博士論文要約
旧韓末、韓国知識人の「独立」思想と近代日本
―李承晩と『独立精神』への道程-
金永林
韓国の歴史において、近代政治外交的な意味の独立が、初めて外交文書上に現れたのは、日本と の国際条約である江華島条約の第一条であった。同条文の「自主ノ邦」とは、即ち、主権国家、独 立国に当たる言葉であり、「自主ノ邦」としての朝鮮というのは、単なる対日外交用語の修正を超 えるパラダイムシフトであった。建国時から朱子学を国家の根本に置き、いわば中華秩序の中に 安住していた国の存立根拠を根本から崩壊させかねないものであった。
そして、このような既存の世界観の崩壊と、それをもたらした日本による開国に対して、伝統的 な華夷観と儒教秩序を守ろうとした守旧派の知識人は激しく反発したが、逆に新しい時代に対し て期待感を持ち始めた知識人もいた。いわゆる「開化派」を始めとする旧体制からの脱却を求め る知識人たちであった。彼らにとって独立は、まず、当時まで朝鮮を束縛していた旧秩序、則ち 中華秩序とそれに従う朝鮮の事大政策から脱却し、旧秩序に代わって増大しつつある新たな外部 の脅威に対抗できる「開化」した近代国家を作ることであった。そのため、朝鮮の開港を強要し たにもかかわらず、「開化」しつつある日本に対して寧ろ肯定的な認識を有していた人物も存在し た。彼らにとって日本は学ぶべき先発近代化国家であり、失敗で終わった甲申政変は、その中で も急進的な親日開化派が起こした事件であった。
しかし、周知の如く、日本は日清戦争を通じて朝鮮を清国の干渉から解放させたにも係わらず、
最終的に日韓併合による植民地化を行ない、近代の日韓関係は悲劇的な結果に終わった。この悲 劇的かつ矛盾した結果に対して、近代韓国の知識人の進路は、それぞれの信念によって分岐した。
概ね、滅びた朝鮮と運命を共にした者、植民地体制に対してやむを得ず適応しようとした者、最 後に、展望が不明確ながらも日本からの独立を追求した者に分類できる。
では、この選択肢の差は、各々どのような論理によって形成されたのか。彼らは、独立というア ジェンダを初めて提出した日本がその独立を奪った矛盾に対して、どのように順応し、どのよう に抵抗しようとしたのか。本稿はこうした疑問から出発して、東アジアの旧秩序が崩壊する中で、
自主独立国家というアジェンダを初めて提示し、それを最終的に奪った存在でもある日本に対す る近代韓国知識人たちの認識変化と「独立思想」への変容のプロセスが本研究の主なテーマであ る。
ところが、前述した日韓近代史の悲劇的かつ矛盾した結果は、韓国の近代知識人、特に開化思想 家の研究と評価においても、客観的な接近に限界をもたらした。直接的にも間接的にも、先発近
代国家であった日本の影響から完全に自由ではない開化思想家の研究は、微妙な日韓関係の影響 から離れることが出来ない面があった。第二次世界大戦後、北朝鮮と日本で、日本の植民地時代 を論理的に克復するための朝鮮の自主的な近代の可能性を提示し、現在も韓国では生命力を維持 している「内在的発展論」が、その一例である。「内在的発展論」は、上述した近代韓国の開化思 想家と日本との直・間接的な影響を先ず分離させて、韓国の開化派の独自性、つまり、朝鮮内部 で自ら開化を成し遂げる萌芽が既に存在し、外部からの干渉なしにも独自的に近代化が出来たと 強調する論理であった。しかし、この「内在的発展論」を、月脚達彦は、「開化運動へのかかわり 方と関連する思想構造」が把握出来る「開化派の著作からの引用は極めて少なかった」ことを批 判した。それは、結局、理論が先に作られて、史料による実証が不足したという意味でもあった。
そのため、本稿は、以上の先行研究の限界を反映し、今まで、殆ど活用されなかった新史料を用 いて、近代韓国知識人たちの対日認識と独立思想の変化を追跡した。本稿では第一世代開化派と も言える甲申政変を起こした「開化党」の一員であった尹致昊の『尹致昊日記』や、甲午改革に よる近代教育拡大を契機に、登場して、尹致昊、徐載弼、兪吉濬の影響を直接受けた二世代開化 派と言える李承晩の『独立精神』が新史料の一例である。特に、李承晩は、大韓民国の初代大統 領でもあり、朝鮮の近代から現代を通して政治活動に従事した人物であり、こうした側面で彼の
『独立精神』の形成過程における対日認識を考察することは、近代日韓関係史の研究においても 有意義な作業であろう。
本論文は、当該期を、江華島条約(一八七六年)以前から朝士視察団派遣直前(一八八一年)ま での開国前後を第一部、甲申政変を起こした一世代開化派の台頭(一八八二年)から政変失敗に よる開化思想の暗黒期(一八九三年)まで第二部、日清戦争と甲午改革による二世代開化派の登 場(一八九四年)から韓国併合による国権喪失(一九一〇年)前後までを第三部に分けて、全体、
三部・六章の構成で論を展開した。
まず、第一部の一章は、江華島条約に至るまでの背景と、当時の知識人が同条約の意味をどのよ うに解釈したのかを分析した。
西力東漸によって、以前まで朝鮮を支配した中華秩序が本格的に解体されていく過程で、朝鮮は、
西洋の進出に止むを得ず「自主」的に対抗しなければならなかった状況であった。朝鮮がフラン スと米国の侵攻に直面した時、対外的に朝鮮の宗主国を闡明していた清国は、朝鮮が内治と外交 を自主する国であると西洋勢力に回答し、宗主国としての義務と権利を実質的に放棄していた。
江華島条約はこうした状況で締結されたものであり、この条約によって対外的に闡明された「自 主ノ邦」としての朝鮮の国際的地位の再定義を朝鮮の近代知識人たちはどのように理解し、それ が、近代韓国の独立思想にどのような影響を与えたのかを分析した。従来の研究では、現代的観 点からの、江華島条約の不平等性に関する論争に終始していた傾向があるが、本章は、この条約 が当代の韓国知識人において、どのように理解されたのかを再照明した。その結果、従前の研究 で論じられた条約の片務的最恵国待遇・協定関税・領事裁判権等の不平等性は、当時の実務者と
知識人の間では、問題視されず、日本と朝鮮が同じ自主国として条約を結んだ、「国家同士の平等 性」に注目したのが確認できた。さらに、近代日韓関係史の始まりである同条約が、日本の朝鮮 侵略の出発点であったという観点も、黃玹の『梅泉野録』によって、一九〇〇年代以後に形成さ れたものであり、開化派の認識はそれと異なるものであった。開化派は、同時期に執筆された李 承晩の『独立精神』から見えるように、国際条約によって朝鮮の独立が明記された重大な切っ掛 けとして認識していた。そのため、本章は、江華島条約が日本の朝鮮侵略の始まりなのか、「開化」
と「独立」のための切っ掛けなのかという認識の差は、結局、歴史の転換点に臨む朝鮮を受動的 な存在なのか、能動的な存在なのかを定義する観点の差から出発すると結論付けた。李承晩は、
朝鮮を能動的な存在として定義し、西欧ではなく以前から隣国であった日本との条約であったの で、相対的に有利な条件の条約であったと認識した。さらに、李承晩が、江華島条約の締結にも 関わらず、朝鮮朝廷が漸く文書化された「自主の邦」の地位を利用せず、開国も一時停滞したこ とを批判したのは注目に値する。
そのため、第一部の二章では、江華島条約以後にも一時停滞状態にあった朝鮮の開国を促進させ た、駐日清国公使館の参賛官であった黄遵憲が作成した意見書「朝鮮策略」の論理を分析し、同 書を朝鮮朝廷が受容して、日本での留学生派遣と米国との修交が促進されて、朝鮮の開化派が本 格的に台頭する背景を説明した。
「朝鮮策略」が朝鮮に提示した外交戦略である「親中国」、「結日本」、「連米国」論は、基本的に 清国の対朝鮮影響力を維持するための提案であったものの、既存の中華秩序がもはや維持できな いという現実の告白でもあった。一八八〇年、朝鮮が、この「朝鮮策略」の提案を受容した結果、
米国と他の西洋諸国と外交関係を結び始め、日本にも留学生と視察団を派遣し、金玉均をはじめ とする「開化党」が政治の前面に本格的に登場しており、その意味は決して無視できない。また、
この「朝鮮策略」の受容のような「外部刺激」による開国と開化思想の本格化は、既存の「内在的 発展論」で説明できない盲点を補完するものでもあった。さらに、同書の著者黄遵憲は、日本の 政治家、知識人らとも深く交流した人物であり、その関係性に対しても同時に検討した。
続いて、第二部の三章では、「甲申政変」の背景と展開においての金玉均らが結成した「開化党」
と日本との関係および「甲申政変」の失敗が、近代日韓関係史に与えた影響を再検討した。
「甲申政変」は、韓国近代史において最初の近代化革命と同時に、壬午軍乱以後、より強化され た朝鮮の対清国従属関係を打破するための最初の独立運動の性格を持つ事件であった。しかし、
「甲申政変」は、実行段階で、外勢である日本の公使館兵力を引き入れたことによって、純粋な 独立運動としての性格が薄くなった。山辺健太郎のように「甲申政変」が、金玉均の支援者であ る福沢諭吉と自由党の後藤象二郎が明治政府からの暗黙の支持を受けて企図した「外国の勢力と 結託した政権奪取の陰謀にすぎない」 と規定する主張もある。しかし、最初の日本留学生であり ながら政変直前まで「開化党」の一員であった尹致昊の『尹致昊日記』は、金玉均の『甲申日録』
よりもリアルタイムで政変の準備段階を詳しく描写している。この『尹致昊日記』と既存の史料
を比較対照することで、「甲申政変」での日本の影響力の有無をより詳細に分析し、当代の朝鮮の 知識人たちの「甲申政変」と「開化党」に対する評価もあわせて考察し、以後の開化思想の展開 と日韓関係に与えた影響まで再検討した。その結果、山辺の主張と異なって「甲申政変」はあく までも「開化党」が主導したものであり、日本政府との連携は限定的で、むしろ、「開化党」が日 本を利用した事件であったと結論付けた。そして、福沢諭吉の政変での影響力は、政変に直接介 入したのか否かより、『尹致昊日記』の一八八三年一月十三日の描写から見えるように、朝鮮は自 主国であり、自主国に成れるべきという福沢の当時の態度が、開化党が追求する理想に確信を与 えたことに在ると結論付けた。しかし、こうした開化党や福沢の理想が実現可能であったのかは、
周知の通り全く別問題であった。開化党の賭博は悲劇的な失敗に終わり、さらに高宗と開化党の 間には回復不能の相互不信が生じて、一八九四年の甲午改革まで、朝鮮の開化派は長い暗黒期を 迎えた。高宗の開化派に対する不信は第五章で述べる「独立協会」の挫折の一因でもあり、その 背景を説明するためにも「甲申政変」の再検討は重要な作業であった。
そして、第二部の四章では、上述した暗黒時代の中でも注目すべき思想史的な成果について分析 し、後代への影響までを論じた。
福沢諭吉の弟子で朝鮮最初の日本留学生であると同時に米国留学生でもあった兪吉濬の著作で ある『西遊見聞』が、その成果である。「甲申政変」の失敗から、日清戦争に伴う日本による朝鮮 の内政改革である「甲午改革」までの朝鮮開化思想の暗黒期のなかで執筆された『西遊見聞』は、
韓国史において初めて自国人の目線と経験によって執筆された西欧文明・地理案内書及び啓蒙思 想書である。同書は、福沢諭吉の『西洋事情』とジャンルと内容の共通性を有しており、日本で も既に注目されている。また、兪吉濬は、後に「甲午改革」によって作られた親日内閣の一員と して「露館播遷」事件による同内閣の崩壊時まで近代化政策を主導したため、『西遊見聞』は、一 世代開化派の思想が「甲午改革」にどのように繋がったのか理解するためにも重要な素材である。
しかし、同書は、著者の兪吉濬が「甲申政変」を起こした「開化党」と同輩という嫌疑で逮捕・軟 禁されていた不自由な立場で執筆されており、本章ではその特殊性がもたらした限界に対しても 分析した。さらに本章では、『西遊見聞』の直接的な影響を受けた李承晩の『独立精神』との内容 的な類似性と独自性も共に検討した。福沢諭吉の『西洋事情』の影響から兪吉濬の『西遊見聞』
が誕生し、『西遊見聞』の影響によって、李承晩の『独立精神』が誕生した。本章ではこの事実に も注目し、福沢諭吉、兪吉濬、李承晩に繋がる東アジアの国民啓蒙思想の系譜に対しても照明し た。事実上、福沢諭吉が初めて導入した西洋の近代国民国家論と、自国の世俗語を用いるという 彼の啓蒙思想が、ハングル・漢文混用の『西遊見聞』を経て、無学の一般大衆を対象にした純ハ ングルの『独立精神』によって、より明らかに体現された。これは東アジア近代思想の拡散・進 化過程として注目に値する。福沢諭吉と李承晩の間には直接的な人間関係はなかったが、兪吉濬 の『西遊見聞』は、この両者を繋ぐ架け橋であったため、その面でも意義を再評価した。
最後に第三部の五章は、事実上、日本によって確立された独立国の地位が、また、日本によって
最終的に剥奪された当該期の近代韓国知識人たちの対日認識がどのように分岐し、決着したのか、
そのプロセスの分析を目的にした。
日清戦争期、朝鮮は下関条約によって、他力本願であるが独立国の地位が国際的に確立された。
そして、日本の勧告で行われた「甲午改革」は、十年前の「甲申政変」の失敗によって粛清された 一世代親日開化派の政治復帰のみならず、改革によって本格化された西洋式近代教育を受けた、
李承晩のような二世代開化派が登場する契機となった。しかし、一八九五年に勃発した「閔王后 暗殺」は、「独立国」において許されないはずの日本の主権侵害行為でもあり、開化派の中でも日 本に対する態度が変わり始めた。結局、この事件は、朝鮮の国王が日本軍に占領されていた宮城 から脱出してロシアの公使館に避難する「露館播遷」事件を齎し、日本は自らの失策によって、
朝鮮で確保した有利な外交的地位を失い、ロシアの南下を促進する結果となった。そして、こう した危うい独立の中で、大韓帝国の成立が宣言され、尹致昊、徐載弼のような一世代開化派と、
李承晩のような二世代開化派は、議会制度の導入、自国利権の保護をスローガンにする「独立協 会」を組織し、大韓帝国の独立を固めようとした。しかし「独立協会」は、「甲申政変」以来、開 化派に不信を持つ上に議会制度が王権の脅威となると判断した高宗によって強制解散されてしま い、李承晩を含める多数の会員が逮捕・収監された。こうして、自主的な近代国民国家への転換 が挫折して、大韓帝国は専制君主制を選び、甲午改革以来の近代化改革が再び停滞したまま日露 戦争を迎え、日本の植民地になって消滅した。こうした、日本による独立国地位の確立と剥奪と いう皮肉な結果に対して、近代韓国の知識人の対日認識と独立思想はどのような終着点を迎え、
これが、以後の大韓民国の建国にどのようにつながるのかは、本稿が明らかにすべき最重要の問 いであった。大韓帝国の消滅に伴い、朝鮮・大韓帝国と自分の正体性を一致させていた知識人た ちは亡国と運命を共にした。尹致昊や李承晩のような開化派の場合は、「独立協会」強制解散など の事件で、朝鮮・大韓帝国という旧体制に対しても既に幻滅を感じたので、植民地朝鮮という新 体制を一時静観した。だが、総督府の知識人弾圧に直面して、結局、その新体制に対して順応と 抵抗という両選択肢から一つを選ぶしかなかった。尹致昊が最終的に順応を選んだ反面、李承晩 は抵抗を選択することになった。特に李承晩は、大衆に自由と独立の大事さを知らせようとした 自分の著書『独立精神』が、大韓帝国も、日本の植民当局も禁書処分したことにより、大韓帝国 という旧体制と、日本の植民地という新体制の両方を否定し、新しい国を創出することを目指し た。これが、李承晩の抗日独立運動の出発点であった。
そのため、第三部の六章は、大韓帝国と植民地朝鮮という新旧両体制から禁書となった『独立精 神』が、何故、このような処分を受けるしかなかったのか、その内容を分析、紹介し、それが以後 の独立運動にどのように繋がったのかを補足した。『独立精神』は、一九〇四年、政治犯として受 刑中であった李承晩が一般民衆向けに、独立した近代国民国家への転換への必要性と方法論、そ して、執筆当時基準で自国が処した対外情勢を知らせる目的で執筆した書籍である。西洋諸国の 近代国家形成の過程を論じながら、日本の明治維新に対しても紹介して模範的な後発近代化国家 として例示し、以後の李承晩の反日イメージと違って、江華島条約以来、日清戦争までの日韓関
係に対してもかなり肯定的に叙述したのも特徴であった。しかし、朝鮮を日本の一部として併合 して支配する朝鮮総督府の立場では、新しい韓国人の国民国家建設のための啓蒙思想書である『独 立精神』は不穏思想書に過ぎないし、さらに、第二次日韓協約と韓国併合の道義的問題点を示し たので禁書処分は当然の結果であった。結局、李承晩は自分の思想と理念を実現するために、そ れが出来る新しい国を創出することに臨むしかなかったのである。
以上が本稿の全体的な内容の要約であり、本稿の結論は次のようになっている。。
近代韓国の独立は、当初、「中華秩序」とそれに安住した朝鮮王朝という旧体制からの脱皮を目 標に出発し、日本は、「閔王后暗殺」以前まで「開化派」において韓国独立の友軍として認識され た。しかし、最終的に旧体制と交代した新体制は、日本の植民支配下となってしまい、韓国の独 立は日本からの独立へと転換した。これは、李承晩の抗日への転換のプロセスでもあったと言え よう。そして、李承晩にとって抗日は、単なる排外主義ではなく、以上の新旧両体制の代わりに、
自分の思想と理念を実現できる新しい「ネイション」を作るための手段として出発したものであ り、これは韓国の独立運動史を原点から理解するためにも重要な点である。以上が、本論文の総 合的な結論であり、本稿は、尹致昊の『尹致昊日記』や李承晩の『独立精神』などの新史料を用い て当代開化派の対日認識と独立思想の変容過程に一層精密に接近し、当代開化派の著作の分析不 足という、先行研究の限界を克服しようとした。さらに、李承晩の『独立精神』の、自国の世俗語 を用いた国民啓蒙思想の普及という方針が、兪吉濬の『西遊見聞』を媒介として、兪吉濬の師匠 である福沢諭吉の啓蒙思想にも繋がる可能性を、本稿の第四章で提示したことも、本稿のもう一 つの成果であろう。当初、近代西洋から出発した啓蒙思想と国民国家論は、渡米・渡欧経験者の 福沢諭吉によって東アジアに伝来して、福沢の弟子であり後に米国に留学した兪吉濬を経て、米 国宣教師の学校で学んだ知識の上、兪吉濬の著作を参考に『独立精神』を執筆した李承晩により 継承・発展を遂げた。これは、西洋の国民国家論と啓蒙思想が東アジアに拡散していく系譜の一 類型としても注目に値する。
また、本稿は、当代開化派の著作を分析しながら、近代韓国の開化思想の展開に対して、結果的 に「内在的発展論」より、国外からの刺激・脅威と国内での反響・応戦の循環・相互作用という形 で叙述した。さらに、本稿は、開化派の独立思想の変容と近代日本の関係性を論じ、王権守護が 独立・改革以上の至高の価値であったため開化派を王権の脅威として弾圧した高宗と大韓帝国の 体制の「内在的」な限界性に対しても指摘した。その面で本稿は「内在的発展論」と相反する研 究であると言えよう。今後は、近代日韓関係史の説明において、その「内在的発展論」を克服し 代替できる新しい論理を作るのが課題であろう。