経済史に於ける歴史法則の定立ほ︑いわゆる歴史事実自体の研究とは次元の異れる思惟の方法に於て為さるべき
であろう︒併もなお︑私の考え竃ところでは︑いかなる歴史理論も経験的に確定された事実紅立脚しなければなら
ないのであるし︑更に歴史法則の追求に於ても︑そこでは単凍る部分の結合を超絶した﹁全体﹂の把握が行われね
ばならず︑それが科学的な思索の対象となり︑恒に人間によって考えられ︑客観事実によってテストされつゝ︑少
瀬戸内海に於ける塩田の研究 ︻ 歴史事実の許蹄︵序首︶ 多喜浜地区塩田の概観 ≡ 深属権太夫の雄大なる基機構想 田 天野喜四郎と多喜浜塩田成立の経緯 五 塩田開発資金の諸問題︵詰言︶
瀬戸内海に於ける應田の研究
!多音浜益田開拓の場合
目
−歴史事爽の認識︵序言︶
鬼 玉 浮
二 第二十大巻 第三号
しずつ歴史の正しい﹁全体像﹂に近づこうとするものでなければならぬ︒しかも︑此の場合\個々秒歴史事実の実
証を見遺すことは甚だ危険なのである◇1此の小文ほれゝ
あるが︑深尾権太夫をとり上げると︑直ぐそれの資本が反動︑.搾取的であるとか︑またそうでないとか︑.ともすれ
ば︑その何れからも歴史草案が琴論法則に媚びへつらうゆきかたを避け′て︑事実自体の省察をむねとして︑し此︑の場
合に劇応︑現地に赴いて︑歴史を現在の塩業経常から眺めつゝ︑史料探訪と土地条件の地理的考察をも試みてもの
した成果である︒その結論は早急軋ほ出せ敵いけれども︑・私の見るとてろでは︑十七世紀初期から活薄となった瀬
戸内海各地に於ける塩田の開発は︑此の紀の終末元禄時代に於てほ刷つの頂点に達する︒此の史実ほ近世経済史の
探究竺つの剃戟を与えかであろぅ︒種々なる角定から考察出来ると思うが︑塩田史料の散供と塩浜用語触読の困
難さは必ずtも究明の容易でないてとをさとらしめる︒入浜塩田の経済史的究明は︑今日なお未解決のところも多
いが︑此処では紙面の制畢漕茅︑蒜還れたる歴史事実の堀り起し程度にとゞめる︒たゞ本文に問題とするとこ
ろのものは︑.滝し経済文化のも冨還を規定して︑﹁自然の暴威に挑戦し︑これを征服して人間生活の内容を豊か
にするもの﹂との定立が許容されるならば︑深尾権太夫とその同志及び塩田開拓に尽挿せる延人員万余の人夫こそ
宣しその企図と労仇力の凝集が︑遂に見えぎる捨石になり終ったとするも︑それほ経済文化史上に燦としてかゞや
く山つの歴史事実であり︑其の復原は内海開発転若干︑の春男ともなり︑・・今日新しくわれわれあ認識の対象たりうる
のである︒元禄末年に企画失敗し︑草保末年に漸く成果をあげ︑難民救他の笑もあげた此の多菖浜塩田の開発は︑
其後四代の襲名天野薯四郎た受け継がれ︑近世後串期を通して見るとき︑維潮直前までは五十余区割に漸増せる新
田開発の一範型を一郎七た︒朗治にいり原田となれる三膚浜三十町歩も︑専売公社五ケ年計画の線に沿うで製塩高能
率の砂層流下菰塩田に改田料れようとu︑既鞋第ヰ期工事†七町歩の究成も目前にせまっている︒いま浜数変遷の
南石鎚の後峯を仰ぎ北感灘の長潮紅臨む多苦浜地区はたしか′に地勢的に1は塩田適地といえる︒天保十三年に上梓 ︵ 1︶
J.︑︑.r一丁 /ヽ も︑のの︑の
草保十入年︵芸︶ 元禄十一 軍保八 嘉永 四 年
富暦九年︵
文政六
弘化三 寛政二年︵か胱︶
の多寄 吉浜と
西条詰多宮浜事﹁昔は山際迄入海平潟撃今多啓浜西分謂詣新と称する地︑多寄浜と斗り称する
瀬戸内海紅於ける塩田の研究
棉肇な壷同村の地先隻︑久碧二品完せて同じ姦村の本帳にあヱとし︑面積広き平潟の地な
妄ニノ生、Å
−ご・八四叫・ニー・
、、・
り 明
年 率
/ ̄■■\ (
二一・元一一・
三七八六
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繋これが所謂十三軒浜−−現在の舌浜であるが︑幾濠となく甫滴匿おそわれ︑ 此の年猶堤防未完成︑ようやく塩浜の出来たいのは革保十卜十二牛である︒
こ 多暑濱地区嘩田の概観
垣生・松神子 ︵和才新川︶ル ル
〃
〃
濱 数 変︑遷 概 表
三年︵㌫︶ま 多喜浜︵古浜︶ 宋 分
冤︵齢爛謳︶
1
1
1 1
1 1
1 1
1 1
票㌶離浦︶
で10 17︵敵城錮躇︶
7 1 7 1 7 1 7 17
1
西 分 新浜︵諜︶ 三尊浜
8︵5︶
′0 5
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2 其89︶ 7 1 7 1
6︵不菊仝︶
︵幼︶1
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倉U
2
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四 讐一十六巻 第三号 りしこと︑大島は勿論︑黒島も︑もとより二島にて︑﹁黒鳥の畑高七拾七石三升八合︑家数刷八六軒︑人数七三七人﹂な
どが見える︒其の黒鳥はもちろん今日多薯浜と地続きである︒その今日簾田となれる垣生・神郷の埴田も︑曽ては
伊予新風郭の東端牒え︑塩生の如き︑前浜塩田は元竿一年︵か竿当時の庄曇媚Ⅷ右衛門の上申誓って︑ 西条薄が領内食料塩自給政策の立場から︑初代藩主松平頼純が築造した上伝えられる︒此の地方︑地勢は北方に垣
生崎・大島を拒てて内海に面し︑南方にほ前記石槌の外に瓶ケ森山・伊予富土・寒風山・笹ケ峯・別子銅山等高く
準え︑南太平洋より辟来する水蒸気を防.いで降雨少く︑秋分の頃より冬季にわ亘っても︑乾燥せる西風多く︑四時
製魔に好適とヤ芸︒但し︑此の地め南方は甚だしく山岳に近接しているゆえ︑夏季は願雨を催し︑海辺湾状を為
して前面に大計横たわれるため︑潮流は急激でなく︑従って海水の交換ほむしろ放漫であり︑降雨の時ほ外海の潮
紅比して若干塩分稀轟となり︑濃度低下せざるを得ない︒もと′\此の地区塩田はのちに図に示す如き︑元禄の深
尾権太夫︑革保の天野膚四郎等︑塩田築造の巧者が相ついで釆住して︑浅瀬干潟を滞留︑構築して︑入浜梅田の典
型的なるものを造ったのである︒
慶安の異変もすぎ︑万治・寛文の頃から元禄にかけて封建諸藩ほ財政貧困のまゝに︑その多ぺは殖産興業め面から
する資本蓄積に︑山応その対策を練ったようである︒大石良雄が師事した山鹿素行も単なる軍学者ではなく︑寛文六
年︵替ら延宝三年︵誓で赤穂㌃ぺ彼 .
滞留をよくして其地を刺する時ほ︑民不レ管して其利甚大也︑地をあらきほりて田畠とすることは︑其功久しから
ざれば共用たらず︑墟は潮の勢に因てその潮を汲で刺するがゆへに︑其功不レ労して成る︑其久ほ又田に致して︑
り︑尤大の時 ;こ よることなり﹄と言って︑労すくなくし七利多
することが出来な・いし︑防府地方に於ても元禄十二年の三田尻︵新田古虜︶大開作は︑藩主毛利首広の舞ぐところ
であり︑南ほ狭水道を残して向島軋迫り︑東西は海に瀕する広大な地域であって︑東部と北部を新田村田畠とし︑
南部を台浜塩田上する二官七十町余の︑実に大開作の名にそむかない増産設計なのである︒
西条薄の場合も此の例に洩れない︒併し西条薄はもともと小港であり︑その経済政発に就トては︑紀伊初代の頼
宣︹開憫紬︺の慶安から寛諾かけての政警手本となった㌢で㌢西条潜祖頼純は牒蔓棄ある︒紀州
薄日体ぢ私・の見るところでは︑元和・寛永には財政的に余裕もあって︑土功助役も可成積極的に行ったが︑慶安と
もなれば早くも︑財政的に苦闘時代となる︒その証左は︑如上米・御借米・今高の英施等︑劇遵の租税収入強化・一減
俸政策軋見られる︒紀州落と関係深き西条藩に於ても︑城代森宗兵衛は︑自藩の阻発資本をついやすことなくして︑
藩ゐ財政を豊かにする方策を考えて・いたのであり︑そこへ元禄十三年春︑阿波の浜師六左衡門が巣鴨干潟の塩田好
適地なるせ立証︑巣鴨浦年寄役五兵衛の熱心なノる上申︑庄屋村上庄左衛門等の開発企図が山丸となって︑開拓機運
を東成︑薄も亦銀主・技術家を需めたのである︒翌元禄十四年には赤穂除封事件があり︑漸くにして開発候補者升
屋源八・讃岐屋新左衛門が多嘗浜紅現われ︑五兵衛等亦彼等を厚く過して︑干潟の周辺を隈なく案内し︑両名ほ開
発を確約して上方に去り︑更覧哀奥村丈助・深尾権太夫が加わって︑共周事業としての多苗浜開拓が具体化した
のである︒後に示す巣鴨神社文酋の如く︑元禄十六年十二月此の四名に開発許可となり︑草保四年春三度汐留を企
図して︑翌五年初めて山師の塩鶴屋の建てられるまで︑常々実に十七年の萩月が基礎的工事紅向けられている︒
本文は深罵権太夫と其の初期開発者遜の研究を主とするが︑彼等は中道に宛れたりと錐も︑多嘗浜を今日の塩業地
とせる桐限と功績は高く評価さるべきであり︑大塩田築造の理想と堅忍不抜の信念は拘に見るべきものがあろう︒
孟 瀬戸内海に於ける塩田の研究
第二土ハ巻 琴二号
ハ町六段歩を拓き︑更竿年後覧浜二十五町八反.六畝二三装薬誉れたのである︒これが所謂享保の
二昏啓四郎も亦亡父め志を継ぎ新居・宇摩南都内覧て銀主十二名を募り︑宝暦九年六月璧反別百四町九畝 ニダの新開地を竣工した︒久東山せいう小丘ある故に︑久東新由とも称えられるに至ったが︑文化元年多寮波面分
のち四代目天野代助は更に干拓事業を企てたが銀主を待ず︑遂に領主に対し再三海自の結果納戸金を以て開拓を
草保から慶応紅かけて多啓浜地区に開拓した総反別は二百四ト・呵四段二敵十歩にのぼるといわれ︑此の間
深尾権太夫に就いては︑今日のと
十五日に残し七ということ以外︑殆ど詳レく知?えないめであるが︑後世の人が記憶を辿りて綴ったと思われる同
寺の文書に﹃元禄十三庚辰年︑出口信州産︑深層権太夫当嶋ね参︑明正寺に居中候而︑同十六年−仙黒嶋分わ閲作願
之〟礼指入西浜渡レ場へ屋浦突出レ︑普請小屋建黒嶋浦之前より垣生之艮岩迄閲作突出レ候処浪荒ク出来不申無拠
多苗演拾弐軒分突立居申候処宕権太夫及老年銀主も無御座候而拾罠申候処⁚・・⁚﹄とあるのみである︒たゞ当時西条
藩多喜浜の隠業状勢から見れば︑面積僅少なれどへ殆ど藩の出費による.︑元禄十二千の垣隼・松神子塩田の堀割工
事があり︑元禄十≡年春には阿波の浜師六左衡門の多音浜海辺有望との進言と之を聴きたる巣鴨浦年寄役五兵衛の
焦慮といゝ︑曽ての村上永軍と関係深き庄屋庄左街門の開発熱心さといゝ︑彼等株常陀内海の僻村に位しながら︑
此の内海を縦横に馳駆する船師逮より︑掃州・長州・安芸・松山・備前・備中・備後・讃岐・阿波各藩が甚だ熱心
に塩田開轟を企図実施し︑ていることを知らされ︑又その儲けの少からざる事も知悉し七いた︒
薄の側に於ても城代森索兵衛等ほ︑小蒲の財政を苦にして︑自らの資本によって多喜浜開拓を遂行する特志家を
求めていた際である︒五兵衛は藩命をうけて開発に必要な諸材料︑ふ即ち干潟図面︑入用目録等を携えて︑上方へ登
り︑大阪†大和・河内・和泉一江州と開発資本家を求めて辛苦の旅を続け︑たまたま尼ケ崎治左衛門・万軍書兵衛
七 瀬戸吋海た於ける塩田の研究 のエ螢も亦六万六千七百参両二分三宋に上ると見られる︒塩田面積からすれば︑徳川時代の開拓面積は︑現在の三 倍にもの嘩るであろう︒▲此処では明治以後の廃止嘩田ほ間摩としない?
三 溝尾謄太夫.の竣欠な忍基恕療東∵
八
撃−十六巻 第三号明正寺につたえられる伝承では︑深尾権太夫は寧ろ薄より依嘱された上方の技術家であるといゝ︑開発資本は明
て︑殆ど不明にちかく︑今後の新史料発見に倹たねばなちぬ︒たゞ黒鳥神社に残る次の文書に接して︑藩の要求す
るところは甚だ寛大であり︑彼等も亦︑応分の持寄資本をもって︑共同計欝により開拓を進めたものと思われる︒
四名わ被下置候開発許可之御託文左之遁
走
∴伊予国西条御領内新居都県添乗干潟之所塩浜新開仕立可申頗二村則黒鳥塩生村松神子村阿島村郷村右利々之埼域証文取乱杭打
干潟之分新開所二申付候右場所引渡候上者地境析之内其方共任レ心新関仕立可レ申撃
ならL 二蕩所新開所境築立地平均仕候年♂入力年之間者年責赦免二相究之九年冒検地可申付候飽嵩何程出来候共年々壱反二付銀拾五
匁宛之定相究申付候然上者末々迄相遥有之間敷革
山新開所之分諸役御運上等硬質赦免;之但船持僚着船御運上当領法式之洩也 且又新開付置河中島々別紙番付ヲ以願候二付‡
令レ承こ知之叫 右之通新開所干潟粧而有之候所 其方共過分之入用銀を以仕立候上者如何様儀有之候共右之安永々迄他之妨有之間数者也 偽而
奥 村 文 助 殿
深 尾 権 太 夫 ′殿
升 屋 源 八 殿
讃岐屋新左衛門
で此の計画を英施せしめたことが知れるが︑彼等四名に対して地境廻りの 此等の許可証にょって︑
庄屋・組頭・年寄がつけられ︑相議して測巌をすませ︑定杭を打たせたのである︒明正寺ムロ帳に従えば﹃右ノ御足
杭ハ西条薄ノ命ニヨリ宇高級大庄屋高橋勘右衡門並新開所請負ノ者共卜干潟廻り村々庄屋・組頭ふ悪口の上打立タル
モ′也﹄としている︒此のムロ帳妃は八番杭が欠汚しているけれども︑
﹃菅番杭阿島村磯 弐番杭白浜 参番杭桶崎川中 四番杭与右衛門卜者右衝門新開ノ間 五番株又野川中 六番
杭嘗兵衛新開堤ノ際 七番杭松神子柑九左衛門新開舟 九番杭松神子村塩浜埋角 十番杭垣生村丸ケ端 十一
番杭垣生村黒岩 十二番杭黒鳥戸端 十三番杭黒鳥嘗ノ前 十四億杭黒鳥在家入口﹄
と明記してあり︑更軋次に示す黒鳥神社所蔵文書によって︑十四本の定杭位置が適確につきとめられ︑此の八番杭
の所在も松神子村勘左衛門新開角紅見出し得る︒貴重な古文番というべきである︒
瀬戸内海紅於ける塩由の研究
元禄十大年十二月 佐 波 伝 詭 衝 門 ⑳
助 ⑳
典 栄鎌 足 与 右 衛 門 ⑳
.一 同
一 同
一 同
第二十六巻 第三琴
据上申−乱之二軍
∵地域御足覇 者番 阿島村磯
比定析鹿波打際限り新開研
同 同 同
断 郷村之内弐番.白浜
此定析点新開所堤迄拾立間悪水川郵相境
断 郊村之内三番 楠崎川中
此足掛戚新開所堤迄拾五間惑水川郷村境
断 郷村之内四番 与右衛門と寄右衛門新開之間
此定析♂新開所墳迄拾五間志水川郷村域
断 郊村之内五番 又野川
此定析戚新開所埠迄拾五間惑水川郷村嘩
断 郷柑之内六番番兵衛新開墳ウ雛
此定妖♂新開所堤迄拾五閤志水川郷村境
断′ 七沓 松神子村九左衛門新開之際
此定析点新開所墳迄拾五間悪水川松神子村域
断 八草松神予柑勘左衛門新開角
此定訳才新開所堤迄拾五間船遊し松神子村域
断 九番 松神予村塩浜堤角
此定杭新開所蝶迄 入用之分塚取
ヒカタヤワ 右老此贋新居郡黒鳥繭干潟御新開所に被レ撃仰付三候立付干潟廻り之村々地域御足杭被レ費仰付添宇高粗大庄屋高橋勘左衡門
並御新開所論負之者共と右村々庄屋組頭立合地域御定杭打置申慣
然上者御新開所之内ね末々迄も地先境之儀少も申分無御座候英之為此度之地境御定杭御書付次二境杭打所番付村々連判仕上候 為二後日二偽如件
元禄拾六突未年十二月
∵ 同瀬戸内海に於ける塩田の研究 同 同 此定検♂新開所耀迄五拾問塩生松神子Z拾遺し土砂右新開所入用之分掘取可致白由之者也
断 拾督番 塩生殿岩石
此定杭点新開所礎迄八拾五間垣生松神子之船通し土砂右新開所入用之分城取可致自由之者也
断 拾弐番 累島戸端
此冠析♂波打際隕り沖之雰新開所
断 拾参静 黒鳥宮之前
此末続メ波打際限り沖之方新開所
断 拾四番 糸島在家入口
此定訳才波打際限り沖之方新開所
阿嶋村庄屋
同 村組頭
郷 村庄屋
同 村組頭
乎 与 七 孫
宕一 宥■ 邸 左 術衛兵掛 門 門 衛 門
第二十大巻 第三号
同 断
松神予村庄屋
同 村組頭
同 断
埴生柑庄屋
同 相組顧
同 大嶋浦庄屋
黒鳥年寄
同 断
右之遭御新開所欝負之者共立金地墳相改御杭打置申候前書之通相逮無御座候以上
御 車 行 様
石村々地先磯廻り間数
一三首鼠拾間
阿嶋分磯逼り
仙 丸首大給間
郷村分磯廻り
〟 三官給六間 宇高村大庄屋 高 橋 勘 左 衛 門
源 五.庄 孫 平 段 与 甚 孫 七
次 郎
左 右
兵 四 右 兵 兵 右 衛 衛
衛 衝 助 衛 門 郎 門 助 門 衛 衛 門
一≡常数拾間 内弐官七拾弐間埴生村分
謝左衛門新開之角之境杭より愚生黒岩之域杭迄
一三首弐︑拾間 御新開所増給通し間数
黒島戸端より居小屋場迄
〟 囁畏六宵間︑
黒鳥居小屋より阿嶋村増税迄
∵⁝喝漠九官式拾五間
黒嶋官之前小屋場より壇生黒岩迄
黒岩より勘左衛門新開道三首弐拾五問
∵∴紛通し長入官四拾入間 横八間
〜黒鴨居小屋甫より勘左衛門新開造
山 船通し畏三宮八拾間 横入間
黒嶋前戸淵迄
一着之外者絵図二紀差上申償通一仰御座候
右之過当十八日宇高粗大庄屋啓橋勘左衛門立会御定杭打間数
相改絵図二記羞上ケ申候 以上
元禄拾六年末十二月廿ノ〟日
讃岐屋新左衛門 深 尾 樺 太 犬 御 奉 行 様
瀬戸内海に於ける塩田の研究
常二十六巻∴節義号
多喜浜塩田開発想像絵図
∵四管番杭
茸番杭
参番杭
四番杭
五番杭
六番杭
七番杭転
九番杭
十番杭
十〟番杭
八番杭
十二番杭︑黒鳥戸端
十三番杭 黒鳥官之前
十四番杭 黒鳥在家入口 阿鳩磯 郷村之内白浜磯 同村柏崎川 郷村之内宮右裾 門と与右衡門新 開之間 同村又野川中 郷柑之内番兵術 新開埋之際 松神子柑之内九 左衛門新開之際 同村勘左衛門新 開角 同村塩浜掟 蛍生柑丸ケ端 同村黒岩
町工訝も着手きれた︒目的遂行の為の九強き意志の片鱗も随所軋あらわれ︑普請万石般の顔中やその車伝人足をか
り集め︑彼等を公平に愛撫すべき瀞を説き︑暴風雨の褒戒︑他国者無頼の徒の警戒を厳にしっゝ早くも鱒一期二軍降
着事し彗即ち患者杭と二番杭の間︑現在の多喜演小学校装の山際から鰍四番杭迄︑黒鳥人家入口に至る約六首間︑
更に拾番杭丸ケ端と拾三番猟官′仏前を栄西に姑ぶ千間食﹂此の・広大な面積の海備に千六官間余の堤を以て入浜墟田
を構築しょうと計画したので′ある︒此の計画ぬして成就せは︑恐らく全長一層余の排水用塀防と入川が必要であり︑
更に塩浜不適地を田畑とするも︑猶仙層の用排水の設備を必要とするであろうっところか︑たまたま思いがけ協鯵
灘からの気象悪条件が出揃い︑忘堅殿風起らんか︑地上最大の暴力を発揮⊥て︑′営々として運搬し来れる礎石をふき
飛ばし︑海中での塊防建設作業もこ瞬にして水泡に帰せしめるのである︒平素はまことに処女の如き波静かな内海
も︑ひとたび荒れくるえば地上の大樹も折れ︑土砂臍壊しへ建物揉塞中に舞上るという︒彼等四人は土地に不慣れな
外来者でもあり︑此の自然の暴圧に処する叡智と経験粒軟けていたといわれる︒併も︑此の偶発無限の御し難きカ
に抗し′て︑︑その節≡期工事︑︑正徳二率の春汐留の成就するまで︑実に根強ぐ八年間粘り挽けたのである︒其の初期
︵5︶ の捨石ほ︑此の尊き礎石の最西端に住む古老の語る所紅従えは︑春の大潮むひき潮の度毎に魅大な石群の一線を霹
里し︑数官米に続く石ほ悪外に大きく︑到底入夫二・.主人がゝりでなければ運搬出来ぬ巨石であつたと小う︒それ
が南海大地震の・ため此の辺地盤■米ばかり沈下し︑累々たる捨石も今は全然姿が見られなくなったとの拳である︒
粛期工事′ 見込なき大望より現実的な小工事転転換し︑次に取ケか1つたの′が現在の東浜と︑宙浜の堤であ
る︒かくて東側の堤は旧阿島川口よ
郷柑のうら白浜磯より北へ向って堤をはり出し︑窯場灯合して此の向を墟田にせんとした︒これ捻笛二期工事佐鹿
融⁚五
瀬戸内海ぬ於ける塩田の研究ハ 第二十六巻 第三号 こち べ甚た小規模であり︑恐らく近代土木技術を以てしては甚だ容易な工事であろうが︑此の辺二冊の激しい宋風波の
せいか︑構築技術の幼稚のためか︑或は人夫を集める雇傭資金と石村材料の不足のためか︑再度突放してい告恐
らく資金個渇が舜大の原因であろう︒其の調達には︑浜方普請・汐留などに広く銀主を求め︑また分割口数笹よる
出資者を定めたと見え﹃拾口平兵衛わ割遣候﹄などの文句が正徳元年︵完︶辛卯七月の黒嶋神社文書に散見する︒草
保の噴︑人夫建一方の雇僻貸一人〟匁五分と見て︑拾五貫を要し︑人件費は容易ならざるものと解される︒前途の
希望を失ってか︑共同出資者の脱落も見える︒着工後七年を経過して正徳元年ともなれば︑すで紅讃岐屋新左衛門
・升屋源八郎ほ脱退し︑奥村丈助は奥村政右衛門に変り︑新たに遠藤武兵衛が加わっている︒此の正徳元年十二月
十五日の同神社所蔵文書に従えば︑平吉・善左衛門・伝四郎等八十山名が連判して︑遠藤武兵衛・奥村政右衛門・
深尾権太夫に対し︑石材の買込み︑石船賃︑築手工欝の前借を懇請している︒これを見れば︑当時巣鴨の船持・庶
民・人夫も其の生活がかなり切迫し︑また開拓企業者連も資金融通の面に於て︑甚だ困窮せしあとが寮せられる︒
撃二級工事 これほ更に︑前回に比べで其規模蹄少され︑構想が現実的である︒即ち前面に見える小丘︑大久貢
の利用であり︑これと陸地との連結である︒′黒嶋を遠薮かるに従って︑潮流の抵抗も弱普り︑築堤容易となった︒堤
防が西へ西へと移るに従って︑東風披の絶えざる被害も減少し︑此の東風激しい東側掟防を後廻しとし︑甚だ不完
全ではあるが︑工事着手以来八ケ年の蔵月をついやして︑正徳二年番遂に此の仰角の境の汐留に成功した︒彼等は
十三軒浜と命名した︒此の地の竜神社は︑此の時の深尾権太夫の勧請によるものと伝えられる︒彼も︑恐らく逆に
最初より此の構想・にて進めば︑余剰掛金にて更に拡張を行い得たと考えられるも︑此の時の工事の階弱さの放か︑た
ちまち出来たば.かりの堤防ほ︑再び崩れて浸水し︑空々年度漸く汐留完成し︑更に亦壊れたという︒拘に失敗の遵
深尾権太夫の息子は父の事業を承継しなかったようである︒恐らく三期間にわたる開拓工事に出費多く︑資金を
使い果したせいであろう︒然し彼の偉業を継げる塩田築造の巧者に天野賓四郎及びその﹂遵の企業者逮がいた︒彼
等は対岸尾道吉和浜・富浜の浜師であるが︑広島浅野滞では新開の時︑銀・木材・石材等ほ奨助の意味で無償交付
され︑西条松平藩では︑それが出来ないことを知りながら︑何敢闘柘を承諾したのであろう︒恐らくそれは深尾権
大夫の残せる数多の捨石の利用価値を考慮に入れたのであろう︒事実西条藩の遮二無二の勧奨もあり︑草保八年七 ︵
6︶ 計末の出頼が八月初に︑はや・くも許可されている︒此の村の﹃西多寄浜開発六人願讃並六人申合究帳﹄に従えば﹃
私共に被為適被下候者干潟遠新開︑追1築立中震奉存候尤塩浜羊龍所ハ塩浜二仕立又塩浜二成不申所ハ田畠二仕毛
付申渡奉有償右丈助権太夫其外此新聞王悪口被申候衆中弥得取立不被申此以後右衆中棒銀御座候ハ\私共わ被為仰
付被下候様奉顧候右丈助権太夫方に被為道道之御証文私共わ御下シ置被下候ハ︑向とそ普請成就仕候様精出し永ゝ
︵7︶ 共修理破損等百分点仕御百姓二有付申定率存候﹄とあり︑用意周到に前者との関係清算にも配慮している︒かくて
彼等は一喝尾道年寄役を通じ︑籍を西条薄に移して此地の育姓となった︒出願に対する許可﹁党﹂は次の如きもの ︵8︶
であり漱下年期・其後の定免・船持の道上・特権賦与を約しており︑年貴は元禄末年と同じく反に付十五匁である︒ と伝えられる︒深尾権太夫こそ実に︑近世塩田構築史を飾る尊き犠牲者ということが出来よう︒
鐙
瀬戸内海貯於ける塩田の研究 四 天野喜四郎と多苫演壇康成立の経緯
此¢塩磁〟軒を眺めながら︑遂匹夏七月二
刷八 第︶ノ⁝十大巻 第三号 カタガタ 毒予国西条領之内新語郡累嶋干潟之所塩浜新開仕立可申戯二付巣鴨塩生村松神子柑阿島村郷村右村々之地境証文痕傍弥杭打干
潟之分新開所二申付候右場所引渡候上着地域杭之内心任二新開二仕立可申笥
り 附
ふ日箔成就之上着当領わ入人工成候節之頗者追而可申捷革∴
一恵塩浜新開所攣止平均仕候年メ入牢之閏年貫者令赦免九カ年目二検地有之地高南海南東候共年貢ハ∵反二付銀十五匁宛
之定免相究上候然上者末々迄茂相違有之間数候且又田畑之義ハ毛付相応一脚中骨鍬下赦免之年数等諸事外並を以而可申付撃
恕塩浜新開所之分諸般運上等永々命数免候但船持申候ハ︑船之運上者当領法式之通也且又新開所二付別紙番付を以願之酵
令承知願之通申渡候事 ′
右之通新開所干潟二而有之倶処其方共過分之入用銀ヲ以仕立候上ハ如何様之儀有之候共右之定永々迄他之妨有之間数候也
草保入費卯年八月
備後尾之道
津ぼや.蓉J左∵衛∴門︑殿
米 屋 思 右 衝 門 殿
米
屡千∴孝 一 郎 穀
小 川 八 兵 衛 伊 庭 関∵左衛 門 薄.田 礫 兵 衛
優 太郎着衛門大久苧小久責の小丘を中心とし︑其の周辺に原生の突端から巣鴨を連結する壮大な隠田計画を樹立し︑其の元
禄十七年の第嘉工事は失敗せりとはいえ︑此の多喜浜地区に塩業確立の礎石を築けるほ︑まさしく深尾権太夫の
舶限に帰すべきであるが︑其の遺業をつぎ︑此の理想を実現した米屋︵天野︶音四路・天野屋七右街門・柏屋与小
郎・米屋安三郎・米屋忠右衝門・津ぼや善左街門等の功績も亦没し難い︒彼等が蒲との予備交渉に於て︑其の周密
な話合い︑危険負担の取極めは︑甚だ入念にして要を得てお・り︑此の種契約の紛争予防の亀鑑ともなるべく︑当時
既に︑塩鼠発の自営資本家であり︑扱術巧者たりし嘗思わせる鱒充分であるP此の軍成功の蔭の周密な計画
として特記さるべく︑此の六人の開拓者の天でむり︑天野家とも関係深き糟屋与義の後裔︑岡本顕道民所嵐文
薯に従えば︑其の出願覚書ほ次の如き十七項目に要約し得るであろう︒元禄・草保頃の新田瀾発関係の慣習が盲
瞭然とする︒草保八卯年七月︑前堅ハ名が字高村大庄屋代え五郎に直接交渉せるところは︑此の頃長者として興
味も深く︑それが直ち・に上司へ取次がれて︑まもなく許可されている点からも︑西条薄の熱意が祭せられる︒
苛
二∴罪鴫蔀干潟新開所の件︑別紙番付で御願申上げましたよう疫私共へ仰付けられ度したら左の通りお願いしたい?
小︑新開ね必要な歎した杭木及び塩浜居小雪釜苧大坪納屋等建築に必要とする竹材・木材ほ自分嶺で撃為ないから貴藩内 で遺され度︑︑代銀ほ概界でお渡する︒
二∵土手ぬ入用¢石材は近所め嶋で︑壁土準入用な赤土は近在め山で取らせて欲しい︒
∵∵塩浜で人用な︑ねば土は干潟の近在にないらしい︒領内の何処からでもよいから︑ねば土︑入啓土共とり得られるようにし 瀬戸内海に於ける塩田の研究
㌔
︺九 天野屋l七着帯門 殿 米 屋 菩 四〟 郎 殿
て欲しい︒ 二︑現在汐留の出来ている拾三軒浜の土手ほ甚だ幼稚であるから︑先ず此の石垣を築直し︑上手の腹付・上匿等を丈夫にしたい︒
尤も︑石壕の内側把添土手下虹三間程犯するから︑面椅は少々かけてくる︒殊に︑現在塩浜菅軒前の畝数より広くするから︑
軒数.ほ拾軒程となるであろう︒
此の浜は仰付あり次第普常に取掛るが︑入用銀は差上げる用意ほしてある︒︹土手と添土手の間は惑水だめであり︑浜数は
十一軒出来たが︑天保年間畠にしたと伝えられる︒︺
一︑三十五軒浜という所ほ︑二万に石垣があるが︑こちらは菅軒に壱カ所宛の樋をつけるから︑こららの石垣も悉く築替えをする︒
此嘗西の方わ入川をつけ︑岡山覧2方迄入川土手にするから畝数は余程減り︑軒数が弐拾軒になると思われる︒︹実際ほ
敷地二十三軒分出来﹂塩浜二十軒開発きれたが︑水気のため︑混在ほ十七軒である︺此の≡十五軒浜は来年草保九年から十年
迄工事をする︒併し︑樋璽ほ備前以外では調達出来ないし︑諸国塩浜からも先物注文をしている状況である︒急に出発ないか
ら︑此度私其よりあつらえ︑出来次第工事をすゝめる︒其他の子潟ほおい′\成就する︒
て右二箇所の石垣・土手等の材料ほなかノ1の物入りであ牒が1取輯れば築薗し或ほ築足しをする︒此等の石及び土の礼物は
少々は覚悟し七いるから︑過分に出来なくても︑年賦で差上げましよう︒
山︑阿嶋村谷より落している川筋の水は︑東の方へ流れを廻したい︒﹁絵図参照﹂
山︑塩浜入用の資材︑縄・俵・苧諸道具等は田舎で注文されると浜方・在方とも双方に好都合であり︑此の外︑双方に都合よ
堅翠は追・々お麻い申上げる︒
て願いの通り私達に下命され︑工事が出来れは塩浜︒田畠共に新野の分は︑将釆とも︑台地へほ組入れず︑大任屡直き勤めと
されたい︒
第三十六巻予第≒酋は先年丈. に仰付られた如く︑ ほ御赦免︑⁚九 地なされ︑年ゴ は﹂反につき銀拾五匁の定
二世買薄の晋姓にして欲しい︒ 二
条件として︑新開地内で田島をとっていたゞきたい︒池年貢ほ其節地主と相談する︒
二新開に就いで︑.飯米・諸道異類等親発の船が出入する訳であるが︑其等の検問は︑塩浜駿成後ぬして欲しい︒
二人天は各所かあ集るが︑手不足の時︑願出るから地方より出てくれるよう頗靡く︑貸銀は其節相応紅払うぺく︑尤も新開出
来て以後も日雇人夫∵牛馬共平素可なり入るから︑領分絶て質銀で雇った節︑塩浜元〆にれい属して欲しい︒
一︑権太夫・丈助以来︑給仕事ほ巣鴨船に世静紅なっているらしいが︑私達も開発許可の暁︑前々の通り船遣・上荷船・水主な
ど入用の節は黒嶋より傭うようする︒
一︑右場斬開発許可となれば︑各所より人夫火勢いりこむから︑御役人様が監督紅きて欲しい︒
一︑願書の遣り干潟が残らず私共へ周拓仰付けられた節︑私遵六人以外の者へは誰も参加せしめないよう︑永く六人の支配にさ
れたい︒
翌草保九年になると︑藩主ほ天野書四郎軋庄屋元締役と塩新関屋兼帯を許し︑浜師からは︑こ洪につき鉄管目宛 ︵
10︶
の徴集権と浜方取締につき︑軽犯罪者に外する懲罰権すら賦与し\ている︒西条薄としては︑破格の優遇であろう︒魔
塩浜召抱之浜子法式相背共通難儀置者有之節
∵∴撃墜憐事
山 手錠ヲ打置候事
瀬戸内海ぬ於ける塩田の研究 道上ほ御赦免︑
というのがそれであるが︑元来提防築造とか︑塩鱒開拓労伐はゾ甚だ無味乾燥な垂労仇である︒手荒きことこれ以上
のものはなく︑汐留工事の折など︑はげしい喧嘩沙汰も起るという︒押し寄せ牒潮披の退いて干潟となれるほんの数
時間内払大鼓の石・主を迎搬して所謂﹁しぉどめ﹂を
瞬に七て永泡に帰するのである︒ここに年や人柱の嘩められたのも︑大自然ゐ反撃に打勝うとする人間必死わ努力
と祈願︑潮神にそむくまいとする生蟄の手段と見られる︒梅田築造の巧者ほ︑此の蔓労仇の気分を和らげる為に︑
巧に女性人夫を間隙忙混じ入れたという︒此の初期多宮浜開拓の場合︑対岸広島薄からの臨時人夫も多数移動し来
ったよタである︒さきに掲げた天野讃四郎等の周到な計画と実施の故抵︑黒嶋囁浜堤の繕い普請は一応成功し︑そ
れ等の労務管理ほ巣鴨静塩浜元〆所の傘下に入った︒拾菅浜開発の翌学僕九年夏高潮に洗われて埋切れ︑多くの損
害を蒙ったが︑再隠︑十年頃の反別面積十九町八反﹁畝六歩の新開地と辞せられる︒明和三年戊二日﹃西多宮浜開
発以来年々廃車留帳﹄に従えば﹃舌浜之義著聞発以来四拾年之間者浜も荒浜無御座検地己釆一度も滞上納無御座﹄と
︵11︶
しており︑尭外成膿も良好だつたと思える︒草偲十八丑年二月七日には﹁一一手五軒演﹂の汐留が行われ︑同廿一年辰
十二月頃迄拡多嘗浜塩田は拡大整備され来った︒此頃の塩田開発にほ︑難民救済の意図もあったらしく︑西条誌に \
﹃舌浜の東へ︑官より塩浜を起す﹄など︑あるとノころより見れは︑薄も亦塩由開発の︷役を買えるものと思われる︒
.かくて︑ようやく塩業の有望に気づいた西条薄主ほ︑領内自給政無から領外移出の政策に転じ︑塩の増産を図ろ
うとし㌧届九年︵㍍︶になると︑彗自ら罵の妄を酸出して前記審四郎等と共に嶋田八浜を開いた︒此時の
欝十大巻 第三孝 一片嶺剃候東右三個条羞免申候問不及訴浜法行ヒ可申候勿論重罪ノ者ハ瑛ノ時二至ゾ早速訴出可申者也
の場合匹も多くの事例があるように︑新田畑の開発を伴っている虻其の名称も︑新田は多嘗浜久
一し為であろう︑西条誌ち簡単湯葉晶鑓錮娼蛸西と去っている︒毎時西条藩は国産蜜り讐なく︑他藩転 移出する物資に乏しく︑正貨擁護の意窄からも製塩移出の方法を奨励した︒此の地では︑既に文化五年になると石 炭もたくようになり︑文政六年から慶応元年にかけて︑藩主は多くの私財を投じ︑或は之を基金として幾多の浜を開 拓している︒所謂北浜・三賞浜と呼ばれるところこれである︒西条蘭が北浜を﹃役所持にて︑地主なし﹄と称する のも︑薄営を物語るものであって︑旭浜ほその屈横凡そ管町より菅町二・三段を﹁区とするに拘ちず︑此浜は二町 を諒としている︒而して︑魔主の開拓になノる塩田は小作に附し︑産額の山型分を作料とし︑別にまた運上銀を も徹することにしているが︑塩の移出に当って︑浜の問屋と買受入との間に塩の受渡を行う場合︑沖発と小売の区別 なく︑藩役所は2還するこぺし︑牒霞めて㌢升俵壷対し︑銀Å撃蔓警徹してい
る︒沖発とは.︑当時多啓浜の商慣習㌣ほ︑大儀五斗五升入三官僚以上を廻船して積出する場合をいい︑小売とは大 俵三宮俵以下を小船ぬて地方へ積出する場合を指摘したものの綾で臥る︒貫船人辞せる時ほ︑問屋何某せり多宮浜
御役所宛として︑﹃大俵何千何首俵積何国何之誰船宿2通人津仕候﹄として届書を出し︑更に取引の出来た時は大
仙 俵﹃何千何首俵何国何某船直段何匁何分巻︑右2通出来候﹄と多薯浜総代問屋何某より多嘗浜役所宛覚層を掟出せ
︵12︶
しめている′︒薄の著しき干渉が注目されるのである︒にも拘らず多嘗浜軋於ける塩′の産額は︑其後文政工年から
天候八年に\かけ星座カとみに減じ︑此の拾年間をならし︑一ケ年分七万六千丸首七拾七俵余であって︑之に主十 三軒にて割付けると壱軒分弐千三育三拾弐俵となり︑立田は菅軒にて三千余儀出来たという識者をして﹃浜敷あしく
成︑塩附不宜︑出来数減じ﹄︑と慨歎せしめている︒経営経済史上︼考すべき現象である︒ 東新田∴塙浜は新多音浜と呼ほるべきでぁろ′ぅが︑
瀬戸内海疫於ける梅田の研究 遭称︑多嘗浜久東新田で遁 ってい考て大
上代の自然浜・中世の揚浜を通じて︑殆ど全国的に散在して・いた堵浜ほ︑近世初頭になると忘其等狩猟戸内海
紅集約されて︑入浜形式の塩田が各所紅開拓・拡大されていく︒其の主た・る理由ほ︑瀬戸内海のもつ自然地理的並
びにそれに伴う経済的条件の優位に帰しうるのであるが︑此処では︑それは余り問題とせず︑寧ろ塩田開拓資本の 所在類型︑銀主に就いて若干述べて見たい︒先ず︑
H 領主自らその投資と危険負担に於て開拓する場合︒
⇔上方・騰落妹低速隔埠の銀主が出資者となり︑又其の開拓技術賢って開墾する場合︑此の時他薄資本の流
入・町人資本の流入が考えられる︒
斡在地′の・町人又ほ地主が錬主となり十共同或は個人経営で開発する場合︑所謂地元資金による民営開驚ともい うぺきもの︒
囲其の資金獲得の源泉が︑滞の名目・後援を・ハックとすか所謂講社などの大衆庶民資金に依存している場合︒
等が考えられ︑此等の数要素が単独なることもあり︑混同している場合もある︒今韮紅かかる問題を提起して︑
lヽ肯 之姦明せんとし ①場合に就いて考えて見よう︒
∴深層檜太夫の開拓資金の問題は︑関係史科によって㌢推鼠するほかは
と計算紅よる藩営資本ではなかったようである︒藩ほほやくも元禄十⊥年垣生把手を染めてはいるが︑薄費堀割工事 第二十大巻 第三号
五 塩田開発資金の諸問題︵結哲
し︒僅か三方石の小浄財政では︑かかる危険を好んで負担したとも考えられない︒た
ゞ彼を継げる天野の人︑他ほ元〆庄屋・仲間彼等の顔役である︒此等築造小資本家が寧ろ西条滞より懇請され紅形となり︑此の間の史
実は天野家に伝わる﹁西多喜浜開発以来年々党恕留帳﹂に明らかで臥る︒併し形式的にほ薄庁め許可を得て干潟を拝
領1J︑墟田十仙区︑段別十六町六段歩を開拓するのに︑其間一年余︑入用銀高計官七十七質八首≡匁四分を馨し︑それ
柊彼等の自己資本乃至勧誘資金によったものと思われる︒米屋啓四郎ほこの事保八年一月起工の拾一︑浜開拓の成功
虻よ㌢︑阻屋元締役及び薪監の問屋ぬ任ぜられているが︑同時に一浜に付き年々録音匁の運上金を命ぜられている︒
此の拾小浜開拓資金は︑多く塩浜掟防の繕い普請に静され1ていると思われるが︑﹁右拾菅浜普請成就致候入用蓄
︵13︶ 辰四月佐波忠左衛門様A御改二付左ノ︺通相認差上申候j軋よれば︑
山 銀五質六官弐拾七匁四分
逢着拾菅浜分壌土手従御上御膳被遊之内御入用銀嵩御代珂わ上納
一 同八拾五貰六首五拾五匁
走者卯九月より辰四月十八日迄浜浮欝建具地場□候浜入用銀笛委細其節宙附御座候
小 間八拾六質五官弐拾菅匁
是者拾菅浜エロ飯米其外諸事浜仕入銀辰四月十八日迄入用銀嵩如此此要細者其節番付ロu申候
全盲七拾七貰英軍二免田分
拾膏浜分普請御閑二辰年仕入高如此
但浜分□□儀者拾苛浜三ハ人之連中テ分候時故老入管浜不足仕候処審四郎儀ハ元〆役塩間塵仕候約速二付右拾菅浜之内
二而五番演者軒ハ元〆浜と落着仕無間−−テ相﹇=□残り拾浜を五人分署人前弐浜持として浜二番悪御座候付聞入二而落潜
仕候
瀬戸内海紅於ける塩田の研究
二六 儲二十粟巻 滞三尊
とあり︑寧保九甲辰年三日十日始めて弐浜の塩焼が為され︑壱和浜の氏神湊大明神の勧請が行われたが︑八月千四
旦馬瀬襲来たちまち拾管浜宋土手態承樋近くより堤切込︑切口蘭数二十太閤深さ中程にて菅丈余といわれ︑拾琶浜
分の薪・飯米まで押し流さ・れたという︒此の所謂深尾権太夫の着眼せる宙浜も︑粛四郎・与一郎∴寧左衡門芸心有
衡門︑市兵衛・孫方術門の六人の浜師に継承され︑また厄二人ほ脱退し︑元〆役・問屋の薯四郎・惣代格与仙郎・首
姓と笹隼た嵐象徴阿等於殊ケ.ふのである︒塩問屋兼帯として仰付った喜四郎ほ釆予前より可成裕福であったと見え
西条誌も﹃中にも嘗四郎魁首にて軌代もゆたかと見へ草保の御入郡の時も大庄屋並軋御日通仰何られ﹄とある︒
事保八年卯七月備彼尾道塩浜の津保屋善左衛門・米屋忠右簡門・米屋安三郎・樽犀与一郎・天野屋七右衡門・米
屋喜四郎等が宇高村大庄屋代文五郎に授出せる党首によれほ︑異論負契約は彼等六名の特権として︑他資本の介入
を徐去し︑﹃右願之通新路偲干潜不磯私共へ被為仰何被下候ハ\此願主六人之外何方点望候共御指加へ被下問敷候﹄
と述べて骨†嘗旨保十各巳九月二十六日津保屋・天野屋・米屋・糟屋等が黒嶋前塩浜元〆所との間に取かわせ
る細目協定によれほ︑大修理ほ総浜宝ハ同出費により︑小修理ほ銘々にて番うべしと微に入り細をうがっている︒
﹃惣土手並同石垣上匿腹付繕普請之事銘.々浜抱之土宇者両隣境玉土手限忘石垣玉土手共繕無油断調可申候但惣土
手石垣共上置腹付腰築石垣築直し等大普請之儀者惣浜拾菅軒メ銀子出合調可申候尤其節相談次第也常二小繕等
ハ銘々点無沙汰無之様一.−可仕若ソ拭いたし其浜之抱之土手葺何事出来之時ハ其浜主可為落度之寧﹄
というのが見え︑最初から西奥津に危険負担をさせない一線が明躁鱒看取される︒人夫かり集め其他此等に要す
る飯米諸道異類の蒐果に就ても︑川口出入検視の寛容なるぺきを薄に要請し︑
﹃土手普請仕候時分人夫方々より相集り人夫不自由之節ハ願出可申候間在中より駆出候様被為仰付可坂下候静銀
装飾相応払可申候尤新開相調候以後塩浜並田島入用之日用人夫牛馬共二常ミ大分人用ニ
ょり貸銀と言っゼ︑人件費に対する相当出費の覚悟と其の管理権が塩浜元〆に在るべきよう明祓に所見を述べている︒此
の場合︑徳川時代なるが故に︑人夫日傭貸が極めて安価にあがり︑殆ど無償にちかきものと考足るのは甚だしき謬見
であつて︑革保十二丁未年頃と思われる次の文酋によって︑人夫進入員壱万三千四首九拾老人の賃銀弐拾貰弐育三十
六匁募︵㌫㌫硝匁︶という′のが見え︑此等の出費が此の企業家連の計警危険にかゝるものであり︑砂くとも
西条薄日体の出費でないこと丈ほ明紅かである︒動か長文であるが︑興味ふかき叉畜であるからこゝに掲げる︒年
号の故知が甚だ遺憾であるが︑内容と﹁未﹂年より年代を推定すれば︑恐らく草保十二年でほあるまいか︒
ニて雇申節塩浜元〆塩浜新開斬昔話方歳′り
堤長九拾五間 大くゞ横手堤\
内
拾五臥肇⁝な璧高口萱口
此坪六拾七坪濫合
内
三拾三坪七合嵐勺 有土単分ふレ而
残而三拾三坪七合五勺t ︑
此宋音審人∵慣習坪主人かゝり
瀬戸内海虹於け為鹿田の研究
︹ ︺印内は筆者証記此坪千首坪
内
五官竃拾坪
残五豆五拾坪
此天弐千弐盲人
一境長三宮七拾弐閤
第二十六巻 儲≡号
八拾阻崩絹網㌘高口重坪室勺 訂サ 二間半−
弐百弐五間
拾五間切レロ 此坪弐千六百八拾七坪五合
内
千七百五坪 有土半分−脚して
残而千大官拾弐坪五合 但菅坪三人可1り
此天五千大官四拾三人 内 但菅坪四人可1り
白浜立手軽 有土半分エソ而
但拾間より入間迄ならし
但著聞口拾弐坪五合
但著聞口よ拾三坪七合五勺
八
此坪弐首六痺弐合五勺
此夫千三拾番人 但菅坪茸人かゝり
土俵弐千俵代六百目 但菅儀三分ツ1
弐間杭官本代官弐拾日 但管本管匁弐分
丑尺杭弐官本代七給田 但菅本三分窟應
但切レロ入用物
冨拾弐甲綱摘み机㌘間口ニ八甲
高サ弐間一
此坪千首三拾大坪
内
五官人拾八坪
残而五官六拾八坪
此天千七百四人畑但菅坪三人か1り
山 墳長弐官九拾三間 楠崎立手堤
根置 七間叶
+ ち商︒八坪
此坪弐千三宮閤拾四閣
内
瀬戸内海疫於ける塩田の研究
l・・・・・■■■■−ヽ一−・一
茶※
七 官九拾目︺
第二十大巻 第三骨
千四盲犬坪六合 有土六分一柳して
残而九習三治七坪山ハ合但壱坪三人可1り
此栗撰帯入管潜哉人
士坪貴志義宮窟謹啓
低有坪引頸分之土地也
太夫合萱方蓼千田百九姶変人
此賃金弐姶茸弐百蓼捨大匁五分
但萱人望匁五分ヅヽ
堤庚四盲犬拾七間 大くゞ隙宇より白浜土手也
此石坪五百三拾七坪五勺
内
≡官弐拾弐坪三勺
残而弐官給阻坪八倉土勺 足シ石鮎
礎長弐首九拾三間︑桶崎土手堤 石 垣
根 置 四ノ尺
甫 サ 弐間三合平シ馬ふみ こ 尺
≡尺 但三尺より鼠尺迄ならし
但著聞口弐合七尺八才 但著聞口啓坪音合禿勺
/
此坪八拾壱坪青倉六勺
右坪会式盲九十五坪九合八勺
此代銀五茸九百拾九匁大分
但壱坪弐拾目可へ
一石垣平坪千弐首六拾九坪弐合
此集貨二茸五百蓼拾八匁四分
但平坪壱坪弐匁可1り
シグ ︼ 志 た︹した草︑羊歯の撃︺
弐千五首三拾八束
但︑石平坪菅坪二何弐宋ツ\菅栄五尺廻り五分ツ\
此銀一軍二百大治九匁
︼ 銀九姶目 人天六拾人之賃−菅人二者匁五分ツ︑ゝ
是者擬すた札石くり上申賃也
州 向≡拾目 是着任形竹代鉄也
一同≡拾目 是着任形なわ代紋也
※︵一一九頁︶ 惣銀高台革拾賞九百lニ匁五分︹此の﹂討ほ︑三十貴簡十三匁五分であるが︑土俵代・杭代計ヒ宵九拾冒を合せると上記の如く
なる︒︺
此外阿ゆミ板入申候へ共日録二出不申候
瀬戸内海紅於ける塩田の研究
草保十八年の多啓浜東分の開発︑所謂薄営的性格の強き﹁飢饉御救ひ為﹂の開拓ですら賓四郎ほ︑塩田十七浜︑
段別二十六町五反歩︑田畑及宅地反別九町三反歩の開拓に草野鋭二百七拾五貿雷匁を資したという︒若干は藩費の
応援を得.たものであろう︒二代目苗四軋′が︑新居・宇摩両部の有志資金を糾合して宝暦九年六月着工し︑同年十月
堤防築造︑十年七月竣成した久東新田も田畑反別六拾四町四段七畝二拾四歩・塩田段別拾三町七段二拾七歩︑計七
拾八町菅段八畝二十二軍の開拓資金に︑銀弐膏六拾八質弐育参拾四匁三分八摩を要したといわれ︑仔細に見るとき
此等の港内民間資金もたやすく糾合し得たとは思われない︒宝暦四年︑彼ほ其の資金獲得のため︑上険して官方手
を尽したが︑銀主ほ見当らず︑たます1翌五年安芸広島及び備後尾道地方を歩いて︑漸く豪商蔵本屋九右衡門と謀 り得たる旦実地踏査の結果其彼の築造方法について︑薄の見る所と見解を異にせる為蔵本屈も辞し去り︑やむな
く藩に乞うで︑地元資金を糾合することゝなり︑宝暦八年五月より九年二月に至る間︑熱心に知友に悠慈して漸く
拾二名の同志を抵得し︑四名連帯にて薄に請厳し︑同九年六月起工し層たのである︒開墾せる田畑の内六町六段六
畝弐潜六歩は郷村に︑十五町三段四徴五歩ほ松神子村に︑六段八畝八歩を垣生村に合併し︑全余を総括して︑多宮
浜久責新田と称えた︒嘗四郎は開墾事業成就して︑元締役・厳正及び問屋を命ぜられ︑かつ新田割︑畝一段に付仙
升五合を永世︑いちど佐一石は時の与一郎に︑四斗はまた沓右衝門に塩晋姓から供せられるようになった︒いっし 第二十大巻 第三号 者者此度新開所汐留普請去ル未八月切レ石土すた貞申候故右之通上監督請大磯り如此二御座候以上
十月十 二 日
るに一里っ い女ノ︒ノ意外 である︒
近 藤
同佐 伯
三二八 八 六
の庶民投資は此の時甚だはかどらず︑寧ろ薄よりの公共的投資として︑文政六年二月起工され︑此の多雷浜北分へ
の投資には総額金五千三両二分と藩札千二育貫目がついやされたという︒御普請所の益金にて之を為したというか
ら山応薄営資本と見ておこう︒
以上多審浜なる名称は︑当時西条薄の普請奉行多良尾介之丞の﹁多﹂と天野啓四郎の﹁音﹂を取っ・て藩主より命
名されたというが︑多啓浜の名は既に・﹁草保十八丑年検地帳﹂に﹁多雷浜﹂とでており︑西条誌には此の年窮民餓
死を普ぬがれた故に﹁多苗浜﹂と名づくともいっている︒五代目天野啓四郎も亦製塩には熱心であった︒巣鴨港は
現在永深約六−七尋であるが︑此の島も既に文政年間には南にかけて陸続きの半島となっていた︒其のヒンターラ
ンドに於ける港外移出物資の貧困さほ︑自然に新田開墾・移出塩の増産に人の注意を向けしめた.のであろテ︒併も
混沌とせる幕末の政情と︑此の西国小藩の財政は︑正貨獲得のためにする薄直営の仕法におし進める丈の資金余裕
をもたなかったのであろう︒西条城代三宅勘兵衛ほ資金獲得の良策として︑当時あまねく流行の講社組織による金
融業への手出しをすすめたかに見える︒金弐万両の積善講社を組織して︑ともかく慶応元年十一月起工︑段別四十
町四畝三歩の新開地が出来︑慶応三年十月には薄より﹁三宮浜﹂と命名されたという︒城代三宅勘兵衛の﹁三﹂と
喜四郎の﹁啓﹂をとって︑斯く命名されたと謂うのである︒
此の頃︑三富浜開発中の叉番として確認されるものに︑次の間本家文書があり︑
宇 南 村
之 助 為 ヽヽヽ
先般阿嶋潟御開発二付蘭肘掛申付候処御普請中場所わ詰切無油断骨折相幼汐留茂御都合能致出来右本立積善講
三三 瀬戸内海絃於ける塩田の研究
︑カ
︑二鱒塀率の遅く し一て 儲けの芳しか取組二付茂彼是致尽力候段相違候此段申聞誉可申候
但塩浜御仕立之上者福武村直右衛門と合組二而壱浜御宛付可被下由
六月廿四日
と見え︑同家の家弟出精を示すと同時に︑積善諸組織の活用が立証される︒なお薄の関与せる一連の貸附事業と見
倹しうるものに︑﹃浜方臨時賃附方﹄というのが︑慧六年︵㌫︶丑九月より文久二年︵㌫︶望月まで拾年間
分弐拾菅冊が同家に残っている︒開発当初浜方間に均分された筈の開拓財の配分も︑徳川後半期早くも訪れた金融
資本主義の加速度的進展に︑・意外な富の不均衡化がはじまり︑小浜方の富裕浜方への肇属化が行われて釆た︒
年末小浜方が翌正月からの経営資金の不足する督ゝに︑藩役所戎ほ大庄屋・富裕商人へと借財を申込むのが通例
であるが︑困窮せる浜方は︑多くの場合︑惣代←肝煎J大庄屋←浜御役所へと手順をふんで︑借入証を差出してい
る︒次例は︑多寄浜惣代が御役所より御廻鋭をうける場合であるが︑勿論惣代そのものは︑浜方なり︑浜子からの
催頼をうけて動くのであろう︒㌧何れ忙しても藩の庶民金融への介入が立証される︒
括上置申一札之二事
金 合 七 拾 両
右者無拠入用二付御頗申上右金高拝借仕申候処英軍一御座候然ル上老来申蘭月限元利少シ茂無滞御返納可仕候為後日山札差
上匿申候以上
第二十大巻 第三号安政六未年︵㌫︶十ご月
多寄浜御役所
とある︒かゝる銀子は勿論浜方から・一部︑浜子庶民階層へと浸透するであろうが︑いわゆるかゝる﹃薄嘗臨時銀﹄の
苦役ぺのものは︑僅か四牒そこくの得分であったらしく︑︵多啓浜︶熊頂門なぎり︑万延二年︵か晋−㌃な
ど此の世話役を浜御役所へ返上するものすら現われる︒更軋彼等浜方相互間にも頼母子講を組織しており︑その落
札・入質の文書も同家に見える︒幕末に於ける庶民金融.の逼迫は︑自然と講社組織の利用へと活路を求め︑かゝる
僻遠の塩村ですら其の金融智識の進歩只々驚くの外はない︒西条藩の如き地方小藩自体も︑かゝる金融業務に手を
染め︑貨幣の流通界に自らを介入させること無くして︑其の存蘭を依持する事が不可能なまでに︑藩財政は追いこ
まれていたのである︒
註m∵西条誌ほ天保年間伊予西条藩主松平頼学︵ヨリサ上の命により︑儒官日野曖太郎和照が助手竹内才介・岡栄二廊・黒川
定右衛門・日野艮之助のたすけを得︑西条薄内新居・宇摩・周桑≡郡七拾簡村堅且り︑絵師国平右同を伴い︑実地踏査を試
みた郷土誌である︒惑之壱にほ︑郡・庄・組・村及び名︵︑︑︑ヨク︶に就て概説し︑巻之弐より巻之弐拾迄は領内各町村紅就
て︑村名沿革・村域・域石・田畑高︒家数・人数・鉄砲持・船数・加子役・小名・枝在所・用水・御普請所・御林・御薮・
役所番所﹂避止・旧領主・古跡名勝・名物・産物・神社・小拘・仏寺・堂俺・修験・庄屋・旧家・人物・孝子・節婦・忠僕
等を記し︑七カ年の歳月を経て︑一部弐拾巻を成し︑天保十三年上梓せるもⅥ︑地方経済史研究紅ほ珍重な資料でぉる︒
瀬戸内海に於ける塩田の研究 三五
長熊 右 衝 左 衛
紬 潤 2 4 ハUけー 8 第二十六巻 第三号 嫁しっ1抄出した方が︑却って興味深いと考えたノから本文の如くした︒
日本塩業全昏︑前掲部
天野・岡本両家所蔵文番﹃西多寄浜開発以来年々覚潜留帳之内写﹄⊥明和三牢成一〟月︶
日本塩菜全容︑前掲部
涙野・岡本両家文書
岡本家は代々樽屈と呼び︑初代岡本与惣右禅門ほ浅野家︵広島︶の家臣として︑藩主と共鱒元和五年七月紀州より来ると
伝えるぐ尾道の将星孫右衛門は年寄役として富浜を開拓した︒伊予に発た初代与一郎道政ほ︑仲間と共に多事浜宙浜を開発
した︵軍保八年︶︒其後閑発の度毎に協力者として相当の権利を与えられる︒大代周一郎道滑に至って︑天野家と三番浜開発︑
塩浜惣代役となり︑名字帯刀を許され︑大庭鼠格にす1んだ︒藩より内倫をうけて︒盛塩館を整理して︑壷商社を創設した
という︒更紅啓一郎道義︵房太郎︶は藤由芳房と共に塩の国家管理をなさんとして活躍し︑専売局創設の礎を作ったと伝え
られる︒遵芳の﹁塩田国有論﹂はたしかに仙識見であった︒
︸≒⊥九五一二年一月踏査・四月成稿ト1 日本塩業全番︑第二編︑二十数 日本経済叢書︑巻三十三︑血八大頁 拙稿﹁紀伊南竜公の経済政策﹂︷﹁内外研究﹂第七巻・第一一亨及び第四号所収︶ 例えば︑塩生前村議度三浦義言落︵同氏ほ此の捨石の最西端近くに居住される︶
天野・.岡本両家所蔵 同文文讃
日本塩菜食宙︑前掲部
原典史科ほ︑岡本政道氏の好意紅より同家にて筆写し得たるも︑いさ・1か長文であり︑此の種古文書ほ其の内客を全文把 三六