戦後アメリカ国債保有構造の変貌(下)
その他のタイトル A Change in Distribution of Government
Securities among Different Investors in the Post‑War Period of the U.S.A (II)
著者 池島 正興
雑誌名 關西大學商學論集
巻 55
号 5
ページ 1‑12
発行年 2010‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/4783
戦後アメリカ国債保有構造の変貌(下)
目 次 はじめに
I.戦後国債保有構造の長期的変化の概観
池 島 正 興
II.連邦政府機関・信託基金と外国人・国際機関の国債保有の増大
m.国内民間投資家の構成変化(以上,前号)
N.国内民間投資家の国債保有構造の変化と退職貯蓄の成長 V.退職貯蓄の成長と国債の役割の変化
VI.退職貯蓄の成長と財政危機の深化
".退職貯蓄の成長と経済格差の拡大 結 ぴ
w.国内民間投資家の国債保有構造の変化と退職貯蓄の成長
さて,国内民間投資家レベルで戦後に主要投資家がどのように移り変わってきたのかを見て きた。それを前提とした上で,次には,近年の二三の主要国債投資家を取り上げ,それらの国 債の投資目的の,あるいはそれを規定する投資原資の性格の共通性の有無について考察してい きたい。仮に,それらでの共通性があるならば,これまでの,単なる投資家主体別視点からは 明確にはならない,国債保有=消化構造の変化の特徴を析出できるであろう。
2008年の国内民間投資家の国債保有比率で,年金基金(企業年金プランおよび州・地方政府 年金プラン)が18.2%という高い数字を示しているのは既に見た。年金基金の国債保有の目的は,
退職者あるいは退職予定者への年金給付=退職後所得の提供に備えた,年金原資の運用にある ことは言うまでもない。そして,その年金原資は, もっばら,その退職後所得の提供(雇用者 側から見て)もしくは獲得(被用者あるいは家計の側から見て)に備えた,雇用者や被用者か らの拠出金の積立,すなわち,退職に備えた貯蓄(以下,退職貯蓄と記す)としての性格を有 する資金から構成されている。
しかし,退職貯蓄を投資原資とし,退職後所得の提供や獲得に備えて国債に投資し保有する のは,投資主体としては単に年金基金に限定されるわけではない。
まずは,同上時点で20.8%の国債保有比率を有するミューチュアル・ファンドを取り上げて みよう。
2 関西大学商学論集 第55巻第5号 (2010年12月)
ミューチュアル・ファンドは広く普及し, 2008年ではおよそ9,200万人の個人投資家,全家 計の45%がミューチュアル・ファンドに投資し,個人投資家が同年末でのミューチュアル・フ ァンド資産総体の82%を保有している[そして,退職貯蓄は確定拠出企業年金や個人退職勘 定 (IRA)などの,年金プランとリンクしてミューチュアル・ファンドに投資されることも可 能であるが,そうした退職貯蓄部分(退職勘定)がミューチュアル・ファンドの総資産の37.7
%を保有している叫したがってまた, ミューチュアル・ファンドの投資原資の37.7%は年金 プランとリンクした退職貯蓄から構成される計算となる。
そして,「ミューチュアル・ファンドは多くの家計の長期的および短期的な貯蓄戦略におい て重要な役割を呆たしているけれども, ミューチュアル・ファンドを所有する家計の76%は,
彼等のミューチュアル・ファンド投資の第一位の金融的目的が退職のための貯蓄であることを 指し示している」II)と指摘されている。したがって,個人投資家総体が保有するミューチュアル・
ファンド資産の,最大に見積もって,その76%が,年金プランにリンクした,あるいは, リン クしない,退職貯蓄から投資されたものであるとするならば, ミューチュアル・ファンドの総 資産の62%は,退職後所得の獲得を目的とする退職貯蓄を投資原資とする, と推計することが できる。
また,保険会社は前出の, 1955年のみならず2008年の投資家別国債保有データでも,単体の 国債投資家として取り扱われている唯一の金融機関であるが,その保険会社の国債投資も,退 職貯蓄に大きく関わっている。
表ー 3では「保険会社」が2008年では国債を1,234億ドル保有しているが, Flowof Funds Accounts of the United States : Flows and Outstandings Fourth Quarter 2008, p.87によれば,
2008年に財産責任保険会社が国債を547億ドル,生命保険会社が692億ドル保有している(両者 を合わせた保有額は1,239億ドルとなり,表ー 3の「保険会社」の国債保有額とはごくわずか な相違がある)。生命保険会社のみに限定すれば,それは国内民間投資家保有国債総体の3.2%
を保有することになる。取り上げたいのは,「保険会社」の中の,その生命保険会社の国債保 有についてである。
生命保険会社はバランスシート上,保有国債などの総資産に見合った,資本・負債合計額を 有するわけであるが,資本・負債合計額に占める資本(および剰余金)部分はごくわずかであ り,その圧倒的大部分は負債から構成される。そして,その負債の大部分を構成するのが保険 契約者や受取人への責務を果たすよう積み立てられた準備金であり, さらにその準備金の大部
9) Investment Company Institute, 2009 Investment Co印panyFact Book 49th Edition, p.72 (http://www. ici.org/pdf/2009̲factbook.pdf)を参照。
10) Investment Company Institute, "The U. S. Retirement Markets, 2009", Research Fundamentals, Vol.12, No.3, May, 2010, p.40 (http:/ /www.ici.org/pdf/fm‑v 19n3.pdf)を参照。
11) 2009 Investment Company Fact Book 49th Edition, p.75.
分を構成するのが責任準備金である。したがって,責任準備金がその資本・負債合計の中核を 占めるのであり, 2008年 末 に あ っ て は そ れ の74.7%を構成する12)0
その責任準備金は生命保険会社が行う,生命保険契約,年金契約,健康保険契約,などの異 なる事業毎に区分されて保持されている。年金契約の責任準備金が責任準備金総体に占める比 重を見れば,それは,たとえば1955年では17.5%を占めるに過ぎなかったが,経年的に上昇し 2008年末では61.6%を占めるに至っている13)0
したがって, 2008年の生命保険会社の国債投資・保有の場合でも多少の誤差はあるとして も,その投資原資の約46%は,年金プランにリンクした,あるいは, リンクしない,退職貯蓄 から構成される, と見なすことができる。
また,年金契約の責任準備金は個人年金契約と,雇用主提供年金プランを通したグループ年 金契約のそれに区分されているが, 2008年末では,後者のその比率は32%である14)。個人年金 契約に占める個人退職勘定やケオ・プランを通した年金契約の比重は不明であるが,年金契約 責任準備金の約32%が雇用主提供年金プランにリンクした退職貯蓄に対するものであることか ら,最小限に見積もっても,生命保険会社の保有国債の約15%は,年金プランとリンクした退 職貯蓄を投資原資としている, と言うことができる。
2008年5月現在で,アメリカの全家計の40.5%が年金プランの一つである個人退職勘定を有 する。 2008年で,個人退職勘定に組み入れられた資産規模(4兆6,230億ドル)はたとえば,州・
地方政府年金プランのそれ (3兆3,150億ドル)を上回り,年金プラン全体(もちろん,社会 保障年金は除く)の組み入れ資産規模 (16兆9,680億ドル)の26.7%に相当する15)。
このように個人退職勘定は積極的に活用される年金プランとなっているのだが,個人退職勘 定を有する家計の13%が債券(貯蓄債券を除く)を, 10%が貯蓄債券を,その勘定の資産に組 み入れている[6)。したがって,その程度を正確には測定できないものの,「個人」が保有する 国債にあっても,その一部は確実に,退職後所得の獲得を目的とする,年金プランとリンクし た退職貯蓄を投資原資とするのである。もちろん,同様に,具体的数字は示し得ないものの,「個 人」保有国債の一部が年金プランとリンクしない退職貯蓄を投資原資とするであろうことは,
十分に推測できることである。
さて, 2008年での,国内民間投資家レベルでの投資家主体別国債保有構造を前提とした上で,
年金基金の国債保有に典型的に見られる,退職貯蓄を投資原資とする,それゆえにまた,退職 後所得の提供あるいは獲得のために国債を保有する, という特徴を,他の投資主体がどの程度
12) American Council of Life Insurers, Life Insurers Fact Book 2009, Table 3.1, p.26より算出。
13) Ibid., Table 3.6, p.31を参照。
14) Ibid.. p.75を参照。
15) Research Fundamentals. p.20を参照。
16) 2009 Investment Company Fact Book 49th Edition. Figure7.4, p.86 ; Figure 7.5. p.87を参照。
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共有するのか,析出を試みてきた。
そして,その試みからは, 2008年の国内民間投資家保有国債総体の,明らかにできた限りの 数字のみに依拠するとしても, したがってまた最も少なく見積もるとしても,約26%が年金プ ランとリンクした退職貯蓄を投資原資とする, と推計することができる。さらにそこに, ミュ ーチュアル・ファンドでの,年金プランにリンクしない退職貯蓄の部分をも加えるならば国 内民間投資家保有国債総体の約31%が退職貯蓄を投資原資とする, と推計できる。もちろん,
それは検出が可能とされた,最小限の数字に過ぎないのであり,実際に退職貯蓄を投資原資と する国債消化=保有の比率はそれを上回るであろう。
このように国内民間投資家レベルで近年では退職貯蓄が国債の投資原資=消化源泉として 高い比重を占めるのであるが,それでは果たして,退職貯蓄を投資原資とする国債投資・保有 の比重の増大は歴史的傾向として把握されうるのであろうか。
1955年の時点であっても,たとえば「個人」の国債保有を取り上げた場合それは国内民 間投資家保有国債総体の32.9%を保有している。もちろん,その時点での「個人」の国債保有 目的の検出は極めて困難である。しかし,それゆえにまた,「個人」が, もっぱら退職貯蓄の 運用の目的から国債を保有した,可能性を全く排除することもできない。ただ,そうした可能 性が存在するとしても,年金プランとリンクした退職貯蓄に限定すれば,それが国債の投資原 資に占める比重は2008年に比べて,格段に小さかったであろう,ことはより確実に予想できる。
と言うのは,たとえば,民間労働者で企業年金プランの適用を受ける労働者の比率は1955年 では32%であったが, 87年には46%にまで上昇している17)。また, 62年には自営業者向けの年 金プランであるケオ・プランが, 74年には,企業年金プランの適用を受けない労働者向けの年 金プランである個人退職勘定が創設されている。さらに81年には個人退職勘定が70.5歳以下の 全ての賃金稼得者にも適用可能とされている。
そのような結果として, 2009年では,全家計の68%が何らかの年金プランに参加するように なっているのである。
そしてまた,家計がその年金プランにリンクさせて所有している金融資産(退職資産)は,
たとえば1974年では,全家計の保有金融資産総計の12%を構成するに過ぎなかったが, 2008年 では35%を占めるようになっている18)0
これらの事実を勘案する限り,戦後において,社会保障年金以外の年金プラン(以下,「自 助型」年金プランと記す)への参加者が増大した結果,年金プランとリンクした退職貯蓄も増 大し,また,それが全家計の貯蓄総体に占める比重も上昇してきたと考えることができる。
一般的に,戦後での,基調としての人口の高齢化の進展は人々にとって退職貯蓄の重要性を 増大させる。そうした重要性の高まりを基底として,年金プランとリンクした退職貯蓄は成長
17) U.S. Department of Labour, Trends in Pensions 1992, 1992, Table 4.1, p.75を参照。
18) Research Fundamentals. Figure A20, p.39を参照。
し,それが国内民間投資家レベルでの国債消化において,その消化源泉としての比重を大き く高めてきたであろうことは,少なくとも確認できるであろう。
V.退職貯蓄の成長と国債の役割の変化
退職貯蓄を投資原資とする国債投資・保有の比重を国内民間投資家レベルで析出してきたけ れども,国内に限定した場合でも,民間投資家レベル以外にも,退職貯蓄を投資原資とする国 債投資(家)を見いだすことができる。連邦政府機関・信託基金に包含される,連邦職員を対 象とする連邦職員年金プランの積立金を運用する連邦職員退職基金と,同じく,鉄道員を対象 とする鉄道退職プランの積立金を運用する鉄道退職基金である。それらは,基本的には,企業 や州・地方政府の年金基金と同様に,年金原資として積み立てられた退職貯蓄である。
2008年では,連邦職員退職基金が7,088億8,400万ドルの,鉄道退職基金が6億2,400万ドルの 国債(特別国債)を保有する19)。その両者で合計して7,095億800万ドルの国債を保有する計算 となる。その保有額は,同時点での,企業年金基金と州・地方政府年金基金の国債保有の合計 額3,933億ドルの約1.8倍に相当する規模である。
前述したように, 2008年での国内民間投資家保有国債総体の,少なくとも,約31%が退職貯 蓄を,約26%が年金プランとリンクした退職貯蓄を投資原資とすると推計できた。それらの国 債部分を金額で表示すれば,それぞれ,約6,691億ドル,約5,612億ドルとなる。さらに,それ らに連邦職員退職基金と鉄道退職基金の保有国債額を加えるならば,それぞれ,約 1兆 3,787億ドル,約1兆2,707億ドルとなる。それらは同時点での,連邦準備銀行を除いた国内 総資本家保有国債総額6兆3,708億ドルのそれぞれ約22%,約20%に相当する。
したがってまた,連邦準備銀行による消化分を除けば,国内で総国債の約22%が退職貯蓄の,
その約20%が年金プランにリンクした退職貯蓄の消化に依存していた,と考えることができる。
視野をさらに広げ,社会保障年金の積立金である社会保障信託基金も,課税という,強制的 な方法により積上げられたとはいえ,基本的には退職貯蓄の性格を有すると考えるならば,退 職貯蓄への国債の消化依存度は格段に高いものとなる。社会保障信託基金の, 2008年での保有 国債額は約 2兆3,603億ドルにも上るから,それをも加えるならば,連邦準備銀行を除いた,
国内で総国債の約59%が退職貯蓄に,約57%が年金プランとリンクした退職貯蓄により消化さ れた, と考えることができる。
かくして,少なくとも2008年現在では国内で発行された総国債は,連邦準備銀行による消 化分を除くならば,それの過半が退職貯蓄により消化されている状況となっている。
そのことは二つのことを意味する。その一つは,退職貯蓄が,より確実な表現を期すならば,
19) U. S. Department of Treasury, op. cit., p.23を参照。
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年金プランにリンクした退職貯蓄が国内での国債の消化源泉としてその比重を高め,国債の安 定的消化に大きく貢献してきたことである。
その二つめは,そうした消化源泉としての退職貯蓄の比重の増大に関連するのであるが,資 本証券としての国債の役割が変化してきたことである。
1955年にあっては国内民間投資家が総国債残高の約70%を保有し,その民間投資家保有国 債総体の半分ほどを,商業銀行を筆頭とする営利企業が保有した。したがって,その時期では,
資本証券としての国債の第一義的役割は営利企業の利潤獲得手段としての役割にあった,と言 うことができる。
しかし,営利企業の国債保有比率がその後に激減してきたことは既に見た通りである。他方 では,退職貯蓄を投資原資とする国債保有の比重が増大してきたわけであるが,それは,もち ろん,退職貯蓄の運用対象資産,すなわち退職資産として国債が保有されていることを意味す る。かつてのように,営利企業の利澗獲得手段としての国債の役割は大きく後退し,年金プラ ンや家計の退職資産としての役割が現代国債の主要な役割の一つとなってきたのである。
人口の高齢化の進展は家計にとって退職貯蓄の重要性を増大させるし,年金プランの充実を 社会的に必要とさせる。そして年金プランとリンクした退職貯蓄を中核とする,退職貯蓄の成 長は,その運用対象たる退職資産への需要を強めることとなる。
国債はその退職資産ポートフォリオに必要不可欠な構成要素としての固有の性質を有してい る。国債はその元利支払いが徴税権に基礎づけられているがゆえに本来的に高い安全性,すな わち,そのデイフォルト・リスクが他の金融資産に比べてミニマムであるという特性を有する 資本証券である。そして,退職貯蓄の運用は,その目的からして,長期とならざるをえないの であるが, 20年間あるいは30年間という,まさに長期の運用の場合,運用対象としての,国債 の安全性はますます際だち,他の金融資産の追随を許さない。したがって,長期国債を中心に 国債は退職資産ポートフォリオに必要不可欠な重要な構成要素として,それに組み込まれるこ とになったのである。
しかも, 1997年からは,長期投資にとって重要な投資元本および収益のインフレーション による減価のリスクをも回避できる,インフレ・ヘッジ機能をも備えた物価連動国債も発行さ れるようになった。こうしたことも加わり,退職貯蓄の成長は国債への需要増大へと作用し,
それゆえにまた,それは国債の消化源泉としての比重を高めるとともに国債の役割の変化を も惹起してきたわけである。
VI.退職貯蓄の成長と財政危機の深化
退職貯蓄の成長は国債の安定的消化に貢献し,また,国債の役割の変化をも惹起したのであ るが,他面で,別の作用をも内包してきた。それは年金プランに適用される租税優遇措置に関
係している。
年金プランには退職貯蓄の形成の促進を目的として,租税優遇措置が適用されている。
たとえば,税制適格要件を満たす,企業の雇用主提供年金には,雇用主側の拠出分は経費に 算入され,また,被用者の拠出分は個人所得の算定での総所得には算入されず非課税とされる。
さらにその年金原資の運用益は発生時には課税されず繰り延べられる。そして,被用者が年金 を受給する,あるいは,年金資産を取り崩す段階となって,それらに個人所得税が,その時点 でのその被用者への限界税率を適用しつつ課される。
もちろん,種々のタイプの個人退職勘定やケオ・プラン, さらには,税制適格年金と認定さ れた州・地方政府年金プランなどの公務員年金にも租税優遇措置が適用される。
なお,社会保障年金では,拠出時課税・給付時非課税とされてきたが, 1983年からは,一定 の所得条件に適合する者のみが給付時非課税の扱いとされている。
年金プランヘの租税優遇措置はその適用を受ける企業や個人などに税制上の利益を与える。
その利益は税制を通した政府補助金とも見なされるので,租税支出 (taxexpenditures)とも 表現される20)。
租税支出は当然の事ながら税収=歳入のロスをもたらす。年金プランのみならず他の分野で の租税優遇措置からも生じる租税支出=歳入ロスの合計額,すなわち総額と,そこに占める,
年金プランのみに関わる租税支出の比重について,2005年度でのケースを例として取り上げて,
見ておくことにしよう。
2005年度では,「…租税支出と結合した歳入ロスの見積り額は7,750億ドル超であり,そして また,このロスの圧倒的大部分は法人よりもむしろ個人に与えられた租税支出によるものであ った」21)と指摘されている。同年度の個人所得税総額は9,270億ドルであるから,租税支出によ る歳入ロスは個人所得税総額の83.6%に相当する巨大なものであるのがまず分かる。
そして,その歳入ロスはもっぱら個人所得税レベルで生じるとされているのであるが,同年 度での,個人所得税での租税支出を見るならば,そこでは7つの少数の租税支出項目が巨額の 歳入ロスをもたらしているのを見いだすことができる。
すなわち,①保険料とメデイケアのための雇用主の拠出金の非課税による歳入ロスの見積り が1,184億ドル②自己所有住居に関わるモーゲージ金利の控除によるそれが622億ドル③扉用主 提供確定給付年金プランでの,拠出金とその収益の非課税によるそれが506億ドル④子どもの 税額控除によるそれが418億ドル⑤雇用主提供40l(k)年金プランでの拠出金とその収益の非課
20)アメリカの年金プランヘの租税優遇措置については,五嶋陽子「アメリカの年金と医療の租税優遇措置」
渋谷博史・中浜隆編『アメリカの年金と医療』日本経済評論社, 2006年,第6章, 227‑251ページを参照。
21) GAO, Individual Income Tax Policy : Streamlining, Simplification, and Additional Reform Are Desirable, August 3, 2006, p.9.
8 関西大学商学論集 第55巻第5号 (2010年12月)
税によるそれが374億ドル⑥自己所有家屋以外への非営業州・地方税の控除によるそれが365億 ドル⑦住宅売却によるキャピタル・ゲインの非課税によるそれが360億ドル,である22)0
以上の7つの項目での歳入ロスの合計の見積り額は3,831億である。それは2005年度での租 税支出による歳入ロスの見積り総額の約半分を占める計算となる。
そして注目すべきは③と⑤の項目である。それらはともに年金プランに関わるものであるが,
その歳入ロスの見積り合計額は880億ドルとなる。それらは,租税支出による歳入ロスの見積 り総額の約23%を占める。また,それらは, 2005年度の個人所得税総額の9.4%に相当する, と 計算できる。
もちろん,それらの数字は個人退職勘定などの他の年金プランに関わる租税支出を含まない のであるから,それらをも含めれば,年金プラン総体に関わる歳入ロス規模はより大きくなり,
それゆえにまた,それの,歳入ロス総額や個人所得税総額に対する比率も,より大きなものと なるであろう23)0
それでは,そうした莫大な歳入ロスを伴う,年金プランヘの租税優遇措置は,退職貯蓄形成 の 促 進 と い う , そ れ の 本 来 の 目 的 を 達 成 し て き た の で あ ろ う か 。 そ れ に 関 し て は , 例 え ば GAOの論文は次のように指摘している。
「租税インセンティブは人々の退職に備えた貯蓄の仕方に影響を及ぽしたかもしれないが,
必ずしも,個人貯蓄の全体水準を上昇させてはいない。雇用主提供退職貯蓄プランや個人退職 勘定 (IRA)への租税優遇措置があってさえ,個人貯蓄率は着実に低下してきた。たとえば租 税上の利益は個々人がこれらの種類の勘定に拠出するのを促進するように見えるけれども,拠 出された金額は必ずしも新たな貯蓄ではない。拠出のいくらかは,その租税インセンテイプが 無くてさえ生じていたであろう貯蓄を表すのかもしれない—あるいはまた,課税資産からシ フトされた, もしくは,借入によりファイナンスされたものですら,あるかもしれない――。
ェコノミストは,租税インセンテイプが個人貯蓄の全体水準を上昇させることに効果的であっ てきた,あるいは,効果的であり得る,かどうかについては意見が一致していない。」 24)
この指摘に従うならば,年金プランの租税優遇措置は個人の貯蓄水準の引き上げに作用する 22) Ibid, Figure 5, p.11を参照。
23)連邦議会下院歳入委員会の資料によれば,2005年度での,年金プラン関係の連邦個人所得税レベルでの租 税支出による歳入ロスの見積り額は,①年金の拠出およぴ運用益へのネットの非課税により,(確定給付型 および確定拠出型の双方を含む)雇用主提供年金プランでは993億ドル, IRAでは155億ドル,ケオ・プラ ンでは65億ドル②社会保障年金およぴ鉄道退職プランの給付金の非課税により208億ドル,となっている。
以上については, HouseWays and Means Committee, Estimate of Federal Tax Expenditures/or FY2004‑
FY2008, 108th Cong., 1st Sess., December 22, 2003 (http:/ /web.lexis‑nexis.com/congcomp/document?̲ m,2010/02/08)を参照。
24) GAO, National Savings : Current Saving Decisions Have Profound Implications for Our Nation's Future Well‑Being, April 6, 2006, p.17.同様の指摘については, IndividualIncome Tax Policy : Streamlining, Simplification, and Additional Reform Are Desirable, p.9を参照。
ことなく,もっぱら,年金プランにリンクした退職貯蓄の増大に作用してきたことになる。別 の表現をすれば,その措置は歳入ロスにより連邦政府の貯蓄を減少させつつ,それを埋めるに 足りるほどの,家計の追加的貯蓄すらもたらさなかったことになる。そのことはまた,その措 置が国民貯蓄を増大させることで国内での国債の消化能力総体を高める,よう作用するわけで もなく,もっぱら,財政危機を深化させて国債の発行規模を拡大させることで,結果として,
外国人・国際機関への国債消化依存を強めさせる, ようにも作用してきた, と言える。
VII.退職貯蓄の成長と経済格差の拡大
年金プランとリンクする退職貯蓄の成長は,財政危機を促進し,また結果として国債消化の 外国人・国際機関への依存を高める作用を随伴しただけではない。それは「自助型」年金プラ
ンの利用者と非利用者との間での経済格差を拡大する,という作用をも随伴してきた。
2008年5月現在で,「自助型」年金プランの中で,雇用主提供年金プランに加入し,それの みを利用しているのは全所帯 (11億6,800万所帯)の29%,個人退職勘定のみを有しているのは 9%,雇用主提供年金プランに加入し,かつ,個人退職勘定も有しているのは32%,雇用主提 供年金プランに加入せず,かつ,個人退職勘定をも有しないのは30%である25)0
もちろん,以上の年金プラン利用状況には, 自営業者を対象とするケオ・プランの利用者は 含まれていない。ケオ・プランの利用者は,直近の2005年度での,そのプランヘの租税優遇措 置に関わる個人所得税申告を行った者の数に基づけば, 125万7千人である26)。
したがって, 2008年5月現在で,全所帯の30%,すなわち, 3,504万所帯が雇用主提供年金プ ランも個人退職勘定も利用していないわけであるが,それらの所帯には,その二つのいずれを も利用してはいないものの,ケオ・プランは利用する所帯が含まれるとしても,その所帯数は,
その二つの年金プランを利用しない所帯数 (3,504万戸)の数パーセントの数字に留まる,と 考えることができる。だからまた, どの「自助型」年金プランも利用していない所帯は全所帯 の30%近い,と考えても大きく的をはずれてはいないであろう。では,どのような所帯が,「自 助型」年金プランを全く利用していないのであろうか。その点を,「自助型」年金プランの中 心をなす,雇用主提供年金プランを取り上げつつ見ていこう。
2007年3月現在での,そのプランヘの民間企業の労働者の加入率を見てみれば,それは51%
である。フルタイム労働者に限定すれば,その加入率は60%であり,他方,パート労働者では 23%に過ぎない27)0
25) 2009 Investment Company Fact Book 49th Edition, Figure7.2, p.84を参照。
26) U.S. Department of Commerce, Statistical Abstract of the United States: 2009, October 2008, Table 473. p.314を参照。
27) Ibid., Table 532, p.350を参照。
10 関西大学商学論集 第55巻第5号 (2010年12月)
さらに,フルタイム労働者の年収別加入率を見れば, 2000年現在のデータではあるが,年収 6万ドル以上の労働者層での加入率は約70%であるのに対し,年収2万ドル以下の労働者層で は約30%である28)。
このように,雇用主提供年金プランの例でも見られるように所得水準の高い労働者層ほど,
年金プランの利用度が高いのであるが.それには年金プランヘの租税優遇措置が密接に関連し ていることが指摘されている。
すなわち,「個人所得税の累進構造は……年金に対する税優遇の利益をより低い所得の労働 者によりも,むしろ,より高い限界税率を支払う,より高い所得の労働者に対してこそ,相対 的により大きくする。したがって.この税の優遇は会社のオーナーや重役が自分達やより高い 所得の従業員に対して,年金プランを提供するインセンテイプを与えるのである。」29)
逆に言えばより所得の低い者こそ,そのプランの利用動機は弱い。また仮にそれの利用動 機を有したとしても,雇用主提供年金プランの場合では,企業規模が小さくなるほど,収益性 の低さとの関連で,そのプランを提供する企業の比率は低下するから,零細小企業の従業員の ほとんどはそれの利用の機会すら与えられていない. ということになる30)0
所得水準が高い者ほど.「自助型」年金プランに参加して退職貯蓄を形成・運用することで,
租税優遇措置から,相対的により大きな租税支出を獲得し,それゆえにまた.保有退職資産か らより高率の運用成果を得ることができる31)0
そして, 1987年に限定されるものの.実際にどの所得階層が年金プランヘの租税優遇措置に よる租税支出をどの程度得ているのかを示したのが表ー4である。
それを見ると,全所帯数の24.8%を占める.家計所得が3万ドル以上〜5万ドル未満の所得 階層の所帯が,その租税優遇措置から最大限の利益を享受しているのが分かる。それは連邦所 得税総体の22.10%を負担する一方で.租税支出総体の44.72%を享受し.その.所得税の負担 シェアに対する租税支出の享受シェアの比率(以下.負担・享受比率と記す)は2.02倍に上っ ているのである。そして.それに次いで,租税優遇措置からの恩恵を得ているのは,家計所得 が2万ドル以上〜3万ドル未満の所得階層であり.それの負担.享受比率は1.04倍である。
しかし,家計所得が2万ドル未満の各所得階層では,負担.享受比率は1.0倍を下回り. し
28) GAO, Private Pensions : Improving Worker Coverage and Benefits, April 2002, pp.14‑15を参照。
29) Ibid., p.17.
30)その点については次のように指摘されている。「小企業は雇用主提供年金プランを提供することへの障害 として,年金のコストをしばしば引用するけれども.調査によれば,その会社の収益性の不十分さや従業 員の選好もまた重要な障害であることが示されている。」 (/bid.,p.6)また,従業員規模1,000人以上の企業 層では,雇用主提供年金プランを提供する企業数は全体の86.3%を占めるのに対し,従業員規模10人以下の 企業層では.それは12.9%に過ぎないなど,従業員規模が小さくなるほど,雇用主提供年金プランを提供す る企業の比率が小さくなっていることについては, Ibid.,Table 1, p.13を参照。
31)これの例証については, Ibid.,pp.38‑40を参照。