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4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカ ニアソ理論の自己論的展開

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人文論叢(三重大学)第13号19%

4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカ

ニアソ理論の自己論的展開

直 樹

要旨 本稿はラカニアソの理論をベースにして、様々な位相の自己を射程におさめた包括 的な自己論の素描を描こうとする試みであり、実質的には次のような作業を行なっている。

まず最初に、ラカニアン理論における主体と自我の概念を概観し、次に、それらを欲動と 欲望の展開過程の中に位置付ける。その上で、クリステヴァの言語理論による補足を行な

う。ついで、ラカニアソ理論では明示的に触れられていない内言についての議論を取り込 み、「考えるわたし」を内言として生成する「わたし」として論定する。また、この内言

として生成する「わたし」の位相において、フィヒテ的な自己意識が生起することを論じ る。我々の言う4つの「わたし」とは、ラカニアン理論における3つの「わたし」一言表 の主体(主語)、言責行為の主体(欲望の主体)、自我一に、この内言として生成する「わ

たし」を加えたものである。ついで、この中の言表の主体を、演劇論的役割理論における 役割概念に重ね合わせる議論を行なう。そこでは、役割論的な観点に想像的な領域を導入

することの必要性も論じられる。そして、最後に、4つの「わたし」を射程におさめた我々 の自己論の輪郭をさらに明確にするために、本当の「わたし」という問題を取り上げ、そ れについての我々の見解を呈示する。

はじめに

人間の「自己」については、これまで様々な議論が展開されてきた。それらの問には「自 己」概念の相違に基づく対立も当然存在する。代表的なものとしては作田啓一が指摘する自 我論対役割理論の対立を挙げることができるだろう(作田,1987,p・1)。自我論とは、疎 外論や精神分析などの様々な人間学が続けてきた「真の自己」(=実体としての自我)を求

める営為であり、役割理論はこれに対して、r▼真の自己」などというものは存在せず、自己 とはそれぞれの社会的状況の関数である役割としてだけ存在するという立場である。前者は 自己を単一のものとする立場、後者は自己を複数のものとする立場である(草津,1978, p.109)。作田が提出しているこのような対立の図′式は、広く研究者の認めるところのもの

であろう(1)。

作田によれば、この対立は、現在、役割理論の方に分がある。そして、その背景には、こ こ・2,30年間において確立されてきた実体論に対する機能論の優位、及びアイデソティティ の拡散という現象があると言う(作田,1987,pp.2〜3)。また、精神分析について言えば、

「真の自己」としての自律的自我autonomous egoなる概念は、精神分析の内部からのきび しい批判にさらされている。とりわけ「フロイトへの回帰」を唱えるラカソ派精神分析は、

自我に内面的な根拠を一切認めず、自我心理学として展開した精神分析の自律的自我概念を 錯覚としてしりぞけている。ラカソ以降の精神分析においても、単一の「真の自己」がある

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という考えは支持を失っているのである。

では、ラカニアソの精神分析における自我概念は、役割理論における自己、すなわう社会

的状況の関数としての役割と重なるものであろうか。ラカニアソの理論においては、自我の 生成の根底に他者のイマージュが想定されている。自我は「他」との関係において生成する

と見なされているのである。この「他」との関係への着目という点においてラカニアソ理論 と役割理論は共通する。しかし、後述するように、ラカニアソの自我と役割理論における

「役割としての自己」は互いに相容れない概念でもないが、重なりもしない。両者は無関係 ではないが(4参照)、そもそも異なる位相にあるのである。つまり、両者は異なる位相の 自己ないしは「わたし」(2)を問題にしているのである。ただし、ラカニアンの理論には「主 体の分裂」という考え方があり、ここを接点にして、役割理論と接続することは可能である。

なお、自己ないしは「わたし」には上記の2つとはさらに異なる位相のものがある0それ は、いわゆる「考えるわたし̲」である。「考えるわたし」については、言うまでもなくデカ

ルトの議論がある。アルキメデスの点のように確固不動な自己を立てるデカルトの議論は、

役割理論及びラカニアソ理論とは相容れない。しかし、「 考えるわたし」というトピックそ のものは自己論において当然論じられるべきものであり、役割理論やラカニアソ理論と相互 に排他的な関係にあるものではない。

本稿の背景にある我々の一番大きな関心は、以上のような様々な位相の自己を射程におさ めた包括的な自己に関する理論的枠組みを構築するということである。そして、本稿はその

ような作業を行なうにあたっての基本的な方向性を呈示しようとするものである。

本稿において我々が基本的な足場にするのはラカニアソの理論である。主体と自我に関す るラカニアンの理論の中に役割理論及び内言論的に把握した「考えるわたし」の概念を織り 込んでいくことによって、包括的な自己論の素描を描くというのが、本稿の直接の課題であ

る。なお、我々が、ラカニアソの理論を基礎にするのは、この理論が他の理論にもまして多 くの「自己」概念を視野に入れている(あるいは入れうる)からであるが、そのことについ ては、次章以下の議論において示すことになるだろう。

以下に本稿の構成を記しておく。まず、1においては、主体と自我に関するラカニアソの 理論を簡潔に呈示し、クリステヴァの言語理論による補足を行なう。2では、ラカニアソの 理論では明示的に触れられていない内言についての議論を取り込み、理論の射程を拡大した 上で、「考えるわたし」の再解釈を行なう。3では、役割理論との接合を試みる。そして、

4では、1、2、3において、素描してきた自己論‑4つの† ゎたし」を視野に入れた自己

論一の輪郭をさらにはっきりさせるために、本当の「わたし」という問題を取り上げ、それ に対する我々の考え方を呈示する。

1.主体と自我に関するラカニアンの理論

ラカニアソの精神分析理論を自己論としてとらえる場合、もっとも基本的な概念となるの は「主体」と「自我」であろう。本章ではこの2つの概念を中心に、ラカニアソの自己(あ

るいはr ゎたし」)についての考えを整理してみたい(3)。

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村上直樹 4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開

(1)ラカニアンにおける主体

「主体」という概念は様々な文脈において、様々な意味合いで使用されている。ただ、乱 暴に言えば、これまでの主体概念は大きく2つに区分できるように思われる。1つは、指示 対象としては生身の個人を指し、その行為のあり様によって規定される主体である。フーコー の権力論で論じられた主体、あるいは、彼の晩年の仕事において取り上げられた美学的=倫 理的な実践によって形成される主体はこの主体である。また、アルチュセールの議論におけ

るイデオロギーに呼びかけられることによって形成される主体もこの主体であると言えよう。

このような意味での主体は具体的な個人として観察することができる。これに対してもう1 っの主体は、行為、思考、言表行為の起源点としての主体であり、直接観察することはでき

ない。フーコーが「外の思考」において論じた「その空虚の中において言語の無際限な溢出 が休みなく遂行される非存在」としての主体、あるいは、ウイトゲソシュタイソが『論考』

で否定した哲学における「思考し表象するところの主体」はこの主体である。

ラカニアソにおける主体は、イデオロギーないしはエトスを内面化した自律的な個人、あ るいは、告解の実践によって自分で自分を監視するようになった臣民としての主体といった 意味合いは一切持たない。ラカニアソの主体は後者の主体である。では、後者の主体として のラカニアソの主体はどのように規定されているのであろうか。

ラカニアソにおける主体の最大の特質は、それがシニフィアソにその存在の典拠を負って いるということであろう。主体とシニフィアソの関係は次のように表現されている。「主体 はシニフィアソにその姿を与えられる」(藤田,1993a,p.156)、「主体の原因とはシニフィ ァソであって、シニフィアソなしにはいかなる主体も存在しない」(Lacan,1964(1966),p・

835=1981,p.357)、「主体は象徴界の領野において、シニフィアンに化することによって のみ主体として出現する」(若森,1988,p.294)、「言語活動が主体の原因である」(Lacan, 1964・・(1966),p.830=1981,p.350)、r.主体は言の結果である」(Lacan,1964(1966),p・

836=1981,p.358)、i‑▼主体は、それが話す主体であるならば、そこにおいて話によっての み自分を支えている」(Lacan,1959(1966),p.709=1981,p.180)、「主体はシニフィアソ に印づけられ、シニフィアソに屈服し、シニフィアンに掬い取られた主体であって、それ以 外には主体はあり得ない」(小川,1987,p.113)。これらの表現において主張されているの は、主体の「他」性である。主体とは通常もっぱら個体の内部に由来すると考えられている が、そうではなく、シニフィアソという「他」によってもたらされるのである。ただし、す

べてr 他」なのではない。ラカニアンでは主体以前の「生の主体」1e sujet brutが想定さ れている。これは、「言語世界に入ってシニフィアソの効果としての主体となる前の神話的

存在」(向井,1988,p.92)である。つまり、主体の原基ともいうべきものはあらかじめ存 在するが、それがいわゆる起源点としての主体となるには、シニフィ7ソという「他」が絶 対不可欠なのである。そして、欲望d6sirの流れとしての「生の主体」が初めてシニフィア

ソに掬い取られる過程、言いかえると、象徴界に参入する過程が象徴的去勢=原抑圧((3)に おいて詳述)である。象徴的去勢によって、「せの主体」は主体となる。それは、主体の分

裂の過程でもある。ラカニアソの主体とは「分裂した主体」、すなわち、言表の主体(主語) と言表行為の主体に† 分裂した主体」である。では、次にこの言表の主体と言素行為の主体 をこついて説明しよう。

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すでに、述べたように、主体はシニフィアソによってその姿を与えられるわけであるが、

これは、主体が自らの思惟をシニフィアンという道具によって表現するということではない。

ラカソの言によれば「シニフィアソは思惟なしで疎外的侵入intruSion ali6nanteによって 主体の中に顕現する」(Lacan,1956a(1966),p.467=1977,p.207)。シニフィアソは〈思

惟の着物〉ではなく、〈思惟の身体〉である(cf.港道,1983,p.37)。つまり、欲望の流れ

としての主体がシニフィアソに化身することによって初めて思惟が可能になるのである。よっ て、主体は自らが語ることを知らない(Lacan,1970=1985,p.53)。主体は自身が知ってい

る以上のことを語るのである(鮎nvenuto&Kennedy,1986,p.118=1994,p.143/Freud, 1926b=1984,p.165)。そして、主体が語るとは、主体が自身をシニフィアソに委譲し(加 藤,1995,p.134)、自らを言表の連なりとして展開していくということである。言表の主体 とは、この言表における主語=〈私〉のことである。主体は言表の主語=〈私〉として社会 的相互行為の舞台に自らを記載し続けるが、同時に本来の欲望の動き(欲望の主体)として は断続的に消失(アファニシス)する。〈私〉が発せられる度ごとに、言表の主体が生成し、

欲望する流れとしての主体は姿を消すのである。言表行為の主体とは、この欲望する流れと しての主体のことである。象徴的去勢以降、主体はこの言表行為の主体と言表の主体に分裂 した主体一通常gと表記される‑となる。

なお、欲望する主体としての言表行為の主体は「β/の存在のうちの生きている部分」

(Gallop,1985=1990,p.211/Lacan,1958b(1966),p.693=1981,p.157)であり、gの存 在の「芯trognon」(加藤,1995,p.141)である。他方、言表の主体は、gの死んだ部分、

あるいはシニフィアソによって殺害された部分である。シニフィアソにその姿を与えられた gは半死半生の存在なのである(藤田,1993a,p.156)。

(2)ラカニアンにおける自■我

ラカニアソの理論においては主体と自我という概念は明確に区別されている。また、ラカ ニアソの自我は社会学や哲学における自我とは異なる概念である。社会学一例えばクーリー やミードの理論一において、自我は社会性を持った存在として規定されている。「自我は孤 立した存在でもなければ、真空の中に生み出されるものでもない。それは人間の誕生ととも にあるのではなく、社会的経験と活動の過程の中で生じてくる」(船津,1986,p・5)もの である。つまり、自我は「他」にその起源を持つのである。ラカニ7ソの自我も主体と同様

「他」性を帯びている。この「他」性という点において、ラカニアソの自我と社会学の自我 は共通性を持つ。しかし、両者は重なり合う概念ではない。例えば、ミードの言う自我の一 側面である客我meは、ラカニアンでは自我というよりむしろ言表の主体に近いものと言え

よう(4)(もちろんこの2つも完全に重なり合うわけではない)。また、哲学において、自我と いう言葉が使用される場合、通常それはほぼラカニアソにおける主体に相当するものと思わ れる。そのことを示す例を1つ掲げておく。「主体と考えられた思惟は思惟するものであり、

思惟するものとして現存する主体を言いあらわす簡単な言葉が自我である。」(Hegel,1839

=1951,p.103)

ラカニアンにおいて、自我はまず個体の自らの身体像として形成される。この身体像が形 成される過程が人口に聴衆した鏡像段階である。そして、この鏡像段階は象徴的去勢=原抑

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村上直樹 4つの「わたし」/本当の「わたし」‥ラカニアソ理論の自己論的展開

圧の前に措定されている。つまり、自我はgとしての主体の形成以前にその起源を持つので ある。ここで先回りをして全体的な図式を示しておけば、まず、鏡像段階において想像的な

自我が形成され、ついで、象徴的去勢によって主体が象徴界に入ると、この想像的な自我が 象徴的に分節され、「私についての物語」ともいうべき象徴的自我が形成されるのである0

鏡像段階以前において、個体はいわゆる「寸断された身体」1ecorpsmorce16の段階にあ る。この段階において、個体は、自らの身体に対してわずかな支配力しか持っておらず、身

体のまとまりの感覚も存在しない。(3)で述べるように、この段階の身体は、バラバラな部分 欲動の寄せ集めであり、それが、「寸断された身体」像として表象されるのである0鏡像段

階とは、ラカソの表現によれば、「寸断された身体像から、そのまとまりから我々が整形外 科的と呼んでいるような一つの形態へ」(Lacan,1949(1966),p・97=1972,p・129)移行し ていくような段階である。それは「鏡像に関心を示す生後6ケ月から18ヶ月までの幼児」と いうよく知られた場面を含むストーリーである。ただ、鏡像は必ずしもガラスでできた本当 の鏡である必要はない。そうでなければ、鏡のない世界には鏡像段階は存在しないことにな

る。実質的には(小)他者autreのイマージュが鏡像の機能を果たす。(小)他者とはこの場 合、個体にとっての最初の他者ともいうべき〈母〉である。鏡像としての(小)他者=〈母〉

のイマージュによって、個体は自らが身体であることを視覚的に知り(Lacan,1975,p・192

=1991b,p.16)、「寸断された身体」にかわるまとまりを持った身体像を得る0この身体像 が最初の自我=想像的自我moiimaginaireである(藤EfI,1993c,p・149)0

最初の自我は以上のように(小)他者との同一化=想像的同一化によって形成されるが、

この想像的同一化は「生後6ヶ月から18ケ月までの期間」にのみ展開するわけではない。鏡 像段階は想像的関係のスタートであり、その構造は一生続くとされる(佐々木,1986,p・

152)。鏡像段階の想像的同一化は象徴的去勢以降も続けられるのである。では、それは誰を 対象にしているのか。ここでは、とりあえず、南淳三の用語を借りてその対象を「隣人」

Nebenmenschと呼ぶことにしたい。「隣人」とは、「原隣人」としての〈母〉の末裔であり、

それは、「自分に似た、自分とは別個の人間としての、そしてその相手と無関係ではいられ ない、他者である」(南,1993,p.75)。この「隣人」との関係においては、彼(または彼女) に愛されるか拒絶されるかが、クルーシヤルな要件となる(南,1993,p・75)。

象徴的去勢によってgが形成された後にも、上記のような「隣人」=(′J\)他者との想像 的同一化は進行する。自我もそれにつれて生成する。(小)他者との想像的同一化を幾重に も重ねた堆積、(小)他者という薄皮が多層化した玉葱のようなものが自我である(Nasio, 1988=1990,p.74)。また、自我は異質な隣人との新たな同一化によって変容する可能性も 持っている(姉歯,1993,p.237)。自我は生成・変容する玉葱である。

さて、上記のように、想像的同一化は、鏡像段階を越えて進行するわけであるが、象徴的 去勢以降は、さらに異なる形の軒一化のプロセスが始まる。象徴的同一化がそれである○同 一化をめく中る議論において、想像的同一化の対象=(′J\)他者は、理想自我moiid6alと呼 ばれるが、象徴的同一化の対象は、自我理想id6aldu moiである。理想自我はB:にとって 好ましいように見えるイマージュ、「こうなりたいと思う」ようなイマージュであるのに対

して、自我理想はそこから見ると自らが好ましく見え、(日常的な意味での)他者の愛を受 けるのに相応しく見えるような場所である(Zi2ek,1989=1992,p.206)。自我理想につい てわかりやすく換言すれば、それは「社会の道徳的判断に一致する理想像」、「主体が他者

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の中に読み取る欲望に一致する理想像」であり(Lemaire,1970=1983,p・264)、それに同 一化することで、「主体は、自我理想の点から自己を見るようになり、その理想に適った自 己の全体像をつくりあげ、これが自我となる」(向井,1988,p.105)。自我理想との同一化 によって、人間は、「社会的な成功の必要性を教えられ、かつ、自分をこれこれとして限定

するであろう社会的承認のなかで自分の仕事の収穫を期待しつつ、社会規範の道を選び」、

「自我は、身分や職業、種々の資格、そして社会的・政治的・文化的な集団への所属を身に 纏う」(Lemaire,1970=1983,p.264)のである。さらにつけ加えれば、理想自我は基本的

に想像的なもの(イマージュ)であるのに対して、自我理想はシニフィアソによって象徴的 に分節されている(藤田,1993b,p.128)。自我理想は理想自我を原器とし、理想自我が最 初のシニフィアソ=象徴的ファルス((3)において詳述)に照合されつつ、シニフィアソの鎧

をかぶることによって構築されていくのである(藤田,1993b,pp.127〜128)。また、象徴 的同一化の開始によって、自我も象徴的に分節されることになる(想像的自我から象徴的自 我へ)。象徴的去勢以降、自我は、想像的自我と象徴的自我という二重の存在様式の間を揺

れ動きながら、生きのびていくことになる(藤軋1993c,p.151)。

(3)欲動と欲望の展開過程

この節では、これまで説明してきたラカニアンにおける主体と自我、及びそれらの形成の 契機となる鏡像段階と象徴的去勢を、欲動と欲望の展開過程の中に位置づけ、より包括的な 枠組みを呈示したい。ただし、欲動と欲望という概念はきわめてわかりにくいものであり、

我々の知る限り、この2つ.の概念について(両者の関係も含めて)整合的かつ明解に説明し た記述は存在しない。ここで、呈示する見解も、通説といったようなものでは決してなく、

我々によって暫定的に構成されたいまだ不十分なものである。

では、本題に入ろう。まず、欲動であるが、これは、生体の内部からの刺激にその源泉を 持つ。より正確に言うと、「身体内部から出現し、心的なものに到達する刺激の心理的代表」

(Freud,1915=1970,p.63)に欲動の源泉があるのである。欲動とはこの内的刺激あるいは 興奮状態を解消しようとする衝迫の力である。そして、この内的刺激として、もっともわか

りやすい例が、「飢え」や「渇き」であろう。ところで、人間はその出生時の未成熟性(例 えば、錐体外路系の未発達)に起因する「寄る辺なさ」Hilflosigkeitにより、生まれた時は 絶対的に無力な状態にある(Freud,1926a=1969,pp・264〜265)。つまり、乳児は自ら内的 刺激を解消することはできないのである。このような乳児の無力さを補完するのが順隣人」

としてのく母〉であり、この〈母〉が、乳児の内的刺激を解消してやり、最初の満足体験を 与える(南,1991,p.178)。この最初の段階において、〈母〉は、乳児にとって心的距離0 の存在であり、強い自己性を帯びている(小出,1991,pp・177〜178)。

さて、以上のように、く母〉によって、乳児の内的刺激=不快は解消され、その結果、乳 児の生体は保存されるわけであるが、反復されるく母〉の乳児への関わり(例えば、授乳や 排便の世話)は、新たな欲動を生み出す。〈母〉によって充足される最初の欲動=自己保存 欲動から、新たな欲動が派生してくるのである(Freud,1915=1970,p・66)。部分欲動とし

ての性欲動がそれである。性欲動は、〈母〉が乳児の内的刺激を解消する際に生じる快にそ の起源を持つ。この快は、自己保存欲動の充足に伴ういわば、おまけの快である(佐々木,

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村上直樹 4つの「わたし」/本当の「わたし」‥ラカニアソ理論の自己論的展開

1987,p.45)。そして、このおまけの快を再び得ようとする傾向が性欲動である(石田, 1992,p.108)。言いかえると、この快へと向かう性向が生み出す内的刺激あるいは興奮を解

消しようとする衝迫の力が性欲動である0そして、この性欲動はいくつかの解剖学的器官と 結びついている。その器官とは、〈母〉が乳児の自己保存欲動を充足するにあたって実際に

世話をする器官である。乳房を与えられる口、排便の世話における肛門が、そうした器官の 代表であろう。〈母〉は、これらの器官において快を生み出す0つまり、これらを快の器官

としてマークするのである(向井,1994,p.206)。快の器官としてマークされた器官は性欲 動の場となる。さらに言うと、この器官ごとに性欲動が存在する。すなわち、性欲動とは、

複数の部分欲動の総体なのである0そして、この個々の部分欲動は、それぞれ独立に快の充 足を(自らの器官において)追求している。「身体のさまざまの個所や区域かち出てくる多 数の部分欲動があり、これらは大体独力で充足をえようと努め、この充足を器官快楽と呼ぶ

ことのできるものの中に見出す」(Freud,1933=1977,p.319)のである。ここで、(2)にお ける議論とつなげて言えば、性欲動の形成過程は、「寸断された身体」の形成過程でもある0 性欲動の形成過程とは、乳児の身体が、様々な部分欲動と結びついた解剖学的器官の寄せ集 めになっていく過程でもあるのだ。互いに独立しで決を追求する器官が単に隣接しているだ けの身体のもとでは、まとまりをもった身体意識は存在しない。乳児はただ「寸断された身 体」としてあるだけである。

ところで、ラカニアソの理論において、欲動は主体及び対象以前の無頭ac6phaleなものと される(鈴木,1993,p.67)。欲動が主体以前のものであることについては、これまでの説 明で明らかであろう。欲動は、象徴的去勢及び鏡像段階以前において発動する。では、対象 についてはどうだろうか。フロイト/ラカソの欲動論においては、実際、性欲動の対象が措 定されている。それは、個々の性欲動の場=快の器官に結びついた対象(例えば、口唇に結 びついた乳房)であり、それらを通して、個々の性欲動は満足を得るとされる。ここに一見 矛盾があるように見える。しかし、性欲動の対象とされるものは、いまだ本当の意味での対 象ではないのである。性欲動の対象は、一人の人間(例えば〈母〉)の全体ではなく、その 身体の部分である。すなわち、性欲動の対象は、部分対象である。そして、この部分対象は 乳児といまだ不可分のもの、つまり自己性を帯びている。生まれたばかりの頃には心的距離

0の存在として自己そのものであった乳房の感触や母の腕や手の感触、そしてラカソが部分 対象として追加した眼差し(光)や声(音)は(小出,1991,pp・177〜178)、性欲動の部分 対象になった時点においても、自己性を持っているのである。つまり、性欲動はこのような 前対象abjetとしての部分対象によって自体愛的に満足されているのである○

次に、欲望であるが、まず欲動との関係を整理しておこう。欲望は、欲動によって生み出 される(藤田,1993c,p.250)。言い換えると、欲動は、きわめて柔軟かつ変形自在であり

(Freud,1933=1977,pp.318〜319)、欲望に姿を変えて、発動することが可能なのである0 ただ、あくまでもこの2つは別のものである。後に述べるように、欲動と欲望は概念上区別

される。ところが、ラカニアソの議論においては、欲動という言葉が欲望という言葉によっ て置き換えられてしまうことがある。(こういうことが、ラカニアソの理論をわかりにくく

している1つの要因である。)例えば、ラカソ自身、一寸断された身体」に関して次のように

言っている。「主体は、もともとは欲望のバラバラの寄せ集めcollectionincoh6rente de

d6sirsです。これこそ「寸醸された身体」という表現の本当の意味です。」(Lacan,1981,p・

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50=1987a,p.63)ここで言う欲望とは、部分欲動としての性欲動のことである。性欲動が 欲望に置き換えられているのは、多分、自己保存欲動との対比においてであろう。本能的な 欲求besoinと本能によらない錯乱した欲望d6sirという一般的な図式の中では、生体の保存 に結びついた自己保存欲動は欲求であり(cf.Chemama,1993=1995,p.213)、生体の保存 とは直接関係がない性欲動は欲望ということになる。しかし、鏡像段階以後の欲望と以前の 性欲動は明らかに異なるものであり、両者を共に欲望という言葉で括ってしまうのは適切で はないだろう。

では、欲望はどういう点において、欲動とりわけ性欲動と異なるのだろうか。まず、指摘 できるのは、その対象の違いであろう。性欲動の対象はすでに触れたように、部分対象であ

り、いまだ自己性を帯びている。前対象の段階にある性欲動は自体愛的に満足されているの である。この性欲動は、鏡像段階においては、〈母〉を対象とする欲望に姿を変える。そし て、この〈母〉、個体にまとまりを持った身体像=想像的自我をもたらす〈母〉は、明らか

に部分対象ではない。それは個体と分極したいわゆる対象である。部分対象が個体と徐々に 分極して、〈母〉という全体的な対象が措定されるのである。なお、この分極の原因は、部 分対象の現前/不在の反復であろう。

様々な部分対象を追求する様々な部分欲動に炸裂していた性欲動は、〈母〉という対象の 措定と共に、「く母〉(へ)の欲望」1e d6sirdelam占reに姿を変え、その流れが、「生の主 体」となる。〈母〉という対象の成立によって、前主体が生成するのである○そして、この

「生の主体」は〈母〉のイマージュによって、自らの身体像を獲得している。つまり、鏡像 段階における欲望は、性欲動とは違って、無頭ではないのである。

欲望と性欲動の差異はとりあえず以上のように整理される。それでは、次に、鏡像段階に おいて対象愛として生起した欲望ないし「生の主体」が、その後どのような運命をたどるの かを見ていこう。鏡像段階における「生の主体」は、「〈母〉(へ)の欲望」の貯蔵庫である0 そして、この欲望は、〈母〉の「想像的ファルス」でありたいという「存在形の欲望」とし て発動する。想像的ファルスとは、乳児が空想する〈母〉の欲望の対象である0つまり、

〈母〉の欲望は想像的ファルスの欠如によるものと考えられ、乳児はその欠如する想像的ファ ルスたろうとするわけである(藤田,1993c,p.250)。「生の主体」はこの「存在形の欲望」

のもとに、〈母〉への「全体的な想像的投射」を行なって、想像的同一化を行な■っているの である(藤田,1993c,p.240)。ただ、この〈母〉=(小)他者と「生の主体」との関係=

想像的関係は安定的なものではない。なぜなら、「生の主体」と鏡像としての〈母〉との間

にどちらが本物でどちらが複製かという対抗関係(主と奴の弁証法)が生まれるとともに (Gallop,1985,=1990,p.72)、想像的関係においては、満たされない欲望に起因する緊張 は相手の中に体験されるからである。この緊張は、鏡像の破壊以外に出口はない(Lacan, 1975,p.193=1991b,p.17)。しかし、鏡像を破壊すれば、「寸断された身体」の段階に逆戻

りしてしまう。よって、このデュエルdue11e(双数的=決闘的)な関係は持続することにな る。このように、「生の主体」と〈母〉との想像的関係は、愛と攻撃性をともにはらんでい

るのである。そして、この愛と攻撃性の振り子運動は、次のようにも説明される。「生の主 体」が〈母〉=(小)他者に同一化すると、逆に、その分だけ〈母〉への愛により自己が失

われる危険が生じる。そのため、「生の主体」としての私は、自己を取り戻すため、く母〉を 消し去ろうと攻撃的になる。ところが、く母〉を否定してしまうと、自己もなくなってしま

ー28‑

(9)

村上直樹 4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開

い、時に身体の寸断の不安さえ生じる(加藤,1990,p.288)。結果的に、自己承認と他者廃 棄の支配する情念的閉鎖回路=想像界は回り続けることになるわけである(藤田,1990,p.

43)。

不安定かつリスキーな想像的関係からの出口を乳児にもたらす契機が象徴的去勢=原抑圧 である。象徴的去勢とは、「生の主体」が〈母〉の想像的ファルスであることをあきらめる

ことである(小出,1993a,p.160)。この象徴的去勢によって、「生の主体」の「く母〉(へ)

の欲望」は断ち切られ、その対象をシニフィアソにすり替えられてし享う。「生の主体」は

欲望の言い換えとしてのシニフィアンの連鎖の中に巻き込まれてしまうわけである(藤田, 1990,p.116)。象徴的去勢は、「生の主体」がく母〉の欲望を司っているものの存在を認め

ることによって始まる。あるいは、〈母〉を動かしているものを名付けることによって始ま る(この命名が「父の名の隠喩」である)。これは言い換えると主体にとっての最初のシニ フィアソ=「象徴的ファルス」が成立した、あるいは、主体が象徴的ファルスを所有したと いうことである。象徴的ファルスは〈母〉の欲望を司る「父の名」Nom‑du‑P占reのシニフィ アソである(藤田,1993b,p.38)。つまり、主体は、く母〉の想像的ファルスでありたいと いう存在形のフェーズから、〈母〉の欲望を司る象徴的ファルスを(〈父〉のように)所有す るというフェーズに移行するのである。「父の名」としての象徴的ファルスは「父のノソ」

Non‑du,P昌reでもあり、この「ノン」=禁止によって、想像的な母子間の欲望の交流は去 勢される(藤田,1993b,p.38)。

ところで、「生の主体」に刻まれた最初のシニフィアンとしての象徴的ファルスは、2番 目以降のシニファソに連鎖し、意味を生成させると同時に自身は抑圧され(狭義の原抑圧)、

無意識という心的領域が形成される。また、この時、「生の主体」は、上記の連鎖によって 生じた意味にすり替えられる(アブァニシス=欲望する主体の消失)。しかし、意味にすり 替えられ、前主体=「生の主体」の段階を脱した後にも、主体は本来の欲望する主体として とどまる。つまり、主体はシニフィアソの連鎖にとらわれた主体=言表の主体(主語)と欲 望の対象(5)をめざす主体=言表行為の主体に分裂するのである(分裂した主体gの形成)。

なお、分裂した主体と欲動の関係についても触れておけば、分裂した主体の欲望も欲動が 姿を変えたものである。象徴的去勢によって、想像的な母子関係は断ち切られ、欲動は

「〈母〉(へ)の欲望」として発動することが、とりあえず禁止される。しかし、象徴的去勢 によって、欲望が消滅するわけではない。主体は、シニフィアンの世界=象徴界に参入する 際にどうしようもない形で失われてしまう 〈母〉の「 代わりの対象」(Lacan,1981,p.98=

1987a,p.140)を次々と手繰り続ける。「代わりの対象」とは失われた対象のルアー(騙し 餌)としてのシニフィアソである。つまり、象徴的去勢以後、欲動はシニフィアソを手繰る

欲望に姿を変えるのである。言い換えると、象徴界の分裂した主体は、言表行為の主体とし て「言葉を話すことによって、欲動を欲望の運動として永続させている」(藤田,1993a,p.

155)のである。

また、すでに(2)で述べたように、象徴的去勢以後、鏡像段階において形成された想像的自 我は、シニフィアンによって分節され、象徴的自我moisymboliqueが生起する。シニフィ

アソに姿を与えられた主体は、自我理想に同一化し、象徴的に分節された「私についての物 語」を持つようになるのである。

‑29‑

(10)

阜)クリステヴァ理論による補足

ここで、これまで整理してきた主体と自我についてのラカニアソの理論的枠組みを、クリ ステヴァの言語理論によって補足し、その射程を拡大しておきたい。

クリステヴァがラカソの影響下にあったことは周知の事実である。クリステヴァが自身の 言語理論ないしは意味生成性の記号学を構築するに当たって、ラカソの理論が果たした役割 は大変大きなものであろう。しかし、彼女の理論はラカソの理論の単なる焼直しではない。

日本では、クリステヴァの言語理論について、「ラカソ理論を単純化した凡庸な二元論」と いう評価が下されたことがあったが、正当な評価とは言い難い。枝川昌雄も指摘するように、

クリステヴァの理論は、ラカソをふまえた上で、ラカソが忌避した対象にその焦点をおいて いるのであり(枝川,1994,p.302)、ラカソ理論に包摂されてしまうようなものでは決して ない。クリステヴァの理論はラカソ理論の空隙を埋めるものなのである。では、ラカソが忌 避した対象とは何であろうか。枝川はそれを「鏡像段階以前の、前エディプス期の一次的ナ

ルシシズムの原初的領域」(枝川,1994,p.302)としているが、我々の目につくのは、象徴 的去勢以前(鏡像段階も含む)の原初的言語行動ないしは発声行動である。ラカソならびに ラカニアソはこの対象を主題的には論じなかった(はずである)。それに対して、クリステ ヴァはセミオティツクという概念によって、この対象を理論化しようとしたのである。象徴

的去勢以前の原初的言語行動は、我々の後の議論においても避けて通ることのできない対象 である。以下、クリステヴァの理論を必要な範囲で整理し、(1)、(2)、(3)で呈示した枠組みに

接続する。

ラカニアソの理論において、主体は、象徴的去勢によって、シニフィアソの世界たる象徴 界に参入し、自らを言表の連なりとして展開していく。つまり、象徴的去勢以降、個体の言

表行為が生起するわけである。しかし、発達心理学や言語心理学(ないしは心理言語学)の 観察データによると、象徴的去勢以前にも乳児は言語行動を行なっている。初めて有意味語 があらわれるのが、生後10〜18ヶ月であり、乳児はいわゆる完全肢文=一語文を作成するよ

うになる。この完全肢文の時期は数カ月間持続する。これは「一種の停滞」あるいは「言語 活動の解化期」であり(Merleau=Ponty,1988=1993,p・14)、その後、言語の「爆発的な 獲得期」が始まり、様相が一変する(岡本,1982,pp.2〜3)。乳児は生後18〜20ヶ月にお

いて、二語文を作成するようになり、音韻体系と統辞構造の獲得が始まるが(野田,1981, p.131)、この時期が、上記の「爆発的な獲得期」の開始に当たる。そして、我々の考えに

ょると、主体が分裂した主体gとして象徴界に参入していく事態とは、まさにこの「爆発的 な獲得期」に入っていくことなのである。また、クリステヴ7も指摘するように、完全肢文

の時期は、象徴的去勢以前の鏡像段階の時期に相当する(Kristeva,1974,p・44=1991, p.40)。

さて、言語の「爆発的な獲得期」への入り口としての象徴的去勢の前にも、完全肢文とい う言語行動の時期が存在するわけであるが、さらにそれ以前にも原初的な言語行動が観察さ れる。クリステヴァの言うセミオティツク1e s6miotiqueがそれである。セミオティツクと は、端的に言えば、意味作用の領分から弁別される諸々の欲動とその分節(1espulsionset

leurs

articulations)のことである(Kristeva,1974,p.41=1991,p・36)。少しく詳述しよ う。鏡像段階以前の乳児の発声は、欲動によって支配されている。乳児を内側から突き動か

‑30‑

(11)

村上直樹 4つの「わたし」/本当の「わたし」‥ラカニアン理論の自己論的展開

す諸々の欲動が、身体を動かし、声として放出されているのである。「発声の前音韻的な時 期ではどのような発声の開始も不快によって引き起こされるか、あるいは不快を伴っている」

(Kristeva,1977=1986,p.307)。強すぎる興奮はその軽減がはかられねばならず、それはま ず声の発信として現われるのである(原田,1993,p.187)。また、この最初の発声は、排泄

=棄却に依存するという特徴も持っている。「胃や括約筋の筋肉の収縮は、ときとして同時 に、空気、食物、排泄物を吐き出す。声は、空気、食物、排泄物などのこの吐き出しrejet から送り出る」(Kristeva,1977=1986,p.306)のである。つまり、「最初の発声は、声にな るためにその起源を声門にもつというだけではない。それは、筋肉や迷走交感神経の収縮と いう複合的現象の聴取可能な標識なのであり、この現象が、身体全体を巻き込む吐き出しな のである」(Kristeva,1977=1986,p.306)。このような発声には、いかなる表現的意味もな い。しかし、この時期において、すでに乳児の発声の分節化あるいは構造化は始まっている0 不快の放出である声が、反復の作用によって、ある規則性、つまり構造なり形態なりに分節 化されるようになるのである(Kristeva,1977=1986,p.308/原田,1993,p・188)。この規 則性(非表現的な規則性)は、リズムやイソトネーショソを認知させる。つまり、「統辞的 制約が(時間的にも論理的にも)出現する以前に、未来の話者の有声音の流れはいくつかの

リズム、イソトネーショソのパターソによってすでに組織化されている」(Kristeva,1977

=1986,p.302)のである。このリズムとイソトネーショソは「外示的意味を構成する述語 的な総合からは相対的に自律した現象」(Kristeva,1977=1986,p・302)である。そして、

さらに言えば、有声音の流れの最初の構造はリズム的構造である。この「欲動が流れては止 まる、「疎通」と「鬱積」からなる二拍子リズム」(立川,1990,p・146)の構造は、口腔の 訓練に先立つ声門の訓練によって、声門括約筋に刻印される(Kristeva,1977=1986,p・322)。

また、このような構造や形態からなる規則性に乳児が捕捉されていく過程は、同時に、全身 運動としての発声が言語の声に移行していく過程でもある。この移行は、消化官や呼吸官に

ょる関与が排除あるいは抑圧され、声帯の振動だけが分離される身体的差異化の過程として 達成される(Kristeva,1977=1986,pp.306〜307)。セミオティツクとは上記のような規則

性にそった発声行動それ自体、ないしは、欲動の放出としての発声が、身体的差異化を伴い っっ、リズムやイソトネーショソという形態で、規則的に組織化・分節化されていく過程の ことである。よって、セミオティツクを抑制されざる状態とみなしたり(山口昌男)、秩序 を揺るがすカオス(錯乱せるセミオティツク!)としての側面ばかりを強調するのは(洩田 彰)、適切とは言えないだろう(6)。

クリステヴァは周知のように、以上に説明してきたセミオティツクに対して、サンボリッ クという概念を対置させている。サソポリックとはいわゆる規範的な言語のことであり、音 素を構成する弁別的素性の最大の対立によって形成される音韻体系を持ち、指向対象(外的 現実)を外示し、統辞面では、意味の伝達・交換を可能にする主辞=述辞の二肢構造を備え ている。クリステヴァの言う意味生成性signifianceとは、一面では、セミオティツクを抑圧

して、このサソポリックへと接続していく運動性のことである(西川,1987,pp.100〜104)。

では、セミオティツクからサソポリックヘの移行はどのようになされるのであろうか。それ は、鏡像段階を通して準備され、(象徴的)去勢=原抑圧によって完成されると考えられて

いる(Kristeva,1974,p.43=1991,p.39/三浦,1981,p.一168)。(3)で述べたように、鏡像段 階においては、原隣人としての〈母〉は、すでに個体と分極し、対象として存在している。

‑31‑

(12)

この想像的同一化の対象としての〈母〉=鏡像は、「対象の世界」の原型となる(Kristeva, 1974,p.44=1991,p.40)。想像的自我の措定は、切り離されまた意味し得る(signifiable) 対象の措定をも招来するのである(Kristeva,1974,p.44=1991,p.40)。そして、前述した 鏡像段階における完全肢文1'holophrastiqueは、この眼前の対象(同時性知覚物)を指示し たり、個体の自己表出の機能を担っている。しかし、もっぱら名詞だけで作られる完全肢文 は、まだ言語学的文(NP+VP)ではない。また、そこではいかなる概念化も存在しない

(枝川,1977,p.39)。完全肢文を構成するいわゆる初語の出現は、「〈記号一意味されるも の〉の関係の意識化を含意するとまでは言えない」(Merleau=Ponty,1988=1993,p.19) のである。よって、完全肢文はまだサソポリックとは言えない。セミオティツクとサソポリッ

クの中間にある完全肢文は、「セミオティツクからサソポリックへの移行過程において統辞 論的に措定された最下層のレベルを構成する」(枝川,1977,p.40)ものとして位置づけら れる。

なお、一言つけ加えれば、完全肢文の出現によって、セミオティツクは消滅するわけでは ない。鏡像段階においても、セミオティツクは持続する。それは、「初語の出現は、バブリ ソグ(晴語)を終わらせるものではない。バブリソグは、長期間幼児のバロールに同行する」

(Merleau=Ponty,1988=1993,p.19)という発達心理学の知見によっても確認される。

サンボリックの成立を決定的に画するのは、(象徴的)去勢=原抑圧である。クリステヴァ は、この去勢によるサソポリックの成立を説明するにあたって、フロイトが「快感原則の彼 岸」(1920)で取り上げたあの糸巻き遊び1e jeu fort‑daの例を持ち出す(Kristeva,1974,p.

44=1991,p.40)。糸巻き遊びとはよく知られているように、フロイトが直接観察した男児 が、自分で見つけた遊戯である。この男児は、生後18ケ月であり、「ようやく、ごくわずか の明瞭なことばをしゃべり、そのほかは身近の老だけに理解される、いくつかの意味のある 音声をあやつっていた」(Freud,1920=1970,p.12)。ここから、この男児が鏡像段階=完 全肢文の段階にあったことが察せられる。さて、この「心から母親になついていた」男児は、

ひもを巻きつけた木製の糸巻きを自分のベッドの中にへりごしに投げ込み、その糸巻きが見 えなくなると、今度はひもを引っばってそれを取り出すという遊戯を飽きることなく繰り返 していた。この糸巻き遊びは、「不在と再現をあらわす遊戯」であり、糸巻きが見えなくな ると、この男児は、オーオーオーオ(fort「いない」の意味)と声を出し、糸巻きが出てく ると、da「あった」の言葉で迎えた。そして、その内、この男児は、糸巻きを投げ込む

「不在」の行為だけを繰り返すようになった(Freud,1920=1970,pp.13〜14)。フロイト はこの遊戯を、「母親が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動放棄を子どもがなし

とげたこと」の証左とみなす(Freud,1920=1970,p.14)。この男児は、母親の不在と再出 現を糸巻きのそれに置き換えている。つまり、彼は、自分の手もとにあるもので、母親との 別れと再会を上浜し、それで、いわば欲動放棄(我々の枠組みで言えば、【】く母〉(へ)の欲 望」の断ち切り=去勢)をつく阜なったのである(Freud,1920=1970,p.14)。さらに言うと、

この遊戯においては、く母〉の不在と現前が、fort‑daという音の対に置き換えられている。

つまり、「この音素の対立遊びの中で、この子供は現前と不在という現象を象徴的平面にま で引き上げ、それによって彼は言語の中に生まれたのである」(Benvenuto&Kennedy, 1986,p.89=1994,pp.106〜107)。ラカソの解釈に従えば、「主体は、その(=〈母〉の) 喪失を引き受けることによってそれを克服するのみならず、そこで、(〈母〉(へ)の)欲望

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(13)

村上直樹 4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開

を第二の力(象徴的レベル)へ引き上げる」(Lacan,1953(1966),p.319=1972,p・435)。

っまり、この遊戯は、鏡像段階の主体が「〈母〉(へ)の欲望」を去勢され、象徴界ないしは シニフィアソの連鎖に入っていく現場なのである(Lacan,1957a(1966),p・46=1972,p・

55/Lacan,1958a(1966),p.575=1977,p.343)。そして、この遊戯はサソポリックが成立

する現場でもある。上記のような象徴楔能の獲得は、〈母〉の断念、すなわち、主体と双数 的関係にあった〈母〉を主体から完全に分離したものとして措定することであり、また、ま さにこの分離の瞬間に、欲望の対象を不在として、すなわち記号として固定することである

(Kristeva,1977=1986,p.41/三浦,1981,p.169)。ここで、「〈記号一意味されるもの〉

の関係の意識化」が達成され、同時性知覚物の指示だけの段階が終わる。サソポリックに移 行した個体は、自分の状況に形容語を与えるより以上のことができるようにな‑る。すなわち、

個体古ま、空間的に及び/または時間的に離れている事物と出来事について話す可能性を獲得 し、さらに、架空の、非現実的な事物と出来事についても話す可能性を獲得するのである

(Jakobson,1975=1975,p.135)。ここに、「世界の構成に対する言語の革命的寄与」

(Holenstein,1976=1987,p.72)がある。

なお、糸巻き遊びにおける「本源的象徴化」1a symbolisation primordiale(Lacan, 1958a(1966)p.575=1977,p.343)の過程は、死の欲動によって導かれている。語らぬ暑

から語る主体へ、そして、欲動から記号へという跳躍を可能にするのは、棄却(=否定性) のメカニズムであるが(西川,1987,p.167)、この棄却とは死の欲動以外の何ものでもない

(Kristeva,1974,p.180=1991,p・228)。死?欲動の強迫的な反復によって、欲動(あるい は「〈母〉(へ)の欲望」)の流れが静的な表象へと備給され、セミオティツクはサソポリッ クへと接続していくのである(西川,1987,p.167)。そして、糸巻き遊びにおける死の欲動 とは、〈母〉の不在と現前を、fort‑daという音の対に置き換えることにおいて顕現している。

糸巻き遊びでは、〈母〉という生きた対象が、音の対=記号という命のないものに置き換え られる。生きた対象を死んだ記号で置き換えるという意味で、この糸巻き遊びは、死へと向 かう傾向、つまり死の欲動の現れである(小出,1993c,p.191)。生きた対象を死んだ記号 によって同一化するこの死の欲動によって、〈母〉及び「〈母〉(へ)の欲望」は棄却され

(ソマの殺害)、「本源的象徴化」が達成されるのである。そして、その結果、前述の言語 の「爆発的な獲得期」が始まり、個体は二語文ひいては主辞=述辞の二肢構造を備えた言語 学的文のフェーズに入っていく。

ところで、以上における「 死の欲動」という言葉の使用はいささか奇異な感じを与えるか もしれない。なぜなら、フロイトが規定した通常の意味では、使用されていないからである。

ここでは死の欲動という言葉がラカニアン的に使用されている。ラカニアソにおいて、死の

欲動は写つの分節から構成されると考えられている(加藤,1995,p・248)。1つは、シニフィ

アソあるいは象徴的秩序による〈もの〉の殺害の機能であり、これは、フロイトの言う原初 的マゾヒズムに対応する(加藤,1995,pp.247〜248)。もう1つは、「原初的な無機物的状 態に復帰しよう」とする欲動(Freud,1930=1970,p.89)、いわゆるフロイトの言う死の欲 動である。クリステヴァの枠組みにおいて「本源的象徴化」を可能にするとされるのは、前 者の死の欲動である。

さて、「本源的象徴化」によって、ラカニアソの言う分裂した主体が形成されるわけであ るが、クリステヴァは、それを一老的主体1e sujet unaireと呼ぶ。一者的主体とは、「父の

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(14)

名」として示される「一老」(7)の法に従う主体であり(Kristeva,1977=1986,p.28)、この 主体のもとにおいてのみ理念的対象性を備えた言説つまり意味行為が可能になる(原田,

1993,p.183)。言い換えると、一者的主体=分裂した主体はサソポリックとして自らを展開 していくのである。しかし、この一者的主体は、いまだ動態的な意味生成性の過程にある主 体1e sujet en proc6sでもある。なぜなら、サソポリックが成立した後にも、セミオティツ

クが発動しうるからである。つまり、去勢の過程においてサソポリックへ止揚された(ある いは構造化された)セミオティツクが、一者的主体のサソポリックの中に侵入しうるのであ る。この運動性が意味生成性のもう1つの側面である(西川,1987,p.104)。そして、この セミオティツクの「サソポリックのシステムの中への帰還は、リズム、イソトネーショソ、

語彙的・統辞的・修辞的な変形transformationsといった様相のもとでなされる」(Kristeva, 1975,p.17)。このようなセミオティツクの侵入によって、一老的主体は、いわば告発され

ている。過程にある主体は、訴訟proc6sの場にある係争中の主体1e sujet en proc6sでもあ るのだ(西川,1987,pp.100〜101)。

ところで、いわゆる詩的言語において観察されるこのセミオティツクの侵入は、意味にとっ て異質なもの、例えば、音楽性として顕現し、言説に特異な相貌を与える(原田,1993,p・

184)。もちろん、この侵入は相対的なものであり、音楽性も意味作用を失うことなく、その 中で自らを展開する(Kristeva,1974,p.62=1991,p.60)。しかし、いわゆるく芸術的〉実 践において、セミオティツクがサソポリックの破壊者であることは明らかであり(Kristeva,

1974,p.47=1991,p.44)、詩的言語においては、統辞構造及び意味作用が、音楽性や様々 な語嚢的・統辞的・修辞的操作によって浸食されている。3では、このような詩的言語の実 践が、言表の主体に対してどのような意義を持つのかが論じられるであろう。

それでは、以上に整理してきたクリステヴァの言語理論を、ラカニアソの枠組みの中に位 置付けよう。まず、セミオティツクは、鏡像段階以前(「〈母〉(へ)の欲望」以前)の欲動 の表出形態の1つである。セミオティツクという概念は内的刺激=不快が、原初的な声の放 出という形でも軽減されることを示している。「原隣人」としてのく母〉によって充足され たり、部分対象によって自体愛的に充足されたりする欲動が、個体の「全身運動として発声」

によっても充足され得ることをクリステヴァの理論は明らかにしたのである。

次いで、鏡像段階における完全肢文であるが、これは、いわば「生の主体」の̀「く母〉(へ) の欲望」のもとで発せられる言葉である。この完全肢文は、眼前の対象を指示したり、個体

の自己表出の機能を持つ。しかし、乳児によって発せられる完全肢文は、「切断し去勢する 詰まった言葉parole pleine」(南,1994,p.276)ではない。すなわち、この言葉はまだ象徴 的な水準にはなく、いわば、〈母〉との一体化の欲望を満たすべく想像的imaginaireに使用 されるのである。上述したように、鏡像段階の「 生の主体」は、く母〉に欠如している想像 的ファルスとして自らを存在させ、く母〉の欲望の対象となることによって、〈母〉と一体化

しようとする(=「 存在形の欲望」)。完全肢文(及び鏡像段階においても存続するセミオティツ ク)は、.この想像的ファルスである。「生の主体」は完全肢文(あるいはセミオティツク) に自らを委譲し、自らを想像的ファルスとしてく母〉の前に身を投げ出すのである。南淳三 の言葉を借用すれば、鏡像段階における原初的な言葉は、く母〉の愛を得るための性器官で ある(南,1994,p.276)。(なお、南自身は完全肢文やセミオティツクについて性器官と言っ ているわけではなく、日本語という言語についてこの言葉を用いている。南のもとの議論に

一34‑

(15)

村上直樹 4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開

っいては、3で論及する。)佐々木孝次は、母親と子供の話について、それは「何を、言っ ても、意味が問題にならない言葉」、すなわち「矯声」であると指摘しているが(佐々木・

伊丹,1980,p.24)、この「病声」とは、性器官としての完全肢文やセミオティツクである とみなすこともできるだろう。

個体におけるサソポリックの成立が象徴的去勢に重なることば、すでに見てきた通りであ る。欲望の言い換えとしてのシニフィアソの連鎖を、クリステヴァは、サソポリックという 概念で押さえているわけである。ただし、「生の主体」に象徴的ファルスが刻まれ分裂した 主体が形成されるという理論展開に、前述の糸巻き遊びに見られるような死の欲動がどのよ

うに関わるのかは現在の我々にとって不明である。ここでは2つの議論を並置するにとどめ、

両者の関係については、あらためて別の機会に論じたい。

クリステヴァの理論で、我々の後の議論に直接関わってくるのは、サソポリックの中へセ ミオティツクが侵入しうるという詩的言語論である。これは、ラカニアソの枠組みで言えば、

シニフィアソの連鎖に姿を与えられた主体が、象徴的去勢以前の段階に遡行するという議論 である。そして、この遡行は、〈芸術的〉実践以外においても、例えば、「原隣人」=〈母〉

の末裔である「隣人」=(小)他者との想像的関係においても見られる。「恋愛において主 体が幼児へと退行する」(西川,1987,p.307)ということは、〈恋人〉=「隣人」を前にし

た主体のサンボリックな言表にセミオティツクが侵入して、詩的言語が生成するということ である。この時、主体は象徴的去勢以前へと遡行し、言表の主体としては揺らいでいる。ク

リステヴァは、詩的言語とはつまるところ近親相姦の問題に他ならないと述べている (Kristeva,1980=1984,p.91)。これは、詩的言語において、「(かつての)母との融合状態 を、シソボル秩序をとおして回復しようとする営みがなされている」(原田,1993,p.205) ことの指摘であるが、この詩的言語における「営み」は「隣人」との関係でなされる。そし て、この「隣人」との関係における詩的言語は、鏡像段階における完全肢文やセミオティツ

クと同じように、性器官として機能していると言えよう。クリステヴァの詩的言語論は、象 徴界の主体が想像的関係へと遡行し、言表の主体としてのあり方を希薄化することがあると いうことを、言語の問題を通して示したものだと我々は考える。

さて、以上で、我々の枠組みの中核を呈示したわけだが、この枠組みには、3つの「わた し」が設定されている。言表の主体(主語)、欲望の主体=言表行為の主体、自我の3つが それである。次章では、この3つとは異なるもう1つの「わたし」=「考えるわたし」を我々 の枠組みの中へ取り込むための基本的な作業を行いたい。

2.内言として生成する「わたし」

象徴的去勢=原抑圧によって、欲望の運動としての「せの主体」はシニフィアンの連鎖に 巻き込まれ分裂した主体(あるいはクリステヴァが言う・一者的主体)が生成する。分裂した 主体は断続的に自らをシニフィアンに委譲する。言い換えると、主体は欲望の主体としては 断続的に消失しつつ、言表の主体として、象徴界の中に、自らを記載し続ける。象徴的去勢 以降、主体は「【語る主体」として、象徴界の中で生き延びていくわけである。ただし、「語

る主体」といっても、正確には、それは自足的に思惟を行い、その思惟をシニフィアンによっ て表現する主体という意味ではない。主体がシニフィアソに化身することによって初めて思

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参照

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