日本再建への胎動と科学技術
その他のタイトル The quickening toward the reconstruction of Japan and science technology
著者 友松 芳郎
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 7
号 2
ページ 15‑38
発行年 1976‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023149
第
1
節 産 業 経 済 の 危 機 石炭危機の実相友 松 芳 郎
終戦 2年目は祖国再建の年である。われわれは何よりも,まず産業経済の再建をはからなけれ ばならない。しかし,まだ敗戦のどん底から立ち直れる気配は,どこにも見られない。狭い国土 に多い人口
( 1 9 4 5
年1 1
月1
日現在で7 2 0 0
万人)をかかえ,国内資源の乏しい日本にとって,外国 貿易に高度に依存する平和的工業国家の建設こそ,唯一の生きる道であると考えられた。しかし 産業経済再建の大前提は何といっても,労働力と生産力の拡充でなければならない。ところが労 働力を再生産するべき食糧は深刻な欠乏を来たし,生産力の源泉となるべき石炭は,極度の涸渇 に瀕している。貿易は遮断され,窮乏する物資と激化するインフレのなかで,国民は労働意欲を 喪失し,失業者は街に溢れ,闇が横行している。敗戦国日本は,いまや四等国乃至五等国に転落したのである。
たとえば, 石炭飢饉を招いた真相は, こうである
D
。 即ち, 当時わが国の石炭埋蔵量は16
億 トンとみられ(商工省1 9 3 2
年の調査), そのうち9
割近くが採掘可能といわれていた。しかし,従来からわが国の採掘は,欧米に比べて,機械化などの固定資本の投下が著しく僅少で,もっぱ ら低賃金労働の消耗的酷使に依存していた。採掘技術として合理的で堅実な長壁後退法は,採炭 までに多額の固定資本を要するため敬遠され,戦時中の多くの炭鉱では,すぐに採炭効果の挙が る前進方法による安易な,しかし不合理な採掘技術が,きわめて無計画に採用されていた。その うえ,戦争が長びくにつれ,炭鉱労働者は質的に次第に低下した。これは,きわめて不公正な給 与と不十分な食糧のもとに過酷な労働を強制され,そこには,種々の疾病が漫延し,食糧買い出 しのため欠勤が増加し,坑内事故が続出するなどの悪条件が重なるばかりで,かれらの勤労意欲 が著るしく阻害されていたからである。このような諸矛盾は敗戦とともに一気に爆発した。炭坑 夫として働いていた捕虜や朝鮮人労働者は,勝利者に立場を変えて強制労働から解放され,熟練 した日本人坑夫の大群も山を去った。採掘技術の機械化どころではなく,戦時中酷使された坑内 の機械機具の補修,改善さえも殆んど,不可能であった。石炭なしには,どのような鉄製資材も 製造されるべくもなかった。たとえ製造されても横流しや買占めが甚しい。この悪循環はますま
中 本誌前号に掲載した論文「敗戦直後の占領政策と科学技術」につづくものである。
‑15‑
す拡大した。不合理な採炭法のため,落盤,水浸しが戦時中よりひどいものになった。資本家,
経営者は炭鉱国営の声におびえ,インフレに便乗して独占価格の吊り上げをねらい,意識的に生 産のサボクージュをきめこんでいた。高い生産費をかけて掘るよりも,闇流し物交の流通面でボ ロ儲けに耽っている。石炭は不足すればするほど値上りするので,そのときを待って生産しよう という構えである。このような石炭事情は, 日本の産業経済再建のために到底許さるべきではな い。何はともあれ,まず労働者の充足が焦眉の急務とされた。政府は 6万の労働者を募集しよう
としたが,全国に
1 0 0 0
万人を越える失業者があふれているにもかかわらず, この6万人の充足が きわめて困難であった。これは終戦後,山を去った多くの坑夫たちが,それぞれの故郷で,監獄 部屋ともいうべき炭鉱事情を語り伝えていたからであろう。新規採用者は,未熟練の初心者が多 く,能率はきわめて低い。( 1 9 4 5
年4
月,坑夫1
人1
月当り8 . 8
トンから同年10
月2 . 2
トンまで低 下2 ) )
政府は12
月( 1 9 4 5
年)から日給を2
倍引き上げて平均12
円とし,主食は従来基準配給400g, 特配200gであったのを,特配を700gにした。しかし,この程度の引き上げでは,激化するインフレと荒廃した坑内状況,加わうるに劣悪な住宅事情のなか,勤労意欲の昂揚は期待すべくもな かった。労働者たちは,新に与えられた権利に動かされて, 自主的な労働組合を結成しようとし たのは当然であった。しかし,旧財閥(三井,三菱,古河)炭坑ならびに筑豊「御三家」具島,
安川,麻生の各炭坑の経営者たちは,相互に連繋して,労働組合の結成を阻止,弾圧する挙に出 た。政府は,上記のごとき対策のほかに,炭価引き上げ,炭坑への融資及び石炭庁の創設等の政 策を打ち出したが,これらは,いずれも従来の制度にメスを入れず,旧来の機構のまま,石炭資 本を擁護することによって,増産をはかろうとするものであったことは否めない。
鉱 山 造 船 鉄 鋼 1製 錬 造 機
~
昭
2 1 1 4 5 I 1 7 I 3 2
(国民経済協議会調べ)
産 業 別 石 炭 荷 渡 実 験
3 )
(単位万トン):,~I : , ; I~,:
佳1
食:~~1巴::\:,~I;そ:1=~:1そ更苧
1 0 2 I 1 9 0 I 7 4 I 3 8 I 1 3 8 _l_~~~136 I 7 8 1 I 2 2 8 3
こうして,石炭飢饉は,鉄鋼,肥料,繊維ほか各種化学工業,機械工業,電力,輸送など全産 業を深刻な危機に導きつつあった。科学技術の振興が産業経済の復興に緊密に機能するという望 ましい関連的役割は,このような危機的状況のなかでは,単なるデスク・プランとしては成立っ ても(これは次頁以下に述べる), 到底, 現実の問題とはなりえなかった。というのは,そうな るための前提条件が,すでにこのように破綻していたといっても過言ではなかったからである。
政府は日本再建,復興のため, どのような政策をとったのであるか,次にそれを述べる。
金繭緊急対策
幣原内閣の産業経済再建政策は,まずインフレを抑制し,物価を安定させることによって,生
‑16‑
産増強,経済復興を計画的,合理的に推進させようとするものであった。そのため.金融緊急対策 措置令を中心に.物価,生産の各方面にわたるインフレ抑制の総合政策を打ち出した
( 1 9 4 6 , 2 , 1 6 )
。金融の緊急対策は,預金を封鎖し,従来の「円」の流通(2
月1 8
日現在の日銀券6 1 8
億2 4 0 0
万円)を禁止し. 「新円」を発行(3
月1 2
日には新円1 5 2
億円),世帯主3 0 0
円.家族1
人1 0 0
円の 新円生活を強制するものであった。一方.軍需企業への融資が全部焦げつき.すでに流動性を殆 んど失っていた金融資本にとって.この預金封鎖は,まさに絶好の救済にほかならなかった。し かも,政府が,重大なインフレ要因である軍需補償の支払いを容易に打ち切ろうとしなかったの は,それが軍需をまかなかった大企業を救済し,金融資本を立ち直らせるという構想であったか らである。このような政策は,勤労大衆の犠牲によって,産業資本と金融資本を保護育成せんとする不公 平な国家管理であるとして. 野党各派や諸新聞は, 厳しい批判をあびせたのは当然であった丸
日本産業経済の再建は,単純に戦時の産業経済から乎時の産業経済への転換をもって足れりとす るものではない。戦時の産業経済を行った支配階級が,その旧来の体制の枠組のままで達成さる べき転換であってはならない。それは.政治的にも.経済的にも,旧体制を破壊しつつ,民主主 義革命を通して達成さるべき転換を,その至上命令とするのである
5 )
。 しかるに,幣原内閣が旧 体制に密着した反動政府であることは,首相が三菱財閥の婿であり,蔵相が渋沢財閥の家長であ るばかりか,公職追放令( 1 9 4 6 , 1 , 4 )
に引かかった数名の閣僚をかかえていたことからも明ら かであった。この反動内閣が民主主義革命を推進すぺき地位に立つこと自体,全く自己矛盾であ るといわざるをえなかった。こうして,民主化運動が倒閣運動として膨拝と高揚してきたのは,当然の成り行きであった。
技術振興政策のデスク・プラン
このような危機的状況のなかで.外務省調査局が
1 9 4 6
年3
月発表した特別調査委員会報告「日 本経済再建の基本問題」6 )
は. 戦後日本のとるべき外交が経済を基底とすべきであるとの構想に 立って.日本の再建経済の基本的あり方を把握するため,外務省調査局の委嘱により結成された 次のごときメンバーが.敗戦直後の8
月( 1 9 4 5
年)から翌年3
月まで約4 0
回にわたって開催され た特別調査委員会の研究討議によって.まとめたものである。有沢広己.安芸絞ー,稲葉秀三,石川一郎,宇野弘蔵,大内兵衛,亀山直人.近藤康男.土屋 清,東畑精一郎,中山伊知郎,山田盛太郎,脇村茂太郎など。
その内容は.次の目次のごとくであった。
前編 日本経済再建の前提 第
1
章世界経済の基本的動向 第 2章 日本経済の国際的環境 第3章 日本経済の特殊性~17~
第4章 日本経済の新たに当面せる諸条件 後編 日本経済再建の方策
第
1
章 経 済 再 建 の 基 本 的 諸 問 題 第 2章 国 民 生 活 の 保 障第3章 経 済 体 制 の 再 建
第4章 経 済 再 建 の 具 体 的 諸 問 題 第5章 当 面 の 対 策
本報告においては, 日本再建の大前提として,戦後世界経済の推移を総合的にとらえ,再建の 基本的方向を経済の民主化と技術の高度化におこうとするものであって, ここに引用しようとす る後編第
4
章の第4
節「技術の振興」は,すでに指摘したごとく,産業経済の破局的現実からは 遊離したデスク・プランであったとはいえ,この報告を作成したすべての委員が「経済と技術と の新しき結合の上に,来るべき世界の,従って又日本の将来も建設せられるべきであろう」という共通の認識に立っていたのであった。
まず,その前文はつぎのように述べられている。 「終戦に伴い,軍需工業の解体,工業生産の 停滞,一部研究の制限ないし禁止等の結果として多数の技術者が失業し,一方安価な余剰労働力 の存在は,今後における生産工程の機械化其の他の技術的改善に対する意欲を減退せしめ,技術 者の活動すべき場面は益々狭められる傾向にある。かくて科学技術の発展にとって,一見不利な 諸条件が存在するごとく見える。しかし今後の日本経済再建においては,技術が主体的役割を演 じなければならないのであって,技術の重要性は戦時中に比し更に加重されているのである。日 本経済再建の基本的方向は経済の民主化と技術の高度化にある。民主化なくしては技術の高度化 は達成し難いと同時に,又技術の高度化なくしては真の経済の民主化は達成せられない。以上の 見地に基き今後の経済再建において技術の果すべき役割に就いて略述する。」
以下各項目を要約しながら引用を試みよう。
(1) 日本技術の任務
1 ,
狭い国土に過大の人口を養うため土地,資源及びエネルギーの徹底的開発と集約的利用の 技術的研究2 ,
技術の高度化による輸出貿易の維持発展こそ,国内資源乏しき日本の生きる道である3 ,
チープレーバーの解消に対する技術の貢献4 ,
東亜諸地域工業化への日本技術の参加協カー一一欧米の製品や技術より日本のそれの方が観 迎せらるべき面が多く残されている一一5 ,
経済計画化の技術の推進( 2 )
今後における日本技術の性格軍事的性格の技術から国民へ奉仕し,生活の向上,環境の改善をもたらす技術へ
植民地的な模倣本位を脱し,世界の流行を追うことを廃し,乏しい資源,豊富な労働力の存在
‑16‑
する日本の条件に即応した生産力を拡充する技術へ。
世界の産業動向に注意し,わが国に有用と目される技術は悉く自家薬籠中のものとし,また物 理学及び化学の応用を中心とする工学的技術と同時に,生物学的技術にも重点をすすめる。
(3) 技術に関する今後の諸施策
1 ,
技術研究の奨励と組織化研究者数の増大,一般的な技術水準の高揚,研究者の組織的集団の大規模化,天才的研究者の 発見と養成っ
2 ,
研究費の支出研究費に対する従来の主なる資金源であった軍閥が解体された結果,今後は国家が相当額を負 担し,研究基金のごとき機関をつくる。研究費の有効な使用,配分のため,研究マネージャーの 出現を期待するとともに研究成果の公開と批判にもとずく適正な民主的配分法を考案する。
3 ,
技術研究の実用化外国において実用化された技術を安易に輸入することなく,発明発見の成果を生産化するため,
さらにはパテントを重要輸出品たらしめるため,実用化研究を重要視しなければならない。その ため中間工業化試験組織の充実拡大を図り,その資金は公共的な機関が負担する必要がある。
4 ,
技術の綜合化各専門分野の間に極端なセクショナリズムが存在する。例えば,化学工業部門では化学技術者 が優遇され,機械,電気などの技術者はその工場に重要であるに不拘,とかく冷遇される等のた め,優秀な技術者は自己本来の専門分野に集中し,その結果各専門分野の中間に介在する領域の 発達をおくらせることになる。このような弊害を打破するため大局的見解の涵養,専門にとらわ れず事実の解決に直進する態度の養成などが必要。たとえば,技術は経済を離れて存在せず,経 済学は綜合的な思考方法を教えるから,技術者に経済学的教養を与えるとか,具体的綜合的なテ ーマをとりあげ,各分野の専門家が協力して綜合的に解決にあたる習慣を養う等の方法を採用。
5 ,
基礎的研究の重視技術の綜合化と並行して,基礎的研究ないしは専門的研究を深めるべきはいうまでもない。
6 ,
技術水準の全般的向上優秀な技術は社会の宝である。これを普及して社会全体の生産力向上に役立てることが望まれ る。そのため発明考案者の利益保護,国家的報賞,技術の解放を可能ならしめる法律的措置,技 術者の資本に対する隷属よりの解放などが必要となる。
7 ,
規格統一の促進8 ,
諸外国との間における技術交流技術導入,海外文献の組織的紹介と醜訳,優秀学徒の海外留学,海外の優秀研究者の招聘,従 来の駐在武官に代って技術アクッシェの派遣。今後のわが国の外交は,従来の政治的軍事的ない しは儀礼的性格を稀薄化し,経済的ないしは技術的諸問題が外交上の最も主要な且つ現実的な問
・
ー 1 9 ‑
題となるであろう。たとえば,前述の東亜諸地域の工業化に対する日本技術の協力といった課題 が外交上基本的重要性をもつにいたるであろう。
9 ,
輸出産業の技術研究主要輸出商品,たとえば,茶,和紙,陶磁器, ゴム製品,ガラス製品,時計, 自転車等の生産 について,材料,設計,工作,処理方法,意匠等あらゆる方面にわたって,徹底的且つ組織的研 究を行い,検査制度を充実して品質を保証しなければならない。
(4) 技術者の自覚
技術者は今後の日本経済再建における技術の主体的役割を認識し,自己の責任を自覚せねばな らない。技術の内部におけるセクショナリズムを打破し,常に眼を社会全体の利益に注ぐととも に,同じく生産者たる労働者階級の生長発展に深甚なる関心を懐くべきであろう。技術における 因襲的な親分乾分関係を清算し,実力にもとずく公正な競争を可能ならしめるとともに,社会も また国民の最も優秀な分子を技術に志向せしむるごとき全般的雰囲気を醸成せねばならない。こ のためには特に官界における技術者ないし専門家軽視の風潮を改め,専門的な学識を尊重活用す る努力が払われねばならない。以上。
ここに述べられた日本技術振興政策は,いずれも異論のないところであって,それ以後いくた びか書き代えられた技術政策の基調となったのである。しかしこれらの政策が現実の問題となる のは, 日本産業の量産体制が,ある程度,復興の路線に乗ってからであったといわざるをえない のである。その量産体制はいかにして回復の契機をつかんだか,それを次節に述べよう。
引 用 文 献
1 )
「石炭飢饉の真相」 『毎日新聞』 昭和21
年1
月3日 8日所載
「石炭危機の実相」『日本評論』第2
2
巻 昭 和22
年3 . 4月号
「石炭危機の真相」『社会評論』第
3
巻 昭和21
年再建第6
号2 )長洲ーニ: 「戦後技術の展開と産業の変貌」 『現代日本産業講座 1
』p . 2 5 6
岩波書店1 9 5 9 3 )国民経済協議会調:『毎日年鑑』 昭和2 3
年版p . 3 7 7
4 )美濃部亮吉: 「復興か壊滅か」 『毎日新聞』昭和2 1
年2
月18
日所載川上貫ー: 「幣原モラトリアム政策の反動性」 『社会評論』 再建第
2
号(昭和21
年5月号)社説「綜合対策の非綜合性」 『毎日新聞』昭和2
1
年2
月18
日所載 社説「納得出来ぬ政府の政策」 『毎日新聞』昭和21
年2
月2 1
日所載5 )川崎己三郎: 「産業再組織と民主統一戦線」 『潮流』第 1
巻第3
号6 )外務省調査局特別調査委員会報告:「日本経済再建の基本問題」 1 9 4 6
年3月発表『日本科学技術史大系』5 , p . 7 4 ,
資料2
ー4 。
第2節 再 建 へ の 模 索
経済安定本部の設置
新円は,
4
月(1946
年)以降,毎日2
億円のペースで増加をつづけ,5月半には日銀券の発行
高は早くも 300億円を越えた。産業は依然として麻痺状態に近く,インフレは再び高進し,幣原‑
20~
内閣のインフレ抑制の総合政策は, もはや破たんしたといっても過言ではなかった。代わって登 場した吉田内閣
( 1 9 4 6 , 5 , 2 2 )
は, この危機を打開するため, 新に経済安定本部及び物価庁を 設置した( 8 , 1 2 )
。これは生産,消費物価,労働,金融,輸送の全面的な経済計画を立案調整 して, これを各省に実行させるという,内閣レベルの強力な機関を構想するものであった。しか し経済安定本部長官に東大の大内兵術教授を迎えようとして拒否され,最初に蹟づいた。インフ レを抑制するためには,軍需補償の打ち切りが不可欠であった。しかし財界や産業界からは「軍 需補償の打ち切りは大企業や銀行に壊滅な打撃を与え,資本主義の基盤である信用制度を崩壊に 導く」7 )
として強い反対が表明されていたが, 国内の革新勢力からばかりでなく, 連合国側から も全面的な打ち切りが強く主張され,政府は企業や銀行の致命的損失にならないよう対策を配慮 することにして,ついに軍需補償の打ち切りを声明した( 1 9 4 6 , 8 , 1 2 )
。そして企業のためには 会社経理応急措置法( 8 , 1 5 ) ,
企業再建整備法( 1 0 , 1 9 ) ,
銀行のためには金融機関経理応急措 置法( 8 , 1 5 ) ,
金融機関再建整備法( 1 0 , 1 9 )
が公布された。こうして企業の再建整備は, 日本 興行銀行内に先きに設けられていた復興金融部( 8 , 1 ) ,
それが独立した復興金融公庫( 1 0 , 2 )
と呼応して進められることになった。
企業の再建整備の過程は,必然的に経営の合理化を含む。生産の規模は縮少しているのに反し,
外地からの復員,帰還によって雇傭は過剰となっている。人員整理は不可避であった。こうして 労働争議は多発した。いわゆる「十月攻勢」といわれた多くの労働争議は生産管理斗争に拡大化 し,経営協議会が持たれたが, これはしばしば経済ストから政治ストヘと転化し,民主戦線と保 守戦線の対決という形をとるようになってきたのである。
縮少再生産の実態
政府の再建政策をみると,これは実質上企業に対する金融対策にとどまり,生産面における増 強策にはほとんど触れるところがない。一体当時(昭和
21
年後半)の生産情況はどうであったの か。商工省が発表した生産実績を基礎として,国民経済研究協会が作成した「戦後における生産 活動指数」によれば,次のようである。 (昭和10
年12
年の平均を1 0 0
とする)東大の有沢広己教授は, こ の数字から次のように分析す る
8 )
。即ち,「総合生産指数は 終戦直後の 9月に対し,翌年 9月には約3 . 5
倍に増加して おり,これは製造工業におい ても同様である。ところが鉱 業は,その間に約2倍になっ たにすぎない。その結果,製総 合 生 産 指 数 製造工業生産指数 鉱 業 生 産 指 数 消費財生産指数 生産財生産指数 電 力 消 費 指 数 瓦 斯 消 費 指 数
‑ 21‑
l
昭和2 0
年4月]昭和2 0
年9月1
昭和2 1
年9月I 2 4 . 7 I 9 。 I 3 1 . 8
I 2 1 , 7 I 8 . 4 I 3 1 . 4
I 7 8 . 2 I 2 0 . s I 4 2 . 2
I 1 4 . 5 I 3 1 . 6 I 5 1 . 1
I 5 2 . o I 7 . 7 I 3 0 . 7 1 0 1 . 1 I 4 8 . 4 I 1 1 1 . 3
1
6 3 . 5
I1 7 . 6
J1 4 . 1
造工業と鉱業との対比は,終戦直後の
9
月には1
対2 . 5 , 1
年後の9
月には1
対1 . 5
となっている。これは製造工業の増加が鉱業の増加よりも急速であるからで,これを終戦前の4月と翌年(昭和
2 1
年) 9月の数字で比べると.,製造工業は2 1 . 7
から31.4へと約50%
増大しているのに反し,鉱業 は7 8 . 2
から4 2 . 2
へと約45%
減少しているのである。この関係は消費財生産と生産財生産の推移に おいて,ーそう鋭く現われている。即ち,昭和20
年4
月には消費財生産1 4 . 5 ,
生産財生産5 2 . 0
と 生産財の生産が圧街的優位にあったが,昭和2 1
年 9月には 51.1と3 0 . 7
とその地位が完全に顛倒し ている。戦時における生産財生産のこの優位は,軍需生産を中心とする生産体系の遂行のためで あり,従ってその優位にもかかわらず再生産的基礎は拡大されるどころか,かえって縮少せざる を得なかった。それが消費財生産の異常な収縮となって現われている。然らば終戦後における消 費財生産の急速な増大と生産財生産に対するその優位とは,何にもとずいているのか,終戦直前 の昭和2 0
年7
月(これは前記の表に出していない)には, 生産財生産2 7 . 8 ,
消費財生産5 . 6
と両 部門とも異常な収縮を示しているが,しかしなお生産財生産の優位はほとんど同じ比率で維持さ れている。それが顕倒の運動を起したのは,終戦の8
月であり,この時,生産財生産1 2 . 1
に対し て消費財生産2 6 . 7
と逆転している。それ以来の運動は,この表にみられるごとく,むしろこの8
月における地位顛倒の延長であるとも考えられる。それ故終戦後の消費財生産を先頭とする生産 活動の実体を解明する鍵は 8月におけるこの顛倒のうちに求めなければならない。それは終戦に 伴う莫大な放出物質,即ち,戦時中のストックの解放以外には求められないのである」と。ここに導き出された結論は,すでに多くの識者によって指摘されているが,それが計量的に裏 付けられたわけである。ここでいわれる戦後増大した消費財生産の実例は,当時よく出まわった 鍋,釜,農具,食器類のたぐいで,これらは戦時中の軍需資材の残存ストックから生産されたの である。しかしストックには限りがある。この限りあるストックが生産財生産と消費財生産とに どのように配分されるかが問題なのである。現実には生活物資の充足とインフレの克服のため,
ストックが食いつぶされるにつれ,縮少再生産の一途をたどり,翌(昭和
2 2
年)春には日本経済 は破局に突入することが予想され,「三月危機」が叫ばれるにいたった。新聞論調においても「原 料の大量輸入のほか途なし」とか「国家の大資本投入が必要である」とか「炭鉱の国営」とかが 論じられるようになったのである。そこで危機の実態をいま少しく具体的に説明すると,こうなのである,生産増強のためには戦 時中酷使されて損傷した生産設備の復1日が先決条件である。そのためには生産財の生産を増強し なければならないにも拘わらず,前述のごとく,ストックが生産財よりも消費財の生産に多く廻 わっている。経済安定本部の調べによると,昭和
2 1
年第3
四半期( 1 0
月12
月)における重要生 産財の生産は,コークスとかソーダが需要の4
割程度,鉄鋼にいたってはわずを1
割5
分そこそ こにすぎない。このように生産が少くなくなっているのは石炭が足りないからである。しかもこ れら生産財の供給不足を補ってきたのがストックであったが,そのストックが有効に使われずに 第 3四半期には底をついてきたのである。これを救うものは石炭の増産しかありえない。ところ‑ 2 2 ‑
が,既に述べたように
(15 6
頁),それを阻むものが鋼材の不足なのである。鋼材は炭坑内の運 搬用レール,炭車,逆排気用鋼管,逆排水用鋼管,洗選炭機などの製造,その他施設の補修にど うしても必要である。これらの鋼材が不足するかぎり,石炭は増産どころか減産に向うのは必至 である。ところが石炭供給が不足のため,熔鉱炉36基中わずかに4基がどうにか作動しているに すぎない。第3
四半期には配炭減のため,普通鋼材の供給は第2
四半期の3
分の2
に激減してし まった(これが上記の1
割5
分という値である)。 そのため石炭部門への鋼材の供給が需要の半 分程度になったのである。こうして恐るべき悪循環が全産業に急速に波及して生産が全面的に縮 少し,必然的に破局に突入する危機に直面していたのである究遷延した対日賠償
もはや抜本的な生産増強政策が立てられなければならない決定的段階に立ち至ったのである。
吉田内閣は
1 1
月2
日,その「基本政策」を発表するが, その産業経済の再建策についていえば1 0 ) ,
「科学技術の振興と相侯って,国内資源の最大限の開発を行う。治山治水を徹底し,農業の生 産性を増大して水産業,畜産業を再建強化するとともに,石炭,水力電源などをはじめ,鉱工業 資源の開発に力を注がんとするものである。
九大な人口を擁するわが国において文化国民としての生活水準を確保するためには,平和的な 製造工業を高度に発展せしめるごとく企画する。これに関しては最も合理的な国土計画の樹立,
技術の振興改善,産業の合理化などの施策を展開し,将来国際市場に伍しうる優秀産業を確立す る。」
これをみると,全く抽象的な題目が並らんでいるだけで,破局に向う日本産業経済の危機を打 開する具体的政策は,なんら示されていない。生産増強が絶叫されながらも,結局はそれが生産 増強の金融政策に終始し,生産増強の生産政策がとられなかったのは,一体なぜであったらろう か。この課題の鍵を握るものは連合軍の対日賠償の遷延にあったと思われる。即ち,
1 9 4 6
年10
月22
日1 1 l , GHQ
は対日賠償の第2
段階として,8
工業部門ー一工作機械,軸承,鉄鋼,造船,火 力発電,硫酸,苛性曹達,塩素一~に関する 505 工場の保全管理を指令した。そして 11月 19 日 12),アチソン米国務次官によってボーレー委員長の最終報告が発表された。これは日本から撤去すべ き賠償の対象と範囲を次のように勧告している。
1 ,
完全に撤去すべきもの―—切の軍需工場,人造ゴム,アルミニウム及びマグネシウム工 業。2 ,
相当程度に撒去すべき産業—発電装置,鉄鋼,鉄合金,銅,工作機械,化学,大型電気 機械,工業用爆発物,通信施設及び器具,鉄道施設及び車両,造船所,船舶。3 ,
日本に許す18産業—工芸品(真珠養殖を含む), 絹,皮革,漁業,電機器具,セメント 建築材料,食料品加工,木材製材施設,製陶業,石炭,原油,生ゴム精製,金銀鉱山,亜鉛,鉛,錫,硫黄,黄鉄鉱精製工業。
ー 2 3‑
なお,紡績,人造繊維,綿業,製紙及びバルプ工業施設の処置については後日連合国間で決定 する。 以上
遷延していた対日賠償の輪廊が,ょうやく一応はっきり打ち出されてきたところではじめて生 産増強のための生産政策が具体的に論じられることになった。裏を返していえば,対日賠償の実 態が明らかにされなければ,本格的な生産増強政策は建てようがなかったということである。米 国務省ヴィンセソト極東部長が,
1 1
月1 1
日( 1 9 4 6 ) ,
全米貿易協会年次大会において,米国の極 東経済政策について演説し1 3 ) ,
そのなかで「……日本工業のうち,存続を許される範囲と種類な らびに賠償に当てられる工業施設の範囲について,なんらかの決定が行われるまでは,日本は戦 後経済計画を推進することは不可能である。……」といっているのは,わが国の実情を裏書する ものといってよいであろう。しかし,ポーレー報告はあくまで米国政府に対する勧告であって,そのままが実施されるとは限らない。賠償を審議するのは,ワシントンにある極東委員会の対日 賠償会議であり,最後的には,対日講和条約において決定される。ところが対日賠償会議の審議 は,わが国の深まりゆく経済危機をよそに, 後述のような事情によって(次回掲載予定),
1 9 4 6
年の春から1 9 4 7
年にかけてほとんど進捗していなかったのである。傾斜生産方式
産業経済の破局を救うためには,もはや一刻の遷延も許されない。緊急に非常措置を思い切っ て強行するほかなかった。それが有沢広己教授の次のような提唱
1 4 )
から生まれた傾斜生産方式で あった。 「私はそのための計画と組織の全体系を傾斜の理論と仮りに呼んでいる。ラヂカルな言 い方をすれば,われわれの手中にあり.われわれの処置しうる唯一の基礎的素材たる石炭の生産 に向ってすべての経済政策を集中的に傾斜せしめよというのである。石炭生産を中心に一時経済 を組み立てよというのである。それは石炭の生産に向って傾斜する経済である。むろんそれは不 安定な経済であり,永くは維持できないし.又その必要もない。ただ水乎に全面的に生産の水準 を引き上げることが解き難き困難のつながりとその抵抗によって不可能となっているなら,経済 を計画的に傾斜せしめて基礎的部門の生産を早急に引き上げ,これを挺として生産水準の上昇の 契機をつくり出すほかないのである。もちろんそれには計画と組織とが必要である。計画と組織 とは経済の傾斜の角度,傾斜からより高い水平への復旧の設計のためばかりではない。傾斜から 水平への復旧を最短期間に通過するためにも必要である。かつてソ連邦国民は,戦時共産主義か らネップ(NewEconomic P o l i c y )へ英雄的な転換を敢えてした。われわれはソ連の場合とは反
対の意味においてのネップを必要としている。われわれのネップを遂行すべき政治的勢力の新た な結集が,即時行われねばならぬ。真に貴重な時間が経過しつつある。今すぐ国民は決断を下さ ねばならぬ」と訴えたのである。こうして.画期的な傾斜生産方式を採用することが
1 9 4 6
年1 2
月2 4
日の閣議で決まった。これよ り先き,GHQ
の許可を受け,製鋼用の重油毎月約1 3 , 0 0 0
トンならびに日本の漉青炭8 , 0 0 0
トン‑24‑
と引き換えに仏印の無煙炭
2 5 , 0 0 0
トンが輸入されることになっていた( 1 2 , 1 2 )
。 そこで,政府 は1947
年度の石炭生産目標を3 , 0 0 0
万トンとし,1947
年1
月,2
月の間は他産業を犠牲にしても,一切の増産対策を石炭と鉄鋼の両部門に集中した。かくて増産される鉄鋼を挙げて石炭部門に投 入し,そこで増産される石炭を挙げて鉄鋼部門に投入するという両部門交互拡大再生産を継続し
(約
1
ケ年), こうして増大されてくる生産量を次第に他産業の基礎資材の供給増へと波及させ,産業全般への復興導こうとするものであった。
政府はようやく生産水準上昇の契機をつかんだ。こうして厳しい計画経済がスタートすること になった。一方,深刻をきわめた食糧危機も,国内が豊作のうえ,世界的にも食糧生産の好転を 踏えて,相当量の輸入が許可されるなどによって緩和され,主食の幾分かの増配が11月から実現
している。産業経済再建に一条の曙光が見られるようになったというべきか。
引 用 文 一 献
7 )
経済同友会史:昭和3 7
年8 )
有沢広己:「日本経済の破局を救うもの」『評論』第9
号 昭和2 2
年1
月「生産の現状ー~縮少再生産の様相」 『毎日新聞』昭和
2 1
年8
月1 5
日所載9 )
「日本経済危機の実態」 『毎日新聞』昭和2 1
年1 1
月1 7
日所載1 0 )
「吉田内閣基本政策 産業経済再建に重点一」『毎日新聞』昭和2 1
年1 1
月2
日所載1 1 )
「8
工業部門の賠償保全管理指令」 『毎日新聞』昭和2 1
年1 0
月2 2
日所載1 2 )
「対日賠償問題—ボーレー最終報告」 『毎日新聞』昭和2 1
年1 1
月1 6
日所載13) 米国務極東部長ヴィンセントー~日本経済再建,賠償決定が先決」 『毎日新聞』昭和
2 1
年1 6
日1 4 )
有沢広己:上掲論文第 3節 科 学 技 術 者 の 民 主 化 運 動 民主主義科学者協会の結成
ヽ
終戦
2
年目(1946
年)のわが国が,産業経済の危機的状況のなかで再建の契機を模索せんとす る苦難の渦中にあったことは,前節前々節に述べたとおりである。この年の冒頭から始まった進 歩的科学者技術者の民主化運動は,このような社会的情況をふまえて日本再建に対する彼らの使 命と責任の自覚に発するものであった。「今や,日本封建主義,軍国主義は狂暴な侵略戦争の無残な敗北と民主主義勢力の拾頭により 瓦壊しつつある。国民は政治,経済,文化の各方面における民主主義的建設こそ,自らを解放す
る唯一の道であることを意識し,そのための斗争に蕨起しはじめた。日本の民主主義革命は鋭く 進行しつつある。活動の自由は既に開かれている。だが,もとより決して坦々たるものではない。
民主主義日本の成長と確立は,科学及び科学者が自己を取り戻し,日本国民の間における革新的 民主主義と歩調を揃え,その支持を得つつ,封建的反動的科学及び思想との斗争,民衆に役立つ 真の科学の研究と普及,反民主主義的教化制度及び政策との斗争を通じて,それに協力すること なしには不可能である。全国民はこの協力を切実に期待している。日本民族と世界の平和的発展
ー 25‑
のために,科学者の使命と責任とは,国民とともにあるすべての進歩的社会科学者,自然科学者,
技術者,教育者などが契盟,相助して,長期不撓の活動を続けることによってのみ果し得られる のである。」
1 5 )
これは1946年
1
月12
日,東京で開かれた民主主義科学者協会(以下「民科」という)の熱気の こもった創立総会で,参集した200
余名の会員によって採択された宜言の主要部分である。会員 は戦前のプロレクリア科学研究所,唯物論研究会のメンバーが中心をなし,広く社会科学から自 然科学ならびに技術系諸分野の,民主化運動に挺身しようとする進歩的科学者技術者を包含して いた。会長は小倉金之助,副会長に大内兵衛, 細川嘉六が就任した。会員数が46年6
月に1 , 0 0 0
名,47
年6
月に1 , 8 0 0
名,48
年4
月に3 , 0 0 0
名,49
年末には1 1 , 0 0 0
人と累進的に増加1 6 )
していっ たのは, 「民科」の掲げる使命が,敗戦直後の虚脱感と反省のなかで,日本の民主的再建を模索 していた科学者,技術者の共感を,いかに強く呼ぶものであったかを物語っている。「民科」が達成を期すべき具体的な目的は,渡辺義通の「日本科学者の歴史的環境と民主主義 科学者の当面の任務」という論文を基調として,次のように規定されている
1 7 )
。1 ,
人民大衆の科学的欲求の高揚と結集,民主主義的科学の建設。2 ,
封建的,軍国主義的,ファシスト的その他一切の反動的思想ならびに科学に対する斗争。3 ,
科学的研究,発表ならびに活動の完全な自由の獲得及び擁護。4 ,
反民主主義的教化制度及び政策との斗争。5 ,
科学施設及び組織の民主化と拡充。6 ,
科学技術による国民生活への貢献。7 ,
民主主義日本の建設を担当すべき新進科学者の養成。8 ,
自然科学,社会科学,技術の交流と協力。9 ,
社会的職能としての科学者及び技術者の地位の擁護。1 0 ,
民主主義的科学,技術団体との国内ならびに国際的連繋。1 1 ,
民主主義諸国の科学的成果の摂取。以上の諸目的を達成するために,研究部を設け,その下に哲学,政治経済,自然科学,歴史,
芸術,教育,農学の7部門をおき,機関誌を発行,研究会,文化サークル,公開講座などの開催 が計画された。
民主主義革命を通じての日本再建は,敗戦日本に課せられた至上命令であり,日本の存亡にか かわる産業経済の復興は,科学技術の振興をおいてありえない。しかも民主主義社会にして,は じめて科学技術は振興する。従って,科学者技術者は,民主統一戦線に参加し.日本再建に協力 しなければならない。 「民科」の思想は, このような認識にもとずく科学者技術者の任務の自覚 に立つものであったということが出来よう。
「民科」の思想
‑ 2 6 ‑
ここで,そのころ発表されたいくつかの所論を引用しながら,いま少しく具体的に「民科」の 思想を裏づけよう。
「民科」の会長, 小倉金之助はその論文「自然科学者と民主戦線」
1 8 )
において, 「この際,自 然科学者が進んで民主戦線の旗の下に参加すべき」ことを主張し,その理由として, 「封建的官 僚性は科学的精神の涵養を妨げ.,自然科学の進展上望ましからぬものであり,これに反して,他 の条件が同ーであるかぎり,民主主義政治の社会においては,科学的精神は伸長し,自然科学の 研究は進展する」ことをイギリス,フラ ノスにおける近代科学発達の消長と民主主義政治の盛衰 との関連のなかで,具体的に跡づけて実証しようとする。そして「ヨーロッパにおいて近代科学 の拾頭時代を回顧すると,自然科学は,商工プルジ三アジーが最も早く起って比較的民主主義思 想の進んだ国々において,最も早く花を開いたのであった。自然科学は,迷信的伝説的宗教と斗 ったばかりでなく,それは, もっと広く人間解放のための武器であった。近世の科学的精神は,封建的因襲的学問の反抗を克服しながら,自然科学それ自身を進展させると同時に,封建制崩壊 の武器としての役割を演じたのであった」と述べる。そして「わが国の科学は,不幸にして,こ のような輝ける伝統をもっていない。それどころか,明治維新以来,封建的官僚の側に立った幾 多の有力な自然科学者を知っているが,真に民衆の友となった自然科学者あるを多く知らない。
このような意味において,自然科学者は社会科学者よりもはるかに遅れている。われわれは深く 自ら反省し,一日も早くその遅れを取り戻さなければならない」とし, 「そのためには,自然科 学者自らの間に,一つの民主主義組織が結成されなければならない。けれども,わが国現下の情 勢では,自然科学者は特に技術者や社会科学者と,極めて緊密なる関連を必要とするので,むし ろこれらを一団とした統一戦線が望ましい……。それが他の各種の文化団体と相結んで,ーそう 広い文化戦線を結成し,それが他の統一戦線(労働者,農民,中小市民等々の)とともに,最も 広汎な民主戦戦を結成するのである」と指摘している。
羽仁五郎も「科学と資本主義
1 9 )
」という論文において, 次のように結論する。 「資本主義の初 期に最も根本的な関係をさがすと,われわれは,そこに封建主義との斗いによる自由なる労働力 の自己解放の事実を見出す。そして,この自由なる労働力の解放の上に資本主義が形づくられた 事実を知る。自由な労働力と資本主義とは同じものではない。資本主義は利潤を目的とするが,自由な労働力は生活を目的とする。資本主義は現象的関係をあらわすとすれば,自由なる労働力 は本質関係をあらわしている。即ち,資本主義が科学を発達させたか,阻害したかではなく,自 由なる労働力が実現されたとき,科学は発達し,自由なる労働力が実現されなくなったとき,科 学の発達も阻害されたのであった,ということが判断される。社会主義がほんとうに自由なる労 働力を実現するならば,そこが科学の祖国となるであろう。アメリカにおいても,資本主義が自 由なる労働力の解放を認めていくならば,科学はそこにも発達を続けていくであろう。」
このように,欧米においては,科学技術がいかに民主主義的自由と密接不可分に発達したか,
が論証されている。そして,わが国の科学技術者の意識の立ち遅れを鋭く衝いているのが小倉の
ー 27‑
論文「自然科学者の反省」
2 0 )
である。 これは次のように述べている。 「われわれは,わが国の自 然科学者の育成が官権—それは自由主義,民主主義などとは極めて縁遠く,ほとんどその対蹄 的ともいうべきほど封建的,官僚的な一ーの保護の下に行われたことを知らねばならぬ。……そ れのみではない。私たちは,わが国における自然科学の研究ないし専門教育が一ーイギリスやア メリカとは全く異なり一民間においては,ほとんど発達しなかったことを特筆しなければなら ない」と指摘しながら, 日本の主な数学者,物理学者のほとんどすべてを網羅する日本数学物理 学会の会員名簿( 1 9 4 3
年1 1
月のもの)を調査して,全会員数2 , 4 0 0
余名中, 官学出身者が約96%
を占め, 日本の自然科学者が,このように『官制品』であることを明らかにする。そして,大学 は勿論,自然科学者の間には濃厚な封建的官僚性が漂い,当然のことながら,それが彼らの社会 意識の稀薄となって現われたのである。勿論,彼らといえども,研究室から一歩を踏み出したこ とはある。がそれは主として,財閥や軍部から研究費を獲得するためであった。かくて資本家や 将軍の前には研究室が喜んで開かれたが,その扉は国民大衆に対しては閉鎖されたのであった」
と批判し, ここで小倉は, 哲学者田辺元の論文「科学政策の矛盾」
2 1 ) ( 1 9 3 6 )
の一節, 「自己専 門の研究においては顕著な業績を挙げている人々が…•••社会機構の欠陥に注意を向け,その由来 を実証的に認識せんとするごとき要求を全然欠如し,ただ自己の研究に必要なる研究費さえ豊富 に支給する政府であるならば, 他の如何なる不合理を行うも, 敢えて関知する所でないとする……」という箇所を引用しながら,小倉自身の所論の最後において,自然科学者に次のごとく強 く訴える。即ち「……諸君が自然科学の前途を憂慮するというのも,それは実質において,諸君 の保護者であった官僚,財閥の行方を心配しているのだ。—少くとも,そういう心が多分に雑 っているのだ。……しかし彼ら官僚,財閥は自然科学一『人類の幸福を増進する』という正し い意味での自然科学一ーにとって,果して,味方なのか,それとも敵なのか,諸君のうちなる科 学的精神は, これをさえ判定する力がないのか」とつめ寄っているのである。
日本の産業技術の問題点を鋭く分析して,将来の科学技術を示唆しようとする武谷三男の論文
「日本技術の分析と産業再建―日本民主主義革命と技術者—」 22) は, 概略つぎにように述べ ている。 「日本では科学研究と現場の技術改良とは何の関係ももっていなかった。研究は研究で 外国の学術雑誌を種として行われ,現場の技術は,日本の科学研究から何ものかを得るのではな くて,専ら外国の特許にのみ依存していた。本格的な資本主義国においては,科学研究の成果が 技術に反映し,又技術の要求に従って科学のテーマが与えられ,両者が互に関連しながら進むの である。……之に比すれば,我国の状態は全く植民地的ということが出来る。戦争が始まり,諸 外国から遮断されると,我国の科学も技術も,まるで根をちよん切られた植物のような状態に陥 った。」 このような後進性が, わが国の科学技術の発達を極めて不自然にし,不均衡なものにし ていたのであるが,さらに貧弱な資本主義国の通弊として, 「研究者や技術者たちの発明や改良 は特許として会社に蓄えられるけれども,これは実現されないことが非常に多い。明瞭な技術的 欠陥すらも,出来るだけ改善されないことがある。研究部や現場の技師による特許が会社によっ
‑ 2 8 ‑
て蓄えられるのは,主に他の会社にその様な技術を先に実現されることを恐れるからなのである。
このような生産技術の解決が本質的に技術の改良によって行われず,労働の強制,即ち労働時間 の延長,労働強度の強化,即ち労働者の犠牲において切り抜けられたということを特徴とする。
それは明治以来産業革命や,不況時代の合理化を通して,大工業に並んで零細な,動力機も有し ないマニュファクチュア的生産が決して衰えず,工場総数の半数を占めていたことに特徴づけら れる。……そこにおいては,資本家は労働条件を(技術的に)改良することによって能率を増進 して,生産力を増大しようという方向を選ばなかった。……わが国の半封建体制によって,極度 の低賃金労働力の危大な供給が可能であったからである。従って,技術の改良に依らずしても,
諸外国と貿易市場において十分に競争することが出来たのである。それ故技術者はこの様な体制 の中においてはさして重要な本質的な機能を有していなかったといえる。 又貧弱な産業合理化 によって,労働を強化するという反動的役割がその重要な使命とすらなっていたのである。……
(結局)技術者は会社が政府か軍から信用を得るために置いておく飾りであったり,企業の助手 であったり,甚だしいのは機械取引商にしかすぎず,又その主な役割は,戦前においては外国の 特許を買って日本で再現するのが仕事であり,戦時中は,外国の特許を盗むのが主な仕事となっ た。……(このように)技術者は従来資本家の附属品として,寄生的な実力なき存在に止まらざ るを得なかったのである。……しかし以上の分析が示すように,実は労働者の圧力を増大し,特 に又封建的体制を一掃する事が技術の本格的前進を可能にし,従って技術家は自己本来の地位を 見出すことが出来るのであった。しかし,これは封建体制軍閥官僚独占資本支配下の弾圧機構の 下では絶対に可能ではない。そしてこれは,労働者農民勤労者進歩的資本家による民主戦線支配 下に国民の生活を真に高めんとする勤労者達の圧力の増大によって初めて可能となるのである。
それ故に,技術家は何をおいても勤労者の味方となり,民主戦線の結成の方向をめざして積極的 に努力すべきである。こうして民主戦線の主導権を握る勤労者による生産管理によってこそ,生 産は推進され,日本の経済的破局は救うことが出来る。しかも勤労者による生産管理は,技術家 が協力するか否かによって,その成否が大いに左右されるのである」といっている。
以上の諸論が「民科」の思想的根拠となっていたといっても過言ではなかろう。そこでは,民 主主義革命を推進するために,科学者技術者は体制側との結びつきを断ち切り,労働者農民中小 商工業者などの反体制側勤労者と手を組んで,民主主義戦線を結成しなければならないというこ とが強調されている。特権的階層でもあった科学者技術者が,一般勤労者と手を組むということ は,まさに画期的なことであった。このためには,何よりも科学者技術者が自らの本質的立場の 何たるかを自覚しなければならなかった。こうして, 「民科」の活動は,上記の研究会の開催な どに劣らず,啓蒙運動に力をそそがれ,戦後の学界に大きな勢力を占めるにいたったのである。
(註) 武谷論文の引用にあたっては,文を前後いれかえさせていただいたところがあることをおことわり しておかなければならない。またカッコ( )は,理解の便宜上筆者が挿入したものである。