してしまう。彼方へと向かうためには己の感情の疾風怒涛に身をあずけ、一切の 世間の常識を捨て去る心の崇高が必要だ。ロマン的放浪者の相貌をもつガルネアは、放浪のユダ ヤ人7‑シュエルス(Ahasuerus)の血を引き継ぐ女なのだ。ただ、どうだろうか。ガルベ ヤーズはジュアンに誠の愛という、いわばこの世における楽園の残樺を感じられても、愛妾の身 を捨てかつ心の崇高に昇り詰める行動には出ない。つまり、ここにはわれわれはバイロンの急落 法を見出すのである。崇高なる放浪者の相貌は、白けたただの性欲をもて余した女のヒステリー に堕しているのだ。パパの手違いと後宮長の勝手な計らいで、ジュアンナ(Juanna)ことジュ アンはハーレムでデュデュウ(Dudu)という女奴隷と一夜をともにするO それを知ったガルベ ヤーズはかくも痩撃し、身悶える。

It was but a convulsion, which though short

(12)

『ドン・ジュアン』における視点の二重化 .15

Can never be described ; we all have heard, And some of us have felt thus 'all amort'

When things beyond the common have occurred ; ‑ (VI. 106) 他愛もない、ただの薄汚れた嫉妬の嵐が彼女の内面を吹き荒ぶだけであった。

話を進めて、もう一人の権力の女、ロシア女帝エカチェリナ二世(CatherineII)について見 てみよう。ジュアンが彼女に会うのはイズマイル(Ismail)包囲戦という、ロシアがトルコに仕 掛けた攻略戦に参加した後のことである。この戦闘については後に述べる理由もあって、次章に 回すことにする。寵臣を矢継ぎ早に変えるエカチェリナは、まさに肉欲の女であった。夫の ビュートル三世(Peter III)をクーデタ‑で殺し、王位に就いた彼女は12名の寵臣を抱えたと いう(CPW 5.740)。ポチョムキン(Potemkin)、スヴォーロフ、ランスコイ(Lanskoi)、

イェルモロフ(Iermolov)、モモノフ(Momonov)など、数カ月おきに彼女は寵臣を変えた。

大いなる精力絶倫の女帝であったわけだ。

ジュアンは相変わらず若々しい青年の魅力を湛えている。最近まで屍を乗り越え、凄惨なる戦 争に参加していたが、それが彼の性格に影響を与えた気配はない。彼は黒い縁取りの赤いコート の軍服を纏い、長い羽飾りは風に揺れている。均整の取れた肢体は、青春期の精力に満ちている。

女帝の色欲の視線に留まらないはずがない。 語り手は"Love turned a Lieutenant of Artillery" (IX.44)と彼を形容する。 "Love"とはキューピッドを指す。その様子はこうである。

His Bandage slipped down into a cravat ;

His Wings subdued to epaulettes ; his Quiver Shrunk to a scabbard, with his Arrows at

His side as a small sword, but sharp as ever;

His Bow converted into a cocked hat; (IX.45)

キューピッドに馴染みの目隠し、背の翼、履、矢、弓はそれぞれ軍人のスカーフ、肩章、剣鞠、

短剣、三角帽に早変わりし、ジュアンは現代に降りた愛の天使然としている。バイロンの愛のモ チーフである、天上との交流と楽園の再体験がまたもや現前化してくる。ただしこの場合、恋人 たちの愛情はさらに地上化されている。ジュアン自身においても、肉体的な性格が強調されてい る。

… though he looked one of the Seraphims,

There lurked a Man beneath the Spirit's dress. (IX. 47)

彼は"a most beauteous Boy" (IX.53)であり、年頃になっても髭も生えず、年増女の格好の 餌であった。ワインスタイン(Leo Weinstein)はバイロンのドン・ジュアンと通常の伝説上の

ドン・ジュアンとの違いをこう言い切る。前者では主人公は誘惑するよりも誘惑される側にあり、

年増女に性の手ほどきを受けるか、もっと若い女との自発的な抱擁に身を任せるかのいずれかし か恋の選択の余地がないのだと(80)。普通のドン・ジュアンはむしろ色事師であり、かつ現世 的で醒めた感性しかないのは言うまでもない。ソースレフ(PeterL.Thorslev,Jr.)がジュアン をバイロニック・ヒーローに加えず、むしろトム・ジョーンズ(TomJones)やカンディード (Candide)に近いと発言したのは(13)、正しい判断である。ただしジュアンが純粋なのを利用

して、語り手の方が醒めた眼で謁刺の腕を揮うのも事実である。

エカチェリナの肉欲性は、バビロンの娼婦へのアルージョンにより聖書的な奥行きをもつ。彼 女の羽織る黒い熊の毛皮は"… all the ̀purple and fine linen,'fitter / For Babylon's than

(13)

46 門 田   守

Russia's royal harlot‑" (X. 26)を通してほの見え"her outward show of Scarlet" (X. 26) を中和する。 「ヨ‑ネの黙示録」第17‑18章(Rev.17&18)によれば、バビロンの娼婦は紫と 緋の衣を纏っていた。また「ルカによる福音書」第16章第19節(Luke16: 19)においては、

紫の衣と柔らかい麻布は賛沢者の衣服として描写されているからだ。

さらに、彼女の肉欲性は女性一般の生殖性への呪説に拡大されている。ホラティウス (Horace)の『議刺詩』 (Satires)の一節"teterrima belli causa" (1. 3)に言及しつつ、バイ ロンは悪の最大の原因をこう呪説する。

Oh, thou 'teterrima Causa'of all belli‑

Thou gate of Life and Death ‑ thou nondescript !

Whence is our exit and our entrance,‥. (IX. 55)

「汝、名状し難き者よ」 "thou nondescript"とはよく言ったものである。何故なら、これはあか らさまに女陰を指しているのだから。さらに、この達を見てみよう。

... how man fell, I

Know not, since Knowledge saw her branches stnpt Of her first fruit, but how he falls and rises

Since, thou hast settled beyond all surmises. (IX. 55)

人類の堕落という崇高なテーマを扱っているようで、これは実に卑近な内容さえもつ. "he falls andrises"とは、この達の前半の女体のイメージと重ねれば、コイトゥスを指していることは明 瞭である。 "ourexit and entrance"とは物質的に考えて、やはりコイトゥスと出産を指す。と ころが"Thou gate ofLifeand Death"と繋げれば、この達全体がネオ・プラトニズムの魂の流 出説と関連があると考えられる。つまり精神的レベルで考えると、 ‑なる者(‑秤)から生まれ、

また‑なる者へ帰るという、魂の流出と循環の崇高な動きをこの連は照射しているのである。こ の連の半ばの"…all Souls are dipt / In thy perennial fountain日." (IX.55)とは、もちろん 物質的には羊水を指す。だが、天上の楽園の命の泉と考えてもおかしくない。その直後に楽園の 知恵の木の実がもぎ取られた描写が出てくるのだから。異教的循環論と聖書の楽園追放の件とが 細い交ぜになった描写と、生々しい性へのアルージョンが揮然一体に縫い合わされているのが、

この連の内容なのだ。バイロンは崇高と急落法とを切れ目なく、使い分ける二重の視点をもって いる。

ジュアンはこの肉体の堕地獄に捉え込まれる。飢餓地獄たる死の船トリニダーダ号での体験と 繋げて考えれば、彼は食欲の次に性欲の洗礼を受ける格好になる。これに戦争の惨禍を加えれば 生存本能が、イングリッシュ・カントズの貴族社会への参入を加えれば名誉欲が、やがて彼を襲 うことになろう。人間存在の基本的欲求が次々に魂刺のメニューに上がるO その描写の意図する ところは、この世は楽園の残光のいくらかでも背負ったごく僅かの人間を除いては、全て愚者が 愚者を編す迷妄の世界であるというだ。

しかしジュアンは堕落せず、ただ病気になってしまったO エカチェリナに精力使い果たして奉 仕したせいか、それは知らない。語り手もその原因について口を閉ざす。われわれは、またここ でも急落法に出会う。ただ、ジュアンを巡って右往左往する宮廷の様子が郷輸されるだけなので ある。ポチョムキンに毒盛られただの、疲労困腰のせいだの、体液の配合のせいだのと憶測が屋 敷内に飛び交う。医者は匙を投げかけて、彼の病気をロシアの気候のせいだと言う。かくして、

エカチェリナはジュアンをロシアの外交使節という表向きでイギリスに送ることにする。

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『ドン・ジュアン』における視点の二車化 Eh

ガルベヤーズとエカチェリナを較べれば、後者の方がより深い肉体性を示す。ジュアンは後者 との交流の中でより楽園から距離を置いてしまった。彼はロシアでの成功を"a race‑horse" (X.

29)よろしく血筋の良さに負っていたが、いちばん役に立ったのは"an old woman and his post" (X.29)であった。母親イニスの手紙の内容がこの後に続くことを考え合わせれば、 「老 いた女」とはイニスを指すと考えるのが自然だろう。彼女の手紙は女王陛下の母性愛を称え、息 子に品性正しく暮らすよう諭していた。とんだ手紙の内容だった。何故なら「ポスト」とは男根 を表す地口であるのだから。 女帝の母性愛は肉欲だった。 よって、 語り手は"trumps of cherubim" (X.34)があればいいのだがと所望するのだ。 「天使の刷爪」とは真実を世に吹き鳴

らし、最後の審判の日の到来を告げる。偽善と誠実はその真の姿を現す。それは黙示録を告げる 刺帆と言っていい。翻って考えれば、バイロンが『ドン・ジュアン』で行っていることは、世に 真実の姿を、世人の愚行を、貴人の獣性を詳らかにすることであった。そうすれば、バイロンの 説刺は黙示録的状況の周辺を巡っていることになるO それはあくまで周辺である。というのは、

この「天使の剰帆」さえ、すぐさま"theear‑trumpetofmygoodoldaunt" (X.34)でも構わ ないと茶化されてしまうのだから。とにかく、この女王のもと"The gentle Juan flourished, though at times / He felt like other plants called Sensitive" (X.37)という具合に、ジュア

ンは羽振りよく振る舞った。 「おじぎそう」 "Sensitive"はもちろん、男根の含意をもつ。彼の悦 惚感は"In royalty's vast arms, he sighed for beauty" (X.37)と表現されている。 "he sighed for beauty"とはアンビバレントな意味合いをもっ。性の海にたっぷり浸かり、溺れか かったにも拘わらず、美に焦がれるとはエカチェリナの醜さの裏書きをしているからだ。よって、

地中海で難破して砂浜に打ち上げられたジュアンは、性の海にもまれて‑とへとでロシアを後に するのである。

IV イズマイル包囲戦とイギリス社交界

イズマイル包囲戦とイギリス社交界は奇妙な共通点をもつo どちらとも徒労なるゲームの暗示 を帯びている。イズマイルでの戦争にジュアンが参加するのは、エカチェリナとの性的交渉の前 である。戦争についての分析を遅らせたのは、イギリス貴族生活との共通性の故に他ならない。

戦乱の描写の前に、語り手は森羅万象の空なることを嘆息する。自分の詩が北極のオーロラの 如く空無であることを断りつつ、彼は

‥、 I hope it is no crime

To laugh at all things‑for I wish to know

What afterall, are all things‑but a Show? (VII. 2 )

と笑いの弁護と、万事が見せかけなのだと切り出す。スウィフト(Jonathan Swift)、マキャベ リ(Niccolo Machiavelli)、プラトン(Plato)、ルソー(Jean‑Jacques Rousseau)等の哲学者 が人生を馬鈴薯一個の価値もないと言っていたことを挙げ、語り手は「伝導の書」

(Ecclesiastes 1 : 2)に言及する。日く、 "allis Vanity" (VII. 6)と。続けて、彼は"Dogs, or Men!" (VII. 7)と呼びかけ、人間の営みを犬のそれなみに虚しく、愚かなものだと言う。

人生を虚しさやゲーム性の視点から眺める態度は、詩の最後部のイギリス社会を描く際のそれに 通じている。

戦闘の様子は残虐極まりないo ロシア軍は砲台からイズマイルの公共施設や民家に、片端から

(15)

LIB 門 田   守

砲弾を打ち込む。否、打ち込むはずだった。弾は外れて、実際どこに着弾するのかわからない。

火船は敵艦に火を付ける前に燃え尽き、沈没する。トルコ軍はマスケット銃や葡萄弾で応戦する。

殺教に殺教が重ねられる。名誉の戦士を遂げた者は官報に載せられる。しかし近代の官報で繰り 返しその名の現れる者は9人そこらしかいない、と語り手は言う。味方に大損害が出たにも拘わ らず、ロシア軍のスヴォ一口フ将軍は人間という名をもつ土くれをばただの塵芥としか考えてい ないo先耽りして言えば、これはイギリス社交界の人士をチェスの駒とみなす人間存在の格下げ の意識と繋がっている。こうした血を血で洗う戦乱の中、コンスタンティノープルから逃げ出し たジュアンはイギリス人兵士のジョンソン(JohnJohnson)とロシア軍に入隊するのである。

戦争では人間の命の行く末は運任せ、天のみぞ知るである。弾丸に当たるか、外れるかはほん の偶然の悪戯に過ぎない。 "What Sages call Chance, Providence, or Fate" (VII.76)とは、

とどのつまり弾丸の軌道数インチの差である。ジュアンとジョンソンには二名の‑‑レム女とも う一人宵宮が一緒であった。この連れの三人は軸垂隊に送り届けられる。しかし、彼らがそれで 無事であるかどうかの保証はどこにもない。こういう状態で、ジュアンとジョンソンは異教徒か

らクリスチャンの女王たるエカチェリナを守るための聖戦に参加するのである。しかし、その実 態は自分たちに何の危害も加えない街を焼き払う無差別攻撃であった。何が聖戦であろうか。全 ての価値判断はその依って立つ視点によって変わるはず。皆がただのチェスの駒と化し、わけの わからぬ運命の慰み物となることが戦争の実態なのである。

戦闘の描写は黙示録的崇高の様相を帯びる。人間の化けの皮が剥がされ、彼らの獣性が白E]の 下に晒される。ロシア軍の一斉砲撃に対し、トルコ軍も反撃に応じる0 "Then one vast fire, air, earth and stream embraced" (VIII. 7)とあるように、巨大な戦火は大地を覆い尽くす。

その様は黙示録的地球最後の大火災のようである。トルコの累壁全体がエトナ(Etna)火山の ように炎を吹き上げる。都合300台の大砲が唱吐剤を吐き出し、 3万台のマスケット銃が霞のよ うにその血生臭い利尿剤を撒き散らした。イメ‑ジは上からの咽吐と下からの糞便である。人間 の価値が格下げされ、泥もつれ血塗れの兵士が叩き声をあげ、塵芥同然にその辺に転がっていた。

眼寓の中で眼球が半回転して白Ejを剥いた死体がごろごろ。こんな犠牲者たちが数千単位で累々 と大地を覆っているのだ。

ジュアンとジョンソンは死骸を踏みつけ、前進を続ける。むやみに人を傷っけ、刺し殺し、

黙々と戦った。しかしロシア軍は戦況不利と見て、退却していた。新兵のジュアンは前線に残り、

ジョンソンも勇敢に前進していた.トルコ軍の大砲は、腕のいいボクサーみたいに逃げるロシア 軍兵士を片端から吹き飛ばしていた。ところが最前線にいたジュアンとジョンソンはうまく累壁 の斜面に辿り着き、彼らと1ダースばかりの勇猛果敢な命知らずの仲間たちの活躍で、イズマイ ルの城壁はついに破られたのである。街はとうとう侵入された。赤子と母親の叫び声が聞こえ、

末だ戦闘の続いている区域では硫黄の雲が覆っている。ロシアに荷担するポーランドのイェース コイ(Yesouskoi)中佐の軍隊が、同胞の死体の山を梯子にして次々と城壁を越えて行く。街は 占領され"Death is drunk with gore" (VIII.82)とあるように、死神は血潮という酒に酔いし れて酪酎状態。語り手は"Here War forgot his own destructive Art / In more destroying Nature…" (VIII.82)と詠い、破壊行為は自然の摂理に則った人間の本性とさえ言いたげであ m

この人間の破壊性は歴史的に拡張される。語り手は未来の読者に対し、こういう予言めいたこ とを詠う。やがて自由の日が訪れるとき、そのときは

(16)

『ドン・ジュアン』における視点の二重化 m

That hour is not for us, but tis for you:

And as, in the great joy of your millennium, You hardly will believe such things were true,

As now occur, I thought that I would pen you 'em; (VIII. 136)

であると。 「千年王国」とは黙示録的崇高の力学に含まれる、キリストによる祝福された、最後 の審判の日までの至福の時間である。その至福の日々にいるであろう読者がこんな悲惨な日々が あったことは信じられまい、と語り手は言う。この次、再びアイロニーが起こる。語り手は君た ちは四肢を色塗りたくって戦った人々も軽蔑するだろうと言い添える。この野蛮人たちはピクト 人を指している。そして、この詩の現在の読者がマンモスの骨やエジプトの象形文字やピラミッ ドを見て過去の世界を不思議がるのと同様に、未来の読者もこの世界の歴史の遺物を見て不思議 に恩うだろう、とも語り手は言い添える。これは「千年王国」への疑念を醸し出す発言である。

ところで、ちょうどこの時期フランスの博物学者キュビエ(Georges Cuvier)が天変地異説 を採り、人類の出現以前に地球は数度も破壊を受けたことを主張していた。バイロンは彼の著作 が上梓されるや否や、直ぐに親しんだらしい(CPW5.737‑38)c 実際、 『ドン・ジュアン』に おいてこう書かれている。

… this world shall be former, underground,

Thrown topsy‑turvy, twisted, crisped, and curled, Baked, fried, or burnt, turned inside‑out, or drowned,

Like all the worlds before, which have been hurled First out of and then back again to Chaos,

The Superstratum which will overlay us. (IX. 37) この直後の連で、語り手はキュビ工の説をこう採り入れている。

So Cuvier says; ‑and then shall come again Unto the new Creation, rising out

From our old crash, some mystic, ancient strain

Of things destroyed and left in airy doubt: (IX. 38)

このように地球の破壊が数度にわたり繰り返されていたら、どうだろうか。未来の読者にとって、

「千年王国」なんて永遠に来ないのではないだろうか。バイロンは歴史の連続性とキュビ工の壮 大な仮説の下で、黙示録的崇高の非現実性を詠いっつ、人類全体が彼自身のように永遠に楽園の 縁を経巡らなければならないと暗示しているわけだ。

ジュアンはリ‑ラ(Leila)という10歳の孤児をイズマイルで保護し、イギリスまで連れて行 く。彼女はイズマイルという地獄での楽園の残樺である。そして、イギリス社交界での楽園を連 想させる人物はオーロラ・レイビ (Aurora Raby)である。イギリス社会の様子はこうであ

る。

イギリスに着くや否や、早速シューターズ・ヒル(Shooter's Hill)で追い剥ぎ一人射殺した 後、ジュアンはその童顔も手伝ってロンドン社交界の寵児となる。イギリスでの語り手の態度は 真実なるものへの懐疑感である。彼はこう言う。

And, after all, what is a lie? Tis but

The truth in masquerade ; … (XI.37)

(17)

t=jい 門 田   守

Praised be all liars and all lies! … (XL38)

さらに上流社会とは

… good society is but a game,

̀The royal game of Goose,'as I may say, Where every body has some separate aim,

An end to answer, or a plan to lay一(XII.58)

である。人間はチェスの駒、与えられた役目しか果たせない精神的に迷える存在なのである。

ジュアンの交流した貴族のうちアデライン・アマンダヴィル夫人(The Lady Adeline Amundeville)とヘンリー卿(Lord Henry)夫妻は特筆すべき存在である。彼らとジュアンは ノーマン・アベイ(Norman Abbey)へと向かう。それはバイロンの祖先が住んでいたノッ ティンガム(Nottingham)近くのニューステッド・アベイ(NewsteadAbbey)がモデルであ る。われらがジュアンの社交生活の大半はここが舞台となる。集まった高貴な方々は山ほどだが、

最も重要なのはフイツツフルク公爵夫人(The Duchess of Fitz‑Fulke)と後に登場するオーロ ラである。語り手が"Appearances appear to form the joint / On which it hinges in a higher station" (XIII.81)と言うように、彼らの生活は偽善に満ちている。具体的には"And so that no explosion cry ̀Aroint / Thee, Witch! 'or each Medea has her Jason" (XIII. 81) と表現されている。 前半は、 シェイクスピア (William Shakespeare) の 『マクベス』

{Macbeth, 1623)の夫が不貞の妻にはき捨てた言葉である。後半はギリシア神話において金羊毛 を求めてやって来たイアソン(Jason)と恋に落ち、彼とともにギリシアに逃れたが、後に彼に 捨てられて、彼との間にできた二人の子供と彼の新妻を毒衣で殺した王女メディア(Medea) を指す。上流社会においていかに不貞、姦通が行われようとも、決して妻への罵警雑言は聞こえ てこない。それでいて夫のことを憎々しく患い、殺意を抱いている妻は五万といるのだ。どちら も嘘で塗り固められた貴族生活への郷槍であるo語り手は見事にその虚偽性をこのように描いて いる。

Good company's a chess‑board ‑ there are kings,

Queens, bishops, knights, rooks, pawns ; the world's a game ; Save that the puppets pull at their own strings;

Methinks gay Punch hath something of the same. (XIII. 89) ノーマン・アベイもまた然りであり、操り人形たちの巣であった。

イギリス貴族社会はイズマイル包囲戦での軍隊の陰画である。社交界の在りようは安全ではあ るが、無目的なチェス戦である。戦争の犠牲者がただ官報の殉死者名簿を(しばしば綴り違い で)飾るだけのように、貴族は肩書きという見かけを除けば意志のない人形である。エカチェリ ナの野望達成という無意味な目的のために兵士が戦場に駆り出されたように、貴族は社交界とい ういわば戦場(あるいはチェス盤)で己が命を名声のために擦り減らす。どちらの生活にも自由 者の誇りはない。考えてみれば『ドン・ジュアン』の訊刺の対象になった人間存在には、自由な どは与えられていなかった。ジュアンの放浪を振り返っても、性にしろ、欲望にしろ、何らかの 衝動によって束縛された、いわば自己自身の奴隷の姿しかなかった。ということは、社交界と戦 場は互いに対称的存在でありながら、この堕落した地上の‑類型を表しているに過ぎないのだ。

アデラインは社交界の洗練さの極北を示す女性である。ジュアンよりも6週間年上の21歳そ こそこに過ぎないが"'Twas ratherherexperiencemadehersage" (XIV)とあるように、 ‑

(18)

『ドン・ジュアン』における視点の二重化 51

癖も二癖もある貴族連中の間をくぐり抜けてきたために、すっかり世知に長けたレディになって いる。彼女は16歳で社交界にデビューして美形の婦人連中を震掘させ、 17歳で紳士諸兄を魅了 し、 18歳で並みいる求婚者たちを退けてヘンリー卿と結婚した。伊達男たちの針が傷っけられ ない高みに彼女はいた。よって、アデラインは"a right to have maternal fears / For a young gentleman's fit education" (XIV.52)をジュアンに対してもつ。その意味で彼女は保 護者的なジュリア、ガルベヤーズ、エカチェリナに繋がる人物となるO ただ彼女には彼らの旺盛 な精力がまるでない。イギリスの風土や伝統の力によって、彼女は真実の己を喪失し、ただの人 間の抜け殻になっている。今や"this vile age / Of chaff" (XIII.97)の状態にあるイギリス自 体が、己に真筆な情熱を忘れ去ってしまったのだ。形式と上辺の社交界に君臨する女王アデライ ンは、いわば血の気の失せた女帝エカチェリナである。徹底的に倭小化されてチェス盤上の戦争 と化した社交界の、彼女はややブルー・ストッキング的青みを帯びた女王なのだ。

戦場は今や食卓へと縮小されている。

Great things were now to be achieved at table, With massy plate for armour, knives and forks

For weapons … (XV.62)

とあるように、今や鎧は皿、武器はナイフとフォークに過ぎない。第15篇第62連から13連も 長々と料理の描写があるが、その中でローマの将軍ルクルス(Lucullus)がヨーロッパに初め てもたらした料理「勝利のローブ」 "Robe triumphal" (XV.66)はLl」報のヒレ肉"fillets" (XV.

66)を衣で包み込んだものである。この料理は直後の連で、このように見事に郡漁の犠牲となる。

What are the fillets on the victors brow

To these? They are rags or dust. Where is the arch Which nodded to the nations spoils below?

Where the triumphal chariots'haughty march? (XV. 67)

この場合"fillets"は勝者の額飾るリボンとなり、料理の名前の暗示から「凱旋門」や「凱旋行 進」の名が言及されている。しかし「凱旋門」にしろ、 「凱旋行進」にしろ、探されている場所 はただの食卓上である。極めつけは最終カブレットである。

But oh ! ye modern heroes with your cartridges,

When will your names lend lustre even to partridges? (XV.67)

「弾薬簡」 "cartridges"は「山鶴」 "partridges"と韻を踏まされ、戦争での栄光が料理の出来映 えほどの価値しかないようだ。命を賭けたイズマイル戦が、ここでは食卓に並べられた豪華料理 の数々に還元されているのだ。

外見上はいかに美しくとも、アデラインは心が歪んだ不具者である。彼女を描いた部分で、語 り手は世の妻の亀鑑たる女でも"the misery of at least two lives" (XIV.95)をもたらしたの だと詠う。これはバイロンと彼の妻との生活を暗示している。アデラインは夫を愛していると思 うだけで、その愛には努力が必要であった。 "Bright as a new Napoleon from its mintage, / Or glorious as a diamond richly set" (XV. 7)と称えられる彼女だが、ジュアンには強烈な 興味を覚えた。そして、何とかして彼の魂を救おうと考えた。これもバイロンの魂を救うために、

彼と結婚したアナベラを想起させる。しかし、救われたいがために結婚を選ぶ男がいるだろうか。

それは一種の支配的行為ではあるまいか。少なくともアデラインはジュアンの結婚相手を選ぶこ とで、彼を支配する道を選んだ。しかも、その結婚相手の候補の中からオーロラは巧みに除かれ

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