〔浦添関係文献紹介〕
鎌倉芳太郎ノート「浦添研究」
鎌倉芳太郎が、琉球紅型の様式を基本に、ゲーテ
の色彩論ζi裏打ちされた鎌倉独自の芸術論の帰結と
して制作した作品「型絵染者山紅葉栴桜吹結文上代
紬長者jは、昭和32年(1957年)に発表された。
以後、鎌倉は琉球王国時代の王家御用の紅型宗家
である浮眠、域問、知念、家ζi伝承されていた前紅砲
の
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l:を創作の法本にして、多くの紅型、型絵染の
作品を制作し世iこ問うた。また、 『古琉球型紙の研
究j (1959年)、 『古琉球型紙j (1959年)、 F古
琉球主I烈j (色彩論・ 1967年、技法論・ 1969年)を
京都書院から発行し、琉球紅型の歴史的価値、その
美しさを考究して、伝統的技術の普及・発展を主張
した。紅型の祖型で、 15世紀以前ζi浦添地方で発達
したと考えられる
1
浦添型j紅型(靖弱型)
I
の発見
もまた、鎌倉によるものである。
紅型の伝統的な技術官得の中から、さらに独特な
型絵染を生み出した鎌倉は、その功績によって、昭
和48年 (1973年)に、国の重要無形文化財技術保持
者(人間関支)として偶人認定されている。
しかし、鎌倉は、琉球紅塑の発展 11:寄与しただけ
の人物ではなし、。大正末期、伊東忠太と共 IL琉球建
築の研究および'弓真撮影などを行なっており、現在
実施されている首里城復元ζi、数多くの資料(古文
書・写真)が活用されている。その研究活動は多岐
に渡り、琉球(沖縄)の風物、美術工会、民俗など
があり、今日の近世琉球・近代沖縄史研究ζiも多く
の貴重な資料を提供しているのである。
こ乙で紹介する「浦添研究
J
は、鎌倉が昭和2年
(1927年)5月IL浦添の字仲間・伊祖・前田の民俗
調査を行なった時のフィーJレドノートである。ノー
トの寸法縦20.5cmX横16.5cmの大学ノート (A5
半1])で、内容は全般的ζi絵凶からなっているが、浦
添以外ζi交野湾市内の拝所など数件が記録されてい
る。 36ペー
v
という薄いフィ ルドノートだが、大
正末期から昭和初期の浦添の民俗事象を知るうえで
は、貴重な資料といえる。
資料表題の「浦添研究
J
(立、ノート中で唯一の説
査項目名が冠された「浦添研究、昭和二、五、三」
からの仮称である。/←ト分量36ページに収録され
た絵図等の中で、 16ベーゾ分が浦添関係資料として
幾分纏められた形で記録されているので、/ ト名
「浦添研究jが適当であるように思われる。なお、
沖縄県立芸術大学作成の『鎌倉芳太郎氏所蔵資料目
録j (1984年)では、便宜的1<:
I
ノート16、フィー
ノレドノート
J
となっている。
内容を大別すると、①仲間村の「根殿内
J
② [ciJ村
の「根原」③仲間村の「興那覇門中御ピナデ順路
J
G:伊祖村の「殿、城、拝泉
J
⑤浦添城跡⑥前旧村の
旗頭などである。とくに、伊担村の殿などについて
は、 「昭和二、五、七日午後。伊一、伊二 jと
傾記され、丁寧にまとめられている。
「根殿内
J
は建物の見取図(平面図、正面l凶)を
描き、殿内IC鎮座する御火神(御三ツモン)・御篭
も詳細に図示されている。とく IC注目されるのは、
次のメモ書きであろう。根殿内での祭犯は、 「八月
十五夜ニハ『オチ〉オマツリ』アリ、月/昇リヲ拝
ム、五穀・御ノ
i
く・御茶ト等ヲ供ヘテ犯ノレ
J
とあり、
浦添では月神信仰が観音(菩薩)信仰とは別の習俗
としてあった乙とが分かる。根殿内前 iとあった東世
への御通し石が「御フンシ石(御風水石)
J
と称し
ていたことも記されている。また、根殿内を管理す
る輿那覇門中の「御水撫で
J
例祭は3月13日、 8月
13自 己 3月御ピナデの日ICは浦添ユウドレで清明
祭も挙行された乙と等、現在開き取りのできない事
例が記され、貴重な民俗資料となっている。
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最近、字伊祖の神アシャゲ、火神の殿(トゥン〕
が復元されたが、乙のノート i亡は戦前の両競場が図
示され、寸法も明記しである。鎌倉氏の調査閲IC基
づき復元されていればと、しごく残念IC思われる。
現在、ノート『鴻添研究』の郎、本は県立芸大に所
蔵されているが、浦添市立図書館沖縄学研究室には
そ の 複 写 本 が あ る 。 ( 長 間 安 彦 )