ポ ウ の 地形 学 的想 像 力
i言語と心象のあいだで
福田立明
1音声記号心象からタブローヘ
エドガー・アラン・ポウ(国自ひq①同≧一鋤昌勺O①ド◎QO⑩1蒔㊤)
の小説は︑作者みずからが望んだようには審美的ではな
いとしても︑すくなくともひとつの永続的に消しがたい
鮮烈なヴィジョンを脳裏に喚び起こす作品が多い︒その
視覚的心像(≦の⊆巴ぎ餌ひqΦ)は︑月光に照らし出される
海上の大渦潮だったり︑湖面に飲み込まれるように崩れ
落ちる大邸宅だったり︑女性の死体の頭上で真っ赤な口
を開けて咆哮する黒猫だったりもする︒こうしたイメジ
ャリーは︑フランス現象学者の表現を借りると︑読者の
感情の共鳴と反響によって︑たましいのなかにまで目覚
める詩的創造の真の覚醒を呼び起こす(バシュラール﹃空間﹄H︒︒点㊤)︒そこに劇的要素を認めれば︑それはタ
ブロー(§げ鍵絵画/劇的場面)となる︒
詩の構成原理について︑ポウがあらかじめ伝達すべき
印象︑あるいは効果の意図的選択を優先(すると公言) したことは︑よく知られている︒詩作においてなされる
選 択 の 要 素 は ︑ 例 示 さ れ る ﹁ 大 鴉 ﹂ (. 夢 ① 幻 9 < ① 口 ︑. H QQ 心 窃 )
に限定されるとは限らないが︑長さ(短)︑領域(美)︑
調子(悲哀)の三つである︒詩が﹁短く﹂︑﹁美しく﹂あ
るべきことはいうまでもないが︑ここで領域として挙げ
られる詩の享受体験が美の観照にあり︑その効果が魂の
高揚にあるとされるとき︑そこへ導く上で﹁悲哀﹂とい
う情調が経路として設けられることは︑こころに留めて
おいてよかろう︒詩作の効果の上で︑もっとも直接に情
動を促す感覚は聴覚にあり︑そこで詩人がまず思い浮か
べたのは︑﹁ネヴァモァー..口①<奠ヨoお︑︑﹂という憂愁の響
きを帯びる畳句︑折り返し句であった(勺oρ⑦ミミき譱
ド零$)︒
すでに﹁いくつかのヴィジョンを投射する﹂声として︑
音声的表現の重要性がガストン・バシュラール(O帥ω什O昌しdgOげΦ一鋤﹃α)により指摘されてから久しい︒﹁も
しも流音(尸βP﹃)の音素を持つあらゆる語を集める
ことができれば︑まったく自然に水の風景が得られるで
シニフィアンあろう﹂(﹃水と夢﹄N謡)と︑音声記号表記による知覚
的イメージ喚起力が強調される︒ここでは︑音声/聴覚
的想像力を帯びるシニフィアンの優位は決定的である︒
二十世紀の現象学的批評からさかのぼってポウの詩(論)
を見ると︑彼の詩作にあって優先して選択されたのは︑
情調と結びついた聴覚的イメージであったことがわか
る︒しかしながらグーテンベルグ以後の非ロ承文学︑こ
とに小説以後の文学伝統では︑表音文字記号は音声表現
から生成/転記されると同時に︑こんどは逆に文字記号
が音声表現を再生成してヴィジョンを喚起するものとな
る︒
ここで多様きわまりないイメジャリーの系譜学に踏み
込むのは無謀となりかねないので他書への参照を願うと
して(ミッチェル目一‑H①)︑いわば文字表記は︑それが
潜在的に有する言語イメージ︑音声記号心象(<①吾巴
巨超①>08)を通して︑心的イメージや知覚的イメージ
を喚起することいまの文脈に即していえば︑ことば
が知覚的イメージ中の聴覚的心像とともに視覚的心像を
も(再)生成する潜勢力を帯びることに留意するにとど
めよう︒バシュラールのようにとくに詩的言語の音声的
起源を問題とする場合には︑視覚的想像力に対する音声
言語的想像力の勝利を写実主義に対する創造的想像力の
勝利と考えることもできようが︑創造的想像力は小説言
語から視覚的イメージを(再)形成する上でも︑やはり 大きな役割を果たすことに変わりはない︒ポウの﹁大鴉﹂
の場合に視覚的イメージよりも音声的イメージが先行し
たのは︑詩という表現ジャンルからして当然のこと︒そ
れでもなお小説読みの嗜好からすれば︑ここにも強烈な
視覚的イメージ︑もしくは心的イメージとしての幻影が
浮かび上がるのである︒それは.︑昌①<280お..という折り
返し句ほどには簡潔で永続的な聴覚効果ではないとして
も︑やはり魂に刻印されて消しがたい視覚残像として︒
私の場合︑それはパラス/アテーナー(勺亀器\簿び窪9︒)
女神像の頭上にとまる大鴉というタブローである︒
2 イ メ ー ジ を 読 む / 語 る
通 俗 文 学 と し て の サ ブ ・リ タ ラ チ ュ ア ー を 論 ず る エ ッ
セ イ ﹁ 倫 理 学 と 美 学 よ り エ ク ス タ テ ィ ッ ク ス (法 悦 学 )
へ﹂ (( .聞 ﹃ O 鬥P︼ 円 色 7 同O ω鋤 口 α﹀ ① 色 7 ① 叶幽 O QD 樽O国 O ω $菖 O ω 導導) の な か で ︑
レ ズ リ ー ・フ ィ ー ド ラ ー (H ︑① ω 自 ① 閏 同① 匹 一① ﹁ ) は 恐 怖 / 好
色 空 想 小 説 が 好 ま れ る 理 由 を ︑ そ れ が 読 者 に つ い 意 図 し
な い 肉 体 的 反 応 を 惹 き 起 こ す 力 を 持 つ 点 に 求 め て い る ︒
そ の よ う な 無 意 識 的 反 応 は ︑ ﹁ 文 化 変 容 に 先 立 っ て 存 在
す る の で あ っ て ︑ 意 識 的 に 身 に つ け た 行 動 原 理 に よ っ て
和 ら げ ら れ よ う が ︑ ま った く は 抑 え ら れ る こ と は な い ﹂
(噸 § ミ 蕁 恥 自 欝 ミ ミ ミ ご ︒︒ ① ) ︒ こ の よ う な 忘 我 状 態 は ︑ 心
身の通常の限界が消滅する意識のまったくの変化︑つま
りエクスタシス(①oω$ω芭そのものであるという(お㊤)︒
ミュトス的物語言説において︑詩的言語で記されたテク
ストの読解過程には︑ポウが重視した音調︑つまりこと
ばの音質︑抑揚︑リズムなどからなる聴覚的イメージの
呪術的作用とともに︑情緒的負荷を帯びた言語心象の視
覚的心像化という活性化作業が含まれるであろう︒想像
力により具象化されるこの聴覚的イメージと視覚的イメ
ージとがあいまって︑読者をある法悦/恍惚状態へと導
くのだと思われる︒
ポウがここでいうサブ・リタラチュア(通俗文学)に
属するかどうかを論じる必要はいささかも感じないが︑
エクスタシスとのかかわりでいえば︑読者にきわめて高
度の感覚的反応を惹き起こす幻想小説家だった︒それだ
け雑誌ジャーナリズム/大衆文化興隆期の自覚的な作家
であったといえる︒冒頭の段落で例示した﹁大渦巻への
降下﹂(.圦\r︼)ΦωO①]Pけμ]P叶O些Φζ鋤①}ω辞﹁ObP鴇鴇HO◎卜H)︑﹁アッ
シ ャ ー 家 の 崩 壊 ﹂ ( 叺夢 ① 聞 鋤 印 O h 窪 ① 剛 宀 O = の Φ O h d ω び① ﹃ 鴇鴇 ド ○O GQ O )
や ﹁ 黒 猫 ﹂ (^罍 Φ Ud一 9 0 犀 ( )9 鴨 ℃H OO 卜 ○○ ) な ど ︑ 劇 的 な タ ブ ロ
ーによって記憶されるポウの代表作には︑たしかに原初
的 な 知 覚 反 応 を 惹 き 起 こ す 海 流 の 轟 き や ︑ 石 造 建 築 物 の
崩 壊 音 や ︑ 猫 の 咆 哮 な ど の聴 覚 的 イ メ ー ジ が 組 み 込 ま れ
て い る ︒ 初 期 の ﹁ フ ォ リ オ ・ク ラ ブ の 物 語 ﹂ (↓巴o ω o h
閏 o ぎ Ω 仁 び H O︒ ︒︒ H‑ ︒︒ α ) の な か の 一 編 ﹁ 影 ひ と つ の 寓 話 ﹂
( ︑帆ω げ O α O ≦1 > 勺 9 ﹃9 び 一① 博︑ 一 〇◎ GO α ) で は ︑ 星 占 術 上 の 厄 年 に
疫 病 を 孤 絶 し た 部 屋 で 逃 れ よ う と し た 七 人 の 男 が ︑ 床 に
横 た わ る ひ と つ の 死 骸 の ﹁ 声 ﹂ に 慄 く と い う 描 出 で 閉 じ
ら れ る ︒ そ の ﹁ 声 ﹂ は そ こ に 横 た わ る ゾ イ ラ ス (N o 旨 ω )
な る ひ と り の 死 者 の 声 で は な く ︑ す で に 世 を 去 った 忘 れ
も し な い多 数 の 知 人 の 声 だ っ た と い う 驚 愕 (竃 菩 び o #
お 一 ) ︒ こ こ に は ︑ 通 俗 文 学 の 扇 情 性 と と も に ︑ 死 神 の 侵
入 か ら 護 ら れ た 隔 離 領 域 の 確 保 と いう 儀 式 的 行 為 の モ テ
ィ ー フ と ︑ 自 己 同 一 性 が 死 に 際 し て 失 わ れ る か 否 か と い
う ﹁ 個 性 の 原 理 ﹂ (奪 ミミ 骨ミ ミ ミ ミ ミ ミ§ § ミ ゜︒︑ .卜 ︒ °︒ H ) の
モ テ ィ ー フ と が と も に 萌 芽 の 形 で 含 み 込 ま れ て い る ︒ 前
者 は や は り 時 を 告 げ 報 せ る 大 時 計 の 音 と い う 聴 覚 的 イ メ
ー ジ を 持 つ ﹁ 赤 死 病 の 仮 面 ﹂ (︑ 甫 げ Φ ζ 9 ω ρ 仁 ① o h 夢 ① 国 ① 匹
UΦ 讐げ ︑︑ H O︒ お ) へと ︑ ま た 後 者 は 死 者 の つ ぶ や き 声 と い
う 聴 覚 的 イ メ ー ジ を 持 つ ﹁ モ レ ラ ﹂ (.. 竃 O ﹃ ① = 9Ω .︑ H ◎◎ QO α ) や
﹁ 催 眠 術 の 啓 示 ﹂ (帆 .ζ Φ ω b 日 Φ 鴨 一〇 菊① < ① 一① 什博 O ]P 矯鴇 ド ○○ 昏 卜 ) に つ な
が る モ テ ィ ー フ を 持 つ原 型 的 掌 編 と も 見 ら れ る ︒
これらの四編は︑指摘した聴覚的イメージとともに︑
すべてその基底に死(神)というもっともセンセイショ
ナルなヴィジョンを含んでいる︒生と死︑此岸と彼岸と
が隣り合う境界線上にあって︑生の側︑こちら岸からの
イメージによって語られる物語である︒いわば生者圏の
フロンティアというトポスが設定されるという点におい
て︑ポウの文学言説は一種特有な地形学的アメリカニズ
ム構造を帯びているといえる︒むろん地上的存在からの
飛翔を夢見た巨人主義的ロマンティシズムの時代思潮に
おける一言説であってみれば︑ポウがこのいわば禁じら
れた境界線をも侵犯し︑あちら岸︑死の側から両岸の時
リプレゼント空イメージを私たちの眼前に(再)現前させようとした
複数の霊魂による対話編を残していることに驚く必要は
ないのかもしれない︒フィードラーのいうような文学的
エクスタシスを求める読者が︑ここまで概念化された﹁倫理学﹂と﹁美学﹂のテクストへ向かうのか︑それと
もその点では格が落ちるものの︑やはりエクスタシーを
もたらす通俗文学へ向かうのかは︑純粋に選択の問題と
いってよい︒しかし読者が︑ではなく︑作者が︑経たで
あろうエクスタシーの性質を考えるとき︑テクストの多
様性はきわめて示唆的なものとなる︒ なぜならば︑口述にせよ記述にせよ︑あらゆる系統的
記述表現は択一的選択の結果にほかならず︑表記される
に至らなかった他の選択肢はすべて無言の深淵に取り残
され︑現前化されることはないはずだからである︒その
意味で顕在するテクストはある種の潜在テクストという
べきダブルを持つといえる(Uu仁象o犀\Hω臼×ε︒ポウの
﹁美女再生譚﹂︑﹁対話編﹂︑﹁風景庭園譚﹂などの小説サ
ブ・ジャンルは︑ある特定のモティーフを伝えるイメジ
ャリーの散文表現体のヴァリアントと考えてもよいのか
もしれない︒
文学読者として齢を重ねるにつれ激しい情緒的興奮を
起こす物語言説からは身を退きたくなるとき︑私たちは
ドラマティックな要素が希薄な随想的散文に向かうこと
になる︒さいわいなことにポウの﹁風景庭園譚﹂は︑選
集編者に﹁悲嘆も一時的気分じみたところもない純粋な
美の散文物語﹂(冨節びびO#刈OO)という印象を与える︒は
たしてその通りなのかどうかを知るのはあとのこととし
て︑劇的タブローの印象が希薄と思われている風景庭園
譚テクストを選び出し︑詩的/小説的言説が帯びる文字
言語心象の潜勢力︑もう少し修辞学的にいえば︑そのよ
うな言説の比喩表象作用を考えてみるのは︑イメジャリ
1の反響という読書作業の現象学の一面に光をあてるこ
とになるかもしれない︒小説言説における言語心象の表
出過程を窺うことは︑端的にいえば︑イメージを読むと
いう心理療法家の作業を倣うことであり︑ことに地形学
的イメージという点からすれば︑箱庭療法のイメージ解
読とつながる面もあろうかと思う(河合一︒︒ら)︒しかし
ここでは︑イメージの起源や抑圧の過程を帰納的に探求
することが一義的な目的ではない︒風景庭園譚のイメジ
ャリーへの共鳴と反響により︑そこに封じ込められた願
望や祈願を想像力によって共有し︑私たちもまた詩的心
象を語る存在に至ることである︒
3地霊のトポス
小説の背景となる特定の土地とその風土・景観は︑あ
る作家にとって創作行為の核をなす情緒の投影対象とし
てテクストの本質と不可分なものであるのに︑別のタイ
プの作家にはたんに物語の雰囲気や装飾など︑表現効果
の道具に過ぎないように見えることがある︒前者はエミ
リイ・ブロンテ(国日ロ団︼W吋o昌厳)︑トーマス・バーディ
(罠 o 旨 9 ω 口錠 身 ) か ら ジ ョ イ ス (冨 ヨ ① ω﹄ o 団 o ① ) ︑ ウ ィ
リ ア ム ・フ ォ ー ク ナ ー (ぐ く 口 犀 9 目 国 僧 ⊆ 一犀 昌 ① ﹃ ) な ど 二 十 世
紀作家に至るまで念頭に浮かびやすいが︑一般にポウは数多くない後者のタイプの作家と考えられている︒事実︑
彼の小説のセッティングのもとを語ることすらまったく
の愚行だとする断定がある(守ひqぎミ①‑刈刈)︒その一方
では︑﹁ポウの創作的作品中の地名﹂というリスト(勺o葺P︑.コ8ΦZ9日①ω︑︑お)さえ用意されていて︑実際
ポーリンの実証主義的著作﹃ポウにおける諸発見﹄では︑
土地や風景についてのテクスト背景研究が活用されるこ
と に な る (㊤ " .︑勺o Φ 9 巳 浮 ① 穿 ① ㌦ . 一 臆 ‑ ① q ) ︒
それでは︑植民地から独立国家になって程ない時期
(昌︒︒8年)に旅役者の両親の滞在地ボストンに生まれ︑
南北戦争前の南部都市リッチモンドと養父母一家の旅先
スコットランド/イングランドで育ち︑東部のボルティ
モア︑フィラデルフィア︑ニューヨークなどの諸都市を
移り住んだ作家が︑新世界の物語形成の﹁場﹂として必
要としたものは何であったか︒自国文学伝統の偉大な詩
人/作家としてポウを早くに認めた二十世紀のアメリカ
詩人ウィリアムズ(ぐ雫臣自9白○①村一〇のノ<μ=団P日ω)は︑それ
は﹁どの特定な場所ともつながりを持たぬところ︑だか
らこそ彼がいたところでなければならなかった﹂(芝゜○
耄巳冨白ωb︒NO)と逆説的な所見を述べ︑さらに自分とほ