「学制」期の小学校創設と子どもの学習内容の検討 : 三重県朝明郡大矢知学校創設と伊藤家の子どもの 事例を中心として
著者 梅村 佳代
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 55
号 1
ページ 1‑10
発行年 2006‑10‑31
その他のタイトル A Study on Founding of Primary School and
Learning Contents of Child in Gakusei Era
URL http://hdl.handle.net/10105/236
1.はじめに
筆者は先行する『近世日本民衆の文字学習に関する総 合的な調査研究』(1)において,伊勢国朝明郡山村の伊藤 武夫家文書をもとに「幕末期から明治初期、農民家族の
人生儀礼と交友圏の検討−伊勢国朝明郡山村の伊藤家 を対象として−」をまとめた.そこでは伊藤家の祝儀 帳を分析し,出産,元服,役附き,婚姻などの祝儀と死 去による香典帳を分析し,幕末から明治初期にかけて農 民家族の人生儀礼に伴う農村共同体の交友圏の広がりを 奈良教育大学紀要 第55巻 第1号(人文・社会)平成18年
1
Bull. Nara Univ. Educ., Vol. 55, No.1 (Cult. & Soc.
)
,2006「学制」期の小学校創設と子どもの学習内容の検討
─ 三重県朝明郡大矢知学校創設と伊藤家の子どもの事例を中心として ─
梅 村 佳 代
奈良教育大学学校教育講座(教育学)
(平成
18
年4月25
日受理)A Study on Founding of Primary School and Learning Contents of Child in Gakusei Era
UMEMURA Kayo
(Department of School Education, Nara University of Education, Nara 630-8528, Japan)
(Received April 25, 2006)
Abstract
This Study shows three points on how a child had influenced by the culture and knowlege in his childhood.
This child had studied in the Meiji era. His name was Itoh Risaburoh, he was the son of Itoh Rinichiroh and his wife. Rinichiroh was a leader of Yamamura, Asake, Mie.
Risaburoh had studied Kohjyohdoh in many villages over Asake. Many Students over eight years old learned reading, writing and arithmetic.
Four teachers had taught them. One of teachers was Niwa Shyuuji. Niwa had founded Ohyachi Primary School.
I think Risaburoh had studied at this school.The school contents were a Jyugaku textbook and Syuuji textbook and on abacus.
Next, Risaburoh had entered into Oyachi Primary School. This school model was the First Yokkaichi Primary School. The contents were reading, writing and arithmetic.
He performed excellent in this school. He advantaged over a few grades. He learned much about Jyugaku, and writing and about Ouraimono and he also learned geography, history and mathmatics.
He learned more western scientific material snd some japanese history.
He received a higher level of knowlege in this shcool. After this school, Risaburoh had became a teacher.
Key Words: Kohjyohdoh, Ohyachigakkoh, Itoh Risaburoh
キ−ワ−ド: 興譲堂,大矢知学校,
伊藤理三郎
具体的に明らかにした.このことにより,近世農民の子 ども達の誕生から成育,死去に至るまで農村共同体及び さらに広域の地縁・血縁による農民家族のネットワーク によって支えられ,子どもの成育の節目ごとに儀礼とし て共に集って祝い,共食による饗応関係が結ばれ,生涯 支えられていく関係のもとに子どもひとりひとりの成育 がなされていることを明らかにした.しかし前稿におい ては個々の子どもに即して具体的成育や知的形成まで論 ずることができなかった.近世農民家族を支える社会基 盤は農村共同体であり,家族の個々の営みは孤立してい るのではなく,共同体の中で共有されるなかで子育てや 躾,道徳性の形成がはかられることは民俗学の分野でも 明らかにされていることである.
本稿では,伊勢国朝明郡に
1874
(明治7
)年に設置さ れた大矢知学校の創設とそこで学んだ山村の伊藤家の子 どものうち,主として1866(慶応2)年に誕生して1882(明治
15
)年に死去した伊藤理三郎の学習ノートをとり あげて,学習内容を検討して知的形成の足跡を捉え学習 活動を明らかにしたい.伊藤家文書に残された理三郎の学習史料は断片的な残 り方にもかかわらず,かれの知的な形成過程を推察する ことを可能にする子ども時代の理三郎の学習ノート的な 稽古帳が残されている.そこから推察できることは幕末 から明治初期にかけて近世的教養から西欧文明を摂取し た近代小学校の教育内容を積極的に捉えて一生懸命に勉 強してかなり高度な理解力と幅広い教養を形成して,大 人社会に参入していった理三郎の知的形成過程を予測で きるものであり,理三郎を通して近世から近代への知的 な形成過程の実態をとらえようとするものである.
伊藤理三郎は知的な成長において早期の形成がなされ たようで,残された卒業証書によれば,1878(明治11)
年2月9日に第二大学区三重県管下第三十六番中学区内 従百五拾六番至百六拾番小学連区大矢知学校の下等小学 第六級を卒業し,とび級をして同年
5
月19
日には大矢知 学校下等小学第三級を卒業している.そして1879(明 治12)年4月22日には穂積学校補助となり朝明郡役所か ら月給55
銭を支給される教員になったのである.本稿で取り上げた史料は四日市市史編纂過程において 蒐集された伊藤武夫家文書に依拠していることをおこと わりしておく.(2)
2.「学制」公布以前、旧忍藩郷学校「興譲堂」
創設のとりくみ
三重県朝明郡大矢知村は旧忍藩領下にあった.
1871
(明治
4
)年の廃藩置県直前であるが、旧忍藩主より1870(明治3)年11月に領内への布達が出された.その
趣旨は学校を開校し,郡中村々の幼童八歳より入校させ読書・習字・算術の学科規則を定めて生徒に修業させよ うとしたものである.学校が盛大になり人才教育が行き 届けば朝廷の趣旨も貫徹し,郡中の風儀も華美を退け,
淳朴となり,境界争論も自然と止み,分限を守って万事 質実にわたるとされた.平民子弟はその藩立学校に八歳 から入学することとなった.
藩立学校は「興譲堂」と称され,朝明郡大矢知村に実 際に開校された.場所は大矢知村出張所内の長房に習字 と算術学舎を設け,講堂と生徒寮が増築され読書研鑽所 とされた.
教員は大賀賢励・瀬木新左衛門・丹波修治の三人が教 頭となり,諸教授や試補助教等が配属され,1871(明 治
4
)年2
月に開業式典が県の役人,村の総代の列席に よって行われ,以後師弟ともに勤勉に勤めた.しかし1871(明治4)年の政府による廃藩置県の措置により,
翌年の72年には一時学舎を閉鎖した.ただし学舎での 学問教育は続いていたようである.しかし
72
年7
月に学 舎が懲役場にされたことにより停止した.(3)ところで,維新期における郡中村々の幼童を対象とし た学校の経験は,一年半という極めて短期間であったに も拘わらず,「学制」以後の小学校の組織化に多大な影 響を与えた.興譲堂の教頭の一人,丹波修治の子息誠一 郎が「学制」以後の学区取締に任命され,大矢知村に大 矢知学校を74(明治7)年という早期創設を実現した.
その学校構想と教則構想に「興譲堂」の経験が継承され ている.その詳細は後述するとして興譲堂の教則は以下 の通りであった.
教授方法は講義・会読・輪講・輪読・素読・詩文・習 字法・数学法であった.全体としての内容は漢学及び習 字と算術の修得が目的とされた.具体的には「講義」は 教頭の大賀賢励による難解書と易解書の講義で毎日一席 で連続講義であった.次ぎに「会読」は12〜13人のグ ループにわけ,教頭又は教授が小グループを取り仕切っ て三日間聴講した文面を残る一日に論議研究して聴講者 と講義者が質疑応答し,それを採点した.「輪講」は12 人から13人の小グループの一人一人が順番に教頭ある いは教授が担う会頭の前で半紙半枚分の講釈をし,座中 のメンバーによる質疑応答が行われれ,巧拙は五点を基 準に評点化された.「輪読」は会頭又は句読師が付き,
12人から13人の座中メンバーがグループを組み,四書
五経の書を輪番に音読するものである.誤読あれば,糺 した座中のメンバーが続いて音読し,半紙半枚に至れば 交代する.時間は線香一本を焚く間であり,三点を標準 に賞点がつけられた.「素読」は句読を授けることであ り,句読書は孝経,四書,五経,古文真宝,文選であり,句読師,教頭,教授が担当した.「詩文」は三八など定 日に一度の会で詩文を作るのである.近世以来,日本の 儒学学習の場で最も盛んであった.会席で教頭より題を
与えられ,線香三本焚く間に作出し,匿名にして教頭に 提出し,五〇点を最高として巧拙が評価され賞点が付さ れた.生徒は日頃から詩文の推敲を重ね,一日二首ある いは一編に限り添削を請うことができた.(4)儒学教授の 階梯は漢籍書書の難易に相応して初級から九級までに分 かれ、各級は真と権にさらに分かれ,五級以下を下等,
六級以上を上級とした.漢籍書は儒学書,歴史書など四 書五経以外にも難度の高い内容が含まれていた.
習字法は初級から三級まで,楷書・行書・草書の三体 とも生徒の請求に応じて,三体の運筆に秀でた助教が選 ばれ教授した.内容をみると初級は伊呂波,人名,村名,
国尽,干支,初登山手習教訓書,用文章といった近世以 来,寺子屋などで庶民が手習稽古をした初学入門期の手 習い手本である.二級は商売往来,消息往来,風月往来,
庭訓往来,今川状,腰越状,義経含状,弁慶状,熊谷状,
経盛返状,曽我状である.初学を修得した生徒が更に継 続して手習い稽古をした手本類が多く,往来物では実業 類,消息類,歴史類,教訓類など学習内容にも配慮され たもので庶民が愛読していたものを系統化させたのであ る.三級は和漢朗詠集,世話千字文,千字文,広千字文 で漢字,漢文の稽古である.(5)
数学法では初級・二級・三級の階梯である.初級は九 九数,八算見一除法の暗算と,のちに算盤の八算,小割 法であり,二級は大割法,七八九法,相場割を百日間の 修業をする.その教授は加減乗除を自在とするものが助 教となる.三級は開平法,開立法,点鼠法とある.(6)
この大矢知村学校「興譲堂」の教則に相応した学習足 跡が後述するように伊藤理三郎の「四書備忘録」や「商 売往来」「地名尽」漢詩文の習作などからも伺える.つ まり,一年半という短期間の開学にもかかわらず,大矢 知村の近村の山村の伊藤理三郎は入学して学習したと推 定されよう.このことにより,「学制」期の大矢知学校 で下等八級に入学したが六級以後は飛び級して早期卒業 が可能であった.
3.「学制」期、朝明郡大矢知学校の創設
明治初年の三重県は
1871
(明治4
)年の廃藩置県によ り、旧藩治地域はそのまま旧県地域となった.朝明郡山 村は忍藩から忍県管轄下となり,1872(明治5)年実施 の大区小区制のもとでは第二大区二之小区の管轄になっ た(別図1
).この第二大区二之小区は大矢知村が中核 村で外24ヶ村(広永新田,平津村,千代田村,伊坂村,山村,広永村,埋縄村,柿村,小向村,縄生村,当新田,
北福崎村,亀尾新田,亀須新田,亀崎新田,南福崎村,
豊田一色,天ヶ須賀村,高松村,豊田村,松寺村,蒔田 村,川北村,下之宮村)から構成されている.1873
(明治6)年の「三重県第二大区二小区戸籍統計」(7)に
よると中心村である大矢知村の戸数は
177
軒、人口数は758人であり,山村は34軒、150人という区内の規模か
らすると小さい村である.区内総軒数1,910軒の1.8
%、区内総人口9
,227
人に対する人口比は1
.7
%であ る.山村の内部では伊藤家は近世では村の庄屋などの村 役人を任じ,明治以降は年番戸長を任ずる村落上層に位 置する.区内の大規模村は天ヶ須賀村で軒数218軒(総 軒数の11
.8
%)人口は1
,088
人(総人口比11
.8
%)という村もあり,他方,亀尾新田のような
4
軒、22
人と いう極小規模の村もある区域であった.(別表2)大矢知村を中心村とする外24ヶ村からなる第二大区 二之小区域は桑名市域に隣接し,四日市地域の北西部に 位置する社会的・経済的にも発達した地域に相当し,
1871(明治4)年には郷学校「興譲堂」の創設,
「学制」期には早期に大矢知学校を創設し,1870年代には四日 市町に続いて第二高等小学校が設置され,四日市市域に あって四日市町と政治・経済・社会文化の面で双璧をな した地域であった.
3.1.三重県小学第一校の創設
−モデルとしての四日市町の事例−
1872(明治5)年8月3日の「学制」公布後,各地では
学区取締を中心に新たな小学校が創設され組織化が始め「学制」期の小学校創設と子どもの学習内容の検討
3
図1 三重県朝明郡第二大区二之小区
出典:『四日市市史』第十三巻史料編近代! pp.12−13 図2 1872年(明治5)5月の大区小区制より一部引用
られた.学区取締とは「学制」期に設置された学校創設,
運営,教員任免などに関していくつかの学区を統括して 推進した教育経営者であり,地域の人民に学校への就学 を働きかけ就学促進をする村役人の役割も担っていた.
三重県令達によれば三重県管轄下にあっては第二大学区 第三十五番〜三十八番中学区までの四中学区に学区取締 は
47
人設置された.朝明郡大矢知村など第二大区第二 小区は第三十六番中学区で13人の学区取締が配置され たようである.その第三十六番中学区の13人の学区取 締のうちの一人が大矢知村の丹波誠一郎である.(8)第二大区の学区取締,丹波誠一郎の
1872
(明治5
)年 の日誌「明治五歳 埃嚢 壬申四月」によれば,第二大 区二之小区の小学校創設の取り組みは,四日市町に設置 された小学第一校の規則である「小学第一校規則」を克 明にメモして,それをモデルにして地域住民に働きかけ,備品整備や教科書購入に奔走したことが窺われる.(9)
三重県小学第一校は三重県下の北勢地域に1872年と いう最も早く開設された学校である.「学制」実施にあ たり三重県令は各地の学校創設のモデルとする意図もあ り,学区取締をはじめ県内各地の村役人などに広く広報 した.第二大区二之小区の学区取締,丹波誠一郎がメモ していた
1872
(明治5
)年11
月創設の「小学第一校規 則」は以下のような内容であった.これは文部省の「学 制」に準拠した上等小学・下等小学を基本としていた.第一条によれば小学を上下に分けて下等小学は6歳から
9
歳までの四年間,上等小学は10
歳から13
歳までの四年 間のあわせて八年間の小学課程であり,入学は月曜日を 定日とした(第二条).修業時間は午前九時から十二時 までと午後一時から三時までの三時間ずつ計六時間とした(第四条).時刻を知らせるのは喚鐘とあり,鐘を叩 いてしらせるものだった(第五条).生徒は六ヶ月ごと に学業の試業を行って優劣を判じて等級を定めるとされ た(第六条).第七条で課程を各級に分け毎級六ヶ月ご との習業とされ,入学したものは下等第八級となされた.
各級の課程は以下の内容であった.
下等第八級−綴字,習字,単語,洋算 第七級−八級ニ同シ
第六級−習字,単語,洋算,読本素読 第五級−地学,余ハ六級ニ同シ 第四級−習字,洋算,地学,読本輪講 第三級−理学,書牘,余ハ四級ニ同シ 第二級−三級ニ同シ
第一級−二級ニ同シ 上等第八級−下等第一級ニ同シ
第七級−史学、余ハ第八級ニ同シ 第六級−七級ニ同シ
第五級−史学,外国語綴字,余ハ七級ニ同シ 第四級−幾何学,博物学,余ハ五級ニ同シ 第三級−化学,余ハ第四級ニ同シ
第二級−三級ニ同シ 第一級−二級ニ同シ
但,人ノ性質材気ニ由リ,本文正則課程等級ノ外ニ 変則課程ヲ設ケ,直チニ英国学ヲ授クルモノアリ(10)
1872
年11
月に四日市町に創設された小学第一校の課 程は文部省公布「学制」に基づいて小学課程を上等小学 と下等小学四ヶ年ずつ計八ヶ年制とし、半年毎を各級と大 矢 知 村 広 永 新 田 平 津 村 千 代 田 村 伊 坂 村
山 村
広 永 村 埋 縄 村
柿 村
小 向 村 縄 生 村 當 新 村 北 福 崎 村 亀 尾 新 田 亀 須 新 田 南 福 崎 村 豊 田 一 村 天 ヶ 須 賀 村 高 松 村 豊 田 村 松 寺 村 蒔 田 村 川 北 村 下 之 宮 村
総 計
村 名 戸数(軒) 社 寺 僧(人) 士 族 平民(戸) 人員総計 内男(人) 内女(人)
亀 崎 新 田 177
57 67 52 91 34 50 36 133 80 169 57 31 4 22 112 63 218 106 120 48 56 51 1,972 46
6 6 2 1 5 3 3 3 4 2 1 3 3 1 3 2 1 2 1 1 1 2 1 60 1
2
− 1 1 1
− 1 2 1 1 1
−
−
−
− 1
−
− 2
− 1 1 1 17
−
−
−
−
−
−
− 1
−
−
− 1
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
− 2
−
2
− 1 1 1 1 1 2 1 1 1
−
−
−
− 1 1 1 1 1 1 1 1 20
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
− 2
−
−
−
−
− 2
−
171 58 66 52 97 36 54 36 147 86 171 58 33 4 22 111 62 230 106 125 47 55 54 1,959 48
758 271 324 235 436 150 262 173 636 419 714 274 145 22 120 602 318 1,088 518 605 202 256 277 9,231 272
370 129 171 112 214 69 130 88 300 211 346 153 58 13 62 319 154 546 267 281 102 135 137 4,586 135
388 142 153 123 222 81 132 85 336 208 368 121 87 9 58 283 164 542 251 324 100 121 140
30 2 − − − − 30 150 80 70
4,645 137
(9,227)
(1,910) (4,582)
表2 明治六年分 三重県第二大区二小区戸籍統計
三重県四日市市立博物館資料庫所蔵 伊藤武夫家文書
出典:梅村佳代「幕末から明治初期、農民家族の人生儀礼と交友圏の検討−伊勢国朝明郡山村の伊藤家を対象として−」
(『平成14年度〜平成16年度科学研究費補助基盤研究C2 研究成果報告書』2005年3月刊)p.21より引用
▲
して等級制と課程制を採用した.また試験により優劣を 定め等級を決めるとする能力主義をとり,入学は
6
歳か ら毎月曜日を入学定日とした.各級ごとの課程において も下等小学は綴字,習字,単語,洋算,読本,地学,理 学,書牘とされ,上等小学はさらに史学,外国語綴字,幾何学,博物学,化学などが加えられた.「学制」の教 則に準拠して,三重県下の学校創設期にあって西洋学に 基づく科目や科学的知識を積極的に導入しようとする四 日市町の学区取締らの姿勢が明確である.
3.2.朝明郡の大矢知学校の創設と教則内容
第二大区二之小区は第三十六番中学区に属する.学区 取締は天春文五郎,丹波誠一郎,内田精十郎,大塚八郎 兵衛,後藤久兵衛であるが,大矢知村近隣は天春文五郎 と丹波誠一郎が担当した.1875(明治8)年には大矢知 学校,高松学校,縄生学校,柿学校が設置されていたと されるが,(11)大矢知学校の設置はその前年の
1874
年で ある。1874
年に開設された二之小区の学校は大矢知村 の大矢知学校と縄生村の縄生学校とされ,柿村の柿学校 は少し遅れて1876(明治9)年とあり不確定な面も残さ れている.大矢知学校に関しては設立は1874
(明治7
) 年3
月16
日,教員2
名,生徒は男児130
人,女児40
人のあ わせて170人とある.(12)これは別表3からみても1874年 の大矢知学校の就学生徒数は男児142人,女児27人,合 計169
人とあり,就学総数はほぼ169
〜170
人水準とみて よい.しかし就学対象者である子ども数からみると男児231人,女児223人,合計454人のうち不就学者が男児89
人,女児196人,合計285人という不就学者の多さ,就 学率は男児61
.5
%,女児12
.1
%,合計では37
.2
%と いう男児が60
%以上の就学率であるにもかかわらず、女児の就学率が12%という極端に低い創設期の状況が 浮かび上がる.まずは男児に就学可能な条件が成熟して いたのである(別表
3
).教育内容についての規定である教則についてみてみ る.1874(明治7)年1月に大矢知村から三重県権令,
岩村定高に提出された「私学開業願」(13)は創設期の大 矢知学校が公学校の先駆として私学校として開業を申請 したものである.四日市市域では一般的に創設期の小学 校設立はまず私学から,そして公学校へと移行の形態を とっていた.
大矢知学校は大矢知村に設置され,教員の一人は三重 県の元士族,駒木根元一の長男,駒木根八郎(
21
才7
ヶ 月)であった.駒木根八郎は開業願によれば,文久3(1863)年から旧桑名藩学校において7年修学し,1870
(明治
3
)年より半年間,東京粟津高明門にて学び,ま た海軍兵学寮にて半年学んで,合わせて9
年間の修学を した後,教員として志願した人物である.開設された大矢知学校の学科は「小学」である.教則
は最初小学を上下二等に分けて
6
才から9
才を下等小学,10
才から13
才を上等小学としようとしたが,挙行できなかった.そこで教則を省略して下等小学の課程を設け て八級から一級までの半年ごとの習業と定め,初めて就 学したものを第八級に入学させ,書籍などの整備が為さ れた後に上等小学の課程に進級させることとして出発し た.まず現実的に学校を開業させて,児童を就学させて 習業させることを優先させたのである.(14)
創設期の大矢知学校のカリキュラムは以下のようであ った.
第八級 読書 知恵ノ環初篇等ヲ授ケ之ヲ暗誦セシム 習字 平仮名、片仮名等ヲ習ハシム
算術 数目九九合数加減法等ヲ授ク
第七級 読書 知恵ノ環二篇等ヲ授ケ、及ヒ郡町村名 ヲ暗誦セシム
習字 楷書ヲ授ク 算術 帰除九帰ノ法授ク
第六級 読書 単語篇ヲ暗誦セシメ及ヒ日本国尽知恵 ノ環三篇等ヲ読マシム
習字 前級ノ如シ 算術 諸交易等ヲ授ク
第五級 読書 府県名ヲ暗誦セシメ世界商売往来、知 恵ノ環四篇、窮理図解等ヲ読マシム 習字 書牘前級ノ如ク或ハ単語篇中ノ字ヲ呼
ヒ随テ之ヲ書シム 算術 乗除定法ヲ授ク
第四級 読書 世界国尽、勧善訓蒙、学問ノススメ等 ヲ授ケ回読セシム
習字 行書ヲ授ク 算術 比例差分等ヲ授ク
第三級 読書 西洋新書等ヲ読マシメ及ヒ命令ヲ回読 セシム
習字 前級ノ如ク字形稍小ナルヲ学ハシム
「学制」期の小学校創設と子どもの学習内容の検討
5
表3 1874年、第三十六番中学区朝明郡 第142〜146番小学区大矢知学校学事統計
出典:『四日市市史』第十三巻史料編近代! p.179より一部引用 子 供 数
男 大矢知村 51 49 下之宮村 16 15 川 北 村 17 19 広永新田 18 19 平 津 村 27 21 千代田村 17 19 伊 坂 村 32 28 山 村 6 5 広 永 村 142番
地 名 小学区
143番
144番 145番
146番 29 28
埋 縄 村
合 計 231 223 454 142 27 169 89 196 285 18 20
100 31 36 37 48 36 60 11 57 38
36 10 11 0 13 3 13 1 20 2
9 4
12 3
4 0
18 4
6 0
46 11 16 14 22 13 15 4 22 6 女 計
就 学 者 男 女 計
15 39 5 15 4 16 5 18 7 19 8 15 20 25
2 5
11 24 12 20
54 20 20 23 26 23 45 7 35 32 不 就 学 者 男 女 計
人 人 人 人 人 人 人 人 人
算術 平等損益ノ法ヲ授ク 第二級 読書 西洋事情性法略等ヲ授ク
習字 草書或ハ細楷ヲ授ク 算術 求積利息算等ヲ授ク
第一級 読書 既ニ学フ所ノ窮理図解ヲ講述シ及ヒ日 用文ヲ作ラシム
習字 前級ノ如シ
算術 開平開立法ヲ授ク(15)
「校則」に拠れば,課業の習業時限は毎日午前
8
時よ り12
時までの4
時間と午後1
時から4
時までの3
時間の合 わせて7時間行われるとされた.課業の休席は一と六の 日とされ生徒入学は毎週月曜日を定日とされた.時限は「撃折ヲ以テ時辰ヲ表シ」とあり,棒で太鼓か板を叩き,
時限を知らしめたのである.そして六ヶ月ごとに試験が 実施され優劣が判定されて昇級あるいは飛び級,留め級 などの等級が定められた.現に飛び級も伊藤理三郎の事 例のように実施されている.
生徒の修学状態は勤惰状況として記録され,習業の巧 拙により賞点が付された.校則違反者は罰状が掲示され,
父母にも示された.かなりの厳罰主義である.年中の休 日は孝明天皇祭,紀元節,天長節,神武天皇祭,神嘗祭,
新嘗祭の六祭日と毎月一六日とされた.
以上のように,大矢知村に開設された大矢知学校は下 等小学を基本として近代的な小学課程の学校として開業 された.とりわけ課業は読書・習字・算術を基本科目と して設定され,教科書などに西洋学を導入した.
4.「学制」期,大矢知学校生徒,伊藤理三郎の 学習生活
伊藤理三郎は伊藤家の次男である.伊藤家は朝明郡山 村において近世以来,庄屋を勤め,明治初年の大区小区 制のもとでは年番戸長を勤めた伊藤林一郎とその妻の子 息である.
2
歳違いの兄1
人と妹1
人,合わせて3
人兄弟(妹)である.幕末から明治初年の伊藤家の家族は父,
母,兄,理三郎,妹,祖母,曾祖母,父の伯母の8人家 族であった.
理三郎は
1874
(明治7
)年に大矢知村に大矢知学校が 開設された時は数えの9歳,満8歳であった.創設され た直後の大矢知学校の第八級に入門したようである.伊 藤家に残された修了証書によれば1878
(明治11
)年2
月9
日に第六級卒業となり,飛び級して同年の5
月19
日に は第三級を卒業している.理三郎の入門は1876(明治9)年秋ころとみられる.理三郎が満年齢11歳ころであ
ろうか.年齢的にも飛び級して同年者と同じ頃に第三級 を11
歳で卒業したのではないか.4.1.理三郎の学習生活と学習内容の検討
大矢知学校の教則によれば第八級から第一級まで半年 毎に読書・習字・算術を修得して試験により進級してい くことになっていた.理三郎は第八級に入学してから第 六級までと飛び級した第三級を検討することとする.
4.1.1.理三郎,第八級〜第六級・第三級の学習 第八級の「読書」は知恵の環初篇の暗誦,習字は平仮 名と片仮名,算術は数目九九合数加減法とある.第七級 では「読書」は智恵の環二篇と郡町村名の暗誦,「習字」
は楷書,「算術」は帰除,九帰の法である.第六級では
「読書」は単語篇の暗誦と日本国尽と智恵の環の読み,
「習字」は楷書,算術は諸交易を授けるとある.飛び級 をした第三級の課程では第三級の「読書」は西洋新書と 命令の回読,「習字」は行書の稍字形の小なるものを修 得すること,「算術」は平等損益の法を修得することと されていた.
「智恵の環」は伊藤家の所蔵本の中には見あたらない.
というのは当時の教科書は学校備品として所有保管さ れ,授業においても教員が学校所有の教科書を使用して 行われたのである.そのことは,他の面からも窺うこと ができる。
学区取締の丹波誠一郎が1874(明治7)年に三重県学 務掛あてに「書籍払い下げ願」として「絵入り智恵の環 五部,世界国尽五部(一部
6
册で全部で30
册),世界商 売往来五部」の払い下げを申請して,県の庶務課より,4円相当の額で購入した.その後,74年には岩村定高県
令より文部省からの委託金が配分され,第二大区には116
円ほどが配分された.二之小区には37
円余の配分が あったと推定され,これらの費用は教科書の購入に殆ど 当てられたようである.これらのことが学区取締丹波誠 一郎の日誌から窺える.そして75年2月には,さらに松 阪の三井組が三重県に書籍代500
円を寄付したことに伴 って県下の大区全体に必需の教科書が配分された.第二 大区配分教科書は世界国尽9部,日本国尽9部,絵入り 智恵の環6部,啓蒙智恵の環6部,窮理図解4部,西洋新 書9
部,十二月帖8
部,手習双紙6
冊の配布がなされたと ある.(16)そして第二大区には三つの小区があり,第二 大区分の三分の一は少なくとも教科書配分がなされたで あろう.一之小区の配分は判明しており,世界国尽3部,窮理図解
1
部,絵入り智恵の環・啓蒙智恵の環10
册,手 習双紙2
冊,日本国尽3
部,十二月帖3
部とある.ほぼ同 じ配分がなされたであろう.74年の創設期当初は二之 小区内は大矢知学校と縄生学校の2校であり,少し遅れ て天ヶ須賀学校の設立となり,少なくとも大矢知学校に は前記教科書の半分か三分の一は配分されたであろう.伊藤理三郎は第八級と第七級の課業とされる「読書」
では学校に少数冊子しかない絵入り智恵の環あるいは啓
蒙智恵の環,郡町村名,単語篇,西洋新書などによって 暗誦と声を出した読書学習をしたと考えて良い.習字は 片仮名と平仮名,そして楷書,第三級で行書となる.理 三郎は楷書による学習ノート,備忘録を残している.算 術は数目,九九,合数,加減法,帰除,九帰,諸交易,
平等損益など詳細は判明しないが近世以来の加減乗除と 九九そして算木による計算とは異なった算数的計算力と 実用的能力を形成できていると推定できる.
例えば,伊藤家史料には断片的な習書の反古紙が残さ れている.伊藤理三郎の名前の入った「書取本」と表紙 書したものがあり「い以伊 ろ呂波 は波者−−−」な どといろはを変体仮名,漢字で書いた仮名が「ん」まで 写されている.次いで五十音として「ア阿 イ伊 ウ宇 エ江−−」で最後に「〆」とある.次いで濁音「ガギグ ゲゴ−−」そして次清音「パピプペポ−−」数字「12 3−−万億」羅馬数字「ⅠⅡⅢ−−−」単語第一と単語 第二から第八まで漢字の楷書による仮名の韻と対応した 漢字を整理してある.単語第八では「鶴,雁,鷹,鳶,
鵜,鶏,鳩,雀−−」などである.続いて「文典大意,
詞之種類」として第一から第八まで,例えば第一は名詞 として「名詞ハ或ル物ノ名ナリ譬ヘハ学校子供書物机等」
と説明されている.いわゆる国語文法である.外に第二 に代名詞,第三に形容詞,第四に動詞,第五に副詞,第 六に前詞,第七に接続詞,第八に嘆息詞が説明されてい る.
次いで「地理学大意」では
8
回に分けて楷書で書写さ れ解説されている.「第一回 人ノ生活スル地球ハ一ツ ノ遊星ニシテ其形殆ント円キコト橙ノ如シ」で始められ,問答形式で内容を深める工夫がされている.そして「地 理学ニ三種アル、ナチュラル・ポリチガル・マテマチガ ルゼオガラヒート云フ」としてナチュラルゼオガラヒー とは自然の国界地形山川海嶋などを説示する学問,ポリ チガルゼオガラヒーとは都府郡県城市などを説示する学 問,マテマチガルゼオガラヒーは地球形,運動,方角,
里数などを説示する学問とされている.第二回では「人 民ハ地球ノ外面ニ生活ス」とあり,地球の外面は陸と水 から出来ており,水は陸と同じ大きさではなく三倍の大 きさであると説明がある.啓蒙期の特徴である科学的知 識から内容構成をして順序立てて習うことが実践されて いる.
第七級の「読書」の課業とされる郡町村名は年代は比 定できないが,伊藤家の子ども、あるいは親戚と思われ る伊藤亀市の署名のある稽古手本では桑名郡と員弁郡の 町村名の名前が列挙された村名尽がある.「桑名郡,能 部,安永,小泉,和泉,福江,福本,五反田,芳ヶ崎,
森忠,星川(以下欠落)桑名町,新地,馬道,福江町,
矢田町−−,員弁郡,中津原,北中津原,楚原,市之原,
畑新田,大泉新田,麻生田,鼓,阿下喜−−」など50
以上の村名が単語として行書で書かれている.理三郎も 同様の手本による学習をしたのではなかろうか.近世以 来の地誌類往来物「村名尽」として四日市・桑名地域の 学習教材として広く流布していたものを取り入れてい る.「地理初歩」の書写ノートもある.地理は比較的学 習されている.
四桁の加減乗除の練習ノートが残されている.鉛筆で 自筆のノートで,署名はない.「諸色目方数書」といっ た諸物の目方や換算の早見表のようなもの,幾何学やル ート計算の稽古ノート,三角函数表も残されているが年 代が判明しない.
その他,1870年代の小学校の修身科目でよく使用さ れた木戸麟著『小学修身書』,歴史書としては文部省編
『史略』(
1873
年刊 愛知県翻刻 愛知県蔵版),『日本 略史』,『楷書千字文』(1880年刊)なども残されてい る.4.1.2.漢籍書,四書の学習
1879(明治12)年,伊藤理三郎の書き込みのある
「明治一二年 諸本備忘 巳卯正月」(史料4)によれ ば,儒学の四書にあたる「大学」「中庸」「論語(巻之一
二三四五)」「孟子(巻之一二三四)」として備忘録とし て楷書により単語が抜き書きされ,仮名がふられている.
漢学の基本テキストである大学・中庸・論語・孟子四書 の修得はなされていたようである(史料
5
).また漢詩 文の稽古もされている.漢詩文の題目は「梅雨友人至ル」「水辺見蛍」「清江浮舟」「夏夜追冷」「春日偶成」「中秋 月」「暮秋観紅葉」「春日郊行」「雪中探梅」「雪中登山閣」
「学制」期の小学校創設と子どもの学習内容の検討
7
史料4 朝明郡山村、伊藤理三郎の「諸本備忘」
(明治12年)
四日市市立博物館資料庫所蔵 伊藤武夫家文書
「立春作」「春日遊山」「野望之題詩」などが練習用とし て作文されている.
第六級から「読書」の内容として取り上げられた単語 篇の暗誦は伊藤武夫家に残された史料によれば香泉書房 蔵版『官稟明治六年八月二十日 読本啓蒙単語』,及び
1876
(明治9
)年刊『遠藤茂平書画 増補小学入門便覧 明治九年三月発兌 文求堂』(附体操図解)であり,こ の教科書には伊藤理三郎の署名があり,使用されていたと推定される.また市岡正一著『小学地理 巻之一』
(官許 旭堂蔵板)など表紙のみ断簡状態で残されてい る.
これらは,明治初年刊行された教科書であり,県から の委託金配分をうけた購入分かもしれない.その他,漢 詩文の習作,実用手紙文の稽古反古もあり,自筆の稽古 書であるが理三郎のものとは断定しがたい.外に曽先之 編・田中義廉閲・渡井量蔵標注・小野田虎太校閲『標注 十八史略正文』(
1877
年11
月刊 内藤書店)もある.4.1.3.読み物としての民間雑誌や旅行案内記 伊藤家に残された明治初年発刊の啓蒙雑誌として福澤 諭吉・中上川彦次郎著『民間雑誌』第二編(明治
7
年6
月刊 慶應義塾出版社蔵版 東京三田二丁目)がある.この『民間雑誌』の創刊は明治7年1月で読者から様々 な地域の情報を報知されたものを民間事情として発刊さ れたものである.読者に求められた情報のテーマは以下 のようであった.
a
農業,牧畜,養蚕,製茶等地方の利害得失如何s
地方製作品の種類,職人の給料,器械を用いる便不便等
d
地方上中下の活計,一人につき一年の費凡そ何程,最下等の小民は何品を常食と為すや
f
海陸運送の便利は如何,近傍何れかの都会へ品物 を運送するに目方一貫目に付き十里の運賃,海陸 何程なるやg
貸金の利息一年に付き高きものは百分の何分,低 きものは百分の何分なるや,一般に金銭の取引は慥なるや不慥なるや
h
男女婚するもの凡そ何歳を早しとし何歳を晩しと するや平均凡何歳にて婚するやj
学校並に私塾の数,土地の人口何人に付き一箇所 の割合なるや,其教授の書は何の類なるや,人口 と学生との割合凡何人と何人との如しやk
一村或いは一市にて字を知り文通を能くする者百 人に付き凡そ何人自分の姓名を記し得る者何人な るや−−であった.社会の実情を把握して文明化を地域や生活のレベルか ら推進しようとした啓蒙期の知識人による地方人民への 啓蒙が如実に示され,伊藤家も読者であったと推定され る.情報報知の項目は多岐にわたり実業,生活,運送,
金銭取引,結婚年齢,学校,識字など庶民の関心事全般 にわたるものであった.この『民間雑誌』二編では福沢 諭吉「旧発明ノ器械」中上川彦次郎「人民教育ノ説」を 書き,文明化の達成には人民一般の教育が急務であるこ と,人民の知見を高めることなどが語られている.(17)
同様に福沢諭吉著『西洋旅案内』(慶応3年8月刊)も また、明治初年の人々を西洋への旅にと誘ったであろう.
内容は巻之上には世界の図,総論,船賃払方の事,為替 金の事,通用金相場の事,船中の模様,経緯度の事,世 界中時候の事,印度海飛脚船の立ち寄る場所とあり,巻 之下は太平洋飛脚船の立ち寄る場所,付録として商法か らなっている.旅行記というより経済・交易のため西洋 渡航に必要な知識への需要に応じた実用書である.
4.1.4.「学制」以後の往来物の学習
「学制」期の学校において近世の往来物も教科書とし て採用されていた.大矢知学校では第五級「読書」に
「世界商売往来」,第四級「読書」に「世界国尽」,第一 級「読書」に日用文の作文があり,先述の「村名尽」も あり近世的な内容は必ずしも否定されていない.それだ け人々の生活に必要な知識として定着していたからであ る.
「商売往来」の折帖になった理三郎が書いたと推定で きる手本がある.また伊藤家所蔵書物に「百姓往来」が 含まれていたことから,その内容を簡潔に取り上げてみ る.
〈1〉 『百姓往来』の学習
表題は「晋松堂先生書 御家百姓往来 全 東都書林 金英堂梓」である.百姓往来の内容は「凡百姓取扱文字 農業耕作之道具者先鋤鍬鎌」で始まる.内容は以下のよ うである.
一,農耕の道具の名称 一,新田開発,検地の地味の 確定 一,土地改良の方法 一,肥料の名称 一,年 史料5 伊藤理三郎「諸本備忘」のなかの一頁
四日市市立博物館資料庫所蔵 伊藤武夫家文書
貢納入について 一,御巡見の節の伝馬について 一,
荷物の継ぎ送り 一,馬が担う荷物の量の目安 一,
乗り物の種類による量的な目安について 一,家の造 作について 一,木綿を織る道具について 一,常の 糧について 一,飢饉の節,餓え無きための俵糧の備 え 一,茶菓子について 一,客人へのもてなし 一,
野業の閑の仕事について 一,牛馬の飼料について 一,博労の年の文字と牛馬の売買について 一,名所 古跡,廻船の名称について 一,結語
農業耕作を基礎とした百姓の生活に不可欠な農耕の道 具,年貢納入,年貢の決め方の元になる検地と検見によ る地味の確定,年貢皆済に至る過程,伝馬の継ぎ送りの 仕組み,伝馬の荷駄の量的目安,家の造作,木綿織りの 道具,常備の俵糧,飢饉の備え,茶菓子,客人のもてな し,野業の閑ある農事,牛馬の飼料,牛馬の売買に必要 な知識など生活において必要不可欠の語彙と知識であ る.
〈2〉 『商売往来』の学習について
『商売往来』も伊藤理三郎の手習い稽古を窺える資料 である.理三郎の筆跡の手書きの双紙和綴じ本である.
一頁二行,一行三文字で比較的大文字で書かれている.
理三郎の筆跡は端正な細字が特徴である.大文字でも形 が整った几帳面な字体である.手本通りに書写したもの である.
内容は商売に必要である知識のみならず,生活にとっ て必要な知識が単語学習教材として便宜よく編集され,
わかりやすい内容である.初版は近世元禄期初頭に大坂 で堀流水軒が編纂したとされ,近世社会を通じて発刊が 重ねられた.絵入り抄本や講釈附き,手習い手本用など 用途に応じた多様な形態の商売往来が発刊された.内容 は以下の通りである.
一,「凡商売取扱文字,員数取遣之日記,証文,注文,
請取,質入,算用帳,目録仕切之覚也、−−」で始ま る.商売で取り扱う語彙,帳面類の名称,商売行為の 語彙など.一,両替の金子の名称, 一,雑穀の種類 と名称,一,廻船取引の「積登問屋之蔵入置」の語彙,
一,味噌,酒,醤油,麹,油,蝋燭,紙,墨,筆など の必需品の名称 一,絹布の種類と名称 一,仕立物 の種類と名称 一,染色の種類と名称 一,染めの模 様 一,武士の用具の種類と名称 一,唐物,和物の 家財道具類の名称 一,薬種・香具の種類と名称 一,
山海の魚鳥の種類と名称 一,商売に従事する者が弁 えることは取り扱う文字が書けること,手跡・算術は 幼稚の頃から行うことが肝要 一,結語は詩歌,連歌,
俳諧など稽古の儀は家業の余力ある時行う.酒宴,遊
興,金銭の浪費は無益,見せ棚を綺麗に,柔和な応答 は天道の働きにより富貴繁昌,子孫栄華,倍々利潤は 疑いなし.
商売往来の内容は,商業活動に必要な知識と共に庶民 の社会生活に不可欠な基礎知識が満載され簡潔明瞭な語 り口と自然な表現による読本であり手習い手本である.
5.結 び
以上をまとめると,第一に,1870(明治3)年三重県 朝明郡大矢知村に旧忍藩領大矢知学校が設置され,廃藩 置県と「学制」公布までの短期間ではあったが,開業さ れ,近辺の村上層の子ども達が入学していた.組織的な 学校体制が発足し,教則どおり,漢学・習字・算術が学 習され,かなりの高度の内容であった.教頭の丹波修治 や生徒の学習経験が「学制」期の小学校創設において現 実的な基盤となり,村方の小学校構想を可能とした.
第二に「学制」期に第二大区二之小区に1874(明治
7)年朝明郡大矢知村に大矢知学校が創設され,既に三
重県下にモデルとして設置されていた四日市町の「小学 第一校」を参照しつつ,課程制と等級制を採用した小学 校をまず発足させ,教則としては下等小学のみで編制し た.創設時の教則は読書・習字・算術であり,読書内容 が儒学から啓蒙期の教科書に転換し西洋学を導入した.それと共に往来物による日用知識や文字の練習も習字と して欠かさず行われていた.それらの学校構想は大矢知 村学校教頭の丹波家の長男,丹波誠一郎が学区取締に任 命され奔走したということが大きい.そこに山村の伊藤 理三郎は入学した.
第三に伊藤家に残された伊藤理三郎の学習ノートや書 写反古紙,手本の写しや稽古ノートなどからみても近世 以来の四書五経の漢学学習,往来物による習字の稽古,
算術と数学など多岐にわたる高い教養内容の学習足跡が 窺えた.
注
(1) 梅村佳代『近世日本民衆の文字学習に関する総合的な 調査研究』(平成14年度〜平成16年度科学研究費補助金 基盤研究C2研究成果報告書)2005年3月31日刊.その 第一部において「幕末期から明治初期、農民家族の人生 儀礼と交友圏の検討−伊勢国朝明郡山村の伊藤家を対 象として−」をとりあげている.pp.1−36.
(2) 四日市市史編纂室は四日市市史編纂が完了したことに より閉鎖された.現在,伊藤武夫家文書は四日市市立博 物館に附属する資料庫に収蔵されている.
伊藤武夫氏は既に死去され,現在は伊藤成美氏所蔵とな っている.本稿では史料蒐集時の伊藤武夫家文書と称し ている.
(3)『四日市市史』第十三巻史料編近代Ⅲ2000年3月31日刊 pp.4−5.参照
「学制」期の小学校創設と子どもの学習内容の検討
9
(4) 前掲『四日市市史』第十三巻史料編近代Ⅲpp.4−7.参照
「旧忍藩領朝明郡大矢知村学校」の「教則」より (5) 前掲『四日市市史』第十三巻史料編近代Ⅲp.6.参照 (6) 前掲『四日市市史』第十三巻史料編近代Ⅲp.7.参照 (7) 伊藤武夫家文書「明治六年分,三重県管轄第二大区二
之小区戸籍総計 大矢知村外二十四ヶ村」(明治七年一 月第二大区二之小区年番戸長 伊藤林一郎).この史料 をもとに前掲科研報告書p.21.に統計一覧表を作成した.
(8) 三重県史編纂室所蔵『明治十五年八月 三重県史稿(学 校)史誌掛』の「自明治八年一月至同九年四月 政治部 学校」より
(9) 梅村佳代「明治初年の四日市地域における小学校創設と学 区取締−朝明郡を中心として−」『三重県史研究』13号 1997年3月31日刊 pp.33−34.参照
(10)四日市市刊『四日市市史』第十三巻史料編近代Ⅲ2000年3
月31日刊pp.25−26. 「一一,小学第一校規則 明治五年
一一月」
(11)前 掲 『 四 日 市 市 史 』 第 十 八 巻 通 史 編 近 代 pp.22−23.
「1875年度学校収支一覧」より
(12)前掲,三重県史編纂室所蔵『明治十五年八月 三重県史稿
(学校)史誌掛』の「自明治八年一月至同九年四月 政治 部 学校」より
(13)『四日市市史』第十三巻史料編近代Ⅲ (四日市市刊 平成8 年1月15日刊1996年)pp.34−40.参照
(14)前掲,『四日市市史』第十三巻史料編近代Ⅲpp.34−35.
「一四 朝明郡大矢知村,私学大矢知学校開業願 明治七 年一月」の「教則」より
(15)前掲書pp.35−37 「私学大矢知学校開業願 明治七年 一月」の「教則」より
(16)四日市市史関連史料.四日市市立博物館資料庫保存.
丹波正明家文書「明治五歳 埃嚢 壬申四月」より作 成.
梅村佳代「明治初年の四日市地域における小学校創設 と学区取締−朝明郡を中心として−」『三重県史研究』
13号 1997年3月31日刊 pp.38−39.参照
(17)伊藤武夫家文書 福澤諭吉・中上川彦次郎著『民間雑誌』
二編 1874(明治7)年6月 「官許 智恵の指南」慶応義 塾出版社蔵版 指さしの絵図いり序文より 冊子として破 損状態にあり.