はじめに
本稿の課題は、近世武家社会における江戸勤番の選出実態から、 江戸詰藩士の編成原理を明らかにすることにある。
諸藩は、参勤交代制などに伴い、江戸に政庁を兼ねた江戸藩邸を 構え、江戸に国元と同様の家臣団組織を置いた。藩主は、基本的に 隔年ごとに国元と江戸を往復したが、それに伴い、その藩士もまた 国元と江戸とを往復した。
従来、江戸詰家臣団を取り巻く研究状況は、江戸留守居役に焦点 を当てた研究が主流で、江戸藩邸における行政機構の研究や家臣団 の編成などに関する研究は少なかった。その後、二〇〇〇年以降の 「藩世界」
・ 「藩社会」
・ 「藩地域
(1)
」 といった藩研究の捉え方が提起され た が 、 そ の 研 究 状 況 は 依 然 と し て 大 き く 変 わ って い な い
(2)。 そ の た め 、 江 戸 勤 番 を 務 め た 藩 士 は ど の よ う な 基 準 で 選 出 さ れ て い た の か と い っ たこと一つとっても、史料的制約も相俟って、十分に明らかにされ ていない。 管見の限り、唯一この問題について言及した研究として、コンス タンティン
・ ヴァポリス氏の研究が挙げられる
(3)
。氏は、 土佐藩士の 江 戸 御 供 の 人 選 に つ い て 、 寛 文 一 〇 年 (一 六 七 〇)
た点も考慮しなければならない。 藩士の格式や江戸勤番の勤務形態によって、選出基準が異なってい 実態を示せていない。さらに言えば、一口に江戸勤番といっても、 図が見えづらい。また、対象年代が断片的であり、近世全般の選出 あり、藩政資料などから選出の裏付けを行っておらず、選出側の意 を指摘している。しかし、氏の指摘は名簿の分析結果のみの見解で 行った結果、三分の一以上(三五%)の藩士が再任者であったこと 七一) 、 延宝四年(一六七六)の二七四人の藩士を対象とし、 分析を 一 一 年 (一 六 ・ 同
本稿で分析対象とする鳥取藩の場合では、参勤交代に随従する江 戸御供と、参勤交代とは別に江戸藩邸の警備のために平士以上の藩 士から選出される江戸御番とに大別されている。筆者は、すでに藩 士が江戸勤番(特に、江戸御番)を務める意義について、鳥取藩の 政策を中心に検討した
(4)。本稿では、 前稿を前提とした上で、 江戸御 江戸詰藩士の編成原理 ―鳥取藩政資料「藩邸年表」を素材に
―仲 泉 剛 (史学専攻博士後期課程三年)
番を中心に、これまで断片的に描かれてきた江戸勤番の選出実態に ついて、統計的に検討を行い、その全体像を示したい。
なお、本稿では主な使用史料として、鳥取藩士で多くの著作を著 し た 岡 島 正 義 の 著 作 「藩 邸 年 表」 を 用 い る
(5)。「藩 邸 年 表」 と は 、 江 戸 藩 邸 の 出 来 事 を 編 年 体 で ま と め た も の で あ る 。 ま た 、 そ れ に 加 え て 、 江戸御番、及びそれを統率する江戸御番頭に選出された藩士名が記 されている。そのため、近世前期から後期までの江戸勤番の選出状 況を検討するのに最適な史料と言える。
第一章 鳥取藩江戸詰藩士と「藩邸年表」
本章では、本稿で分析対象である江戸御番、及び使用史料である 「藩邸年表」について概観したい。
第一節 鳥取藩江戸詰藩士
鳥取藩は、三二万石を領した外様大名である。鳥取藩の江戸藩邸 は、八代洲河岸(鍛冶橋之内)の上屋敷のほか、芝金杉と戸越村の 下屋敷が幕府から与えられた拝領屋敷で、その他は買得した抱屋敷 (町並屋敷を含む)である。江戸藩邸に詰めた藩士は、 主に、 江戸に 常に滞在する江戸定詰と、江戸滞在が有期限の江戸詰とに大別され る。
本稿で検討対象としている江戸御番の概略について確認しておき たい。鳥取藩については、藩研究の基礎文献として、戦前に旧藩主 池田家によって編纂された 『鳥取藩史
(6)』 がある。 同書の 「江戸番頭 並に十人番」には次のように説明されている
(7)。 平士以上の者、毎年一年交替にて江戸御番に赴く。之を十人番 と云う。初め多くは十人なりしより、此く名つけしものか。後 ちには十人以上、又は以下の事有りて一定せず。之を率ゆるも のを、十人番頭、又は江戸番頭とも云う。多くは物頭中より撰 定せらる。十人番士は各組より撰抜せらるゝを以て、各々組頭 を有するも、在府勤番中は江戸番頭の節度を受くるものとす。
江戸御番は、平士以上の藩士(主に、馬廻)が毎年一年交代で江 戸勤番を行う。人数は、初めの頃は一〇人体制が多かったようで、 「十 人 番」 と も 呼 ば れ る 。 江 戸 御 番 は 、 そ れ ぞ れ の 組 支 配 に 置 か れ る 家臣が、その組ごとに選出される。そのため、江戸御番の選出に関 しては、ある程度各組頭に委ねられていた。江戸御番は、江戸勤番 時には、組頭の支配を離れ、江戸御番頭( 「十人番頭」 )の支配とな る。また、江戸御番を統率する江戸御番頭の多くは物頭格より選出 された。
以上のように江戸御番に選出された藩士たちは、江戸御番頭支配 の下、参勤交代の行列とは別に毎年江戸と国元とを往復する。藩士 は、前年の八月に江戸御番に選出され、翌年三月一〇日に前年の江 戸御番の藩士と交代する勤務体制をとっていた
(8)。
第二節
「藩邸年表」と江戸御番 「藩
邸 年 表」 の 著 者 岡 島 正 義 は 、 天 明 四 年 (一 七 八 四) に 鳥 取 藩 士 佐野儀左衛門の子として生まれる。初名を儀三郎といい、後に五郎 右衛門、嘉永三年(一八五〇)には儀三右衛門と改めた。正義は字 で、石梁、霜眉と号した。正義は、岡島平三郎の養子となり、寛政 六年(一七九四)に養父が没すると岡島家の家督を相続した。
文化四年(一八〇七)には、江戸御番として江戸藩邸に勤務し、 文政七年(一八二四)には御目付役を命じられた。ところが、文政 九年(一八二六)わずか四一歳で職を辞し、その後公職に就くこと な く 、 郷 土 史 の 研 究、 史 書 の 著 述 に 従 事 し た 。 安 政 六 年 (一 八 五 九) に七六歳で没する。
正 義 の 人 と な り は 、 博 覧 強 記 で 、 多 く の 著 作 が 今 に 伝 わ って い る 。 そ の 著 作 は 現 在 で も 高 く 評 価 さ れ て お り、 「 近 世 の 最 も す ぐ れ た 史 書
・ 地誌を残した人物
(9)
」とも評されている。代表作として、 鳥取城 下 の 地 誌 で あ る 「鳥 府 志」 、 鳥 取 藩 に 関 す る 出 来 事 を 編 年 体 で ま と め た 「因 府 年 表 正 続 二 十 巻」
・ 「鳥
府 厳 秘 録」
・ 「化
政 厳 秘 録」
・ 「天
保 厳 秘 録 」
邸 年 表 」 や、 「 藩 邸 考 」 鳥 府 志 十 巻 」 な ど が あ る。 そ の 他 に も、 本 稿 で 使 用 す る「 藩 ・ 「
旧 塁 鑿 覧 」 ・ 「
霜 眉 随 記 」 ・ 「
大な著作がある。 竹 島 考 」 な ど 膨 ・ 「
次に「藩邸年表」の記述内容について確認したい。
「藩邸年表」は、
上
・ 中
・ 下の三冊から成り、
上は、 寛永元年(一 六二四)~元禄九年(一六九六) 、 中は、 元禄一〇年(一六九七)~ 延享二年(一七四五) 、 下は、 延享三年(一七四六)から天保一二年 (一 八 四 一) で あ る 。 年 代 ご と に 「天 保 十 二 年 丑 ヨ リ ○ ○ 年」 と い う 書き方をしていることから、天保一二年(一八四一)に作成が完了 したものと考えられる。 実際に、寛永九年(一六三二)の記載を確認したい。 【史料1
)(1(
】 同九年壬申
光仲公 天保十二年丑ヨリ二百十年 ン
ニ成ル 正月廿四日
前将軍秀忠公御他界世寿五十四歳御法諡 台 徳院殿
同月
御次男勝三郎君御誕生 同 廿九日
御室家御産後疱瘡ニテ御遠行御法名 芳春院 殿牛島浄泉寺ニ葬ル、今ニ阿波御前様、或ハ 日香様ト称ス
四月三日
忠雄公御逝去、疱瘡也、享受三十一歳、御法 諡 清泰院殿御遺骸ヲ岡山 ン
ニ送奉ル
六月十八日
御遺領無相違勝五郎君 ン
ニ賜フ、 時 ン
ニ御歳三歳也
同 廿六日
藩君平河口ヨリ御登営
八月
御国替
九月
津田内記御使者トシテ参着 江戸御番へ罷越候面々
御番頭 伊吹源兵衛 北村与惣右衛門 田中六郎左衛門 能勢伊兵衛 飯沼伊左衛門 落合作兵衛 吉田又兵衛 黒部十郎左衛門 佐藤武右衛門 三沢九郎左衛門 「藩
邸 年 表」 は 、 基 本 的 に は 鳥 取 藩 江 戸 藩 邸 の 出 来 事 を 中 心 に 記 さ れているが、二代将軍徳川秀忠の死去などのように幕政全体に関わ る事項まで記されている。特に、本稿で注目すべきは、最後に「江 戸御番へ罷越候面々」として、その年の江戸御番頭と江戸御番に選 出された藩士を記している点である
)(((
。 寛永九年 (一六三二) で言え ば、江戸御番頭に伊吹源兵衛、江戸御番に北村与惣右衛門以下九名 の藩士が選出されていることがわかる。これら「江戸御番へ罷越候 面々」が、寛永二年(一六二五)から天保一一年(一八四〇)まで の二一五年の間にわたり記載されている
)(1(
。なお、 江戸御番の制度は 天 保 一 一 年 (一 八 四 〇) に 実 質 中 止 と な る こ と か ら 、「藩 邸 年 表」 の 記載藩士は、江戸御番の選出状況を一〇〇%網羅していると言える であろう。
た だ し、 「 藩 邸 年 表 」 を 使 用 す る 上 で 留 意 す べ き 点 も あ る。 そ れ は 、 岡 島 正 義 が ど の よ う な 史 料 を 参 照 し 、「藩 邸 年 表」 の 作 成 に 至っ たのかという点である。表記については、後述する「藩士家譜」の 記載と若干のズレが幾つか確認できる点にも注意を要する。以上を 踏 ま え た 上 で 、「藩 邸 年 表」 を 基 本 史 料 と し 、 藩 士 の 選 出 傾 向 を 検 討 していきたい。 なお、具体的な分析に入る前に、本稿の作成にあたりデータの採 取方法について説明しておきたい。 「藩
邸 年 表」 か ら 鳥 取 藩 が 成 立 し た 寛 永 九 年 (一 六 三 二) か ら 天 保 一一年 (一八四〇) までの一九六年間
)(1(
の 「江戸御番へ罷越候面々」 を抽出した結果、江戸御番頭に選出された藩士二一〇件、江戸御番 に選出された藩士二五九六件のデータを得ることができた。
そ し て 、 藩 士 各 家 歴 代 の 奉 公 書 で あ る 「藩 士 家 譜
)(1(
」 を 用 い 、「藩 邸 年表」に記載された藩士に「○○家譜○代当主」と名前を付し人物 を 特 定 す る 作 業 を 行った 。 そ の 際、 「藩 士 家 譜」 で 特 定 出 来 な か った 藩士は「不明」とした。
第二章 江戸詰藩士の選出傾向
本 章 で は 、「藩 邸 年 表」 を 用 い 、 江 戸 勤 番 の 選 出 傾 向 を 検 討 し て い きたい。
第一節 江戸御番頭の選出
まずは、 江戸御番頭の選出から検討していきたい。 【図1】は、 江 戸 御 番 頭 に お け る 選 出 回 数 の 割 合 を 示 し た も の で あ る。 【 図 1 】 で
は、江戸御番頭に一回のみ選出された藩士が六九
・ 五%、江戸御番
頭に複数回選出された藩士が三〇
・ 五%となっている。第一に、複 数回選出された藩士が三割近くおり、偏りのある選出になっていた 点に注目しておきたい。この点を確認した上で藩士の選出を検討し ていきたい。 (一) 「順番」制の採用
人選の基準については、基本的には「順番」が決められていたよ うである。幾つか事例を列挙してみたい。 【史料2
)(1(
】 一、
来 年 江 戸 表 御 番 頭 坂 田 治 太 夫
【史料3
(1)申来事 付哉之旨、相伺候処、治大夫義、来年江戸御番頭被仰付旨 ン 倍 甚 兵 衛 順 番 付、 可被仰
ニ・ 安
(
】 石 原 刑 部 儀、 順 番 ン
ニ而ハ 無 之 候 得 共、 来 年 御 番 頭 ン
ニ被 仰 付 被 下 候 様 ン
ニ、水野宜睡度々御願申上候 ン
ニ付、被仰付候 【史
料2】 は 、 寛 保 三 年 (一 七 四 三) 八 月 の 史 料 で あ る 。 坂 田 治 太 夫
・ 安倍甚兵衛の二名が翌年の江戸御番頭の候補者となっているこ
とがうかがえる。実際に、延享元年(一七四四)に坂田治太夫、延 享 二 年( 一 七 四 五 ) に 安 倍 甚 兵 衛 が そ れ ぞ れ 選 出 さ れ て お り、 「 順 番」制が採用されている点に注目したい。
【史
料3】 で は 、 享 保 七 年 (一 七 二 二) 八 月 の 史 料 で あ る 。 石 原 刑 部が、江戸御番頭に選出されるように水野宜睡が度々嘆願し、実際 に江戸御番頭に選出された事例である。水野が如何なる理由で石原 を 江 戸 御 番 頭 に 推 薦 し て い た の か は 不 明 で あ る が 、 こ こ で も 「順 番」 制が念頭に置かれている。
出典:「藩邸年表」・「藩士家譜」をもとに作成。
※ 「藩邸年表」寛永9年(1632)~天保11年(1840)で記載のあった210人の 藩士を対象とした。
※ 藩士の特定は「藩士家譜」で行った。特定できなかった藩士は「不明」と し、江戸御番頭(1)とした。
※ 割合は、小数点第二位四捨五入として算出した。
【図1】江戸御番頭における選出回数の割合
江戸御番(0)
54.7%
江戸御番(1)
8.6%
江戸御番(複数)
6.2%
江戸御番(0)
26.7%
江戸御番(1)
3.8%
江戸御番頭(1)
69.5%
江戸御番頭(複数)
30.5%
ところで、江戸御番にも「順番」制が採られていたのだろうか。 結論から言えば、江戸御番の選出には「順番」制は採用されていな い。その理由は、選出候補の藩士数と毎回選出される江戸勤番の定 員数にある。江戸御番頭の場合は、一年に一人程度の選出ではある が 、 そ も そ も 物 頭 格 の 人 数 が 少 な い た め 、「順 番」 の 論 理 が 働 い て い た。それは、役職ごとに選出される江戸御供の場合も同様で、例え ば 、「明 治 役 職 取 調 書
)(1(
」 の 「御 目 付 役」 を 見 る と 、「江 戸 表 御 在 府 詰 ン
者両人、 御留守居 ン
者壱人也」とあり、 御目付役の藩士五人に対して、 江 戸勤番体制は、藩主在府時は二人、御留守詰時は一人と決められて い た 。 こ の よ う な 少 人 数 で の 人 選 で あ れ ば 、「順 番」 制 を 採 用 す る こ とは理に適っているであろう
)(1(
。
一 方、 江 戸 御 番 の 場 合 は 、 選 出 資 格 の あ る 馬 廻 の 藩 士 が 寛 延 期 (一 七四八―一七五〇) の 「分限帳
)(1(
」 で六四八人確認できる。 この人数 に 対 し て 、 毎 年 選 出 さ れ る 藩 士 が 一 〇 名 程 度 で あ り 、「順 番」 制 を 採 用 し て も 一 律 に 勤 役 を 課 す こ と は 実 質 不 可 能 で あ る 。 そ の こ と か ら 、 江戸御番の場合、 「順番」制を採用していないのである。
以 上 の よ う な 理 由 か ら 、 江 戸 御 番 頭 の 場 合 は 、「順 番」 制 が 採 用 さ れ て い て 、 江 戸 御 番 の 場 合 は 、「順 番」 制 が 採 用 さ れ て い な か った の である。しかし、前述したように【図1】を見ると、実際には選出 に 偏 り が 見 ら れ た 。 本 来、 「順 番」 制 に 従 え ば 、 多 少 の イ レ ギ ュ ラ ー があったとしても複数回選出された藩士の割合は三割近くにはなら な い は ず で あ る 。 そ の た め 、 再 任 で 選 出 さ れ た 藩 士 た ち に 対 し て は 、 「順番」制とは違った選出が行われていたことが想定される。 (二)藩主の「思召」による選出 では、再任で江戸御番頭に選出された藩士はどのような理由で選 出 さ れ た の か 。「因 府 録」 巻 之 第 五 の 「江 戸 十 人 番 頭 の 事」 に は 江 戸 御番頭の選出について次のように記されている。 【史料4
)11(
】 江戸拾人番の番頭は、古しえより弐十挺
・ 拾挺の御物頭を被仰
付候也、羽織
・ 母衣並びに寄合組をも、番頭に被仰付被遣候事
も有之、佐分利九充倅儀左衛門儀は、部屋住にて番頭被仰付相 勤、鎌田五郎兵衛番頭に被仰付置候所、病気にて春に至り、御 断申上候に付、其跡を俄に被仰付候也、古しえハ、何事も思召 をもって被仰出候儀故、下よりとやかく申上候事ハなし
基本的には江戸御番頭の選出は物頭格から選出されていたが、中 には羽織
・ 母衣や寄合組からの選出もあったという。また、例外的
に 佐 分 利 儀 左 衛 門 の よ う に 、「部 屋 住」 で あ って も 江 戸 御 番 頭 に 選 出 した場合があったことが記されている。ここで重要なのは、江戸御 番 頭 の 選 出 に つ い て は 、「何 事 も 思 召 を も って 被 仰 出 候 儀 故、 下 よ り とやかく申上候事ハなし」と、藩主の「思召」が選出に関わる場合
もあったという点である。藩主の「思召」によって何度も江戸勤番 に選出された藩士がいたのである。その一例として、次に掲げるの は、花房弥次兵衛の「藩士家譜」の一部抜粋である。 【史料5
)1((
】 宝永五子年江戸御番頭相勤申候、 御側御奉公申上候内、 江戸 ン
江四 度御供仕候、其後江戸御番頭三度、江戸御使者三度相勤申候、 都合江戸御奉公十ヶ度罷越相勤申候 花房弥次兵衛は、 藩主の「御側奉公」として、 江戸御番頭を三回、 江戸御供を四回、江戸御使者を三回の計一〇回江戸勤番を務めてい る。前述したように江戸御番頭や江戸御供の選出は基本的には「順 番」制が採用されていた。それにも関わらず、同一人物が、江戸御 番頭を三回、江戸御供を四回にわたり選出されていたのである。
したがって、江戸御番頭の選出は、基本的には「順番」制が念頭 に置かれていたが、藩主の「思召」による選出から、同一人物が複 数 回 選 出 さ れ る こ と も あ った 。 そ の 結 果、 【図1】 の よ う な 不 均 衡 な 選出となったのであろう。特に、藩主の「御側奉公」を務めた藩士 は複数回選出される傾向にあったことが想定される。
このような江戸御番頭の選出傾向は同じ格式の御奏者の場合も共 通点がある。御奏者の江戸御供選出事例を見ていきたい。 【史料6
)11(
】 一、清水甚左衛門儀、来春江戸御供被 仰付、御目附出座 ン
ニ而左 之通申渡候事 其方儀、 来春江戸御供被 仰付候、 先年 ン
茂思召も被成御 座由被 仰出候品も有之、 殊 ン
ニ此度順番 ン
ニ無之候得共、 来 春御供就被 仰付候、依之来春御帰城之上、御鉄砲御預 ケ可被遊候間、 左様 ン
ニ相心得、 来春之御供随分取合相勤候 様被 仰付候 これは、御奏者の清水甚左衛門が、享保一八年(一七三三)の江 戸 御 供 に 命 じ ら れ た 際 の 史 料 で あ る 。「被 仰 出 候 品」 と し て 「御 鉄 砲 御預ケ可被遊候」という藩主の「思召」があったことがうかがえ、 その「思召」を心得て来春の江戸御供を務めるように命じられてい る。やはり、御奏者の江戸御供の場合も藩主の「思召」によって選 出されることがあった。また、 この場合においても、 「順番 ン
ニ無之候 得 共 」 と あ り、 「 順 番 」 制 を 念 頭 に 置 い て い た 点 も 注 目 し て お き た い。
(三)経験者の選出
一方、経験者を優先的に選出する事例も見られた。もう一度清水 甚左衛門の事例から確認していきたい。
【史料7
)11(
】 一、 今 日 来 年 十 人 番、 尤、 御 番 頭 左 之 通 於 御 櫓、 御 目 付 出 座 ン
ニて、番頭清水甚左衛門、来年江戸御番頭被仰付旨申渡、并 御番衆申渡候間、其侭罷在候様 ン
ニ申聞、直 ン
ニ御番衆呼出し、 来年江戸御番被仰付旨、并御番頭甚左衛門被仰付候間、左 様相心得可申談候、いつれも御請申上罷立、甚左衛門へ右 御番之者之内、伊藤兵左衛門
・ 山田源大夫両人は、病気差 合 ン
ニ而、 不罷出候間、 追 ン
而可申渡候間、 左様被相心得候様申聞 □、別書付相渡し、 甚左衛門へ銘々共、御上思召寄之噂申 聞候ハ、 毎度江戸往来致し候へ共、 御筒御預ケ始 ン
而御奉公、 殊 ン
ニ江府内功者 ン
ニも候得ハ、 不案内者も罷越候儀故、 旁其方 被仰付御様子 ン
ニ候間、左様可存旨、是又御聞置候事
清水甚左衛門 岡嶋三右衛門 名倉源六郎 伊右衛門名代 伊藤兵左衛門 笹尾半兵衛 黒部安右衛門 権右衛門名代 山内六郎兵衛 山田源大夫 矢嶋十次郎 半大夫名代 岩越平四郎 村田伝右衛門
こ れ は 、 清 水 甚 左 衛 門 が 江 戸 御 番 頭 に 選 出 さ れ た 際 の 史 料 で あ る 。 こ こ に は 清 水 甚 左 衛 門 を 江 戸 御 番 頭 に 選 出 し た 理 由 (「御 上 思 召 寄 之 噂」 ) と し て 、 清 水 甚 左 衛 門 が 、 江 戸 勤 番 を 複 数 回 務 め た 経 験 者 (「江 府 内 功 者」 ) で あ る と し て お り 、 経 験 が 選 出 の 理 由 と な って い る 。 ま た、江戸御番の中には、未経験者( 「不案内者」 )がいたことを懸念 していた点も注目しておきたい。 ここで「江府内功者」とはどのような藩士を指すのかという問題 も確認しておきたい。清水甚左衛門の場合、江戸御番頭に選出され たのは元文二年(一七三七)の一回きりである。そのため、江戸御 番頭を務める以前に他の勤務形態で江戸勤番を務めていたことが考 え ら れ る 。【史 料6】 で 確 認 し た 享 保 一 八 年 (一 七 三 三) に 江 戸 御 供 に選出されていた事例もその一例であろう。したがって、この場合 の「江府内功者」とは、広く江戸勤番を経験した者を指すと考えて 良いであろう。 こ の 点 を 確 認 し た 上 で 、 再 び 【図1】 を 見 て い き た い 。【図1】 で は、江戸御番頭の選出回数の割合だけではなく、江戸御番の割合に つ い て も 同 時 に 示 し た 。 こ れ を 見 る と 、 江 戸 御 番 頭 一 回 の 割 合 六 九
・
五%の内、一四
・ 八%の藩士が江戸御番経験者で、江戸御番頭複数
回の割合三〇
・ 五%の内、三
・ 八%の藩士が江戸御番経験者であっ
たことが分かる。つまり、この結果を踏まえると、単純に江戸勤番 を 複 数 回 務 め た 藩 士 は 少 な く と も 四 五
・ 三%
)11
(
以 上 と い う こ と に な る 。
ここで少なくともとしたのは、これらの数字はあくまでも江戸御
番頭と江戸御番の経験に基づくデータであり、他の勤務形態で江戸 勤番を務めていた可能性も考えられるからである。例えば、元禄一 六年(一七〇三)に一回きり江戸御番頭に選出された中井徳兵衛の 場合は、貞享元年(一六八四)に親の名代で江戸御使番、元禄八年 (一 六 九 五) に 江 戸 御 供 を そ れ ぞ れ 務 め て い る
)11(
。 そ の た め 、 江 戸 御 番 頭に選出された際には、三回目の江戸勤番であった。また、寛政六 年(一七九四)に一回のみ江戸御番頭に選出された寺西久之丞は、 江戸定詰を長年務めた藩士である
)11(
。 同じく江戸定詰を経験した梶川 新左衛門
)11(
・ 石川伝左衛門
)
11
(
なども江戸御番頭に選出されており、 江戸 定詰経験者が江戸御番頭に選出されていた場合も見られた。
「藩
士 家 譜」 の 記 載 で は 江 戸 勤 番 の 経 歴 が 省 略 さ れ て い る 場 合 も あ るため、その全てを把握することは不可能である。しかし、把握で きるものだけでも半数近くの割合の藩士が、結果的にではあるが、 複数回江戸勤番を経験した「江府内功者」であったのである。
こ う し た 選 出 に 経 験 を 重 視 す る 認 識 は 、 選 出 す る 側 の み で は な く 、 実際に藩士側でも主張されていた。例えば、徒身分である奥到来の 江戸御供の選出について確認したい。 【史料8
)11(
】 一、 沖幸四郎儀、 当年江戸御供被仰付旨、 以御用人御徒頭 ン
江申渡 之、 尤、幸四郎義、順番 ン
ニ而ハ無之候得共、御勤役両人共新 役 之 儀、 幸 四 郎 数 年 相 勤、 功 者 ン
ニ付、 詰 江 戸 被 仰 付 被 下 候 様、毎度御勤役共申聞候故、右之通、当年江戸御供被仰付 候事
これは、奥到来の沖幸四郎が江戸御供に選出された際の史料であ る 。 こ こ で は 重 要 な の は 、 沖 幸 四 郎 が 「功 者」 と い う 理 由 か ら 、「順 番」ではないが、江戸御供に選出されている点である。ただし、こ の 場 合 の 「功 者」 と い う の は 、「江 府 内 功 者」 と 同 義 で は な く 、 奥 到 来の「功者」という意味であろう。したがって、ここで問題となっ ているのは、今回江戸御供に選出された「御勤役」二名が「新役」 で あ った と い う 点 に あ る 。 つ ま り 、「新 役」 だ け で は 業 務 に 差 し 支 え があるため、役職に精通した「功者」を選出して欲しいという声が 藩 士 側 か ら 主 張 さ れ て い た の で あ る 。 な お 、 そ の 願 い 出 が 採 用 さ れ 、 実際に沖幸四郎( 「功者」 )が江戸御供に選出されている。これらの こ と か ら 、「順 番」 制 の よ う な 機 械 的 な 割 り 振 り は 、 業 務 の 上 で も 限 界があった点が指摘できる。
このように、江戸勤番の選出には、経験を重視していた。特に、 江戸御番頭は、江戸御番を統率するという役割を担うということか ら も 江 戸 勤 番 の 経 験 が 選 出 の 基 準 と し て 重 要 視 さ れ て い た の で あ る 。
第二節 江戸御番の選出
次 に 、 江 戸 御 番 の 選 出 傾 向 に つ い て 検 討 し た い 。【図2】 は 江 戸 御
番における選出回数の割合を示したものである。江戸御番の場合、 選出が一回のみの藩士が五五
・ 七%、複数回の藩士が四四
・ 三%と
いう結果となった。江戸御番頭の選出同様に、不均等な選出であっ た こ と が 分 か る 。「藩 邸 年 表」 記 載 の 二 五 九 六 人 の 内、 同 一 人 物 が 半 数近くに重複して記載されていたことから、実人数では、一九五四 人の記載ということになる。つまり、実際には、四九九人の藩士が 複数回選出され、四四
・ 三%の割合を占めていたのである。
前述した通り、江戸御番の選出は、江戸御番頭や江戸御供の場合 と は 違 い 、「順 番」 制 を 採 用 し て い な い 。 で は 、 ど の よ う な 基 準 で 選 出を行っていたのだろうか。 (一)経験者の割合 一つは、江戸御番経験者の再任が多いという結果から、江戸御番 頭のように経験を重視した選出が行われていた点が考えられる。 そ こ で 、【表1】 と し て 、 寛 永 九 年 (一 六 三 二) ~天 保 一 一 年 (一 八四〇)の江戸御番における経験者の割合を示した。これにより、 一度の江戸御番に経験者がどのくらいの割合を占めていたのかを見 ていきたい。 一点目には、経験者の割合の高さである。その内訳は、九%以下 一六、 一〇%台三五、 二〇%台五〇、 三〇%台四三、 四〇%台二八、 五 〇%台 七、 六 〇%台 四 事 例 で あ る 。 二 〇%~三 〇%台 が 一 番 多 く 、 全体の四割を超える。また、五〇~六〇%台は少ないものの、一一 事例確認できる点も注目できる。これらの結果から、二割~三割の 藩士が経験者であったのである。
二点目として、経験者の割合は、時期による偏りはなく、近世全 般にわたって一定の割合を占めていたことがうかがえる。経験者が い な い 年 が 、 寛 永 九 年 (一 六 三 二) ~同 一 六 年 (一 六 三 九)
年(一六四一) 、 宝永元年(一七〇四) 一 八 ・ 同
・ 正徳三年(一七一三)
・ 同五
年 (一 七 一 五)
年には必ず経験者がいたのである。 みである。つまり、選出理由は様々であるが、結果的にほとんどの 戸御番が始まった寛永期(一六二四~一六四三)を除けば、四例の 和 五 年 (一 七 六 八) の 一 三 例 あ った 。 た だ し 、 江 ・ 明
出典:「藩邸年表」・「藩士家譜」をもとに作成。
※ 「藩士家譜」寛永9年(1632)~天保11年(1840)
で記載があった2596人の藩士を対象とした。
※ 藩士の特定は「藩士家譜」で行った。 「藩士家譜」
で特定できなかった藩士は「不明」とし、勤番 回数を1回とカウントした。
※ 割合は小数点第二位四捨五入として算出した。
【図2】江戸御番における選出回数の割合
1回, 1446 ,
人
55.7%複数回
, 44.3%人
1150 ,【表1】江戸御番における経験者の割合
和暦 西暦 人数 割合 和暦 西暦 人数 割合 和暦 西暦 人数 割合 和暦 西暦 人数 割合 寛永9年 1632 9 0 天和1年 1681 27 37 享保15年 1730 11 9.1 安永8年 1779 11 18.2 寛永10年 1633 7 0 天和2年 1682 16 43.8 享保16年 1731 10 20 安永9年 1780 11 18.2 寛永11年 1634 6 0 天和3年 1683 19 36.8 享保17年 1732 13 7.7 天明元年 1781 8 38 寛永12年 1635 9 0 貞享1年 1684 20 30 享保18年 1733 10 40 天明2年 1782 10 20 寛永13年 1636 5 0 貞享2年 1685 17 29.4 享保19年 1734 14 42.9 天明3年 1783 10 30 寛永14年 1637 9 0 貞享3年 1686 18 16.7 享保20年 1735 9 33.3 天明4年 1784 12 25 寛永15年 1638 12 0 貞享4年 1687 18 22.2 元文元年 1736 13 23.1 天明5年 1785 10 40 寛永16年 1639 10 0 元禄1年 1688 20 15 元文2年 1737 13 23.1 天明6年 1786 11 9.1 寛永17年 1640 10 10 元禄2年 1689 16 38 元文3年 1738 13 15.4 天明7年 1787 11 36.4 寛永18年 1641 11 0 元禄3年 1690 18 33.3 元文4年 1739 11 27.3 天明8年 1788 14 28.6 寛永19年 1642 12 8.3 元禄4年 1691 15 33.3 元文5年 1740 9 22.2 寛政元年 1789 16 18.8 寛永20年 1643 19 31.6 元禄5年 1692 15 6.7 寛保元年 1741 10 40 寛政2年 1790 13 15.4 正保1年 1644 18 22.2 元禄6年 1693 13 38.5 寛保2年 1742 8 63 寛政3年 1791 11 45.5 正保2年 1645 16 6.3 元禄7年 1694 13 30.8 寛保3年 1743 10 40 寛政4年 1792 12 41.7 正保3年 1646 17 17.6 元禄8年 1695 13 30.8 延享元年 1744 20 25 寛政5年 1793 14 42.9 正保4年 1647 15 40 元禄9年 1696 12 16.7 延享2年 1745 10 40 寛政6年 1794 12 41.7 慶安1年 1648 20 20 元禄10年 1697 8 50 延享3年 1746 14 28.6 寛政7年 1795 16 31.3 慶安2年 1649 11 54.5 元禄11年 1698 10 30 延享4年 1747 10 20 寛政8年 1796 11 36.4 慶安3年 1650 17 11.8 元禄12年 1699 8 50 寛延元年 1748 10 40 寛政9年 1797 12 33.3 慶安4年 1651 11 36.4 元禄13年 1700 13 23.1 寛延2年 1749 10 10 寛政10年 1798 13 46.2 承応1年 1652 19 5.3 元禄14年 1701 14 14.3 寛延3年 1750 10 50 寛政11年 1799 12 58.3 承応2年 1653 15 40 元禄15年 1702 15 20 宝暦元年 1751 10 20 寛政12年 1800 15 40 承応3年 1654 19 21.1 元禄16年 1703 17 11.8 宝暦2年 1752 10 40 享和元年 1801 15 26.7 明暦1年 1655 17 17.6 宝永元年 1704 13 0 宝暦3年 1753 9 44.4 享和2年 1802 11 36.4 明暦2年 1656 23 43.5 宝永2年 1705 14 42.9 宝暦4年 1754 9 44.4 享和3年 1803 10 60 明暦3年 1657 14 21.4 宝永3年 1706 15 20 宝暦5年 1755 8 13 文化1年 1804 10 30 万治1年 1658 21 28.6 宝永4年 1707 10 40 宝暦6年 1756 7 42.9 文化2年 1805 11 27.3 万治2年 1659 20 20 宝永5年 1708 15 13.3 宝暦7年 1757 6 50 文化3年 1806 11 27.3 万治3年 1660 24 33.3 宝永6年 1709 21 9.5 宝暦8年 1758 8 38 文化4年 1807 9 33.3 寛文1年 1661 21 14.3 宝永7年 1710 18 11.1 宝暦9年 1759 12 8.3 文化5年 1808 10 10 寛文2年 1662 24 29.2 正徳元年 1711 13 23.1 宝暦10年 1760 10 30 文化6年 1809 11 45.5 寛文3年 1663 16 6.3 正徳2年 1712 16 25 宝暦11年 1761 11 18.2 文化7年 1810 9 44.4 寛文4年 1664 25 20 正徳3年 1713 12 0 宝暦12年 1762 13 7.7 文化8年 1811 11 9.1 寛文5年 1665 21 14.3 正徳4年 1714 15 26.7 宝暦13年 1763 12 25 文化9年 1812 11 27.3 寛文6年 1666 24 25 正徳5年 1715 7 0 明和元年 1764 11 18.2 文化10年 1813 10 40 寛文7年 1667 21 23.8 享保元年 1716 15 20 明和2年 1765 9 22.2 文化11年 1814 9 44.4 寛文8年 1668 20 10 享保2年 1717 7 14.3 明和3年 1766 7 14.3 文化12年 1815 11 54.5 寛文9年 1669 20 30 享保3年 1718 14 7.1 明和4年 1767 11 36.4 文化13年 1816 8 63 寛文10年 1670 25 28 享保4年 1719 10 10 明和5年 1768 10 0 文化14年 1817 8 63 寛文11年 1671 21 33.3 享保5年 1720 9 11.1 明和6年 1769 11 9.1 文政1年 1818 7 14.3 寛文12年 1672 26 19.2 享保6年 1721 14 21.4 明和7年 1770 14 14.3 文政2年 1819 9 22.2 延宝1年 1673 20 35 享保7年 1722 9 33.3 明和8年 1771 11 27.3 文政3年 1820 10 30 延宝2年 1674 25 28 享保8年 1723 10 20 安永元年 1772 10 20 文政4年 1821 9 33.3 延宝3年 1675 21 33.3 享保9年 1724 16 31.3 安永2年 1773 11 9.1 文政5年 1822 9 33.3 延宝4年 1676 23 30.4 享保10年 1725 9 22.2 安永3年 1774 13 30.8 文政6年 1823 9 44.4 延宝5年 1677 20 20 享保11年 1726 15 6.7 安永4年 1775 11 36.4 文政7年 1824 9 22.2 延宝6年 1678 24 29.2 享保12年 1727 12 16.7 安永5年 1776 10 30 文政8年 1825 9 11.1 延宝7年 1679 20 30 享保13年 1728 12 33.3 安永6年 1777 10 30 天保5年 1834 8 13 延宝8年 1680 24 29.2 享保14年 1729 15 26.7 安永7年 1778 10 30 天保11年 1840 10 10 出典:「藩邸年表」・「藩士家譜」より作成。
※割合は小数点第二位四捨五入として算出した。
※網掛けは割合が「0」の年である。
従来、 江戸詰藩士は、 江戸ッ子によって揶揄された「浅黄裏」 (野 暮な田舎武士)のイメージが根強い。しかし、本稿での成果を鑑み る と 、 毎 年 経 験 者 が 繰 り 返 し 江 戸 勤 番 を 務 め て い た こ と が 判 明 す る 。 前述した通り、江戸御番頭や江戸御供の事例を見る限り、経験を重 視した選出が行われていてもおかしくない。しかし、管見の限り、 江戸御番の選出が経験に基づくものであることを裏付ける史料は確 認できない。後述するが、江戸御番の選出には、藩士の自主的な志 願 に よ った も の で あ った と 考 え ら れ る 。 そ の 点 に お い て 、 こ こ で は 、 あくまで上からの選出意図ではなく、藩士自ら江戸勤番を志願した 結果として経験者の割合が多かった点を評価しておきたい。
(二)江戸御番に関する政策
江戸御番の選出については、馬廻の藩士を一律に選出することは 実質不可能であった。そのため、藩士にとって江戸御番を務める積 極的な理由が設定されていたことが推察される。ここでは、その理 由を藩の政策面から見ていきたい
)11(
。 江戸御番に関する政策について 【表2】にまとめた。
江戸御番の政策として、 まず、 家中の知行物成
)1((
に関するものが挙 げられる。大名家臣団の新参者の物成は、譜代や「御家久敷者」た ち と は 区 別 さ れ た 規 定 が あ った 。 新 参 者 の 物 成 は 、 最 初 は 三 ツ 五 歩、 五年経過すれば四ツ成とされていた。しかし、江戸御番を務めるこ とで、五年を経過せずに四ツ成とする法令が万治四年(一六六一) から確認できる。 また、寛文一二年(一六七二)に馬廻の藩士を対象に二〇年間の 江戸御番などの職歴を調べるように組頭に命じるなど江戸御番を務 めた藩士の勤務実態について把握する政策、享保八年(一七二三) には、江戸御番を務めた藩士に褒賞を与える政策、享保九年(一七 二四)には、江戸御番を務めた藩士の御目見などの政策を行ってい る。このような政策は、家中統制の一環として制度化されたもので あり、馬廻の藩士に対して、江戸御番を積極的に務める意義を持た せたものであった。実際に、江戸御番の選出をめぐって次のような 願書が複数確認できる。その一例を確認したい。 【史料9
)11(
】 私儀、亡父斎宮以来旧年簡略懸りニて罷在候処、昨酉暮借銀皆 済仕候、右ニ付、此度何卒出勤之儀被仰付被遣候ハヽ、難有奉 存候、出勤之儀不被仰付ニ付、今以御城御番ニも罷出不申候、 将又、私儀相続以来何之御奉公も不申上候段、恐入奉存候付、 来年江戸御番被仰付被下候ハヽ、難有奉存候 、此段奉願候、以 上
戌七月二日 中嶋茂左衛門
菅伊勢充
これは、宝暦四年(一七五四)に中嶋茂左衛門が翌年の江戸御番 を 志 願 し た 願 書 で あ る 。 注 目 し た い の は 、「私 儀 相 続 以 来 何 之 御 奉 公 も不申上候段、恐入奉存候付」として、江戸御番を自ら志願してい る点である。このことから、馬廻の藩士にとって、江戸御番を務め ることは、藩への「御奉公」として、意義があったことが読み取れ るのである。
(三)藩士の再任理由
【図3】は、
複数回選出された藩士四四九人を対象に、 その内訳を 示したものである。これを見ると、基本的に、江戸御番に二回選出 された藩士が七五
・ 四%と多いが、三回~六回にわたって選出され
た藩士が二四
・ 六%いたことも見逃せない。これだけ同一人物が何
度も江戸御番を務めるということは、何らかの要因が考えられる。 藩政資料には、江戸御番の再任を藩士自ら願い出ている史料が幾つ か確認できる。幾つか事例を見ていきたい。 【史料
下候様奉願候処、願之通、来年御番詰越被仰付候由 一、村 山 金左衛門儀、馬術為修行、来年江戸御番詰越被仰付被
(上) 10】
11)(村上金左衛門は、宝暦一〇年(一七六〇)に江戸御番を務めてい たが、翌年も馬術修行を行うため、江戸御番に命じて欲しいと願い
【表2】江戸御番に関する政策
年 代 政 策 出 典
万治4年(1661)3月3日
新知被下衆之内、三分御かり、山内平右衛門 ・ 村上少兵衛 ・ 服 部次左衛門 ・ 渋谷左太郎、此四人去暮物成迄三分さかり、四人 之内山内平右衛門 ・ 村上少兵衛 ・ 服部次左衛門は江戸御番相勤 候ニ付、当暮より惣なミ四つ成ニ被遣候、渋谷左太郎ハ未江戸 へ不参ニ付、御番相勤候迄ハ三分さかり、残五分さかり之衆 ハ、江戸御番勤候ハヽ、四つ成ニ可被遣事、其内ハ不被遣事
「家老日記(控帳)」万治 4年3月3日条(鳥取県 立博物館蔵、鳥取藩政資 料、番号2511)
寛文5年(1665)12月11日 新参衆江戸相勤候迄ハ五分下り、但江戸御番不相勤候共、五年 過候ハヽ、惣並之物成可被下との事
「家老日記(控帳)」寛文 5年12月11日条(鳥取県 立博物館蔵、鳥取藩政資 料、番号2516)
寛文12年(1672)7月8日 御馬廻侍中、廿ケ年以来江戸御番并御使他国江之御使相勤申書 出シ仕様ニと、組頭中江触候事
「家老日記(控帳)」寛文 12年7月8日条(鳥取県 立博物館蔵、鳥取藩政資 料、番号2523)
貞享4年(1687) 御馬廻新知其年より五年迄三ツ五分、六年目より四ツ成被下、
但江戸御番相勤候得者、五年より内にても四ツ成被下 『鳥取藩史』2(鳥取県 立鳥取図書館、1970年)
享保8年(1723)6月30日 於江戸御番 ・ 御使者 ・ 御供相勤候者共、弥無懈怠相勤可申候、
此以後勤方之品御吟味可被仰付候間、左様ニ相心得候様ニ被仰 出、御番之面々、尤定詰之者へも申渡、奉畏由申来事
「家老日記(控帳)」享保 8年6月30日条(鳥取県 立博物館蔵、鳥取藩政資 料、番号2567)
享保9年(1724)閏4月15日 江戸御番之面々、前々は江戸又は道中ニ而御目見被仰付、無懈 怠相勤候者共江は、御意有之候得共、御交代之時節替り候ニ 付、右之通於御城御目見被仰付事
「家老日記(控帳)」享保
9年閏4月15日条(鳥取
県立博物館蔵、鳥取藩政
資料、番号2568)
出ている。鳥取藩では、江戸勤番時に「御用透々」に文武修行のた め の 外 出 が 許 可 さ れ て い た 。 実 際、 江 戸 勤 番 を 出 願 す る 理 由 と し て 、 武術や学問の修行が多く確認できる。江戸勤番を三回務めた福田平 九 郎 は 、「塙 久 左 衛 門 ン
江先 達 ン
而弓 執 行 致 掛 候 付、 来 年 江 戸 御 番 被 仰 付 被 下付候ハ、 御用之透、 猶又執行申度旨奉願
)11(
」とあり、 弓執行のため 江戸御番を志願している。
このように藩士は武術修行として江戸御番を出願した。藩も「御 用之透々」であれば、学問や武術修行を行うことを奨励していた。 事実、藩士自ら江戸御番に志願する理由として、江戸での武術修行 を 目 的 と し た も の が 最 も 多 い 。 実 際 に 、 新 藤 庄 六 の 願 書 で は 、「御 用 之透々、他所稽古等も致させ申度旨、兼而、仲ヶ之者共、例も有之 候 段 奉 願 趣、 相 伺 候
)11(
」 と あ り 、「御 用 之 透々」 稽 古 を 行 う こ と を 目 的 と し て 、 江 戸 勤 番 に 自 ら 志 願 す る 藩 士 が 多 か った こ と が う か が え る 。 江戸勤番が、江戸で武術修行を行う窓口となっていたのである。
一方、家として代々目的があり江戸勤番を行っている藩士の事例 も確認できる。例えば、太田権右衛門は、宝暦四年(一七五四)に 江戸御番に選出されているが、江戸勤番中次のような願書を提出し ている。 【史料
奉存候、此段奉願候、以上 も申上度奉存候、右之通被仰付被為下候は、重畳有仕合 番被仰付被為下候は、以御影、先格之通、於江戸御目見 ン 申上来候、 此度御代替之儀 も御座候間、 来亥ノ年江戸御
ニン 守様 御出入仕、 今以御懇意御書等も被成下、 代々御目見
江ン ン 先達 奉願候通、 私儀、 先祖より子細御座候 、 松平阿波
而而被仰付旨被仰出候事 奉願候付、願之通被仰付可被遣哉旨、達御耳候処、伺之通 ン 一、 太田権右衛門儀、 来年江戸御番被仰付被為下候様 、 左之通
ニ 11】
11)(戌七月八日 太田権右衛門 鈴木佐次右衛門殿
出典:「藩邸年表」・「藩士家譜」をもとに作成。
※割合は小数点第二位四捨五入として算出した。
【図3】複数回選出藩士の割合
2回, 376人, 75.4
%
3回, 93人,18.6
%
4回, 25人,5%
5回, 4人,
0.8% 6回, 1人,
0.2%
武田権平殿 太田権右衛門家は、初代弥二左衛門の頃に阿波蜂須賀家への御使 者を務めて以来、代々屋敷に出入りし、蜂須賀家に御目見すること を許されていた。今回も江戸で御目見をするために江戸御番の再任 (「詰越」 )を願い出ている。また、江戸では、 「三丁火消上乗」に仰 せ付けられており、結果、宝暦四年(一七五四)から同六年(一七 五 六) ま で 江 戸 御 番 を 再 任 (「詰 越」 ) し て い る 。 同 六 年 (一 七 五 六) には「桂香院様御付」を務め、上屋敷火災の際、御供にて引越を務 めた。また、宝暦九年(一七五九)にも江戸御番を務めている。
このように、藩士は様々な理由で江戸に行く機会を求めて、自ら 江戸御番を志願した。ここで注目すべきは、江戸御番の選出は、あ る程度藩士の自主性を認可した柔軟なものであった点である。江戸 御 番 の 場 合、 「順 番」 制 の よ う に 一 律 に 江 戸 勤 番 を 命 じ る こ と は 不 可 能であった。そのため、このように同一人物が何度も江戸御番を経 験することが実質可能であったのである。
おわりに
参勤交代制は、大名統制の一環として、将軍―大名という主従関 係を絶えず再確認する目的であったとして知られる。しかし、藩士 の江戸勤番制に注目すると、このような幕藩関係に留まらず、藩主 とその藩士との主従関係の強化にも重要な役割を果たしていた。本 稿で検討してきたように、藩士にとって江戸勤番に選出されること は、藩士の格式や江戸勤番の形態ごとに様々な理由や意義を有して いたのである
)11(
。
従来、江戸詰藩士の選出については、江戸勤番制を考える根本的 な問いであったにも関わらず、史料的な制約からほとんど言及され て こ な か った 。 そ こ で 、 本 稿 で は 、「藩 邸 年 表」 を 手 掛 か り に 江 戸 御 番の選出実態から、江戸詰藩士の編成原理を検討してきた。その結 果、寛永九年(一六三二)から天保一一年(一八四〇)にかけて、 約二〇〇年間にわたる江戸勤番の選出傾向をある程度明らかにでき たといえよう。本稿での成果では、江戸勤番は必ずしも藩士一律に 課 さ れ た も の で は な く 、 同 一 人 物 が 複 数 回 選 出 さ れ る 傾 向 に あ った 。 これらの実態から、江戸詰藩士の編成原理を次の二点の視点からま とめておきたい。
一点目は、江戸勤番には、ある程度経験が求められていた、或い は結果的に経験者が一定の割合を占めていた点である。史料で表現 されていた「江府内功者」とは、広く江戸に勤務した経験を持つも のであった。そのことからも、藩は初めて江戸勤番を務める藩士と 経験者を混ぜて編成することによって、その対策を講じていたとい えるだろう。また、結果的ではあるが、再任者が多く選出されたこ とから、近世全般にわたり経験者が一定の割合で存在していたこと
も明らかになった。このようなデータから、近世全般にわたって、 政策
・ 実態の両側面から江戸勤番の経験の均質化がなされていたの
で あ る 。 な お 、 奥 到 来 の 江 戸 御 供 の 選 出 (【史 料8】 ) で は 、「新 役」 だけでは業務に差し支えが出るとして、その職務を長年務めた「内 功」者を選出して欲しいという願書が提出され、実際にその希望が 許可された事例を検出した。このことから、単に「順番」制のよう な機械的な選出では限界があった点にも注目しておきたい。このよ うに考えると、江戸勤番の選出は、必然的に一部の藩士に偏る傾向 にあったといえるのではないか。
二点目に、江戸勤番の選出は、ある程度藩士の自主性を認可した 柔軟なものであった点である。これは、特に江戸御番によく見られ た傾向であった。この柔軟な選出により、同一人物が複数回(江戸 御 番 の 事 例 で は 二~六 回) 江 戸 勤 番 を 務 め る こ と を 可 能 に し て い た 。 江戸御番の事例では、四四
・ 三%が再任者の選出であった点を踏ま
えると、何らかの目的を持った藩士が自ら江戸勤番を志願する事例 が 多 か った こ と が 想 定 さ れ る 。 巨 大 都 市 江 戸 は 最 先 端 の 学 問
術 ・ 芸
・ 情報の集積地であったため、江戸藩邸は、藩士にとって職務で向か う場所であったとともに、学問や芸術を学ぶために主体的に向かう 場所であったのである
)11(
。
以上、 本稿では、 江戸詰藩士の編成原理について、 「藩邸年表」な どを手掛かりに検討した。統計的な分析に終始してしまったが、こ のように選出された藩士たちの江戸勤番中の行動やそれらが藩士社 会にもたらした影響については今後の課題としたい。
註
(1) 岡山藩研究会編『藩世界の意識と関係』(岩田書院、二〇〇〇年)、同『藩世界と近世社会』(岩田書院、二〇一〇年)、岸野俊彦編『尾張藩社会の総合研究(一~六)』(清文堂出版、二〇〇一年~二〇一五年)、高野信治「「藩」研究ビジョンをめぐって」(『歴史評論』六七六、二〇〇六年)、渡辺尚志編『藩地域の構造と変容-信濃国松代藩地域の研究Ⅰ』(岩田書院、二〇〇五年)、渡辺尚志
・ 小関悠一郎
編『藩地域の政策主体と藩政―信濃国松代藩地域の研究Ⅱ』(岩田書院、二〇〇八年)、荒武賢一朗
・ 渡辺尚志編『近世後期大名家の領政
機構―信濃国松代藩地域の研究Ⅲ』(岩田書院、二〇一一年)、福澤徹三
・ 渡辺尚志編『藩地域の農政と学問
・ 金融
―信濃国松代藩地域の研究Ⅳ』(岩田書院、二〇一四年)、吉村豊雄
・ 三澤純
・ 稲葉継陽
編『熊本藩の地域社会と行政―近代社会形成の起点―』(思文閣出版、二〇〇九年)、稲葉継陽
・ 今村直樹編『日本近世の領国地域社会
―熊本藩政の成立
・ 改革
・ 展開
―』(吉川弘文館、二〇一五年)、加賀藩研究ネットワーク編『加賀藩武家社会と学問
階で、岩淵令治氏が「藩政については、近年「藩世界」 (2)藩研究における江戸藩邸の研究状況については、二〇〇四年の段 (鳥取県立博物館、二〇一七年三月)など。 院、二〇一五年)、鳥取藩政資料研究会編『鳥取藩研究の最前線』 報』(岩田書
・ 情
況は大きく変わっていないように思われる」とし、「対幕府のみなら 頁)と指摘している。また、その後二〇一七年においても「その状 に留まっている」(岩淵令治『武家地の研究』(、二〇〇四年)、七 るが、江戸藩邸については幕藩関係の場という論点が再確認される という概念が提示され、共に江戸を視野に入れることを提起してい 藩社会」