明治前期 長崎県の実業教育施策
―県勧業施策と関連して―
附 録
明治中期以降の長崎県実業教育発達概観
内山克巳・増田史郎亮
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云うまでもなく,殊に明治初期の教育の焦点は小学校の設置と就学にあった.長崎県にあって も叉当局の主要関心事はこXにあったし,従って之に関連する教員養成の問題であった.この 事は,県が文部省に年々報告する学事年報中「将来学事進歩ノ要件」「将来学事施設上須要ノ 件」に掲げられたものを見ても明らかである.これは全国的にも同様ではあったがそれでも中に
は実業教育その他の教育面に就ての希望や計画も含まれてはいる.
長崎県の場合,年…報の上では実業学校の設立希望に就てはようやく16,17年ごろに公的な表明 として報告されているに過ぎず(第11・12・13年報),従前の報告は主として小学校に関連するも
のであった.況んや,10年代の中・後期の松方緊縮財政々策に伴う地方財政の逼迫ということも あったが,勧業面の努力も不充分であった上に,之に加うるに次に掲げるような全国的にも最低 位乃至これに近い教育水準や学令就学率に出発した明治前期にあっては,実業教育にまで着手する十分の余裕もなかったと思われる.
長崎県一以下現佐賀県を含まない一にあっては,都邑部は別として,離島へき地を多数含ん でいたことやその他の原因もあろうが,5年学制出発ごろの県人二百人中の学令就学率は約0.33
%に姶り2.6%から3.3%程度であったし,また広く一般公私学就学生徒の人口百人中の割合は
明治6年では僅かに0.35%で,全国平均4.24%に比して遙かに下廻っており,全国63県中不明の
5県を除き最低位にあった(註1).明治7年は下位より9番目であったが,それでも全国平均
5.17%に対して2.78%,8年でも全国平均5.76%に対し3.29%の低率という極めて低い教育水準
であった.また更に学令人口に対する学令就学率でも,6年に於て全国平均28.13%に対して1.65%と驚くべき低率で出発した.これは初年度の学校設立数の立遅れにもよるものと思われる
が,また受業料・寄付金・文部省委托金・諸収入を加えて毎口比例1銭5厘という,不明の5県を除いて全国58県中耳低位に次ぐ学費歳入で出発したこととも相応するが(註2),学校数が急
増した明治7,8,9年でも同様著しい低率であり,7年では全国平均32.30%に対し17.10%,8
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年では35.38%に対し18.18%,9年では38.31%に対し26.05%であった(註3),その後,16年
5月現佐賀県が分離設置されるまでの期間の,現長崎県全体の該資料は見出し難いが,16年以降 も同様の傾向が30年前後まで続いている,それは 頻年農民ノ生活上頗ル困難ヲ告ケ村落無智ノ 小民動モスレハ狼二学費ヲ軽滅シ以テー時肩ヲ息ハントス.為二学務委員モ之二動カサレテ或ハ 教員ノ俸給ヲ削り或ハ解罷スル等ノ事往々之アリ (註4)と県が報告するほどの,地方財政の逼迫,別けても農民層の困窮に帰因するものでもあったろう.
従って,初等教育では18年県会で 長崎県ノ教育ハ之ヲ他県二二シ最下等二位シ学事全ク二二 墜ルノ状態、、と評せられることにもなったが,実業教育関係に関しても,丈部省視察官をして 管内特有ノ産物亦多カラガルニアラザレバ其二二就テ卑近ノ教則ヲ設ケ工業其他Z学科ヲ教授 スルノ急務タルハ敢テ医学科ノミニアラザルベント信ズレドモ注意スルモノナキが如シ と云わ しめる状況であった(註5).もっとも県内長崎区の如きは,それが明治以前長くわが国唯一の 通商開港面一商人,貿易の町一であったことから,維新前は私塾でも珠算が盛んであったが
(註6)明治期になっても同様であった.この珠算に就て 該港ハ従来商頁ノ徒多キヲ以テ其珠 算ヲ善スル者頗ル多シ是ヲ以テ生徒ノ珠算二長スルハ特旧著シキモノァリ且現今今一ッ面会ト 称スルモノアリ善ク市中二行ハル蓋シ其事タル日曜日ノ如キ休講ノ日ヲ選ヒ傍近ノ少年輩数十名 相集リ面戸其術ノ精租巧拙ヲ計量スルニ在リ…… (註7)と云われるぐらいであった.また同 誌には,曽ってシーボルトが第2回帰国後再度日本渡航を企てた際,長崎に商業会社附属の商業 学校を設立する計画があったと云われている(註8).こうした歴史的伝統の地長崎の町だけに は,公立としては全国的にも比較的早く且つ当時九州では唯一の公立商業学校が生れている.ま た農業教育も,それが県の主要産業の一つでもあったせいもあって,それに国や県の勧農乃至農 学校設立奨励も加って,一時的ではあるが町村連合立の農学校も作られた.しかし,それは全国 的傾向に副うものであったし,この種公立としては稀有ではあったが公私学校合しての設立年度 から云えば必ずしも特に早いものではない(註9).そうして,農・商学校とも明治16,17年の 農,商学校通則の公布に刺戟されたものであり,而かも10年代後期に漸く発生し且つ当時の財政
経済事情によるにしても瞬時にして消え去ったものである.
しかし,長崎県の実業教育に対する関心は,少なくとも希望としては,前述の16,17年ごろの
学事年報…報告は別として,それより早く13年3,月18日付の文部省からの内達,即ち教育並に其事
務上に付ての意見詳細具陳せよとの内達に対する県令内海忠勝名の意見書の中に見えていると云 われる.これは,次に掲げられているような,小学補助金を広く教育補助金と改称して活用の便を地方長官に与えられたい,それによって職業学校を設けたいと云うのであったという(註10),
……補助ヲ要スルノ最モ切ナルモノハ小学ノ外二在ランカ今此活用ノ便利ヲ得レハ本県二三 テハ二二為ス所アラントス夫レ職業学校ヲ設ケ士民ヲシテ利用厚生ノ学ヲ講セシムルハ今日ノ 急務ニシテニ月廿七日ノ 二二ラ舞スルニ及ンテ益々二言ノ地方二必要ナルコトヲ信セリ…
これが,既述のような第11,12,13年文部省年報の中の,一連の長崎県学事年…報として公的な 希望事項報告の端緒となったものと思われる.
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こう云った県当局の関心は,13年ごろから正忌に第一種農学校設置の希望と奨励をし,或は獣 医学校の設置も計画実施し,一般に商業学校も含めて実業に関する教育の振起に留意し始めたよ うである(註11),それはまた,明治14年県会における勧業費審議の過程において一議員(田口 費)から,従来設置の勧業委員制に代えて農学校1校を創設されたいとの建議案が,その年度の 具体的な創設経費概算を付して提案された.これは賛成者少数で廃案となったが,理事者側にお いても 農学校ノ設置ノコトハ県庁二於テモ取調中ナレトモ教員ソノ人二乏シキヨリ未タ設立ノ 機二至ラス他日必ス設置スル見込ナリ (註12)と答えているように,当局もその設置に関心は 示してはいる.しかし農学校が始めて唯一つ県立として誕生したのは,遙かに遅れて明治40年で あり,それも当時の県人口(37年12月現在)の約半数を占めた農業並に兼業農業従事者に対する
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一種農学校である.連合町村立としては当時として稀らしい事例であった.県が勧農上からかX る農学校の設立を奨励したことは,農商務卿に対する次のような西洋摸造農具貸与願の上申書の 中にも窺われる.
県は18年1月14日付で洋式農…具の借用願を農商務卿に提出したが,同年2月4日付で「上申 之趣虚聞届事」として拒否された(註13).ところが折返し3月4日付甲勧第467号を以て再度
上申し,その中に前回と同趣意の勧農理由のほかに農学校設立奨励のことを新に加えている.
この事が中央当局を動かしたかどうかは不明であるが,4月6日付で5ケ年期限付で直ちに許
可されている.その上申書は次の通りであった.
本年1,月14日付甲勧第57号ヲ以テ洋式農具御忌与之義上申藩候処難被聞届旨御指令有之抑本 県下ノ農業タル追々萎靡スルノ徴ナキニアラス目下農家一般農業ノ利益ナキヨリ或ハ土地ノ貴
重ヲ棄テ顧ミサルノ:景況ニテ実二遺憾忌事二有之依然トシテ改良ヲ加サルナリ又一段農家ノ風
トシテ自ラ奮進改良ノ意想ヲ惹起スルニ至ラス……然ルニ各地二農学校ノ設立方ヲ大二奨励シ 目今既二開立シタル箇所モ有之候得共民設二係ルヲ以テ其費用ハ到底洋式農具等ノ全備ヲ望ムヘカラス又改良ニハ主トシテ其利益ヲ示スハ最急要務ト思考致シ候二三……(註14).
一一方この頃の県学事年報には、、農学校ハ其設置ヲ各郡二奨励シ既二壱岐ノ如キハ連合町村立ヲ
以テ第一種農学校ヲ設ケ……目下準備中二係ル工商ノ学校ハ未タ設ケスト錐モ長崎区ノ如キハ内 外商業ノ要衡ナレハ緩急ヲ図りーツノ商業学校ヲ開設セサルヘカラス (註15)とか 壱岐石田 二二南松浦ニテ農学校ヲ設立,長崎区ニハ商業学校ヲ設立シタリ又北松浦郡ニハ目下農学校設立ノ準備中ナリ (註16)と,漸く実業学校の設置奨励に意力を示し始めている。
このうち壱岐農学校(石田郡武生水村)は壱岐4郡連合して設置の評決をなし,連合町村費 をもって17年11,月設置の上郡長之を管理することとし,さきに(17年3月)廃止された県立壱 岐中学校の遺財を貸与されて創設された.本科(2年)・予科(2年)の2科を置き農家の子
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弟にして専ら学業に就かんとする者を養成すとある.之は16年4月11日公布の農学校通則によ る第一種農学校の規定の趣旨に副うものである.当初校長1,教員3,生徒50(本科11,予科 39)で,18年6月現在では本科7,予科41計48名の生徒であった.経費は都連合町村の徴収金 を以て麦愛し,当初は1,322円5銭9厘となっている.実習附属地として田2段7歩,借地2 畝19歩,畑29歩であったという.福江農学校(南松浦郡福江村)は,同じく17年廃止された県 立福江中学校の遺財の貸与を受け,18年7月設立で9,月1日開校式を挙げた.組織は壱岐農学
校と同様であり,生徒は当時予科50名で経:費の財源は壱岐と同じ,19年4月設立の平戸農…学校
(2ケ年一北松浦郡平戸村)も,経費の一部に寄付金も加っているが同様の経過と内容である
(註17).
なお廃校ごろの19年1月調では,以上3校の教員,生徒数,経費は次の通りであったという
(カッコ内は19年7月1日現在数).
教員 生徒 一ケ年度経費
壱 ll皮 4(6) 50(30) 1,309,550円
福 江 4 (4) 60 (69) 1,419,200
平戸 2(3) 60(18) 1,138,420
学科計画を附記すると,本科は修身・算術・幾何・物理・化学・動植物・耕種:・養畜・養蚕・
製糖・農業経済・農業簿記,予科では修身・読書・習字・算術・地理・図画・動植物・化学・
生理・幾何・経済・体操が挙げられている(註18),
しかし乍ら・上記3校とも19矧麟校馴廃止のこともあり・また全国的なデフレ剛シ・
ソによる打撃を受け,長崎県も 奎融閉塞窮民衣食住二困難ヲ現セリ.(註19)と云われた時で もあって,この財政経済事情など加って19年限りで廃止され,何れも高等小学校に合併されるに 至っている.その後30年に,南松浦郡総村組合立五島簡易農学校の設置認可もあったが教員にそ
の人を得ずして開校されるに至らず,県内中等農業教育は明治40年まで空白が続いた.
次に同じく勧農の線に副うものとして,明治前期に設置せられたものに獣医学校(当初県立長 崎医学校獣医学部)がある.但し10年代には事実上開業はされていない.これは当時県下で牛馬 の流行病が時々発生し,殊に長崎県(中でも特に宇久島・小値賀・平島及び附属諸島)は全国的 に見て著しい惨害を受け,これに燈れる牛馬の数が驚くべきものがあったことから獣医養成の必 要を感じたことによる.そして従来の通称獣医(馬面,伯楽)と称する者は,明治14年忌於て県 下で231名もあり,これは全国において鹿児島・大分・広島・福岡の順に次ぐ多数であったが多
くは無学の徒であって僅かに姓名を記し得る程度の者もあり,その治療法の知識も貧弱であった ことから(註20),彼等牛馬医を改良せんとして企てられたものでもあった。因みに,県立長崎 医学校獣医学部が卒業生を出さない以前の県内有資格者は,開業免許者4名,2ケ年有効の仮免 許者は50名であったと云う(註21),ところで獣医学校の設立に就ては,中央当局出張員村上前 信による獣医学講習所設立ないし各面より1名の有志者を下総獣医分科に派遣修業せしめられた いとの勧告もあったが,13年に駒場農学校卒業生獣医深見次郎(註一13年県勧業課御用掛拝令
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後に学務課に転じ長崎医学校教諭として動植物学を教授)が,諸員に謀って賛成を得,原案を
作って之を県会に提出し,再び賛成を得て獣医学校開設の旨を公告したのに姶ると云われ・る(註
22),それは14年県会に於て 牛馬ハ農業ノ要具タリ然ルニ近年屡々疫疾ノ流行スルモ獣医其ノ人二三シク往々救疫二三シムモノ多シ故二通常入リ易キ科目ヲ立テ之ヲ養成セントス.(註23)
として,長崎医学校に獣医学部を開くことになったものである.しかるに,生徒募集に当って志 願者僅少,僅かに熊本県人一名のみで県下の応募者もないということもあって,為めに開校に至
らず経費の如きも15年県会で前年度経費繰越使用の案を出し,その際廃止論も出たが漸く承認さ れた状況であった(註24),その後勧誘にも拘らず志願者なく,県当局は16.2.16日付で …
…明治十四年以降長崎医学校二二医学部ヲ置キ生徒ノ成業ヲ期シテ将来ノ牛馬医ヲ改良シ将サニ 衛生ノ道ヲ聞カントス郡区町村深ク三三ヲ了シ有志ノ子弟ヲ勧メテ乙部二入学セシメ二様可致此 旨諭達記事 (註25),といった達を出すぐらいであったが,遂に16年で一時之を廃校すること となった,県学事年報はその廃止の経緯を次のように伝えている. ……応募者僅カニー人ノミ ニシテ開業二至ラス因テ勧奨ノ方法ヲ尽シ入学ノ期日ヲ延ハシタレトモ絶テ募集二応スルセノナ ク薄日子ヲ経十五年度県会ノ時二際シ更二勧誘ヲ尽シ十六年二月二至ルモ応スルモノナシ蓋シ方 今獣医ノ功用尚未タ世二明カナラス且之ヲ賎業視スルノ弊アルニ由ルモノナランカ二二貴省二稟
議シ十六年目リ姑ク廃止シ…… (註26),
この獣医学部は,20年に再開されたものの 其規模狭小設備全カラス思フニ其目的ヲ達スルコ ト頗ル難カルヘシ蓋シ県下人民末タ獣医ノ必要ヲ知ラス轍モスレハ認メテ以テ無用トナスノ情状
アリ是レ振ハサルノ所以ナランカ……、、(註27),と云われる状況であった.従って,20年県会
でも,獣医養成には学校を設けず農商務省の試験を経たもので十分であるとして21年度限りで全 廃という意見も出た.因みに,この頃の生徒数は20年27名,25年は35名(本県人17),卒業生開 業33人(本県22)であったという.ところが,21年3月長崎医学校が廃止となったので,獣医学 部は分立して長崎商業学校に移転し長崎獣医学校となったが,県内獣医の配置も略々行届き,ま た志願者も少なく,従って地方経済上維持困難を理由として27年7月廃止された(註28),なお 20年制定の獣医学部規則によると,学科では比較解剖学兼組織学山山実習・比較生理学・家畜薬 物学及調剤法・家畜内科学・家畜外科学・家畜産科学・獣医観察法及家畜伝染病論・病院実習,このほか動物学・植物学・物理学・化学・相馬学・家畜蕃殖三二育法・戯鉄・硫勇などが教えら れた.入学資格は高等小学科第2年級卒業相当の学力を有する18才以上の男子とし,修業年限は 2ケ年,学級は2級とされ学年は毎級2期制で授業時間は1年44週,一週24時間ないし30時間で
級によって異なっていた(中西啓氏の調査による),
商業学校に関しては,一一方長崎が海外貿易の先駆地であったこと,他方 ……今二於テ此校ヲ興
サズソ・ミ,通商ノ途三二開ケズ商家ノ困億益二三シカラソトス…… との危機感などから(註29),時の県令石田英吉の海外貿易の隆盛を図らんための奨励助成もあって,また長崎貿易の特色
として長い歴史をもち近くは長崎会所の貿易積立五厘金を縁として,18年8月長崎区大村町に横 浜,神戸の商業学校を範として修業年限3年の公立長崎商業学校が創立された.そして同じく五厘金の補助をもって,19年2,月には同校内に勤労青少年のための実業教育施設として附属夜学教 場,同年6月に改称しての長崎徒弟商業学校が設けられている.これら貿易五厘金による補助 は,長崎における商業教育機関の特徴的な設立契機の一として意味づけられる.それと共に,周 知のように,長崎は安政の開国以来貿易独占の夢を破られ,幕末には既にその地位は横浜・箱館 に奪われ,維新以後も開港地の増加とも相侯ってその貿易額は相対的には低下して行ったことが 挙げられる.明治11年,時の知事内海忠勝が大蔵.内務両三への上申書に述べているように 目 下本港ノ景状ヲ目撃スルニ外貌ヲ修飾スルノ風習モ跡ヲ絶チ其衰弱ノ状ヲ表出スル曽テ耳聞スル 上二出テ ていたのであり,さらに続けての 頻年ノ疲弊ヲ救フニ暇ナク曽テ昔日之長崎ニアラ サレハ実二愕然今日如斯衰微ヲ来スノ原因ハ……貿易ノ振ハサルニ根スルハ多辮ヲ埃タス……今 日二二テ本港ノ貿易ハ空シク其ノ名ヲ存スルノミ……(註30)と嘆かわしめる状況にあった.事
実,長崎の貿易は特に13・14年頃から,殊に17・18年頃はその極に達しれ云われるく・らい衰運の
一路を辿っていたのである(註31).それ故に,直接にはこのような経済的要因が商業学校設置の必要を促したものである.
長崎商業学校の起源は,安政5年の英語伝習所に胚胎し,その系譜はその後文久年間の英語 所(英語稽古所),語学所,慶応1年の済美館,明治に入っての広運館,第(六)五大学区第 一番中学校,第五大学区広運学校,長崎外国語学校,長崎英語学校,県立長崎中学校,再び長 崎外国語学校と学制乃至校名の変更に伴って,これ等と関係をもって発展して来たと云ってよ い.18年の公立長崎商業学校の創立には,県令石田英吉が県下の貿易商と謀り,貿易積立金五 厘金よりの補助金などを以て,長崎商工三々頭松田源五郎等有力者12名を発起人として開設さ れた。ところが,区としては維持困難な事情もあったが,県としても外国語学校を変じて県立 商業学校としたい意図もあって(十八年県会知事開会式辞),より以上完全なる商業学校を開 く目的で19年4月長崎外国語学校と合併し,その生徒も収容して外国語学校を改めて県立長崎
● ●
商業学校とし岩原郷に移った。地方税,長崎貿易商で醸金した五厘金,有志者の寄附金で学校 経費を賄った.県立としては一時的で,22年4月長崎区が長崎市となるに及んで市立長崎商業● ●
学校となった.なお長崎商業徒弟学校は,19年3月1日開校の夜学教場が組織変更の上改称さ れたもので,同年12,月に選修科を設けたが,26年7月幼稚園建設を理由として廃止されてい
る.(註32),
ところで公立から県立としたのは直接には前記の目的であったが,県令石田英吉の外国貿易隆 盛を期する意図に副うものであったことは既述の通りである(註33),しかし,19年通常予算県 会では県立移管に就て反対もあった.即ち,経営維持が困難であるとか或は内容不完全であると 云うのであれば,之に保護奨励の方法を講ずればよいとか,寧ろそれよりも外国語学校を復活せ よと云うのであった.20年県会でも 聞ク所二依レハ寄付金モ三ケ年後二廃スルト云フ是レハ富 鉱区民ノ商業学校ヲ不用トスルニ依ルカ将タ私立トナス目的カ…… と云った質問があって,区
ロ
民の熱意を疑うものもあった(註34).これは,当初の約束が 最初五厘金ヨリ出ス約定ナリシ カ此ノ五厘金ハ或ル事情ニヨリ2厘二引下ケタリ故二寄付金ヲ出ス余地ナキ旨申出アリ……(註6
35),と理事者が答へているように,違約に対する反擾でもあった.却ち長崎区民より,18年9 月から3ケ年間はユケ月200円宛,その後3ケ年間は1ケ月100円宛寄付するの申出であった.そ れを21年度より寄付をしない由であったからである(註36).従って,常置委員会では,この寄
付金中途廃止は最:も必要を感ずべき長崎区民が商業学校を無用視するの現れであるとしたのであ
る(註・この常置委員会での全廃論が出ると区民から寄付金増加の申出があった).しかも各郡 よりの多数の入学者は(入学者中4割が長崎区より,6割は他郡出身者),語学を目的として入 学した者であるから,それ等は語学専門の私塾に入るを以て可なりとして,21年度7月まで据置き5年生の卒業を期して廃校するの意図を表明している(註37).
この県立商業学校廃止論は約定の寄付金を履行しないことから発しているが,県当局として は,かXる反対や全廃論に対して次のように商業学校設置の必要を力説している.
……本県力三二商業学校ヲ必要トスル以上ハ寄付ノ有無二関スヘキニアラサレ共二十二 年度モ約束二背カサル様方法ヲ立ツヘシ,或ハ興シ或ハ廃スル時ハ徒ラニ学費ヲ徒費セシムル ノミナラス生徒ノ方向ヲ誤り智識ヲ進ムルノ妨ケトナル,常置委員ハ各郡ト権衡ヲ取り商業校 ヲ置ク時ハ各郡二農業校ヲ興ササルヲ得スト云へ共,一県ノ経済ヲ計ル上二六テ耶カノ不平均 ハ致方ナシ,商業ハ今日一国ノ大本ナリ他ノ学校ト同一視スヘカラス,長崎県ノ経済ニシテ十 分余裕アル晒蝋ラバ農学校工学校モヨシ,今日ノ場合ハ商業学校ヲ維持スルヲ急務トス(註
38),
この間,商業者は農工業者と密接な関係にあり,民聞の人材は商業学校を通して養成すべしと の賛成論や同情論,人材養成には必ずしも商業学校を必要としない,長崎区に必要なら区民が設
立すべしと云った数々の反対論もあったが(註39),県当局は 時運二従ヒ重要府県二県立商業学
校開設ヲ見ル際,長崎県立商業学校廃止論ハ時勢二逆行スルモノ (註40)として原案麦持を力 説して一応通過を見た.それでも県立商業学校は,22年3月県会の決議によって廃止されること になり,引続いて4月長崎市立となった.しかし市は該校の維持負担に苦しみ,市費のみでは維 持し能はず地方税補助に関し再三申出をするなど存廃の危機に直面し,23年臨時県会では修正案 や全三論も出たが,区町村教育補助費1,000円が議決され漸く維持継続ができるようになったの も束の間(註41),県費補助が廃せられて24年からは市費のみで賄ふことになり為めに一時廃校 論も出た.県当局が,それが市立となっても県下勧業の見地から商業教育の重要性を認めたことは,直接 にはこの補助費の支出一23年の臨時県会はこの市立商業学校補助費のために招集された一や県立 時代の資産の貸与ないし交付などにも表われているが,22年歳出歳入予算案審議を行った21年通 常県会における知事日下義雄の開会式辞や,23年臨時県会における知事中野健明の開会式辞にも
一貫して示されている.
、、……教育補助費ノ増加ハ全ク商業学校ノ為ニシテ,此ノ商業学校コソ将来長崎ノ繁栄ヲ維
持スルノー大機関トモ云フヘク,其盛衰如何二依テハ全管内二通シテ幾多ノ影響ヲ与フヘケレハ,随ッテ其費用モ全管内二通シテ負担スルハ事理ノ当然チルヘシ……、、(註42)
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、、……抑モ此市町村教育費武弁ノ途ハ長崎市商業学校二品リ,蓋シ長崎ハ五港ノーニシテ地
ハ外国貿易ノ要衝ヲ占メ,為二数十年ノ昔ヨリ今日二至ル迄繁栄ヲ致シタルモノナル事ハ各位ノ二二知悉セル所ナリ,今や社会ノ進歩ト二二商業教育ノ如キハ最:モ必要ヲ感スルノ秋二遭遇
シタリ,就中此長崎ノ外国貿易場ニァリテ身ヲ商業社会二委ネントスル者ハ須ラク其実地ナリ 学術ナリ共二歩ヲ進メサル可ラス否之レニ頼ラサレハ長崎今日ノ地位ヲ完フシ併セテ他日ノ繁 栄ヲ期スル事能ハス,商業教育ノ長崎二必要ニテ随テ本校維持ノ必要ナル事ヲ思フニ商業其物 ハ独立スルモノニ在ラスシテ農工商ノ三者ハ実二密接ノ関係ヲ有ス,故二商業進マサレハ農工 漁業ノ盛ンナルヲ期ス可ラス,然うバ即チ商業学校ノ要ハ単リ長崎ノー市二止マラスシテ各郡ノ農工漁業ヲ進ムルノー大機関ナル事ヲ悟り得ヘシ……(註43).
尚この頃の状況に関し,区部省年報も次の如く論じ,市立長崎商業学校に期待すること大なる ものがあった. ……商業学校ハ従前県立ナリシが前年之ヲ長崎市二属セシヨリ経費ノ支出豊カ ナラス前途衰運ヲ来スノ憂アルカ如シ抑長崎ハ互市ノ要港ニシテ商業六二有名ノ人材ヲ出シ以テ 国家ヲ利スル処ナルニ此地ニァル商業学校ニシテ今日ノ如キ不振ノ状態アルハ歎ルヘキコトトス 且ッ九州地方ニァッテ今商業学校ノ設ケァルハ独リ此地ノミナレハ此校ノ盛衰ハ其影響独リ長崎 二止ラス延ヰテ九州全体二及フニ至ルヘシ故二此校ヲ改良更張スルハ蕾二本県ノタメナラス実二 九州地方一般二対シテ必要ナルモノト思惟ス(註44)と.かくて,引続いて今日まで命脈を続け 来ったのはこの市立長崎商業学校のみであって,他の前期に発生した学校は何れも泡沫の如く消 え去り,その後,形の上では長い不振の時期を経て各種の実業学校が真に起り始めたのは漸く大
正期に入ってからである. (附録・明治中期以降の県実業教育の発達概観参照)。
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以上のような明治初期における実業教育はその背景として県の勧業施策があり,それに伴って 進められ来ったことは,18年県会に於て姶めて商業学校が教育費目として提出論議されるまで は,実業教育に関しては常に勧業費審議の過程に於て論ぜられ来ったことからも明らかである.
これは40年創設の県立農学校の場合でも同様である.ところで,長崎県の勧業施策は基本的に は中央当局のそれに応じたものであり,従って維新政府の勧業方針や施策は(註45)もちろん長 崎県にも迫った.特に,当時近代産業の華としての養蚕事業や外国向輸出品の大宗としての詮議 を姶め,その他の貿易商品の生産に対する政府の奨励は必須的なものであった.長崎県における 主要物産とせられたものは,各地域の特産品と呼ばれたもののほか伝統的な農業生産物である米 や鉱業生産としての石炭などもあったが,明治17年農商務省が公示した「興業意見」書中の「長 崎県勧業要務摘要」に示された勧業項目によれば,砂糖,製茶,蚕統,硝子器,水産物の5つと せられた(註46).そして,この興業意見の5つの勧業項目は,21年県商工課が「勧業急用問答 書」を発して農産物製造や工事に関する急務5ケ条を掲げたものにそのま瓦踏襲され,県の勧業 方針となっている.ただし,その後,中でも砂糖や硝子器の如くその生産の発展が見られたわけ ではない.この間,県は対外輸出商品の多量生産や外来輸入品に対抗する意図もあって,内外良
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三種試植,洋式農具や外国種畜の導入,製糖,製茶,製纏,紡績などにおける洋式器械の借用設 置利用によって,政府の勧業政策に協力しながら自県の産業経済の頽勢挽回,維持発展に務めよ
うとした.
ところで,長崎県では明治8年1,月29日付で,内務省に次のような伺を提出している.
当県庁租税課中二従来勧業掛リヲ置キ傍ラ管下物産繁殖威霊テ人民厚生利用ノ事務ヲ取扱来 候処未タ何等実効ヲ輪宝儀モ無之然ルニ勧業ノ努断言ルや管下物産ノ盛衰運輸ノ便否等ヲ深ク 熟知シ民情ノ適度ヲ案シ漸次是ヲ作興スルカノ如キ地方湖底テ尤緊要ノ事件ニテ兼務ニチハ充 分届兼候間今般更二勧業課ヲ設ケ官員ノ儀ハ諸課繰合ヲ以テ其定員二充専ラ利用厚生ノ実務二
担任為致度相伺候也(註47).
かXる云はば専掌課の開設要求に対し,内務省は 書面更二勧業課ヲ開設候儀ハ即今不相成候 尤定額ノ官員ヲ以テ繰合専務致サセ候儀ハ不苦吟事 (註48)と勧業課の新設に就ては拒否し た.而るに,その間の経緯は明らかではないが,それにも拘らず8・2・1日付で県では内務省 指令前に直ちに庁内に県令宮川房之名で勧業課設置の達を次のように発している. 凧 今般勧業課ヲ設ケ勧業土木地理之事務ヲ管理セシメ候条此ノ如相達候事但シ租税課中ノ土木 勧業ハ相廃候……勧業ノ務メタルや獣畜穀菓ノ良種諸器械ノ巧用其他物価ノ高低商業ノ得失ヲ 弁明シ親シク人民ト協力互二経験ヲ尽シ利益ヲ興シ損害ヲ除キ以テ国家富饒ノ基ヲ開ク可キ趣 意ニテ……(註49).
こうした勧業課の設置と共に,県が政府の勧業奨励に即応して,或は県民への便宜を図ろうと したことは,その後,牧畜,農具,勧業授産資金,綿紡績や製糖器械,製糖,製茶,銀行設立な ど,次に掲げるような一一連の上申,伺,届,願(註一部摘出)などを通して窺うことができる
(註50).
洋種牛拝借,貸渡下付上申(11・12・23及28日付,12・4・24日付),商法会議所設立之儀二付届出(12 ・8・29),米商会所設立之儀二付上申(12・1・26),綿紡績器械拝借ノ義二付上申(12・ユ2・12),牧羊 資金並綿羊御貸与願(12・12・26),長崎県下長崎区東浜町菊地伴吉外物名私立銀行設立願ユ付上申Q3・2
・9),紅茶製造資金拝借ノ儀門付上申(13・4・2及13日,同5月12日),砂糖製造機械拝借ノ義二付上
申(13。5・12),種畜牛拝借之義上申(13・7・22),牧羊試験費下付之義二付再申(13・8。27),轟具 拝借之義上申(13・10・9)就産資本金拝借之義二付上申・(13・10・29及同ll月9目),紅茶製造資金舞借 之i義二付伺(13・ll・30),紡績機械御貸下之義二付上申(14・4・28,同年11月ll目),試験牧羊引付費御下渡之義二付上申(14・4・23),外国種小蜂御貸下之義二付伺(14・11・20),綿羊御強下之義伺
(14・ll。15),種馬拝借之i義二付上申(14・12・21),就職資本金拝借之義二付副申(15・・2・14),農牛 購入代拝借之義二付二心(15・2・14),綿羊運送費(建築費)面立義二付弱輩(15・4・20),種牡牛高 御貸与之義二付上申(15・7・14),西彼杵郡長崎村堤信太郎ヨリ牧羊御壷与之義二関シ副申(15・10・27),九州各県沖縄連合共進会二際シ製茶審査係河野十郎外十名ヨリ製茶改良ノ義二・付上申(15・12・5),
砂糖主任官(註.農商務省)出張ノ義上申(15・12・5),種牡牛二二与之義二付上申(16。1・8),三舎 建築費不足三二下渡之義二付再三申(16・2・14),砂糖試験場御設立之義二付上申(16・2・26及同年3 ・20日),種牛貸与取消願之儀二付上申(ユ6・11・20),勧業委員設置準則ソノ他伺(17・2・ユ2),種牛返
9
上及貸与之義二付上申(17・3・ユ1),種牛貸与願之義二付上申(17・4・16),士族勧業資金拝借之義二 付上申(17・4・25,同年12;月24及25日),砂糖試験場御設置之義二付上申・士族勧業資金拝借願阿付伺
(17・4・25),牛羊畜養資金舞借之義二付上申(17・6・4),製糖分離器貸与之義二付伺(17・6・16),
紡績器械設置同盟員加除名之義二付上申(17・6・26),農具貸与之義二付上申(17・7・26),年賦金上 納延期二郷上申(註一綿紡績機械運搬上納)(17・8・4),綿羊拝借之義二付上申(17・8・8),恒産会 社予;算更生盛挙義二付伺(18・1・17)旧福江藩士開墾資本拝借再願二付上申(18・1・19),士族勧業資
金拝借之義二付伺(18・1・19同年3・17同年7・15),種牛返納駅手与之義二付上申(18・3・13),長 崎紡績所年賦金上納之i義二付開申(18・6・6)砂糖試験場御設置之義二直垂裏合,照合(18・7・9,
同年10・13),製糖器械御貸与之義二付上申(18・9・5),就産金返納及事業之義二付伺(18・11・20)
このほか,県の勧業施策の一面として挙げられる事例として,養蚕黙思,製糖,製茶などに関 連する些少の伝習事実が見られる.県は明治8・6・11日付の第一大区八ノ小聖小島郷荒木伊三 次名での,妹2名の白川県下緑川製緕場(熊本県上間摩郡大江町)への1ケ年伝習派遣願出に馨 り(註51),県費援助で長崎,大村,諌早,島原,厳原から約10名の伝習生を修業年限3ケ年計 画で同製緕場へ送ったり,12年6月には富岡製続目へ工女伝習生4名を派遣している(註52),
これは,明治19年になっても乙部養蚕巡回教師復令書(註53),によっても推察できるように,
また興業意見でも指摘しているように,当時県下一般として養蚕業が盛んであったわけではな く,養蚕はたとえ主要産業として掲げられていたものの,まだ幼稚産業の域を出ないものであっ た.然るに,既に大村,平戸,諌早,厳原などでは養蚕家増加し年々繭数多量にして従来の坐繰 機械では不充分であったから,県としては製綜器械据付の製緕建設意図に副うものがあったた めである.長崎県が,日本の新産業として養i蚕事業に力を入れ始めたのは10年代後期ごろである が,その奨励のために県当局が養蚕製綜伝習所を設置したのは19年通常県会での北高来郡諌早設 置の建議案採用に干る(註54),そして同年一興4名伝習割当計画のところ,郡によっては3乃 至5名の伝習生を出している.20年度は,更に県内・県外(福島・群馬県)から養蚕,製,締の教 師を聰即して,県内6ケ所(長崎区,西彼杵郡1,北高来郡,東彼杵郡1,南高来郡1,北松浦 郡・壱岐石田郡1,上・下県郡1,南松浦郡1)設置計画を立てたりしているが,当時の養蚕製 緕従事者i数は,北高来郡が1039名であって他は僅かに長崎区9,壱岐郡8,石田郡10名が数えら
れ,北高来郡が論説の中心をなしていたという(註55),
当時民間での自家乃至多くは士族授産事業として会社類似組織の養蚕製一所があったが,そ の中には県より教師の派遣を乞うて自家伝習を受けたり,郡として管内民業奨励のため養蚕伝 習所の設置を計画したり,或は外部より教師を招聰伝習した東彼杵郡早岐村の島原恒産会社の 如き例もあるが(註56),中でも8年目ろ西山郷に5町余りの桑園を拓いて養i蚕業を起した長 崎即興石灰町の和田平は,13年7月有志と謀って蚕業社を創設し社内に養i蚕製緕織物工場を設 けて京都その他より織物師を聴して生野製法及び紡織法を県下の子女に教授したと伝えられて いる(註57),また開墾牧畜の士族授産事業の発展の例として,18年1月7日付で,製締場を
設けて傍ら工女を養成したいとの伝習計画を願い出た島原村恒産会社もある(註58),
一10一
製糖事業に関連する県当局関係の伝習事実の例としては,南高来郡加津佐村(及び南有馬村)
の砂糖試験場を場とするものが見られる.加津佐村では,16年11月12日より伝習生募集のため南
・北高来両郡を巡廻.し,県も県下各郡に募集通達をして誘導した。ところが,主産地の南高来郡
より350余丁もの多数希望者が出たため伝習見込が立たず,ために各村巡廻伝習することを名と して再選抜し,北高来郡より2名,南高来郡より20町名,その他対州,平戸,大村地方より7名の伝習生を選んで新技術を12,月25日より翌年1月25日まで熊本県生徒も加えて教授したと云われ
る(註59),
長崎県では,甘庶,砂糖は明治以前(文化!4年)からの古い歴史をもち,南高来郡東部(南 目)を主産地として島原半島,特に南目は元来県下で最も商品作物生産として進んだところで あった(註60),それ故に県としても,この三業の振興を図らんとして砂糖製造器械の貸与願 を始め(註6ユ),16年と18年の試験場2回設置(加津佐・南有馬)など一17年は設置せず巡 廻指導一中央当局からの指導官派遣を熱心に申請して,何れも短期間ではあるがその技術伝
習を受けたりしている(註62),
以上の,主として養蚕製緕や製糖伝習のほか,製茶では11年ごろ紅茶三方(印度風)の伝習を 受けた岩崎弥助が,県御用掛として県下有志者に製法伝習をしたと云われ(註63),その他下総
種畜場への牧羊伝習生派遣など,先の富岡製、弓場への派遣や紅茶製法伝習などと共に中央の勧業 伝習施策に応じたものもある.
しかし10年代前期ごろ(12〜14年度)に就て云えば,製締伝習や器械下締場創立意図,県予算 面では錐詰製造,錐詰器械,紅茶製造,製練伝習その他植物試験場費,博物館保存費,各郡勧業 費,共進会費,勧業諮問会費,内国博覧会費など,僅かに施策的な1年または2ケ年ないし3ケ 年限りの勧業費目も見られるが(註64),概して云えば,先に掲げた一連の上申,伺,届,願が 示すように,民業への仲介援助はしても自ら進んで積極的な方策は採らなかったと思われる節が ある.それは13年県会において,一議員の ……ソレ勧業ハ富強ノ基礎ニシテ洵二緊急ヲ要スル 事件ナレトモ本県二丁テハ其ノ事挙レリト謂フヘカラス…….という質問に対して, 勧業ナル モノハ其ノ意誠二結構ナレトモ其ノ事タルや実二漠然トシテ際涯ナク便不便得失甚タ観難キカ故
二軽々二進歩スルトキハ其ノ成績或ハ民利ヲ為サスシテ民害トナリ或ハ損益相償:ハサルニ至ルコ
トアリ二二本年度ハ従来施行セル事業ニテ其ノ有益無害分明ナルモノヲ保続スルニ止リ以テ予算 セリ…… (註65),と云った理事者の答弁の中にも端的に観取されるところである.他方また「長崎県議会史」中の著者が指摘しているように,当時の議会議員の構成が他府県に例を見ない ほどの士族県会,士族集団の議会があったことから,(註)産業の開発,指導,奨励と云った点 に就ては他府県のそれに比して甚だしく無関心,無知であり,徒らに理想論,観念論を振りまお して現実を忘れたために本県産業の開発指導を著しく後退せしめ,長崎県の各地産業が後々まで も振わなかった根本原因として作用したとするならば(註66),これら議員,議会側にも同様の
傾向があったと思われよう.
(註)明治14,5年ごろの県会における議員構成では士族52,平民9計61名位であった.平民
一11
議員9名のうち3名は商人の町長崎区選出のもので,残りの6名は現佐賀県選出の議員である
(註67),
もっとも,民間では一時的であるが産業雑誌(10年9月〜12年6月脩立社発行)・工商雑誌
(13年6月〜8,月脩立社発行)が刊行されるという,当時長崎としては注目すべき実業雑誌が生 れたり(註68),また県下各郡に,これまた一時的であるが,県の援助を得て13年から15年ごろ
まで勧業談話会,農談会が設けられたこともあったと云われ(註69),その後,従前の農事報告 委員の設置に続いて14年一段と組織的な勧業委員制・農工商諮問会が設けられたりして,県当局 が勧業面ないし実業教育に多少とも積極的な施策を試み或は関心を示し姶めたのは20年以後のこ とである.ただし,遙か後年になって民間教育運動と相倹って官立九州大学の誘致運動,官立高 等水産学校,帝国大学工学部,九州医科大学,商船学校設置要望ないし建議,官立長崎高等商業 学校,長崎医学専門学校,長崎医科大学の設置実現と云った間接的な動きも見られるが,県自ら の中等実業教育の進展に関しては極めて不振であって中等教育としては中学校偏在で発達した.
それは,明治末年になっても 中学校多クシテ之ト同程度ノ実業学校ナシ,中学校多クシテ大学
二入学スルコト能ハス,中途半端ノ者バカリ出スハ徒ラニ世ノ米食虫ヲ養フニ似タリ (註70),
と皮肉られ,或は 九州二二テ尋常中学ヲ八ッ持ッテイル県ハ長崎県ヲ措イテ他日ナシ……九州 各県ノ比例ヲ先二示セハ福岡県ハ実業学校十三アリ中学校六校,佐賀ハ中学校四実業学校五,熊 本ハ中学校六実業学校七,大分中学校六実業学校五,宮崎中学三実業学校四,鹿児島中学校五実 業学校六,沖縄中学校一実業学校四,長崎ハ実業学校トシテ唯一ノ農学校ヲ持ツノミ,水産講習 所アルモ尚学校ト称スルニ致ラス……(註71)と衝かれている.尤も藪では長崎市立商業学校 は,挙げられていない.それは引続き大正期にあっても同様であったが,その要因には県内諸産 業に於ける近代化の立遅れや長崎経済の停滞性も挙げられようが,同時にそれに伴う人的要因も
加えられよう.宇部省学監モルレ・一が,明治8年2,月19日付の申…報で長崎の教育情況を報告し,
その中で 外国貿易ノ許アルハ特ニコノ地ノミ.依テ泰西ノ思想及学術始メテ長崎二到着シ数多 ノ日本生徒ヲシテ蘭学ヲ研究セシメ日本現時ノ形勢ヲナスノ著ヲ開ク と述べ,いみじくも明治
以前における長崎の位置と価値を.明らかにしたが,次には 爾後各地二開港セシニ随ヒテ長崎ハ
梢地位ノ緊要ヲ失ヒ近年二至テハ外国貿易殆ト将二振ハサラントス旧地ノ変革二勾引セラレ勤勉敢為ノ人モ他所二三リ三二其余波自ラ長崎諸学校ノ盛衰二関スルニ至レリ (註72),と指摘し
ている如くである.事実モルレーが云うように,それは一般に,産業経済の停滞ないし衰退がそ の地の教育丈化の不振をもたらし或は勤勉敢為の人間形成の場たらしめないことを示唆するもの であり,戴では長崎県前期の,またその後における実業教育不振の人的要因をなしたものとして 挙げられよう.一1965, 8, 30一
註 ① 文部省第一年報P 138府県公私立学校教員生徒比較表
② 同上年報P.93,139一12一
③ 同第一年報〜第四年報,第六年報P.6〜7
④同第十二年報附録P.43管内学事の状況
⑤ 長崎県議会史第一巻P.1489同上第七年報附録P.14長崎県学事総論
⑥内山・増田江戸中期以降明治3,40年代に至る長崎に見る教育の発展一(その一)P.25長崎大学 教育科学研究報告第10号
⑦ 文部省第七年報附録P.14長崎県学事総論
⑧武藤長蔵我国最初の商業学校創立者シーボルトシーボルト渡来百年記念論文集P.2(註一中 西啓氏の調査によれば,シーボルトの意見ではドイツのババリア王国かち将校,下士官を招聴してド イツ式軍隊教育と商業学校とを直結した商事会社を設立することにあったという)
⑨日本農業発達史(中央公論社)皿P.339農務顛末第六巻P.1143〜48,内山,増田,地方実業学 校発達状況に就て 長崎大学教育科学研究報告第6号P,19参照
.⑩長崎県教育史上巻P.808
⑪:文部省第十一年報附録P.143,P.143,同第十二年報附録P.46・49,農務顛末第五巻P・522
〜3⑫長崎県議会史第一巻P.1092〜4
⑬長崎県勧業課明治十八年宮省指令留票号9号
⑭同上五号33号
⑮文部省第十二年忌附録P.46
⑯同上P.199
⑰ 同上 第十三年置附録P.201〜2,長崎県教育史上巻P.805
⑲農務顛末第六巻P.1144〜5,長崎県教育史上巻P.931
⑲長崎県教育史上巻P.803(北松浦郡学事年報)
⑳ 農務顛末第四巻P.63長崎外五県牛馬疫ノ件,同第五巻P,435〜6(地方獣医人員表)517〜30
(村上要信復命書 獣医ノ景況)⑳長崎県議会三吉二巻P.78
⑳農務顛末第五巻P.522〜3
⑳長崎県議会史第一巻P.1012
⑳同上P.1216
⑳ 農務顛末第五巻P.529
⑳長崎県学事年報要略文部省第十一年報附録P.141
⑳同上第十七年報P.85地:方視学第五地方部農務顛末第五巻P.522
⑳長崎県議会史第二巻P.40・78・461
⑳ 同上第一巻P.1471明治十八年県会開会式辞,長崎県教育史上巻P.927長崎商業学校創立要旨
⑳本港救正方之i義上申(11・1・22)長崎県勧業課明治十一年一月以降至十四年三月官省指令留票
号8号⑳ 長崎商工会議所五十年史P.81,長崎市制六十年史P.130
⑫明治維新後の長崎P.149
⑳ 長崎県議会史第一巻P.1471明治十八年開会式県令式辞
⑭ 同上第二巻P.37
⑳ 同上 P.38
⑳ 同上 P.39
⑳ 同上 P.39〜40
⑱ 同上 P.74
⑳同上P.74〜5,76
⑳ 同上 P.75
一13一
⑳同上P.226〜7
⑫ 同上 P,132(明治二十一年通常県会)
⑬ 同上 P.225(明治二十三年臨時県会)
⑭文部省第十七年報P.84〜5
⑯ 内山・増田 維新政府の勧業施策一特に伝習について 長崎大学教育科学研究報告第10号,内山維新
政府の実業教育施策考 同前報告第4号等参照
⑯明治前期財政経済史料集成第十八巻P.863〜4,同第二十巻P.257〜80併照
㊨ 内務省日誌 明治八年第4号P,1〜2
⑱ 同上 虫下
⑲明治七年長崎県勧業課事務簿本庁指令達留(全)第十項目票号10号
⑳ 同前事務簿 明治八年勧業事務簿 諸省寮達(全)・第二課銀行係 明治十年官省達留,官省進達往復 綴・勧業課 明治十一年一月以降至同十四年十ご月官省指令留・勧業課 明治十五年以降至十六年官 省指令留・同義 明治十八年官省指令留
@ 製統伝習之義二付願一明治八年勧業課事務簿 諸書寮達 粗感喜第233号
⑫ 冨岡・熊本県製綜工女伝習一件一明治十二年勧業課商工慰事務簿
㊥ 長崎県乙部養蚕業巡回教師(草野覚徳)復命書 明治19年11月!7日付農商務大臣宛知事副申農務顯末
第三巻P,1τ49〜81
㊥ 長崎県議会史一巻P.1520
㊥同上第二巻P.42
⑭ 同前乙部養蚕業巡回教師復命書 ;農務顛末第三巻P.l156・l160・1166
㊥ 明治維新以後の長崎P.286・434
㊥甲南第8号恒産会社予算更正願之義二付伺県勧業課明治十八年官省指留七号第39号
㊥ 築山由太郎 長崎熊本及愛媛県出張復命書(17・5・28付)農務顯末第二巻P.503〜4, 明治前期
勧農事:蹟輯録下巻P.1438⑳ 長崎県下南高来郡島原地方遺業沿革の概略 農:務顛末第二巻P.516〜7
@ 勧第16号 砂糖製=造器械拝借ノ義二付上申(13・5・12)一指令,難聞届.甲勧第742号製糖分離器貸
与之義二書面(17・6・16)一指令,難聞届 甲勧第1583号製糖器拝借之義二付上申(18・9・5)
一指令,聞届.明治十一年以降同十四年十二月官省指令留 票号42号,明治十五年以降至同十六年官省 指令留 票号49号・明治十八年官省指令留 票号85号
⑫唐画40号砂糖試験場御設置之義二付上申8(16・2・26)一指令,聞届.甲勧第526号同上上申
(17・4・25)一指令,難聞届.明治十五年以降至同十六年官省指令留 票号31号及び2の48号 甲主点IO62号 同上上申(18・6・6)一指令,難聞届 甲勧第1266号 同上再伺(18・7・9)
一指令,本年限聞届.明治十八年官省指令留 票号57,93号 明治前期勧農事蹟輯録下巻P.1438併 照
㊥ 紅茶製卒業免状願立付上申(勧第76号一11・11・19日)明治十一年以降至同十四年十二月官省指令留 (勧業課)票号13号
⑭ 地方税歳入歳出予算及決算年次表(歳出之部)長崎県議会史附録別表
㊥ 同上第一巻P.762
⑯ 同上 P.1238
⑰ 県会議員住所姓名族籍年令調 同上P.1202〜3
⑯ 明治文化資料叢書 第十二巻P.343
④ 勧業委員設置準則知計(甲勧第143号一17・2・12日)明治十五年以降同十六年官省指令留(勧業課)
票号63号
⑩長崎県議会史第二巻P.1302(三十九年県会)
@同上P.1492(四十四年県会)
一14一
72 文部省第二年報附録 P.24〜9
附 録
明治中期以降の長崎県実業教育発達概観
(1)
明治中期以降の長崎県下官公私立実業学校ないし教育施設の発達状況を概観すると以下のよう である.県は主要産業としての農業面の勧業施設として,県限りの勧業委員制や高談会の開催指
導と面立って,20年の養i蚕製紡伝習所(諌早)設置やその後の県内数:ケ所の同伝習所設置計画な
いし実際設置に姶り,26〜28年ごろからの農事講習所,茶業伝習所(県補助),水産伝習所,水 産巡廻教師制そのほか農事試験場,水産試験場などの設置や,従前の農事巡廻教師に加えて宿業
巡廻教師制,輸出木綿織物伝習施策など行ったも・のの組織的な農業教育機関としては,本論に記
したように明治40年忌なって漸く県立農学校(校長以下7人,生徒80〜88人)を1校設けた程度 である.その間,30年4月南松浦郡総和組合の議決により実業教育費国庫補助法の適用を受けることとして同年5月「五島簡易農学校」の設立認可もあったが,資格教員を得ることが出来ず開 設を見ることなしに終っている.この点,九州では早くも明治13年福岡県が農学校(所)を創設 し,25年には林遠理の勧農社,29年の遠賀郡農事講習所,大分県では27年前県農学校,28年に は佐賀県,鹿児島県にそれぞれ県簡易農学校が設立されていた時であった.尤も県立農学校の創 設に就ては,県当局も夙に計画面でもあったが日露戦争と云うこともあって見合わせていたとも 思われるが,直接には農会の建議や明治37・38年県会での設立要望,可決に迫られて漸く実現し たものである.
長崎県の今一つの主要産業である水産教育としては,実業補習学校規程に基いて明治29年10月 県認可,30年4月開校の県下唯一の南松浦郡有川水産補習学校が設けられた.また37年には,32 年8月の農商務省令に含まれる府県水産講習所規程に準拠して,北松浦郡平戸村の県水産試験場 での3ケ月程度の水産講習の計画実施がきっかけとなって,41年9月に同試験場内に水産講習所
(定員30名・大正末年定員60名)が併置された.高等小学校2年以上の課程を卒えたもの若しく は同等以上の学力あるものを入学させた.これは44年6月試験場と共に長崎市に移転し,その後 県教育会や長崎商工会議所などの要望,昇格陳情,建議などもあって,その間,夙に水産学校へ の昇格希望もあり佐世保市や平戸町の誘致運動もあったが,漸く昭和10年4月になって県立水産
学校が長崎市に設けられた(昭和10年全国で甲種13校)、これより先,県としては別に農…商務省
水産講習所(入学資格,中学卒業)や福井県小浜水産学校などへ県費補助で数名づX生徒派遣を したこともあったが,全国的には多少とも府県に水産学校が設立されていたのに比し(明治35〜昭和10年,甲種6〜14校),水産県長崎では長年月低度の講習所程度に留めていたことになる.
一15一
それは一面入学希望者が少なかったことにも原因している.県立:水産学校は修業年限も講習所時
代の漁携,遠洋漁業科それぞれ2ケ年,製造科1ケ年のものが,本科(漁携,製造科)3ケ年と なり別に1ケ年以内の専修科が設けられることとなった.なお,明治42年6,月1日付認可で,南 松浦郡魚目村立水産学校が設立されていることは注意せられる.これは当時の村長佐々木照がその設立を企図したもので,同年7,月18日浦山分教場で授業を開始し,同年11,月校舎の新築に着手
し44年落成を見ている.しかし折角設立開校を見た同校も,入学生徒数少なく百方勧誘募集して 維持に力めたが生徒数増加せず,却って生徒数減少し遂には生徒1名もなきに至ったので大正5 年7,月26日に廃校となった(大正7年南松浦郡魚目村郷土誌P.41).当初は定員80名に対し24名 の生徒がいたと云う.大正4年版の長崎県大観によると 現在生徒14名,経費3,890円にして県 補助500円を受く経営甚だ大ならず とある.外に水産を1教科とした補習学校もあった.
大正,昭和年間,国立高等水産学校設置に関し一尤も当時としては三種高等教育機関として は東京駒場農科大学,東北,札幌大学農科,農商務省:水産講習所程度であったが一県教育会
(大正12年)や長崎繭工会議所(昭和10年)などから関係当局に建議され,また県議会でも早く から建議ないし論議されたこともあり,近くは山口,鹿児島県などと共にそれぞれ自県内への設
立運動もしたが実現しなかった.
商業学校に関しては,長崎市立商業学校を除いてはその後長く設置を見ることなく,ただ明治 25年創立の私立海星中学が36年忌一時廃止されて,甲種私立商業学校(甲種海星商業学校)と改 称し44年に生徒募集を中止し,再び海星中学となるまでの間商業学校として存在しているだけで ある.この頃即ち明治38年9月に官立の長崎高等商業学校が設立されたが,県立としては佐世保 商業学校が設立されたのは大正12年2,月のことである.次に大正14年4月には九州最初の私立長 崎女子商業学校が長崎市に,同15年には長崎市立商業学校内に市立夜間商業学校が設けられてい る.この夜間商業学校は大正11年市立商業学校内に附設していた商業高等補習学校を発展改称し たものである.佐世保にもこの種の市立商業学校が設けられたが,それは昭和6年のことであり 県立佐世保商業学校内に設けられた.これも大正14年の市立商業専修学校が発展したものであ
る.
官立長崎高等商業学校は,県として15万円の寄付を提供して設置したものであり全国3番目の
この種官立学校である.本校の設置は,長崎への九州大学設置運動に失敗した後(福岡に設置),
佐賀・福岡との競争運動の結果実現したものではあるが,またそれなりに長崎に相応わしい存在 理由があった.同校三十年史によると,その教育は 清,韓方面二活動スベキ人材ノ晶晶ヲ主眼 トシタ とあるが,長崎の地理的位置から云っても当時日露戦争の前後を通じ東亜の発展を急務 とした事情によるものであったろう.かつ当時の東京と神戸の高等商業学校は,広く対世界的な 商業知識を授けたのに対して山口高等商業学校と共に本校は特に東亜の開発を目ざしての教育方 針を定めたと云われる(長崎高等商業学校三十年忌P.1〜3),こxに曽ってからの,また当時
における長崎が大陸への出窓であった特色を示すものであり,また長崎経済衰退傾向に対処する 市民ないし地域の期待もあったろう.県当局が東亜同文書院にも県費援助で生徒派遣の制をとつ
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