職 孚 の 動 因 と し て の 経 濟
手塚
瀞士
軒
郎
一︑
二︑
三︑ 序説
滑費過少論に立脚する帝國主義論と其批評
レーニンの帝國主義論剛と虻ハ批評
資本主義経濟罷制から嚴密に匠別され得べき統制維濟と云ふ一つの維濟膣制が存在するか否かは︑問題とせ
られるに足るであらう︒だが然し現に吾々が眼の前に覗るところの所謂統制経濟の如きは資本主義艦制を其根
〆幹としてゐるとは言ぴながら︑資本主義罷制からヌアンスに於て著しく異つてむるものなることは否定せられ
得べくもない︒今こ玉で其ヌアンスの特色を統制経濟について指摘しようとしてゐるのではない︒其ヌアンス
を與へられたもめとして考へて置く︒そのやうな統制維濟は如何にして現はれ來つたのであるか︒統制維濟の
戦争の動因乏して'の経濟(手塚)一三七
一三八
理論家にょつて必すしも其の読明は規を一にしてはゐない︒それは現在の事攣なり⁝戦争なののために生じたと
の読明となつてゐる場合もある︒然しそれにも況して支配的なる読明は︑それが資本主義の磯展の必然的結果
である一経濟罷制段階として現はれてゐると云ふことにあるやうである︒新鋭な︑特に理論的な設明と云へば︑
吾々の見たところでは︑これよりほかのものではないやうである︒資本主義経濟艦制は今吾々が立つてゐる段
階では︑高度の金融資本主義段階であ妙︑猫占資本主義段階である︒その段階に於ては︑生産者の間には︑資
本主義艦制の特色である自由競争はもはや存在しない︒在るものはた穿︑金融資本にあやつられて起つて來た
猫占形態の企業のみであり︑自由競争は既にに跡を絶つた︒自由競争は︑今や猫占者の恣意的な行動の自由と
化し了つた︒過去に於てこそ人の維濟生活の開放者の役割を演じた自由競争も今は治費者の犠牲に於て猫占者
を利せしむるところのものに過ぎなくなつたoだから國家の最高の意志によつて猫占者の行動に統制を加へる
必要が起つて來た⑩職争はたまたま此傾向に拍車をかけるに過ぎない︒職争は此傾向に際立つた進展を與へる
に過ぎない︒かやうな読明こそ統制経濟の護生のそれの支配的なものである︒殊に此のやうな読明をなすの
は︑統制輕濟の理論家統制輕濟の謳歌者の総て穿あるo.
此読明は︑導き出して來た結論に於て異るところはあるにせよ︑畢・寛マルキシズムに擦つての読明に過ぎぬ
のではないか︒この説明は多くの統制経濟論者に共通な主張であるが故に︑吾々はこ玉に一汝の論著について
︑正確な引用を省略する︒確がなことは︑此ら論者の統制維濟の理論的基礎付けはヒルファーディングの﹃金融
資本論﹄の初めの蔀分を除いた理論でしか無いと云ふことである︒人はい歪マルキシズムの排撃に思組0力の
総てを傾倒してゐる︒こ鵜は決して過言ではない︒また過ぎにし数年の我杜會思想界の全力は實にマルキシズ
ムの打倒に向けられてゐた︒これは極めて明瞭である︒それであるのに︑同じく統制経濟の理論的基礎付けを
しようとするにも︑マルキシズムの理論iヒルファーディングの金融資本論を以てしなければならぬとは︑
何と云ふ不見識なことであらう︒マルキシズムの理論は正しい︑たfマルキシズムの結論が誤謬であるとでも
云ふのであらう︒然し吾々はこ翼でとれを取り上げようとしてゐるのではない︒
レーニンの帝國主義論は︑他の言葉で云へば︑現代の職争のマルクス主義的読明は︑.ヒルファーヂイングの
﹃金融資本論﹄を獲展せしめたものとして知られてゐる︒統制経濟を識歌してゐる思想家達は現代の職争を如
何様に見ようとするのであらうか︒それらの人々は吾が職ひつΣある職争を如何様に見ようとするのであらう
か︒少くとも吾々が職ぴづ玉ある職孚については︑現在では一人として︑それが帝國主義的職争であると論い
てゐゐ者な無いひけれども現代の資本主義の段階はまさに猫占資本主義のそれであり︑金融資本主義のそれで
あると許容し乍ら︑何故に現代の職争が帝國主義職争であると云ぴ切ることが田來ないのであるか︒邪推かも
知れないが︑其塵に卑怯な魂謄が潜んでゐるやうに思ふのである︒現にマルキシズム的なものを以て維濟統制
の理論的基礎付をしてゐる思想家のうちの少くとも若干数は七八年前までは︑現代の職争に封してもマルキシ
ズムの︑即ち帝國主義論的な設明をしてゐたのではなかつたか︒ごれら思想家のうちに︑過ぎ行きし七入年間
.戦争の動因としての経潜く手塚)=昌九
一四〇
に理論的把握にこれほど大きな攣化が來たのであつたか︒或ぴは吾々の邪推に過ぎないかも知れないが︑統制
経濟の理論的基礎付けが現に行はれてゐるが如きものだとすると︑吾々の職争についてもマルキシズム的な説
明をしなければならぬのではあるまいかっそれとも此場合にも結論だけがマルキシズムに於て誤つてゐるのだ
と云ふわけなのであらうか︒
吾々は實に重要な問題の前に狩んでゐると思ふのである︒吾々は一時を糊塗するやうな解決を與へて濃⁝足し
てゐるわけには行かぬであらう︒統制経濟の基礎付けの理論としてのマルキシズムの理論的槍討は一つの問題
であり︑マルキシズムの帝國主義論の槍討も他の一つの問題である︒此庭では此第二の問題を取扱ふ︒ところで.
或意味では周知のやうに︑マルキシズム的帝國主義論には二つのタイプを匝別することが出來る︒其一は資本
主養艦制下に於ける消費過少読を基礎とするものであり︑他の,一は﹃金融資本論﹂の主張を基礎としてもつレ
ーニンのそれである︒周知の如くではあつても︑行論の順序として吾々は此の二読を簡明に叙蓮し︑爽いで歴
史上の事實と此ら二読申の有力なものとを封照せしめつ玉︑進んで戦争の動因としての経濟がど轟ほどの役割
を演じてゐるかを叙述する︒問題に關する著想は必すしもロッビンスの﹃職争の経濟的原因﹄(一九三九年)︑に
得たものではないが︑叙述の内容はそれに則つた部分が多くあるかも知れぬ︒
=
︾ルキシズムの現代の戦争の読明は資本圭義を以てする設明であゆ︑從つて︑﹁それは其適用の時聞的範團
に關して制限を受けてはゐるが︑他の同種の読明に比較すれば︑其主張に於て遙かに廣汎であり︑其含蓄に於て
深刻であ抄︑狭い意味の共産主義プロパガンダの範園を遠く越ゆる所の.影響をもつてゐる︒それは過去に關す
る吾々の解繹に影響し︑將來に關する吾々の希望及び恐怖に影響を及ぼしてゐる︒それはまた政治の運動に影
響を及ぼしたし︑たとへ適切な結果を俘はなかつたとは云へ︑詩人の書き物にさへ影響を及ぼしてゐる︒それ
つノ
が如何に多くの人々の偲想を支配したか︑其範國を過大に見ることは寧ろ困難であらう︒ちだが影響の程度を
こ玉で問はふとするのではない︒た窒マルキシズムの現代の職争の読明が時間の上で制限を受けてゐると言ぴ
得れば充分である︒マルキシズムの戦争の論明︑換言すれば唯物史観にょつての職争の詮明は何ら時間的制約
を受けてゐるのではない︒けれども現代の戦争の読明と民ふことになつて見れば︑マルキシズムの設明も時聞
的には普遍的に妥當するわけには行かぬゆ換言すれぼマルキシズムの帝國主義論は資本主義艦制下の戦争の論
明を企てエゐるに過ぎない︒歴史の一喜器⑦即ち高度に嚢展してゐる資本主義下の職争の読明を目指してゐる
に過ぎない︒だが同時に注意せられねばならないが.庇嘗器・にあつては其読明は包括的である︒即ちマルキ
シズムの設明は︑此期問に關する限ψ︑一切め職争︑,一切の國際紛争に適用せられてゐる︒少くともr切の重大
戦争の動因としての経潜(手塚)魑︑一四]
一四二
な職争︑重大な紛箏は悉く資本主義経濟醗制の存在に餓せしめられてゐるゆ﹁マルキシズムの帝國主義理論は︑
或資本家群の影響が職争を生ぜしめ得たり叉は職箏の危機を生ぜ七め得たの︑するとの主張ではない︒其主張
は︑職争の根本的原因が常に資本主義罷制の存在にあると云ふにある︒故にマルキシズ4の帝國主義理論は或
職争の読明に止まるのではなく︑枇會組織の或形態の結果の一般的設明である︒・⁝⁝∵此理論の此特質は明確
に認識されねばならない︒なぜなら或グループの財産所有者が或場合に不吉な影響を生ぜしめ得ると論く理論
︑︑
ロうドヨと︑財産所有者は必すや不吉な影響を生ぜしめると読く理論との問にば︑大なる差異があるからである︒﹂
マルキシズムの帝國主義理論が︑現代の職争の焚生を資本主義の存在に露せしめてゐるのは極めて明瞭であ
る︒にも拘はらすマルクス自身のうちには︑現代の職争を解繹せしむべき明確な指針があるのではない︒﹁マ
ルクス自身は帝國主義の理論を明確に述べたことは全然無かつた︒か\る理論を近似的に叙述した場合があつ
たとすれば︑それは彼が植民論を取扱つた場合でみる︒然しマルクスの考へでは︑植民は︑現代の資本主義の
獲生を促すに役立つた前資本主義蓄積の時代に馬してゐたのであつた︒而して彼は植民時代はもはや絡焉を告
げたと信じてゐたの為︒﹂≦ぎ巴︒≦が示してゐるものを信すれば︑..目8需凶島¢ヨ̀ω..なる語はマルクスの著作中
にた壁一度用ひられてゐるに過ぎないし︑またマルクスの帝國主義理論と思はれも0はこれまたた野一同述べ
られてあるに過ぎぬ︒即ちU窪切¢蹟o碁二〇ぴq貯司雷夷Ho凶昏(HQ︒♂)℃署●トっ軌iO・に次のやうに書かれてゐる︒
.︑一8宮二島︒・ヨ凶︒・}g島①︒・算ヨの江ヨρ昏・ヨ︒曾只8二肴耳︒覧巳島︒三ユ已舞o臨oH§亀・︒壁冨℃︒≦自凶︑繧3ロ器8曇