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写生文と小説の間 : 子規・鼠骨・虚子

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写生文と小説の間 : 子規・鼠骨・虚子

著者 松井 幸子

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 3

ページ 55‑67

発行年 1992‑05‑31

URL http://hdl.handle.net/10076/6447

(2)

写生文と小説の間

子規・.鼠骨・虚子

子規の写生文

子規は、俳句において情人した写生を文章に応用する意図を

持ち、・明治三一年一〇月、「ホトトギス」を東京で発行するこ

とを機に、自ら、自分の家の庭の状況を写生した「小園の記」 を発表、高濱虚子も、子規の意を受けて「浅草寺のくさく」

と題して、浅草寺迄の道中の出来事の描写をしている。そし

て、読者からの短文を募集する事にし、〓一月号から応募作晶

の掲載を始めている。

この応募作晶は初めは観念的な描写、単純な状況の記述でし

かないものもあったが、次第に自在な表現が見られるようにな

るのであって、心の動き、書経過にそって描写する

技法が少しつつ出始めており、いわば、子規がこの募集を通し て、新しい文章表現を模索していたと考えられるのである。

こうした試みのあと、明治三三年、子規は写生的文章に対す るまとまった考えを「叙廿芋ご (1月〜3月 新聞『日本』)

松 井 幸 子

に示した。

その主要部分を引用しておく。 「只ありのま1見たるま1に其事物を模写するを可とす。」

「讐ヱ善に立て作者の見た事だけを見たとして記」す。

それに、 「事実を細叙したる文の長所」 とするのは、叙事文の特色をそのま呈呂い表したもので、その

細叙が子規の目を通して各所に活かされる。

因みに、俳句の写生について触れておくと、明治二七年、洋

画のスケッチを中村不折に教えられ、それを俳句の技法として

応用したもので、物の位置、形、色彩を目で見たままこつこつ

と小口から描き出す、洋画としては初歩的なものであったが、

俳句垂字と規定させ、印象明瞭という特質を形成させる

ことになる。

この方法を俳句に結実させたあと、文章に応用したものであ

る。

(3)

この俳句と写生文の間に俳句的短歌の体験があり、その辺に

も留意する必要は考えられるが、短歌と写生について考えた別

稿にゆすりたい。(注1) 文章についてのヱ墟の考えが、具体的に作品にどのように示

されていかかを、「叙事文」発表のすぐ前、明治三二年lO月

「ホトトギス」に書かれた「飯待つ間」で見ることにする。

「飯待つ間」は、塵食ので選るまでの自己の周辺を視覚的に

描出している作品で、野分の後の畳勺空、庭に嘆く鶏頭、雁釆

紅、大毛蓼の様子を措き、更に視点を変え、庭で子猫を追い回 して遊ぶ子供達の声を具体的にその会話をまじえて描写。そし

て「飯はまだ出来ぬ」の語を虻さんで、庭に視点を戻し、蝶や 龍の鶉の姿について触れ、更に、台所の物音や空の雲の様子を

述べる。又、戻って釆た子供たちの猫をいじめて喜んでいる様

子、それを叱る母親の声を記し、最後は、これまでの内容とは

離れた 「くワッと畳の上に日がさした。飯が来た。」

で結んでいる。

僅か千二百字ほどで、午砲が鳴ったのに昼食の準備が少し遅

れていて待ちかねている、その僅かな時間の推移を記した文章

であるが、この記述の方法は、「叙事文」に、

「文章は絵画の如く空間的に精密なる能はぎれども、多くの粗

画(或は場合には多少の密画をなす)を幾枚となく時間的に連

続せしむるはその長所なり。然れども普通の実叙的叙事文は余 り長き時間を連続せしむるよりも、短き時間を一秒一分の小部 分に切って細く写し、秒々分々に変化する有様を連続せしむる が利なるべし。」 と述べられていることの実践で、実際に目に見たもの、聞いた ものの、各小部分の描写をいくつか連続させる事により、そこ におのずから時間の経過が示され、空彊音義慢しながら昼食を 待つ、子規の心喝置かれた状況を読者があたかもその場に在 るが如く感じさせているのである。

又最後の結びは、「叙貫‑で、

「花見の雑開を叙するに茶番、目かつら、桜のかんざし、言問

団子、桜餅「きぬかつぎ、此等の者を力を極めて細叙しても猶

物足らぬ時、最後に、

派出所に二人の迷子が泣いて居た。 といふ一句を加へて全面が活動する事あるべし。仰山にいへば

画竜点晴の手段なり。」

と述べている手法にあたる。 このように見てくると、「飯待つ間」は、「叙苧ごに示さ

れた写生文に対する考えを具体的に示したものと言えるのであ り、子規が俳句において試みた絵画的描写を文章に応用し、俳

句に詠まるべき小部分の描写を連続させたものということが出

来るのである。

ところで、この写生文の試みの他に、子規には幾つかの小説

がある。写生文とは、内容、文体を全く異にする小説である

‑56‑

(4)

が、それでは、子規にとって、小説はどのような意味を持つも

のであったか。 子規は明治三〇年四月、小説「花枕」を萱表した。発表誌は

「新小説」。 内容は、美しい神の子、「塑と「匂」が絶壁の上に平らに

革が生い茂っている所に天上から降りて釆て、種々の花を植

え、男神の「いでまし処」を作り終えると、歌を唱和しながら

天上に帰ってゆく。その後にやって釆た、下界のみすぼらしい

が気高さを感じさせる少女が、この美しい花に囲まれた場所を

見つけて座り、継母の自分と妹に対する辛い仕打ちを嘆いてい

るうち、日は暮れ、花の匂いの中で少女は夢とも幻ともつかぬ

境地になる。神はこの少女の顛苦を救おうと降りで釆て「光」

と「匂」が携えて釆た笠と琴で「眠れ」の曲を奏でさせ、眠り

におちた少女に更に「洗へ」の曲を奏で、花で少女を粧って又

「覚めよ」の曲を奏でる。やがて身を起した少女を誘って天上

に上りかけるが、少女が妹も連れて行きたいと願い、二度と天

上へは行けないと止めるのも構わず身を落とすと、又もとの花

の上に落ちてしまう、という、神と人間を措いた短い幻想的な

作品である。

(この作品にも、子規の自然への関心の深さは示されており、

種々の花、董、苧環、桜草、丁字革、五形、草堂革、蒲公英、

母子草、金鳳華、金仙花、福寿草、山吹、藤、蔚、の名が列挙

され、下界に於ける神の座が美しい花々に飾られているという ところに子規の自然に対する強い憧憬、賞嘆の思いが表れてい る。)

子境がこの作品で言いたかったことは、少女が現実の苦悩か ら解放されて天上の世界、「きと「匂」の救いの世界に翔潤

することなく、又苦界に戻って行くのは、強い現世への執

着と秤の存在を示したのである。(注2) その描写も含めて一部を引用しておくと、

「准襟の書物いたく掌れたれどもっぎくの色紙なかくに画

師に画かるべき打扮に、半ば落葉を盈たしたる籠を負ひ、熊手

を持ちて、森の中を歩み行く十四五の少女、垢つき汚れたれど

何となく寧、一人この人気絶えたる木立をさまよひて路を

失ひながら泣きもせずいらちもせず淋しとも思慮ねば恐ろしと

も思はず、恰も森を住家とする者の如く穏なる面持は住むべき 世を持たず帰るべき家も持たぬ、世の外の神にやあらんご

「少女は静かに身を起していぶかしげに四方を見れども何者も 見えず。ロ鍾なる書桑の響に威歎の耳を澄ましぬ。斯くと見て

男神森の梢に上り稔へば、光も匂も楽を奏しながら男神につき て上りぬ。少又は楽の昔慕はしく、遠くなる虻〜に足を歓つれ

ば、足は自然に地を離れて、飛ぶが如くに森に上りぬ。神と神

の子は少女を誘ひつ1楽を鳴らして次第に高く上れば少女も次 第に高く上り来る。少貫は不図我身を見るに種々の花身に檀ひ

て闇にも裁から光を放つに自ら驚き、上の方を仰ぎ見れば玉の

台など画に見るやうに光りて遥に浮びたり。下を見れば鳥羽玉

(5)

の闇、何処までも黒き中に赤き円き球の如き書転び出で点り」

である。

サしの「花耽」が′一見、現実離れした抒情にみちた作品であり

ながら、現実の苦悦と汚辱に満ちた世界と天上の世界を対比す

ることによって、神の支配を否定し、天上の世界、救いの世界

に逃避することなく、人間世界を肯定し、現実の世界に執着

し、そこに縛られている人間の宿命を暗示しようとしたもので

あったと考えられるのである。

写生文に対し、小説の方は、引用文で明らかなように、かな

り大まかなもので、神と人間、天上界と地上界を対比しっつ、.

幻想的な世界を描き出したもので、平凡な現実を「見たまま、

聞いたままに」描くという手法とは全く異なったものであるこ

とがわかる。

子規は小説と写生文をどのように位置づけていたか、はっき

りとそのことについて触れたものはないが、小説の特質に関し

「人事を叙する者は散文に多く天然を叙する者は韻文に多し。 て、

蓋し人事は主観的にて複雑なるを以て長篇に非ざれば之を尽し

難く」 「天然は客観的にして簡単なるを以て額文能く之を尽」

す。「散文にて人事を叙する者は小説を以て極度とす。言はゞ

詩歌は天然の小説にして小説は人間の小説なり。」 (「文学溝

文学の種類第四 天然と人事」明治27年7月24日 新聞日

本)

と、対象と、それにふさわんい文学ジャンルに触れる。即ち、

韻文は天然、小説は人事と規定している。更に俳句と対比し、

小説は複雑な人‡を扱うとして、 「和歌も俳句も文章も小説も面白さに二つあるべからザ。和歌

に面白き者が葛に題百H‑から彗俳句に面白きものが小説に

は面白からざるの理あらんや。只き各文体それくの長所あり

て、和歌に言ひ難き処、俳句能く之を吉ひ、俳句盲ひ難き処小

説能く之皇一1日ふの差あるのみ。例へば小説には複雑なる巷

説きて興味を取らしむるも和歌俳句には曾て之を盲はず。然れ

ども小説にて面白き人事の複雑が決して和歌俳句に於て面白か らず成りたるには非ざるなぺ只き人事の複雑は小説にのみ言

ひ得べくして和歌俳句に言ひ得べからざるのみむ」 (「文学漢

音 和歌と俳句」同上 7月28す)

という。そして、その儀備については、

「俳句と他の文学と一の音調を比較して優劣あるなし。唯き風詠

する事物に因りて音調の適否あるのみ。例へば複雑せる事物は

小説又は長篇の韻文に適し、単純なる事物は俳句和歌又は短篇

の額文に適す。」

(璽声」明治ね年10月24日

新聞日本)

「一般に俳句と他の文学とを比して優劣あるなし。」

「俳句を

以て最上の文学と為す者は同じく一家言なりと錐も、俳句も亦

文学の一部を占めて敢て他の文学に劣る無し。」

(同上)

と、これは俳句の価値づけの物言いであるが、それと対比しっ

つ、小説の位置づ、けをレている。

ー58‑‑

(6)

何れも、直接的な発言ではなく、俳句と他の文学との比較に

於て、俳句が文学の一つであり、同等の位置にある事を言い、

小説の内容は、複雑な人事としているのである。

子規が小説を書くのは、写生文を創案する以前で、明治二五

年「月の都」、二七年には「一日物語」 「当世媛鏡」三〇年に

「花枕」 「真珠沙華」等を書いており、子規にとって、小説

は、文学の中の一ジャンルで」処女作「月の都」は推挽姦

した幸田露伴の評価が低かったため、小説家としての道を歩め

なかったことは広く知られており、それ以後の小説は及び腰の

試みに過ぎない。

これに対し、写生文は先に述べた様に、俳句における写生か

ら派生した文章の表現手法であり、取捨選択がなされた事実を

写生したものであるため、子規にとって写生文は、かって俳句

と小説を対比させて考えて居たと同じように、小説とは別の次

元のものと考見ていたと思われる。

鼠骨と虚子

子規在世中、又は、没直後に、写生文と意欲的に取り組み、 葦支を小説に展開した作家として、寒川鼠骨、高浜虚子の二

人をとり挙げてみたい。

鼠骨は、俳人としてより写生文家として活躍した人物で、代

表的な写生文集に、明治三四年二月、『新囚人』の葛で俳書堂 から単行本として出版されたものがある。これは、ホトトギス に掲載された「新mTハ」 (明治33年5月)

「就役」

(明確33年

7月)

「監声】

(明治33年11月)

「放免」

(明治33年6月)に 「獄中雑感」他を加えたものである。

この一連の作品は、鹿骨が明治二三年三月から四月にかけ十

五日間の重禁錮刑に処せられた体験を措いたものでYその罪科

は、官吏侮辱罪で、新聞「日本」の論説が山霊した

として告発され、編集A蕃芳町人で虎った鼠骨がその責任を問

われたものであった。鼠骨は、自序で、

「唯だ正直に獄制改良の声の盛なる明治州年代の牢獄を世人に

紹介すれば足る。」 「犯罪者を以て極悪非道の人非人と過信し

之を獄に投じて得たりとせる世の権利者をして、今日の牢獄が

社会に如何の効果を与へつゝ透るかを知らしむれば足る。」 と述べているように、牢獄を世間に紹介し、囚人町目から見た

牢獄のありさまを世に知らせたいという意図を持ってこの文を

書いており、十五日間にわたる珍しい体験、普通の人間がうか

がい知らない事柄を、政治犯の短期の囚人としての眼を以て観

察、簡潔に描写している。 この作品に就いて、子規は、

「獄中ノ「ハ君ノ文ニヨリテ伝ハリ君ノ名ハ獄中談ニヨリテ残 ル位ノ大切な文章と小生ハ存候それ故輝甲の事ハ可成詳に叙述

ありたく(艶陽にてもよろし)而して獄中談を完備為堅塁仔

候」

(明治33年6月日日 鼠骨苑筈簡)

(7)

と、高く評価し、事実と描写の手法、即ち、子規の著する写

生文の手法によって、体験を文章にすることを求めている。

いわば鼠骨のこの作品は、事実の忠実な再現であるという点

に写生文的であるが、この作品が小説に近いと許されているの

は何故であるのか。

その条件として、一つは、

○題材が特異であるという点にある。 それまでの写生文、子規を含めた写生文か日常の平凡な出来

事の描写であり、平凡な周辺事実を、こつこつと写してゆくと

いうことが一般的(例、雲の日記他の募集文)であり、そこに

特徴があったが、鼠骨にあっては非日常の出来事が扱われたと いう、素材の異種性にあったといえるのである。

二、は、 ○出来事の時間的展開が、場面にこだわりなく叙述されてい

るという点である。

子規の俳句写生に著しい空間的特質は、そのまま文章にも応 用され空間的特質が強いが、鼠骨の場合、俳人としてその写生

句を作る力の弱さが、その点を離れて、時間に沿うという叙述

をとっている。

文章を引用してみると、 「通人つてから室内を見まはすと、一個のスリガラスの窓があ

るので、前きの所に比べると幾らか明かるい。殊に広さも四畳

半位あつて、lツの鉄の戸と窓の所の外は悉く白壁になつて居 つて、それに媛撞の蒸汽菅も通ほて居るから少しは暖かい気持 がする。床は矢張ターキになつて居るが、ベンチが四脚も並べ てあるので坐つたり立って居たりする菓儀はない。」 の部分は確かに写生文阿であるが、

「頭の禿げた六十萄彼是葦碍して看守が間ふけれど耳が聞

こえないので幾度も問ひ返す此六十老爺、何をやつたのかは知

らぬがそゞろ哀れを催した。此頗又戸があいて、一人の小倉服

に主産をはい■た如何にもお粗末な爺さんがやつて釆て、『おま

ち通うさま』と言ひながら弁当せ運んだ。すると例の五人男は

俄か龍我先にとベンチからはなれて、奪ひ合ふやうに弁当を取

るが早いか、両手を手錠でつながれた億、如何にもうまさうに

喰ひはじめた。」 の個所は、写年支家であるなら、場面を詳しく写生し、空間的

に読み手に明瞭なイメージを浮び上がらせ、それと同じこと

を、場面として展開するところが、老人は普通Ⅵ描写として述

べられているに過ぎず、時間的であって場面的ではない。その

点が、小説的記述であると言えるからである。言い代えてみれ ば、この老人の描写は、写仕支であるなら詳しく叙述される筈

であるのに、】人の人間として存在が示されているに過ぎな

い。それは、鼠骨にあって写生文呵小説のはしりというべきも

のが、子規在世中に示されたのである。 寒川鼠骨は、写年支に関して、 「同じ美文の中にもいろいろ種類があつて、古言や雅語などを

‑60‑

(8)

美しく並べ立て1言葉の飾りをのみ主としたものや、又は作者

の理想を巧みにあやつりて其の趣向の面白いのを専一としたも

のなどがある。何れも面白いのは面白けけれど、此の種の文章

は充分に読者の実感を惹く事はむつかしい。

さればこそ義に写生文といふもの〜必要が起って来るので、

是れは以上の如き文章ヒは違って、全く其の文字の示してゐる

が如くに、天然であらうが、人事であらうが、すべて吾人の身

辺を園検してゐるもの、又は吾人の眼前に現出して来るもの

を、実地其の優に写し出す叙事文である。即ち言葉の飾りとか

作者の空想理想などは悉く捨て1しまつて唯実際にありし、次

第を其の優に写し出す文章」 (「写生文の意義」

『写生文

法及び其文例』明治36年5月 内外出版社刊) と述べ、また、単なる自然物の客観描写ではなく、人間の内面

をも描写する亭について、

「今日迄に現れた多くの写生文は、重に天然を本とし、人事に

対しても深く人情の奥底迄立入って写生をしなかつた。写生文

家は人間を見る事猶天然の如く花の聞落や雲の去来すると同じ

様に、人間が空間に羞勤してゐるものと見て写生をして居っ た。故に人事を写しても、唯だ人間が空間に於て衰動する有

様、即ち其挙動言語等専ら外面的の趣を写生して、其場合に其

人間が如何に感じてゐたか、言ひ換へると、其時に其人間は喜

んで居つたか、怒ってゐたか、悲しんでゐたかといふやうな事

は余り写さなかつた。」 「其材料とする所は天然であらうが人事であらうが、何でも差 支ないのである。故に或時には行雲流水の如き天然の現象のみ を写す場合もあらうし、或時は又喜怒哀楽の人情に立入って写 生する場合もあるペ善である。吾々の耳に聴き目に見る事の出 来ぬ事柄で、吾々の脳裏に思考せし所のものである。」

「写生

文は前にも言ふ如く、単に写生を基礎とする散文であるから、

其材料は必ずしも天然のみに限らない、人情にも立入つて写生 し得るのである。従って天然を主として写生した場合には非人

情的の写生文、即ち従釆の写生文となり、又人情に立入って写 生した場合には人情的の写仕支、即ち小説ともなり得るのであ

る。」

(以上『写生歪大日本俳話語習基部‥明治43年以

と述べ、写生する対象を天然から人情に、即ち人間の内面の描 降)

写に向ける時、小説となるという考えを示し、自分の作品が小

説であることを喝嘗しているのである。

次に虚子について触れる。

常に子規の周辺にあって、子規の俳句の革新運動に従い、写

生文においても、子瑛の「小園の記」と並んで「浅草寺のくさ

く」を発表した虚子は、その後も「中山寺」(明治31年12月)

「半日あるき」(明治32年2月) 「三尺の庭」 (明治32年5月)

「墓記」

(明治32年7、8、11月)と蔵いて写生文を「ホ トトギス」に発表している。

(9)

その虚子が、初めて自身で小説と銘打って書いたのは、「丸

の内」で、明治三三年六月、「ホトトギス」に発表された。同 じ年の九月に子規庵で「山会」が催され、子規周辺で文章に関

する関心が高まっ▼ていたが、虚子の小説はその後なく1明治三 八年にいたって、飯石の「吾輩は猫である」が好評だっ七草か

ら、三八年四月号の「ホトトギス」に小説として「ほねほり」

を発表する。

積極的に小説の執筆をするのは明治四十年からで、「風流噸

法」

(4月)

「斑鳩物聾巴 (5月)、「大内旅宿ェ†月)を「ホ トトギス」に発表、.次いで翌四一年二月一八日から七月l一八日

まで「国民新聞」.に長編の「俳語師」を掲載している。

明治三八年の「丸の内」は、「余」が帰宅の途中、女交換手

の群れに出会い、中でも特に美しいおみねという女性の挙措に

注目したことが善かれ、(下)では、その三か月後「余」が人

力車に乗って車夫の話を聞くうち、車夫がおみねの父親で、お

みねが死んだことを知るという詣であるが、その道中の描写は

写生文そのもので、後の「写生文と小説」 (『俳等一口噺』明

治40年5月 金属文淵萱刊)の中で、写生文は「余」を中心と

するといっているように、「余」なる人物によって作品を展開

している。

その点では、写生文と変わらない書き方がなされているとい

ってよいのであるが、(上)と(下)に話の関連を持たせ、お

みねとその父親の人生の「哀れさ」を浮き彫り龍心、「余」の 二人に寄せた深い同情の念が措かれている点が写生文から一歩 躇み出している。

「ほねほり」は、従兄妹同士の男女が、先祖の基を移動する

為骨を掘り出すことになり、寺で待ちあわせる迄をそれぞれ別

々に措き、最後の章で、骨を取婁作業を写生文的龍描写し

たものであるが、単なる描写ではなく、男女の微妙な心の動き

を記しているところに、・小説への志向のあらわれを認めること

ができる。

境過の異なってしまった男女轟比しながら、各々の心の内

側轟くという所は、構成自体も多分フィクションにより、そ こで両者を浮び上がらせている点も、やはり小説といケベきも

のであろう。否、両者の内面を浮び上がらせるために構成をつ くり上げたというべきであろう。

しかし、「丸の内」もそうであるが、描写に葦点がおかれ、

葛人物の置かれた境遇、内面心理、人間のあり方を深く追求

していない点に、写生文の性格を引きずっているということが

出来ようか。

「風流憾法」は虚子自身、「私の写生文が小説の色彩を帯び

た最初のもの」 (→自序」 『風帯磁漂巴大正10年6月 中央出

版協会刊)と述べている作品で、比叡山の横河に滞在中の、

「余」と和尚、一念というきかぬ気の小僧との酒脱でゆったり

とした雰囲気のやりとりを措き、後半は一転して祇園の一力に

場を移し、「余」と友人が舞妓と遊ぶ席に一念が現れ、舞妓の

‑62‑

(10)

三千歳が一念に持つ淡い憐情を中心にその場のやり取りが殆ど

の部分、会話体で記されている。

又、『高浜虚子全集第四巻』 (昭和9年5月 改造社刊)の 「序」では、

「此篇に輯めたものは其私の書いた文章のうち、比較的作為の

ある小説が、つたものを輯めたものであるが、併し、これも世

間の人から見れば所謂写生文であらう。其で結構なのである」

と、自分の小説の性格について回想している。

この作品は、実際に比叡山と祇園に遊んだ体験を下敷きにし

たフィクションであり、一念という架空の人物を添え、一念の

孤児としての生い立ちの哀れさを印象的に描出する試みである

点、先ず、小説的であるということが出来るのであり、描写、

例えば祇園の舞妓の出てくるあたりの場面描写は写生文の描法

そのものである。

この点は従来も指摘されているところであるが、内容に関し

て、虚子自身が一念の生い立ちを措こうとしたにもかかわらず

「虚子は小坊主の遥命がどう変ったとか、どうなつて行くとか

云ふ問題よりも妓楼一夕の光景に深い興味を有って、其光景を

思ひ浮べて恋々たるのである。」 (漱石「序」 『鶏諸富明治41

年1月 春陽曹司)

と、淑石がいっているように、小坊主の運命は描き出されてい

ないのであり、そこに写生文から出発した小説家の限界を見る

ことができるのではあるまいか。 ここで、虚子にあって小説と写生文の区別はどのようであっ

たのか、その辺を眺めてみたい。 先ず、虚子は写生文からー川読へと推移する場合について、

「写生文を書き馴れたものが小説を書かうとすると一寸途方に

暮れる。世上にありふれた小説を見るとあまり偽らしく其顆の

ものを書く気には固よりなれぬ。又事実/\と何でも実際見聞

した事に材料を取る習慣がついてゐるので、其を小説にする為

め勝手に変化さしたり捜達したりすることは罪悪のやうな気が してならぬ。科学が直ちに哲学にならぬ如く、写仕支は直ちに

小説にはならぬ。科学の上に推理を重ねて哲学になる。写生文

の上に想像を加味して小説になる。即ち如何にして想像を加味

するかゞ問題である。」

と言う。

これによると、虚子は両者の区別の一つとして、想像、即ち

フィクションを加味するか否かに置いていたことがわかる。

事実、見聞を偽ることなしにが写生文、虚構を加味したもの が小説という、作品の構想の際の相遠を言っている。

次に、作品の主人公が仮設か否かである。写生文では「余」 は作者自身であるが、小説では「余」という主人公を自占に設

定する。これも広い意味ではフィクションの一部であるが、特

に「余」にこだわる点に虚子がある。

具体的な方法として、 「写生文には必ず出て来る「余」なる者を必ずしも作者其人と

(11)

せずや之を仮設の人物とする事、即ち従釆の写生文には」

「作

者が必ず仮面を被らずに居る。之が写生文の一特色で読者をし

て実らしく感ぜしむる要素の一つである。」

として、作者の個性を出すという点で、作者独自の見方、小説

は作者の「色眼鏡」であるということを強調、

「作者が仮りに其境遇性質の上に自己を置いて色眼鏡を掛けて

観察せねばならぬ。此色眼鏡を掛けた点が写生文には全く無い 処で、小説に進まうとする所謂第一歩たる処であるが、尚写生

文根本義たる実世間の写生といふ事は其侭に保留されてあるか

ら、写生文家に取って比較的困難事ではあるまいと思はれる」

(以上「写生文と小説」 『俳詣一口噺』)

と述べるのである。

小説としての一般概念を写生文に応用したものといえるが、 この自覚に基いて、虚子の写生文的小説は新しい展開を見せ

る。

この後、虚子は「俳譜師」 (明治41年)を執筆するのである

が、この前に、写生文観に主観的写生文を認めるという展開が

ある。

それは」主観的写生文というものを認めはじめたことで、そ

れ迄に、

写生文は「外的描写」をし、.小説は「内的描写」が目的であ

「小説は哲学で、写生文は科学のやうなものともいへる。」 る。 ある。いはゞ小説家の頭の中平盛蔵された天地である。」 を作るかに在る。此空想的の天地は写生をする遥の無い天地で 「小説の目的は写生的の人事を材料にして如何に空想的の天地 的に小天地を構成するのと一般である。」 天地を作り出すのである。丁度哲学が作者の推理によつて智識 「小説の方は作者の人生に対する主観に或形を付与して所謂小

▲(以 上「写生文と小説」 『俳話一口噺』)

と、小説に用いた「主観」の語を写生文にも用いる。

それは、明治四〇年三月「文蓋世界」に発表した「写生文の

由来とその意義」で、

「現在吾々写生文家の間に、自ら二派あることを述べて置かう。

その一は、客観の描写に、主として努刀を注ぐ人で、他の一は、

客観から得釆つた感じに重きを置いて、その感じを充分に甥は すために、客観の描写をす手人である。」

「写生文家の特色は、その人が冷静で客観的描写をするとか、

熱情で主観的描写をするとかで決するのではない。皐責、客観

を軽蔑しないといふことにある。」

と述べるのである。

それは、写生文に人間の色潤い作品が見えはじめたことに触

れたもので、それは、虚子自身、写生文でも小説を青くことが

可能である、写生文的小説を稟諾しなければならぬとする信条

に基いた発言と言えなくはないが。

そして、書かれたのが「俳譜師」である。

‑64‑

(12)

この作品のモデルと作品の登場人物との関係について記して

おくと、

高濱虚子‥

新海非風・・

藤野古白・・

正岡子規・・

内藤囁雪・・

五百木覿亭・ ・塀和三蔵 ・五十嵐十風 ・篠田水月 ・越智李堂 ・奥平北湖 ・鈴木蓮亭

であり、虚子の周辺にあって、・子規の俳句運動を助けた人物遵

で、全ての人物が実在している。ということは、写生文の手法

で出来事をそのまま描写することも可能であった訳で、それを しないで、自分が俳詰師として世に認められるまでの心の動き

を中心に、そして、各々の登場人物の性格を浮び上がらせるた

めに、名前を変え、その絡み合いを変化させたもので、阜の点

で小説的であったといえる。

筋立ては、主人公三蔵が高等中学在学中から始まり、退学し

次第に俳話師として世に認められるまでを、先のモデルの人々

の動向を絡めながら描いたものであり、冒頭は、

「明治廿四年の三月の末の或る日の事、松山の二番町の伊橡尋

常中学校の門を通人りつゝある十九歳の青年が一人ある。手織

縞の綿服に白い木綿の兵児帯を締めて袴も穿かずに居る。山桐

の重さうな薩摩下駄には大きな石ころが穴まつて居るのも知ら

ずに居る。運動場にはl人の人影も無い。」 で、中学の門、青年、青年の服装、下駄、下駄の石ころ、背景

の運動場と、墨痕っている。

又、吉原の女を妻にした五十嵐十風の夫婦喧嘩の場面を「五

十嵐は不思議な脹附きをして此一座を見る。殊にぎら/\光る

眼は先づ艶香の束に止り、細君の手許から、張り撞けられた畳 喝それから又三蔵の首筋に及ぶ。細君は『大変早かつたので すね。』と少し驚いて五十嵐を見上げる。五十嵐の邸疋った声

が晴天の嚢と破裂する。『貴様ッ。何をして居るのだ。』『

霊つて居たのです。』『馬鹿ッ。恥を知れよ恥を。人の

前で斯んな物を出し散らかしてッ。』と其処に転げてゐた文末

を取つて細君に榔げつけると、細君の前髪の辺にはたと当つて

櫛が飛ぶ。『斯んな物を馬鹿なッ。』と畳紙を八ッ裂きに裂い

て其を丸めて又細君に榔げつける。」

「細君は漸く体を動かし始めて、覆った糊を拭き取つたり、飛 び散った文殻を檀めたりして、鼻を轡り上げながら其辺を片づ

け始める。某夜五十嵐は蕪と細君を抱締めて凍る。斯る事のあ

った夜はいつもさうである。」 と、人間の心の動き、人物の暗い運命を匂わせ、運命のやがて

行きづまるであろうことを匂わせている。その点が小説的で、

虚子自身は「俳護師亡に関して、

「写苧あゝ云つた方面の筆の練習をしてからで無いと面

白い文章は書けないと信じてゐるのです。それで十年種の闇単

に習作の積りで写生文許り書いてゐたので漸く昨年あたりから

(13)

そろそろ小説の方に足を踏み入れそ見たのです。」

「ヱの写生文から小説に移るといふ事」J「写生文の長処として

其健保持し乍ら小説に移つ度い」・という辛が困難・であったが、

.一「若し『俳詣師』に幾分取る可きところがあるとすねば」.「写 生文の技巧を小説に移したといふ点‑に在ることゝ信じてゐ

ます?」 (「俳昔師に就て」早稲田文学 明治41年9月)

と述べ、又、一後年になって、

「小品のみに限られる観のあつた写生の筆を如何にせば長篇に

用ゐ得るかといふ其試作に過ぎなかつた」 「手近の記憶に残っ

てゐるものを材料として事実半分、嘘半分で書き上げて見よ

う、果して写生文が斯かるものを書き得るか否かの試験にさへ

なればい1」

(「序」

『俳詣師』大正5年u月 博愛館刊)

と言っているのは、」近代の小説の流れからいえば、終に小説の

本道を進む作品葛生みえなかったという回想であるが、執筆時 にあっては、小説としての自覚に立っていたのである。

×

子規が写生文の出発に当って「叙事文」の中で説いたのは、 「写生といひ写実と小ふは実際有りのまゝに写すに相違なけれ

ども固より多少の取捨選択を要す。」

「或る景色又は人事を叙するに最も美なる処又は極めて感じた

る処を中心として描けば其景其事自ら活動す可し。」 という、技術論で、それをどのように人間と関わらせるかとい う点については、全く触れることがなかった。

それがそのまま虚子に継承されて、写年支を小説化する苦闘 が続けられたといえをのであるが、とにかく、小説化に成功し

たのが、「風流憾法」であり、十風(非風)の描き方が自然主

義的であるとぃう評も含めて、「俳譜師」であったといえよ

う。

それは後代から見て、人間との関わり万のあり様の問題とし

て、漱石には、好意的に、虚子の作品について、 小説を「余裕のある小説と余裕のない小野の二種に分け、

「世の中は広い。広い世の中に住み万も色々ある。其住み方の

色々を随繚臨機に楽しむのも余裕である。観察するのも余裕で

ある。味はうのも余裕である。此等の余裕を待って始めて生ず

る事件なり事件に対する情緒なりは矢韻依然として人生であ

る。活溌々地の人生である。描く.価値もあるし、読む価値もあ

る。」 「余裕のない小説」は「セツパ詰まつた小説」

「息の塞

る様な小説を云ふ」として、虚子の小説は「余裕のある小金巴

で「余裕から生ずる低掴趣味が多い」

(「序」

『鶏頭』)

と位置づけられ、又、鈴木〓香毒口からも、

「裳はしい実写的の抒憧銭巴

とされ、 「単線と単色とのみを使ったやうな、外見上極めて簡単な叙写 を以てして、すべての写象姦横に表はし尽してゐる点に、虚

‑・6¢‑

(14)

子氏の所謂『写生』なるもの1真価を見ることが出来る。」

(「序」

『風流憾法』大正4年4月 鈴杢二重巳刊) と、その自在な描写刀が賞揚されているのである。

それは、先にも触れたように、子規の写生文を原質とする小

説がもつ宿命といえようし、そこに逆に、三好行雄氏の言うよ うに反近代の小説としての特質されるべき世界が創り出された

というべきであろうか。(注3)

(注) 注1

短歌は最初、俳句を三十l音にのばすか、又は、俳句を

二句つないだような作品であったが、やがて、内面と深く

絡み合った作品が晩年には作り出された。このことが後

に、弟子の歌人によって、具休的には、伊藤左千夫の「野

菊の基」長塚節の「土」などになってゆくと思われる。こ

の辺は、別に考えたい。この稿には直接には関係をもたな

いと思うので別稲とした。

注2

片岡長一「子規の鎧

『近代日本の作家と作品』

(昭

和14年11月 岩波書店}

注3

三好行雄『日本文学の近代と反近代』

(昭和48年

東京

大堂山山版会)

【本学教員】

参照

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