153
モ ダ ニ ズ ム が 夢 見 たユ ー トピア:
ドイ ツ 田園 都 市 建 設 の歴 史(4)
一 ヘ レ ラ ウ の誕 生 一
副 島 美由紀
1."ヘ レ ラ ウ の 子 供 た ち"
ア メ リカ の作 家 ア プ トン ・シ ン ク レ ア の ピ ュ リッ ツ ァー 賞 受 賞 作 品 に,ナ チ ス支 配 下 の ドイ ツ を扱 っ た シ リー ズ 『 世 界 の 終 わ り』 と 『 竜 の 歯 』1があ る。
主 人 公 の ア メ リカ 人 青 年 は少 年 時 代 の 一 時 期 を ドレ ス デ ン郊 外 の ヘ レ ラ ウ で 過 ご し,地 元 の子 供 た ち と共 に学 び,年 に一 度 開 催 さ れ る祝 祭 週 間 を体 験 す る。 そ の 時 上 演 され た グ ル ッ ク の オ ペ ラ 「オ ル フ ェ ウ ス 」 を見 て彼 が 感 銘 を 受 け る場 面 を,シ ン ク レ ア は 次 の よ う に締 め く くっ て い る。「 い ず れ必 ず ヘ レ ラ ウ の 子 供 た ち の 中 か ら未 来 の オ ル フ ェ ウ ス が 現 れ,人 々 の 感 覚 を魅 了 し, 精 神 を鼓 舞 し,貧 欲 や 憎 悪 の 嵐 を鎮 め るだ ろ う。 そ し て戦 争 は避 け られ る だ ろ う。 国 家 間 の戦 争 の み な らず,ヨ ー ロ ッパ を引 き裂 こ う とし て い る苛 烈 な 階 級 闘争 まで も。 ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 の 富 裕 階 級 の 生 徒 た ち は,工 場 地 区 で あ る郊 外 の 労 働 者 た ち の 子 弟 と肩 を 並 べ て 一 緒 に 踊 っ て い る で は な い か 。 ミュ ー ズ の 神 殿 の 中 に は 階 級 も国 民 も人 種 もな い 。 あ る の はた だ,美 と歓 喜 の夢 を抱 い た 人 間 性 の み で あ る。 そ れ が1913年,芸 術 を愛 す る者 皆 の信 念 だ っ た 。 それ が この 明 る い牧 場 の上 に建 つ 高 くて 白 い神 殿 で 教 え られ て いた
モ ダン
信 条 だ っ た 。 この 幸 運 な現 代 の 日 々 に,文 明 の発 展 は必 然 とな り,不 可 避 と な っ た 。 」2
1Sinclair ,Upton,World'send,NewYork,1940;Dragon'steeth,NewYork, 1942.
2Sinclair ,Upton,World'send,p.5.
ヱ54
人 文 研 究 第103輯 XNヘレ ラ ウ の 子 供 た ち"と は
,1909年 に建 設 さ れ た ドイ ツ最 初 の 田 園都 市 に 育 つ子 供 た ち の こ とで あ る 。 ヘ レ ラ ウ は労働 者 に 良 質 の 住 宅 を提 供 す る と同 時 に 自立 した 自主 管 理 的 共 同体 を作 り,さ らに芸 術 教 育 に よっ て"新 しい 人 間"を 育 て る とい う希 望 の も と に建 設 され た 。 また 芸 術 家 や 作 家 た ち が 住 み 集 う こ とに よ っ て生 まれ た ヘ レ ラ ウ の芸 術 家 コ ロ ニ ー は,新 た な 文 化 の 発 信 地 とな る こ とを 目指 して 意 欲 的 に活 動 して い た 。 ヘ レ ラ ウ の子 供 た ち は,ダ
ル ク ロ ー ズ 学 校 で リ ト ミ ック 教 育 を受 け,ド イ ツ工 芸 工 房 で工 作 を学 び,皆 が 庭 付 き住 宅 に住 む と い う恵 まれ た 住 環 境 で 育 つ子 供 た ち で あ った 。 シ ン ク レ ア は 実 際1913年 の 祝 祭 週 間 にヘ レ ラ ウ を訪 れ て 芸 術 家 コ ロ ニ ー に住 む 作 家 た ち と交 流 を持 っ て い る。 経 済 ・社 会 改 革 運 動 の 指 導 者 で も あ っ た彼 が こ の 生 ま れ た ば か りの 田 園 都 市 に 満 ち て い た 期 待 や 高 揚 感 を人 々 と共 有 した で あ ろ う こ と は,上 記 の筆 致 か ら も容 易 に想 像 す る こ とが で き る。 ヘ レ ラ ウ に 集 った 人 々 は,「新 た な人 生 哲 学 と改 革 志 向 の 時代,総 合 的 な人 間 性 探 求 と計
画 的 な芸 術 教 育 の時 代 」3の到 来 を感 じて い た 。
田 園 都 市 運 動 は,産 業 革 命 の過 程 にお い て悪 化 した 都 市 の 住 環 境 を改 善 し, 疲 弊 し た人 々 の 人 間性 を 回復 し,健 康 で快 適 か つ公 正 な社 会 生 活 を構築 し よ う とす る総 合 的 な社 会 改 革 だ っ た 。 そ れ は また 工 業 を否 定 す る こ とな く農 業 や 自然 と併 存 させ,か つ 芸 術 活 動 を奨 励 す る こ とに よ っ て人 問 的 な生 産 社 会 を創 る こ と を 目指 した,言 うな れ ば モ ダ ニ ズ ム 時代 の ユ ー トピ ア像 の一 つ の 顕 現 で あ っ た 。
ヘ レ ラ ウ の 建 設 は ドイ ツ に お け る 田 園都 市 建 設 運 動 の 最 初 の 実 例 と して 記 録 され る の み な らず,住 宅 改 革,土 地 改 革,芸 術 教 育 運 動,自 然 療 法 運 動 等 の 生 活 改 革 運 動 が 最 も総 合 的 に結 び つ い た例 と して 記 憶 さ れ るべ き 出来 事 で あ る。 また 二 度 の大 戦 とナ チ ズ ム の台 頭,東 西 ドイ ツの 分 断 とい う歴 史 の 奔 流 に翻 弄 され て理 想 の 実 現 が 阻 まれ た こ との悲 劇 性 にお い て も,ヘ レ ラ ウ の
3Ring ,Reinhard,Dasverklarte,dasrealeunddasbeispielhafteHellerau,in:
Ring,Reinhard(Hrsg.),HellerauSymposion,Remscheid,1993,S.119.
モ ダニ ズ ム が夢 見 た ユ ー トピア:ド イ ツ田 園都 市 建設 の歴 史(4)
ヱ55名 は 記 憶 され るべ きか も しれ な い。 本 論 は 田 園都 市 とい うモ ダ ニ ズ ム に お け る ユ ー ト ピア 像 の 発 想 と実 現 に 至 る ま で の歴 史 を 回 想 す る作 業 の 一 環 と し て,ド イ ツで 最 も有 名 な 田 園 都 市 の歴 史 を これ まで3編 の 論 文4に お い て 考 察 して きた 前 史 を踏 ま え な が ら個 別 的 に記 述 す る試 み で あ る。
2.ド イ ツ 田 園 都 市 協 会 の 成 立
田 園 都 市 建 設 構 想 は,1870年 代 に 始 ま っ た 住 宅 改 革 運 動 が 労 働 者 用 住 宅 の 改 善 や 住 宅 建 設 組 合 運 動,土 地 改 革 運 動 や 労 働 者 コ ロ ニ ー 建 設 等 々 の 成 果 を 経 て 徐 々 に 発 展 し た 思 想 で あ る 。 も と も と イ ギ リ ス の エ ベ ネ ザ ー ・ハ ワ ー ド に よ っ て1898年 に 提 唱 さ れ た も の だ が5,1900年 に ド イ ツ に も た ら さ れ, 1902年 に は 「ド イ ツ 田 園 都 市 協 会DeutscheGartenstadtGesellschaft(以 後 DGGと 略 記)」 が 誕 生 し て い る 。DGGの 母 体 は 入 植 運 動 コ ミ ュ ー ン の 一 種 で あ る 「新 共 同 体NeueGemeinschaft」 で,そ れ は 「フ リ ー ド リ ヒ ス ハ ー ゲ ン 文 学 サ ー ク ル 」 を 形 成 し て い た ハ ル ト兄 弟(HeinrichundJuliusHart)
やE・ ミ ュ ー ザ ム ら の 文 芸 批 評 家 お よ び 作 家 た ち と 政 治 活 動 家 の カ ン プ フ マ イ ア ー 兄 弟(PaulundBernhardKampffmeyer),ア ナ ル コ ・ソ ー シ ャ リ ス ト のG・ ラ ン ダ ウ ア ー や 汎 神 論 的 エ コ ロ ジ ス ト達 を 中 心 と し て 形 成 さ れ た 。
「新 共 同 体 」 は シ ャ ル ル ・フ ー リ エ に よ る19世 紀 初 頭 に お け る 空 想 上 の 共 同 体 「フ ァ ラ ン ス テ ー ル 」 に 理 想 像 を 求 め る と 同 時 に 禁 酒 ・菜 食 主 義,自 然 療 法 主 義,ヌ ー デ ィ ズ ム と い っ た19世 紀 末 特 有 の 生 活 改 革 要 素 を 持 ち 併 せ て お
4副 島 美 由 紀 「モ ダ ニ ズ ム が 夢 見 た ユ ー ト ピ ア:ド イ ツ 田 園 都 市 建 設 の 歴 史(1)一 世 紀 転 換 期 の 生 活 改 革 運 動 」,小 樽 商 科 大 学 「人 文 研 究 」第96輯,1998;「 モ ダ ニ ズ ム が 夢 見 た ユ ー ト ピ ア:ド イ ツ 田 園 都 市 建 設 の 歴 史(2)一 労 働 者 コ ロ ニ ー の 建 設 」小 樽 商 科 大 学 「入 文 研 究 」第97輯,1999;「 モ ダ ニ ズ ム が 夢 見 た ユ ー ト ピ ア:
ド イ ツ 田 園 都 市 建 設 の 歴 史(3)‑E・ ハ ワ ー ド に 先 ん じ た ド イ ツ の 田 園 都 市 構 想 」 小 樽 商 科 大 学 「人 文 研 究 」 第100輯,2000.
5Howard
,Ebenezer,Tomorrow:apeacefulpathtorealreform.London,1898.
(reprint,editedbyRichardLeGatesandFredericStout)London1998.(1902
年 にGardenCitiesofTo‑Morrowと し て 再 版 さ れ る 。)『 明 日 の 田 園 都 市 』 長 素 連 訳,鹿 島 出 版 会,1968.
ヱ56
人 文 研 究 第103輯
り,ま た ア ン リ ・フ ァ ン ・デ ・ヴ ェル デ に よ る指 導 を仰 ぐな ど して芸 術 教 育 に も関 心 を持 って い た 。 よ っ て そ の 改 革 志 向 に は 田 園都 市 構 想 と共 通 す る も の が あ っ た が,自 然 回 帰 的 新 ロ マ ン主 義 や民 族 主 義 的 要 素 に よ る擬 似 宗 教 的 プ ロ グ ラ ム が 災 い して 結 成 か らほ ど な く して 解 体 し,ベ ル リン の商 人 ハ イ ン リ ヒ ・ク レ ー プ ス に よっ て ハ ワー ドの 田 園 都 市 思 想 を知 った ハ ル ト兄 弟 と B・ カ ンプ フ マ イ ア ー が,入 植 運 動 の 理 想 を託 す か た ち でDGGを 設 立 す る こ と に な る6。
田 園 都 市 構 想 に お い てDGGの メ ンバ ー を 最 も強 く引 きつ け た の は,そ の 土 地 公 有 化 理 論 で あ っ た 。DGGの 初 代 会 長,H・ ハ ル トは そ の プ ロ グ ラ ム に,
「DGGの 目標 は ,都 市 お よ び農 村 の 公 有 地 を基 盤 に した 田 園 都 市 の建 設 理 念 お よび そ の 目的 に有 益 な あ らゆ る対 策 の促 進 に対 す る理 解 を広 め る こ とで あ る。DGGが 奨 励 す るの は,農 地 の 経 済 的 に調 和 の とれ た 分 配 とそ の都 市 部 と の共 存 を貫 徹 す る よ うな 入 植 地 の 開 墾 で あ る。DGGが 目指 す もの は,産 業 の 農 村 部 へ の組 織 的 な移 転 に よ る住 環 境 改 革 で あ り,そ こで は産 業 の 要 請 も十 分 に考 慮 した衛 生 的 で 美 的 な広 範 囲 の 建 設 が 可 能 とな る はず で あ る。(̲) 現 在 の あ らゆ る生 活 改 善 思 想 が,田 園 都 市 にお い て最 も確 実 か つ有 益 に結 実
す る。 」7と記 し て い る。 ま た1904年 フ ラ ン ク フル トで 開催 され た 最 初 の 「ド イ ツ住 宅 会 議 」 に お い て も,DGGは 住 宅 ・ 定 住 問 題 に 関 して 土 地 改 革 の 必 要 性 を強 調 した テ ー ゼ を発 表 し,「住 宅 改 革 は都 市 人 口 の分 散 と計 画 性 の あ る宅 地 開 発 を伴 っ て 初 め て可 能 とな るの で あ り,そ の た め に は土 地 の公 有 化 が 不 可 欠 で あ る」と説 い て い る8。勿 論,xx感 動 的 で は あ る が 国 民 経 済 的 に は甘 い考 え"と い っ た批 判 も あ っ た が9,土 地 と住 居 の 自主 管 理 権 が 保 証 さ れ た 自治 体
6Schollmeier
,Axel,GartenstadteinDeutschland.M廿nster,1988,S.58;Linse, Ulrich,OkopaxundAnarchie,M茸nchen,1986,S.35,65f;Hartmann,Kristiana, DeutscheGartenstadtbewegung,M伽chen,1976,S.27.
7Schollmeier
,ibid.,S.57.
8ibid .,S.60.
9ibid .,S.63.
モダ ニ ズ ムが 夢 見 た ユー トピア:ド イ ツ 田園 都 市建 設 の歴史(4)
ヱ57の 形 成 や,換 気 や 採 光 に配 慮 した 庭 の あ る住 宅 とい っ た 住 居 改 善 方 法,ま た 共 同 体 用 の コ ンサ ー トホー ル や 図 書 館 の建 設 とい っ た文 化 的 プ ロ グ ラム に は 実 行 可 能 性 が あ っ た 。 田 園 都 市 思 想 は生 活 改 革 運 動 思 想 の 最 も進 化 した 器 と して ドイ ツ社 会 に徐 々 に浸 透 して い き,第 一 次 大 戦 前 に は ケ ー ニ ヒ スベ ル ク, ベ ル リン,ハ ン ブル ク,マ グ デ ブ ル ク,ル ー ドヴ ィ ヒス ハ ー フ ェ ン,マ ンハ イ ム,ニ ュ ル ンベ ル ク,ミ ュ ン ヒ ェ ン,ヴ ュ ル ツ ブル ク,シ ュ トゥ ッ トガ ル トそ の他 の都 市 に 「田 園 都 市 協 会 」 が 誕 生 して それ ぞ れ が 田 園都 市 建 設 を検 討 して い た と言 う10。そ し て最 初 に田 園 都 市 建 設 に着 手 した のが,ド レス デ ン
の 企 業 家 カ ー ル ・シ ュ ミッ トで あ った 。
3.カ ー ル ・ シ ュ ミ ッ ト と ド レ ス デ ン ・ク ラ フ ト工 芸 工 房
イ ギ リス最 初 の 田 園都 市 レ ッチ ワー ス の建 設 に出 資 した の は チ ョ コ レー ト会 社 の キ ャ ドバ リー と石 鹸 会 社 リヴ ァー の二 つ の 企 業 で あ っ た が,ヘ レ ラ ウ の 言 わ ば 生 み の 親 とな っ た カ ー ル ・シ ュ ミ ッ ト(KarlCamillo Schmidt,1873‑1948)も や は り家 具 工 場 の所 有 者 で
あ った 。 シ ュ ミッ トは ケ ム ニ ッツ 近 郊 の織 物 職 人 の家 庭 に生 まれ,親 族 に椅 子 の 製 造 者 が い た こ と も あ っ て 10才 の 頃 か ら家 具 職 人 に な る こ と を夢 見 て 育 つ 。ケ ム ニ ッ ツで 徒 弟 時代 を過 ご した 後,ド イ ツ の職 人 的 伝 統
に則 って 北 ドイ ツ,デ ンマ ー ク,ス ウ ェ ー デ ン,
カ ー ル ・シ ュ ミ ッ ト,
1go9.
ロ ン ドン外 と修 行 の 旅 に赴 き,起 業 家 精 神 や 機 械 化 され た 生 産 方 式 を学 ぶ 。 特 に ロ ン/ドン滞 在 中,キ ャ ドバ リー 社 の進 歩 的 な労 働 者 コ ロ ニ ー や ア ー ツ ・ア ン ド ・ク ラ フ ツ運 動 に影 響 を受 け,ま た産 業 革 命 の 社 会 的 問題 点 や 大 量 生 産 の問 題 点 を 目 の 当 た りに して,家 具 工 場 の 将 来 的 責 任 は効 率,芸 術 性,労 働 の社 会 的 側 面 の3点 を向
10Krabbe
,WolfgangR,GesellschaftsanderungdurchLebensreform,Gdttingen,
1974,S.31.
ヱ58
人 文 研 究 第103輯
上 させ る こ とで あ り11,ま た 製 作 自体 の 課 題 は工 業 と芸 術 の 融 合 を 図 って 模 倣 や 装 飾 美 に 頼 る こ とな く素 材 と 目的 に適 っ た家 具 を製 作 す る こ とで あ る と考 え る よ う に な る12。 そ し て ドレ ス デ ン に 帰 っ て マ イ ス タ ー と な っ た 後,1898年 に協 力 者 を得 て 家 具 製 作 会 社 「ド
レス デ ン ・ク ラ フ ト工 芸 工 房DresdnerWer‑
kst温ttenfUrHandwerksknust」 を興 す の で あ る。
当 時 の ド レス デ ン で はち ょ う ど工 芸 に関 す る関 心 が 高 ま りつ つ あ り,工 芸 博 物 館 に お い て装 飾 や 工 芸 の様 々 な展 覧 会 が 開催 され て い た 。 シ ュ ミ ッ トは建 築 家 や 芸 術 家 との 共 同作 業 を重 視 して社 員 に展 覧 会 や コ ンペ へ の参 加 を奨 励 し,1900年 の住 宅 展 示 会 コ ンペ で は ク ラ フ ト工 芸 工 房 が 賞 を取 る こ とに な る。 課 題 は ドイ ツ 風 で 質 素 な 市 民 用 住 宅 の デ ザ イ ン
「ド レ ス デ ン ・ク ラ フ ト 工 芸 工 房 」 に よ る 家 具,1901.
「 ド レ ス デ ン ・ク ラ フ ト工 芸 工 房 」 の 従 業 員,1906.
で,居 間 ・寝 室 ・ 台 所 の 内装 全 体 を750マ ル クで 仕 上 げ る こ とが 条 件 だ っ た 。 1890年 代 は低 所 得 者 用 住 宅 の建 設 が建 築 家 の 課 題 と して 認 識 され 始 め た 時 代 で あ り,ベ ル リ ンで も初 め て の 「 労働 者 住 宅 設 計 図 展 示 会 」が1892年 に 開
か れ て い る 。 また 「 芸 術 の 番 人Kunstwart」 「 装 飾 芸 術DekorativeKunst」
「ドイ ツ の 芸 術 と装 飾DeutscheKunstundDekoration」 と い っ た雑 誌 が 外 国 の 模 倣 に依 ら な い芸 術 を奨 励 し,装 飾 が ユ ー ゲ ン トシ ュテ ィ ー ル を志 向 す
11Fasshauer ,Michae1,DasPhanomenHellerau,1997,Dresden.S.15.
12Peschel ,Peter,KarlSchmidtundseineWerkstattenfUrHandwerkskunst,in:
DresdnerHefte,Jrg.15,Heft51,Dresden,1997,S.4.
モ ダ ニ ズ ムが 夢 見 た ユー トピア:ド イ ツ 田園 都 市建 設 の歴 史(4)
ヱ59る一 方 で建 築 は機 能 的 で 質 実 な 美 を求 め て い た 。 シ ュ ミ ッ トの存 在 と彼 の工 房 は業 界 で そ の 名 を知 られ る よ う に な り,同 様 の理 想 を抱 く文 筆 家 や 建 築 家 た ち との交 流 が 始 ま る。 中 で も彼 の 最 も重 要 な協 力 者 とな っ た の が,ミ ュ ン
ヒ ェ ン 出 身 の 画 家 兼 建 築 家 で1900年 当 時 ユ ー ゲ ン ト シ ュテ ィ ー ル の 限 界 を 見 極 めニ ュ ル ンベ ル ク で 低 所 得 者 用 住 宅 の デ ザ イ ン を手 が け て い た リ ヒャ ル ト ・リー マ ー シ ュ ミ ッ ト(RichardRiemerschmidt,1868‑1957)で,彼 は 後 にヘ レ ラ ウの 主 要 な デ ザ イ ン を手 が け る こ とに な る。 さ らに7年 間 の英 国 滞 在 経 験 を生 か して 一 戸 建 て 建 築 に関 す る著 書 を 著 して い た ヘ ル マ ン ・ム テ ー ズ ィウ ス(HermanMuthesius,1861‑1927)や ト リー ア の 専 門 学 校 で 建 築 を教 え,や は り小 規 模 住 宅 に最 大 の 関 心 を抱 い て い た ハ イ ン リヒ ・テ ッ セ ノ ウ(HeinrichTessenow,1876‑1950)が そ れ に続 く こ と に な る。 また 思 想 面 に お け る重 要 な 支 援 者 とな っ た の は後 に ヴ ァイ マ ー ル 憲 法 の起 草 者 と な る政 治 家 の フ リー ド リヒ ・ナ ウマ ン(FriedrichNaumann,1860‑1919)
で あ る。 ナ ウマ ン は1896年,xx土 地 改 革 の 父"と 呼 ばれ た 社 会 改 革 者 の ア ド ル フ ・ダ マ シ ュ ケ等 と共 に 国民 社 会 協 会(derNationalsozialeVerein)を 結 成 して お り,特 に キ リス ト教 精 神 に基 づ い た 社 会 改 革 の プ ロパ ガ ン デ ィス ト
と して 活 動 して い た 。 芸 術 教 育 運 動 に も関 わ る と同 時 にDGGの 会 員 で も あ り,1904年 か らは 帝 国 議 会 議 員 とな って い る。
そ の よ う な芸 術 関 係 者 の 集 ま りか ら,1907年 に 「ド イ ツ 工 作 連 盟Deu‑
tscherWerkbund」 が 設 立 さ れ る。 そ れ は近 代 化 に よ る芸 術 と産 業 の融 合 を
目指 す12名 の芸 術 家 と12の 企 業 か ら成 る同 盟 で,上 記 の3名 を は じ め ペ ー
タ ー ・べ 一 レ ン スや テ オ ドー ル ・フ ィ ッシ ャー,フ ァ ン ・デ ・ヴ ェル デ とい っ
た 気 鋭 の建 築 家 が 名 を連 ね て い た 。 芸 術 と産 業 を 結 合 させ た成 功 例 と して そ
の 名 を知 られ て い た 「ドレ ス デ ン ・ク ラ フ ト工 芸 工 房 」 に 「ドイ ツ 工 作 連 盟 」
の 事 務 所 が 置 か れ,シ ュ ミ ッ トの工 場 は進 歩 的 な建 築 家 ・工 芸 家 た ち に連 携
の 機 会 を提 供 す る場 とな る。 芸 術 教 育 に も関 心 の あ った シ ュ ミッ トが企 業 の
教 育 実 践 と し て まず 着 手 した の が 工 場 内 の 職 人 養 成 で あ っ た が,従 来 の徒 弟
制 度 の も とで は真 に個 人 的 な 創 造 性 の 洒 養 は 困難 で あ る こ と を実 感 す る よ う
ヱ60
人 文 研 究 第103輯
に な り13,代 わ っ て よ り大 規 模 な 事 業 計 画 が 誕 生 す る こ とに な る。
4.ヘ レ ラ ウ の 始 ま り
ドレ ス デ ン・ク ラ フ ト工 芸 工 房 は成 長 して1906年 に は250名 の従 業 員 を数 え る よ う に な り,し か も翌 年 「ミュ ン ヒ ェ ン家 具 工 房MttnchnerWerk‑
stattenfUrWohnungseinrichtung」 と合 併 して 「ドイ ツ ・ク ラ フ ト工 芸 工 房 DeutscheWerkstattenfUrHandwerkskunstGmbH」 と な る。 工 場 新 築 の 必 要 性 に迫 られ た シ ュ ミ ッ トが ドイ ツ工 作 連 盟 の仲 間 に相 談 した と こ ろ,皆 が 揃 って 提 案 した のが 田 園 都 市 の建 設 で あ っ た 。 シ ュ ミ ッ トが そ れ か ら ド レ
ス デ ン郊 外 に 適 切 な土 地 を見 つ け て73人 の地 権 者 と買 い付 け 交 渉 に 入 る ま で,さ ほ ど時 間 はか か らな か っ た 。2っ の村 落 を統 合 した 新 た な地 所 は,シ ュ ミ ッ トに よ っ てxxヘ レ ラ ウ"と 名 付 け られ る。 彼 は以 下 の3点 を 田 園 都 市 建 設 に お け る 自分 の 責 務 と考 え て い た 。 工 場 を建 設 して安 定 し た労 働 の 場 を提 供 す る こ と,良 質 の住 宅 を労 働 者 に提 供 す る こ と,そ して 田 園都 市 構 想 に賛 同 す る工 場 労 働 者 以 外 の 多様 な住 民 を勧 誘 し,文 化 的 ・社 会 的 に 自立 した共 同体 を作 り上 げ る こ とで あ る。 シ ュ ミ ッ トが まず 計 画 した の は 「ドイ ツ ・ク ラ フ ト工 芸 工 房 」 の工 場 と社 屋,社 員 の住 宅 とし て100戸 の 家 族 用 住 居,独 身 者 用 の 寮,市 民 層 を対 象 と した 中 規 模 住 宅 の建 設 で,後 の 計 画 と して 商 店 や 医 院 の 誘 致 と幼 稚 園 や サ ナ トリ ウム の建 設 が 予 定 さ れ て い た 。
住 民 を募 っ て 理 想 的 な 共 同 体 を 創 るた め に は 田 園都 市 構 想 に対 す る周 囲 の 理 解 と賛 同 が不 可 欠 で あ った が,ち ょ う どそ の 年 ハ ワ ー ドの 著 書 が翻 訳 さ れ て ドイ ツ語 で読 め る よ う に な り14,シ ュ ミ ッ トの 周 りの 多 くの 人 々 が 彼 の 田 園 都 市 建 設 計 画 に 関 心 を示 す よ う に な る。 彼 ら の 討 論 は ウ ィー ン の 建 築 家 オ ッ ト ・ヴ ァー グ ナ ー の 伝 記 を 著 し た 芸 術 史 家 のJ・A・ ル ク ス(Joseph AugustLux)に よ っ て ま とめ られ,「 これ は空 想 上 の 話 で も理 想 論 で もな く,
13Fasshauer
,ibid.,S.53。
14Howard
,Ebenezer,StadtinSicht,Jena,1907.
モ ダ ニ ズム が夢 見 た ユ ー トピ ア:ド イ ツ 田園都 市 建 設 の 歴史(4)
ヱ6ヱ冷 静 で 現 実 的 な 考 察 で あ る。」とい う コ メ ン ト と共 に本 と し て 出版 され る ほ ど で あ った15。
シ ュ ミ ッ トの 計 画 実 現 に あ た り,最 も強 力 な 推 進 役 とな った の が 「ドイ ツ 工 作 連 盟 」 の秘 書 役 を勤 めて い た ヴ ォル フ ・ドー ル ン(WolfDohrn,1878‑
1914)で あ る 。 ドー ル ン は ナ ポ リの 水 族 館 を 設 立 した海 洋 学 者 の ア ン トン ・ ドー ル ン を父 に,歴 史 書 の翻 訳 を行 う 白 ロ シ ア 人 女 性 を母 に持 ち,ナ ポ リの 学 際 的 環 境 の も とに育 っ た コ ス モ ポ リ タ ン で あ った 。 彼 の 再 従 兄 弟 に は ヴ ィ ル ヘ ル ム ・フ ル トヴ ェ ング ラー が い る。 ドイ ツ で 文 学 ・美 学 ・哲 学 ・経 済 学
を修 め た ドー ル ン は,フ リー ド リ ヒ ・ナ ウ マ ン に師 事 して 政 治 家 に な る こ と を考 え て い た が,ナ ウ マ ンの 紹 介 で シ ュ ミ ッ トの も とに赴 き,彼 の事 業 の事 務 的 な側 面 を支 えて い た 。 シ ュ ミ ッ ト,リ ー マ ー シ ュ ミ ッ ト,ド ー ル ン の三 者 は そ れ ぞ れ ヘ レ ラ ウ の建 設 に お い て ち ょ う ど出 資 者,主 任 デ ザ イ ナ ー,オ ー ガ ナ イ ザ ー の役 割 を果 た して い た が,中 で も田 園 都 市 構 想 の社 会 改 革 的 側 面, 特 に土 地 改 革 思 想 に最 も強 く魅 せ られ,新 た な 共 同 体 創 造 に向 か っ て ユ ー ト
ピ ス ト的 楽 観 主 義 で 逸 進 して い っ た の が 理 想 主 義 者 の ドー ル ン で あ っ た 。 彼 は 田 園都 市 準 備 委 員 会 を指i揮し て資 金 提 供 者 を 集 め る な ど,田 園 都 市 の 運 営 面 に お い て 重 要 な 牽 引 的 役 割 を果 た す 一 方,ヘ レ ラ ウ建 設 計 画 を ま と め て そ の 名 も 『 田 園都 市 ヘ レ ラ ウ』 とい う著 書 を残 す16。 そ して1908年,140haの 土 地 購 入 手 続 きが 完 了 し,土 地 の法 的 な 所 有 者 とし て シ ュ ミッ ト,リ ー マ ー
シ ュ ミ ッ ト,ド ー ル ン の 三 名 に よ っ て 「 田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ株 式 会 社Garten‑
stadtHellerauGmbH」 が設 立 さ れ,同 時 に シ ュ ミ ッ トとザ ク セ ン州 との 交 渉 に よっ て 路 面 電 車 の 路 線 を ドレ ス デ ンか らヘ レ ラ ウ まで延 長 す る案 が 州 議 会 で 可 決 され る 。 そ し て翌 年 の4月1日 に ドイ ツ 最 初 の 田 園都 市 建 設 が 始 ま
る こ と に な る。
ヘ レ ラ ウ の土 地 は工 場 地 域,小 住 宅 地 域,邸 宅 地 域,公 共 用 地,保 留 地 の
15Fasshauer
,ibid.,S.65.
16Dohrn ,Wolf,GartenstadtHellerau,Leipzig,1907.
一Z62 人 文 研 究 第103輯
5つ の ゾー ン に分 け られ,「 ドイ ツ ・ク ラ フ ト 工 芸 工 房 」 が 所 有 す る工 場 地 域 以 外 はす べ て が 共 同 体 の所 有 と され た 。 さ らに低 所 得 者 の た め の 小 住 宅 を建 設 ・ 運 営 す る 団 体 と して 「ヘ レ ラ ウ建 設 組 合BaugenossenschaftHe1‑
lerauGmbH」 が 組 織 され,「 ドイ ツ ・ク ラ フ ト工 芸 工 房 」,「田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ株 式 会 社 」,
「ヘ レ ラ ウ建 設 組 合 」の3つ の 組 織 が共 同 で ヘ レ ラ ウ の 土 地 を所 有 ・管 理 す る こ と に な る。
さ らに これ らの組 織 の上 に シ ュ ミ ッ ト,ド ー ル ン,リ ー マ ー シ ュ ミ ッ トにム テ ー ジ ウ ス, テ オ ドー ル ・フ ィ ッ シ ャ ー 等 の 建 築 家 を加 え た9名 か ら な る 「 建 築 ・ 芸 術 鑑 査 委 員 会(Bau‑
undKunstkommission)」 カ§ 置 か れ,個 々 の 建 物 が 全 体 の 審 美 的 基 準 と 目的 に合 致 し て い
るか を鑑 査 す る役 割 を果 た した 。
ヘ レ ラ ウの 建 設 にお け る最 も困 難 か つ 重 要 な 課 題 は低 所 得 者 用 の 住 宅 群 だ っ た 。 リー マ ー シ ュ ミッ トは,ク ラ フ ト工 芸 工 房 の 従 業 員 に対 す るア ン ケ ー ト調 査 や 労 働 者 コ ロニ ー の 視 察 を行 い なが ら,2〜6人 の子 供 が あ り 年 収1000〜2000マ ル ク の 家 族 用 に,建 築 面 積 250平 米 以 下 で 年 間 家 賃 が300マ ル ク以 下 の 小 規 模 住 宅 を建 て る こ とに な る。 しか も住 環 境 改 善 策 と し て各 戸 は最 低 で も共 用 の浴 室 ・
洗 濯 室 と3部 屋 以 上 を備 え,独 立 した 玄 関 と 100〜200平 米 の 庭 が あ る こ と等 々 の 条 件 が あ っ た 。 結 果 と し て51平 米 の 最 小 の もの を初
ヘ レラ ウの全体 図
3つ の 組 織 に よ る 土 地 の 分 割 A‑「 田 園都 市 ヘ レ ラ ウ株 式 会 社」
B‑「 ヘ レ ラ ウ建 設 組 合 」 C‑「 ドイツ ・クラフ ト工 芸 工 房 」
小 住宅 群 のデザ イ ン,白 い 区
画 が庭
モ ダニ ズ ムが 夢 見 た ユー トピア:ド イ ツ 田園 都 市建 設 の 歴 史(4)
め34種 の小 住 宅200戸 が 誕 生 し,そ れ らは 「ド イ ツ で最 も建 設 費 の安 い 住 宅 」 と言 わ れ た17。
そ れ に対 し,「 田 園 都 市 ヘ レ ラ ウ株 式 会 社 」に 属 す る"邸 宅 地 区"に 関 し て は,居 住 希 望 者 が ヘ レ ラ ウ の 提 示 す る土 地 と住 宅 タ イ プ の 中 か ら 気 に入 っ た も の を選 び,借 地 権 と建 設 費 の一 部
を ロ ー ンで 支 払 い な が ら住 む とい う方 法 が採 ら れ た 。 邸 宅 と言 っ て も一 一戸 建 て とい う意 味 で, そ の 規 模 はむ し ろ質 素 な もの で あ った が,住 宅 部 分 は敷 地 全 体 の1/5で あ る こ と とい う条 件 を 守 れ ぼ基 本 的 に は個 人 の 注 文 住 宅 で あ る とい う 美 点 が あ っ た18。
ヘ レ ラ ウ は1920年 代 半 ぼ ま で に 全 体 を完 成 させ る予 定 で建 設 が 開 始 され,1910年 に ま ず60 家 族 に よっ て 共 同体 経 営 が 始 まっ た 。1913年 に は407世 帯 分383戸 の 住 宅 が 完 成 し,400家 族 1900人 が 住 む 規 模 に成 長 して い る19。内 外 か ら の ヘ レ ラ ウ批 判 と して,ま ず 「ヘ レ ラ ウ建 設 組 合 」 に参 加 す るた め の組 合 費 も加 算 す る と小 住 宅 の 家 賃 は安 い とは 言 え な い こ と,小 住 宅 地 区 と邸 宅 地 区 の 分 離 が 階 級 差 の温 存 にっ な が る こ と等 の 指 摘 が あ っ た。 また,「 ドイ ツ ・ク ラ フ ト 工 芸 工 房 」の社 屋 は,「 労働,住 居,芸 術,自 然 」
163
小住 宅地 区
邸 宅の 一例
w旧NUNGEN
〔idrle皿sな 麹 〔 駈1le皿el冠u
ヘ レ ラ ウ へ の 勧 誘 広 告
17Fasshauer ,ibid.,S.82.
18地 価 の 上 昇 に鑑 み て 田 園 都 市 の 住 民 全 体 の 福 利 に か な う場 合 ,個 々 の 住 宅 購 入 が
許 可 さ れ た 。
19Sarfert
,ibid.,S.25.
ヱ64
人 文 研 究 第103輯
「ドイ ツ ・ク ラ フ ト工 芸 工 房 」
ヘ レ ラ ウ,1933.
の調 和 とい う理 念 の も とに リー マ ー シ ュ ミ ッ ト に よ っ て 大 農 場 風 の 南 ドイ ツ様 式 で 建 設 さ れ, 1912年 にヘ レ ラ ウ を訪 れ たE・ ハ ワー ドに 「 ヘ
レ ラ ウ工 場 ほ ど美 しい 工 場 を我 々 は持 た な い 」 と賞 賛 され た が,グ ロー ピ ウ ス 等 の バ ウハ ウス 派 に は 「 即 物 性 に欠 けた 農 場 ロ マ ン主 義 」 と椰 楡 さ れ た20。 しか しヘ レ ラ ウ共 同 体 の 理 念 は,
「 外 的 刺 激 に よっ て 無 防 備 に 突 き動 か さ れ つ つ 生 活 す る よ う な寄 る辺 な き状 態 と無 政 府 的精 神 状 態 を,新 種 の 生 活 理 想 像 に駆 られ る こ とな く 存 在 の 事 実 と成 長 に よ って 克 服 す る こ と」21で あ る とい う ドー ル ンの 言 葉 か らは,ロ マ ン主 義
とい う よ り質 実 な生 活 の 充 実 感 へ の 願 望 が感 じ られ る。 そ して"存 在 の 事 実 と成 長"を 共 同体 の 中 で 育 む 活 力 と して,芸 術 教 育 が 必 要 とされ て い た 。
5.ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 とヘ レ ラ ウ の 芸 術 教 育
住 宅 改 革 と土 地 改 革 が 芸 術 教 育 運 動 と結 び つ い て い る点 は,ド イ ツ 的 田 園 都 市 思 想 の 特 徴 で あ る。 労 働 と生 活 と芸 術 の 融 合 は 爪人 問 存 在 の 高 次 元 へ の 発 展"22を 可 能 に す る と い う考 え は,産 業 化 に よ っ て もた らさ れ た 文 化 ペ シ ミ ズ ム を芸 術 教 育 に よっ て 乗 り越 え,人 間 性 を産 業 革 命 以 前 の健 全 な状 態 に爪 再 生"し よ う とす る感 情 生 活 の刷 新 欲 求 に基 づ い て い た。 前 述 の 黙 新 しい 人 間"
創 造 へ の欲 求 で あ る。 同 時 に芸 術 は素 人 の 参 加 に よっ て様 式 の硬 直 か ら免 れ る とい う考 えが あ っ た 。 ヘ レ ラ ウで は どの よ う な芸 術 を中 心 に据 え るべ きか
20ibid .,S。74.
21ibid .,S.106.
22Schollmeier
,ibid.,S.67.
モ ダ ニ ズ ムが 夢 見 た ユー トピア:ド イ ツ 田園 都市 建 設 の 歴史(4)
165につ い て,音 楽 教 育 の 重 要 性 を説 い た の は シ ュ ミ ッ トの仲 間 の一 人 で チ ェ コ の 音 楽 家,リ ヒ ャ ル ト ・バ トカ(RichardBatka)で あ る。 バ トカ は造 形 芸 術 が 基 本 的 に個 人 の創 造 で あ る の に対 し,音 楽 教 育 は個 人 的 感 性 の酒 養 で あ る と同 時 に合 唱 や 合 奏,ダ ン ス を通 じて 社 会 性 を養 い協 調 的 な活 動 を可 能 に す る こ と を指 摘 し た 。 そ し て彼 が 推 薦 した の が ジ ュ ネ ー ヴの コ ンセ ル ヴ ァ ト ワー ル で 実 践 され て い た 「リ ト ミ ック 教 育 」で あ る。 「リ トミ ッ ク教 育 」 は リ ズ ム の 体 得 と表 現 を 中 心 した 音 楽 教 育 で,ウ ィ ー ン生 まれ の ス イ ス 人,エ ミー ル ・ジ ャ ツ ク ー ダル ク ロー ズ(EmileJaque‑Dalcroze,1865‑1950)に よ っ て提 唱 され た 。 また そ れ は新 しい 身体 性 を希 求 し て い た 当 時 の 時 代 精 神 に合 致 した もの だ っ た 。
19世 紀 末 の ドイ ツ で は,物 質 主 義 や 都 市 に お け る人 間性 の 硬 直 を もた ら し た文 明 編 重 主 義 へ の反 発 か ら 自然 へ の 回 帰,特 に身 体 の再 発 見 が 求 め られ て い た 。 ワ ン ダ ー フ ォ ー ゲ ル,裸 体 運 動,菜 食 主 義 運 動,イ サ ドラ ・ダ ン カ ン に代 表 され るモ ダ ン ダ ンス ・ム ー ヴ メ ン トな ど,様 々 な運 動 が 自然 と融 合 す る身 体 を志 向 して い た。 身 体 に 内在 す る リズ ム が 人 間 生 活 の 要 素 と して 黙 再 発 見"さ れ,人 々 は そ れ が 生 を規 定 す る原 理 と深 く関 連 して い る こ と に気 づ く。経 済 学 者 の カ ー ル ・ビ ュー ヒ ャー(KarlBUcher)が 『 労 働 と リズ ム』23 を著 し,文 学 や美 学 の 分 野 で も聴 覚 刺 激 や 身 体 感 覚 が 関 心 の対 象 とな る24。そ
して リズ ム 教 育 を芸 術 教 育 の 方 法 と して 組 み入 れ た 最 初 の一 人 が ダ ル ク ロー ズ だ っ た 。 ダ ル ク ロー ズ は ウ ィー ンに 生 まれ,ウ ィー ン とパ リで 音 楽 を学 ん だ後1892か らジ ュ ネ ー ヴ の コ ン セ ル ヴ ァ トワ ー ル で 音 楽 史 とハ ー モ ニ ー 理 論 を教 えて い た が,椅 子 に座 っ て楽 譜 を読 む こ とか ら始 ま る音 楽 教 育 に疑 問 を持 つ よ う に な る。 か っ て パ リで ア マ チ ュ ア演 劇 に参 加 し,1年 間 の チ ュニ
23BUcher
,Karl,ArbeitundRhythmus,Leipzig,1899.
24Lorenz
,Karl,DerTraumvom"Laboratoired'unehumanit6nouvelle,in:Ring,
Reinhard(Hrsg.),HellerauSymposion,Remscheid,1993.(詩 の リ ズ ム と メ ロ デ ィ ー を 研 究 し た ラ イ プ ツ ィ ヒ 大 学 の エ ド ゥ ア ル ト ・ズ ィ ー ヴ ェ ル ス や 生 理 学 ・ 心 理 学 的 観 点 で 美 学 を 講 じ た ミ ュ ン ヒ ェ ン 大 学 の テ オ ド ー ル ・ リ ッ プ ス な ど 。)
ヱ66
人 文 研 究 第103輯
ジ ア滞 在 時 代 に民 族 音 楽 や 舞 踊 に触 れ た彼 は,身 体 中 の 根 源 的 な律 動 を生 か し て様 々 な 感 覚 細 胞 を活 性 化 させ る とい う発 想 を得 る。 そ して全 人格 的 な音 楽 性 の酒 養 を 目指 して,リ ズ ム や 音 程 や メ ロ デ ィー を身 体 で 再 現 し て連 続 し た 運 動 と して 表 現 す るた め の一 連 のエ クサ サ イ ズ を考 案 す る。 ダ ル ク ロ ー ズ の リ ト ミッ ク教 育 は ドイ ツ で も注 目 され る よ
う に な り,1906年 に講 … 演 の た め ドレ ス デ ン に 招 か れ た 彼 は,そ こで ドー ル ン と出会 う こ と に な る 。
自 らジ ー ヴ ェ ル ス や リ ップ ス25の も とで 文 学 ・ 美 学 を学 ん で き た ドー ル ン は,ダ ル ク ロー ズ ・メ ソ ッ ドに触 れ て そ れ が 芸 術 教 育 の 未 来 を方 向付 け る もの だ と確 信 し,ダ ル ク ロー ズ を ヘ レ ラ ウ に招 聰 し て 校 舎 の 建 設 に 着 手 す る。 ダ ル ク ロ ー ズ に とっ て も 自分 の学 校 の設 立 は リ ト ミ ック体 操 を学 科 の 一 つ か ら総 合 的 芸 術 と し て 発 展 さ せ る可 能 性 を意 味 し て お り,ま た 自分 の 教 育 メ ソ ッ ドを社 会 福 祉 的 な 教 育 課 題 と結 合 させ る こ とは魅 力 的 な 課 題 で もあ った 。彼 は 次 の よ うに 書 い て い る。「ヘ レ ラ ウ で は,土 地 とそ の住 民 を特 別 に育 て る こ と に よ っ て有 機 的 な生 と調 和 を創 造 す る こ と が 重 要 な の だ 。 彼 らの 家 屋 と まっ た く同 じ よ う に,モ ラ ル と美 の建 築 を リズ ム に よ っ て 創 造 す る こ とが 重 要 な の だ 。 私 は リズ ム を ひ と つ の社 会 制 度 の 地 位 に まで 高 め,自 然 に 広
藝 灘
,"蝋 懲 灘 撒 魏繍 霧雛顯 蕪 リ トミ ッ ク体 操 に よ る5拍 子 の 表 現
阜 蹄
・ 一 澱 膿篭
祝祭 劇場,正 面 と寄宿 舎 を含 め た全体 像
1912年 の 祝 祭 週 間 に お け る リ ト ミ ッ ク の パ フ ォ ー マ ン ス
25注25参 照。
モダ ニ ズ ムが 夢 見 た ユー トピア:ド イ ツ 田園 都 市建 設 の歴 史(4)
ヱ67ま っ て あ ら ゆ る住 民 の 心 の真 の証 明 とな る よ う な新 しい ス タ イ ル を広 め て い きた い。(...)新 しい 社 会 の基 礎 とな るべ き は,肉 体 と精 神 の健 康 な の で あ る。 」26
1912年 に は祝 祭 劇 場 を兼 ね た ダル ク ロー ズ学 校 の 教 育 施 設 が 完 成 す る。自 らヘ レ ラ ウ に移 住 して 邸 宅 の デ ザ イ ン を手 が け て い た ハ イ ン リ ヒ ・テ ッセ ノ ウ の 設 計 に よ る もの で,と りわ け シ ン ク レア が 爪 明 るい 牧 場 の上 に建 つ高 く て 白 い""ミ ュ ー ズ の神 殿"と 表 現 した シ ンメ ト リ ック な 新 擬 古 典 主 義 様 式 の 祝 祭 劇 場 は,ヘ レ ラ ウ の 理 想 を 象 徴 す る記 念 碑 的 建 築 物 とな る。 ジ ュ ネ ー ヴ か らの転 校 生45名 も含 め て 最 初103名 だ っ た ダ ル ク ロー ズ 学 校 の 生 徒 数 は す ぐに500名 を越 す よ う に な り,年 に一 度 開催 さ れ る祝 祭 週 間 は国 際 的 な 注 目 を浴 び てバ ー ナ ー ド ・シ ョー や マ ック ス ・ラ イ ンハ ル ト,デ ィア ギ レ フや ニ ジ ン ス キ ー と い っ た 著 名 なi舞台 芸 術 関 係 者 た ちが ヘ レ ラ ウ を訪 れ る よ うに な る。 そ して ヘ レ ラ ウ の 子 供 た ち は,ダ ル ク ロ ー ズ学 校 で リ トミ ッ ク体 操 を 学 び,放 課 後 は ドイ ツ ・ク ラ フ ト工 芸 工 房 や芸 術 家 コ ロ ニ ー の ア トリエ に通 っ て 工 芸 を学 ぶ とい う,恵 まれ た芸 術 教 育 を享 受 す る の で あ る27。
6.芸 術 家 コ ロ ニ ー
ドイ ツ ・ク ラ フ ト工 房 の 工 芸 家 た ちが ヘ レ ラ ウ に移 住 し,彼 らの 周 囲 に仲 間 た ち が 集 い 住 ん で 芸 術 家 コ ロニ ー が 出 来 る の は 言 わ ぼ 自然 の 成 り行 き で あ っ た 。 ミ ュ ン ヒ ェ ン家 具 工 房 の彫 金 師 ゲ オ ル ク ・フ ォ ン ・メ ンデ ル ス ゾ ー
ン(GeorgvonMendelssohn),彫 刻 家 の パ ウ ル ・ペ ー タ リ ッ ヒ(PaulPete‑
rich)を 初 め,陶 芸 家 や ピア ニ ス トた ちが ヘ レ ラ ウ の住 環 境 に惹 か れ て 移 り住 み,ア トリエ を建 て て 芸 術 活 動 を始 め る。 さ ら に文 筆 家 や 作 家 た ち が そ れ に 続 い た 。 コ ロニ ー の発 展 にお い て と りわ け重 要 な役 割 を果 た した の は 出版 業
26松 沢 慶 信 編 ,『 ドイ ツ ダ ン ス の 百 年 』,東 京 ドイ ツ 文 化 セ ン タ ー,1996.p.25.
271913年 に は 国 民 学 校 が で き て 普 通 教 育 も行 わ れ る よ う に な る が ,こ こ で も リ ト
ミ ッ ク 体 操 や 工 芸 が 教 え られ て い た 。
168
人 文 研 究 第103輯
者 の ヤ ー コ プ ・へ 一 グ ナ ー(JakobHegner)で あ ろ う 。 ウ ィ ー ン 生 ま れ の 文 学 青 年 で あ っ た へ 一 グ ナ ー は ま ず ラ イ プ ツ ィ ヒ とベ ル リ ン で 文 筆 及 び 出 版 活 動 の 修 行 時 代 を 過 ご す が,ベ ル リ ン で 出 版 業 者 と し て の 独 立 に 失 敗 し,友 人 の メ ン デ ル ス ゾ ー ン が 住 む ヘ レ ラ ウ に や っ て 来 る 。 す る と 修 行 時 代 に 知 り 合 っ た 作 家 た ち が 彼 の 周 囲 に 集 ま る よ う に な り,志 と 向 上 心 を 同 じ くす る20 代 の 青 年 た ち は す ぐ に へ 一 グ ナ ー が 興 し た 「ヘ レ ラ ウ 出 版HellerauVerlag」
を拠 点 と し て 活 発 な 執 筆 ・出 版 活 動 を 始 め る よ う に な る 。 へ 一 グ ナ ー は 特 に フ ラ ン シ ス ・ジ ャ ム,ポ ー ル ・ク ロ デ ー ル,ジ ョル ジ ュ ・ベ ル ナ ノ ス 等 に よ る フ ラ ン ス 文 学 を 自 ら翻 訳 出 版 し,ま た ゲ オ ル ク ・ ビ ュ ー ヒ ナ ー や ホ ー フ マ ン ス タ ー ル,マ ル テ ィ ン ・ブ ー バ ー 等 の 著 書 や,ヘ レ ラ ウ 在 住 の 作 家 た ち に よ る作 品 の 出 版 も 手 が け た 。 ヘ レ ラ ウ 在 住 の 作 家 た ち は ア ル フ ォ ン ス ・パ ケ (AlfonsPaquet),エ ミ ー ル ・シ ュ ト ラ ウ ス(EmilStrausB),テ オ ド ー ル ・ ド イ ブ ラ ー(TheodorDaubler),カ ミル ・ホ フ マ ン(CamillHoffmann)
等 で あ っ た が,そ の 中 心 的 存 在 は プ ラ ハ 出 身 の パ ウ ル ・ア ー ド ラ ー(Paul Adler,1878‑1946)で あ っ た 。 ア ー ド ラ ー は 「ヘ レ ラ ウ 出 版 」か ら 詩 集 や 小 説 を 出 し,ド イ ブ ラ ー と共 に 文 芸 雑 誌 『 総 数Summa』 を 発 刊 す る。 寄 稿 者 の 中 に はE・ プ ロ ッ ホ やH・ プ ロ ッ ホ,R・ ム ジ ー ル 等 が い た28。 ま た14力 国 語 を 解 し た と い う 語 学 力 を 生 か し て フ ラ ン ス 語 に よ る 原 著 か ら2冊 の 日 本 文 学 研 究 書29を 翻 訳 出 版 す る な ど,ア ー ドラ ー の 活 動 は極 め て 多 面 的 で あ っ た 。
ア ー ド ラ ー を 核 と し た ヘ レ ラ ウ の 同 業 者 を 訪 問 す る 作 家 た ち も多 く,へ 一 グ ナ ー の ウ ィ ー ン 時 代 の 友 人S・ ツ ヴ ァ イ ク やG・ ハ ウ プ トマ ン,リ ル ケ,後 年 に は カ フ カ も プ ラ ハ か ら 訪 れ て お り30,ま たH・ ヘ ッ セ は イ ン ド か ら 帰 国 し
28Sarfert
,ibid.,S.52.
29Adler ,Paul,JapanischeLiteratur:GeschichteundAuswahlvondenAnfangen biszurneustenZeit,FrankfurtamMain,1926.[DerInhaltistzumgr6Bten TeileineUbers.von:AnthologiedelaLitt6raturejaponaisedesoriginesau XXesi6clevonMichelRevon,Paris,1910.]Adler,Paul,Sachw6rterbuchzur japanischenLiteratur,FrankfurtamMain,1926.
30Sarfert ,ibid.,S.114f.
モ ダ ニ ズ ムが 夢見 た ユー トピア:ド イ ツ田園 都 市建 設 の歴 史(4)
169た 後,落 ち着 き先 と して ヘ レ ラ ウ も考 慮 に 入 れ て い た と言 わ れ て い る31。 恐 ら くヘ レ ラ ウ はル ガ ー ノ 湖 畔 の モ ンテ ・ヴ ェ リタ と並 ん で ドイ ツ語 圏 にお け る 芸 術 家 コ ロ ニ ー と して 知 られ て い た で あ ろ う。 後 年 作 家 兼 言 語 学 者 とな るハ
ンス ・ユ ル ゲ ン ・フ ォ ン ・デ ア ・ヴ ェ ン ゼ(HansJttrgenvonderWense)
が ま だ 学 生 だ っ た1919年 に,や は り後 年 画 家 と して 名 を成 す 友 人 の ヴ ァル タ ー ・シ ュ ピー ス(WalterSpies)を ヘ レ ラ ウ に訪 れ た 時 の様 子 を,次 の よ う に 日記 に記 して い る。「そ こに は祝 祭 劇 場 が あ る 。周 りに は邸 宅 が 建 ち,そ こ に住 む の は 芸 術 家 ば か りだ 。 群 れ を成 して 住 んで い る。(...)始 終 誰 か が 誰 か を指 さ して 言 う。黙あ そ こ に行 くの は某 氏 だ,彼 は新 し い小 説 を書 い て い る 。 あ の女 性 は某 嬢 だ 。 君,知 らな い の?誰 それ の娘 さ ん だ,ほ ら あ の記 念 碑 の...。"さ な が ら動 物 園 で あ る。 」32オー ル タ ナ テ ィ ヴ派 の モ ン テ ・ヴ ェ リ
タ に比 べ て ヘ レ ラ ウ の 芸 術 家 コ ロ ニ ー は多 少 市 民 的 で あ っ た と想 像 され る が,宗 教 的 寛 容 さ に は重 きが 置 か れ,ヘ レ ラ ウ に は教 会 が 建 設 さ れ る こ とが
な か った と言 わ れ て い る。
そ の よ う な寛 容 さ は30年 代 に な っ て ナ チ ズ ム の 時 代 に な る と全 く失 わ れ て し ま うが,ヘ レ ラ ウ に と っ て の最 初 の試 練 は まず 第 一 次 世 界 大 戦 と共 に訪 れ る。 ダル ク ロー ズ が 一 時 帰 国 して いた ス イ ス か ら ドイ ツ に再 入 国 で き な く な り,ダ ル ク ロ ー ズ 学 校 は閉 鎖 され 赤 十 字 の検 疫 所 とし て接 収 され て し ま う。
ヘ レ ラ ウ建 設 の 続 行 は経 済 的 に 困難 に な り,当 然 計 画 の縮 小 を余 儀 な くさ れ る。 ヘ レ ラ ウ の 健 全 な発 展 を阻 ん だ 多 くの 困難 に関 して は次 稿 で紹 介 す る つ も りで あ る。
(そ の 他 の 参 考 文 献)
1.Arnold,Klaus‑Peter,VomSofakissenzumStadtebau,Dresden・Base1,
3iibid .,Sユ03.
32HansRhodius(Hrsg
.)Sch6nheitundReichtumdesLebensWalterSpies,Den
Haag,1964.S.87.
ヱ70
人 文 研 究 第103輯
1993.
2.Baumgartner,Judith,Ernahrungsreform‑AntwortaufIndustrialisie‑
rungundErnahrungswandel.Frankfurta.M.,1992.
3.Bergmann,Klaus,AgrarpolitikundGroBstadtfeindlichkeit,Meisen‑
heim,1970.
4.Bollerey,Franziska,ArchtekturkonzeptionenderutopischenSoziali‑
sten,Berlin,1991.
5.Durth,Werner(Hrsg.),EntwurfzurModerne,Stuttgart,1996.
6.Fritsch,Theodor,DieStadtderZukunft,Leipzig,1896.
7.Hartmann,Kristiana(Hrsg.),ImGrUnenwohnen‑imBlauenplanen, Hambur9,1990.
8.Kampffmeyer,Hans,DiedeutscheGartenstadtbewegung,Berlin,1911.
9.KrUckemeyer,Thomas,GartenstadtalsReformmodell,Siegen,1997.
10.Linse,Ulrich(Hrsg.),ZurUckoMenschzurMutterErde,MUnchen, 1983.
11.Linse,Ulrich,OrganisierterAnarchismusimDeutschenKaiserreich von1871,Berlin,1969.
12.Lorenz,Karl,WegenachHellerau,Dresden,1994.
13.Mendelssohn,Peterde,HellerauMeinUnverlierbaresEuropa,Dres‑
den,1993.
14.Muthesius,Stefan,DasenglischeVorbild,MUnchen,1974.
15.マ ル タ ン,フ ラ ン ク(他)『 エ ミ ー ル ・ ジ ャ ッ ク=ダ ル ク ロ ー ズ 』,全 音
楽 譜 出 版 社,1977.
16.バ ン ド ゥ レ ス パ ー,エ リ ザ ベ ス 『ダ ル ク ロ ー ズ の リ ト ミ ッ ク 』,ド レ ミ 楽 譜 出 版 社,1996.
17.長 谷 川 章 『世 紀 末 の 都 市 と 身 体 』,ブ リ ュ ッ ケ,2000.
モ ダニ ズ ム が夢 見 た ユ ー トピア:ド イ ツ田 園都 市建 設 の歴 史(4)
171EineUtopiederModerne:
DasPhanomenGartenstadtinDeutschland(4)
DieEntstehungderGartenstadtHellerau
MiyukiSOEJIMA
DieGartenstadtbewegungumdievorigeJahrhundertwendewarein Versuch,dieinFolgevonIndustrialisierungverursachtenWohnungsn6te undMissst蕊ndeindenGroBstadtenzuverringern.DasZielwarein St設dtebauaufgemeinntttzigemBoden,derarbeitsplatzeschaffendeIndu‑
strie,EinfamilienhausermitGartenundGrUngUrtelumdieStadtzur landwirtschaftlichenNutzungbietet.DererstepraktischeVersuch dieserKonzeptioninDeutschlandwardieGrttndungderGartenstadt HelleraubeiDresden.DerGrUnderundFinanzierwarKarlCamillo Schmidt,derdieAusbaunotwendigkeitseinerM6belfabrik》Deutsche WerkstattenfUrHandwerkskunst《alseineguteGelegenheitfUrdenBau einerGartenstadtansah.Schmidterwarb6,5kmndrdlichvonDresden 140haLandundgrUndetedie"GartenstadtgesellschaftHellerauGmbH".
SeinKonzeptbeinhaltetedenBauvondreiBereichen:einerFabrikanlage alsZentrumderArbeitundalssozialeAbsicherungdesGanzen,Wohn, hauserderArbeiter,derenderzeitigeLagedringendverbesserungswUrdig warsowieWohnhauserderGartenstadtfretinde,diedieVielgestaltigkeit eineskulturel1‑sozialenselbstandigenGemeinwesenserm6glichen.Im Jahrl909begannendieerstenArbeitenfUrdenStadtbau.Baldentstan‑
denderneueFabrikhofder》DeutschenWerkstattenHellerau《,ein Kleinhausvierte1,einVillenviertel,einMarktplatz,Geschafteund Schulen.BeiGrUndungderBaugenossenschaftwurdediedemokratische MitbestimmungderBewohnerbeschlossen,sodassdasvomArbeits一
172
人 文 研 究 第103輯
auftragderFabrikunabhangigeBewohnenderHauserunddieSelbstver‑
waltungdesgemeinnUtzigenBodensdurchdieBewohnererm6glicht wurden.
DieGartenstadtHellerauwarmehralseineArbeiterkolonie, namlicheineVerbindungvonGroBstadtundLand.ImUnterschiedzum englischenVorbildgabesbeiderdeutschenGartenstadtideeeinelebens‑
reformerischeundsozialpadagogischeKonzeption,diediewohnungs‑
reformerischeZielsetzungerganzte.Hellerauben6tigte・einBildungs‑
wesen,indemdieKunsterziehungzumAusbildenderneuenMenschenin derneuenGesellschaftbeitragt.AlssolchesKunsterziehungsprogramm schienRhythmischeGymnastikideal,diedieKraftedesMenschenzu einerneuenSyntheseverbindet.DafUrwurdederGenferRhythmiker EmileJaques‑DalcrozenachHelleraugerufen.1911wurdedie》Bildungs‑
anstaltEmileJaques‑Dalcroze《miteinemFestspielhausgebaut,dessen monumentaleArchitekturheutenochalsWahrzeichenHellerausange‑
sehenwird.
DiekleineGartenstadt‑IdyllezogvieleKUnstlerwieMaler,Bild‑
hauerundGoldschmiedean‑baldentstandeineK伽stlerkolonie.Ins‑
besonderespieltederVerlegerJakobHegnereinewichtigeRolle,indem erden》HellerauVerlag《grUndeteundSchriftstellerwieTheodorDaub‑
1er,FranzBlei,PaulAdlerundandereumsichsammelte.Diejungen ambitioniertenVerlegerundSchriftstellerpubliziertenBUcherundZeit‑
schriftenmitdemZie1,vorzUglicheliterarischeWerkeeinembreiten Publikumzugtinglichzumachenundi㎞asthetischehumanistische Anreguhgenzugeben.TatsachlichangeregtvomHegnerschenVorbild wurdenmehrereangehendeVerlegerinHellerauanstissigundgrttndeten ihreeigenenkleinerenVerlage、
EswardieZeitderLebensphilosophie,derLebensreformundder