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久 富 木 成 大

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(1)

厚葬と薄葬というのは︑古代中国における葬送儀礼の現実のすが

たの︑二つの大きな流れである︒これはひとり中国のことにとどま

らず︑中国文化の影響のもとにあった近隣の国々︑たとえば︑日本

にあっても︑事情は同じであった︒葬礼は︑それを挙行する人々の

人生観や︑死についての考え方︑あるいはまた他界観とい︑うよ亀フな

ものを反映して変化する︒したがって︑時代の移りかわりに伴って︑

葬礼にも変遷があ︲ったのは当然のことである︒ところが︑そ︑フした

はじめに

﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ はじめに

一ある薄葬説の由来とその影響 二薄葬説の系譜 价孔子と墨子の薄葬説 ⑨﹃論衡﹄の批判 三貴生思想と薄葬説 价死生観 伺貴生家と薄葬説

おわりに

注 ﹃呂氏春秋﹄における薄葬説

個々の変化とは次元を異にして︑厚葬と薄葬ということが︑葬礼に

ついては問題とされることが多かった︒これを簡単にとらえて︑華

美な葬礼と︑節度ある葬儀とのあいだの︑単なる相対的な判断の問

題と考えがちであるが︑現実には︑これはそのような生やさしいも

のではなかった︒厚葬の弊害は︑時には一家を亡ぼし︑一国を滅亡

させるよ︑フな︑激しいものであることが︑珍らしくなかったからで

坐ハ︶ヲ︵︾︒

一般に︑葬礼はなりゆきのままに放置すれば︑厚葬にかたむいて

ゆくのが自然のなりゆきであった︒そのため︑いつの時代にあって

も︑厚葬をいましめる論議が︑さかんに行われた︒そうして︑それ

らの意見は文章化され︑正史をはじめとする種々の文献のうえに︑

そのあとをとどめている︒のちに本文でふれるように︑先秦以来︑

厚葬におもむきがちなのは儒家であり︑それに反対して薄葬を主張

してきたのは墨家であるというのが通説であった︒しかし︑残され

た薄葬のことにかかわる文献のうち︑とりわけ大きな影響を与えた

いくつかのものについて見るかぎり︑墨家の言説に依拠したり︑言

及したりしているものは︑極めて稀である︒それに反して︑前述の

文献のなかで大きな役わりを演じているのが︑﹃呂氏春秋﹄の説く薄

久富木成大

一一一

(2)

人が死亡したあと︑その葬法と服喪とについて︑中国では古くか

ら︑二つの全く対立する立場があった︒例えば︑以下にあげるがご

とくである︒

○君子︑あるひは厚葬久喪を以て︑以て仁なり義なり孝子のこと

なりとなす︒あるひは厚葬久喪を以て︑以て仁にあらず義にあ

らず孝子のことにあらずとなす︒︵君子︑或以厚葬久喪︑以爲仁

也義也孝子之事也︑或以厚葬久喪︑以爲非仁非義非孝子之事也

I﹃墨子﹄節葬下︶

一つの立場として︑厚葬久喪があり︑それこそが仁であり︑義で

あり︑孝子のなすべきこととされていたのである︒ところが一方で

はまた︑その厚葬久喪こそが不仁であり︑不義であり︑不孝の最た

るものであるとする立場があった︒ここにいう厚葬久喪とは︑遺体

の衣類や棺榔をぜいたくなものとし︑埋葬にも工夫をこらし︑壮大

な墳墓を営み︑葬儀のあとも長期間︑喪に服することをいう︒この

厚葬久喪をめぐって︑よしとする立場と︑強く否定する立場とが対

立していた︒歴史的に見るならば︑自然のいきおいとして︑常に厚

葬久喪が流行する傾向にあった︒そうして︑そのいきすぎを矯正す 葬説である︒そこで︑小論では︑墨家をはじめとする代表的な薄葬 説の消長のあとをたどり︑そのなかで︑﹃呂氏春秋﹄における薄葬説 のはたした︑前記のごとき働きの由ってくるところを︑明らかにし てみたいと思う︒ ﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ 一ある薄葬説の由来とその影響 るための政治的な力が︑時の主権者の命令として出されることが多 かった︒あるいは︑有力な臣下の意見が出されて︑それが権力者を 動かして︑厚葬久喪の弊を是正する方向に持っていくということも あったのである︒このように︑時の主権者の政治的な力の発動をま たねば︑その害をとり除くことが不可能なほどに︑厚葬久喪の流行 のいきおいは︑大きかったのである︒これはひとり中国だけのこと ではない︒古代のわが国においても︑その例をまぬかれていない︒ 以下のごとくである︒

○朕聞く︑西土の君︑その民を戒めて曰く︑古への葬は高きに因

りて墓を爲︵つく︶り︑封︵つちもり︶せず︑樹︵きう︶ゑず︒

棺榔は以て骨を朽ちさせるに足り︑衣衿は以て宍︵にく︶を朽

ちさせるに足るのみ︒故に吾れ︑此の丘嘘不食の地に勢︵つく︶

りて代を易ふるの後︑その所を知らざらしめんと欲す︒金・銀.

銅・鐡を藏︵をさ︶むることなかれ︒一︵もっぱら︶︑瓦の器を

以て古の塗車・謁霊の義に合︵かな︶へ︒棺は際會︵ひまあひ︶

に漆︵︑フるしぬ︶ること三過︵みたぴ︶せよ︒飯含︵ふくむ︶

るに珠玉を以てすることなかれ︒珠儒・玉押を施くこと無かれ︒

諸︵もろもろ︶の愚俗の爲すところなり︑と︒また曰く︑葬は

藏なり︒人の見ることを得ざらんことを欲す︑と︒

廼者︵このごろ︶︑我が民︑貧しく絶︵とぼ︶しきは︑專ら︑墓

を螢むによる︒麦︵ここ︶にその制を陳べ︑尊卑をして別あら

しむ︒夫れ︑王より以上の墓は︑その内の長さ九尺︑潤︵ひろ

さ︶五尺︑その外域︑方︑九尋︑高さ五尋︑一千人を役し︑七

日にして詑︵をはら︶しめよ︒その葬時の帷帳等は白布を用ゐ 一一一一

(3)

よ・糯車あれ︒上臣の墓はその内の長さ潤さ及び高さは︑みな

上に准︵なら︶へ︒その外域は方七尋︑高さ三尋︑五百人を役

し︑五日にして詑らしめよ︒その葬時の帷帳等は白布を用ゐょ︒

楯ひて行け︒下臣の墓は︑その内の長さ潤さ及び高さは︑みな

上に准へ︒その外の域は方五尋︑高さ二尋半︑二百五十人を役

し︑三日にして詑らしめよ︒その葬時の帷帳等は白布を用ゐる

こと︑また上に准へ︒大仁・小仁の墓は︑その内の長さ九尺︑

高さ潤さは各四尺︑封せずして平ならしめよ︒一百人を役し︑

一日にして詑らしめよ︒大禮以下︑小智以上の墓は︑みな大仁

に准へ︒五十人を役し︑一日にして詑らしめよ︒凡そ王より以

下︑小智以上の墓は︑小石を用ゐるくし︒庶人︑亡︵し︶ぬ時

には地に収め埋めて︑その帷帳等には驫布︵あらぬの︶を用ゐ

るくし︒一日も停むることなかれ︒凡そ王より以下︑庶民に至

るまで蹟︵もがり︶を営むことを得ざれ︒凡そ畿内より諸の國

等に及︵いた︶るまで︑よろしく一所に定めて収め埋めしめ︑

汗機し︑虚虚に散埋することを得ざれ︒凡そ︑人︑死亡するの

時︑若︵も︶しくは經︵くび︶れて自ら殉︵したが︶ひ︑ある

いは人を絞︵くび︶りて殉はしめ︑強いて亡人の馬を殉はしめ︑

或いは亡人のために寳を墓に藏めることをなし︑或いは亡人の

ために髪を断り︑股を刺して課︵しのびごと︶す︒此の如き薑

俗︑一にみな悉く断︵や︶めよ・もし︑詔に違︵たが︶ひて禁

︵いき︶むるところを犯すことあらば︑必らずその族を罪せん︒

︵朕聞︑西士之君︑戒其民日︑古之葬者︑因高爲墓︑不封不樹︑

棺榔足以朽骨︑衣衿足以朽宍而巳︑故吾勢此丘嘘不食之地︑欲

﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ 使易代之後︑不知其所︑無藏金銀銅鐵︑一以瓦器︑合古塗車調 霊之義︑棺漆際會三過︑飯含無以珠玉︑無施珠儒玉押︑諸愚俗 所爲也︑又日︑葬者藏也︑欲人之不得見也︑廼者我民貧絶︑專 由螢墓︑麦陳其制︑尊卑使別︑夫王以上之墓者︑其内長九尺潤 五尺︑其外域方九尋︑高五尋︑役一千人︑七日使詑︑其葬時帷 帳等︑用白布︑有糯車︑上臣之墓者︑其内長潤及高︑皆准於上︑ 其外域方七尋︑高三尋曵役五百人︑五日使詑︑其葬時帷帳等︑ 用白布︑擴而行之︑下臣之墓者︑其内長潤及高︑皆准於上︑其 外域方五尋︑高二尋半︑役二百五十人︑三日使詑︑其葬時帷帳 等用白布︑亦准於上︑大仁小仁之墓者︑其内長九尺︑高潤各四 尺不封使平︑役一百人︑一日使詑︑大禮以下︑小智以上之墓者︑ 皆准大仁︑役五十人︑一日使詑︑凡王以下︑小智以上之墓者︑ 宜用小石︑庶人亡時︑収埋於地︑其帷帳等︑可用驫布︑一日莫 停︑凡王以下︑及至庶民︑不得螢蹟︑凡自畿内︑及諸國等︑宜 定一所︑而使収埋不得汗穣散埋虚虚︑凡人死亡之時︑若經自殉︑ 或絞人殉︑及強殉亡人之馬︑或爲亡人︑藏寳於墓︑或爲亡人︑ 断髪刺股而諌︑如此薑俗︑一皆悉断︑縦有違詔︑犯所禁者︑必

罪其族I﹃日本書紀﹄巻第二十五︑孝徳天皇︑大化二年三月︶

これは︑一般に︑﹁大化の薄葬令﹂とよばれているものである︒こ

れが出された事情は︑孝徳天皇の︑﹁廼者︵このごろ︶︑我が民︑貧

しく絶︵とぼ︶しきは︑専ら︑墓を営むによる﹂︑ということばに︑

尽きているといえよ︑7︒当時︑墳墓の造営が︑いかに派手におこな

われていたかとい︑うことが︑これによってわかるのである︒このこ

とはまた︑ひとり墓地だけのことにとどまらず︑葬礼全体が︑過度

一一一一一

(4)

に財を消費しておこなわれるようになっていたであろうことを︑

我々に推知させてくれる︒当時︑貴族たちのあいだに行われていた

厚葬久喪の習慣が︑その費用を負担する人民の生活を︑苦しいもの

にしていたのである︒そこで天皇は薄葬礼を出し︑身分に応じた葬

礼の実行について︑こと細かに指示した︒ただしかし︑我々がここ

で注目したいのは︑ここに示されている︑個々の葬礼のことではな

い︒それらを導くにいたった︑この命令の前半部におかれていると

ころの︑天皇が耳にしたとい︑フ︑﹁西士の君﹂のことばの数々にこそ︑

注目したいのである︒なぜならば︑これらのことばに触発されて︑

天皇はこの命令を出したからであり︑これらのことばの中に︑現在

の天皇の行為と思想のモデルがあると︑思われるからにほかならな

い︒つまり︑この︑﹁西方の君﹂のことばが︑天皇をして︑このよう

に行為せしめたのである︒つまり︑天皇に薄葬の思想をいだかせ︑

薄葬礼を出すという行為へと導いたのだと︑考えてよいであろう︒

ところで︑ここにいう﹁西方の君﹂とは︑いうまでもなく︑日本

の西方にある︑中国の帝王たちのことをさす︒当時︑中国から将来

された文献によって︑天皇みずから︑これらの言葉を学ばれたので

あるとい︑うことも︑一応は考えられる︒しかし︑それよりもより可

能性の高いこととして︑唐に学んだ留学生たちの影響ということを

指摘する見解が︑日本の学界においては︑早くからある︒それによ

ると︑以下のごとくである︒唐の初期の貞観九年︑高宗が崩じた︒

当時は厚葬の風習がさかんであったが︑秘書監︑虞世南は上奏して︑

高宗の葬儀は薄葬となるべきことを主張した︒また︑その翌年︑貞

観十年︑太宗の文徳皇后が崩じた︒皇后は死にのぞんで太宗に別れ ﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶

をつげ︑みずからの葬儀は薄葬をもってとり行われるように願った

という︒こうしたことが社会に大きな影響を与え︑唐初の社会では︑

厚葬から薄葬へと︑世の流れが変っていったのである︒このさまを

親しく見聞した日本からの留学生たちが帰国して︑大化の改新の時

代には︑日本の社会を変えるために大きな働きをした︒葬礼に関し

ても︑いちはやく︑かの地の動静を日本に紹介して世論を動かし︑

天皇をも︑その方向にむかわせた︒そのことが︑孝徳天皇の﹁薄葬

令﹂として実をむすんだのだという︒この方が︑ありうべき︑より

妥当な見解であろう︒そこで︑ここでは︑日本においても大きな影

響をもち︑天皇の行為までも規定した︑虞世南の上奏文をみておこ

︑乱ノO

○臣聞く︑古への聖帝明王の薄葬するゆえんは︑崇高光顯︑珍寳

具物︑もってその親に厚くせんと欲せざるにあらざるなり︒然

して審らかにこれをいへば︑高墳厚瀧︑珍物ことごとく備へる

は︑これ適︵ただ︶に親の累となるゆえんにして︑孝といふに

あらざるなり︒ここを以て深思遠慮︑非薄に安んじてもって長

久萬代の計となすは︑その常情を割きて以て定むるのみ︒むか

し漢の成帝︑延・昌二陵を造り︑制度はなはだ厚く︑功費はな

はだ多し︒諌議大夫劉向上書し︑その言は深切︑みな事理に合

ふ︒その略に曰く︑孝文︑覇陵に居り︑棲槍悲懐︑臺臣を顧︵か

えりみ︶て曰く︑ああ︑北山の石を以て樟となし︑貯紫を用ゐ

て断︵き︶り陳︵し︶き︑その間を漆︵うるしぬ︶れば︑あに

動かすべけんや︑と︒張輝之すすみて曰く︑その中をして欲す

︑べきものあらしむれば︑南山を銅︵ふさ︶ぐといへども︑なほ

(5)

隙あるがごとし︒その中をして欲すべきもの無からしむれば︑

石桿なしといへども︑また何ぞ戚︵うれ︶へん︑と︒それ死は

終極なけれども︑國家には廃興あり︒鐸之の言ふところは︑計

を窮すことなきをなすなり︒孝文さとり︑遂に以て薄葬す︑と︒

また漢氏の法に︑人君位に在れば︑天下の貢賦を三分し︑一分

を以て山陵に入れる︒武帝︑歴年長久なれば︑葬に比︵およ︶

んでは︑陵中また物を容れず︒鬘光︑大禮に暗く︑著侈過度な

り︒その後︑更始の敗に至り︑赤眉の賊︑長安に入り︑茂陵を

破りて物を取るも︑なほ壼すこと能はず︒故なくして百姓に聚

數し︑盗の用のためにす︑甚だいはれなきことなり︒魏の文帝︑

首陽の東において壽陵をつくり︑終制をつくる︒その略に曰く︑

むかし堯︑壽陵に葬られ︑山によりて鰐をなし︑封樹なく︑寝

殿園邑を立つることなく︑棺桿をつくるは︑以て骨を藏するに

足り︑衣衾をつくるは︑以て肉を朽ちさせるに足るなり︒吾れ︑

この不食の地に螢み︑代︵よ︶を易︵か︶ふるの後︑そのとこ

ろを知らざらしめんと欲す︒金・銀・銅・鐵を藏することなく︑

一︵すべて︶瓦器を以てす︒古へより今に及び︑未だ亡びざる

の國あらず︑發かれざるの墓あること無し︒乃ち玉厘・金繧を

焼取し︑骸骨ならびに蓋︵うしなはる︶るに至り︑乃ち重︵は

なはだ︶痛ましきことならざらんや︒もし詔︵みことのり︶に

違い︑妄りに鍵改することあらば︑吾は屍を地下に数︵さら︶

され︑死して重ねて死し︑不忠不孝︑魂ありて知ることあらし

めば︑まさに汝に幅せざらんとす︒以て永制となし︑これを宗

廟に藏せよ︑と︒魏の文帝のこの制は︑事に逵すと謂ふくし︒

﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ 向︵もしも︶︑陛下︑徳をして止めて秦漢の君のごとからしむれ ば︑臣は則ち口を鍼すのみ︑敢て言ふことあらず︒伏して見る に聖徳高遠︑堯舜すら猶ほ逮ばざるところなるに︑傭して秦漢 の君と同じく著泰をなし︑堯舜段周の節倹を捨つ︒これ臣の尤 も戚︵いた︶むゆえんなり︒今︑丘瀧かくのごときをつくれば︑ その内︑珍寳を藏せずといへども︑また盆なきなり︒萬代の後︑ ただ高墳大墓を見て︑あに金玉なしと謂はんや︒臣の愚計︑お もへらく︑漢文の覇陵︑既に山勢に因り︑墳を起さずと錐も︑ 自然に高顯なり︒今の卜するところ︑地勢すなはち平らかなれ ば︑起さざるべかざれば︑宜しく白虎邇のぶるところの周の制 により︑三側の墳をつくり︑その方︑制度に中︵あ︶て︑事事 減少すべし︒事おはるの日︑石に陵側に刻し︑丘封の大小高下 の式を明らかにせよ︒明器をもちゐるところは︑みな瓦木をもっ てし︑禮文に合して︑一も金・銀・銅・鐵を用ゐるを得ず︒萬 代の子孫をして︑並びにみな遵奉し︑一通はこれを宗廟に藏せ よ︒あに美ならざらんや︒且つ臣下の除服︑三十六日を用ゐる は︑すでに覇陵によるに︑今︑墳龍をつくるに︑また長陵を以 て法となすは︑おそらくは宜しきところにあらず︒伏して願は くは︑深く古今を寶︵み︶て長久の盧をなされんことを︒臣の 赤心︽唯だ萬歳の後︑紳道常に安く︑陛下の孝名︑無窮に揚ら んことを願ふのみ︒︵臣聞古之聖明王所以薄葬者︑非不欲崇高光 顯︑珍寳具物︑以厚其親︑然審而言之︑高墳厚瀧︑珍物畢備 此邇所以爲親之累︑非日孝也︑是以深思遠慮︑安於非薄︑以爲 長久萬代之計︑割其常情以定耳︑昔漢成帝造延昌二陵︑制度甚

(6)

厚︑功費甚多︑諫議大夫劉向上書︑其言深切︑皆合事理︑其略

日︑孝文居覇陵︑棲槍悲懐︑顧謂臺臣日︑嵯乎︑以北山石爲棹︑

用綺紫箭陳漆其間︑豈可動哉︑張鐸之進日︑使其中有可欲︑錐

調南山猶有隙︑使其中無可欲︑錐無石桿︑又何戚焉︑夫死者無

終極︑而國家有騒興︑鐸之所言︑爲無窮計也︑孝文嬉焉︑逢以

薄葬︑又漢氏之法︑人君在位︑三分天下貢賦︑以一分入山陵︑

武帝歴年長久︑比葬︑陵中不復容物︑奮光暗於大鰐︑箸侈過度︑

其後至更始之敗︑赤眉賊入長安︑破茂陵取物︑猶不能蓋︑無故

聚數百姓︑爲盗之用︑甚無謂也︑魏文帝於首陽東爲壽陵︑作終

制︑其略日︑昔堯葬壽陵︑因山爲禮︑無封樹︑無立寝殿園邑︑

爲棺桿足以藏骨︑爲衣衾足以朽肉︑吾螢此不食之地︑欲使易代

之後︑不知其盧︑無藏金銀銅鐵︑一以瓦器︑自古及今︑未有不

亡之國︑無有不發之墓︑至乃焼取玉匡金繧︑骸骨並壼︑乃不重

痛哉︑若違詔妄有鍵改︑吾爲裁屍於地下︑死而重死︑不忠不孝︑

使魂而有知︑將不幅汝︑以爲永制︑藏之宗廟︑魏文帝此制︑可

謂遠於事 向使陛下徳止如秦漢之君︑臣則絨口而巳︑不敢有言︑伏見聖徳

高遠︑堯舜猶所不逮︑而傭與秦漢之君同爲著泰︑捨堯舜段周之

節倹︑此臣所以尤戚也︑今爲丘壗如此︑其内錐不藏珍寳︑亦無

盆也︑萬代之後︑但見高墳大墓︑豈謂無金玉耶︑臣之愚計︑以

爲漢文覇陵︑既因山勢︑錐不起墳︑自然高顯︑今之所ト︑地勢

即平︑不可不起︑宜依白虎通所陳周制︑爲三側之墳︑其方中制

度︑事事減少︑事寛之日︑刻石於陵側︑明丘封大小高下之式︑

明器所須︑皆以瓦木︑合於禮文︑一不得用金銀銅鐵︑使萬代子 ﹁呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶

孫︑並皆遵奉︑一通藏之宗廟︑豈不美乎︑且臣下除服用三十六

日︑已依覇陵︑今爲墳瀧︑又以長陵爲法︑恐非所宜︑伏願深寶

古今︑爲長久之盧︑臣之赤心︑唯願萬歳之後︑紳道常安︑陛下

孝名︑揚於無窮耳l﹃薑唐書﹄巻七十二列傳第二十二︶

以上︑虞世南の上奏文を引用して示した︒ここに虞世南は︑先行

する二つの薄葬の主張を引いてきて︑みずからの薄葬説の正当性の

拠りどころとしている︒その主張の第一は︑諫議大夫劉向が︑前漢

十代目の皇帝の成帝に対して説いたものである︒この全文を︑我々

はいま︑﹃漢書﹄巻三十六︑楚元王伝第六に付された︑劉向の伝によっ

てみることができる︒ここには︑すでに虞生南が引用している︑文

帝と張鐸之との薄葬をめぐるやりとりのほかにも︑数々の薄葬につ

いての話題が紹介されている︒そうして︑それらをしめくくること

ばとして︑劉向はつぎのように述べているのである︒

○秦の相︑呂不章は知略の士を集め︑しこうして春秋を造り︑ま

た薄葬の義を言い︑みな事の情に明なるものなり︒︵秦相呂不章

集知略之士而造春秋︑亦言薄葬之義︑皆明於事情者也I﹃漢書﹄

巻三十六︶

虞世南があげる薄葬の主張の例の第二のものは︑魏の文帝の定め

た終制︑つまり葬儀の制度である︒虞世南は︑その要点をここにあ

げているが︑その全文を我々は今︑﹃三国志﹄巻二の﹃魏書﹄文帝紀

第二において︑読むことができる︒﹃魏書﹄の本文でも︑虞世南の引

用文でも︑同じ話題ではじめられているが︑ここには︑少しく詳細

に説かれている︑﹃魏書﹄から引いて︑その書き出しの部分を示して

みることにする︒ 一一一ハ

(7)

○昔︑堯を穀林に葬りて︑通じてこれに樹し︑禺を會稽に葬りて︑

農は畝を易へず︒︵昔堯葬穀林︑通樹之︑禺葬會稽︑農不易畝I

﹃魏書﹄︑文帝紀︑第二︶

﹃三国志﹄に注を加えた六朝︑宋の人︑斐松之は︑この部分につ

いて︑以下のごとくいう︒

○呂氏春秋に︑堯を穀林に葬り︑これを通樹とし︑舜を紀に葬り︑

市塵︵してん︶その津を鍵ぜず︒禺を會稽に葬り︑人徒を愛ぜ

ず︑と︒︵呂氏春秋︑堯葬干穀林︑通樹之︑舜葬干紀︑市崖不鍵

其騨︑禺葬會稽︑不鍵人徒︶

つまり︑﹃呂氏春秋﹄から引用して︑魏の文帝はみずからの主張す

る薄葬論を説きおこしているのであると︑斐松之は指摘するのであ

ブ︵︾O

唐の初期︑国家の葬制を薄葬の方向に定めるのにあずかって大き

な力となったのが︑虞世南の上奏文であった︒そうして︑彼のその

上奏文は︑前漢の劉向の上奏文と︑魏の文帝の詔勅とを引用し︑そ

れによって︑みずからの薄葬の主張に重みを加え︑その正当性の根

拠ともしたのである︒ところが︑これまで見てきたように︑虞世南

が引用した二人の文章は︑﹃呂氏春秋﹄ののべる薄葬説と︑深いかか

わりを持っていたのであった︒劉向は︑歴代の薄葬の主張を列挙し︑

最後に︑﹃呂氏春秋﹄におけるそれの勝れていることをのべて︑しめ

くくりとしていた︒そのため︑劉向は︑歴代のすぐれた薄葬説は︑

﹃呂氏春秋﹄ののべる薄葬説と︑密接なかかわりがあると主張して

いるのだと見ても︑大きなあやまちは無いであろう︒つぎに︑魏の

文帝の方であるが︑彼の場合は斐松之の指摘にもあったように︑薄

﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ 葬についての文章を︑﹃呂氏春秋﹄の文辞を使いながら述べおこして いた︒いうなれば︑みずからの薄葬論を展開するにあたり︑﹃呂氏春 秋﹄の薄葬論を︑その出発点としているようなところがある︒こう してみると︑虞世南の薄葬論において︑﹃呂氏春秋﹄にのべられてい る薄葬説の占めている位置の大きさというものが︑いよいよ明らか になってくるはずである︒そうしてまた︑当時の中国だけでなく︑ 唐帝国のしめていた国際的な地位を反映して︑その薄葬の葬制が︑ 遠く日本にまで影響したことも忘れてはならない︒唐初における︑ その薄葬説の根源にある﹃呂氏春秋﹄の説の持つ重要性が︑さらに よく理解されるであろう︒

⑳孔子と墨子の薄葬説

前章において︑冒頭にのべたように︑葬礼は放置して自然のなり

ゆきにまかせると︑性々にして〃厚葬″と表現されるような︑贄沢

で華美なものになりやすい︒そして︑そのような状況が目にあまる

ようになり︑弊害も多く出はじめると︑それを戒めて改める方向へ

と変えられる︒このような傾向の葬礼を︑〃薄葬〃というのであった︒

これを歴史的に見れば︑厚葬と薄葬とはお互いに拮抗しあい︑ある

いみでの緊張関係を保ちながら︑存続しつづけたのである︒なお︑

葬礼には︑埋葬に至るまでの諸儀式︑墓地造営のこと︑および服喪

の形式や期間のことなど︑多方面にわたるのであるが︑小稿ではそ

の一々についてあまり厳密に区別することをせず︑そのすべてを含 二薄葬説の系譜

(8)

めながら︑〃厚葬〃とか︑〃厚葬久喪〃︑あるいは〃薄葬〃などという

ことばで表現することにする︒ところで︑こうした厚葬と薄葬の主

張とを︑それぞれ︑厚葬は儒家︑薄葬は墨家にというぐあいに︑対

応させて考えることが一般になされてきた︒例えば︑そのような考

え方の︑比較的早期のものとして︑以下のようなものがある︒

○墨者の葬するや冬日は冬服し︑夏日は夏服し︑桐棺三寸︑喪に

服すること三月︑世主もって倹と爲してこれを禮す︒儒者は家

を破りて葬り︑喪に服すること三年︑大いに穀︵やせおとろえ︶

て杖に扶けらる︒世主もって孝となしてこれを禮す︒︵墨者之葬

也︑冬日冬服︑夏日夏服︑桐棺三寸︑服喪三月︑世主以爲倹而

禮之︑儒者破家而葬︑服喪三年︑大殼扶杖︑世主以爲孝而禮之 I﹃韓非子﹄顯鞠第五十︶

このように︑厚葬を儒家の主張とし︑薄葬を墨家の立場とする見

方は︑ここにのべた韓非子の時代とは少しく時代をへだてた︑漢代

の初期においても︑同じくおこなわれていた︒

◎○

○夫れ弦歌鼓舞して以て樂をなし︑盤旋揖讓して禮を修め︑厚葬 ○︒◎◎︒︒◎︒◎◎︒◎︒︒○︒○◎︒0000 久喪して以て死を暹るは︑孔子の立つるところなり︒而して墨

子はこれを非とす︒︵夫弦歌鼓舞以爲樂︑盤旋揖讓以修禮︑厚葬

久喪以暹死︑孔子之所立︑而墨子非之I﹃准南子﹄氾論訓︶

こうしてみると︑儒家では厚葬︑墨家では薄葬という見方が︑か

なりの程度にまで固定していたかのどとくである︒しかし︑右に引

用した文にのべているように︑儒家では︑その祖︑孔子よりして︑

すでにそうだったのであろうか︒以下にあげるような例について︑

このことを考えてみよう︒ ﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶

○林放︑禮の本を問ふ︒子曰く︑大なるかな問ひや︒禮はその箸

らんよりは寧ろ倹なれ︒喪はその易︵をさ︶めんよりは寧ろ戚

︵いた︶め︒︵林放問禮之本︑子日︑大哉問︑禮與其著也寧倹︑

喪與其易也寧戚!﹃論語﹄八償第三︶

喪礼は︑十分に形式が整っているよりも︑むしろ質素ではあって

も︑悲しみに満ちている方が︑礼の精神にかなっていてよい︑と孔

子はいう︒ここに登場した孔子は︑厚葬の立場に立つ儒家の人とい

うよりも︑むしろ薄葬の方を採る人といえるであろう︒ところが︑

一方ではまた孔子は︑つぎのよ﹄フにも描かれている︒

○宰我問ふ︒三年の喪は︑期にて已に久し・:.⁝期にて可なるの

み︒子曰く︑予の不仁なるや︑子︵こ︶生まれて三年︑然るの

ちに父母の懐︵ふところ︶より莞かる︒夫の三年の喪は︑天下

の通喪なり︒予やその父母に三年の愛あらんか︒︵宰我問︑三年

之喪︑期已久美⁝⁝期可巳美︑子日︑予之不仁也︑子生三年︑

然後莵於父母之懐︑夫三年之喪︑天下之邇喪也︑予也有三年之

愛於其父母乎I﹃論語﹄陽貨第十七︶

儒教の徒は︑士以上の支配階級に属しておれば︑父母または君が

死亡すると︑三年の喪に服することになっていた︒この期間は公職

を退き︑あらゆる快楽を絶ち︑哀悼の限りを尽さなければならなかっ

た︒そのため︑喪があけたときには︑情せて杖にすがらなければ歩

けないようになっていることを理想とした︒これが︑前述のごとく︑

墨家が批難する久喪︑つまり三年の喪のことである︒ここに﹃論語﹄

陽貨篇から引いた文章では︑孔子は︑服喪期間を一年に短縮したい

という弟子を強く非難し︑人間には︑三年の喪はどうしても必要で

(9)

あるという︒したがって︑ここに描かれている孔子は︑文字どおり

厚葬久喪を主張する︑儒家の祖にふさわしい人物ということになる︒

ところが︑これには異説がある︒例えば︑津田左右吉は︑以下のよ

うにいう︒﹁﹃論語﹄の陽貨篇の三年の喪に関する孔子の言といふも

のも︑⁝⁝戦国時代の思想であらう﹂︑と︒また︑﹁陽貨篇のは喪の

期の三年が長すぎるといふことをいったぱあひのであるが︑三年の

喪は︑孟子のころすでに儒家の礼として定められていたことが︑滕

文公篇の上に見える話によって知られるけれども︑その時代にはも

とより︑後までも︑一般には用ゐられてゐなかったことであるから︑

筍子よりも後にこの宰我のことばが作られたとしても︑少しもさは

りはない﹂︑ともいう︒津田左右吉は︑三年の喪のことは︑孟子のこ

ろ︑つまり戦国時代の中期に︑儒家の手で定められた礼であるとす

るのである︒したがって︑この立場にたてば︑﹃論語﹄のこの章など

は︑戦国時代中期以後に作られた文章ということになる︒そうして︑

厚葬久喪を主張する孔子も︑実際の孔子のことではなく︑後世に作

られた虚像であるということにならざるをえない︒しかし︑津田の

説を︑必らずしも妄説として退けるわけにいかず︑かえって︑それ

を認めなければならないところがあるのは︑以下のような孔子像が

伝えられていることによるのである︒

○孔子︑母を防に葬り︑古へは墓づくりして墳せずと構して曰く︑

丘は東西南北の人なれば︑識︵しるし︶せざるべからず︑と︒

四尺の墳を爲れども︑雨に遇ひて崩る︒弟子これを修し︑もっ

て孔子に告ぐれば︑孔子︑流涕して曰く︑吾これを聞く︑古へ

は墓を修せず︑と︒蓋しこれを非︵そし︶るなり︒延陵の季子

﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ は齊に邇きて反︵かへ︶るに︑その子死すれば︑扇・博の間に 葬り︑穿つに泉に及ばず︑数むるに時服を以てし︑封墳して炊

︵あな︶を掩ふも︑その高さは隠すべきのみにして︑號︵な︶

きて曰く︑骨肉また士に歸るは命なるも︑魂氣は則ちゆかざる

こと無からん︑と︒夫れ扇・博は呉を去ること千有餘里なれば︑

季子歸りて葬せず︒孔子︑往きて観て曰く︑延陵の季子は禮に

合ふ︑と︒故に仲尼は孝子にして延陵は慈父︑⁝⁝その⁝⁝親︑

骨肉を葬ること︑みな微薄なればなり︒︵孔子葬母於防︑構古墓

而不墳︑日︑丘東西南北之人也︑不可不識也︑爲四尺墳︑遇雨

而崩︑弟子修之︑以告孔子︑孔子流涕日︑吾聞之︑古不修墓︑

蓋非之也︑延陵季子邇齊而反︑其子死︑葬於扇博之間︑穿不及

泉︑數以時服︑封墳掩炊︑其高可隠︑而號日︑骨肉歸復於土︑

命也︑魂氣則無不之也︑夫扇博去呉千有餘里︑季子不歸葬︑孔

子往観日︑延陵季子於禮合芙︑故仲尼孝子︑而延陵慈父⁝⁝其

葬⁝⁝親骨肉︑皆微薄芙I﹃漢書﹄楚元王傳第六︶

これは先にあげた劉向の薄葬をうったえる上奏文の︑他の部分で

ある︒ここには︑自分の母親の葬儀を薄葬でいとなんだ孔子と︑自

分の子供を薄葬で葬った延陵の季子と︑それを評して礼にかなって

いると述べた孔子とが描かれている︒これらは︑いずれも﹃礼記﹄

から引用した説話であるが︑ここでは文末に︑﹁みな微薄なり﹂とい

う評語があることに注目しなければならない︒つまり︑孔子も薄葬

の立場にある人として︑とらえられているのである︒

さきに見てきたように︑﹃論語﹄のなかでさえ︑葬礼に対する孔子

の立場は一定したかたちで描かれてはいなかった︒これは︑津田左

(10)

右吉の説をふまえて考えるとき︑儒家内部の葬礼に対する立場の時

間的な変遷というものの反映の結果と考えるのが︑正しい見方であ

ろう︒したがって︑孔子自身は︑どちらかといえば︑薄葬の主張を

つづけて一生を終った人であったもののごとくである︒そうして︑

津田もいうように︑戦国時代︑孟子のころから儒家がとるようになっ

た厚葬の立場の反映として︑厚葬の立場をとる孔子の像が︑新たに

作り出されたものと見たい︒したがって︑この面からする孔子の実

像は︑さまざまの古典にえがき出された孔子の像のうち︑薄葬の立

場に立つ孔子の像が︑孔子の実像に近いということになる︒つまり︑

孔子は葬礼においては︑薄葬を主張したのであり︑孔子のとなえる

薄葬というものがあったのであるということを︑ここで確認してお

きたい︒ 薄葬の主張をするものとして︑ゆるぎない地位を占めるものに墨

家があることは︑すでにこの章の冒頭において︑﹃韓非子﹄と﹃准南

子﹄とを引いて述べたところにより︑明らかであろう︒ところで︑

前述の文献のうち︑﹃韓非子﹄は︑墨家の葬法と葬礼一般とが︑非常

に倹約なものであるとのべていた︒﹃准南子﹄の方には︑墨家は︑儒

家のとなえる厚葬久喪に反対していると︑書かれていたのである︒

古典ののべるこうした記述をもとにして︑墨家の葬礼に対する立場

を︑薄葬短喪ととらえ︑それを略して薄葬と︑我々は呼んだのであ

る︒ところが︑墨家自身は︑そのようには呼んでいない︒﹃墨子﹄の

なかでは︑それを〃節葬″ということばで表現している︒この場合

の︑〃節″という文字は︑〃約″・〃省″・〃制″などと︑古来解されて

きている︒墨家の薄葬︑つまり節葬の主張は︑現行の﹃墨子﹄では︑ ﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶

巻六に︑節葬出・㈲.︑とあり︑そのうち︑㈲・的は供して伝わら

ず︑山のみが残っている︒したがって︑我々は今︑墨家の葬礼につ

いての主張の全貌を知ることはできない︒現存する部分の要点を︑

以下にみてみよう︒

○子墨子いって曰く︑然らば則ち姑らく嘗みにこれを稽︵かんが︶

ふるに︑今ただ厚葬久喪を執るものの言に法りて以て事を國家

に爲すに︑これ王公大人の喪あるものにあれば︑曰く︑棺桿か

ならず重なり︑葬埋かならず厚く︑衣衾かならず多く︑文繍か

ならず繁く︑丘朧かならず巨なり︒匹夫賤人の死するものにあ

りては︑殆︵ほと︶んど家室を喝︵つく︶す︒諸侯の死するも

のにあれば︑庫府を虚にす︒然るのち金玉珠磯︑身に比し︑倫

組節約し︑車馬も擴に藏す︒また必らず多く帳幕・鼎鼓・几筵・

壺濫・戈數・羽旋・歯革を爲り︑挾みてこれを埋めて意に滿つ︒

死を送ること徒るがごとし︒曰く︑天子は殺殉おほきは數百︑

寡きも數十︑將軍大夫は殺殉おほきは數十︑寡きも數人︑と︒

︵子墨子言日︑然則姑嘗稽之︑今唯母法執厚葬久喪者言︑以爲

事乎國家︑此存乎王公大人有喪者日︑棺桿必重︑葬埋必厚︑衣

衾必多︑文繍必繁︑丘朧必巨︑存乎匹夫賎人死者殆掲家室︑存

乎諸侯死者︑虚庫府︑然後金玉珠磯比乎身︑縮組節約︑車馬藏

乎擴︑又必多爲握幕鼎鼓几筵壺濫戈數羽施歯革︑挾而埋之︑滿

意︑迭死若徒︑日︑天子殺殉︑衆者數百︑寡者數十︑將軍大夫

殺殉?衆者數十︑寡者數人I﹃墨子﹄節葬下︶

幾重もの棺樟︑深い墓穴︑遺体の衣服や宝飾のはなやかさ︑高く

壮大な墳丘︑贄を尽した副葬品の数々︑国家や家々の財産を使い尽

(11)

し︑それで物を買い求めて︑転居する人に持たせて︑それを見送り

するようなのが︑世の葬儀であると︑墨子はいう︒そのうえ︑数百

人から数十人という多数の殉死者もあるという痛ましさである︒こ

れが︑墨子の見る︑厚葬のすがたであった︒つぎに︑目前の久喪の

実際について︑墨子は︑つぎのように述べている︒

○君︑死すればこれに喪すること三年︑父母︑死すればこれに喪

すること三年︑妻と後子と死す︑二者みなこれに喪すること三

年︑然るのち伯父・叔父・兄弟・峨子は期︑族人は五月︑姑姉

娚舅︑みな數月あり︒則ち穀清かならず制ありて︑面目陥陳︑

顔色箪黒︑耳目聰明ならず︑手足勁強ならずして︑用ふくから

ざらしむ︒また曰く︑上士の喪を操︵と︶るや︑必らず扶けら

れてよく起ち︑杖して能く行く︒これを以て三年に共すと︒も

しこの言に法り︑この道を行はば︑筍︵まこと︶にその飢約ま

たかくのごとし︒この故に百姓︑冬は寒に忍︵た︶へず︑夏は

暑に忍へず︑疾病を作︵おこ︶して死するもの勝げて計るべか

らず︒これ其の男女の交︵まじはり︶を敗ることを爲すや多し︒

︵君死喪之三年︑父母死喪之三年︑妻與後子死︑二者皆喪之三

年︑然後伯父叔父兄弟峡子期︑族人五月︑姑姉甥舅皆數月︑則

穀清必有制美︑使面目陥阪︑顔色潔黒︑耳目不聰明︑手足不勁

強︑不可用也︑又日上士操喪也︑必扶而能起︑杖而能行︑以此

共三年︑若法此言︑行此道︑筍其飢約又若此美︑是故百姓冬不

忍寒︑夏不忍暑︑作疾病︑死者不可勝計也︑此其爲敗男女之交

多美I﹃墨子﹄節葬下︶

久喪というのは︑ただ︑長期の服喪というだけのことではなく︑

﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ その期間の義務づけられた粗衣粗食などの︑苦行にも似た生活を続 けるということであったのである︒おかげで︑喪の明けるころには︑ 栄養失調と運動不足が原因で︑ここに引用した文章のなかで述べら れているように︑体はやせこけ︑目も耳もおとろえ︑顔色は青黒く なり︑手足は瘻え︑人にたすけ起こされねば立ち上がることもでき ず︑杖にすがらねば歩行も自由にできないというようなぐあいで あった︒そうして︑そのあげくには寒暑や病気に勝てず︑死に至る ものも多かった︒たとえ死は免かれたにしても︑このような身体の 状態では︑右の引用文にもいうように︑﹁男女の交り﹂も不可能とな ることも︑稀ではなかった︒

儒家の主張する厚葬久喪の害は︑このように大きい︒それが国家

と社会にどのような悪い結果をもたらすかということについて︑墨

子は以下のように結論づけている︒

○是の故に以て國家を富ますことを求めながら︑甚だ貧しきを得︑

以て人民を衆くせんことを欲するも︑甚だ寡きを得︑以て刑政

を治めんことを欲して甚だ凱るるを得︑以て大國の小國を攻む

るを禁止せんことを求めて而して既に不可なり︒以て上帝鬼紳

の輻を干︵もと︶めんと欲してまた禍を得︑上これを堯舜湯武

の道に稽ふるに︑正にこれに逆ひ︑下これを桀紺幽属のことに

稽ふるに︑猶ほ節を合するがごとし︒若︵も︶しこれを以て観

れば︑則ち厚葬久喪は︑それ聖王の道に非るなり︒︵是故求以富

國家︑甚得貧焉︑欲以衆人民︑甚得寡焉︑欲以治刑政︑甚得凱

焉︑求以禁止大國之攻小國也︑而既已不可美︑欲以干上帝鬼紳

之輻︑又得禰焉︑上稽之堯舜禺湯文武之道︑而正逆之︑下稽之

一一一一

(12)

桀紺幽属之事︑楢合節也︑若以此観則厚葬久喪︑其非聖王之道

也I﹃墨子﹄節葬下︶

厚葬久喪をおこなえば︑結局︑以下のようになると︑墨子は︑右

の引用文のなかでいう︒㈲国家が貧しくなる︒口人口が減少する︒

日政治や刑罰が混乱する︒四大国が︑小国の乱れに乗じて侵略する︒

田古えの聖王の道にそむいて︑かえって暴君の悪逆無道の政治に合

致する︒では︑このような弊害をさけるために︑墨子自身は︑葬礼

に対して︑どのような考えを持っているのであろうか︒

○故に衣食は人の生利なり︑然も且つ猶ほ節あり︑葬埋は人の死

利なり︑夫れ何ぞ濁り此に節なからんや︒子墨子︑葬埋の法を

制爲して曰く︑棺は三寸︑もって骨を朽ちしむるに足り︑衣は

三領︑もって肉を朽ちしむるに足る︒掘地の深さは︑下︑沮漏

なく︑氣︑上に發洩するなく︑塗はもって其の所を期するに足

れば則ち止む︒性を実し來を実し︑反って衣食の財に從事し︑

祭祀を何︵じ︶し︑以て孝を親に致す︒故に子墨子の法は死生

の利を失はずと日ふは此れなり︒故に子墨子いって曰く︑今︑

天下の士君子︑中情︵まこと︶に仁義を爲さんことを欲し︑上

士たらんことを求め︑上︑聖王の道に中︵あた︶らんと欲し︑

下︑國家百姓の利に中らんと欲せば︑もとより節葬の政を爲す

がごとき︑これを察せざるべからざるものなり︒︵故衣食者人之

生利也︑然且猶尚有節︑葬埋者人之死利也︑夫何燭無節於此乎︑

子墨子制爲葬埋之法日︑棺三寸足以朽骨︑衣三領足以朽肉︑掘

地之深︑下無沮漏︑氣無發洩於上︑墾足以期其所則止芙︑突往

突來︑反從事乎衣食之財︑個乎祭祀︑以致孝於親︑故日子墨子 ﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶

之法︑不失死生之利者此也︑故子墨子言日︑今天下之士君子︑

中情將欲爲仁義︑求爲上士︑上欲中聖王之道︑下欲中國家百姓

之利︑故若節喪之爲政︑則不可不察此者也I﹃墨子﹄節葬下︶

墨子のとなえる薄葬説はlもっとも︑前述のごとく墨子はそれ

を節葬と呼んでいるのだがl右にのべるようなものである︒この︑

墨子の主張する葬礼の特色は︑第一に︑彼自身いうように︑﹁人の生

利﹂.﹁人の死利﹂︑あるいはまた同じことを﹁死生の利を失はず﹂と

もいっているように︑生者にも死者にも︑両方に等しく都合がいい

ように考え︑図るところにある︒第二に︑それは聖王の道にかない︑

国家人民の利益にかなっていると考えられているという点にある︒ ㈲﹃論衡﹄の批判

後漢の王充の﹃論衡﹄は︑批判精神にあふれた書として知られて

いる︒それによると︑後漢時代にも目にあまるほどの厚葬が行われ

ることが多かったようである︒王充は︑そのことにふれて︑以下の

ようにい︑フ︒

○賢聖の業は︑みな葬を薄くして用を省くを以て務と爲す︒然り

而して︑世は厚葬を尚ぴ︑著泰の失あるものは︑儒家の論あき

らかならず︑墨家これを議すること︑非なるがゆえなり︒︵賢聖

之業︑皆以薄葬省用爲務︑然而世尚厚葬︑有箸泰之失者︑儒家

論不明︑黒家議之︑非故也I﹃論衡﹄薄葬第六十七︶

世の中に厚葬の風潮が無くなることがないのは︑戦国期以降は別

として︑本来は孔子以来︑薄葬の立場にあった儒家の︑このことに

ついての論旨が不明であることが一つの原因である︒もう一つの原

因としては︑正面きって薄葬を主張している墨家の薄葬論に︑根本 一一一一一

(13)

的な欠陥があることによって︑その説が有効な働きをしていないの

である︒まず︑王充は儒家と墨家を︑このように批判する︒このこ

とをさらに詳細に︑王充は以下のごとくいう︒

○墨家の議は鬼を右︵たっと︶び︑以て人死せば瓠ち榊鬼と爲り

て知る有り︑能く形︵あらは︶れて人を害すとなす︒故に杜伯

の類を引き︑以て効験と爲す︒儒家は從はず︑以て死人は知る

なく︑鬼となる能はず︑然り而して鱒祭して物を備ふるものは︑

死に負︵そむ︶かざるを示し︑以て生に勤むとなすなり︒⁝⁝

おもへらく︑死人知あり︑生人ともって異ることなし︑と︒孔

子これを非とするも︑また以て實然を定むるなし︒︵墨家之議右

鬼︑以爲人死靭爲紳鬼而有知︑能形而害人︑故引杜伯之類︑以

爲効験︑儒家不從︑以爲死人無知︑不能爲鬼︑然而購祭備物者︑

示不負死︑以勧生也・⁝:以爲死人有知︑與生人無以異︑孔子非

之︑而亦無以定實然I﹃論衡﹄薄葬第六十七︶

墨家は鬼︑つまり死者の霊魂に︑知︑つまり知覚があるという立

場をとる︒その証拠として︑杜伯のことをあげている︒この杜伯の

ことというのは︑﹃墨子﹄巻八︑明鬼下第三十一に出てくる︒ここで

墨子は︑﹃周の春秋﹄という書籍を引く︒その本のなかに︑杜伯のこ

とが書いてあるという︒それによると︑周の宣王は杜伯を死刑にし

た︒杜伯は無実を主張し︑死霊に知覚があるものならば︑三年以内

に自分の霊は宣王を殺すと︑無念の予言をして死んでいった︒とこ

ろが︑三年後︑宣王が狩りをしていると︑杜伯の幽霊があらわれ︑

矢で宣王を射て殺した︒これは日中のできごとであり︑お供の多数

の人々がこの出来ごとを目撃し︑遠方の人たちもそのうわさを耳に

﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ したという︒﹃周春秋﹄という︑おそらくは周王室にゆかりのある︑ 由緒正しい典籍にのせていることから︑杜伯をめぐるこの伝承を︑ 墨子は︑実在のこととして信じるのである︒こうして︑墨子は︑知 覚を持った霊魂の存在を確信して疑わない︒墨子の言説を信奉する︑ 弟子たちもまた︑当然のこととして師の説に同調した︒したがって︑ 墨家の薄葬説というのは︑このような知覚をそなえた︑いわば現世 の人間と同様なものとしての霊魂の存在を前提として︑成り立って いることになる︒死者の霊魂の怒りや不満をおそれて︑あるいは死 霊に対する遠盧から︑墨子がいかに薄葬をとなえても︑それは徹底 しないであろう︒ここに墨家の薄葬説の︑大きな欠陥があると︑王 充は見るのである︒

他方︑儒家であるが︑儒家は︑死者には知覚は無いと考えると︑

王充はいう︒では︑なぜ家産を尽し︑身を殺すまでのことをして︑

厚葬久喪の道を歩むのであろうか︒それは︑死者でさえ見すてない

ということから︑生きた生身の人間は︑なおさらのこと大切にしな

ければならないという︑いわば生きている人間の教導の具として︑

儒家にあっては︑葬礼が位置づけられていると︑王充は考えるので

ある︒戦国時代に墨子のとなえた︑この︑死者にも知覚があるとす

る考えは︑遠く時代をさかのぼった孔子のころにもあったであろう︒

また︑目前に厚葬もさかんに行われていた︒孔子は︑死者に知覚が

あるとする考えに︑はっきりと自分なりの答えを提出しなかったし︑

厚葬のことにも︑あまり有効な反対運動はしていないであろう︒王

充が右の引用文のなかで︑﹁孔子これを非とするも︑また以て実然を

定むるなし﹂といっているのは︑孔子の︑このような不徹底さを︑

一一一一一一

(14)

責めているのである︒特に︑死者の知覚のことに関しては︑よく知

られている︑﹁子︑怪力乱神を語らず﹂︵﹃論語﹄述而︶とか︑﹁未だ

人に事ふること能はず︒焉んぞ能く鬼に事へん︒⁝⁝未だ生を知ら

ず︒焉んぞ死を知らん﹂︵﹃論語﹄先進︶などというようなことばに

も明らかなように︑孔子自身︑意識して言及することをさけている

のである︒したがって孔子は︑死霊に知覚があるか無いかというこ

とについては︑王充もいうように︑そのことの真相を断定するはず

がないのである︒

孔子の立場からも︑墨家の主張からしても︑その薄葬説は︑よっ

て立つ基盤に問題がある︒このことが︑王充の指摘によって明らか

となった︒そのため︑孔子や墨子の薄葬説は︑世の厚葬の流行に正

面から対抗して︑それを是正する︑実際的な力を発揮することはで

きなかった︒では︑真に有力な薄葬論とは︑どのようなものである

と王充は考えているのであろうか︒

○魯人︑まさに填瑠をもって數めんとす︒孔子これを聞きて︑径

庭麗級して諌む︒夫れ︑径庭麗級は禮に非るも︑孔子︑患を救

わんがためなり︒患の由る所は︑常に貧る所あるに由る︒

瑛塔は寳物なり︒魯人もって数むれば︑姦人これを燗︵うかが︶

ひ︑欲心生ぜん︒姦人︑欲生ずれば︑罪法を畏れず︒罪法を畏

れずんば︑則ち丘墓は抽︵ほ︶られん︒孔子︑微の著を見︵あ

らは︶すを賭る︒故に径庭麗級し︑以て患を救はんとして直諌 ◎︒◎︒︒0.︒◎︒︒O◎◎︒0.︒︒︒◎︒◎︒○◎ す︒夫れ死人︑知るなきの義を明らかにして︑丘墓の必らず抽

︵ほ︶らるるの諫を著さずんば︑比干の執を蓋くすといへども︑

人々かならず蕊かざらん︒何となれば則ち︑諸侯は財多く︑貧 ﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶

を憂へず︑威彊にして抽られんことを權れざればなり︒死人の 0O◎00︒◎︒︒00○00.︒◎◎︒◎︒︒◎○000O 議︑狐疑して未だ定まらざれば︑孝子の計は︑その重きに從ふ

ものなり︒如︵も︶し死人の知るなく︑厚葬するも盆なきを明

らかにし︑論定まり議立ち︑較著きこゆ可くんば︑則ち瑛瑠の

禮おこなはれず︑径庭の諫おこらざらん︒今︑その説を明らか

にして其の諫を彊めず︒これ蓋し孔子その教えを立つる能は

ざるゆえんなり︒︵魯人將以填瑠数︑孔子聞之︑径庭麗級而諫︑

夫径庭麗級︑非禮也︑孔子爲救患也︑患之所由︑常由有所貧︑

喚塔︑寳物也︑魯人用数︑姦人燗之︑欲心生美︑姦人欲生︑不

畏罪法︑不畏罪法︑則丘墓抽芙︑孔子賭微見著︑故径庭麗級︑

以救患直諫︑夫不明死人無知之義︑而著丘墓必抽之諫︑錐壼比

干之執︑人人必不蕊︑何則︑諸侯財多不憂貧︑威彊不灌抽︑死

人之議︑狐疑未定︑孝子之計︑從其重者︑如明死人無知︑厚葬

無盆︑論定議立︑較著可聞︑則填瑠之禮不行︑径庭之諫不發芙︑

今不明其説而彊其諫︑此蓋孔子所以不能立其教l﹃論衡﹄薄葬

第六十七︶

ここに引いた文章については︑つぎの二ケ所に注目したい︒一つ

は︑﹁夫れ死人︑知るなきの義を明らかにして︑丘墓の必らず抽︵ほ︶

らるる﹂というところであり︑も︑フ一つは︑﹁死人の議︑狐疑して未

だ定まらざれば︑孝子の計は︑その重きに從ふ﹂というところであ

る︒この二つの文のい︑フところを綜合すると︑結局以下のごとくな

るであろう︒つまり︑死者には知覚が無いのであり︑厚葬の墓は必

らず盗掘の災厄をまぬかれることはできないのだから︑孝子たるも

の︑迷うことなく薄葬にしたがうべきである︑と︒このように︑死

(15)

者には知覚が無いということと︑厚葬の墳墓は必らず盗掘されるの

であるとする︑二つの観点に立脚した薄葬論こそ︑真に有効な薄葬

論であると︑王充は考えるのである︒死者に知覚が無いのであれば︑

死者を怒らせることをおそれる必要もないので︑薄葬が徹底するで

あろうし︑必らず盗掘されることがわかっておれば︑厚葬を営んで︑

副葬品や広大な墳墓などのために︑すすんで家産を使いつくすとい

うよ︑フなことも無くなるである︑フからである︒

薄葬論に︑前述の二つの観点をもりこむことを︑王充はどのよう

にして思いいたったのであろうか︒王充は︑ここで︑みずからの考

えを導き出すために︑その前提として︑﹁魯人まさに喚瑠をもって数

めんとす︒孔子これを聞き︑径庭麗級して諫む﹂という説話を利用

している︒この説話に触発されて︑王充は︑葬礼について︑前記の

よ︑フな考えを︑いだくにいたったのである︒ところで︑この説話の

出典について︑﹃論衡校鐸﹄の著者である黄暉は︑﹃呂氏春秋﹄安死

篇と︑﹃孔子家語﹄子貢問篇とをあげた︒しかし︑﹃孔子家語﹄の方

には文献学上の問題があり︑出典として︑より根源的なものという

ことになれば︑﹃呂氏春秋﹄をとるべきであろう︒事実︑﹃呂氏春秋﹄

には︑ここにあげられた安死篇などに︑独特の葬礼についての記述

がある︒そのいみでも︑ここでの出典としては︑やはり﹃呂氏春秋﹄

をまずあげるべきであろう︒以下に章を改めて︑﹃呂氏春秋﹄ののべ

る葬論についてみてみよ︑7︒

﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶ ㈹死生観

○謂はゆる死とは︑以て知るところある無く︑其の未生に復︵か

へ︶るなり︒︵所謂死者︑無有所以知︑復其未生I﹃呂氏春秋﹄

仲春紀貴生︶

ここに明言してあるように︑﹃呂氏春秋﹄では︑死者には知覚は無

いのだという立場に立つ・知覚が無いという点からすれば︑死者は︑

人間が生を︑うける以前の状態と同じであるとも見ることができる︒

そのため︑ここにもいうように︑一面では︑死とい︑フものは︑人間

がまだ生まれない状態に復帰することであるともいうことができる

のである︒このように︑死者には知覚が無いのであるから︑その状

態をみずから別の状態にかえることはできない︒一方︑生きている

人間は知覚をそなえており︑それにもとづいて意志を発揮して行動

する︒これらのことを︑時間とのかねあいのうえから見ると︑どの

ようになるであろうか︒時間ごとに別の行動をとりうるのが生者で

あり︑時間がいかに流れても︑別の行動をとりえないのが死者であ

る︒このように︑生者の場合︑時間ごとに状態は変わりうることを

原則とする︒死者の場合は︑時間ごとに状態は変わらないことが原

則である︒したがって︑時間と状態との問題というものが︑生者と

死者とでは︑全然ことなる相のもとにあるのである︒あるいは︑全

く質を異にするともいうことができよう︒それは︑生者の場合︑変

わるというところに本質があり︑死者の場合︑不変というところに 三貴生思想と薄葬説

(16)

本質があるのだといいかえることもできるのである︒そしてまた︑

それをより簡潔に︑〃生はみじかく︑死は永遠〃ということもできよ

う︒つぎのようなことがいわれるのも︑そのためである︒

○夫れ︑死は其の萬歳を硯ること︑猶ほ一肢︵しゅん︶のごとし︒

人の壽は︑これを久しくするも百に過ぎず︑中壽は六十に過ぎ

ず︒百と六十とを以て無窮の者の盧︵おもんぱかり︶をなすは︑

其の情かならず相當らず︒無窮を以て死者の盧りをなせば︑こ

れをう︒︵夫死︑其覗萬歳猶一瞼也︑人之壽︑久之不過百︑中壽

不過六十︑以百與六十爲無窮者之盧︑其情必不相當美︑以無窮

爲死者之盧則得之美l﹃呂氏春秋﹄孟冬紀安死︶

ここにいうように︑生者の世界は︑最も長寿者で百年︑中寿者で

六十年くらいである︒せいぜい六十年から百年くらいしか生きない

のが人間である︒それにくらべて︑死者の世界は︑無窮︑つまり永

遠である︒さきに︑生者の世界は変わるところに本質があると述べ

たのであった︒生者の世界は︑変わって︑死者の世界へと入ってゆ

き︑そこは前にも述べたように不変の世界︑永遠の時間の流れると

ころであった︒生者の世界と死者の世界とは︑異質の世界どうしの

関係にあるのである︒だから︑ここに引いた文章の冒頭にも︑一万

年という時間も︑死者の永遠の世界からすれば︑一瞬間にすぎない

というのである︒したがって︑人間が死者のことをとりはからうと

すれば︑無窮︑つまり無限大の時間の経過を念頭においてかからな

ければ︑死者のためにならないのである︒知覚がないために︑一つ

の状態が無限大の時間の経過のなかに継続する︑いわば絶対的な静

的な世界が死の世界であるからである︒ ﹃呂氏春秋﹄における薄葬説︵久富木成大︶

死者には知覚がなく︑死の世界は無窮の時間の流れる静的な世界

であるというのが︑死および死後の世界についての︑﹃呂氏春秋﹄の

考えであった︒さらに︑﹃呂氏春秋﹄の述べる死ということについて

見ていこう︒

○凡そ天地の間に生ずるものは︑其れ必らず死あり︒兎かれざる

ところなり︒︵凡生於天地之間︑其必有死︑所不莵也I﹃呂氏春秋﹄

孟冬紀節葬︶

さきに︑人間の寿命について長くて百年︑中くらいで六十年とい

う﹃呂氏春秋﹄の記述を見てきた︒ここに引用したところからも明

らかなょ︑フに︑このような時間のうちに人間は必らず死ぬのであり︑

絶対にそれを免かれることは不可能なわけである︒死者の時間が永

遠無窮であったのとは︑根本的に異質であるのが生者の時間である

のである︒では︑このような生の世界と死の世界とは︑﹃呂氏春秋﹄

のなかではどのよ︑フな格づけをもって︑認識されていたのであろう

か︒二つの世界についての価値づけについて︑その実態についてみ

てみたい︒

○子華子曰く︑全生を上となし︑蔭生これに次ぎ︑死これにつぎ︑

迫生を下となす︑と︒故に謂はゆる生を尊ぶとは︑全生を謂ふ︒

謂はゆる全生とは︑六欲みなその宜しきを得るたり︒謂はゆる

騒生とは︑六欲なかば其の宜しきを得るなり︒歸生は則ちその

これを尊ぶものにおいて薄きなり︒その鱈くこと彌︵いよいよ︶

甚だしきものは︑その尊いよいよ薄し︒︒:⁝謂はゆる迫生とは︑

六欲その宜しきを得ること莫きなり︒みな︑その甚しく悪むと

ころをう︒服これなり︑辱これなり︒辱は不義よりも大なるは 一一一一ハ

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