41 素材産業における「クリティカル・ファクター開発」
- ナイロン樹脂開発のイノベーション -
“Critical Factor Development” in the Materials Industry - Innovation of Nylon Resin Development -
中央大学大学院戦略経営研究科 ビジネス科学専攻(博士後期課程) 植田 浩明 Abstract
Most of the empirical studies of innovations have been concentrated on the assembly industry such as the automobile and electronics industries. By
contrast, there seems to be a few studies on the materials industry, where the notable innovations can be found there. The materials industry is, therefore, selected as our study field, and the three cases of the resin development in Japan are selected. We found that the most unique aspect of resin development is what we call “critical factor development”, a kind of simplified picture of solution. This leads efficiently to the high potential for innovations.
Key word
Innovation, Materials Industry, Nylon Resin, Critical Factor Development
目次
ページ 序論 背景と問題意識 42 本文
Ⅰ. 先行研究 43
Ⅱ. 研究方法 44
Ⅲ. 研究対象 45
Ⅳ. 合成樹脂業界 46-48
Ⅴ. 合成樹脂業界の開発動向 49-50
Ⅵ. クリティカル・ファクター開発 51-54
Ⅶ. クリティカル・ファクター開発のイノベーション創造メカニズム 55-57 結び 58 参考文献リスト 59-60
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<序論> 背景と問題意識
企業におけるイノベーションの研究が活発化している。イノベーションの今日的意義の 高まりを考えれば、活発化は当然である(一橋大学イノベーション研究センター編、2017)。 だがこれまでの研究の多くは、自動車産業や電気・電子・情報産業といった組み立て型(ア センブリ)産業に集中してきた(Abernathy, 1978、Abernathy et al., 1983、Clark &
Fujimoto, 1991、Christensen, 1997、新宅&浅羽, 2001、榊原, 2005)。それらの産業が花 形産業であった時代背景から考えると、これは自然なことだったかもしれない。ただし、日 本が強みを持っていた、またその多くが現在も強みを維持している素材産業に関する研究 が少なすぎるように思われる。さらに、素材産業を取り上げた少数の例外的研究をみると、
組み立て型産業の研究で得られた理論の適用可能性を広げる形で、研究アプローチがとら れていて、素材産業固有の特徴の解明にはまだ距離があるように思われる(赤瀬, 2000、藤 本&安本, 2000、藤本&桑嶋, 2009、西野, 2010、當間, 2010、千島, 2019)。本論文では、
従来の研究のそのような限界を克服するため、組み立て型産業でのイノベーション研究と は切り離して、素材産業のみを対象とし、鍵となるインフォーマントの情報をベースとして 重視しつつ、そのイノベーション・プロセスを深く掘り下げ、素材産業に特殊的な要因を掘 り起こして、イノベーション研究に新しい洞察と視座を提起したいと思う。
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<本文>
Ⅰ.先行研究
イノベーション研究で取り上げられた対象の多くが、組み立て型産業に属する企業であ る。素材産業に注目した研究(藤本&桑嶋, 2009)も見られるが、その数は相対的に少ない。
また、それらの産業間のイノベーションの違いを取り扱った研究(藤本&安本, 2000)もあ り、両産業間の多くの類似性があげられている。しかし、今までの多くの研究が、自動車や 電機産業などの組み立て型産業を分析することで導出された理論の適用可能性を広げる立 論形式をとる傾向があり、素材産業独自のイノベーションへの洞察を導き出す余地はまだ あるように思われる。
素材産業の事業特性を明確にして独自の視点を提示した例外的研究も見られる。その一 つである赤瀬(2000)では、素材産業に属する合成樹脂は、(1)装置産業であること、(2)製 品構造と機能の相関が不明確であること、(3)産業材でありニーズが明確であること、(4)開 発時は川上の樹脂構造を変更する必要性が不確実であることの4つが示されている(赤瀬, 2000, P.130)。また、ニーズが明確であることについては以下のような記述が見られる。「合 成樹脂はユーザーが製品の部材として使用される産業財であり、ユーザーが一般消費者で ある消費財に比べて、必要とする物質の性能の基準が明確であるということである。消費財 の場合、 -中略- 自動車であっても「この車を運転することで醸し出されるドライバー 自身のイメージが・・・・」など、数値で表すことができないあいまいな価値基準で語られ 判断されることが多い。対照的に産業財である合成樹脂に対する品質は、剛性、耐熱性、耐 候性、耐薬品性など性能を客観的数値で表すことができるので、ユーザーも明確なニーズを 提示できる。産業財の製品開発の成功は、価格と供給安定性の問題を除けば、この明確なニ ーズを正確に製品に織り込むことができるか否かによる。(赤瀬, 2000, P.130-131)」合成 樹脂事業では、顧客のニーズを開発する樹脂の仕様に客観的数値として翻訳することがで きるとしている。またそのニーズに対応する方法として、合成樹脂の製造工程を樹脂の基礎 的性能を決定する川上工程と川上工程で製造した製品に様々な機能を追加する川中工程、
そして、出来上がった樹脂を型にはめて形を形成する川下工程に分けて説明を行っている。
合成樹脂の開発は、川中および川下工程のやり取りで進められることが一般的であるが、時 に、川上工程まで遡って開発を行うことで新しい差別化製品を開発した成功事例を提示し、
どの工程まで遡って開発するのかを決定する判断を「タスク・ジャッジ」と呼び、自動車産 業には見られない特徴として紹介している(赤瀬, 2000)。
最近では、素材産業固有の調査研究も取り組まれている(當間, 2010、千島, 2019)。具 体的には、顧客のニーズに応えるだけでは様々な不確実性を排除できないとして最終顧客 志向等の方法が提示されている(富田, 2003)。さらに、住友スリーエムの事例を提示して 自動車メーカーの抱える問題を先取りした提案型開発アプローチの重要性も提案されてい る(富田, 2008)。これらの端緒的な研究に見られるように、明確なニーズにただ対応する だけでは企業に求められる開発としては不十分であり、さらなる開発アプローチが求めら れている。ここでは、素材産業に属する企業が、顧客のニーズに対応してどのように開発を 進めているのかを再度、観察して、開発アプローチの新しい視点を提起したい。
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Ⅱ.研究方法
理論構築のためのリサーチメソドロジーの主流は、仮説検証型の演繹的なアプローチ、す なわち統計学的な分析である。その理由として、統計学的分析に様々なメリットがあること は広く知られている。当然、扱うデータが数字であるため、端的に比較が可能であり、また その結果の再現性が高いこともメリットとして挙げられる。しかし、本論文では“イノベー ション”といった社会事象的に見ても稀な事例を取り上げるため、計量的な分析ではなく、
質的な分析を重視した事例を基礎とした研究方法(case-based methodology)、それも複数 の事例を利用した比較事例研究の研究スタイルを採用したい。
統計学的分析がメインストリームの研究方法である中で、あえてケーススタディ分析に よる研究の可能性に光を当てて、そのような研究が健全に発展していくための条件を整備 したパイオニア的論文として Eisenhardt(1989)が有名である。その後も多くの研究者に よって事例研究の有効性や可能性をサポートする議論がなされてきた(Eisenhardt &
Graebner, 2007、Christensen & Carlile, 2009、佐藤, 2015a, b)。井上(2014)は、統計 学的研究と事例研究の違いはそれぞれの手法の強みの違いであるとし、前者は相関関係の 一般化に、後者は因果関係の解明に強みがあり、それぞれの強みに応じて両者を使い分ける ことを推奨している。また、Christensen & Carlile(2009)は、理論構築の過程について 相関関係を導き出す段階と因果関係を導き出す段階に分けて説明し、最終目的である因果 関係の解明にとっては、ビジネススクールの教育の場である「教室」がベストの場であると いうユニークな主張を展開している。
われわれのこの論文でも、これらの手法を参考にしながら、事象から相関関係を確認し、
最終的には因果メカニズムの解明につながる努力を試みた。また、事例の選別には、実験室 実験に見られる反復実験を意識した研究(Gilbert, 2005)を参考にして、対象の少なさ等 の問題の克服を目指した。
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Ⅲ.研究対象
合成樹脂業界の技術開発動向を観察することで、素材産業のイノベーションがどのよう にして進められているのか、その点の解明に努めた。ナイロン66(以下 PA66)、ナイロン 6(以下PA6)、ポリカーボネート(以下 PC)やポリフェニレンサルファイド(以下 PPS)
などを取り扱う合成樹脂メーカーの技術責任者や事業責任者へのインタビューと外資系の 樹脂添加剤メーカーの日本の技術責任者および事業責任者に対してのインタビューを通じ て、各企業の開発や取り組み内容を確認していった。インタビュー内容は、主に「現在の開 発内容および問題点」「将来の開発目標」の2つの視点を中心に、比較的、自由な形式での 質疑応答形式で実施した。また、過去に実施された樹脂開発や樹脂業界の動向等の補足情報 については、様々な2次情報を参考にした。
今回、主に取り上げた自動車業界向け合成樹脂開発は、100年に1度といわれる大きな自 動車産業自体の変革の流れへの対応が求められている。特にエンジン自動車からエコ自動 車(EV:電気自動車、HEV:ハイブリット車等)への移行によって、自動車の部品が大きく 変わってきており、樹脂に求められる性能も大きく変化している。このような大きな流れの 中で素材産業に属する合成樹脂メーカーの開発トレンドを見ることにより、素材産業にお けるイノベーションの特性がより明確になるのではないかと考える。
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Ⅳ.合成樹脂業界 1.樹脂市場
樹脂は、熱を加えることによって流動化し冷やすことで固まる熱可塑性樹脂と、熱を加え ると硬化する熱硬化性樹脂の2種類に大別される。また、熱可塑性樹脂は、主にその耐熱性 によって更に細かく分類される。耐熱性が100℃未満を汎用プラスチック、100℃以上150℃
未満を汎用エンプラ、150℃以上はスーパーエンプラ、とそれぞれ呼ばれる(エンプラ技術 連合会, 2014, P.4)。これらの3分類は、よくピラミッド状の形状に例えられ、頂点からス ーパーエンプラ、汎用エンプラ、汎用プラスチックと並び、その需要量が面積で表示される。
ピラミッドの高さは耐熱性および価格を表し、頂点に近づくほど耐熱性が高く、また価格も 高くなる。この略図は、市場を判りやすく描くためのものであり、実際の構造はもう少し複 雑であると考えられている。
図表1 熱可塑性樹脂市場のイメージ図
(注)樹脂メーカーの資料を参考に筆者作成
2014年から2019年の各樹脂の需要の伸び率を比較した場合、汎用プラスチックと汎用エ
ンプラは110%程度であったのに対して、スーパーエンプラは120%台と伸び率が他よりも大
きくなっている。汎用プラスチックや汎用エンプラに比べて需要規模は小さいものの、自動 車や電気・電子の高機能部品に採用されており、中国経済が減速する中でも高い需要が期待 されている。特にスーパーエンプラは自動車部品用途の需要が大幅に増加しており今後も 市場をけん引すると予想される(富士経済, 2015)。
図表2 各樹脂の世界市場
(注)富士経済(2015)抜粋
2014年 2019年予測 2014年比 汎用プラスチック 2,386万トン 2,647万トン
110.9%
汎用エンプラ 416万トン 466万トン
112.0%
スーパーエンプラ 19万トン 23万トン
121.1%
合計 2,821万トン 3,136万トン
111.2%
47 2.自動車用途向け合成樹脂市場
2014年時点の世界の自動車用樹脂市場は802万tと推計される(矢野経済研究所, 2015)。 樹脂の大量消費を示唆するその数値の背景には、CO2排出量削減(燃費向上)を達成するた めに車体軽量化を図る自動車メーカーの取り組みがある。車体軽量化の一手法として金属 の樹脂化が推進されているからである。一方、同時に部品の薄肉化・小型化も推進されてい るため樹脂量の増加と減少が同時に進行していることになる。ただし、自動車販売台数自体 が大幅に増加しているため自動車用樹脂市場全体を見ると拡大傾向にある(矢野経済研究 所, 2015)。
自動車 1 台に使用されている樹脂の量とそれぞれの樹脂の将来的な使用量が予測されて いる。汎用プラスチックのポリプロピレンは、現在、自動車1台に約50kg使用されている 需要量が、将来的には52kg まで増加すると予測されている。汎用エンプラのPA66 は、現 在、6kg使用されている需要量が、将来的には18kgと3倍に増加すると予測されている。
スーパーエンプラのPPSは、現在、1kg使用されている需要量が、将来的には2kgに増加す ると予測されている。1台あたりに使用される樹脂量は、すべての樹脂カテゴリーにおいて 増加する傾向であると考えられている(富士キメラ総研, 2013)。
図表3 自動車用途における各樹脂の使用予測
(注)富士キメラ総研(2013)抜粋
現在、自動車業界では、地球温暖化の問題から温室効果ガスの排出削減が求められ自動車 の燃費改善が強く求められている。この燃費改善を図る方法の一つが車体の軽量化であり、
この軽量化の方法として大きな役割を果たしているのが金属の樹脂化である。鉄の比重が 約7.8 であるのに対し、樹脂は約 1.0-1.8 であるため、同じ形状で比較すると樹脂の方が 圧倒的に軽量化することが可能である。日本自動車工業会の調査では、日本の自動車の樹脂 化率は、1980年には4.7%であったその値が、1992年には7.3%、2001年には8.2%、2011年
には 10.5%と大きく増加しており、現在もこの傾向は継続していると考えられる。ただし、
この値を世界の標準と比較した場合、大きく見劣りするものである。OICA(国際自動車工業 連合会)の報告を見ると、2010年の世界の標準データでは21%が樹脂化されており、日本の 約2倍の樹脂化が進んでいることになる。「鉄から樹脂」へのシフトは欧米で進んでいると いわれている。自動車の主要部品である燃料タンクを見た場合、燃料タンクは重要保安部品 として、耐熱性、衝撃性や燃料透過性など様々な法規制がそれに対して存在している。日本 国内における樹脂化率は40~50%程度であり、欧州は90%近く、北米は75%となっており、
48 日本国内での鋼板製の薄肉化技術が進んでいるため樹脂化が他地域に比べて遅れていると されている(技術情報協会, 2013, P.17)。日本の自動車部材は安全性を重視した法規制や 鋼板技術の高さによって、樹脂化が欧米諸国に比べて大きく遅れていることが示されてい る。この動向を単純化すると、日本は鉄技術が、欧米は樹脂技術が優位にあると考えること も出来る。この差異は、しかし逆に日本における樹脂の発展に大きな可能性があることを示 しているとも言える。日本の樹脂メーカーは、欧米で先行している樹脂化の流れを日本に取 り入れることによって、まだ用途開拓の余地が大きいということである。
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Ⅴ.合成樹脂業界の開発動向
ここでは合成樹脂の開発に焦点を当て、それがどのようなものなのか議論することを通 じて、素材産業のイノベーションの特徴を浮き彫りにしていきたい。以下の立論は単なるス ペキュレーションではない。素材産業の実務に通じたキーパーソンから情報を得、それをベ ースに記述し立論したものである。特に専門的知識(expertise)を持った数名のインフォ ーマントは貴重な存在だった。
合成樹脂事業では、顧客のニーズが明確になっているといわれる(赤瀬, 2000)。この章 では、自動車用途向けの 3 つの樹脂開発の動向を観察することで、一般的に樹脂メーカー が、明確なニーズを持った顧客に対してどのように対応し開発を進めているのかをみてい く。
1.PA66の開発動向
PA66は、インテークマニホールド(以下 インマニ)という部材の樹脂化時にアルミニウ ム合金の代替として使用されるようになったことでその需要を大きく伸ばしたことが有名 である。インマニとは、自動車のエンジンでガソリンを燃焼させるために各シリンダーに空 気を送り込むためのパイプであり、形状は一本の主菅パイプと、エンジンの気筒の数だけ枝 分かれした分岐パイプとからなっている。従来はアルミニウムのダイキャストが使用され ていた。この部品において PAへの樹脂化が進み、現在では高いシェアで PA が使用される ようになった。その後、さらにシリンダーヘッドカバーなどのインマニに隣接する部材も樹 脂化が進んでおり、特に欧米でこの動きは盛んである。舊橋(2016)によると、BMW社が初 めてPA製のインマニを量産車に採用したのは1990年であり、1998年にはシリンダーヘッ ドカバーなどと一体化することで、吸気系を中心とした多機能部品のモジュール化に成功 し、BMWディーゼルエンジンシリーズに採用された(舊橋, 2016, P.178)。現在では、日本 でもこれらの部材の樹脂化のために技術開発が積極的に取り組まれている。シリンダーヘ ッドカバーの樹脂化は、自動車の軽量化を目的とするだけでなく、樹脂化されたインマニと 一体化して、吸気系部品をモジュール化することで生産性の改善を図ることが期待される ことから、顧客からも強く開発が求められている。
ある日系のPAメーカーでは、2015年に、環境規制の動きに対応した顧客の新しいニーズ に対応する開発も行われていた。自動車には、燃料タンクから発生する揮発有機化合物質の 対策としてタンク内に設置されているキャニスターという大気汚染防止機器があり、この キャニスターの大型化に対応する樹脂開発が取り組まれていた。これは、中国での環境規制 強化に伴い、キャニスターの大型化が必要になり、顧客である中国の自動車部品メーカーか ら強い要求を受けているとのことであった。今までの既存製品の樹脂性能、特に樹脂の流動 性能では大型のキャニスターを成形する(形を作る)ことができず、新たに高い流動性能を 保有した製品開発が必要であった。開発現場では、大型キャニスター向けの高い流動性能を 保有した新しい樹脂開発に取り組んでいた。ここで困難だったのは既存の性能を維持した ままで樹脂の流動性能を高める必要があったことである。流動性を高めようとすると他の 機能、特に耐熱性や外観性が低下するトレードオフ関係にあり、それらの顧客ニーズをすべ て満たした樹脂開発をしようとすると数多くのトライ&エラーの試行が必要であった。こ こで分かるように樹脂開発は多元的な顧客の要求性能に対応するため試行錯誤が繰り返さ
50 れ、最大限バランスの取れた、言い換えると、顧客のニーズにより合致した樹脂が採用に辿 り着くのである。
2.PCの開発動向
PC は、一般的にガラス代替として使用される樹脂で、自動車ではヘッドランプなどに使 用されている。舊橋(2016)によると、自動車のヘッドランプにPC製レンズが採用される ようになったのは 1990 年頃からで、それまではガラス製レンズが使われていた。しかし、
自動車の顔とも言われるフロント部の設計には、デザイン性や量産性に優れるPC製のヘッ ドランプの採用が強く求められ、PC 技術だけでなく、その周辺技術であるコーティング技 術等の向上と共にPC製レンズの採用が進められていった。
国内市場を見た場合、ヘッドランプに使用されるレンズは自動車向けPC需要の6-7割を 占めるメイン用途となっている(矢野経済研究所, 2014, P.39)。自動車用途においてPCに よるガラス代替は、車体の軽量化を図るための重要な方法と考えられていたため、窓ガラス やサンルーフパネル等の樹脂化も古くから開発されていた。これらの開発は既存ガラスの 代替であるため、顧客のニーズはきわめて明確であった。ただし、ここで興味深いのが、顧 客の要求が、ガラスをPCに置き換えることによる軽量化や原料のコストダウンを目指すだ けではないことである。例えば、ある日系のPCメーカーでは、2015年に、リアウインドウ のガラスの樹脂化を開発すると同時に、ガラス部分と車体を一体で成形する方法を模索し、
部品点数や工数の削減を図り生産性の向上を達成することで大幅なコストダウンを同時に 実現しようとする開発が行われていた。この開発は自動車メーカーまたはTier1、Tier2な どの部品メーカーとの共同開発となっており、顧客の多元的な要求性能に応える形で開発 が進められた。
3.PPSの開発動向
PPSは、耐熱性や耐油性、絶縁性に特に優れた樹脂である。この特性からEV化やHEV化 によって新しく必要となるコンポーネント、例えばモーターやバッテリーなどへの採用が 進んでいる。そもそもモーターやバッテリーは耐熱性が要求されるためスーパーエンプラ が最適な樹脂と考えられている。またEVやHEVは、二次電池の積載や、エンジン系と電気 系の二つのパワーユニットの積載が必要となるため、今までのエンジン自動車よりもより 一層の車体軽量化が要求されている。部材の小型化や電動化によるセンサー等の電子部品 の増加は、それらの部材や部品を熱源部の近くに設置する必要性が出てくるため、使用する 樹脂にも高い耐熱性が要求されることが多くなっている。これらの要求に応えることがで きるのがPPS等のスーパーエンプラである。PPS市場のメーカーシェアを見ると上位を日系 企業が占めており、1位 DIC 26.9%、2位 東レ 23.9%と4位のポリプラスチックス 14.4%
であり、これらの上位 3 社を足すとシェアは 7 割近くにのぼる(矢野経済研究所, 2014,
P.90)。PPS市場で優位に立つ日系メーカーは、率先して自動車用途向けのPPS樹脂の開発
を行っている。特にそれらの部品は新しく設計される部品が多いため、自動車メーカーや部 品メーカー相互間の情報共有が重要である。2015年の証言としてある日系のPPSメーカー では、顧客である自動車メーカーや部品メーカーとの情報交換を設計段階から密に行い、顧 客の多元的な性能要求に応える形で新しい樹脂開発が進められたという。
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Ⅵ. クリティカル・ファクター開発
合成樹脂は開発すべき性能要求が明確に提示されている(赤瀬, 2000)。また、前章で見 てきたように一般的にこの顧客の明確なニーズは多元的な要求性能の形で提示されており、
すべての性能をクリアすることはハードルの高い作業となっている。そのような状況で樹 脂メーカーは、すべての性能の全体的向上を一挙に目指す開発を行うのではなく、ある重要 な性能をターゲットとして、その性能の向上と、他性能の最低限の確保を狙った開発アプロ ーチが図られていた。この重要な性能をわれわれは「クリティカル・ファクター」と呼ぶこ とにし、このクリティカル・ファクターを戦略的に選択して開発を行うことで、より汎用性 のある開発が可能になった事例をレポートする。ここでは、クリティカル・ファクターが樹 脂性能だけでなく成形加工の段階にあった事例や、樹脂に添加剤を供給する樹脂添加剤メ ーカーの開発事例も観察することで、より広い範囲での適用可能性を示したい。
1.規格の取得を目指した開発(事例①)
エンプラメーカーの電気電子部品向けの技術開発現場を見てみる。電気電子部品向けの 樹脂には、難燃性能の付与が求められることがある。難燃性能とは、文字通り燃え難い性能 のことであり、部材に火や熱源が接しても燃え広がりにくい性能を言う。電化製品などが容 易に発火したり燃え広がったりするのを防ぐことを目的としている。樹脂自体にその性能 が備わっていることもあるが、ほとんどのエンプラ樹脂において、難燃剤などの特殊な添加 剤を加えることでその性能が付与される。この難燃性能には、様々な規格が存在しており、
地域によっても採用される規格に大きな違いがある。代表的な例としては欧州と米国との 違いがある。一般的に米国ではUL規格と呼ばれる難燃規格がよく採用されているが、欧州 ではグローワイヤー規格という難燃規格が採用されるケースが多い。両者の規格内容の違 いを単純化して説明すると、UL 規格は火を近づけた時の燃え難さを規定しているのに対し て、グローワイヤー規格は、グローワイヤーという熱源を近づけた時の燃え難さを規定して いる。この2つは共に難燃性能を測定する規格ではあるが、実際に樹脂に求められる性能は 若干変ってくるため、それぞれの規格をクリアしようとすると、樹脂メーカーは各規格に合 わせた樹脂開発を行う必要が出てくることが多い。難燃剤を添加して難燃樹脂を設計する 場合を見てみると、一般的に樹脂自体が燃える性質を持つことが多いため、単純に添加する 難燃剤の量を増やして樹脂の割合を減らせばそれだけでも燃え難くなる傾向がある。また、
難燃剤の種類によってもその効果は変わってくる。ここで問題となってくるのは、樹脂に求 められる性能は難燃性能だけでなく、強靭性や流動性等の他の性能も求められてくること である。難燃性能を高めながら他の性能も維持する、そのバランスをとることが樹脂開発の 困難さの一つとなっている。
では、ここでは具体的に汎用エンプラであるPAを製造するメーカーA社の開発状況を見 てみよう。当時A社は、電化製品向けの大手部品メーカーに対してUL規格の難燃性能をク リアした樹脂を納品していた。その部品メーカーは、同樹脂を使用し様々な電子部品を製造 し米州向けの電化製品を組み立てているセットメーカーへ販売していた。ここで、この部品 メーカーは売上拡大を図るため欧州向け組み立てメーカーへの販売を模索し出した。そこ でまず彼らが取り組んだのは、欧州の難燃規格の確認作業である。顧客である組み立てメー カーをはじめ規格認定機関などへヒアリングを行い、グローワイヤー規格とは何か、どのよ
52 うな試験をクリアすべきかなどの詳細確認を行った。部品メーカーは、入手したそれらの情 報をA社と共有するとともに、グローワイヤー規格をクリアできる樹脂開発の協力を要請 した。重要になったのは、欧州向けの難燃規格をクリアすると同時に、既存の樹脂製品と同 等の性能を保持することであった。なぜなら、それによって部品メーカーが米州向けに製造 している金型と同じ金型を使用して欧州向けの部品を製造することができれば、新規に金 型を製造する必要がなく、コストを大幅に抑えることができるからである。そのため特に部 品成形に必要な樹脂の流動性(樹脂の流れやすさ)や離型性(樹脂の金型からの離れやすさ)
に関する同等性が強く求められた。ここで、A社と部品メーカーおよび部品メーカーが成形 加工を外注委託していたモルダー(成形加工業者)とが参加した3社の樹脂開発プロジェク トが開始された。
樹脂メーカーであるA社は、今までの経験的な予測のもと、要求性能をクリアできそうな 数種類の処方を設計し、すべての少量サンプルを作成した。次に、それらのサンプルを使用 して試験片を作成し、社内にあるグローワイヤー試験機で評価を実施し、グローワイヤー規 格をクリアできる製品を探っていった。そして最良と思える製品に対して、スケールアップ したサンプルを作成し、モルダーの協力のもと、実機での生産性を確認した。その結果、出 来上がった部品は、部品メーカーに送られ、製品としてのグローワイヤー試験を実施して難 燃性能が評価された。このサイクルを何回も繰り返すことで製品の作り込みが行われた。樹 脂設計の困難さの一つは性能のバランスを図ることであり、このトライ&エラーの繰り返 しが重要である。この繰り返しを何度も行うことで、最終的に既存製品と同程度の樹脂性能 を保持した上で、グローワイヤー規格をクリアできる製品を作りこむことができた。
規格をクリアしたこのような製品は、結果的に用途や地域を超えて使用されることが多 い。特に中国の部品製造拠点では欧米をはじめ様々な地域への輸出を行っているため、それ に対応した様々な規格をクリアした樹脂を求める傾向が強く、こうした樹脂への引き合い が必然的に強くなる。ここでのクリティカル・ファクターはグローワイヤー規格である。こ の規格をクリアすることを最重要の開発項目とし、他の性能は最低限確保するといった開 発手法がとられる。そもそもグローワイヤー規格のクリアを対象としたのも、同製品への採 用だけを目指したものではなく、将来的には欧州向けの大きな市場をターゲットとして見 越した戦略的な視点があったからなのである。
ここでもう一つ興味深いことは、PA が初めて開発、製造された時期の既存のイノベータ ーが、今でも開発や製造を継続していることである。既に80年近くも同一企業によって開 発が継続されている、言い換えると、長期間にわたって新しい技術革新の努力を継続し続け ているというのは注目すべきことであろう。これは西野(2010)の指摘にある技術蓄積によ る優位性等、技術力の維持が影響していると考えられる。また、このような技術の維持には 顧客との関係性からも大きく影響を受けているように思われる。樹脂業界では、顧客に新し いニーズが発生したときに、既存取引のある樹脂メーカーに開発を依頼するケースが多い。
これはアプローチの容易性や秘密情報の漏洩防止、技術の信頼性が高いことや、同じメーカ ーから樹脂を購入することで規模の経済性が期待できることなど、様々な理由が考えられ る。このように時間的な要素を加味すると、実績がある取引メーカーとの関係が濃くなって いく傾向が強いように思われ、常にニーズが明確な合成樹脂の業界特性がこの傾向に影響 していると考えられる。
53 2.成形加工技術との一体開発(事例②)
ここでは過去に行われたインマニの開発を参照する。インマニが初めて樹脂化されたの は1972年で、Porscheの小型シリーズにBASF社のPAが採用されたのが始まりである。イ ンマニは、その形状が複雑に曲がったパイプ状の構造をしているため通常の射出成形では 製造出来ない。そこで開発されたのがロストコア法と呼ばれる成形方法である。パイプの空 洞部分を生成するため中子(コア)を用いるが、樹脂よりも融点(融ける温度)が低い金属 をその中子に使用し、成形後、中子ごと取り出し、樹脂の融点より低い温度で中子を溶かし 出すことによって、複雑な構造のパイプ状の成形品を得る方法である。1988年ころからAudi 車、Ford車、BMW車、Chrysler車、GM車等の量産車に採用されていった。しかし、ロスト コア法は、中子を1回の成形ごとに成形する必要がある等、その生産性の低さとコストの高 さが大きな課題であった。そこで1993年に振動溶着装置メーカーのBranson社が、Two Shell 法と呼ばれる振動溶着法を開発した。Two Shell法とは、インマニを2つに割った形の部品 を射出成形でつくり、それらを合わせて振動溶着によって結合し複雑な形状のパイプ状の インマニを作る技術である。その後、3個の射出成形部品を溶着する振動溶着法や回転コア 式射出成形法などが登場し、極めて複雑な構造の部品も成形できるようになった(舊橋,
2016)。一方、日本の樹脂化は、1992年に富士重工業が軽自動車「サンバー」に搭載したの
をきっかけとして進展した経緯がある(技術情報協会, 2013, P.17)。
これらのインマニ開発の歴史を見ると、樹脂の開発だけではなく、その成形加工方法の開 発の進展に伴って採用事例が拡大していったことがわかる。樹脂開発には成形加工方法を 組み合わせた開発提案を行うことで、より広がりのある開発が可能となったと考えられる。
その後のインマニの樹脂化について、矢野経済研究所(2014)に概略以下のような記述があ る。すなわち最大のボリュームとなるインマニの樹脂化率は90%程度の水準にまで高まって いる。また、樹脂化のメリットは、軽量化だけではなく、射出成形による生産工程および生 産性向上によるコスト低減、内面平滑性および断熱性による吸入空気の容積向上に伴うエ ンジン性能の向上および狭い空間に沿った形状加工が容易になること等が挙げられる(矢 野経済研究所, 2014, P.51)。樹脂化のメリットは軽量化だけではなく、複数のメリット付 与がなされている。また、2015 年の重要な開発案件として、インマニ向けの樹脂開発を挙 げていることが日系のPAメーカーの開発担当者への聞き取りで確認された。この開発のユ ニークさは、クリティカル・ファクターが樹脂の多元的な要求性能の一つではなく、成形加 工技術にあったことである。「タスク・ジャッジ」にあるように、川上、川中、川下の中の どこが重要な開発箇所となるかは、案件ごとに変わってくると思われる。
3.組み合わせによるソリューション提案(事例③)
ここでは樹脂添加剤メーカーB社のイノベーションを見ていく。B社は樹脂メーカーで はなく、樹脂に難燃性能を付与する難燃剤や樹脂の流動性を改善するワックス等を取り扱 っている海外に本社を置く樹脂添加剤のメーカーである。当然、PA 向けの添加剤も開発、
販売している。B社は、樹脂添加剤の中でもかなり特殊な添加剤を取り扱っており、他の汎 用な樹脂添加剤を取り扱うメーカーとは明確に差別化しており、それゆえに高い利益率を 維持していた。また、自らイノベーターを標榜する会社でもあり、最近、中央研究所の機能 を持つイノベーションセンターを創設した。このイノベーションセンターでは、研究を個別
54 に実施するだけではなく、様々な製品分野の研究者が横断的にアイデアを出し合い、協力し 合って研究を実施することが強調されている。その一環として始められたのが、“ワンパッ ク化”と呼ばれる取り組みである。
“ワンパック化”とは、様々な機能を持った添加剤を組み合わせて、それを一つの製品と して販売する方法である。重要なのは、どのような製品を組み合わせているかは顧客に対し ては開示されておらず、その製品が付与できる効能のみが開示されていることである。その ため顧客は製品を買うのではなく効能を購入することになる。また、この取り組みの面白い のは、他社の汎用品もその“ワンパック化”の組み合わせの中に取り入れられていることで ある。顧客は汎用品が組み合わされていることは知らないため、相対的に高い価格が設定さ れた製品を購入することになる。そのためB社にとっては、さらに高い利益を得ることがで きる仕組みとなっている。一方の顧客である樹脂メーカーやコンパウンダーから見ても、B 社のその取り組みはメリットがある。顧客は、様々な添加剤を個別に購入して、それぞれの 求める効能を引き出すために、その最適な添加量を何度も試験をして導き出す手間を省く ことができる。添加剤メーカーが最適と思われる配合で組み合わされ“ワンパック化”され た製品を使用することで、求める効能を容易にその樹脂に付与することができるのである。
しかし、日系の樹脂メーカーは、内容物が開示されていない製品を取り扱うのを敬遠する傾 向があり、もともと自社内に様々な添加剤を組み合わせてきたノウハウの蓄積があるため に、この“ワンパック化”にそれほど高い興味を示さなかった。それと比較すると、中国な どの新興のコンパウンダーは、添加剤を取り扱った経験やノウハウが少ないため、自社で添 加剤を組み合わせる手間を省くことができる“ワンパック化”された製品を好む傾向があり、
積極的に評価を進めていた。
この“ワンパック化”の面白いところは、B社の日本人技術責任者が「樹脂添加剤は、今 までの知見やケミカル構造からは説明できないシナジー効果が見られることがある」と言 っている点にある。実際、トレードオフ関係にあるはずの二つの性能を同時に向上させるこ とができる、技術を根拠とする理屈では説明できない“ワンパック化”製品が存在し、日本 の大手樹脂メーカーもその製品の評価に着手していた事実がある。このシナジー効果は追 加的な要素であり、ここで肝要なことは、個別企業に密着して技術開発を進めるだけではな く、用途別のソリューションを他社製品も含め組み合わせてラインナップ化することで、地 域や用途を横断した事業の展開が可能となっている点にある。新しい製品開発には高いハ ードルがあり、費用や時間が膨大にかかるが、この“ワンパック化”のような発想で製品開 発を進め、ソリューション提案を進めていけば、広がりを持った製品を短時間に開発できる 場合があり得るということである。
55
Ⅶ.クリティカル・ファクター開発のイノベーション創造メカニズム
自動車や電機産業などの組み立て型産業ではそのニーズは曖昧な価値基準で示されるこ とが多いためその解釈の自由度が高く、そのニーズの解釈自体にイノベーションの源泉が あると考えられる。一方、事業者向けの素材産業ではそのニーズは多くの場合、数値化が可 能なスペックの組み合わせとして表現されるため、そこにニーズの解釈の自由度は存在せ ず、イノベーションの源泉とは必ずしもならないと考えられる。ただし、実際の開発現場で は、そのスペックの組み合わせの全体的な性能向上を一挙に目指すことは現実的ではなく、
そこでは素材メーカーが戦略的な意図を持って優先順をつける場合が見られる。その最優 先事項がクリティカル・ファクターであり、多くの場合、そのクリティカル・ファクターの 開発はそれ以外のスペックとの間に矛盾を生み出し、その解消を目指す中で全体としての イノベーションが生じる。この一連の流れが素材産業固有のイノベーション創造メカニズ ムであると考えられる。
図表4 クリティカル・ファクター開発のイノベーション創造メカニズム概略図
(注)筆者作成
また、このメカニズムの各要素である「実現されたイノベーション」「クリティカル・フ ァクター」「クリティカル・ファクターの選択基準」「クリティカル・ファクターとそれ以外 のスペックの矛盾」「矛盾の解消法」について、各事例記述と対応する一覧表を図表4の通 り纏めた。実現されたイノベーションは、事例①は、「欧州と米国の両方の難燃規格を満た しており、かつ、同じ金型で成形できるナイロン樹脂」であり、事例②は、「ナイロン樹脂 製のインマニ」、事例③は、「用途別のソリューションを提案する製品ラインナップ」である。
それぞれのイノベーションを創造するために選別されたクリティカル・ファクターは、事例
①は、「難燃性能」、事例②は、「成形加工技術との一体提案」、事例③は、「自社のユニーク な製品群」である。それらを選択するにあたって共通して戦略的な視点が採用されており、
具体的には、事例①は、「欧州市場への拡販」、事例②は、「アルミニウム代替市場」、事例③ は、「汎用性の高いニーズ」である。また、それぞれのクリティカル・ファクターとそれ以
56 外のスペックの矛盾として考えられる要素は、事例①は、「成形性(流動性能など)」、事例
②は、「低い生産性とコスト高」、事例③は、「汎用性能」になる。最後に、それぞれの矛盾 を解消した方法は、事例①は、「トライ&エラーの繰り返し」、事例②は、「新しい成形加工 技術」、事例③は、「他社製品の取り組み」が挙げられる。
図表5 各要素と事例記述の対応一覧
(注)筆者作成
上記のように整理した各要素と事例記述の対応一覧は、これを便利なイノベーション手 法として機械的に利用しようとしても、あまり役に立たないかもしれない。なぜなら、クリ ティカル・ファクター開発によるイノベーションは、特定企業がある基準で選択したクリテ ィカル・ファクターとそれ以外のスペックとの間の矛盾を解消しようとするダイナミック な取り組みの過程で生まれるものだからだ。クリティカル・ファクターを選択する基準やそ こに存在する矛盾の解消方法は、その時点の企業の技術レベルや競争環境等の多くの要素 によって変わってくる。ある企業が選択したクリティカル・ファクターが他の企業にとって 適切なクリティカル・ファクターとはならない場合もある。また、ある企業にとって矛盾を 解消できる方法であっても、他の企業では違う方法が必要になることや、場合によっては矛 盾の解消が全然できないことさえあり得るのだ。このように、クリティカル・ファクターの 選択やそのクリティカル・ファクターとそれ以外のスペックとの間の矛盾の解消には、当該
要素 事例① 事例② 事例③
実現されたイノベーション
欧州と米国の両方の難燃規 格を満たしており、かつ、
同じ金型で成形できるナイ ロン樹脂
ナイロン樹脂製のインマニ 用途別のソリューションを 提案する製品ラインナップ
クリティカル・ファクター 難燃性能 成形加工技術との一体提案 自社のユニークな製品群
クリティカル・ファクターの 選択基準
<戦略的な視点>
欧州市場への拡販
<戦略的な視点>
アルミニウム代替市場
<戦略的な視点>
汎用性の高いニーズ
クリティカル・ファクターと
それ以外のスペックの矛盾 成形性(流動性能など) 低い生産性とコスト高 汎用性能
矛盾の解消方法 トライ&エラーの繰り返し 新しい成形加工技術 他社製品の取り込み
57 企業の状態や、企業を取り巻く環境を考慮に入れた、全体として柔軟な対応が必要である。
ところで、本稿で提起してきたクリティカル・ファクター開発のイノベーション創造メカ ニズムとの関連では、「技術の経済学」の議論、なかでもRosenberg(1969、1979)の研究が示 唆的である。彼はアメリカの産業における代表的イノベーションの歴史を分析し、互いに関 連する次の3点を指摘している。
①イノベーションは孤立した現象ではなく、多数の要素が互いに関係し合い補完し合う 諸関係から成っている(イノベーションのシステム性の指摘)。このことから、イノベ ーション論においては相互補完性や経路依存性が強調されることになる。
②特定のイノベーションは、それだけを取り上げてみると限られたインパクトしか持た ないことが多い。しかしインパクトの大きいイノベーションは、しばしば多数の小さな イノベーションの累積の結果である。
③ある機械(機械自体一種のシステムである)の一部にイノベーションが起こると、その システム内に技術のアンバランス(technical imbalance)が生まれ、それを克服しよ うとして別のイノベーションが誘発される。システムとしての機械には特定のイノベ ーションを誘発するメカニズムが埋め込まれているのであり、そのメカニズムを起動 させるのは「技術のアンバランス」の存在である。
この議論は, 「技術のアンバランス」がまずあって、問題がそういう形で焦点化され、
その克服を目指しイノベーションが誘発されるという構図である。これはクリティカル・
ファクターの選択が、それ以外のスペックとの間に矛盾を生み、まさにそういう形で問題 が焦点化され、矛盾の解消方法の探索・試行へと向かわせる構図と基本的に同じである。
クリティカル・ファクター開発を中心に据えて、改めて論点を整理し要約すると、一方 でクリティカル・ファクターの議論は事例ベースの、いわば泥臭い議論であり、他方で
Rosenberg の議論はアカデミックな議論である。こうして議論の文脈や性格は異なるもの
の、構図が似通った類似の問題解決活動が見出されるのである。この点は、ここで観察さ れた行動パターンが robust な発見であり、他のサンプルに当たって調べてみても同様の 発見が得られる確率は高いと期待できそうである。
58
<結び>
素材産業を見た場合、大きな前提の一つは、顧客ニーズが明確であることである。これは、
他産業、特に自動車や電機などのB to Cを基本とする組み立て型産業とは大きく異なる特 徴である。また、顧客ニーズは、多元的な要求性能の形で提示されることが多く、これらの 全体的な性能向上を一挙に目指した開発は現実的ではなく、より顧客の要求に刺さる、また、
他社との差別化が可能な特定の要求特性を戦略的に選び出し、それに焦点を当てて集中的 に開発を進めることが重要となってくる。その性能のことをわれわれは「クリティカル・フ ァクター」と呼ぶのである。ここで見てきたようなクリティカル・ファクター開発は、市場 により大きなインパクトを与えることができる開発である。クリティカル・ファクター開発 である規格の獲得、加工技術との一体提案、組み合わせによるソリューション提案を行えば、
顧客の要望にただ応える形ではなく、それ以上の付加的な効果を生み出すことができる。そ の効果によって用途や地域を横断した浸透を容易にし、市場へのインパクトを拡大する可 能性を広げているのである。また、市場における差別化も図ることができるので利益確保に も繋がっているように思われる。
素材産業では、顧客ニーズが明確なので、世の中の動向をしっかりウォッチして、自社技 術や周辺技術のポテンシャルを十分把握した上で、ストレッチの効いた提案型のクリティ カル・ファクター開発を推進していくことが重要であるが、そのような取り組みを通じて開 発された先端的な素材を巡っては、さらに継続的な素材メーカーと顧客との間の未来志向 型の開発が取り組まれるべきと考える。
以上
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所。
注 本研究のインタビュイーは以下に提示した8名である。
1から6のインタビュイーから入手したA社とB社の情報は、主に本文中のⅥ-1、Ⅵ-3 に企業名(A社、B社)を明記して記述した。一方、7、8のインタビュイーから入手した C社とD社の情報は、本文中のⅣやⅤの樹脂業界全体やそれぞれの樹脂の開発状況の確認 に活用した。
番号 属性 企業 属性 面談日