敗戦前
後 の世相と民 心 の動向
はじめに‑研究の課題と視角‑
本稿の課題は敗戦前後の世相における民心の動向を考察することにあ
る。敗戦という未曾有の経験の中で人々が何を考えていたのか、全体的
にどのような傾向にあったのかを考察するわけであるOこれは八月1五
日の敗戦をめぐる断続観が日本近現代史上、大きな論争になっているこ
とにも関係がある。散にその考察を通じて人々の意識が、敗戦を境にど
のように変わり、また変わらなかったのかを第二の課題としたい。
たしかに人の心は千差万別であり、それを学問上で普遍化する作業は
不可能との意見もあろう。だが民俗学はもちろん、世相史研究を中心に、
社会や世相に対する人間の意識を研究することが再び見直されてきてい(I)る。特に占領軍が押収した特高の民情調査資料を駆使した研究は、その(2)資料の精微さからも興味深いものがある。これらの調査資料は警察資料
という限界はあるが、様々な人々の言動を詳細に描いた資料として一級(3)の価値を持っている。筆者も特高資料の編纂に従事した経験があるが、
本稿ではそれをふまえながらも、関連する他の特高資料をすべて利用し、
当事者の日記や書簡をできるだけ活用し、筆者が学生レポートを通じて 中圃
(4)実施した聞取調査の結果をも用いて上記課題を検討したい。
時代の流れにはlつの方向性があると思われるDまた人は無意識でも
その流れに沿っている。流行という現象が、いつの世にも存在すること
からそれは理解できよう。また人がそれぞれ違う心をもつのは当然だが、
時代の流れの中で個人が全体の傾向に影響されながら、自らの言動を発
していることも事実である。そのためその全体の傾向を、歴史上の観点
から考察することは意味ある作業と見なせよう。
(‑)例えば色川大吉﹃昭和史世相篇﹄小学館ライブラリIl九九四年が
上げられよう。
(2)主な資料集には以下のものがある。粟屋憲太郎﹃資料日本現代史2・
敗戦直後の政治と社会①﹄大月書店'一九八〇年(以下'同資料を引用
する場合は、粟屋前掲書'○○頁と示す)。粟屋・川島高峰﹃敗戦時全
国治安情報﹄全七巻'日本図書センター、一九九四年(以下'同資料を
引用する場合は'川島第〇巻、○○頁と示す)。なお上記資料集を用い
た研究としては'粟屋﹃現代史発掘﹄大月書店'一九九六年'川島﹃銃
後﹄﹃敗戦﹄読売新聞社、l九九七・八年等があるo
(3)﹃敗戦前後の政治・社会情勢﹄全七巻'現代史料出版'一九九八・九
年(以下、同資料を引用する場合は'中園第〇巻、○○頁と示す)。な
お資料の引用に際しては読みやすさを考慮し、カタカナはひらがなに改
め、適宜句読点を補った。また漢字は常用漢字に依拠し、必要に応じて
書き改めた。
(4)筆者が1九九八年に青山学院大学と立教大学の講義で学生に提示した
夏期休暇の課題で、全二〇項目に関して学生たちが戦争経験者に聞取調
査したもの。なお引用に際してはプライバシーを配慮し、氏名はアルフ
ァベットに置き換えた。また年齢は一九四五年当時の年齢に統一して表
記した。なお紙数の関係から調査の全貌は提示できないが、いずれ機会
を得て報告したいと思う。 (2)えた」との発言がある.︻3lこれ以前にも日中戦争期に民情調査が実施されたことはあった。だが
治安当局の一部が極秘で行う調査と違い、全国特高課を総動員した当該
期の調査は、その規模と執鋤さ、組織的徹底度において群を抜いている。
この点に関しては後述の一連の過程が示すであろう。
一戦時中における民心の動向
︽‑︾民情把握調査の本格的導入
特高警察による民情把握調査が本格化したのは、戦局が悪化の一途を
たどっていた一九四三年頃からと考えられる。そのころ開催された全国
特高課長会議で、内務省警保局は「民情把握に関する事項」を提示し、「問題毎に情報蒐集の方法を考へ、又常日頃真の民の声を聴くために絶(‑)えず苦心工夫」するよう指示している。
特高が民情把握を強化していることは、大仏次郎が「警察の人が民情
につき意見をききに来る。その例﹃敵機をおとさないが軍部に対し反感
など起っていないか﹄」と記していることからもわかる。また聞取調査
でも、「特高と見てすぐわかる人間が二人ずつ位ホームにいるのを見か
けた。二人以上で話をベンチなどでしていると、反対側に腰掛け話の内
容をうかがっていたのが、昭和一八、一九年頃」にあり、「嫌悪感を覚 ︽2︾食糧問題への関心
戦時中人々が最も関心をもっていたのは食糧問題である。これに関し
ては特高調査のみならず、当該期の日記類にも頻繁に登場しており、聞
取調査でも最も発言が多かった。だが国民の不満は食糧不足自体よりも、
食糧分配の不公平さに集中していたのである。「物資が少ければ少い様
に、全都民に公平に配給せらる1なれば、誰しも不平や不満は申しませ(・T)ん」との発言はそれを象徴していよう。
食糧問題に対する人々の不満は、配給制度の欠陥に苦情を呈する場合
と、特権をもつ人々への優遇を非難する場合の二種類に大別できよう。
まず前者に関しては、制度や決まりの不備に不満を露呈する形が目立っ
ている。山田風太郎は「国民は配給制度に関して全然政府に信用を置い
ていない」として、「炭がない、米がない」といいながら、「実は米屋の
前には俵がつみ上げてあるし、炭はいたるところに一卜月も二夕月も野二ヱ積みにされっぱなしである」と政府の配給制度を批判している。こうし
た不満が出るのも、戦時中は配給制度により一応の食糧が確保できたか
らである。
後者に関する不満は官憲や彼らと私的な関係をもつ人々に対して集中
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(6)していた。軍人が軍需物資を獲得することを私利私欲と攻撃Lt買出やI.I)闇市の現場を取締る警察官を非難中傷する傾向が目立った。挙国一致'
国家総動員政策などの宣伝や教育のために'当時の人々には国民全体で
戦うという意識が強かったからであろう。
しかし人々の不満は特高や憲兵を恐れて直接は表にでず'流言やデマ'
落書'投書という歪んだ形で露呈した。そしてその歪みは食糧の窃盗'
物資の不正入手など'人心の悪化や退廃につながった。教師が児童を刺(cr)用して物資を不正入手したなどの報告はその一例である。
︽3︾流言輩話とその信惹性
戦時中人々が特高や憲兵によって言論活動を制限され'極端な情報不
足に陥っていたことはよく知られている。また新聞をはじめ'報道が統
制され制限を受けていたことも事実である。こうした抑圧的な環境が疏
言の源泉となったことは否めない。しかし流言や落書・投書などに示さ
れる現象は'あくまでも氷山の一角的な意味合いが強かった。むしろ後
述するように'人々が戦勝という目的の下に不平不満を抑制していたと
見た方が正しいだろう。
だが人々が流言や落書などに不平をぶちまけ'悲観的だったとは一概
にいえない。情報不足で戦況事実や羅災の実態を知らなかったからこそ'
戦況を楽観していた側面があったのである。大仏は「田舎の人の戦争に
対する態度を聞くと新聞にあることだけしか知らないので楽観してい(9)る」と述べ'「悲観論はやはり都会が中心なのである」と記している。
また「山だから安全だった。時々
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が来たが通過するだけだった。そ のときは少し怖かったが'普段は比較的平和であった」との発言もあり'概して空襲を受けていない地域の人々は戦争に対して楽観的だったと考
えられる。これは緒戦の時'空襲を受けても楽観していた首都圏の人々(川)と同じ心境といえよう。
1方'公式情報が乏しかったからこそ'口込み情報の浸透力が威力を
発揮したこともあった。「新聞には報じられていなかったが'噂などで(‖)戦況が不利だということは聞いていた」との証言もある。知識人など時
勢に敏感な人々を中心に'事態の真相が噴かれる傾向は強かった。戦争
指導関係者に近い人々からの情報が密かに伝播したことも'流言やデマ
に信悪性を与えたであろう。噂話や口込み等'非公式な情報が人々に与
えた影響力は決して無視できないものがあったのである。
︽4︾抗戦意識
緒戦の日本軍が勝利しっつあった頃はもちろん'空襲が本格化する前
の国民は'やるからには勝ちたいと素朴に考えていたようである。空襲
が始まってからも「吾らは帝都を死守するの義務あり」とLt「断じて
降参すべからず」と抗戦意欲を燃やす意見も見られた。「玉音放送」を
聞くまで日本の勝利を信じていた人が多数いたことは'勝ちたいという(12)心情の現れでもあった。
このように人々が空襲を受けても抗戦意識を所持し続けられたのは〜
一つには「どんなに不利な状況のニュースがあろうと'ただ日本軍や警(r=)察を信頼していた」との心情があったからだろう。軍人に対する尊厳と
皇軍の必勝を植え付けられていたため'戦争指導者や軍隊を信頼するこ