• 検索結果がありません。

『 古 事 集 』( 鎌 倉 芳 太 郎 資 料 ) の 叙 述

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『 古 事 集 』( 鎌 倉 芳 太 郎 資 料 ) の 叙 述"

Copied!
34
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述二七

はじめに

  本稿は、沖縄県立芸術大学附属図書館

・ 芸術資料館に所蔵されてい

る「鎌倉芳太郎資料」にある『古事集』の内容を考えようとする論である。『古事集』は外題に「評定所  丑日  尚侯爵家所蔵本」とあり、さらに内題に「古事集  共十三冊評定所」とあることから、尚家に旧蔵されていた文書で、その所管が「評定所」であり十三冊の文書であったと思われる。このことは、『御蔵本目録(尚侯爵家)一

・ 二

・ 三

集』(鎌倉芳太郎資料)の末尾(「ノート される。ただし、「丑日」は丑日番のことだと考えられ、鎌倉も『古事   』の一「歴史類」に『古事集共十三冊』があることでも確認 ・ 五 (注

る。しかし、「評定所」の丑日番という所管があるのかどうかは不明で コノ書籍ハ首里王府評定所丑日番ノ所管タリシモノナリ」と記してい 42」)に「以上ヨリ考定スルニ   『古 い。 (注   書の外題、および内題には「評定所丑日」という記載は確認できな ある。少なくとも、現在、那覇市歴史博物館に所蔵されている尚家文

事集』については、波照間永吉が「『古事集』―『琉球国由来記』と『琉球国旧記』の間にあるもの」(『沖縄文化』第一一六号、沖縄文化協会、二○一四年刊)で、その題名が示す通り『古事集』が「『琉球国由来記』と『琉球国旧記』の間にある」資料であることを指摘している。『古事集』の冒頭「首里三州」の「南風」(南風之平等)に記された「知足院」の記事に、この寺院が「雍正二年」(一七二四)に建てられたことが記されており、これが『古事集』に記された最も新しい記事である。「雍正二年」は『琉球国由来記』(一七一三年)と『琉球国旧記』(一七三一年)の間の年紀であり、以下に記す『古事集』内部の記事からも、筆者はその見解を妥当だと考える。筆者はそれをふま

『古事集』 (鎌倉芳太郎資料)の叙述 ― 『琉球国由来記』と『琉球国旧記』にふれながら ―

島   村   幸   一

(2)

立正大学大学院紀要 三十三号二八えて、「『琉球国旧記』の編纂―『琉球国由来記』から『琉球国旧記』へ―」(『立正大学大学院紀要』第三十一号、立正大学大学院文学研究科、二○一五年刊。拙著『琉球文学の歴史叙述』勉誠出版、二○一五年刊収録)において、必要な範囲で『古事集』にふれたが、『古事集』の内容全般にわたる考察をしていない。本稿では、改めて『琉球国由来記』や『琉球国旧記』との比較を行いながら、『古事集』の全般にわたる叙述や、『琉球国由来記』と『古事集』との関連、また『古事集』と『琉球国旧記』との関連を考える。

Ⅰ. 『古事集』の構成

  『古

事集』は漢文で書かれた資料である。「鎌倉芳太郎資料」の「ノート」№

37~ 42にある資料で、『鎌倉芳太郎資料集(ノート篇Ⅱ)民俗

宗教』沖縄県立芸術大学附属研究所、二○○六年刊に翻刻されている。その内容を同書の「目次」にしたがい、便宜的に1~

付して以下に示す。 18の通し番号を

ノート

37   古事集評定所/丑日/尚侯爵家所蔵本

      古事集  共十三冊/評定所

      1.首里三州  真和志/南風/西/泊/那覇/泉崎/若狭町村/唐栄府       古事集  共十三冊/評定所

      2.順治康煕  王命書文

      古事集  共十三冊/評定所

      3.馬歯山/馬歯山(座間味郡)渡嘉敷郡/粟国島/渡名喜/出砂/鳥島

      古事集  共十三冊/評定所

      4.姑米島

ノート

38  (古事集)

      (古事集「姑米島」の部〈承前〉)

      5.(姑米  具志川郡〈承前〉) 姑米仲里郡

      古事集  共十三冊/評定所

      6.麻姑島

      古事集  共十三冊/評定所

      7.八重山

      古事集  共十三冊/評定所

(3)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述二九       8.島尻真和志郡/豊見城郡

ノート

39  (古事集)

      (古事集「豊見城郡」の部〈承前〉)

      9.(豊見城郡〈承前〉)/小禄郡

      古事集  共十三冊/評定所

     

10.兼城郡/高嶺郡/真壁郡/摩文仁郡/喜屋武郡

      古事集  共十三冊/評定所

     

11.南風原郡/大里郡/東風平郡

      古事集  共十三冊/評定所

     

12.佐敷郡

ノート

40  古事集

      (古事集「佐敷郡」の部〈承前〉)

     

事集〈承前〉玉城郡/具志頭郡 13.(古事集佐敷郡〈承前〉)/知念郡/(『球陽』抜書)/古

      古事集  共十三冊/評定所      

14.中頭西原郡/浦添郡/宜野湾郡/中城郡

      古事集  共十三冊/評定所

     

15.越来郡/美里郡/(祭祀関係文書名メモ)

ノート

41  古事集

      (古事集「美里郡」の部〈承前〉)

     

/与那城郡/読谷山郡 16.(古事集美里郡〈承前〉)/北谷郡/具志川郡/勝連郡

      古事集国頭  共十三冊/評定所

      古事集  共十三冊/評定所

     

地郡/久志郡/大宜見郡 17.国頭恩納郡/金武郡/名護郡/本部郡/今帰仁郡/羽

ノート

42  古事集

      (古事集「大宜見郡」の部〈承前〉)

     

18.(古事集大宜見郡〈承前〉)/国頭郡

  『古事集』の構成は、1が首里城と

しゅ(「首里三州  真和志/南風/西」)、さらに泊村(「泊」)、那覇四町(「那覇/泉崎/若狭町

(4)

立正大学大学院紀要 三十三号三〇村」)、久米村(「唐栄府」)の「町方」である首里と那覇を記した記事である。2はほかと異なる内容の資料で、順治年間(一六四四~一六六一年)と康煕年間(一六六二~一七二二年)、さらには「雍正三年」と「雍正四年」の年紀が記される六十通の「王命書文」を集めた資料である (注。3は、慶良間諸島(「馬歯山」)の二郡(『古事集』は間切を郡とする)、「座間味郡」「渡嘉敷郡」と、四つの島(「粟国島/渡名喜/出砂/鳥島」)を記した記事、4

であるが、6と7は間切ごとの叙述にはなっていない。8から は八重山(「八重山」)を記した記事であるが、『琉球国由来記』もそう 「具志川郡」と「仲里郡」を記した記事、6は宮古島(「麻姑島」)、7 は久米島(「姑米島」)の二郡、 ・ 5

縄本島南部地域の島尻の各間切を記した記事で、8 13は沖

・ 9は「真和志郡

/豊見城郡/小禄郡」を記したもの、

/摩文仁郡/喜屋武郡」、 10は「兼城郡/高嶺郡/真壁郡

11は「南風原郡/大里郡/東風平郡」、

12・

る。 (注 だし、「知念郡」と「玉城郡」との間には「『球陽』抜書」が入ってい 13は「佐敷郡/知念郡/玉城郡/具志頭郡」を記した記事である。た

14から

16は沖縄本島中部地域の中頭の各間切を記した記事で、

14

は「西原郡/浦添郡/宜野湾郡/中城郡」、

15・

ある。 /北谷郡/具志川郡/勝連郡/与那城郡/読谷山郡」を記した記事で 16は「越来郡/美里郡

17・

郡/国頭郡」を記した記事である。『古事集』は、王府の中心、首里 納郡/金武郡/名護郡/本部郡/今帰仁郡/羽地郡/久志郡/大宜見 18は沖縄本島北部地域の国頭の各間切を記した記事で、「恩

那覇の記事から始まり、沖縄本島の周辺離島、慶良間、久米島、さらに宮古島、八重山に及び、その後沖縄本島の島尻、中頭、国頭の記事に展開する構成になっている。

Ⅱ. 『古 事 集』 と 『琉 球 国 由 来 記』 、『琉 球 国 旧 記』

〈ⅰ〉『古事集』と『琉球国由来記』

  この『古事集』の構成を『琉球国由来記』、『琉球国旧記』との比較で示すと、以下のようになる(表1参照)。初めに『琉球国由来記』全二十一巻との比較をみるが、『由来記』は巻一が「王城之公事」、巻二が「官爵列品」、巻三が「事始  乾」、巻四が「事始  坤」、巻五が「城中御嶽併首里中御嶽年中祭祀」、巻六が「国廟

・ 王陵」

、巻七が「泊村由来記」、巻八が「那覇由来記」、巻九が「唐栄旧記全集」、巻十が「諸寺旧記」、巻十一が「密門諸寺縁起」、巻十二以下が「各処祭祀」の一~十という構成になっている。『古事集』との対応は、王府の中心の叙述を記した1の記事と対応する箇所が、『由来記』巻三

・ 四「事始」

、巻五「城中御嶽併首里中御嶽年中祭祀」、巻七「泊村由来記」、巻八「那覇由来記」、巻九「唐栄旧記全集」、巻十一「密門諸寺縁起」である。このうち巻三

・ 四、巻十一の対応箇所はその一部に限られ、巻全体が

『古事集』と対応してはいない。3は巻十八「各処祭祀  七  慶良間島(座間味間切/渡嘉敷間切)」、巻十七「各処祭祀  六  粟国島/渡名喜島/同島離レ出砂/鳥島」、4

   は巻十九「各処祭祀八久米島 ・ 5

(5)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述三一 (具志川間切/仲里間切)」、6は巻二十「各処祭祀  九  宮古島」、7は巻二十一「各処祭祀  十  八重山島」、8

  一真和志間切/豊見城間切/小禄間切」、   は巻十二「各処祭祀 ・ 9

兼城間切/高嶺間切/真壁間切/摩文仁間切/喜屋武間切」、 10   は巻十二「各処祭祀一

   三「各処祭祀二南風原間切/大里間切/東風平間切」、 11は巻十

12・

   十三「各処祭祀二佐敷間切/知念間切/玉城間切/具志頭間切」、 13は巻

間切」、 14   は巻十四「各処祭祀三西原間切/浦添間切/宜野湾間切/中城

15・

切/具志川間切/勝連間切/与那城間切/読谷山間切」、 16   は巻十四「各処祭祀三越来間切/美里間切/北谷間

17・

所の記事になっている。 仁間切/羽地間切/久志間切/大宜味間切/国頭間切」と対応する箇    五「各処祭祀四恩納間切/金武間切/名護間切/本部間切/今帰 18は巻十

  王権の中心から周縁へという叙述秩序を持つ『由来記』は、大きく王権の中心部の祭祀の叙述(巻一「王城公事」)から始まり、巻十二以下の「各処祭祀」(地方祭祀)の叙述に展開する。その「各処祭祀」も、「真和志間切」が筆頭に立つ叙述になっている。しかも、それぞれの巻の内部の叙述も、やはり王権の中心から周縁へという叙述秩序がほぼ貫徹している (注。そのような『由来記』の叙述からみれば、『古事集』の記載順序は、王府の中心部からの叙述で始まるものの、「地方」の叙述は沖縄本島周辺離島の記述から始まり、宮古、八重山に展開し、沖縄本島に戻った叙述になっており、この点が『由来記』と『古事集』 が大きく異なる。ただし『古事集』においても、1の首里三平等の叙述順序は「真和志/南風/西」であり、これは『由来記』の巻五「首里中御嶽年中祭祀」の叙述順序と同じである。その後に続く「泊/那覇/泉崎/若狭町村/唐栄府」という叙述順序も、『由来記』の巻七「泊村由来記」、巻八「那覇由来記」、巻九「唐栄旧記全集」という叙述順序と同じである (注。また、『古事集』8

・ 9以下の叙述順序は、

『由来記』巻十二から巻十五にそのまま対応しており、各巻の間切の叙述順序も含めて同一である。これを考えれば、『古事集』の1の次が本来3から7の記事であったかどうかは、問題となろう。しかもこの3から7の順序も、対応する『由来記』巻十八「各処祭祀  七  慶良間島(座間味間切/渡嘉敷間切)」、巻十七「各処祭祀  六  粟国島/渡名喜島/同島離レ出砂/鳥島」とが入れ替わっている以外は、『由来記』巻十七から巻二十一までの順序と重なっている。したがって、『古事集』原本の本来の順序が、「鎌倉芳太郎ノート」の順序であったのかどうかは、検討を要するのではないかと思われる。

  つまりは、『古事集』と『由来記』の記載順序は、本来はほぼ一致していたが、鎌倉が書写するに際して3から7に当たる資料を先に書写していったのではないかという推測が立てられる。なお、『由来記』巻一「王城公事」、巻二「官爵列品」、巻三

・ 四「事始」

、巻六「国廟

・ 王

陵」、巻十一「密門諸寺縁起」、巻十六「各処祭祀  五  伊江島/伊平屋島」に対応する巻の『古事集』の叙述はない。『古事集』は王国の各

(6)

立正大学大学院紀要 三十三号三二地域の記事が記されており、「伊江島/伊平屋島」に対応する『古事集』の記事がないことは、不自然である。鎌倉が書写し落としたのか。ただし、これについても前述した『古事集』3の記事に対応する『琉球国由来記』の記載順が、巻十八、巻十七になっていることと関連する可能性がある。すなわち、『由来記』は巻十二から巻十五までの沖縄本島の「各処祭祀」の後、二つの尚王統(第一尚氏と第二尚氏)の所縁の地である巻十六から始めて、南下するかたちで巻十七、巻十八へと展開するが、「伊江島/伊平屋島」の記事を持たない『古事集』は、久米島とともに中国や宮古

・ 八重山との航路になっている「馬歯山」

(慶良間二間切)を先に記して、次に粟国島以下を記事にしているとも考えられるのである。『古事集』3の叙述の順序が、それに対応する『由来記』の巻十八、巻十七と逆転した順序になっているのは、『古事集』が当初からなんらかの事情で、『由来記』巻十六に当たる「伊江島/伊平屋島」の記事を持っていないことと関係しているとも考えられる。

  さらに、もう少し具体的な例を示して『古事集』と『由来記』の関係を考える(表2参照)。表2は『古事集』9に入る「小禄郡」、

入る「兼城郡」、 10に

名があげられ、「勝形」の項目を設けるが「小禄郡」は項目だけでその 係を示すと、『古事集』「小禄郡」は「建置沿革」で「郡」(間切)の邑 『由来記』、『旧記』を示している。まず、『古事集』と『由来記』の関 11に入る「南風原郡」と、それらの叙述と対応する 『古事集』「山川」の「小禄嶽」から「阿椰森」は、『由来記』 の項目については、後述)。これを『由来記』との対応箇所でみると、 か)が記されて、「寺社」で拝所、神社等が示されている(『古事集』 設けられるが「小禄郡」はその記述がない。「関梁」で「駅」(村番所 「火神」では「火神」と「殿」の名があげられる。続いて、「土産」が 記述はない。次に「山川」で「嶽」と「森」、「井」「泉」が記され、

12 163

(番号は『定本  琉球国由来記』による。以下、同じ)から

12

から「内間殿」は、『由来記』 と連続して対応している。さらに『古事集』「火神」の「小禄巫火神」 178まで

12 183から 12

置きながらそれを漢文化した資料であることを意味している。 いることが分かる。つまり、これは『古事集』が『由来記』を座右に 210まで連続して対応して

  また、『古事集』「兼城郡」については、「山川」の「佐久間嶽」「応地椰輪嶽」が『由来記』

12 211・ 212と連続するが、『由来記』

12

切」の記載は、「神社」( 切」と「兼城間切」とでは異なっているのである。『由来記』「小禄間 ていないようにみえるが、実は『由来記』の記載の仕方が、「小禄間 いない。このことは、一見『古事集』と『由来記』との記載が連続し 『由来記』の対応箇所の位置が『古事集』「山川」の「嶽」と連続して 神」の記載ばかりではなく、「兼城郡」のほかの「火神」の記載も、 『由来記』の記載と連続していないことが分かる。これは「兼城巫火 対応する「兼城巫火神」は『古事集』「火神」の筆頭に記されており、 213に

12 179~ 182)を挟んで、「嶽」(

12 163~ 178)

(7)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述三三 と「火神」「殿」(

12 183~

城間切」)の対応箇所が不連続になるのである。 揚」)の項目を立てた記載をしているために、区別しないタイプ(「兼 対して、『古事集』は「山川」(「嶽」)と「火神」(「火神」「殿」「神足 イプ(「小禄間切」)と、区別しないタイプ(「兼城間切」)があるのに よって「嶽」と「火神」「殿」「神アシヤゲ」とを区別して記載するタ 連続になってしまうのである。つまりは、『由来記』の記載が間切に 城間切」のような記載をするタイプの『由来記』とは、対応箇所が不 (「火神」「殿」「神足揚」)を立項して別々に記載しているために、「兼 続して記載している。しかし、『古事集』は「山川」(「嶽」)と「火神」 「神アシヤゲ」(「小禄間切」には「神アシヤゲ」は無い)を区別せず連 て記している)、『由来記』「兼城間切」の記載は、「嶽」「火神」「殿」 して(つまりは、『由来記』の記載が「嶽」と「火神」「殿」とを分け 210)を連続して記す記載をしているのに対

  さらに次の「南風原郡」をみると、「山川」の冒頭にある「善縄嶽」「中本嶽」は、『由来記』

13

と対応するが、 ・ 2

「兼城郡」は「城之殿」以下が『由来記』 じタイプだということになるが、「火神」の「殿」の記載については、 切」の記載も「嶽」と「火神」の記載を区別しない「兼城間切」と同 「兼城巫火神」は、「火神」の筆頭になっている。すなわち、「南風原間 133に対応する

12

連続していない。これは、『由来記』の「火神」と「殿」の記載が区別と「殿」とを区別するタイプ)   るのに対して、「南風原郡」は「殿」の記載が『由来記』の対応箇所とⅡ「兼城間切」型(「山川」と「火神」が混在し、「火神」の「火神」 227以下と連続して対応す*東風平/与那城は「火神」なし。 国頭   国頭恩納/金武/名護/本部/今帰仁/羽地/久志/大宜味/   中頭浦添/宜野湾/越来/与那城 /知念/玉城/具志頭   島尻小禄/高嶺/真壁/摩文仁/喜屋武/大里/東風平/佐敷 と「殿」が混在するタイプ)   Ⅰ「小禄間切」型(「山川」と「火神」を区別し、「火神」の「火神」 れをまとめたものである。 「火神」と「殿」も混在するタイプ)があることが分かる。以下が、そ プ)、Ⅲ「南風原間切」型(「山川」と「火神」が混在し、「火神」の と「火神」が混在し、「火神」の「火神」と「殿」とを区別するタイ の「火神」と「殿」が混在するタイプ)、Ⅱ「兼城間切」型(「山川」 の記載は、Ⅰ「小禄間切」型(「山川」と「火神」を区別し、「火神」   結局は、『古事集』を通して見えてくる沖縄本島における『由来記』 である。 と「殿」の記載が区別されていないのは、「小禄間切」においても同じ されず混在しているからである。『由来記』の記載において、「火神」

(8)

立正大学大学院紀要 三十三号三四島尻  兼城中頭  西原/美里/北谷Ⅲ  「南風原間切」型(「山川」と「火神」が混在し、「火神」の「火神」と「殿」も混在するタイプ)島尻  真和志/豊見城/南風原中頭  中城/具志川/勝連/読谷山

  Ⅰの「小禄間切」型が、最も多いことが分かる。これは、『古事集』の記載と『由来記』の対応箇所が連続するタイプである。『古事集』の記載が、「山川」(「嶽」「森」等)と「火神」(「火神」「殿」「神アシヤゲ」等)の項目を立てて記載していったのは、『由来記』の多くの記載形式が「小禄間切」型であり、これを意識化したと推測される。また、前述したように、Ⅱの「兼城間切」型、Ⅲの「南風原間切」型は『由来記』との対応箇所が不連続になるが、これはどちらも『由来記』が「嶽」「森」等と「火神」「殿」等とを区別した記載をしていないために、「山川」(「嶽」「森」等)と「火神」(「火神」「殿」等)の項目を立てて記載していった『古事集』の記載箇所との不連続を生じたことによる。結局は、いずれにしても『古事集』の記載は、『由来記』の記載が前提となっていると判断される。

  次に、沖縄本島周辺離島、および宮古島、八重山島の『古事集』の記載について、「座間味郡」を例にして示す(表3参照)。表3にみる ように、周辺離島、宮古島

・ 八重山島の『古事集』の記載は、沖縄本

島の記載とは異なり、「火神」の項目がなく「山川」の項目だけである(「鳥島」は例外)。例に示した「座間味郡」の記載は、「山川」に「嶽」と「殿」が一緒に記されている。このような記載の仕方は、久米島「具志川郡」でも同様で、「山川」に「嶽」と「火神」が記載されている。周辺離島、宮古島

・ 八重山島の『古事集』の記載全体がこのような記

載になっているのは、「座間味郡」や久米島「具志川郡」以外の「郡」や島(「粟国島」、「渡名喜島」、「出砂」、「仲里郡」、「麻姑島」「八重山」)には、「火神」(項目としての「火神」ではない)や「殿」の記載がなく、そのために「山川」の項目だけが立てられたのだと想像される。また、これに加えて、「風俗」あるいは「祭祀」(「麻姑島」「八重山」)の項目が立てられ、それに年中祭祀が記載されていて、「山川」と「風俗」(「祭祀」)は、『由来記』の記載と対応箇所が連続している。これはいうまでもなく沖縄本島の諸「郡」の記載同様、『古事集』が『由来記』の記載にしたがって記されているからであると推測される。『古事集』の記載に沖縄本島諸間切(「郡」)と周辺離島、宮古島

周辺離島、宮古島 載に三タイプが存在したように、『由来記』の様式が沖縄本島諸間切と 山島との間に大きな違いがあるのは、『由来記』の沖縄本島諸間切の記 重 ・ 八

・ 八重山島との間に大きな違いがあるからである。

  『由

来記』巻十八「座間味間切」は

181から

18

「トノ」(殿)の記載であり、次に「年中祭祀」として 23までが「嶽」と

18 231「〔正

(9)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述三五 月朔日

したためである。『由来記』 対応において連続するのは、『古事集』が『由来記』を座右に置いて記 『古事集』「座間味郡」の「山川」と「風俗」の記載が、『由来記』との 五日並冬至ノ御拝〕」以下の「年中祭祀」の記載が続く。 ・ 十

18

れているが、『古事集』はそれについて「此時所歌神曲并求祈意皆以番 0 233等に「御タカベノ意趣」が記さ

0紀之若以漢字改正之恐失本義故不敢校正焉若欲観此意見原旧記 00」と記して、カタカナと若干の漢字が混じって表記された「御タカベノ意趣」を省略している。同様の記載は、「四月祭稲穂」(『由来記』

18 23

6に対応)等にもあり、『古事集』は『由来記』に記される「御唄」「御タカベノ意趣」を省略している。これは、まさしく『古事集』が『由来記』を資料としていたことを物語る。また、『由来記』を「旧記」と記していることも興味深い。さらには、『琉球国旧記』の「序」等にでる「番字」(『由来記』に記される和漢混淆文をさす)という語が、『古事集』にこのようなかたちででているのにも、興味が持たれる (注

〈ⅱ〉『古事集』と『琉球国旧記』

  次に、『古事集』と『旧記』の関係を考える。『旧記』は『由来記』とは異なり正巻、附巻という二巻立てであり、正巻九巻と附巻十一巻からなる。このうち附巻十一巻は、『古事集』全体と関連しており、これは後述する『古事集』と『旧記』の項目立てを論ずる際にふれることにする。初めに、『古事集』と『旧記』の正巻九巻との対応関係を示 す(表1参照)。

  『琉球国旧記』の正巻九巻は、巻一が「首里

・ 泊

・ 那覇

・ 唐栄」

、巻二が「官職

官 ・ 廃

「古城 行」、巻三が「公事」、巻四が「事始」、巻五が ・ 知

・ 関梁」

、巻六が「島尻

・ 中頭

・ 国頭」

、巻七が「寺社」、巻八が「久米嶋

・ 馬歯山

・ 葉壁山」

、巻九が「宮古山

・ 八重山」で構成されて

いる。『古事集』1は、『旧記』巻一「首里

・ 泊

・ 那覇

・ 唐栄」と対応

し、関連する巻五「関梁」(「57世持橋」「5

里橋」「5 12金城橋」「58安

「7 下、同じ)、巻七「寺社」(「71弁財天堂」「72福源山天王寺」 18泊高橋」等。番号は『琉球史料叢書』の同書による。以

21臨海寺」「7

い)。4 つ(ただし、『旧記』「87伊保崎」に対応する『古事集』記事がな   記』巻八の「馬歯山渡嘉敷郡」「86船蔵嶽」と対応する箇所を持 14護国寺」等)と対応する箇所がある。3は『旧

社」(「7 する。6は『旧記』巻九の「宮古山記」と対応し、関連する巻七「神   は『旧記』巻八の「久米嶋記具志川郡/仲里郡」と対応 ・ 5

7は『旧記』巻九の「八重山記」と対応する箇所を持つ。8 18龍峰山祥雲寺並権社」等)の一部と対応する箇所を持つ。

宮」「69住吉宮」等)や関連する巻一「首里記」(「1 記』巻六の「島尻」(「61崇元寺嶽」「62茗刈子井」「68箕隅 は『旧 ・ 9

  嶽」等)、巻五「古城関梁」(「54瀬長城」「59指帰橋」「5 15内金城小

10真玉橋」等)と対応する。

10は『旧記』巻六の「島尻」(「6

手志川」「6 19嘉

20真壁神社」等)、巻五「古城」(「53米次城」)と対

(10)

立正大学大学院紀要 三十三号三六応する。

11は『旧記』巻六の「島尻」(「6

12善縄嶽」「6

嶽」「6 16久場堂

18佐久間殿」等)と対応する。

12・

尻」(「6 13は『旧記』巻六の「島

23場天巫火神」「6

25中森嶽」等)と対応する。

記』巻六の「中頭」(「6 14は『旧

34恵帽子井嶽」「6

37古重嶽」「6

墓」「6 38京

29奇洲神社」等)、巻七「寺社」(「7

社」「75天徳山龍福寺」)と対応する。 24大慶山万寿寺並三

15・

頭」(「6 16は『旧記』巻六の「中

41無漏渓」「6

連城」「5 43  古洞」)、巻五「古城関梁」(「55勝

20庇謝橋」)と対応する。

17・

(「6 18は『旧記』巻六の「国頭」

52建堅大親」「6

49観音堂」「6

  城関梁」(「52山北城」)、巻七「寺社」(「7 50宜名真旧宅」等)、巻五「古

音寺」)と対応する。 27金峰山三社並観

  以上、『古事集』と『琉球国旧記』正巻の対応関係は、大きく1が『旧記』巻一と、3が『旧記』巻八の「馬歯山」と、4

・ 5が『旧記』

巻八の「久米嶋記」と、6と7が『旧記』巻九の「宮古山記」「八重山記」と、

10~

13が『旧記』巻六の「島尻」と、

14~

の「中頭」と、 16が『旧記』巻六

17・

職 対応記事があるというになる。なお、『古事集』には『旧記』巻二「官   れぞれに関連する巻五「古城関梁」や巻七「寺社」の中に記される 18が『旧記』巻六の「国頭」と対応しており、そ

・ 廃官

・ 知行」

、巻三「公事」、巻四「事始」、巻八の「葉壁山」にあたる記事はない。

  次に、『古事集』と『旧記』附巻全十一巻の対応関係を示す。『旧記』 附巻十一巻は、以下の構成になっている。附巻一が「神殿」、附巻二が「神軒」、附巻三が「嶽  森  威部」、附巻四が「泉  井」、附巻五が「江 港」、附巻六が「官職」、附巻七が「官爵」、附巻八が「火神」、附巻九が「(鐘銘)」、附巻十が「郡邑  郡邑長  駅」、附巻十一が「風俗」という構成になっている。  表2を中心に示すと、『古事集』の「建置沿革」に記される諸村は、『旧記』附巻十の「郡邑」と順序も含めて対応している。「山川」に記される「嶽」と「森」は附巻三「嶽  森  威部」と、「井」「泉」は附巻四「泉  井」と、「火神」に記される「火神」は附巻八「火神」と、「殿」は附巻一「神殿」と、「神足揚」(「兼城郡」等にある)は附巻二「神軒」と対応している。つまりは、『由来記』では項目が立てられず記載されていた「嶽」、「森」、「御イベ」(「伊部」)、「火神」、「殿」、「神アシアゲ」(「神足揚」)等が、『古事集』では「山川」と「火神」という二つの項目が立てられて、「嶽」「森」「御イベ」が「山川」に、「火神」「殿」「神アシアゲ」が「火神」に記された記載になっている。さらに『旧記』では区分が細かくなって、「殿」を附巻一「神殿」に、「神アシアゲ」を附巻二「神軒」に、「嶽」「森」「御イベ」を附巻三「嶽 森  威部」に、「火神」を附巻八「火神」に分けて記載している。このほかに『旧記』は『古事集』が「山川」の中で記した「井」「泉」を附巻四「泉  井」に、「江」「港」を附巻五「江  港」に記している。このように附巻が立てられ細分した記載になっているのをみても、『古事

(11)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述三七 集』は『由来記』と『旧記』との間に位置する資料であることが知れる。前述した『古事集』と『旧記』正巻との関係は、『古事集』の「関梁」「古蹟」が『旧記』巻五「古城

巻を構成する元になっているものと思われる。 「寺社」には対応しない)。すなわち、『古事集』の項目は、『旧記』の と対応した関係になっている(ただし、「寺社」のすべてが『旧記』 のすべてが「古城」には対応しない)、「寺社」は『旧記』巻七「寺社」 梁」と対応し(ただし、「古蹟」 ・ 関

Ⅲ. 『古事集』

〈ⅰ〉『古事集』の項目

  表4は『古事集』の項目を一覧している。『古事集』1については、「首里三州  真和志/南風/西」「泊」「那覇/泉崎/若狭町村」「唐栄府」によって、その項目に大きな違いがあるので、「1a首里三州 真和志/南風/西」、「1b泊」「1c那覇/泉崎/若狭町村」、「1

d唐栄府」と区分している。これは、いうまでもなくそれぞれが王城と首里三平等、泊村、那覇四町、久米村とに相当し、内容に違いがあるためである。3以下は、冒頭で示した『古事集』の「目次」番号にしたがっている。

  『古事集』の項目は、

項目だけが立てられ、それに対する具体的な記載がないものが相当あるが、二十七の項目を数える。このうち、基本とする項目は、「建置沿革」「勝形」「山川」「土産」「関梁」「古蹟」で あり、それに準ずる項目が「火神」「寺社」である。ほかは「郡」によって個別に立てられているように見えるが、「1d唐栄府」の「名宦」「流寓」は久米村に相応しい項目だといえそうだが、項目だけで具体的な記載がない。また、「寺社」と「神社」については、「神社」の項目が「知念郡」にあり、これに「権現社」を記しているが、これと対応する『由来記』は「

13

嘉敷郡」「粟国島」、5のうちの「仲里郡」に立てられ、「祭祀」は4 どちらも「年中祭祀」を記しており、「風俗」は3の「座間味郡」「渡 をそのまま項目としたと考えられる。「風俗」と「祭祀」については、 334神社(佐宇次権現)」で、その「神社」

5のうちの「具志川郡」、6の「麻姑島」、7の「八重山」に立てられている。この「風俗」は、一部の「郡」「島」に立てられた項目であるとはいえ、『旧記』附巻十一の「風俗」と対応しており、『旧記』の巻を構成する元になっている。このほか、6の「神遊」は項目だけが立てられたものだが、おそらく『由来記』巻二十「宮古島」に記された「

20

倉」は『由来記』の「 35神遊ノ由来」を記そうとしたと考えられる。同じく、6の「公

20 37御蔵草創」に対応し、7の「公倉」は「

21

782当島蔵元」、「造船」は「

21 781船作由来之事」と対応する。   『古

事集』に二十七項にも及んで立てられた項目には、多くの「郡」「島」に立てられた基本的な項目と、特定の「郡」「島」にある個別的な項目とがあるといえる。基本的な項目は、『由来記』を基本資料として新たに『古事集』を叙述する中核となる枠組みだといえよう。一方、

(12)

立正大学大学院紀要 三十三号三八個別的な項目は、資料とした『由来記』に記された記事に応じて立てられた項目だといえそうだが、同じ内容と思われる記事であっても、「寺社」と「神社」、「風俗」と「祭祀」があったように、項目名を必ずしも統一していない。また、項目が立てられ、しかも『由来記』に対応しそうな記事があっても、それに対応した記載がないものがある(6の「神遊」)。これは、『古事集』が編纂途中の草稿段階の資料であることを物語っているのではないか。

〈ⅱ〉『古事集』の叙述

  『古

事集』の基本となる項目が、「建置沿革」「勝形」「山川」「土産」「関梁」「古蹟」であり、それに準ずる項目が「火神」「寺社」であることは前述した。『古事集』は、これらの項目にしたがって、『由来記』が記す「町方」(首里

・ 那覇)と「地方」

(間切

・ 島)をそれぞれの項

目の下に整序し、さらに各地域の特徴を追加するかたちで個別的な項目を設け、それらを漢文化しようとしたといえる。その最も顕著な叙述が、『古事集』1の冒頭の記事「首里三州  真和志」である(表5参照)。

あるが、『古事集』はまず、冒頭に王城である首里城の叙述をしようと されただけの記事(「国門」に記された十一門や「国殿」「見上森」)も は、首里城とその関連施設を記そうとした特別な項目である。名が記   『古事集』冒頭に立つ項目「城池」「国門」「宮殿」「山陵」「苑囿」 等、泊 頭の一巻を構成し、「地理」(風水)によって「町方」(王城と首里三平 記」を冒頭に立て、続いて「泊邑記」「那覇記」「唐栄記」を記して巻 る「公事」を巻三に退け、『由来記』には立てられていなかった「首里 『旧記』の編纂は、『由来記』の冒頭に立つ巻一「王城之公事」にあた は、『古事集』が新たに叙述しようとした記事である。拙論において、 事集』冒頭の王城を記した項目「城池」「国門」「宮殿」「山陵」「苑囿」 が、「玉陵」の記事以外は『由来記』を引いていない。すなわち、『古 陵」の「玉陵」「見上森」と四箇所に『由来記』と対応する記事がある している。ここには、「城池」の「中山城」、「宮殿」の「国殿」、「山

覇 ・ 那

あり、それは『旧記』に大きく影響しているということができる。 い資料を入れて、新たな構成によって琉球を叙述しようとした資料で 来記』を漢文に直した資料ではなく、以下に述べる『由来記』にはな には「地理」(風水)の記事はない。すなわち、『古事集』は単に『由 は、既に『古事集』冒頭の叙述にあったのである。ただし、『古事集』 なる点のひとつであることに言及した。この『旧記』の叙述のかたち (注 米村)を叙述していることが、『由来記』と大きく異 ・ 久

  表5が示すように、『由来記』と対応しない記事は多い。これらは、『古事集』が新たに叙述しようとした世界であるといってよい。表5からは、その一部(「宮殿」の「西之御殿」「南之御殿」「東宮」、「苑囿」の「同楽苑」等)が、『旧記』に引き継がれていることが分かる。しかしそれにしても、名だけを揚げている記事も目立つが、『古事集』は

(13)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述三九 『由来記』が記されていない多くの記事を書き留め、当時の琉球を叙述しようとしていることが知れる。これらは、「寺社」に記される記事が多く、「真和志」(真和志之平等)については、「来光院」(『由来記』巻 10

巻 21に名だけがみえる)、「大慈院」、「得寿菴」、「寿福院」(『由来記』

10

光院」などは、『由来記』巻 これらは多くが大寺の「末寺」であり隠居寺だったのではないか。「来 39に「寿福菴」がみえる)、「長楽院」がそれである。おそらく、

10

記された記事は多い。 かし、『旧記』はそれを完全に受け継いではいなく、『古事集』だけに つつも、さらに新たな資料を加えて琉球を記そうとしたのである。し 創建者が記されている。『古事集』は『由来記』を基本とした資料とし 事もあるが、多くは山号や創建時期、所在する村や、場合によっては 等)や「唐栄府」等にもみられる。記事の中には、その名称だけの記 「臥雲軒」「吉祥菴」「寒松院」等がある。同様の記事は、「西」(西之平 (南風之平等)でも、「松岳院」「常得菴」「知足院」「慈雲菴」「牟尼菴」 いが、貴重な記事が記されている。このような「寺社」の名は「南風」 焉」という記事を記している。残念ながら誰の隠居寺であるか知れな   弥陀康煕二十年辛酉創搆此院于立岸村以為隠居之所而朝夕念経祈福 の名が記されているだけであるが、『古事集』では「来光院」に「山号 21に「天徳山円覚寺」の「末寺」にそ 〈ⅲ〉『古事集』と家譜

  『古

事集』が新たな記載を加えている例のひとつが、「人物」「列女」に記された記事である。「人物」には、1aの「西」(西之平等)の末尾に「自了」(『由来記』「4

の末尾に「蔡譲」、4 30画工」と対応)、1dの「唐栄府」

「 の「具志川郡」に「笠添若茶喇」(『由来記』 ・ 5

見親」(『由来記』「 19a〔具志川城主由来〕」と対応)、6「麻姑島」に「仲宗根豊

20 36中宗根豊ミヤ物語之事」と対応)、

17・

部郡」に「建堅大親」(『由来記』「 18「本

19

ひとつが、家譜であったことが分かる。 たと考えられる。このことから、『古事集』が新たな資料としたものの の「二世通事諱譲」に記される記事である。『古事集』は、これを採っ 「蔡譲」と「蔡氏之女」の記事は、いずれも『蔡氏家譜(一世蔡崇)』 『由来記』に対応箇所がなく、『古事集』が新たに記載した記事である。 栄府」に記された「人物」の「蔡譲」と「列女」の「蔡氏之女」は、 載箇所があり、それを資料としたと推測される。一方、1dの「唐 「自了」「笠添若茶喇」「仲宗根豊見親」「泊大阿母」は『由来記』に記 1dの「唐栄府」の末尾に「蔡氏之女」の記事がある。このうち、 阿母」(『由来記』「72泊之大阿母(今習氏也)由来之事」と対応)、 応)の記事がある。また、「列女」には1bの「泊」の末尾に「泊大 88堂之大比屋物語之事」と対

  また、「本部郡」の「人物」にある「建堅大親」は、『由来記』に対応箇所があるとはいえ、「建堅大親」の名が「堂之大比屋」とのかかわ

(14)

立正大学大学院紀要 三十三号四〇りでわずかに記されるにすぎない。したがって、「建堅大親」も『古事集』が加えた新たな記事であるといえる。この記事が、どのような資料によって記されたのか興味深い。しかし、一方『古事集』には『由来記』にあった「堂之大比屋物語之事」を資料とする記事がない。この理由がなんであるか、今のところ不明である。『旧記』は、『古事集』の「建堅大親」の記事をほぼ同文で「6

を『球陽』が「1 52建堅大親」に載せ、それ

の重要なテーマである。 (注 王府が編纂する正史、地誌における記事(物語)の消長は、琉球文学 載されなかったことによるのか、今後の課題である。いずれにしても、 その後はどの資料にも取りあげられない。この違いは、『古事集』に記 を蒙る」に引き継ぐ。一方、『由来記』の「堂之大比屋物語之事」は、 50本部郡の建堅大親、馬を中華人に給し以て招撫

  『古事集』の記事のうち、

『由来記』と対応箇所がある「仲宗根豊見親」を除く「自了」「笠添若茶喇」「建堅大親」「泊大阿母」は、『旧記』の「1

26自了」、「82笠末若良旧宅」、「6

52建堅大親」、「1

33

泊地頭並大阿母」に引き継がれるが、「蔡譲」「蔡氏之女」「仲宗根豊見親」は『旧記』には記されず、後の正史である『球陽』に載っている (注

(注。「蔡譲」は「2

「2 89十八年、蔡譲、亀鱣に命を救はる」、「蔡氏之女」は

根豊見親」は「3 128蔡譲の女亜佳度、資を捐して祠を建て、神主を奉安す」、「仲宗

「3 182  附宮古山の嘉場仁也、鯖魚に逢ひ命を救はる」

181宮古山の鯖祖氏玄雅宝剣を献上す」に引かれ、さらに「3

159

二十四年、銭原、大将と為り、八重山の赤蜂を征伐す」や「3

めて宮古山 162始

・ 八重山に頭職を置く」の一部を作る叙述になっている。

『古事集』が記した「人物」「列女」の記事にあっても、『旧記』に引き継がれなかった記事は結局は『球陽』に記されるが、『旧記』が記した記事は、『由来記』に淵源するものを取りあげる姿勢があったということか。また、「仲宗根豊見親」の記事は、長編であるが故に『旧記』では取りあげ難かったことが考えられる。このように、『古事集』が新たに加えた記事には、『旧記』を飛び越えるかたちで『球陽』に引き継がれたものがある。このような記事には、6「麻姑島」の「古蹟」に記される「鷹塚」(『由来記』「

20

巻「 は、『旧記』に取りあげられず『球陽』の外巻である『遺老説伝』外附 291旧跡」と対応)がある。「鷹塚」

原文 134   宮古水納島の鷹塚由来のこと」(番号は『球陽外巻遺老説伝

・ 読み下し』による)に記載されている。

  さらに、『由来記』「4

る。『由来記』と『古事集』の「自了」の記事を、以下に引く。 『古事集』が新たに加えた記事は、もっと多いのではないかと考えられ 記』を直接利用してはいないと思われる。記事を詳細にみていくと、 『古事集』の「自了」の記事であっても、実際は『古事集』が『由来 30画工」の記事を引き継いだようにみえる

『琉球国由来記』「4

30画工」

  尚質王世代、崇貞年間、欽氏自了ト云人アリ。生質賢敏ニシテ能画

(15)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述四一 ヲ写ス。藤原狩野安信、賛レ之曰。若在イ于本邦ア、我友レ之(云云。見イ欽氏家譜ア )。又家譜ニ云、自了之人也、始生口唖。父母為イ 廃人ア 。不レ教イ読書ア。一日、同イ里中児ア登レ山、見ク一羊従イ高巌ア墜下不ニ死。自了疑レ眸、而思ウ黙所イ以不ナ死者、良久。忽大悟、遂飛レ身下レ岩。衆大驚、以為イ必死ア、下レ山視レ之、無レ恙也。其弟借イ隣人書ア、置イ案頭ア。自了翻閲畢、弟持去。自了索レ筆疾書。始末無イ一字錯落ア。喜イ臨池学帖ア、筆如イ龍蛇ア。得イ王右軍遺意ア。喜イ鐫図章刻ア。画古朴、有イ秦漢風ア。尤工イ丹青ア。凡古人墨蹟、摹倣逼肖。雑イ之画中ア、無レ有イ能弁レ之者ア。後乃以レ善レ画、得レ名矣。

『古事集』1b「西」(西之平等)の「人物」欽氏諱可聖、童名思亀、西之人也、〔A〕始生口唖、父母以為廃人、不教以読書、八歳時以手指天曰、出処、晨往暮帰、如是者月余、忽鼓掌大○、似有得、夫天地旋転、日月升沉之理、而快焉、自是遇一事見一物、必窮昼夜思索、務得其故而後已類如此(途中省略)〔B〕一日同里中児、登山見一羊(途中省略)無有能弁之者、後乃以善画得名、王愛之賜号曰、自了崇貞年間、冊封行人杜三策、至中山、王出自了画、索留題、杜公大加称賛、比之顧虎頭、王摩詰、以為近代無有也、迄今字画流伝国中、人得之如獲重宝、年十八無疾而逝、葬三日後、塚開尸脱、唯余空棺衣覆異香、繚繞不散嗚呼真為異人之骨格矣

によって確認される (( 五年九月刊)に発表した「琉球歴代画家譜」に記された「欽姓家譜」 これらの記事は、比嘉朝進が戦前に『美術研究』第四十五号(一九三 香」に覆われていた。これは、「異人」の風格であると記されている。 り埋葬してから三日後、「塚」を開いてみると遺体はなく、「塚」は「異 「顧虎頭」「王摩詰」(王維)に比肩されると称賛されたが、突如亡くな 杜三策」(一六三三年の尚豊王冊封使節の一員)によって、その画は 〔B〕の後は『由来記』にない記事で、自了が国王に愛され「冊封行人 棒法」をじっと観察しその技を体得した記事も記している。さらに 歳時」に「日月升沉之理」を極めようとしたエピソードや、兄の「鎗 重なる記載である。〔A〕と〔B〕の間に『古事集』には、自了が「八 を引いた箇所〔A〕〔B〕は、途中省略した部分も含めて『由来記』と 「家譜ニ云」として「欽氏家譜」を引いている。『古事集』が記す傍線   『由来記』は自了の画が狩野安信の称賛を受けたことを記した後、

(注。『古事集』は、新たに「欽氏家譜」にあたってこれを記したと判断される。特に、自了が亡くなって「塚」を開いてみると遺体はなく、「塚」は「異香」に覆われていたという記事は、尸解仙ともいうべきもので、『由来記』には「

れた「ヨクツナ大屋子」や「 131ヨクツナノ嶽」に記さ

14

が尸解仙の記事としてあるが、この箇所は『由来記』「4 2121旧跡」記された「補陀落坊主」

いうことは興味深い。 はない。この叙述が家譜にあり、それが『古事集』に引き継がれたと 30画工」に

(16)

立正大学大学院紀要 三十三号四二〈ⅳ〉『古事集』の「古蹟」記事   『古事集』の叙述を考える上で注目しなければならない項目として、

「古蹟」がある。「古蹟」には、以下に示すような記事が載る。

1真和志  京阿波根塚/泊  泊御殿

待所 ・ 御

平 ・ 赤

薬師堂   越路/那覇 ・ 亀

・ 地蔵堂

・ 夷殿

・ 龍翔寺

・ 楞枷寺

・ 大徳寺

・ 西照寺

・ 西福寺

荒神堂

磺城 ・ 硫

・ 烏李地

・ 博茶屋

・ 姑巴司

・ 湯屋/泉崎

  潮音寺/若狭町邑  伊部竃

・ 平松

・ 新村渠/唐栄府

  大石

・ 大門

・ 亀石

8    6麻姑島鷹塚    具志川郡具志川城 ・ 5

   豊見城郡豊見城 ・ 9

・ 保栄茂城

・ 長峰城

・ 瀬長城 10   高嶺郡真壁城

里嶽 ・ 宮 (注

(注/摩文仁郡  米次城

文仁城 ・ 摩

城 原 ・ 石

・ 波平城 11   大里郡大里城

・ 大城城

・ 儀奴森 14   浦添郡浦添城

・ 伊祖城

・ 戯馬場

/中城郡  奇洲森

・ 安里寺

・ 津

灞社

・ 和仁屋間社

・ 糸蒲寺 15    北谷郡古洞/勝連郡勝連城

・ 比嘉城 17・ 18    金武郡古城/本部郡浜川

・ 瀬川

・ 蓋川

/今帰仁郡  山北城

・ 神船石

・ 黒石

/羽地郡  城下

・ 古城

・ 瀬洲名城

/国頭郡  円王旧宅

・ 剱劈石

・ 炬石

(注

(注*『古事集』が新たに記した記事には、傍線を引く。

  「古

蹟」には、他の箇所では「山川」で記されているような記事(「高嶺郡」の「宮里嶽」、「大里郡」の「儀奴森」、「本部郡」の「浜川

・ 瀬

師堂 川」等)や「寺社」で記されているような記事(「那覇」の「薬 ・ 蓋

いる (注 所而稠人所以矚目也」とあり、競馬(馬勝負、馬揃いとも)を記して い。「戯馬場」には「在安波茶村辺俗叫之曰安波茶場此乃群英戯馬争芸 「城」の記事が多いことが知れる。これらは、『由来記』には記載がな しているのは、「戯馬場」(「浦添郡」)と「城」であり、そのなかでも ていると思われる。それはともかくとして、『古事集』が新たに記事に ている。このことは、『古事集』が草稿段階の資料であったことを示し 蔵堂」以下等)があり、『古事集』の叙述の不統一性を物語っ ・ 地

(注。「城」の多くは「豊見城  何代何人創築斯城今不可考焉」というような簡単な記事であり、「摩文仁城

原城 ・ 石

平城 ・ 波

添城 ・ 浦

「古城」の記事をみるように、「古城」として「城」である。 記す「城」は、以下に引く「金武郡」の「古城」、「羽地郡」の「城下」 らは、『古事集』が「古蹟」に記した新たな記事である。『古事集』が ると、『古事集』の「古蹟」には二十一の「城」が記されている。これ 「高嶺郡」の「真壁城」、「今帰仁郡」の「山北城」がある。これを加え のほかに、『由来記』に対応箇所がある「具志川郡」の「具志川城」、 城」は名称だけをあげた記事であるが、その数は十八にものぼる。そ 祖 ・ 伊

「金武郡」の「古城」  在金武村城主并保之年数因経歴已久而今難考焉

(17)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述四三 但俗伝云昔有金武子者始築斯城而居焉然其言無徴故留紀此句以令後之覧者而弁焉「羽地郡」の「城下」  地名在田井等村万暦年間日本以大兵入国時羽地郡人加板于其上与敵軍交戦跡今尚存「羽地郡」の「古城」  名謂親城在川上村辺   「金

武郡」の「古城」は「経歴已久」とあり「難考」としており、わずかに「金武子」が築いたという「俗伝」が伝わるだけだとある。これは、現在「金武町字金武」にある「面積

に「ウェグスク」(親グスク)が確認される。これを記したか (注 ではないか。「羽地郡」の「古城」は、現在「名護市字川上マガク原」 れない。「城下」のこの記事は、島津侵攻時の琉球側の記事として貴重 事は、島津侵攻を記した『喜安日記』や『琉球渡海日々記』にはみら ○九年の島津侵攻の際に戦場になったところだとある。このような記 城」の記事は、興味深い。「田井等村」にあるという「城下」は、一六 ある「金武グスク」を記したと思われる。「羽地郡」の「城下」と「古 100㎡程の小さいグスク」で

(注。あるいは、「羽地郡」の「城下」の記事と、「古城」の「親城」とを関連させて捉えれば、「城下」は「親城」の「城下」と理解されるが、「親城」が規模の小さいグスクなら、この近くにある「親川グスク」(羽地グスク)の「城下」ということかもしれない。いずれにしても、これらは『古事集』の「関梁」の記事とともに、『旧記』巻五の「古城

・ 関梁」

を構成していく。しかし、注目すべきは『旧記』巻五の「古城」(「1山南城」「2山北城」「3米次城」「4瀬長城」「5勝連城」「6仲城」)の叙述と比べると、『古事集』の「古城」は明らかにその叙述が乏しい。『古事集』の「古蹟」には、「仲城」の名前すらあげられていない。つまりは、『旧記』の「古城」の叙述は、『古事集』の「古蹟」の「古城」に叙述の枠組みを与えられて、大きく叙述を成長させたのである。以下に、『旧記』の「古城」と対応する『古事集』の「城」を引く。

「大里郡」の「大里城」  何人創築此城今不可考焉但見石垣頽敗凄涼起呼鳴生乎今之世追思已往事可勝嘆哉「今帰仁郡」の「山北城」  在今帰仁村之  俗叫之曰今帰仁城「摩文仁郡」の「米次城」  昔米次村有米次按司者始築斯城而居焉然不知為何時人也「豊見城郡」の「瀬長城」  何代何人創築斯城今不可知焉「勝連郡」の「勝連城」  在南風原村昔世有伊条目里之子者居于此城後餅擣按司(ママ)已而天降按司亦来此而居焉何代何人築之今不可考焉遺老伝云餅擣  按司乃中山(ママ)王之子也

  以上、『古事集』の「古蹟」が記す「城」は、いわゆる三山の居城とされる大里城や今帰仁城についても、その歴史を記していない。また、勝連城にしてもかつてここに「餅擣按司」(モチヅキ按司)が居り、そ

(18)

立正大学大学院紀要 三十三号四四の後「天降按司」(アマオリ按司で、アマワリに繋がるか)が入ったという興味深い記事があるものの、正史が伝える「中山王」(尚泰久)に叛旗を翻した「逆賊」「阿摩和利」の姿はなく、したがって「阿摩和利」の反乱を知らせ、王女である「阿摩和利」の「夫人」「踏揚按司」の救出に功があった「鬼大城」の活躍も記されてはいない。さらに、前述したように「逆賊」「阿摩和利」に討たれる「忠臣」「護佐丸」の居城「仲城」はその名すらあげられていないのである (注

(注。「米次城」「瀬長城」も同様で、夫の仇を討った「米次按司」の「夫人」の記事や「驕傲已極」により「中山王」に「攻滅」された「瀬長按司」の記事も、『古事集』にはみられない。『古事集』は、蔡鐸本『中山世譜』(一七○一年)に記された三山鼎立や「阿摩和利」「護佐丸」の対立にからむそれぞれの居城についての記事を記していないのである。

  これは『古事集』が基本的に『由来記』の系譜にある書だということなのか。『由来記』において、『古事集』「古蹟」に記された「城」との対応でいえば、「古蹟」として記されているのは「

15

「具志川城」は『由来記』の「 (「山北城」の記事)が唯一であり、『古事集』「古蹟」の「具志川郡」 1681旧跡」

郡」「真壁城」は「 19a〔具志川城主由来〕」、「高嶺

12

来記』の「 331神社」(「真壁城」の記事)と対応するが、『由

イベを記す「 19a〔具志川城主由来〕」は、そのすぐ後に三つの御

城」を記した「 191具志川城内御イベ」の記事の由来であり、「真壁

12

331神社」は、まさに拝所としての「神社」(「真壁 をみても「豊見城間切」の冒頭は「 れていることが分かる。例えば、「各処祭祀」の冒頭の巻である巻十二 記される「御嶽」は、その間切の有力なグスクにある「御嶽」が記さ をよくみると、グスクの名があらわれていないものの各間切の冒頭に 城」が「神社」になった)の由来である。そのような観点で『由来記』

12

「 見城グスク内の御嶽の祭祀記事である。同じく「高嶺間切」の冒頭の 82城内豊見瀬嶽」であり、豊

12 249  大嶽」「

12

壁間切」の冒頭は「 250  小嶽」は、「山南王城」「城内」の御嶽、「真

12

  いる。次の巻十三「各処祭祀二」では、「大里間切」の冒頭は「 315  城内ノ嶽」は真壁グスクの御嶽となって

13

間切」の冒頭は「 47  城内島添アザナノ御イベ」であり島添大里グスクの御嶽、「具志頭

13

切」の冒頭は「 226  城内之嶽」で具志頭グスクの御嶽、「佐敷間

13

の冒頭は「 260  上城ノ嶽」で佐敷グスクの御嶽、「知念間切」

13

の冒頭は「 310  城内友利之嶽」で知念グスクの御嶽、「玉城間切」

13

354  雨粒天次」は玉城グスクの御嶽が記されている。

  このように、『由来記』にはグスクの名が具体的に記されていない場合が多いが、それぞれの間切に有力なグスクがある場合は、その冒頭に城内の「御嶽」や「御イベ」が記され、その祭祀が記されている。すなわち、『由来記』のグスクの記事は、祭場としてのグスクであり、その点では『由来記』も相当にグスク(の祭場)を記していたのである。しかし、『由来記』は祭場を離れて取り出したグスクをほとんど記していなかったということである。そして、『由来記』を基本的な資料

(19)

『古事集』(鎌倉芳太郎資料)の叙述四五 とした『古事集』は、祭場としてのグスクを記すとともに、新たに「古蹟」としてのグスクを多く記したが、その記事は乏しい。その『古事集』を受けたと考えられる『旧記』は、『古事集』が記したグスクの内、三山鼎立にかかわるグスクと、前代の王統である第一尚氏泰久時代の戦乱の歴史にかかわるグスク等を記したということになる。つまり、『旧記』の「古城」の叙述によって、正史が記す琉球の歴史の舞台となるグスクが叙述されるようになったといえる。このことは『旧記』が『由来記』から始まる地誌『由来記』の系譜にあるとともに、正史『中山世鑑』(一六五○年)、蔡鐸本、蔡温本『中山世譜』(一七○一年、一七二五年)の叙述を含んだ書としてもあったということである。『旧記』の記事が三七○余も『球陽』やその外巻『遺老説伝』に引かれているのも、『旧記』が地誌と正史を結んだ書と考える所以であるが (注

(注、グスクの叙述という視点からみてもこのことがいえる。

まとめ

「各処祭祀」で「地方」の御嶽、御イベ等の祭祀を記しているが、それ とその周辺の首里の御嶽の祭祀を記している。そして、巻十二以下の 祭祀を記しており、巻五「城中御嶽併首里中御嶽年中祭祀」で首里城 りあげても、『由来記』は巻頭の巻一「王城之公事」でまさに首里城の 『旧記』を記す元になった資料だといえる。前述したようにグスクを取   『古事集』は『琉球国由来記』と『琉球国旧記』の間にある書で、 『旧記』の巻五「古城 としたのである。残念ながら具体的な記事は乏しいが、この枠組みが ら、「古蹟」という項目を立て「古城」としてのグスクの歴史を記そう る。それに対して、『古事集』はグスクにある祭場の祭祀を記しなが も相当に各間切の有力なグスクにある祭祀を巻頭に記す叙述をしてい

述を形成したといえる。 と「忠臣」「護佐丸」等の正史の歴史叙述が記された「古城」の歴史叙 梁」を作り、三山鼎立と「逆賊」「阿摩和利」 ・ 関

  『古事集』の冒頭は、

「1.首里三州  真和志/南風/西/泊/那覇/泉崎/若狭町村/唐栄府」という記事であったが、「泊/那覇/泉崎/若狭町村/唐栄府」の記事は、『由来記』の「泊

・ 那覇

・ 唐栄」

(巻七

・ 八

・ 九)

に相当する。『古事集』は、その「泊

覇 ・ 那

巻一「首里 事の前に王城と首里三平等の記事を置いたのである。これは『旧記』 栄」の記 ・ 唐

・ 泊

覇 ・ 那

を立項し、その後に「町方」である港都「泊 『旧記』は、『由来記』が立てなかった空間としての「首里城」「首里」 栄」と、そのまま対応している。『古事集』 ・ 唐

・ 那覇

・ 唐栄」を冒頭に

叙述したといえる。そして、これはグスクの叙述に祭場としてのグスクと「古蹟」としてのグスク(「古城」)が叙述されたことと、並行してあったということである。その枠組みを最初に作ったのが、『古事集』である。『古事集』の叙述は、琉球を描く新たな眼差しが窺えるのである。

  ただ、前述したように『古事集』は全体的にその叙述に統一性を欠

参照

関連したドキュメント

[r]

[r]

A Successfully Treated Patient with Prosthetic Joint Infection Caused by Pseudomonas aeruginosa Diagnosed from PCR of Periprosthetic Joint Fluid. Keitaro FURUKAWA 1) 2) ,

[r]

取締役社長 鈴木摠兵衛 常務取締役 青木鎌太郎 取締役 五明良平 取締役 岡谷清治郎 取締役 富田重助 取締役 林冀一 支配人 増本敏三郎 監査役 渡邊義郎 監査役

[r]

EC( 電気伝導度), CEC(

出版情報:Kyushu University, 2013, 博士(工学), 課程博士