• 検索結果がありません。

四国・山陽地方における地域づくりに関する研究

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "四国・山陽地方における地域づくりに関する研究"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

四国・山陽地方における地域づくりに関する研究

谷 沢

はじめに

 本稿は、平成13年度から取り組んでいる歴史・風土・文化を活かした地域づくりに関する研 究の一環として実施した愛知淑徳大学助成研究「瀬戸内海における地域づくりに関する研究」

(平成15、16年度)の調査・研究成果の一部を、拙稿「瀬戸内海における地域づくりに関する 研究」Dに引き続き報告するものである。

 筆者は、これまで、日本各地の歴史的町並みの調査研究を行い、歴史的な生活環境や町並み の形態の成り立ちを読み取る中で、よりよい都市環境や景観、あるいは地域社会の個性を生み 出す諸条件を探り、人間生活と都市形成とのかかわりを考察してきた。

 今回も、同様な作業を継続する中で、地域文化振興の視点から前回取り上げなかった四国・

山陽地方の歴史的町並みである愛媛県内子、徳島県脇町、香川県塩飽笠島、高知県室戸吉良川、

岡山県倉敷・吹屋・高梁・津山の事例を挙げ、現地調査で得た資料・インタビュー調査を基に、

それぞれの地域で展開された歴史的文化遺産を活かした地域づくりのあり方を整理し、その特 徴にっいて明らかにしていきたい。

1、伝統的建造物群保存と地域づくり

(1)愛媛県内子

 愛媛県南西部の内陸地域にある内子町(喜多郡)は、江戸中期から在郷町として栄え、肱川 流域で生産された和紙が集散されるとともに、2)江戸末期から明治期にかけて木蝋から晒蝋を 製造して海外まで出荷し、商人が富を蓄えた土地である。伊予地方の木蝋生産は、享保の改革

(1716〜45)の時代、松山・宇和島・大洲の各藩が生産に力を入れ、財源の確保を図ったこと を背景とし、五十崎の人が元文3年(1738)に広島県可部から三人の蝋打ち職人を連れ帰った ことに始まるという。以後、藩の保護と奨励により天保年間(1830〜1844)には、原料のハゼ 栽培が肱川流域の村々に普及した。

 この、和紙・晒蝋の集散地としての内子の繁栄は、塗籠造の商家が軒を連ねる町並みを形づ くった。内子の町家は、漆喰を塗りこめた堂々とした構えのものが多く、町家の壁は白漆喰の ほか黄色も見られ、ひとっの風土色をなしている。この、昔の商家が建ち並ぶ八日市・護国を 通る街道は、金毘羅参りや四国遍路が行き交った旧街道にもあたっていた。八日市・護国の町 並みは、昭和57年に国の重要伝統的建造物群保存地区(以下、「重伝建」と略す)に選定され

た。

 内子には、八日市・護国町並保存センター、町家資料館、内子座などの伝統的建造物を活用

(2)

した施設がっくられ、地域づくりに活かされている。八日市・護国町並保存センター(平成12 年開館)は町並み保存活動の拠点で、地域の人々がここに集い、地域づくり活動を進めていく 施設である。3)ここは、八日市・護国地区町並保存会の事務所を兼ね、建築の修理に関する相 談窓口にもなっている。また、町家資料館は、寛政5年(1793)頃に建築された商家を復元修 理したものである。内子座は、大正5年に木蝋や生糸などの取引で財をなした旦那衆が発起人 になって建てられた劇場である。以来、歌舞伎や文楽などが演じられてきた劇場は、昭和60年 に復元された♂)

  「重伝建」に選定されて以来、特色ある地域づくりを行ってきた内子町は、伝統文化を活か した地域づくりが盛んで、多くの表彰を受けている。5)また、平成13年にはドイッのローテン ブルク市と友好都市盟約を締結しており、国際交流も盛んである。

 内子町町並地域振興課6)・大野千代美さんから内子の地域づくりの話を伺った。町並み保存 は、修理・修景というハード事業の部分もあるが、大切なのは、まちづくりのソフト事業であ る、という。内子町は、昭和57年の総合計画で3つの方針を打ち出し行政が動き出した。それ は、「町並み保存」「人づくり」「高次元農業」である。

 内子の町並み保存に先駆けて、昭和55年に上芳我邸を公開し、その後、内子の地場産業であ る木蝋の資料館として整備された。それ以前、保存の機運はあったものの、「ほんとうにやれ るのだろうか」という気分の方が大きかった。上芳我邸ひとっを残すのではなく、町並みとし て残すにはどうしたらよいかを、先進地に視察に行って考えた。1)

 昭和61年、国際シンポジウム「内子シンポジウム 86まち、暮らし、歴史」が開催された。こ

『れが、その後の内子の地域づくりに大きな影響を与えた。そのシンポジウムで出たさまざまな 提案を実現しようと、地域づくりの機運が盛り上がっていった。シンポジウムにはドイッのロー テンブルグ市長を招き、それが縁で友好都市となるとともに、内子を全国発信する良い機会と なった。

 内子町への観光客の入り込み数は、昭和50年からデータが残されている。昭和50年の年間観 光客はわずか1万3千人であった。国の「重伝建」に選定された昭和57年には、14万6千人を 超える観光客があった。そして59年には20万人を超え、62年には30万人を超え、平成7年には 50万人を超えた。それ以後、観光客数はほぼ横ばいである。

 内子町は道後温泉に近く、高知に抜ける道があるため、通過型の観光地となってしまう。大 型バスで内子町を訪ねる人の滞在時間は1時間くらいで、素通りしてしまう。住んでいる人の 空間がないほど人が街を歩くようになると、街の良さは失われてしまう。個人客をいかに受け 入れるかが今後の内子町の課題である。

 内子の商店街は、周囲の農村部の人が買い物に来るだけでなく、以前は、内子の商人は品物 を持って農村部に出かける商いをしていた。町内の小売店に卸をする問屋も勢いがあった。と ころが、昭和55年に郊外に大型店が2っ開店し、商店街は落ち込んだ。そればかりでなく、農 村部の小売店が店をたたみ始め、問屋業もやりにくくなった。

 八日市・護国の保存地区で商業を続けている家は少なく、サラリーマン、教員、公務員、職 人などが多く暮らしている。現在の内子は、地場産業もなく働き口も少ない。なかには大洲方 面に通勤している人もいる。しかし、保存地区に空き家は数軒と少ない。

(3)

 大野千代美さんは話す。「今、内子に残っているものは、『本物』です。本物だから残った。

次の時代に残すべきものは、この内子らしさのある『本物』です。新しいものをっくっていく 必要がありますが、新しいものでも『本物』をっくっていかなければならない。土地の人が、

自分の言葉で、自信を持って語っていけるものをっくっていくことが大切です」と。

 なお、内子町では、農村景観が優れた石畳地区での地域づくりの取り組みも注目される。こ こには、民家を改造した「石畳の宿」があり、グリーンッーリズムのモデルケースとして知ら れている。また、肱川水系麓川支流の清水川に三台の水車を設置した「石畳清流園」がっくら れた。これらの水車は、平成2年に地区の若者たちが、水車で精米したうまい米を食べたいと いう動機でっくったという。水車再現は、村おこし事業の一環として行われた。地区の「石畳 を思う会」は、昔の景観を再現しようとする取り組みが評価され、地域づくりで自治大臣表彰 を受けている。

(2)徳島県脇町

 徳島県吉野川の中流域に位置する脇町(平成17年3月、美馬市となる)は、吉野川水運の船 着場として、また、撫養街道と讃岐への街道が交わる交通の要衝として栄えた商人町である。

吉野川流域は藍の一大産地として発展し、これに伴い水運の便に恵まれた脇町は、藍の集散地 として賑わいをみせた。明治40年代に藍の栽培は衰えたが、s)その後、町は繭糸の集散地とし て存続した。ところが、大正3年、鉄道が開通して吉野川水運はすたれ、駅から離れた町はし だいに賑わいを失っていった。

 南町通りには当時の繁栄を物語る江戸・明治期の町家群が残されている。9)建築様式は、ウ ダッを上げた塗籠造が特色である。ウダッは妻壁の横に張り出した袖壁で、防火壁の役目を果 たしていたが、商人が富を象徴するシンボルとしてっくるようになった。

 昔の町の中心地には、古い町並みをはじめ、船着場跡の石垣・石段等が残されている。そし て、現在、脇町では「うだつの町並み」をはじめとする地域の歴史的文化遺産の保存や再生・

活用、さらには自然環境を活かす地域づくりに取り組んでいる。

 脇町産業観光室・小笠健二さんから地域づくりの話を伺った。保存に対する動きは、昭和59 年、「脇町の文化を進める会」1°)が発足したことがきっかけで起こった。昭和61年、地区の住 民による「南町町並み保存会」が結成され、先進地視察や町並みの活用によるまちづくりのあ

り方の話し合いが行われた。 また、同年、図書館をつくろうという話が起こり、町に寄贈さ れた農協の倉庫と米倉を活用してユニークな図書館が生まれた。

 さらに、昭和61年には、筒井製糸脇町工場の跡地に、白壁の藍蔵をイメージしたデザインの ショッピングセンターが建設され注目を集めた。翌62年には、脇町中学校がウダッをっけたデ ザインで建設され、風土色豊かな学校建築として話題になった。さらに、脇町郵便局や、阿波 銀行脇町支店も町並みに調和したウダッを取り入れた意匠で建築された。

 昭和61年、脇町の町並みが「手づくり郷土賞」を受賞し、「日本の道百選」に選定され、地 域は盛り上がりをみせていく。その流れの中で「脇町市街地景観条例(昭和63年度)」が制定 され、「脇町南町伝統的建造物群保存地区保存計画(昭和63年度)」が策定された。そして、昭 和63年、脇町の町並みは、国の「重伝建」の選定を受けた。ちょうどその年、作家の司馬遼太

(4)

郎が脇町を訪れ、『街道を往く』の中で、「阿波の良さは脇町に尽きる」と脇町をほめ、町の人々 に自信を与えだことも見逃せない。地元では、全戸が参加して保存会を結成し、町並み保存に 遇進する。そして、平成元年度から建造物の修理事業が開始された。11)平成元年度には、昔の 法務局を活用した脇町郷土資料館が開館する。同年、脇町は、「潤いのあるまちづくり」で自 治大臣表彰を受けた。

 平成5年、「マイロード事業」(建設省)で南橋が景観に調和するように架け替えられた。ま た、同年、電線の地中化を四国電力に要望し、「歴史国道整備事業」(平成8〜10年度)で電線 地中化を実現するとともに、道路美装化、街路灯の整備が行われ、すっきりとした町並みが甦っ

た。

 脇町がメディアによる情報発信を全国にしたのは、平成8年、山田洋次監督「虹をっかむ男」

(主演・西田敏行)のロケ地となったことが大きい。この映画は、丁脇町劇場」12)を舞台にして 制作された。このことがきっかけで「脇町は映画の舞台にもなるような素晴らしい町だ!」そ んな雰囲気が住民の中に生まれた。取り壊しが計画されていた脇町劇場は、映画の舞台になっ たということで、平成10年度に「徳島県観光拠点整備事業」で修理・保存されることになった。

そして、この映画をきっかけに脇町の知名度が上がり、同年、明石海峡大橋が開通したことも 影響し、多くの観光客が脇町を訪れるようになった。13)

 「徳島県観光拠点整備事業」では、脇町劇場の修理・保存のほかに、吉田家住宅の整備活用 事業が行われた(平成11、12年度)。吉田家は、吉田直兵衛が寛政4(1792)年に創業した屋 号を「佐直」という藍商である。14)この整備事業で母屋は公開され、土蔵2棟は資料館となっ た。また、離れは観光情報施設、藍蔵はカフェー・土産物店(平成15年度に整備)として活用 されることになった。平成13年度の「徳島県観光拠点整備事業」では、吉田家裏の吉野川の船 着場跡の石垣の復元が行われ、「船着場公園」として整備された。平成14年度には、「船着場公 園」の南に、道の駅「藍ランドうだっ」15)が完成した。道の駅といっても駐車場とトイレがあ るだけで、観光情報施設・土産物店は旧吉田家の離れと藍蔵が利用され、駐車場と結ばれてい

る。

 戦後間もない頃までは、脇町は繭糸の集散地として、在郷町としてかろうじて生き延びてき たが、商売家はしだいに少なくなり、昔の問屋や商家は仕舞屋として残された。脇町商人は、

儲けた金を子弟の教育にっぎ込む風があった。そのため、古い町並みの中には、教員や公務員 で暮らしている人が少なくない、という。脇町は、その町並みの風格を守り育てつつ、現在に 至っている。

(3)香川県塩飽笠島

 瀬戸内海備讃瀬戸の塩飽諸島は、古くは塩飽海賊衆の根拠地であった。また、室町期、塩飽 船は、塩などの物資の輸送た活躍をみせた。16)その後、織田・豊臣・徳川氏と天下に覇を唱え た人々が、常にその力を頼り、眼中に置き続けてきたのが塩飽船方衆の拠った島々であった。

江戸時代に入ると、塩飽諸島の政治は、650人の「人名」から選ばれた4名の年寄と、11島の 18浦から選ばれた年番・庄屋の合議により執り行われるといった、独自の方式をとった。17)塩 飽の人名は、寛文12年(1672)、西廻り航路が開かれると、幕府年貢米を輸送する御用船方と

(5)

して活躍をみせる。すなわち、徳川幕府の御用船方として船役・加子役を負担する代りに島の 領知権を安堵され、周辺海域の漁場の権益が保証されたのである。

 ところが、島の生業ははじめ廻船業が主であったが、江戸中期を境にして、船数はしだいに 減少し、大工、水夫などとして他所に出て行く者が増え、船持・船乗りの島である塩飽はその 性格を変えていく。とりわけ、18世紀半ばを過ぎると、「塩飽大工」が活躍を始める。 8)そし て、明治以降も引き続き出稼ぎの島となり、塩飽諸島の過疎化が進む。

 塩飽本島(丸亀市)の北岸にある笠島集落 9)には、古い町並みが残されている。集落の海 岸に平行して伸びる道が「マッチョ通り」、e°)山沿いの道は「田中小路」、海から山に向かう東 の道が「東(とう)小路」、西の道が神社通りで、この4本の道に沿って人家が建ち並んでい る。「マッチョ通り」と「東小路」は、道路の美装化や側溝の石積み修復がなされている。こ れは、平成2年に自治省の地域づくり推進事業「歴史の道」整備事業として行われたものであ

る。また、その年、電柱の移設工事が始まった。集落には、専称寺下と田中小路にポケットパー クがあるが、これらは、平成5年の「街なみ環境整備事業」でっくられたものである。

 「マッチョ通り」のほぼ中ほどには、「笠島まちなみ保存センター」が設置されている。こ れは、真木秀雄家を活用した建物である。真木秀雄家は、笠島地区が「重伝建」に選定された 昭和60年から修理が始まり、昭和63年から公開されるようになった。2D 「マッチョ通り」の西 には、小栗靖家を活用した「ふれあいの館」があり、「ふれあい茶屋」(平成6年)として利用 されている。また、東小路の藤井致一家は、「文書館」(平成2年)として活用されている。

 丸亀市教育委員会文化課主事・後藤幸功さんから笠島の町並みにっいて話を伺った。文化庁 の保存対策事業として笠島の伝統的建造物群の調査が行われたのは、昭和52年のことである。

調査を行ったものの、当事は住民の理解が得られず、保存活動は進まなかった。その後、昭和 56年に、市が単独事業として再調査を行い、翌57年「笠島まち並保存協力会」が発足し、修理 保存事業が始まった。そして、昭和58年には丸亀市伝統的建造物群保存地区保存条例が制定さ れ、笠島は昭和60年に国の「重伝建」に選定された。

 保存地区には、伝統的建造物が70軒ある。ほかに25軒の非伝統的家屋があるため、集落には 90軒余りの家を数えるが、そのうち、約半数の約40軒が空き家である。塩飽諸島は、昔から京 阪神に出稼ぎに行く土地として知られているが、ここ笠島集落もまさにそのような所である。

 京阪神に出稼ぎに行っている家は、盆正月に帰ってくるが、あとはずっと空き家にしている。

家をしめきったままだと、いたみも早くなり問題である。丸亀や岡山に出て空き家にしている 家もあるが、こちらは、よく帰ってくる。京阪神に住むようになって、子供が出稼ぎ先で生ま れた家は、郷里との縁が薄くなる。子供が郷里にもっ愛着もうすくなる。よそに出た人に郷里 に愛着をもってもらうために、平成12年の暮れから「笠島ふれあい祭り」を開催するようになっ

た。

 笠島に残った人の多くは年金暮らしで、漁に出たり、わずかな畑を耕して暮らしている。過 疎と高齢化が地域の問題であるが、若い人が生活していくための産業基盤が整っていない。古 い家は修理したものの、これからどのようにしてそれを受け継いでいくか大きな課題が残され ている。

(6)

(4)高知県室戸・吉良川

 高知県の東南端に位置する室戸岬22)は、黒潮の波濤を受けて浸蝕された岩礁や削岩の海岸 線が続き、男性的な海岸美を見せる。台風の上陸地点として有名な室戸岬は、「風の室戸」と いわれるくらい年間を通じて強風が吹く。そのため、風を防ぐ「石ぐろ」に囲まれた民家が見

られる。

 室戸岬の西方、太平洋に面した土佐街道に沿って吉良川(室戸市)の町並みが続いている。

吉良川は、江戸時代から背後の山々から切り出されるウバメガシ・カシや薪を船で京阪神に運 んでいた所である。明治になり木炭の需要が増えると、和歌山県の備長炭の製炭技術を学び、

木炭を盛んに京阪神に運んだ。このため、吉良川では廻船業が栄え、土佐街道を中心に塗籠造 の町家や土蔵が軒を連ねた。

 塗籠造の町家や土蔵は水切り瓦をっけたものが多く見られる。水切り瓦は、斜めから吹き付 ける豪雨を防ぎ、漆喰壁を保護するために生まれた高知県特有のものである。また、町家や土 蔵の漆喰壁は、「土佐漆喰」と呼ばれるもので、100年の耐久性を持つという。es)

 室戸市教育委員会社会教育主事・和田庫治さんから町並み保存の話を伺った。吉良川で町並 み保存の動きが起ったのは、平成6年のことである。この年、保存対策調査事業が実施される が、その話が起こるまで、地元では伝統的建造物群の保存制度があるという事実すら知らない 状況であった、という。住んでいる人々は、伝統的な町並みに住んでいるという意識は薄く、

開発が進まなかったために、昔の建物が残されてきたと考えている人が多かった、という。

 平成6、7年、保存対策調査事業と併行して、愛媛県内子町への視察が行われた。また、平 成8年3月に『吉良川町伝統的建造物群調査報告書』が刊行され、7月には「吉良川町町並み 保存会」が発足し、10月に「室戸市伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定された。

 その後、保存計画の策定作業に取りかかるとともに、指定物件の選択が行われ、平成9年6 月に保存地区と保存計画が決定し、10月に国の「重伝建」の選定を受けるに至った。24)和田庫 治さんは「重伝建を目指してやってきた土地ではないので、行政も住民も正直なところとまど

いました」と話す。25)

 平成10年度からは、修理事業がスタートした。26)遠洋漁業を手がけるとともに米穀商を営ん だ武井家住宅を活用した建物が「町並み館」として整備され、拠点施設になった。27)町並み保 存に対する課題も少なくない。第一次産業が主産業である室戸市において漁業は衰退傾向であ り、農業もまたこれ以上の発展は望めない。高知市への通勤も不可能で、若い人たちの働き口 がないことが問題点である。吉良川の町並みは、漆喰壁の町家や土蔵が多いことが特徴である が、伝統的な左官工事を手がける職人は50歳代で、現在の修理は可能であるが、この技術を受 け継ぐ人がいない。このような状況の中で、吉良川の町並みを将来に持ち伝えるための課題が 残されている。

(5)岡山県倉敷

 岡山県倉敷は、舟運に利用された倉敷川の両岸に問屋や蔵屋敷が集中し、大原美術館、土蔵 造の倉敷民芸館、倉敷考古館などの建物が軒を連ね、早い時期から「伝統美観地区」を保全し ている町である。戦後、倉敷は「民芸の町」として知られるようになった。その背景の一っと

(7)

して、昭和21年、大原総一郎が招いた柳宗悦の指導で岡山県民芸協会が設立されたことが挙げ られる。岡山県民芸協会の外村吉之助は、昭和23年に大原家の3棟の米蔵を改装して倉敷民芸 館を開いて普及活動を始めるとともに、倉敷の土蔵造民家を民芸という視点から保存すること

を提唱した。

 倉敷美観地区の町並み保存もまた、大原総一郎の多大な影響を受けている。ドイツに留学中

(昭和13年)、中世の古典的な町並みを残すローテンブルグに魅せられた総一郎は、「倉敷を日 本のローテンブルグにしよう」と町並み保存を提唱した人であった。そして、戦災をまぬがれ た倉敷の町並みを文化的な遺産として後世に残すべき方策を倉敷市出身の建築家浦辺鎮太郎ら に相談し、それを推進したのであった。この倉敷の地域づくりは、倉敷紡績の創業者である大 原家が、戦前から多大な影響を及ぼしていたのであった。28)

 倉敷の町並み保存は、昭和24年、倉敷民芸館長・外村吉之助ら地元の有識者により「倉敷都 市美協会」が発足し、町並み保存に関心が持たれるようになったことが契機である、という。

そして、倉敷の民家・土蔵等の活用が早い時期から始められた。29)高度経済成長期以前から、

昔の建物を保存する動きがみられたのは、倉敷の文化意識の高さのあらわれといえよう。

 行政が町並み保全に取り組むようになったのは昭和40年代に入ってからのことで、昭和43年 の「倉敷市伝統美観保存条例」制定がその始まりである。わが国で歴史的風土の保全に対する 関心が高まったのは、昭和41年の「古都における歴史的風土の保全に関する特別措置法」制定 以降のことで、京都・奈良・鎌倉以外の地方の市が独自に条例を定めて景観保全を考え始めた 先駆けの一つが倉敷である。

 倉敷の景観保全に関する条例は多く、①倉敷市伝統美観保存条例(昭和43年)、②倉敷市伝 統的建造物群保存地区保存条例(昭和53年)、③倉敷川畔伝統的建造物群保存地区内における.

建築基準法の制限の緩和に関する条例(昭和57年)、④倉敷市倉敷川畔伝統的建造物群保存地 区背景保全条例(平成2年)、⑤倉敷市美観地区景観条例(平成12年)が定められている。

 倉敷市教育委員会・中田智敏さんから倉敷市の町並み保存と景観保全の話を伺った。以下、

その要点をまとめてみたい。倉敷川の両岸の「伝統美観地区」3°)という言葉は、「倉敷市伝統 美観保存条例」にうたわれているものである。昭和53年制定の「倉敷市伝統的建造物群保存地 区保存条例」は、昭和50年の文化財保護法改正により「伝統的建造物群」が新たな文化財の仲 間入りをしたことにより定められた条例である。倉敷は翌54年に国の「重伝建」に選定され、

文化財保護行政の上から倉敷川畔の土蔵造の町並みに保存の手がさしのべられるようになった。

平成2年には「倉敷市倉敷川畔伝統的建造物郡保存地区背景保全条例」が制定された。これは、

バブル期のビル建設ブームを背景に制定された条例で、美観地区の背景地区の建築物の高さを 制限することが大きな目的であった。そして、美観地区内の景観を守るため、よりゆきとどい

た条例を整備するため平成12年に制定されたのが「倉敷市美観地区景観条例」である。

 倉敷には、中橋や今橋界隈に不思議な風景が見られる。中橋付近には、壁全面を海鼠壁にし た倉敷考古館が建っている。それは、土蔵というよりも、西洋風の石造建築に見えてくる。そ

して、旧倉敷町役場の洋館も伝統的な倉敷の風景には程遠い景観である。今橋付近には、伝統 的な塗籠造の町家である大原家と、ギリシャ神殿風の大原美術館、中国趣味の有隣荘31)が並 び、日本・西洋・東洋が複雑に混ざり合っている。倉敷は伝統的な白壁の町並みが続いている

(8)

が、よく見ると旦那大原家の、それぞれの時代の趣味が色濃く反映された町並みであり、時代 の重層が倉敷の町並みの表情を豊かにしているのである。

(6)岡山県吹屋

 岡山県吉備高原の台地に赤瓦の家々が建ち並ぶ成羽町吹屋(平成16年10月、高梁市に合併)

は、かつて日本三大銅山の一つに数えられ、また、日本一の弁柄の産地として賑わった鉱山町 である。吹屋の町並みは、標高500メートルの西地区(千枚・中町・下町)と、標高450メート ルの東地区(下谷)にわかれ、山中に江戸末期から明治初期の建物が軒を連ねている。吹屋地 区には54世帯が暮らし、123人の住民が住んでいる。建物は地区全体で220棟あるというから、

いかに空き家が多いかが分かる。

 吹屋銅山は、天和元年(1681)、有力商人である大坂の泉屋(住友の前身)が幕府に願い出 て銅山経営を請け負ったことにより本格的な開発が始まった。32)明治に入ると、三菱グループ の創始者・岩崎弥太郎が銅山経営に進出し、巨大な資本力と近代技術の導入で鉱山町の賑わい は続いた。33)しかし、第一次大戦後の不況、それに続く世界大恐慌を契機に、吹屋銅山は昭和 6年に一時閉山となった。第二次大戦後、細々と操業が再開されたものの、昭和47年、銅山は 閉山となって今日に至った。

 吹屋で弁柄製造が始まったのは、江戸時代半ばの宝永4年(1707)のことである。その後、

宝暦元年(1751)、硫化鉄鉱からローハの凝結に成功し、以後このローハを原料に、高品質の 弁柄を吹屋で大量に生産することが可能になった。ところが、昭和30年代、ローハを使用しな い新製法が優勢になると、伝統的製法による吹屋弁柄は衰退し、製造業者の多くは廃業に追い やられた。en)銅山と弁柄製造の町・吹屋が衰退したのは昭和6年の閉山がきっかけとなるが、

昭和40年代から吹屋の町は激しい過疎化にみまわれた。

 成羽町教育長・官尾雅彦さんから、吹屋の地域づくりの課題にっいて話を伺った。吹屋の町 並み保存は、江戸初期に吹屋でタタラの鉄を扱う問屋を営み、幕末頃から弁柄製造に進出した 長尾一門の総本家にあたる「本長尾」の当主・長尾隆氏(故人)が、この地を長野県妻籠宿の

ような町並みにしたいと、保存運動に情熱を傾けたことが発端になった、という。

 昭和40年代の終わり、岡山県は県内7ヵ所を「ふるさと村」に指定し、その整備事業を開始 する。吹屋の町並みを保存しようとする動きが起こったのは、昭和49年「吹屋ふるさと村」設 置後まもなくのことであった。この流れにそって、「ふるさと村整備事業」が始まった。弁柄 製造窯元の大番頭格の家を利用して「郷土館」(昭和50年)が開設され、簡易食堂の「ふるさ と村休憩所」(昭和50年)が設置され、弁柄工場を復元した「弁柄館」(昭和51年)や、 鉱山の 坑道の一部を整備した「笹畝坑道」(昭和53年)が作られた。また、昭和61年にはキャンプ場 の整備も行われた。

 文化財保護法が改正された翌昭和51年、町教育委員会事務局長が県文化課へ出向き、伝統的 建造物群保存地区制度に関する打ち合わせを行ったのが、町並み保存に向けての行政の最初の 動きであった。昭和51年度、伝統的建造物群保存対策事業の一環として町並み調査が実施され、

昭和52年3月に成羽町教育委員会により『備中吹屋一町並調査報告一』が刊行された。その成 果をもとに、昭和52年に「伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、吹屋の町並みは、

(9)

国の「重伝建」に選定された。35)昭和53年には、「吹屋町並保存会」が発足した。保存会は、

年度ごとの保存修理工事の順位を調整し、地元住民の意見の取りまとめを行うとともに、雨漏 りパトロールの活動を行っている。36)

 その後、「リフレッシュふるさと推進モデル事業」(国土庁・昭和60年〜63年)を導入し、吹 屋の町並み周辺の文化施設・観光施設の整備が行われた。笹畝坑道の復元(昭和60年)、キャ

ンプ場整備(バンガロー・テニスコートなど・昭和61年)、ふれあいの森整備(昭和61年)と ともに、「弁柄館」に管理棟・釜場・資料室棟が増設された(昭和61年)。さらに、岡山県が事 業主体となり、外国人の宿泊施設「国際交流ヴィラ」も建設された(昭和61年)。

 このように、昭和60年代に入ると、都市と農村の交流を推進し、国際交流をも射程に入れた 地域活性化を図る数々の試みがなされるのである。そして、平成元年には、文化庁の補助事業 として「吹屋伝統的建造物群保存地区保存対策事業」の一環として「町並み見直し調査」が行 われ、これからの地域づくりの指針を探ることとなった。37)

 現在、保存修理工事38)はほぼ一巡した。せっかく修理しても留守宅となる家が少なくない。

風通しが悪いため、建物の痛みも早くなる。吹屋地区には空き家が目立ち、後継者がほとんど いない。官尾雅彦さんは、「町並み保存を始めて25年経ちますが、っい甘い言葉で地域の人た ちに話すため、住民が自分たちの力で町をっくっていこうとする自覚がやや足りないようです」

と少し手厳しい。同情的な見方をすれば、吹屋地区は、そこで生業を営み、地域社会として自 立することが可能な基盤がすでに崩れているからやむをえない、とも考えられる。

2、地域づくりへの模索

(1)岡山県高梁

 岡山県の中西部・高梁川の中流にある高梁市は、鎌倉時代の延応2年(1240)、秋庭三郎重 信が臥牛山(標高478m)に砦を築いて以来、明治維新まで約630年にわたって城下町として栄 えた。城下町は、備中松山城のある臥牛山の南、高梁川の東に発達する。城の南麓に二の丸跡、

小高下谷川と伊賀谷川(紺屋川)に挟まれて三の丸があり、三の丸の石火矢町には、武家屋敷 街が残されている。また、石火矢町の西には新町・本町の町家が連なっている。城下町・高梁 は、同時に河川交通の湊町としても繁栄し、昭和3年に伯備線が開通するまで、米・雑穀・鉄・

銅・木炭・煙草・綿などを積んだ高瀬舟が高梁川河口の玉島港とを往来していた所でもある。

 高梁における歴史・文化を活かした地域づくりは、昭和49年、武家屋敷街である石火矢町を 岡山県が「ふるさと村」に指定したことが契機となっている。39)また、昭和63年、「岡山県景 観条例」が制定され、4°)平成2年、高梁地区は岡山県景観条例に基づく「景観モデル地区」に 指定された。

 岡山県は、「ふるさと村」整備の後、昭和60年から「町並み保存地区」(現在8ヵ所が指定)

を定め、町並み保存地区整備事業を開始する。ところが、高梁市は未指定であり、県の保存の ための財政措置も期待できないことから、市は独自に町並み保存に踏み切った。

 高梁市教育委員会文化係・森宏之さんから町並み保存の話を伺った。高梁市の町並み保存は、

平成10年に「高梁市歴史的町並み保存地区整備事業補助金交付要綱」が定められ、本町地区が 重点保存地区に指定され、一定の補助金を交付する「歴史的町並み保存地区整備事業」が開始さ

(10)

れた。本町地区は、高梁川に沿って伝統的町家が建ち並ぶ商人の町として栄えた所である。

 歴史的景観の保存は、高梁市の個性豊かなまちづくりの一環として、「高梁市総合計画」(平 成8年度〜17年度)の将来都市像の基本目標の一っである「歴史と伝統を生かした文化のまち づくり」に基づいて行われている。

 高梁の町並みにっいては、平成2年度から3力年計画で文化庁の補助金を受け、町並み調査 が実施され、『高梁一城下町備中高梁の歴史的町並み』(平成5年)が刊行された。41)高梁市はk 町並み保存に当たり条例は制定せず、「補助金交付要綱」と「高梁市歴史的町並み保存地区整 備計画」を定め、整備事業を始めた。42)また、整備事業の基準として平成11年に「本町におけ

るデザインガイドライン」が作成された。

 高梁市では、平成6年度から8年度にかけて備中松山城の整備が行われ、43)観光客が増大し た。また、同年、岡山自動車道が開通して賀陽ICができ、関西から2時間圏となったため、古 い町並みを訪ねる観光客も増えて、町並み整備の気運が高まっていった。高梁市が町並み保存 地区整備事業を始めた平成10年には、町内会長を中心に「本町町づくり推進協議会」が設立さ れ、行政と地域住民との連携による地域づくりが始まった。

 本町の町並みでひときわ目を引くのは、天保14年(1843)に建てられた池上家である。池上 家は享保年間(1716〜36)に小間物屋を始めた家で、のち、高梁川水運の船主や両替商を営み 財を蓄え、明治28年から昭和37年にかけて醤油醸造業を行っていた。現在、屋敷・建物は、

「高梁市商家資料館」として活用されている。しかし、本町には空き店舗がいくっか見られる。

郊外に大型ショッピングセンターが二っ建設され、中心市街地での商売が難しくなったためで ある。さらに、本町をはじめとする中心市街地では高齢化が進み、町並み保存地区整備事業の 補助金があるものの、必ずしも積極的な利用はなされていない。高梁市は、独自の保存制度を っくったものの、以上の問題を抱えている。

(2)岡山県津山

 岡山県北部の吉井川上流に市街地が発達する津山市は、元和2年(1616)に津山城が築城さ れ×18万6,500石の城下町として骨格が形づくられた所である。44)旧美作国の中心であった津山 は、明治4年の廃藩置県で津山県となり、津山城は、明治7年から8年にかけて石垣を残して すべての建物が解体された。その後、濠を埋め立てて山裾の家老や重臣の武家屋敷地が市街地 に取り込まれたものの、出雲街道沿いの城東地区に古い町並みが残され、今日に至った。

 津山市都市建築部建築住宅課住宅まちづくり係主査・森里一雄さんから町並み保存の話を伺っ た。津山で、昔の町並みの中の建物を保存する動きが起こったのは、昭和50年、箕作院甫旧宅 が国の史跡に指定されたことがきっかけとなっている。45)そして、昭和56年、奈良国立文化財 研究所による町家の調査が実施された。昭和60年代に入ると、出雲街道沿いの城東地区を中心 とした町並み保存の動きが活性化する。昭和61年、「津山市景観整備基本計画」が策定され、

城東地区が緊急整備地区として位置づけられた。また、城東地区から保存・環境整備について の陳情が行政になされ、町並み保存が動き出した。

 昭和62年、城東地区の「町並重点保存地区」284件の住民意向調査が実施され、保存に対す る同意が得られ、「出雲街道復元計画」が策定された。翌63年には「伝統的建造物群保存対策

(11)

調査」が実施され、46)城東地区の出雲街道沿いば「町並重点整備地区」に指定され、津山市独 自の町並み保存の補助事業が動き出した。

 この動きの中で、城東地区に「城東町並連絡会」が結成され、地区住民の先進地視察が行わ れた。昭和63年の暮れには「津山市町並保存対策補助金交付要綱」が制定された♂7)この津山 市独自の町並み保存制度は、昭和62年の住民意向調査の結果を受けて生まれたものである。そ れは、保存に同意するものの、文化財保護法の「重伝建」の法的制約を受けない方向で保存を 望むという意向を8割を超える地域住民が示したことを背景にしている。そして、昭和63年暮 れから「津山市町並保存対策事業」が開始された。ng)

 平成元年、城東地区は「岡山県町並保存地区」の指定を受けた。また、同年、城東地区の町 並み整備は、手づくり郷土賞「歴史をいかした街並み」(建設省)を受賞する。この年、出雲 街道沿いで空き家となっていた梶村家住宅が津山市所有となり、修理工事を行った後、平成2 年に「城東むかし町家」として公開された。平成5年、出雲街道沿いにもう一軒の建物「作州 城東屋敷」が整備公開された。49)「作州城東屋敷」は、地域の集会施設として整備するととも に、だんじり展示館を併設し、消防機庫を設け、火の見櫓を再現して地域の拠点施設として活 用されることになった。

 森里一雄さんは話す。「旧市街地のスプロール化で郊外に出られる人も少なくありません。

また、昔の町では高齢化が進んでいて建物の改修の話が進まない場合も多くあります。この制 度は景観保全という観点からの取り組みであるため規制もなく、伝統様式で建物を建て替える 人ばかりではありません。そのため、100%昔の町並みを残すことは不可能です。また、町並 みとしての連続性に欠けることもやむをえません。津山は、規制がかからないので生活感があ る点が特徴でしょうか」と。生活感がある町並みもまた、地域の大切な価値の一っではないか。

まとめ

 以上の調査研究を通して学んだことを要約すると、以下の通りである。

 愛媛県内子では、昭和55年に上芳我邸を公開したことを契機に保存活動が芽生え、町の総合 計画で町並み保存の方針を打ち出し、昭和57年に「重伝建」選定を受けた。昭和60年の芝居小 屋「内子座」復元、昭和61年の国際シンポジウム開催は、内子の地域づくりの機運を盛り上げ た。伝統的建造物を活用した「八日市・護国町並保存センター」「町家資料館」がっくられ、

地域の建築の修理に関する相談窓口にもなっている「八日市・護国町並保存センター」を拠点 施設に地域づくりが展開した。

 徳島県脇町では、昭和59年の「脇町の文化を進める会」創設により保存に対する動きが起き、

昭和61年、「南町町並み保存会」の結成により、伝統的町並みを活かした地域づくりが進めら れた。昭和60年代初め、地域づくりの盛り上がりの中で、農協の倉庫と米倉を活用したユニー クな図書館や、ウダッをっけた風土色豊かな脇町中学校などが次々に生まれ、昭和63年に「重 伝建」選定を受けた。平成に入ると、「マイロード事業」「歴史国道整備事業」を導入して町並 みが整備されていく。平成8年、「脇町劇場」をロケ地にした映画をきっかけに、メディァに よる情報発信が全国的になされた。この「脇町劇場」は、平成10年度の「徳島県観光拠点整備 事業」で修理・保存された。さらに、同事業で、吉田家住宅の整備、道の駅「藍ランドうだっ」

(12)

の設置と、脇町では次々に歴史・文化を活かした地域づくりが展開した。

 岡山県倉敷の地域づくりは、倉敷紡績の創業者である大原家が、戦前から多大な影響を及ぼ している。倉敷の町並み保存は、昭和24年、倉敷民芸館長・外村吉之助ら地元の有識者により

「倉敷都市美協会」が発足したことが契機で、倉敷の民家・土蔵等の活用が早い時期から始め られた。昭和40年代、行政も町並み保全の取り組みを開始し、昭和43年、「倉敷市伝統美観保 存条例」を制定する。これは、全国的にみても早い時期に制定された地方自治体の景観保全に 関する条例であり、その取り組みは全国のモデルケースとして重要な意味を持った。なお、倉 敷は、昭和54年に「重伝建」選定を受けた。

 香川県塩飽笠島では、昭和50年代初めに伝統的建造物群の調査が行われたものの住民の理解 が得られず、保存活動は進まなかった。昭和57年の「笠島まち並保存協力会」発足が保存活動 のスタートで、昭和60年に「重伝建」に選定された。選定と同時に真木秀雄家の修理がなされ、

「笠島まちなみ保存センター」として活用されることになった。また、伝統的民家を活用した

「文書館」「ふれあいの館」も設置された。平成に入ると、地域づくり推進事業「歴史の道」整 備事業、「街なみ環境整備事業」で町並み景観は整備された。しかし、保存地区の集落内の家 屋は半数が空き家であり、過疎と高齢化が問題になっている。

 高知県室戸吉良川で保存運動の動きが起こったのは平成6年と、その歴史は新しい。それ以 前は、伝統的な町並みの価値が充分認識されておらず、行政主導型で町並み保存が進められた。

平成9年、「重伝建」選定を受け、翌年から修理事業が開始された。武井家住宅を活用した建物 が「町並み館」として整備され、拠点施設になった。漆喰壁の町家や土蔵が多い吉良川の町並 みを持ち伝えていくためには、伝統的な左官仕事の技術を受け継ぐ人がいないという課題があ る。また、地域の主産業である漁業・農業が衰退傾向にあることも、地域の活力を維持する上 で問題点になっている。

 岡山県吹屋では、弁柄製造を行っていた旧家の主・長尾隆氏(故人)が保存運動に情熱を傾 けたことが町並み保存の発端になった。昭和49年、岡山県により「ふるさと村整備事業」が始 まるが、時を同じくして吹屋の町並みを保存しようとする動きが起こった。「ふるさと村整備 事業」では、「郷土館」、「ふるさと村休憩所」(昭和50年)が設置され、弁柄工場を復元した

「弁柄館」(昭和51年)や、鉱山の坑道の一部を整備した「笹畝坑道」(昭和53年)がつくられ た。同時期の昭和52年、吹屋の町並みは、「重伝建」に選定された。その後、昭和60年代に入 ると「リフレッシュふるさと推進モデル事業」を導入し、吹屋の町並み周辺の文化施設・観光 施設の整備が行われた。吹屋地区では多額の資金が導入されて地域づくりが行われたものの、

塩飽笠島同様に保存地区には空き家が目立ち、過疎と高齢化が問題になっている。

 岡山県高梁では、昭和49年、武家屋敷街である石火矢町を岡山県が「ふるさと村」に指定し たことが契機となり地域づくりが始まった。また、平成2年、岡山県景観条例に基づく「景観 モデル地区」に高梁地区が指定され、景観に配慮した地域づくりが推進される。いずれも、県 主導の施策であった。平成10年、「高梁市歴史的町並み保存地区整備事業補助金交付要綱」が 定められ、本町地区が重点保存地区に指定され、ここに市独自の「歴史的町並み保存地区整備 事業」が開始された。

 岡山県津山では、昭和50年、箕作院甫旧宅が国の史跡に指定されたことを契機に保存の意識

(13)

が芽生えた。昭和60年代に入ると、出雲街道沿いの城東地区を中心とした町並み保存の動きが 活性化する。昭和61年、「津山市景観整備基本計画」が策定され、城東地区が緊急整備地区と して位置づけられた。そして、昭和63年、「津山市町並保存対策補助金交付要綱」が制定され、

市独自の整備事業が開始された。その背景に、文化財保護法の「重伝建」の法的制約を受けな い方向で保存を望むという意向を地域住民が示したことが挙げられる。平成に入ると「城東む かし町家」、「作州城東屋敷」が整備され、これらを拠点施設とする地域づくりが活性化した。

 以上をまとめると、国の「重伝建」に選定されている愛媛県内子、徳島県脇町、岡山県倉敷 は商人町としての歴史を持ち、ともに白壁の町家を活かした地域づくりに力を入れ、それを地 域活性化に結びつけて成果をあげたところとしての評価が高い。一方、香川県塩飽笠島(船乗 の島)、高知県室戸吉良川(街道・船乗りの集落)、岡山県吹屋(鉱山町)は、「重伝建」に選 定され国の制度の中で伝統的な建造物の修理がなされたものの過疎・高齢化の問題を抱え、今 後、その歴史的な町並みをいかに受け継いでいくかが大きな課題になっている。また、ともに 城下町としての歴史を持っ岡山県高梁、津山は「重伝建」に選定されていないものの、市独自 の歴史的な町並み保存の取り組みがなされ、その成果があらわれた地域である。

謝辞

 本研究は、愛知淑徳大学研究助成成果報告の一部である。研究費をいただいた大学当局に感 謝申し上げるとともに、調査研究を実施するに当たり、現地でお世話・ご教示いただいた大野 千代美さん(内子町町並地域振興課)、小笠健二氏(脇町役場産業観光室)、後藤幸功氏(丸亀 市教育委員会)、和田庫治氏(室戸市教育委員会)、中田智敏氏(倉敷市教育委員会)、官尾雅 彦氏(成羽町教育長)、森宏之氏(高梁市教育委員会)、森里一雄氏(津山市都市建築部)をは

じめ、関係者各位に感謝申し上げたい。

1)『現代社会研究科研究報告』創刊号、愛知淑徳大学現代社会研究科、平成18年3月所収。

2)たとえば、内子の近くにある大洲藩では、大洲半紙として江戸で評価の高かった和紙を専売制にし  て財源を確保するとともに、木蝋の生産にも力を入れていた。

3)八日市・護国町並保存センターでは、町並み保存資料の収集と展示をはじめ、町並み保存運動の調  査研究活動を行っており、地域づくりセンターの拠点としての役割を果たしている。

4)内子座は、昭和42年に商工会館となり、あわせて映画・演劇会場として使われてきたが、老朽化の  ため取り壊されようとしていた。復元後、年間7万人を超える見学者があり、興業等の利用も年間  80回を超える施設に甦った。

5)内子町の地域づくりに関する受賞を列記すると、以下の通りである。昭和61年・潤いのあるまちづ  くり(自治大臣表彰)、昭和61年・日本の道百選、昭和62年・第2回美しい都市づくり賞(経済同友  会表彰)、昭和63年・山本有三記念郷土文化賞、平成9年・手づくり郷土賞「歴史をいかした街並み」

 (建設大臣表彰)、平成12年・世界に開かれたまち(自治大臣表彰)、平成13年・かおり風景百選「内  子の町並と和ろうそく」(環境大臣表彰)、平成13年・第8回優秀観光地づくり賞(総務大臣表彰)、

(14)

 平成15年・男女共同参画推進(農林水産大臣表彰)。

6)町並地域振興課町並保存対策係の仕事は、町並保存対策、伝統的建造物群保存地区の保存管理に関  することが主なものである。

7)先進地視察は妻籠や白川郷に出かけている。

8)藍の栽培は、インド藍やドイッから化学染料が輸入されるとともに衰退した。

9)脇町の保存地区内には、伝統的建造物88件、環境物件(石垣や井戸等)65件、修景物件(母屋、塀  等)94件を数える。

10)「脇町の文化を進める会」では町長や校長などが中心となり脇町の文化を発掘する活動が行われて  いる。

11)伝統的建造物88件のうち半数の48棟(平成15年度現在)の修理を完了。伝統的建造物の修理は、8  割の補助(上限600万円)である。

12)「脇町劇場」は、昭和9年に芝居小屋として建設され、戦後は映画館として利用されていたが、平  成7年に幕を閉じ取り壊しが計画されていた。

13)平成6年に高速道路「徳島自動車道」が脇町まで延びたことも観光客の増加の要因である。映画  「虹をっかむ男」上映前の平成7年度の観光客数は、5〜6万人程度であったが、映画が上映された  翌年の平成9年には観光客は8万人となり、ピーク時の平成11年には28万人の観光客を数えるに至っ  た。現在、観光客は18万人に減少している(平成14年)。

14)吉田家住宅は、間口11間、奥行き30間の敷地に建っている。屋敷裏手の雁木石段は、かつて吉野川  が近くを流れていたときの名残で、降りてすぐのところが船着場になっていた。

15)「道の駅」は、1日吉田家の屋敷を通り抜けて、直接、脇町の古い町並みにアプローチする設計。

16)文安2年(1445)の「兵庫北関入舩納帳」に多数の塩飽船の名を見ることができる。

17)年番は泊・笠島の長が、庄屋は他の16浦の長が勤めた。年寄役を世襲した宮本家、入江家は、関が  原の戦いに塩飽水軍を率いて参戦し、のちに、徳川家康から領地の朱印状を受けた。

18)塩飽大工は、はじめ、岡山県や香川県に出て仕事をし、明治に入ると、大阪や神戸に出て腕を振るっ  た。

19)塩飽本島笠島地区の戸数は99世帯(平成16年)であるが、宝永7年(1704)には205戸、明治初期  も江戸時代とほぼ変わらぬ196戸の家数があり、人々はさまざまな職業に就いていた。とくに多いの  が大工であった(74戸・37.8%)。

20)「マッチョ」とは、「町」を意味する言葉だという。

21)この整備は、昭和62年に「手づくり郷土賞」「人と風土が育てた家並」を受賞。

22)一帯は、室戸阿南海岸国定公園に指定されている。室戸は、黒潮の影響を受けた温暖な気候で、ウ  バメガシなど亜熱帯性植物や海岸植物が群生する。

23)土佐漆喰は、塗った直後は黄色がかっているが、時を経ると白くなる。

24)保存地区には、伝統的建造物が163件(建造物120、工作物42、環境物件1)ある。

25)四国の中で高知県には「重伝建」がなかったので、県が力をいれて国の選定にもっていった、とも  いつo       

26)伝統的建造物を修理する場合、補助金は8割(母屋が上限800万円、付属屋が上限300万円、門・塀、

 環境物件が上限400万円)である。平成10年度から16年度の7年間で付属屋等を含めて41件の建造物

(15)

 が修理された。非伝統的建造物の修景は手付かずで、町並みとしての統一感に欠ける。

27)武井家住宅は、明治44年建築。妻壁に使われている煉瓦は、京阪神に荷物を運んだ帰りに、船の底  に積んで持ち帰ったものという。

28)たとえば、倉敷紡績2代目社長を務めた大原孫三郎(総一郎の父)は、「大原奨学会」、「倉紡学校」

 などを創設して数々の社会貢献を行うとともに、私財を投じて、倉敷中央病院(大正2年)、大原社  会問題研究所(大正8年)、倉敷労働科学研究所(大正10年)、大原農業研究所(大正3年)、大原美  術館(昭和5年)などを設立して、企業利益の社会還元を行った。

29)代表的なものをあげると、①倉敷民芸館1昭和23年に大原家の3棟の米蔵を改装して開館。②倉敷  考古館:昭和25年に旧小山家の土蔵を改装して開館。③旅館「くらしき」:昭和31年に大原総一郎  が民家を改装。④旅館「鶴形」:旧小山家の母屋(江戸時代中期の民家)を改装。⑤観光案内所  「倉敷館」:昭和46年に旧倉敷町役場を改修。⑥倉敷アイビースクエア:倉敷紡績工場を昭和49年に  再生・活用。

30)「伝統美観」とは、「本市における往時の政治、経済及び文化の中心として歴史上の意義を有し、本  市固有の建造物、遺跡等が周囲の自然的環境と一体をなして、歴史的景観を形成している状況をい  う」と定義されている。

31)有隣荘を設計した児島虎次郎は1920〜30年代に中国に渡っている。この影響があるものと考えられ  る。

32)泉屋は、排水工事に着手し、貞享3年(1686)、疎水大坑道を完成させた。これにより吹屋銅山の  産出量は飛躍的に増加した。

33)岩崎家は、排水処理を解決するとともに、精錬所の近代化や運搬専用のトロッコ軌道敷設などを行っ  た。最盛期の大正初期、銅山で働く従業員は1,200人にのぼり、銅山の本部が置かれた坂本地区には、

 社宅や病院をはじめ劇場まで設けられた。

34)昭和49年、最後の製造業業者である田村家(福岡屋)の廃業により、吹屋の弁柄生産は幕を閉じた。

35)保存地区内の指定物件は、建築物77棟、うち母屋54棟、土蔵15棟、その他8棟である。

36)その後、昭和60年度から3ヵ年をかけて文化庁の補助事業として防災事業が実施され、消火栓17基  が設置された。「吹屋町並保存会」は、毎月、消火栓の点検を行うとともに、成羽町消防団吹屋分団  と合同で消防訓練を行っている。

37)成羽町教育委員会『備中吹屋一伝統的建造物群見直し調査報告書一』(平成3年3月刊行)による  と、平成2年度までに保存修理44件、修景修理14件の計58棟の保存修理事業が行われ、昭和51年度  から15年間で費やした経費は約3億円(国庫補助61%、県補助金11%、町財源22%、個人負担金6  %)を要した。また、「ふるさと村整備事業」では約5千700万円、「リフレッシュふるさと推進モデ  ル事業」では2億円余りの事業費が費やされた。平成15年現在、54世帯123人が暮らす吹屋地区に、

 莫大な資金が導入されたのである。

38)保存修理費用の内訳は、限度額の上限なしの国補助65%、県と町の補助25%、個人負担10%となっ  ている。

39)「ふるさと村」の整備事業は、県内の優れた風物を保存し、次代に継承するため集落や歴史の息づ  く町並みを郷土の歴史景観として保存復元する目的で行われた。

40)この景観条例に基づき、平成元年、岡山県は、景観に配慮した公共事業を行う上での指針となる

(16)

 「公共事業等景観形成基準」を策定した。

41)調査の目的は、伊賀谷川(紺屋川)筋以北の本町・新町・石火矢町地区を中心とした城下町の伝統  を持っ高梁市の町並みを保全し、特色ある地域づくりを進め、活性化の方策を探ることであった。

42)補助対象地区は本町地区で、補助対象物件は旧松山往来沿いの建築物等である。伝統的建築物の保  存修理修景には工事費の3/4(限度額なし)が、伝統的建築物以外の建築物(新築を含む)の修景には  150万円を限度額に工事費の3/4が市から補助金が出る制度である。この整備事業により、平成15年  現在、伝統的建築物の保存修理修景8件、伝統的建築物以外の建築物の修景3件が行われた。

43)平成9年には本丸南御門をはじめ、東御門・腕木御門・路地門・五の平櫓・六の平櫓・土塀などが  復元された。

44)津山は、慶長8年(1603)に森忠政が美作に入封し、さらに元禄11年(1698)、松平長矩が入封し  10万石の城下町となった。

45)昭和51年に解体修理が行われ、翌52年に公開が始まった。

46)この調査により、旧街道沿い1.2kmの区間に約270戸の家屋のうち約160戸の歴史的な建物が残っ  ていることが明らかになった。

47)補助金は、伝統的建築物の修理に上限500万円、それ以外の建築物の修景に上限200万円、石垣や生  垣の復旧に上限100万円を限度に経費の9割であった。9割の補助率は平成8年度まで継続し、平成  9年度は補助率7割、平成10年度以降は補助率5割に引き下げられた。

48)「津山市町並保存対策事業」は、平成14年で15年目を迎えた。この事業で修理された伝統的建築物  は40件、修景された家屋は33件、復旧物件1件の合計73件を数える(出雲街道沿いの町家264件のう  ち3割弱にあたる)。津山市が15年間で助成した費用の総額は2億4千万円余である。「岡山県町並  保存地区」の指定を受けた平成元年からは岡山県からの補助金も加わり、約7千万円の補助金が支  出された。所有者負担を含めた15年間の総事業額は3億9千7百万円余であり、県・市からの助成  額の平均は78%となっている。この「津山市町並保存対策事業」により旧街道沿いの町並み景観が  維持されたといえる。

49)明治時代に小学校が建てられた敷地は、昭和に入り津山工芸専修学校や青年学校、保育園として利  用されてきた。

参照

関連したドキュメント

地域の感染状況等に応じて、知事の判断により、 「入場をする者の 整理等」 「入場をする者に対するマスクの着用の周知」

三好市三野体育館 三好市三野町芝生 1293 番地 30 三好市屋内ゲートボール場「すぱーく三野」 三好市三野町芝生 1283 番地 28 三好市三野サッカー場

(4) 「舶用品に関する海外調査」では、オランダ及びギリシャにおける救命艇の整備の現状に ついて、IMBVbv 社(ロッテルダム)、Benemar 社(アテネ)、Safety

・ 化学設備等の改造等の作業にお ける設備の分解又は設備の内部 への立入りを関係請負人に行わせ

一方で、平成 24 年(2014)年 11

(1) As a regional characteristic of Alvesta, because of its strong community foundation based on its small size, a high level of consciousness regarding establishing a welfare living

保税地域における適正な貨物管理のため、関税法基本通達34の2-9(社内管理

自主事業 通年 岡山県 5名 岡山県内住民 99,282 円 定款の事業名 岡山県内の地域・集落における課題解決のための政策提言事業.