職業外交官への愛情と外交制度分析の欠如と:細谷 雄一『外交』(有斐閣,2007年)を読む
著者 網谷 龍介, AMIYA Ryusuke
雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review International & regional studies
号 33
ページ 89‑97
発行年 2008‑03
その他のタイトル Regard for Career Diplomats, Disregard for Diplomacy as Institution: Reading
URL http://hdl.handle.net/10723/1369
職業外交官への愛情と外交制度分析の欠如と
――細谷雄一『外交』(有斐閣,2007 年)を読む――
*網 谷 龍 介
1. はじめに
「国際化」が喧伝された時代からは既に遠く離 れ, 「グローバル化」の語も最早紋切型と化した現 在においてもなお, 「外交」は国政の中心をなす問 題領域である。モノ・カネ・ヒトなど経済・社会 の領域での国境を越えた交流が増してもなお,そ のような交流のあり方を制度的に基礎付けている のは国家間の様々な合意や取り決めである。
また,毎年行われる主要国首脳会議をはじめ,
首脳会談や外交交渉は注目を集めるばかりではな く,政権の支持調達においても重要な手段の一つ である。他方で,第一次小泉内閣での外務大臣と 外務官僚の衝突を一つの契機として,北朝鮮問題 への対応や中国・韓国との間の教科書問題など,
ここ数年様々な機会に外務省の政策スタンスやそ の組織そのものが批判の対象となり,メディアを にぎわせてきた。
しかし,個別の対外「政策」に関する言説が,
時論であれ研究であれ豊富であり,また国際政治 ないし国際関係に関する著作も数多いのに対し,
「外交」そのものを正面から主題として掲げた書 物は驚くほど少ない。このようなギャップを前に したとき,外交史の分野で優れた業績を積み重ね てきた細谷雄一氏がこの度『外交』と題する著書 を公にされたことは,歓迎すべきことである。
本書が「外交」の範型としているのは,19 世紀 前半の欧州協調(Concert of Europe)の時代に成 熟したとされる「旧外交」である。そのことは,
この旧外交を「古典外交」と呼んだ高坂正堯の言
を肯定的に引用していることにも見て取れる。こ の旧外交の時代を支えたのが,職業外交官達で あった。時に粗雑な外務省批判が目立つ中,外交 官には固有の世界と行動の論理があり,そのこと が対外関係の安定をもたらしてきた時代があるこ とを,流麗な筆致で読者に印象付けているのは本 書のメリットであろう。
しかし,そこから一歩踏み出して, 「外交」の機 能とは何であり,そこで「外交官」が果たす役割 とは何なのかについての含意を引き出すべく,本 書の記述から分析的な考察を行おうとするとき,
本書には幾つかの難点があるといわざるを得ない。
以下ではこれを, 「旧外交」の位置づけに関する問 題点
(1), 「外交」と「外交官」の関係の二つに大別 し,順次論じていく。
2. 「旧外交」という幻影 (1) 「旧外交」とは何か
問題点の第一は,本書が愛惜をこめて描いてい る, 「旧外交」なるものの内容が明確にされていな い点である。本書
70頁では欧州協調体制が取り上 げられ,旧外交の成熟として,そして「外交官に とっての『黄金時代』」として位置づけられる。し かし,その本質をなす要素が何であり,その機能 がどのような条件によって担保されているのかは,
実は明確にされていない。そればかりか,個々の 要素が与える影響が文脈により全く異なった評価 を与えられているのである。
例えば,二国間主義対多国間主義,という今日
の国際政治学においてよく取り上げる概念対を見
職業外交官への愛情と外交制度分析の欠如と
てみよう。ある箇所では, 「旧外交」に二国間主義 や単独主義が, 「新外交」に多国間主義が割り当て られている(121 頁)。しかし他方で,欧州協調を 特徴付けるものとして「会議体制」が掲げられる
(70 頁) 。この二つを組み合わせると,会議体制=
二国間主義という等式が成立してしまう。
同様に「首脳外交」も,この欧州協調体制にお いて,メッテルニヒが重要なツールと位置づけた ものとされるのだが(71 頁) ,別の箇所では,新外 交の担い手の一人であるロイド・ジョージが首脳 外交を推進したとされ(123 頁),現代外交の章で もサミット外交がその特徴として挙げられる(158 頁以降)。そもそも,リシュリューやカリエールが,
「外交実務を気ままな国王の手から職業外交官の 手へと巧妙に移して(59 頁) 」いったことが,旧外 交の成熟の過程として位置づけられるならば,そ の頂点たる欧州協調体制と「首脳外交」の関係に ついての説明が必要であろう。すなわち,首脳外 交は職業外交官による「外交」からの逆行なのか,
あるいは機能変容を遂げて「外交」の中に位置づ けられたのか,等々の論点についてである。
また,本書が外交の主役と位置づける職業外交 官の位置づけにも混乱が見られる。旧外交の要素 として本書は,高坂を引きつつその貴族性を挙げ る。それ故, 「新たに導入された外交官採用試験を 通じて,多様なバックグラウンドを持った青年が 外務省に入省してくる(85 頁) 」ことが旧外交の衰 退の背景要因として挙げられる。しかし,旧外交 を構築する主役を割り当てられているイギリスと フランスに関する記述としては, 「合理的な行政機 構を兼ね備える近代国家(65 頁) 」としての先進性 が指摘される。通常の政治学・行政学の理解にお いては,公務員の試験による採用は行政機構の合 理化の一環として位置づけられてはいないだろう か。その理解に立てば「合理化」と貴族性は相反 することになる。また日本についても「1894 年に は第
1回の外交官領事官試験が実施され,近代的 な外交官試験制度が日本においても確立する(91 頁)」とされ「近代日本における職業外交官の誕生 である(92 頁)」と高らかに告げられる。85 頁の ロジックに基づけば,彼らは職業外交官ではあっ
ても「貴族性」は持ち合わせていないことになら ないだろうか。
もちろん現実には,豪農出身の幣原ら試験を通 じて採用された近代日本の外交官が旧外交の担い 手たろうとしていたことを考えても,両者は必ず しも排他的ではない。また,本書がスポットを当 てるアーネスト・サトウにしてからが,スウェー デン国籍のソルブ人貿易商を父に持ち,貴族では ない。だとするならば,ここでの「貴族性」とは 何であり,それは「合理性」や外交官採用試験と どのような関係に立つのか,説明が必要であろう。
これは他の二つの点に関してもあてはまる。つ まり,それぞれの箇所での説明は歴史的事実に即 したものであろうが,それが他のどのような条 件・要因と組み合わさり,どのようなメカニズム を通じて機能していたのかが描かれていないため,
結果として,何が「旧外交」にとって構成的要因 なのかがぼやけてしまうのである。
(2) 「旧外交」と「権力政治」
第二の問題点は,本書の中心部分となるべき旧 外交の解説において,「パワー」「権力政治」が全 く取り扱われていない点である。この点は,最終 章において「軍事力を用いずに対話のみで理性的 な解決を得ようとすることの限界」を問題点とし て指摘していることから,単に歴史解釈にとどま らず,著者の処方箋との関係でも重要な意味を持 つ。だが, 「外交」と「パワー」の関係について本 書が論ずるところは少ない。
本書でパワー・ポリティクスの語が最初に登場 するのは,既に新外交の部分に入った
128頁であ り,国際連盟規約の画期性として「各国がパワー・
ポリティクス(権力政治)の発想を捨て」ること を求めていた点の指摘である。続く箇所ではナチ スのパワー・ポリティクス(131 頁),シニシズム としてのパワー・ポリティクス(137 頁)と,この 語はネガティヴな含意とともにのみ用いられる。
また, 「新外交」が「旧外交」を権力政治として批
判したことには特に注釈が加えられていないこと
から判断する限り, 「旧外交」に権力政治の側面が
あることは否定されていないのであろう。
しかし,パワー・ポリティクスが旧外交の特質 の一つである,ないしはそれと結びついていたも のであり,かつそれがネガティヴな意味を持つな らば,否定的な含意を持たされた権力政治を含む 旧外交が,全体としては肯定的に描かれているこ とになる。これが単なる論理的矛盾ではないとす るならば――実際にも矛盾ではないだろうと思わ れるが――,両者の関係についての説明が必要な はずである。権力政治の悪を旧外交の善が相殺し て余りあるのか,権力政治と旧外交は同時代的に 並存したものの論理的に分離可能なのか,あるい は旧外交と結びついた限りでは権力政治が肯定的 なものに転化するのか等々,本書のような評価を 可能にする構成は複数考えられる。両者の関係は,
「旧外交」がなぜ批判され「新外交」がなぜ歓迎 されたのかを考える上で一つの鍵となる論点であ ろうと思われるが,本書では残念ながら説明され ていない。
これに対し,例えばクレイグ/ジョージ(1997)
では, 「外交上の手続きのすべての基本は交渉であ る(5 頁)」としながらも,システムの維持と題さ れた第二部では,外交と軍事力の双方を含めた形 で,対外政策の「手続きや技術に関して暫定的な 一般化を行うこと」が,具体的な事例を挙げなが ら試みられている。パワーの問題を正視すべき旨 の提言を行っている以上,歴史的な検討も必要で はなかっただろうか。
(3) 時期区分の不分明
第三に,これらと関連した問題として,時期区 分の不分明さがある。著者は外交史家として多く の著作を既に明らかにしてきているが,歴史家が 多くの場合こだわりを見せる連続と断絶,ないし は時期区分の問題に関し,少なくとも本書では余 り関心を示していないようである
(2)。
最大の問題は, 「旧外交」の進化定着として描か れている
19世紀が,果たして本当に一つの時代で あろうか,という疑問である。例えば,パワー・
ポリティクスとの関係では,欧州協調体制と
19世 紀後半の権力均衡システムの関係をどう捉えるか が,本来一つの論点となるはずである。周知の通
り,ビスマルクは,メッテルニヒの手になる協調 体制を批判し,国益の仮借なき追求を旨とする現
実政治
Realpolitikを展開した。彼においては少な
くとも,共有されたシステム規範を主体的に擁護 しようとする視点はない。ビスマルクを特徴付け るのは,いわば合理的選択論的な,利益を極大化 する行動原理であり,その利益を保障するために システムのバランス計算が行われるのである。こ れが,著者の言う「国益に基づいた冷徹な外交(151 頁)」に含まれるのだとして,では,これは「優雅 なる外交会議の中で協調を模索する(70 頁)」, 「洗 練された」 「旧外交」なのだろうか。それとも,優 雅ならぬビスマルク外交は「旧外交」とは呼べな いのだろうか。
この点は,最初に指摘した概念の混乱とも関係 する。概念の混乱は
19世紀前半と後半を「旧外交」
という一つの枠に無理に押し込んだ結果なのでは ないだろうか。例えば一つの図式としては,欧州 協調を会議外交・多国間主義と位置づけ,19 世紀 後半を国益追求に基づく二国間主義と位置づけれ ば,その直後に来る「新外交」が再び多国間主義 に回帰し,会議外交の制度化を試みるのはなんら 不自然ではない。あるいは
Conze(2001)のように,
1815年から
48年までの欧州協調体制が,ヨー ロッパ規模の秩序理念と法的・政治的拘束を備え たものだったのに対し,これが
48年以降変容を来 たし,
1871年以降は国民的権力国家間の権力バラ ンスの上に危うい均衡が成り立ったとする解釈も ある。この解釈では,1871 年以降の国際システム は,国際関係の軍事化も含め,むしろ
18世紀の勢 力均衡に類似したものであり,ナポレオン戦争以 降第一次世界大戦までのシステムの継続は否定さ れる。84 頁から僅か
2頁で扱われている「旧外交 の衰退」は,「第一次大戦の時代」「第一次世界大 戦前夜」と矮小化して述べられるべきものではな く,19 世紀後半を通じて進展した過程である。
また,新外交とのコントラストを強調するため か, 「旧外交」の時代の始まりに位置した事件であ るフランス革命についての言及がまったくないこ とも目立つ点である。しかし,欧州協調体制は,
同時に革命の封じ込めを目的とした体制でもある。
職業外交官への愛情と外交制度分析の欠如と
そのような形で意図的に構築された体制を,「進 化」の相の下に描くのは適切だろうか。別言すれ ば, 「反革命」というイデオロギー的な目的の共有 が欧州協調体制を支える重要な柱だとするならば,
ここでいう「貴族性」の内実は文化・教養・マナー ではなく,国内の階層秩序を守ろうとする貴族の 政治的利益であり, 「外交」の発展はその共謀から 生まれた「瓢箪から駒」なのではないだろうか。
例えば
Meadwell(2001)は革命への恐怖が戦争を減少させたとし, 「平和は…革命を回避しようとい う欲望の副産物である(172 頁)」としている。だ とするならば, 「共謀」を抜きに「貴族性」の持つ 美徳をいかに基礎付けることが可能か,というこ とが本書の構想との関係では問われるべきであろ う。
同様に問題なのは,新外交,現代外交,さらに
「二十一世紀の外交」の区別である。旧外交と新 外交の対立が第一次世界大戦を分水嶺として比較 的明確に描かれているのに比べ,現代外交に関し てはそれがどのような画期を経て成立したのかは 明らかにされていない。現代外交を章題に掲げる 第四章では第二次大戦期から冷戦後までが扱われ ており,続く章では「二十一世紀の外交」が扱わ れているが両者の関係も不分明である。
内容的にも,現代外交の章で取り上げられてい る「国際的な組織化」 「サミット外交」は,各々の 記述を見れば明らかな通り,むしろ
20世紀を通じ て進展してきた現象と言うべきであり,戦後世界 に特有の現象ではない。更に
21世紀の章に関して は,それが既存の現象の加速なのか,新たに生じ た現象なのかも定かではない。これらは総じて,
「旧外交」からの乖離の拡大を示すために取り上 げられているようでもある。
20世紀以降現在に至 る時期に関しては,何が構造的に変化したのかが 鮮明には描かれていないのである。その結果,現 地点の定位も表層的なものにとどまっている。
(4) 小括
以上のように, 「新外交」に対しての筆者の言葉 を借りれば,本書における「旧外交」こそが「き わめて理解の難しい曖昧模糊とした概念(104 頁) 」
なのである。本書においては, 「外交」という営為 が具体的にどのような行為から構成され,どのよ うな機能を果たしているのか,という点の「分析」
――全体を一旦部分に分解し,検討するという,
語の根源的意味での――が実は殆どなされていな い。 「旧外交」について,ポジティヴにもネガティ ヴにもなりうる様々な要素が投げ込まれているの である。そのような論理的挟雑物を取り除くと,
「旧外交」の中に定数として残るのは, 「職業外交 官による外交」ということのみである。
また,外交という制度がどのように形成され,
どのように衰退しつつあるのか,という経緯は描 かれているのだが,その制度がどのように機能し,
何に貢献してきたのかは具体的に示されていない。
とりわけそれが顕著なのは
19世紀の叙述である。
本書のように
19世紀を一括して「旧外交」と呼ぶ ことを選ぶのならば, 「旧外交」は結局のところ大 戦争を防ぐ役には立たなかった,ということにな らないだろうか。
3. 「外交」と「外交官」
以上のように,古典としての位置を与えられた 本書の「旧外交」において,中核をなしているの は職業外交官の営為,という点である。職業外交 官の構成する世界が外交の中心をなしてきた時代 があることは,確かに疑いのない事実であろう。
そして「旧外交」を賞揚する言説がつむぎ続けら れていることそれ自体には理由があり,そこに「外 交」と呼ばれる何ものかの本質があるのも事実で あろう。しかしそのことと,現在外交を論ずるに あたって,職業外交官がその中心となる(べきで ある)という前提を置くこととはイコールではな い。だが,本書においては,意図的にか無意識に か,外交を論じるといいつつ外交官の営為が論じ られているように見受けられる箇所が少なからず ある。
(1) 「外交学」の成立は必須か?
本書においては, 「外交」に焦点を絞ることの正
当化論拠の一つとして,イギリスの学界動向が挙
げられている(10 頁) 。そこではイギリスにおける
「外交学」の発展が紹介され,日本がアメリカ国 際政治学の影響を(過度に)受けているがゆえに,
そのような,本来ありうる研究対象を見落として きたかのような描き方がなされている。ただし,
イギリス以外で,果たして同様に「外交学」が存 在するのかどうかは疑問である。評者の理解の及 ぶドイツに関する限り,同様の発展は見られない。
もちろん,だからといって「外交」研究が学問と して成立しないというわけではないが,それがイ ギリスの固有色を濃厚に帯びていることには留意 すべきだろう。
更に,著者の依拠するイギリス外交学において も,近年はやや新しい展開が見られるようである。
例えば,本書にも紹介されるポールグレイヴ社の シリーズは,2003 年にシリーズ編集者が交代し,
そ れ と と も に 名 称 が 「 外 交 研 究 (
Studies in Diplomacy)」から「外交と国際関係の研究(Studies in Diplomacy and IR)」に変更されている。名称の変化が内容の変化とどの程度対応しているのかは,
この分野の専門ではない評者には正確な判断をつ けかねるが,交代後に出版されたものの題目(『多 角的国際会議(Multilateral Conferences)』 『外交論 の古典』 『新しいパブリック・ディプロマシー』 『外 交のエッセンス』)から表面的に判断する限り,職 業外交官による狭い意味での外交と,より広い国 際関係一般の変容との関係を問い直そうとする姿 勢がうかがえるように思われる。
また,イギリス固有の事情の一つに,いわゆる 英国学派の存在があるが,その中での「外交」の 位置も変容しつつあるようである。 例えば
Neumann(2003)は,英国学派と外交研究の関係を概観す る論文において,英国学派の第三世代が外交研究 から遠ざかっているとするダン(Tim Dunne)の 評価を受け入れつつ,例外として
Der Derian(1987)
とロイス・スミト(Christian Reus-Smit)の研究を 検討している。この両者に共通するのは,時代区 分ないしは外交の様式の類型をより精密に論じよ うと試みている点であるともしている。これらか らは,現在のイギリスにおける外交学の進展も,
「旧外交」を頂点とした職業外交官外交の形成と
衰退という図式からは離れているようにも推察で きる。
もちろん,英国学派に関する論文を持ち(細谷
1998),本書の意義をそれと関連付けて論じている著者は,近時の研究動向にも評者などよりはるか に通じているはずである。だとするならば,評者 がたまたま参照した上記の動向紹介が一面的であ る可能性はある。また,何もイギリスの研究動向 に追従する必要はないので,著者が意図的にある 一時期の傾向を評価し,援用したということであ るのかもしれない。
ただし,外交を職業外交官の営為に絞り,その 盛衰を描くよりも,機能としての外交が政策論的 にどのような位置づけを持ちうるのか,ないしは 制度としての外交が国際システムにおいてどのよ うな位置を占めてきたのか,といった点を検討す る方が生産的ではなかっただろうか。例えば,英 国学派の代表作の一つであるブル(2000)の第二 部は「現代国際システムにおける秩序」と題され,
勢力均衡,国際法,戦争,大国と並ぶ一つの制度 として外交が位置づけられ,それがいかなる形で 秩序形成に対して寄与しうるかが検討されている。
実は本書の中でも,そのような検討を可能とする 論点は,個別には存在が示唆されているのだが,
実際には十分に展開されないままに終わっている。
以下ではその例として二つの論点に触れよう。
(2) 国際法と外交官
その一つは外交と法の関係である。
35頁ではニ コルソンが引かれ,帝国と法の結びつきが示唆さ れるが,その論点は深められていない。しかし,
近年の国際関係論ないしは国際法学が注目してい
る現象に, 「国際関係の法化(legalization)」や「ソ
フト・ロー(soft law)」があることは既に良く知
られている(cf. International Organization 2000; 齋
藤 2003)。
20世紀のリアリストたちが法学的アプ
ローチを厳しく批判したのは事実だとしても, 「旧
外交」が発展した
19世紀においては国際法も進化
を進めて行ったのではなかったのか。ニュスボー
ム(1997)によれば,19 世紀に講和条約や政治的
条約の数はそれほど増えていないが, 「政治的なも
職業外交官への愛情と外交制度分析の欠如と
のとは対照的に,非政治的条約は限り無く増大し
(269 頁) 」 ,さらに「もっと重要なことは,この時 代の国家のしきたりの中に多辺条約が普及したこ とであった。…19 世紀の多辺条約は,国家の行動 についての一般法則を規定する傾向を,ますます 発揮していた(270 頁)」と変化を特徴付けている。
その蓄積の上に
20世紀の国際法法典化はある。そ こにあるのは,法と非法の対立だけではなく,法 を設計主義的に捉えるか,慣習の蓄積として捉え るか,という見方の相違でもあるはずであり,少 なくとも後者は「旧外交」の世界とも親和的であ る可能性はないのだろうか。
また,現在の外交を考える上でも,法的ディス コースを駆使し,いかなるレヴェルの「合意」を 形成するかを繊細に使い分けることが外交官に とっても不可欠であろう。プロフェッショナルと しての「外交官」の活動の特質の一つは,そこに あるのではないだろうか。川副(2004)は「政治 家たちは…個々の規範が形式的法源に照らしてど ういう地位にあるとされるかには,殆ど意味を見 出さない。これに対して,まさにかかる区別を最 大限に尊重しようとするのが外交官僚集団であ る」と指摘している。この指摘の中では現職の職 業外交官である中村耕一郎の業績が引用されてい るが,その中村(2002)は法的拘束力を有しない 国際「合意」と国際約束の相違に関し,内容や機 能はもちろん,形式的な差異(用いられる典型的 な文言等)を含めて検討した業績である。
(3) 専門省庁と職業外交官
また,僅かに終章で触れられているのが,専門 省庁による「外交」である。既に日本語でも城山
(1997)が明らかにしているように,職業外交官 の外交機能の独占を破ったのは首脳や社会団体の みではなく,専門官僚でもある。しかもこれは近 年新たに生じたものではない。国際的な専門官僚 ネットワークの増大は
20世紀を通じて生じてい た現象である。この点は,職業外交官の機能を強 調する本書にとって最も大きな問題の一つとなる はずである。日本の文脈でも,近年こそ首相官邸 との関係が取り上げられるものの,それまでは大
蔵省や通産省と外務省との間の「二元外交」が問 題にされてきたからである。しかし,この問題に 本論部分では全くといっていいほど取り扱いがな い。特に第二次大戦後の多国間外交・経済外交を 扱う箇所(155-8 頁)で,この問題への言及がない のは奇妙である。
その結果,EU についての評価も――少なくと も評者の観点からは――一面的なものとなってい る。すなわち本書において
EUは, 「諸々の会議外 交の場において加盟国政府間で外交協議を行うこ と(157 頁)」を中心とするものとして描かれてい る。しかし,まず権限の面から言えば,具体的な 政策決定を行う役割を割り当てられているのは,
個別の閣僚理事会である。そこに関与するのは各 担当大臣や各専門官庁の代表が中心であり,交渉 を行う「加盟国政府」とはかなりの程度「加盟国 各省庁」である。これに対し,総務・対外関係理 事会は外務大臣の協議の場であり,また各理事会 を支える常駐代表委員会(COREPER)の高官は専 門の外交官である。そして首脳による年
4回の欧 州理事会に,統合に方向性を与える役割が割り当 てられている。この状況の下で,各専門省庁の間 の協議と,職業外交官を中心とする外務省間協議 のどちらが実質的な影響力を行使しているかは,
アプリオリに「外交協議」として前提できるもの ではない。
例えば
Van Schendelen(2003)は「実際の作業の場は常駐代表委員会ではなく,300 以上に上る 作業部会である(75 頁)」とし, 「実際には,各国 政府は調整を殆ど行っていない(111 頁)」として いる。これに対し
Van Grinsven(2003)は,近年各理事会での決定機能が低下し,欧州理事会に過 剰な負担がかかっていると指摘するが,その際に 特に総務・対外関係理事会において合意形成能力 の低下が目立つとし,専門省庁の協議と外務省の 協議の双方が機能不全に陥りつつあり,結果とし て首脳外交の負担が増大していると指摘する。い ずれにせよ,各加盟国において,どの程度「政府」
としての統一的意思形成と省庁間での政策調整が
なされているか,そしてそこで「外交協議」がど
の程度の役割を果たしているかは,政策領域・時
期・加盟国ごとに実証すべき問題であるのは明ら か だ ろ う (
cf. Kassim, Peters and Wright 2000;Kassim, Menon, Peters and Wright 2001)。
これは
EUに限った問題ではない。専門省庁の 間の情報交換・政策協議は増大しており,条約や 国際約束といった形を取らずとも,それが影響を 与える場面は増大しつつある。この論点は,スロー ターが“transgovernmentalism”の語を用いて,10 年来指摘している点であり,
21世紀の外交を考え る上で重要な論点となるはずである(Slaughter
1997)。とはいえ,著者は,終章に至ると職業外交官に 残された役割として調整機能を挙げている(189 頁)。外務省は国内的な利害関係が薄いため調整役 になりうるというのである。この主張を裏付ける 事実はそれまでの記述で示されていないので,そ の真偽は問いようがないが,これは検討に値する 論点であろう。
この図式――総合的政策調整と政策固有の専門 性の緊張関係――は,何も外交に限られる問題で はなく,二十世紀以降繰り返し提示されてきた対 抗である。ただし,国内政治の文脈では,この問 題は議会と行政府,政治家と官僚,民主主義と専 門性と言った形で提示されてきた。すなわち,調 整機能は政治家に期待されているのである。これ に比べ外交に固有の事情は,政治家,専門官僚,
職業的外交官という三者の関係となっている点で ある。無論,安全保障等については職業外交官が 専門家の役割をかねるとしても,その他の政策分 野に関しては,個別政策分野の技術的折衝を専門 官僚が担い,総合的政策判断を政治家が担うとす るならば,職業外交官の固有の機能はどこに見出 されるべきであろうか。
もちろん,政治家が日常的な調整活動を担うこ とは考えにくいため,官僚にその役割を委任する ことは十分あり得る。その意味では著者の主張に も首肯できる部分がある。しかし,政策調整を担 当する官僚が大統領府や首相府ではなく,外務省 にいなければならない必然性は,どこにあるのだ ろうか
(4)。例えば
Moses and Knudsen(2002)は,伝統的な省庁体系の下での外務省の地位は,各省
庁の権限領域が相対的には自律しておりかつ重複 しないという前提と,外務省はその中で対外的な ゲートキーパーの役割を果たすという前提に基づ いているが,この前提は実情にそぐわなくなって いるとする。そして職業外交官が固有の機能を発 揮する場として,外務省を各省庁の対外関係部門 の間の調整を行う小規模な機関へ改組し,これを 首相府の一部門とすることを提案している。
(4) 小括
本書においては,環境変化の中で, 「外交」に期 待される機能がどのようなものであり,その中で 職業外交官によってしかなされ得ないものが何な のか,ということについての吟味がなされずにい る。そのため,最終章の提言もやや唐突に映らざ るを得ない。これに対し,例えばブル(2000)は,
通信,交渉,情報,摩擦の最小化,象徴的役割の
5つの機能を挙げ,その中でも特にどのような点に おいて外交官が優位を持っているか,ということ を検討している。このような検討を欠く本書は,
全体としても,外交官による外交の重要性を素朴 に主張しているにとどまっているといわざるを得 ない。
4. おわりに
本書の著者は既に多くの著作を発表し,外交史 家として世代を代表する地位にある。その地位に ふさわしい淀みない語り口に,読者は失われた「旧 外交」の世界の存在を印象付けられるであろう。
その作業を通じて, 「旧外交」に含まれているある 種のポジティヴな面ないしは可能性,そして「外 交」の範形足るべき何かを救い出すことが本書の 目的であるのかもしれない。
しかし, 「外交」が何であったのかを知ろうとす るとき,本書の「外交」は専門外交官の営為とい う点を除いて,分析的な把握を拒絶している。し たがって,本書が「旧外交」の評価を通じて救い 出そうとしているのも,職業外交官だけというこ とになるであろう。
だが,そもそも本書の外交の定義に立ち返って
職業外交官への愛情と外交制度分析の欠如と
みても(15 頁) ,実はその活動が外交官に限られる 旨の記述は一言もない。したがって,本書の定義 する外交が,歴史的には一定の条件の下で職業外 交官に担われることで制度化されてきたことは事 実だとしても,論理的ないし機能的に,職業外交 官でなければできないとは書かれていない。にも かかわらず,プロフェッショナルとしての職業外 交官が,どのような局面で,どのような機能を果 たし,そのことでどのように国際システム(ない しは一国の対外政策)に貢献してきたのか,とい うことについての具体的な
....
分析が本書には欠落し ている。
職業外交官による「外交」という制度がどのよ うなときに何の役に立つのかを明確に論証しない 限り, 「外交」を維持するという主張も単なる懐古 趣味か文化財保存以上の意味は持ち得ないだろう。
少なくとも評者の目には,本書を通じて語られる
「外交」への愛情が,国家機能全般が問い直され る現在において,擁護論として機能するものとは 映らない。優れた外交史のモノグラフを持つ著者 にならば,具体的な事例から外交官ならではの寄 与を指摘し,そこから一定の含意を引き出すとい う作業が,無理な要求であるとは思えないのだが。
注
* 本稿の執筆に際しては,同僚である,国際関係史が ご専門の半澤朝彦氏からご助言をいただいた。記して 謝意を表したい。
(1) 評者は,外交史・国際政治史や国際政治学を主たる 専門としていない。以下に挙げる三つの問題点につい ても,専門家にとっては既に了解事項があり,詳細な 説明を要しないのかもしれない。しかし,少なくとも 本書の記載のみからは一貫した整合的理解を引き出 すことが困難な箇所があり,かつ素人的に考えてもそ れが国際関係の歴史的理解において一定の重要度を 持つと思われるため,蛮勇を恐れず指摘する次第であ る。
(2) 例えばKrüger(1991; 1996)が一例である。日本語
では,高橋(1994)と藤原(1994)の共通点と相違が 興味深い。また欧州協調の画期性と19世紀後半との 相 違 に つ い て は , 大 き な イ ン パ ク ト を 与 え た の が
Schroeder(1994)であり,これに対する応答の諸論稿
を収めたのがKrüger and Schroeder(2002)である。
(3) なお,細かい点だが,モーゲンソーの紹介について
は不適切な部分がある。すなわち「アメリカで学問を 修め(151頁)」たとするのは誤りである。モーゲン ソーは,1923年から27年までベルリン等で哲学や法 学を学んだ後,1928年から31年まではドイツ労働法 の泰斗たるジンツハイマーの下で働き,32 年にはフ ランクフルト大学から国際法の分野で法学博士号を 取得する。そして1932年にはジュネーヴで大学教授 資格(Habilitation)を取得し,同年からジュネーヴ大 学で講師を務め,35 年にスペインに逃れた後は,マ ドリッドで教授職を務めている。また彼の構想を理解 する上でも,カール・シュミットの影響を主要な補助 線とするのが定説であろう。なおその影で後景に退い ているジンツハイマーとの関係を分析の補助線とす る論考として,Scheuerman(2008)を参照。
(4) その他の点でも,188~189 頁において提示される 外交官の役割には疑問がある。
全体に関連することとしては,「外交官」と「職業 外交官」の使い分けがある。日本においてもいわゆる アタッシェが,在外公館の「外交官」の少なくない部 分を占めていることは知られている。その中で職業外 交官だけが「特別な相手国文化の理解,そして特別な 信頼関係(188 頁)」を備える存在とされているのは なぜであろうか。
まず,任地により長期に滞在することによる社会化 効果という説明は,少なくとも一回の赴任単位では維 持できない。日本の場合,各省庁からのアタッシェが 3年程度の任期であるところ,外務省から各公館に派 遣される「職業外交官」の任期について,少なくとも キャリアのそれが有意に長いとはいえないように思 われる。2002年 4月の参議院での答弁で,当時の北 島信一官房長は,「従来よりおおむね三年程度の任期 で大使の人事を行ってきております」と答弁し,川口 順 子 外 務 大 臣 は 自 身 の 公 使 と し て の 任 期 が 二 年 で あったことを「税金の使い方としては非常にもったい ない」として三年程度の任期を適切なものとしている
(『第154国会参議院外交防衛委員会会議録第7号』
平成14年4月11日)。
これを前提としたとき,職業外交官がアタッシェと に対して優位を持つのだとすれば,前者が任地の文化 をより迅速に吸収する能力を予め備えているという 前提をおかないとすれば,職業外交官については同一 の地域(「土地勘」が機能する範囲)で異動が行われ ているというのが一つの回答になりうるであろう。し かし,この点についての理由は本書では述べられてい ない。
個別には,交渉における役割という第一の点につい ては,政治家が選挙への考慮から短視眼的になりやす いというのは政治学の標準的設定として理解しうる としても,なぜ「感情に左右されない優れた」という 修飾句つきの外交官の存在を前提できるのだろうか。
もちろんそうであることが望ましいのは言うまでも ないが,そのような外交官の選抜・育成に関する展望 がなければ,「選挙結果に左右されない優れた」政治
家を望むのと同じことであろう。短慮の政治家と同様 に,「省益ないしは個人的キャリアに固執する外交官」
というのも,政治学における極めて自然な仮定である。
第二の,パブリック・ディプロマシー,とりわけ現 地での人的交流を通じたイメージ改善・ヴィジョンの 伝達に関しては,各国に外交官を派遣することの固有 の意義といえるだろう。ただしここでも,「広報担当 の公使が…正すとすれば」と仮定形になっていること が説得力を弱めている。本論部分でこのような活動の 実例を挙げ分析しておくべきではなかったか。
なお,現地でしかできない活動,という観点からは,
筆者が,現地での情報収集・分析活動を,外交官に残 された役割としてあげていないことも注目に値する。
この点は交渉を要しないため「テクノクラートや学者
(189頁)」で十分だということであろうか。
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