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ブレンターノの想像力考(下)ブレンターノの想像力考(下)

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(1)

細   井   雄   介 ブレンターノの想像力考(下)

(2)

細井 雄介

Brentano’s lecture on “Phantasie”(continued from Vol. 135)      

 In the previous issue(Vol. 133)the attractive figure of Franz Brentano(1838-1917)

was ascertained as a teacher of both Alois Riegl(1858-1905)and Edmund Husserl

(1859-1938). Husserl was especially fascinated with a lecture which contained penetrating investigation of “Phantasie”. Surely the content of this lecture is very interesting and generates the development of new ideas. On the historical relationship between the lecture and Husserl’s phenomenology, especially, a vivid account is offered by the editor of Husserliana ⅩⅩⅢ.

 From a viewpoint of aesthetics, furthermore, the problem of “Phantasie” or imagination is seriously important. So, as before, in order not to miss any detail I have translated the whole of the lecture into Japanese here.

 The original text is as follows:

Franz Brentano, Ausgewählte Fragen aus Psychologie und Ästhetik. in:

 Grundzüge der Ästhetik. A. Francke Verlag, Bern 1959. S. 72-87(-87).

Edmund Husserl, Phantasie, Bildbewusstsein, Erinnerung. Husserliana Band ⅩⅩⅢ, 1980.

S. ⅩⅤⅢ-L.

(3)

ブレンターノの想像力考(下)

  本 稿 の 目 的 は 後 段 に 置 く 論 考 の 翻 訳 紹 介 で あ る。 美 術 史 学 興 隆 時 の 彗 星 リ ー グ ル(

Alois Riegl, 1858-1905

) に 魅 か れて、本論叢では、世に躍り出た処女作『オリエント古絨毯』全文を訳出できた。このときリーグルの学歴譜にブ レ ン タ ー ノ の 名 が あ り、 こ の 師 を 仰 い だ 学 生 に は 後 年 の 哲 学 者 フ ッ セ ル(

Edmund Husserl, 1859-1938

) も い て、 リ ー グルとフッセルとはほぼ同年生であることに驚いた。 私生活はほとんど語らなかったリーグルであり、 師ブレンター ノとの関りも全く不明である。他方フッセルには名高い「フランツ・ブレンターノの想出」があり、これをも本論 叢第百三十三集で紹介することができた。

  こ の「 想 出 」 の な か で 特 筆 さ れ た の が ブ レ ン タ ー ノ の 特 殊 講 義「 心 理 学 お よ び 美 学 の 選 り 抜 き の 疑 問 」 で あ る。 講義内容の実質は「想像力の有無」であり、美学にとって無視できない問題である。本論叢第百三十四集で「ブレ ン タ ー ノ の 想 像 力 考(

)」 と 題 し て 講 義 全 体 の 訳 出 を 志 し た が、 リ ー グ ル の 姿 を 思 い つ つ 二 十 世 紀 現 象 学 成 立 時 における学問的営為の一局面を確めたいと考えたからであり、 (

)に続けて今回ここで作業を完了する。

  訳 文 今 回 の 本 体 は 右 の 講 義 の 終 結 部 分 で あ る。 続 け て 当 該 部 分 の「 内 容 概 観 」(

五一─五九

) を 置 く が、 原 書 の 目 次を成すものでもあり、すでに畏友森谷宇一教授の精査を経た全文の締めくくりである。つぎに掲げるのは、この 目 次 に 先 立 つ 原 書「 編 者 の 序 言 」 で、 本 論 叢 第 百 三 十 四 集(

四二頁

) に お い て 一 旦 中 断 し た あ と に 繋 げ て、 編 者 の 要説を全うさせるものである。最後に本稿では、記述心理学から現象学が成る経緯を重んじて、ブレンターノの特 殊講義とフッセルとの関りをやや詳しく説く一文を選んだ。フッセル全集の初期遺稿群を纏めた第二十三巻序文の 一段「直観の現象学の史的源泉」である。

    大 戦 を 経 た 昭 和 三 十 年 代 の 学 生 に と っ て サ ル ト ル は 眩 し く、 書 店 に は『 想 像 力 の 問 題 』(

平井啓之訳  一九五五年 

(4)

細井 雄介 人文書院

) も 輝 い て、 余 響 は『 美 学 事 典 』(

一九六一年  弘文堂

) な ど に 記 し 留 め ら れ た。 幸 い に も 今 夏 新 た な 御 努 力 に よ り『 イ マ ジ ネ ー ル 』(

澤田直・水野浩二訳  二〇二〇年五月  講談社学術文庫

) が 公 刊 さ れ て、 往 昔 あ れ こ れ の こ と が 甦る。解説によればサルトルはフッセルへの沈潜四年を経て論考を仕上げるが、 当時の世界情勢にも左右されたか、 発 刊 は 一 九 四 〇(

昭和十五

) 年 で あ っ た。 ち な み に フ ッ セ ル の『 イ デ ー ン Ⅰ 』(

『純粋現象学及現象学的哲学考 イデーン案』池上鎌

三訳  上一九三九年  下一九四一年  岩波文庫

)公刊は一九一三(

大正二

)年である。

  新制大学の教室では十九世紀後半を主導せる心理学から哲学へと移る思潮の動向が強調された。美学ならば、他 者理解の原理たる感情移入の深化であり、了解心理学の進展であり、また批判主義を再興する新カント派の俊敏や 生哲学の光彩であり、記述心理学からは現象学の創成である。現象学の芸術考察については早くも大西克禮著『現 象 學 派 の 美 學 』(

一九三七年  岩波書店

) が 重 々 し く、 竹 内 敏 雄 著『 文 藝 學 序 説 』(

一九五二年  岩波書店

) の 結 尾 で は イ ンガルデンが特筆されていた。こうした思潮大観は学生の身にとって自分の位置を見定めるのにありがたく、一読 しては最先端がおのれかと錯覚させるまでに作用する。

  だがおよそ歴史に名を留めるほどの一思想の超克とはどのような実質をもち、どのようにして果されるものなの か。この反省を、このたびの機縁、同年生リーグルとフッセルに共通の師ブレンターノなる三者の出合い如何、と いう関心が強いた。

    想像は古来あれこれと論じられてきたが、実証を旨とする時代に生きた心理学徒ブレンターノにとって、知覚が 知覚表象であるのと同じく想像とは想像表象のことであり、意識に上る表象すなわちイメージのひとつである。相 似たものが無数に存在するのであれば、それぞれを適切に区別し分類することは秩序保全のためによろしく、古く

(5)

ブレンターノの想像力考(下)

から学問にとっての常道であった。この道を取るブレンターノは想像論議の歴史を辿って相違の区別を遂行、果て に知覚と想像との対比が残り、一方の直観的にして本来的な 表

イメージ

象 たる知覚表象に対して、他方の想像表象は非直観 的にして非本来的な表象であるとされる。そして非本来的である想像表象は、一部は直観の領域に入り、一部は概 念の領域に入るのであり、想像表象についての固有独立の教説は存在しない。言いかえると、理論学にとっては自 立できる想像論はない、と断案が下されたのである。この結論部分を成しているのが全篇を閉じる今回の訳稿であ り、一八八六年に終結の特殊講義であった。

  こ の 講 義 に フ ッ セ ル は 驚 嘆 し た。 し か し 即 座 に 深 く 働 い た の は、 こ の 難 題 は こ れ ほ ど 簡 明 に 割 切 れ る も の で な い、と危ぶむ直覚でもあった。本来的表象と、ここへ限りなく近付いて溶け合ってしまう非本来的表象との区別と はなにか。幾たびも右の講義のことに触れつつフッセルは苦節の道を歩み、ついに自身の一九〇四─〇五年講義で 明言する――「ブレンターノによれば想像表象とは非本来的表象であって、あれこれの関係に取次がれ、あれこれ の概念で媒介される非直接的な表象(

indirekte, durch Beziehungen, durch Begriffen vermittelte Vorstellungen

)のことであ る。 知 覚 と い う 本 来 的 表 象 と 非 本 来 的 表 象 と で は 統 覚(

Apperzeption

) の 在 り 方 が 違 う と 考 え る だ け で 重 大 な 進 歩 と な る の に、 双 方 を 区 別 す る 執 拗 な 現 象 学 は ブ レ ン タ ー ノ の 究 め る と こ ろ で な か っ た 」(

Husserliana

Ⅹ Ⅹ Ⅲ

, S. LIV und

S. 93

)。 ブ レ ン タ ー ノ の 講 義 を 聴 い て 二 十 年 後、 い ま や よ う や く 堂 々 と 独 自 の 地 歩 を 築 く フ ッ セ ル の 出 立 時、 こ れ は一九〇四年としてよいのであろう。内的時間意識の変様を鋭く究明する後日の展開は、思想史の新たな頁となっ て華々しい後続の人々も立並び、サルトルもなかのひとりに算えられる。

    学

ギュムナジウム

校 で 「最低の生徒」 と印されて育ち、 没歴史とて歴史など思わぬ若者フッセルの前にブレンターノが登場する。

(6)

細井 雄介

まずは鋭い太刀捌き、あとは静々と古代から縺れて現代にまで綾なす糸をつぎつぎと丹念に解いては区分けし、つ いに乱麻を断つ最後の一閃である。この英姿ぞ師なり、と仰いで終生の契りを結ぶが、孜々たゆまず自身の刃を研 ぐ歳月は、師とのあいだの超えることのできない違いをも悟らせる。この機微が窺えて、後年の師を送る追悼文の 節 々 に 浮 ぶ 疎 隔 の 悲 し み は 切 々 と 胸 に 迫 る 。こ の と き フ ッ セ ル は す で に 自 身 の 剛 刀 で 名 高 い 次 代 の 場 面 の 主 で あ っ た 。

  さらに時は移ってサルトルの声も聞えたのちに、ようやくブレンターノの講義草稿が一冊の本に納められて世に 出る。一九五九年のことであり、普及度を大きくする

PhB 本の公刊は一九七七年であった。

  華麗な喧騒を経て、こうした躍動の始点と見倣せる古典に立返れば、あたかも往昔の劇場舞台の名場面写真のご とく、歳月の作用は厳しく、すべては古びて侘しく見える。しかしながら思潮隆替のさまを思い、一思想の克服な るものに秘められる努力の苛烈を思えば、このブレンターノの講義録の意義も大きくて不朽である。

    翻訳の底本は左記の通りだが、副本として

PhB 本を傍に置き、各頁を照合しつつ訳業を進めた。

  Franz Brentano, Ausgewählte Fragen aus Psychologie und Ästhetik. in: Grundzüge der Ästhetik. A. Francke Verlag, Bern 1959. S. 72-87 [ -87 ].

          : Grundzüge der Ästhetik [

PhB 312

]. Felix Meiner Verlag, Hamburg 1977.

 

     

この底本は哲学科草創期教授田邊重三先生の御蔵書から遺贈の貴重書である。忘れ得ぬ御論考「個體の認識」

(京城帝國大学文学会論纂第九輯 昭和十五(一九四〇)年三月)の終結部ではブレンターノの姿も輝いていた。

(7)

ブレンターノの想像力考(下)

  「心理学および美学の選り抜きの疑

(*)

」         フランツ・ブレンターノ

   

ラントの注(   ( * ) こ の 位 置 に 前 々 集(

第百三十四集

) で は 本 講 義 の 出 所 を 語 る 編 者 フ ラ ン ツ ィ ス カ・ マ イ ヤ ー = ヒ レ ブ

1)があった。講義が行われたのはウィーン大学一八八五年から八六年にかけての冬学期、初

日は一八八五年十月十七日と記入されている由である。

      第一第二と二冊ある手稿綴本は編者の手で全五九節の一体に纏められての公刊となった。前集では第二九 節から第五一節冒頭の一文までを翻訳紹介したが、今集では再度第五一節冒頭から始めて第五九節の結尾ま でを掲げる。あとに続ける「内容概観」は公刊書の目次を成すが、講義本体各節の編者による要説である。

  訳者

  五一、まずは問いたい —— 知覚(

Wahrnehmung

)とは何か。

  知 覚 と 言 わ れ て 思 う の は ひ と つ の 認 識(

Erkenntnis

)、 し か も、 何 か が あ る、 表 象 さ れ た も の(

直観されたもの

) が あ る、 と い う 即 応 即 決(

unmittelbar

) の 認 識 で あ る。 だ が こ れ で は ま だ 知 覚 な る 概 念 の 本 質 的 契 機 は 尽 き ず、 さ ら に算えられるのは、知覚とは動機なしの認識であり、何か個体的で実在的なるものの認識であって、恐らくはまた 単一(

einfach 簡単・一重

)なる認識でもある、ということである。

  けれども、こうした補完的規定が必要であると示す前に、すでに最初の規定には何が横たわっているのか、とま ず は 明 か に し た い。 知 覚 と 言 わ れ て ひ と つ の 認 識 を 思 う、 と わ れ わ れ は 語 っ た。 私 の 知 覚 す る も の に つ い て 私 は、

(8)

細井 雄介

このものが存在する、と認識する。このことを偏見なき人ならば誰しも即座に認めるであろうし、それゆえ知覚の 名が「真理(

Wahrheit∧wahr

)」とも繋がることは言うまでもない。

  だがこれでは、必ずしも万人には明かでない多くのことが言われている。とりわけ、知覚は判断である、が気に な る。 質 に つ い て は、 こ の 判 断 は 肯 定 的 判 断 で あ り、 正 し い(

richtig

) ば か り か 確 か(

siche

識に算えられるのが慣わしである

れば、必然的なりとして知覚がよく解ることもない。したがって知覚はアプリオリな認識に算えられず、経験的認 ex terminis これは (

あれこれの概念から

)という仕方でよく解ると言える。このことは知覚については言えず、とな る。即応的認識も動機をもつことは多々あって、 矛盾の証明は一例である。このような動機ありの認識については、 てなお、ただいま挙げたばかりの諸規定がさらに加わる。動機なしの即応的認識が問題とわれわれは語ったのであ

evident

て 明 証 的(

直証的

) で あ る。 し か も 即 応 の 判 断 で あ る か ら に は 即 刻 即 座 に 明 証 的 で な け れ ば な ら な い。 続 い r ) で も あ り、 し た が っ

107

  

107Franz Brentano, Die Lehre vom richtigen Urteil. Erster Hauptteil D, zweiter ——)下記の書を参照のことおよび

Hauptteil A und B.

  さ ら に わ れ わ れ は、 知 覚 は い ず れ も 何 か 個 体 的(

規定明確 bestimmt

) な る も の の 認 識 を 含 む、 と 語 っ た。 さ ま ざ ま な 応 用 例 を 顧 慮 す れ ば、 こ の こ と は 概 念 に 属 す る 事 柄 で あ る と 容 易 く 納 得 で き る で あ ろ う(

全称的判断も選言的判

断も仮言的判断も知覚ではない

)。

  だがさらにわれわれは、 知覚は何か実在的なるものを捉える、 と語った。真 (

明証的

)と承認する判断 (

anerkennendes

Urtiel

) の対象たるもの一切は現存 (

existieren

) する。ここからの帰結として、 知覚の名に値するのは内的知覚 (

innere

(9)

ブレンターノの想像力考(下)

Wahrnehmung

)だけ、 ということになる。内的知覚がわれわれに示すのは、 例えば判断(

urteilen

)する、 意欲(

wollen

) す る、 等 々 の 心 的 現 象(

psychisches Phänomen

) で あ り、 さ ら に 精 確 に 言 え ば、 一 定 の 仕 方 で 心 的 に 活 動 す る 者 を、 であり、すなわち表象する者、判断する者、感じる者、意欲する者としての私自身を、である。いわゆる外的知覚 (

äu

㌼ere Wahrnehmung

)も記憶(

Gedächtnis

)も各自の対象を即応的明証ともどもには捉えていない

108

  

108Ausgewählte Fragen aus )この箇所はブレンターノ後年の教説に合せて変更してある。特殊講義[本書]

Psychologie und Ästhetik 起草当時のブレンターノはReales(実在的なるもの)と並べてIrreales(非実在的なるもの

─immanente Objekte, Sachverhalte)をも仮定していた。下記の書を参照のこと——Die Lehre vom richtigen Urteil.

Erster Hauptteil B.

  な お 恐 ら く、 知 覚 の 概 念 に は 最 終 の 規 定 と し て、 認 識 は 単 一 の 認 識 で あ る、 を 加 え る べ き で あ ろ う と 私 は 語 っ た。 —— 古 く か ら 判 断 は 単 一 判 断(

einfaches Urteil

) と 合 成 判 断(

zusammengesetztes Urteil 幾つかの単一判断から成る類

の判断

) と に 別 け て き た の で あ る。 も っ と も J・ S・ ミ ル は、 こ の 馬 鹿 さ 加 減 は、 馬 を 個 々 の 馬 と 揃 い の 馬 と に 別 け た い と 望 む ほ ど の こ と と 思 っ た。 と は い え 表 象 を 同 じ よ う な 具 合 に 別 け る(

ミル自身すら遣ること

) の は、 そ れ ほ ど馬鹿らしいことでない。

  いや、 それどころか右の二分は避けられないこととしてよかろう。というのも合成判断を、 ある種の概念と同様、 一緒になって全体を作り上げている幾つかの部分へと解消することのできない事例が証示されるからである。

  例 を 挙 げ る —— Ein Mensch ist nicht gelehrt. (

ある人が教えられていない[学がない]

)。 こ の nicht は 述 語 に 算 え て も よ い か ら、 こ の 文 は Ein nichtgelehrter Mensch ist. (

教えられていない人[学のない人]あり

) な る 判 断 に 等 し い と

(10)

細井 雄介

主 張 す る こ と が で き よ う。 け れ ど も、 こ の[

教えられていない人なる

] 概 念 は ど こ か ら 得 た の か。 明 か に 否 定 的 判 断 か ら、 す な わ ち、 教 え ら れ た(

しかも明確なる

) 人 と い う 仮 定 が な か で 拒 否 さ れ る 否 定 的 判 断 か ら で あ る。 だ が 扱 わ れているのは絶対に否定的な判断でなく、一部は肯定的にして一部が否定的な判断である。そして相似たことが他 に多くの事例でも生じる

109

  

109Die Lehre vom richtigen Urteil. Erster Hauptteil D.——)下記の書を参照のこと

  そ れ ゆ え わ れ わ れ は 古 い[

単一か合成か

] の 区 別 を 更 新 し て、 し か も い ま 見 た よ う に 反 対 を 物 語 る 事 例、 こ と に 判明なる知覚作用が区別の働き、すなわちはっきりと個々の成分に気付く働きを以て生じる類の事例が挙がるので あれば、はたして知覚と言われるや、つねに単一判断を思うのか、とさらに問わなければならないようである。

  五二、知覚と言われてわれわれの理解するものがこのような仕方で明かとなったからには、知覚表象の概念もま た明かになった。知覚表象とは、 知覚の基底

00000

Fundament

) を成す表象

00000

のことである。

  上述せる認識の契機すべてを直観できる例ならば、右に見たごとく、内的知覚の事例いずれもが提供する。いず れにも動機なしの肯定的な認識で、何か個体的にして実在的なるものを捉える即応即座の明証的認識があるのだ。

  そ れ ゆ え と に か く、 こ の 内 的 知 覚 は 想 像 表 象(

Phantasievorstellung

) の 圏 外 へ と 排 除 す べ き で あ り、 内 的 知 覚 に つ いてと同じことが言えるものもすべて同様に排除すべきである。 だがそもそも厳密かつ本来の意味における知覚に、 なおも内的知覚以外の何かを算えることができるのか。できると仮定してはならぬと私は信じている。というのも 知覚の概念は、内的知覚以外の事例では充足を得ることがないからである。

(11)

ブレンターノの想像力考(下)

  ここで俗人の判断は別様となり勝ちであり、有力な哲学者にも同じことが生じる。感官を信頼したのであり、こ うして内的知覚のほかに外的知覚が区別されてきた。われわれが意欲すること (

Wollen

) や判断すること (

Urteilen

) は内的知覚の現実的対象だが、 同じように、 見る、 聴く、 等々のもの(

was

)は外的知覚の現実的対象であると思っ た の で あ る。 こ の こ と の 結 果 と し て、 外 的 感 官 の 記 憶 像 と か 幻 覚(

Halluzination[en])

の ご と く、 本 来 よ り 広 々 と し た 想 像

(Phantasie

) の 領 域 が 生 じ た。 い と も 容 易 く 論 駁 で き る 事 柄 な の に、 そ れ で も 普 通 の 人 々 は 今 日 に 至 る ま で 外的知覚に固執して、矛盾する経験に成程やや見向きはしたものの、ほんの一瞬だけであって、あれこれの帰結を 引出してはいない。それどころか、知覚の圏内になおも別なることを持込む始末が生じている。というのも普通人 は、眼で見るものを知覚したと誤認するように、例えば運動や静止あるいは水の落下、等々、眼で見ないものを見 るとまで誤認するからである

110

  

110Franz Brentano, Die Lehre vom richtigen Urteil. S. 144ff.)

  アリストテレスは外的知覚については普通人のあらゆる偏見を決して越え出てはいなかった人だが、それでも例 え ば 運 動 や 静 止 の 知 覚 で は 本 来 の 意 味 に お け る「 見 る 」 は 問 題 に な り 得 な い と 気 付 い て い た。 付 帯 的[

偶然的

] 感 覚(

α ’ ι´

η σ σ θ

κ ι ς

α τ α `

μ σ υ

㌼ ε ㌼ η

ς 『κ ó

霊魂論』第二巻第六章以下

) を 語 っ て い る の で あ る。 こ の よ う に 名 付 け た 知 覚 と 内 的 知 覚 と を 一 緒 に す る 誤 り が 厭 で も こ こ で 目 立 つ と は い え、 よ く よ く 吟 味 す る と、 こ の 付 帯 的[

偶然的

] 感 覚 に つ い て は、 諸 他 の い わ ゆ る 外 的 知 覚 に つ い て よ り も、 む し ろ 正 し く 捉 え て い る 何 か が あ る と 解 る。 外 的 知 覚 と な れ ば、 知 覚 内 で 表 象 さ れ る 対 象 は 現 実 的(

wirklich 現にある

) で な け れ ば な る ま い こ と に な る が、 付 帯 的[

偶然的

] 感 覚 で は た だ、 何 か が 現(

wirklich

) に あ り、 こ の 何 か に つ い て は 知 覚 表 象 内 に 与 え ら れ る 現 出(

Erscheinung外見

) が 当 の

(12)

細井 雄介

何かの徵(

Zeichen

)としてわれわれに役立つ、 と言えるだけである。さしあたり少くとも、 当の知覚現象(

Wahrneh-

mungsphänomen

) が 徵 で あ り、 し か も 何 か に つ い て の 規 則 的(

regelmäßig

) な 徵 で あ る こ と は 否 定 さ れ て い な い。 そ し て、 こ れ は 広 い 範 囲 で 言 え る こ と、 と 経 験 が 裏 付 け て く れ る。 諸 々 の 現 象(

Phänomen[

gewisse Gesetzmä

おける何らかの規則性(

e ]

) が 流 れ ゆ く 過 程 内 に

㌼igkeit

[en]

)は、このように見てしか把握(

begreiflich

)できないであろう。

  ところで、外的知覚について語り続けてきたのが人々の実際である。しかしながら、いわゆる外的知覚にも内的 知覚にも知覚の概念を用いるならば、目には以前の見方との本質的な隔たりがはっきりと見えてきて、知覚の概念 に生じている酷い曖昧さ加減に気付くであろう。

  α.外的知覚で眼前にあるのは、癖となっている期待であり、せいぜいのところ帰納による結論である。内的知 覚でわれわれが持つのは即応即座の絶対確実な認識である。

  β.いわゆる対象 (

Gegenstand

)はそもそも外的知覚表象の対象でなく、 この表象の原因に過ぎず、 諸他作用 (

gewisse

andere Wirkungen

) を 予 言 さ せ る だ け の 何 か、 こ れ 自 身 は 知 ら れ ざ る も の(

ein in sich Unbekanntes

) で し か な い。 反 して内的知覚では、知覚される対象は現(

wirklich

)にある。

  五 三、 想 像(

Phantasie

) の 概 念 も 首 尾 一 貫 性 の な い ま ま 相 同 的(

homolog同族的

) に 変 形 さ れ て き た こ と は 不 思 議 でない。このことにはいかなる姿勢を取るべきか。同じ相同的変形 (

homologe Umbildung

) をいつまでも遂行してよ い の か。 首 尾 よ ろ し き 改 良(

Reform

) は 容 易 で な か ろ う。 し か し、 い ず れ に せ よ 事 実 成 分(

Tatbestand

) 全 体 の 整 理訂正によってしか改良は可能でない。

(13)

ブレンターノの想像力考(下)

  五 四、 わ れ わ れ が 何 か を 見 た り 聴 い た り す る と き と、 こ の 何 か を 表 象 す る と か、 こ の 何 か に つ い て 言 わ れ る の を 聴 い た り、 見 た も の に つ い て 誰 か が 話 す の を 聴 い た り す る と き と で は、 明 か に 相 違(

Unterschied 区別

) が 生 じ て い る 。 相 違 と は 何 か 。 さ き に 述 べ た 通 り [

原文S. 70f. 本論叢第一三五集

を 唱 え る 人 々 が 現 れ る。 こ の [

弱い知覚表象

] を 語 っ て い た し、 ご く 最 近 に 至 る ま で 相 似 る 見 方 は 支 持 さ れ て き た。 し か し、 こ の 見 方 に 異 議

五七頁

] ア リ ス ト テ レ ス が

α ’ ι´

σ θ η

σ ι ς

α ’ σ

ν η ´ θ ε

minder intensiver

と は お よ そ 何 で あ ろ う か。 強 度 の 劣 る 内 容( ς

Inhalt

) の 感 受 の こ と か。 —— と す れ ば 大 き な 激 し さ(

gro

AugenschwarzErinnerungsbild

( ) は い か な る 記 憶 像( ) よ り も 強 度 の 大 き い 印 象 を 生 む と 言 う

dunkelste Empfindung

( )だが、 フェヒナーは、 あらゆる色の表象は自分には黒よりも暗くなると主張し、 目に映る黒

LichtstärkeHelligkeitSchwarz

わ る。 よ り 乏 し い 光 度( ) な の か、 よ り 乏 し い 明 度( ) な の か。 黒( ) は 最 も 暗 い 感 受

geringere Intensität

こ こ で、 「 見 る 」 に 当 っ て の「 よ り 乏 し い 強 度( )」 な る も の は 全 く 確 定 で き て い な い こ と が 加   シ モ、 な ど と い う こ と に な ろ う。 と ん で も な い 仮 定 で な い か! で は 一 体 ど の よ う に 比 較 す れ ば よ い か。 し か も

StärkeTon

) の 思 浮 ぶ 音( ) は フ ォ ル テ で な く ピ ア ニ

㌼e

PhantasiebegrenzendFormen

きく力説したからである。すなわち想像 ( )の活動は境界を設けつつ ( )諸々の形式を生む ( 違を全く別様に掴み、この相違のほかに、なお両能力の活動の仕方における極めて本質的な相違の方をはるかに大

Inhaltsunterschied

が思うに、ミュラーも確かに想像表象と感受との内容相違(

区別

)を説いてはいるものの、この相 を崇拝するにもかかわらず、そのような見方のひとつをヨハネス・ミュラーが試みていると見える。というのも私 像の正しい特性記述であると誰が認めようか。本質的に別なる見方も差出されているようであり、アリストテレス 。 し か し、 こ れ が 記 憶

111

erzeugend

)ことにあろう、と言うのである

112

  

111Fechner, Elemente der Psychophysik, )

Ⅱ ., S. 518.

α ’ ι´

η σ σ θ

α ’

ι ς

σ θ ε ν

η ´ ς

(14)

細井 雄介

  

112Johannes Müller, Über phantastische Gesichtserscheinungen, )

Ⅲ . (

Das Eigenleben der Phantasie).

  けれどもすべてこうした説明ではほとんど満足が得られないと思われる。右に述べた異議の幾つかは恐らくもは や出ないであろうが、他に残るものがある。感受と表象との強度の比較はすでに視覚ではほとんど行われもしない が、視覚以外の感覚についてはどうであろうか。音楽の総譜を読む。このとき得る満足はどのように把捉できるの か。 —— ヨハネス・ミュラー提唱のごとく境界と形式のうちにか。こう主張するのは難しいであろうし、あまりに も 一 面 的 に 形 態(

Gestalt

) し か 考 え て い な い と 見 え る し、 こ こ は 強 度 や 品 質 を も 顧 慮 す べ き と こ ろ で な い か。 だ が 問題全部をミュラーの望むように解釈するのは不可能と見えても、多分その教説の一部はやはり正しいのではない か。 ミ ュ ラ ー は 内 容(

Inhalt

) の 相 違 と 活 動 方 式(

Betätigungsweise

) に お け る 相 違 と を 教 え て く れ た。 前 者 は す で に アリストテレスで見たように種々の困難に立至る。しかし後者は、あるいは満足をもたらしはしないか。こうして 実際に示されているのが、 ひとりはこのように、 またひとりは別様に、 と多くの人々が打開を試みてきた道である。

  以 前 は、 感 受 と 表 象 と で は、 与 え ら れ る の は 強 さ の 点 で も 同 じ 内 容(

Inhalt

だ が、 し か し 与 え ら れ る 仕 方 が 違

1130000

0

in anderer Weise

) の で あ ろ う と 見 做 さ れ た。 こ こ で は ロ ッ ツ ェ の 説 を 思 う だ け で よ か ろ う。 表 象(

Vorstellung

) は 光 輝 や 音 響 や 苦 痛 を ま ざ ま ざ と 精 確 に 思 浮 べ る(

vorstellen 前に置く

) が、 た だ し 再 度 こ れ ら を 感 受 し な い (

empfinden

、と言うのである。

114

  

113GegenstandInhalt)ブレンターノ後年の用語では、ここは(対象)と置くべきところであろう。(内容)をそのま

まに留めたのは、この表現をヨハネス・ミュラーが用いているからである。上注(

103)を参照のこと。

  

114Hermann Lotze, Medizinische Psychologie, )

Ⅲ . Buch,

§

36.

(15)

ブレンターノの想像力考(下)

  a.マイネルトやマッハのごとき人々は、相違は全く決められないと述べている。

  b.

る(

ヘルバルトおよび同学派

)。 他

IntensitätVorstellen

に、 表 象 内 容 の 強 度( ) は 等 し い の に 表 象 作 用( ) の 強 度 が 小 さ い と 仮 定 す る 人 々 が い   c.また他に、表象作用には総じて強度を否定する人々がいる。

  d.最後に、感受と表象とは客体

Beziehungsweise

への関係方式( )の相違によって区別されると説く人々がいる。

115

  

115)手稿原文には

immanentes

Objekt(「内在的」客体)とある。上注(

36)および(

40)を参照のこと。

  こうした試みはすべて支持できないと判明するのであり、ここでは、これらの試みをやや詳しく考察したい。

  bについて。 表象内容の強さ (

Stärke

)は等しいのに表象作用の強度が小さい、 ということは総じて虚構物語 (

Fabel

) の王国に属する。 感受作用の強さが 零

ゼロ

となり、 これとともに感受されるものも 零

ゼロ

となるが、 それでも現出 (

Erscheinung 出来事の外見

) は 感 受 と し て 残 る、 と い う 極 端 な 事 例 は、 理 に 合 わ な い ば か り か、 そ も そ も 可 能 で な い。 感 受 さ れ るものと、 これに伴う現象 (

Phänomen

)とに、 二つの強度は存在しないのである。 (

想像表象についても同じことが言える

)。

  c に つ い て。 だ が、 感 受 内 容 は 一 つ な の に 感 受 の 強 さ(

Stärke

) を あ れ こ れ 勝 手 に 仮 定 す る の は お か し い と し て 旧 い 教 説 を 非 難 す る の は 正 し く と も、 当 の ロ ッ ツ ェ 自 身 の 新 見 解 も 上 首 尾 で は な い。 感 受 作 用(

Empfinden

) に は 感 受 内 容 に 等 し い 第 二 の 強 度(

Intensität

) が 与 え ら れ る が、 お よ そ 表 象 作 用(

Vorstellen

) に 強 度 は 与 え ら れ な い、 と ロ ッ ツ ェ は 考 え て い る。 し か し そ の よ う に 言 わ れ る 強 度 の 同 等 性(

Gleichheit

) は 誰 か 測 っ た こ と が あ る の か。 そ の 種 の 異 質(

Heterogenes

) な る も の が 扱 わ れ る と き 当 の 測 定 は ど れ ほ ど 困 難 で あ ろ う か。 同 等 性 が 自 明 と 見 え る の で あ れ ば、 理 由 は 同 等 性 な ら ぬ 一 体 性(

Einheit

) が 与 え ら れ て い る か ら と な る が、 わ れ わ れ に は 感 受 内 容(

=対象

(16)

細井 雄介

Gegenstand

) の 強 度 し か 意 識(

bewu

empfinden

感受( )することとの相違はないのである。

werdenvorstellen

) さ れ な い。 だ が こ の と き、 同 じ 対 象 を 表 象( ) す る こ と に

㌼t

  dについて。感受でも表象でも客体への関り方では、経験は何ひとつ特別な関係方式を示してくれない。肯定的 判断と否定的判断との比較はほとんど場違いであるどころか、むしろ疑念を湧かせやすい。というのも判断では客 体への関係方式の相違ははっきりと見えるのに、ここではただ窮地脱出の仮説にしかならないからである。 —— し かも経験の全く知らぬ何かが仮定されながら、他方では、経験内にはっきりと横たわる重要で多様な諸契機が顧慮 さ れ な い こ と に な る。 例 え ば 記 憶 表 象(

Gedächtnisvorstellung

) は ど こ に 算 え れ ば よ い の か。 思 う に 感 受 の ば あ い と 同じ関係方式が語られて、対象の相違は表象によって過去のもの、とか未来のもの、などにされる、ということに でもなるのであろう。

  だがさらに大きな困難を示す事例は他にもある。例えば盲点の充足 (

blinder Fleck

) の充足はどうか。これは幻覚 か 感 受 か 想 像 表 象 か。 シ ュ ト ゥ ン プ フ は 判 断 錯 誤(

Urteilstäuschung

) の 問 題 で あ ろ う と 考 え た。 マ ッ ハ は 充 足 の 起 ることなどないと否認した。これには充足の紛れもない経験が繰返されていて反論となる。私自身は、盲点の充足 は諸他の関係方式にとってよりもむしろ感受にとっての幻覚 (

Halluzination

)に算えなければなるまい、 と思っている。

  しかし困難はまだこれで終りとならない。ただいま取上げている見方の望むところは、感受と想像表象との相違 をそれぞれ別々の関係方式によるとして掴むことにあるが、経験は、この種の相違ばかりでなく、さらになお想像 表象自体のあいだにも相似た相違を見せつける。信頼できる多数の報告から明かだが、あれこれの想像表象内には 段階差があり、なかで最も生気に富む表象はもはや感受と区別されない。また誰しもみずから直観性についての完 全性が、 あるときは乏しく、 あるときは大きく、 大きくなれば想像表象が感受の表象に近付くことを体験している。

(17)

ブレンターノの想像力考(下)

いわゆる生々しい記憶 (

frisches Gedächtnis

) を思うがよい (

本来の残像 eigentliches Nachbild と取違えてはいけないフェヒナー の記憶残像Erinnerungsnachbildのこと

)。

  このような事例は山積みに観察されて、客体への関り方が違うとするロッツェの見方を、原形としても変形の姿 としても、完全に支持できると思わせるには、あまりにも多過ぎる。さきに「同じ内容ながら種々に相違せる表象 作用」と言われた事柄は空想の産物(

imaginär

)である

116

  

116)この「dについて」で挙げられた例は大幅に削減してある。

  aについて。ところで、相違は決められない、とする見方については何と言えばよいか。この見方が正しいとす れば、対象は等しいのに表象作用に何らかの別なる相違が存在しなければならないということになろう。

  も と よ り 真 正 な る 相 違

000000

区別

](

echter Unterschied

) は 存 在 す る し、 同 じ 対 象 相 手 の 表 象 作 用 あ れ こ れ に 見 出 せ る 相違はこれだけでしかない。 すなわち 完全に直観的なる表象作用

000000000000

と 多少とも非直観的なる表象作用

00000000000000

との相違である。 何 を 思 っ て い る か は、 実 例 が は っ き り と さ せ て く れ る。 直 観 的 表 象 作 用 の 例 は「 私 は 赤 い 四 角 を 見 る(

sehen

)」 で ある。非直観的表象作用の例は「私は丸い四角を思う(

denken

)」である(

ただし私が赤い正方形や等辺四角形や直角三角

形を思うときにも働いているのは同じく非直観的な表象作用である

)。 そ れ で は 実 例 の 双 方 は 何 に よ っ て 区 別 さ れ る か、 と 問 うてみたい。

  あ る 人 は 恐 ら く、 非 直 観 的 表 象 作 用 の 例 で は 対 象 が そ も そ も

0000

=本来的に

] 全 く 表 象 さ れ て い な い

0000000000

eigentlich gar

nicht vorgestellt

) と 言 う で あ ろ う。 だ が 精 確 に 見 る と、 こ れ は 正 し く な い。 非 直 観 的 な る も の を 私 は、 概 念 の 完 全 なる明晰性を以て考える。また別の人は、 非直観的なるものは 一体として

00000

nicht einheitlich

) 表象されない

000000

、 と思う

(18)

細井 雄介

かもしれない。だがこれもまた完全に当っているとは見えない。私の表象するのが赤い四角、どころか丸い四角で あ る と き で す ら、 「 赤 い 」「 丸 い 」「 四 角 」 は 互 い に 結 ば れ て 表 象 さ れ る し、 こ の よ う に 表 象 で き る が ゆ え に こ そ 私 は、赤い四角の直観的表象においても非直観的表象においても同じ表象対象をもつのである。しかしながら、表象 の 異 な る 仕 方 に つ い て あ れ や こ れ や と 曖 昧 に 表 現 さ れ て も、 あ れ こ れ の 表 現 は い ず れ も、 つ ね に 真 理(

Wahrheit 裸

の在り方

)には触れている[

核心には真理をもつ

]。

  わ れ わ れ の 表 象 活 動(

Vorstellungstätigkeit

) は 一 体(

Einheit

) で あ る。 け れ ど も 表 象 さ れ る も の の 部 分 に 目 を 向 け れば諸々の部分表象を区別することができる。となれば区分はさまざまな見地で行える。

  一、表象自体に諸々の部分が共属していることを顧慮しての区分(

広狭両方の意味における部分直観

)がある

117

  二、心的機能の別なる 部

類 を顧慮し、こうした部類間に生じる相違、例えば一部分だけが肯定的判断の基底であ るとか否定的判断の基底であるとか一利害関心の基底であるなどの相違を顧慮しての区分、すなわち諸部分を本来 的に解消することなしの抽象がある

118

  

  

( 117Franz Brentano, Die Lehre vom richtigen Urteil. Erster Hauptteil C., S. 51.)

118)判断もしくは関心の作用が全表象の一部分に関係するだけで、諸他すべての部分は捨象するゆえに(ブレンター

ノの言)。

  ひとつの表象が部分直観であると同時に概念でもあることは可能だが、こうならないこともあり得る。しかも一 方 に は 概 念 で な い ど こ ろ か 決 し て 概 念 と な り 得 ぬ 部 分 直 観 が あ り[

多角形の一部分とか円弧

]、 他 方 に は 狭 い 意 味 ど こ ろか広い意味においても直観的ならぬ概念があるのだ [

虚数

]。このとき問題となるのは表象の融合 (

Verschmelzung

(19)

ブレンターノの想像力考(下)

である。融合させるものは一纏まりの特別な関心とか判断である。こうして、同じ対象を直観的かつ非直観的に表 象できる、ということが起るし、相関的に、 「その非直観的表象には一体性が欠ける」 、それどころか「その非直観 的 に 表 象 さ れ る も の は そ も そ も 全 く 表 象 さ れ な い 」 と い う 類 の 表 現 が 正 当 化(

relative Berechtigung

) さ れ る こ と も 理 解 で き る

多々さまざまな働きもこのように理解できるし、例を挙げれば解り易い(

例として「斜角のある赤い等辺四角形」

)。 一纏めにしようと関ってくる別種の心的経過によってのことだからである。同じ対象を表象するときの非直観的な 。 と い う の も 統 一 が 成 る の は 表 象 す る 活 動 自 体 に よ っ て で な く、 他 の 道 で は 共 属 し よ う も な い も の を

119

  

119Allgemeinbegriff)ブレンターノ後年の見方によれば、総じて一般概念()は表象されないし、表象されるのはただ、

多少とも明確に表象する人の何か実在的なるもの(ein etwas Reales)だけである。

  それではわれわれの事例に立返って、これまでに見出せた事柄を活用したい。直観的な表象とあれやこれやと非 直観的である表象との相違は、 感受とふつうの想像表象との相違を概念的に把握させることができるのか。恐らく、 等しい対象が表象されるが一方では直観的に、他方では非直観的に、とするのであろう。けれどもこの説明の試み も明かに適切でないし、 合成物にしか当嵌らず、 したがってここでは不十分となる(

例えば大砲の轟音の強度について

)。 このような次第で相違は決められないとする理論[

]も駄目となる。

  五 五、 対 象 に お け る 相 違(

Unterschied 区別

) が 問 題 と な る 限 り で は 少 く と も、 ア リ ス ト テ レ ス の 正 し い こ と は 否 定 さ れ な い し、 こ の こ と は 経 験 か ら は っ き り と 容 認 で き る。 し か も 表 象 の 強 度(

Intensität

) に つ い て ば か り か、 し ば し ば 充 実 度(

Fülle

) に つ い て も 言 え る。 他 に も 例 え ば 知 人 を 見 た と き と、 名 前 が 聴 え て 想 像 裡 に 当 人 の 姿 を 表 象

(20)

細井 雄介

す る と き と で は、 与 え ら れ て い る の は 完 全 に 忠 実 な 似 姿(

vollkommene Treue

) で な い こ と が 多 い。 格 別 こ の よ う に 言えるのは品質(

Qualität

)についてもであり、楽器ならば音色(

Klangfarbe 音質

)等々についてである。

  知 覚 の 対 象 と 想 像 表 象 と の あ い だ に、 恐 ら く、 完 全 な 相 似 性(

Ähnlichkeit

) は 決 し て 与 え ら れ て い な い が、 そ れ に し て も 多 く の ば あ い、 相 似 性 は と り わ け 不 完 全(

unvollkommen

) で あ る。 自 身 の こ と で フ ェ ヒ ナ ー は、 見 る 色 と 表象する色とでは自分には相似性はほとんど皆無に等しい、と報告していた。この点について諸他の感官では事情 はなおさら酷いとしてよかろう。

  五六、 したがってわれわれは、 感受と想像表象とでは対象が別々である、 と言う。だがこの言い方は、 別物

00

anderes

) が表象されるとしても実は同じものであるようだ、ということではないか。 —— この異議が出るならば、別物が表 象 さ れ る の は、 一 方[

の想像表象

] で は 非 本 来 的 な 表 象 作 用 が 働 い て い る か ら だ、 と 答 え な く て は な ら な い。 こ の ことがわれわれを非本来的表象作用(

uneigentliches Vorstellen

)なる概念へと導く

120

  

120Franz Brentano, Die Lehre vom richtigen Urteil. Erster Hauptteil C., S. 62.)

  五七、 非本来的な表象作用では間に合せの当座用表象(

Surrogatvorstellung

)が与えられている。こうした表象は、 肝 腎 要

かなめ

の 現 象(

Phänomen

) は 含 み な が ら も こ れ を 諸 他 契 機 と 概 念 的 に 結 付 け て の こ と で あ る か、 そ れ と も こ こ に は 本 来 的(

直観的

) 要 素 が 皆 無 で あ る か で あ る。 こ の 事 態 は 非 本 来 的 表 象 作 用 の こ と と し て ヨ ハ ネ ス・ ミ ュ ラ ー が よ く 理 解 し て い た。 表 象 と 呼 名 と が 連 想 で 結 ば れ て い る な ら ば、 た だ の 呼 名 で す ら 本 来 的 表 象 の 代 り に 入 り 込 め る。 このとき、想像表象と呼べるであろうものが成立する。ここには以下のことも含まれる ——

(21)

ブレンターノの想像力考(下)

  一、非本来的に表象されるものを思描く本来的表象は、狭い意味での直観であるか、もしくは多数の直観から合 成されるかである(

例えば一連の継時的直観、もしくは一束の同時的直観であろう

)。

  二、 非 本 来 的 表 象 が 成 立 す る の は 主 と し て、 本 来 的 表 象 に 大 体 の と こ ろ 相 似 的(

ähnlich

) な 直 観 を 介 し て の こ と (

合成された表象で肝要なのは具象的一体となっている多くの相似的契機である

)。 例 え ば 私 は、 白 い 四 角 の 直 観 を も て ば こ そ 想像(

Phantasie

)裡に赤い四角を思描く[

vorstellen 表象する

]。

  この見方には恐らく、 想像表象に入らぬ概念と対立する想像表象の 部

類 という区画は鋭さに欠けて消えてしまう、 と注意が出るかも知れない。このことは否めないが、どうして反論にまで高まろうか。しかも相手は、想像表象の 呼 名 が 普 通 に 用 い ら れ る 領 域 を 述 べ て い る だ け の わ れ わ れ で な い か。 そ し て 事 実、 大 方 の 想 像 表 象 は 直 観 で な く、 直観を核とする概念(

Begriff mit anschaulichem Kern

)なのである

121

  

121S. 353-359)ここに手稿原文では本書におけるよりも長く、右の定義から外れる種々の見解の説明()が続く。大

部分が既述文章の繰返しとなるゆえに、この箇所を本書では省いた。

  とにかく想像表象という呼名を右のごとき非本来的表象に用いた世俗の人々は、真の本性は何も知らぬ見掛けの 姿に当の呼名を与えてきた。きわめて広い領域が問題となり、 他人の心的現象(

Phänomen

)が加わる事例を見れば、 こ の 領 域 は さ ら に 拡 大 す る。 だ が 本 来 的 意 味 に お け る 他 者 の 個 別 態[

個性

](

fremde Individualität

) を 表 象 す る こ と は不可能なのである。他者の個別態を表象することは、ただ自分自身の個別態[

個性

](

eigene Individualität

)つまり 自 分 自 身 の 心 的 現 象(

Phänomen

) を 通 っ て の 回 り 道 で し か 可 能 で な い。 こ れ が 成 る と き わ れ わ れ は、 例 え ば 誰 か と の相談での想像表象とか、物語や歴史や文芸においての想像表象とか、身振りや画面などを見ての想像表象につい

(22)

細井 雄介

て 語 っ て い る。 他 者 の と 相 似 る 自 分 自 身 の 心 的 現 象 の 核 心 な る 直 観(

anschaulicher Kern

) が 何 ら か の 抽 象 や 概 念 的 確定を探り出す(

erfahren 経験する

)のである。この例はうれしいことに、われわれがさきの観察で得た見方を確め て く れ る。 ま た、 さ き に は 別 の 見 方 を 望 ん だ 人 も、 今 度 は わ れ わ れ と 同 じ 説 明 を 取 ら ざ る を 得 な い。 そ れ な ら ば、 いつでも同じ仕方で行く方がよいのでないか。

  しかも領域はさらに拡がる。確かに自分自身の心的現象のことではあるが、しかしいまはこれが現前せず、した が っ て(

例えばこれを考えたり望んだりすれば快や苦痛の感情が湧く、ほどには

) 現 実 的(

wirklich

) で な い、 と い う 事 例 を 見てみよう。この例はいましがた述べた例と全く同様に把握することができる。となれば自分の過去や未来の心的 現象のことでも、表象されるのは、他者の心的現象についていつも行われるように、しばしば非本来的な仕方にお いてであることに、何ら疑問の余地はない。

  未来の心的現象が扱われ、 総じて未来のことが考えられるときには、 さらに、 遠い過去の何かが出てくるときにも、 いつも同じ具合でないか。出易い疑問だが、こうした疑問のすべてに立入ることはできない。大事なのは見損じの こと、直観的にして本来的であると思っていた表象が、精確に見れば非直観的にして非本来的であるという、当の 表象の真の本性を見損じてきた誤認のことである。

  いずれにせよ想像表象と言われてきた表象は全部、すでに早くわれわれの注意した関係、直観的表象への二重の 親近(

verwandschaftlich

)関係をもっている。すなわち ——

  a.非本来的に表象されるものを思う本来的表象は、狭い意味における直観的表象である。

  b.想像表象はいわば核心なる直観(

anschaulicher Kern 直観的核心

)をもつ。言いかえると想像表象は直観へと近 付いてゆく。

(23)

ブレンターノの想像力考(下)

  五八、総括すれば以下のごとく言える ——

  一、 伝 統 的 概 念 に よ れ ば 確 か に 知 覚 表 象 で な い が、 し か し 想 像 表 象 は 知 覚 表 象 に 相 似(

ähnlich

) の も の と す べ き 表象である、ということをわれわれは見出した。この相似性が大きければ大きいほど、それだけ多く想像表象は話 題となる。

  二、けれども想像表象という呼名がしばしばこの概念と合わない範囲で用いられていたことも明かになった。す な わ ち 本 来 は そ う で な か っ た も の を 知 覚 表 象 と 思 っ た こ と で、 何 ら か の 現 出(

Erscheinung 出来事の外見

) の 本 性 に ついて思違いを犯したのであり、このことは格別いわゆる外的知覚について言える。

  三、さらに、何らかの表象を直観的にして本来的な表象であろうと信じたのに、これが実は非直観的で非本来的 な 表 象 で あ っ た こ と で、 こ こ で も 思 違 い を 犯 し た。 例 と し て は、 完 全 な 幻 覚 の こ と な ら ぬ 普 通 の 想 像 表 象 で あ り、 他者の心的現象を思う表象であり、また自分自身の心的現象でも、とりわけ未来や過去の心的現象を思う表象であ る。

  五 九、 さ て、 こ の よ う な 事 況 の も と で 何 を す れ ば よ い の か、 ど の よ う に 想 像 表 象(

Phantasievorstellung

) の 呼 名 を 用いればよいのか。

  呼名の古い適用領域はできるだけ手放すまいと努めるのであれば、古い概念は棄てるか、それとも古い概念にな お幾つか規定を付加えることになるのは明かである。だが規定を付加えると 「想像 (

Phantasie

)」 (

想像表象

) の呼名 は多義的(

äquivok

)に曖昧となろう。

  想像に算えられたもの全体は二群を包括する —— 一、内的知覚に関係付けられた表象と、二、外的知覚に関係付

(24)

細井 雄介

け ら れ た 表 象 と で あ る。 第 一 群 は 下 位 の 二 群 を 含 ん で い る —— 内 的 記 憶(

Gedächtnis

) の 直 観 的 表 象 と、 心 的 現 象 を現在的か過去的か未来的とみて、直観に近付いてゆく非直観的で非本来的な表象とである。

  第 二 群 は 下 位 の 三 群 を も っ て い る —— a. 心 的 な る も の の 直 観 的 で 主 観 的 な 感 受 表 象(

幻覚Halluzination 残留感覚

Nachempfindung

)、 b. 直 観 的 な 外 的 記 憶 表 象(

äu

㌼ere

Gedächtnisvorstellung

)、 c . 心 的 現 象 を 現 在 的 か 過 去 的 か 未 来 的とみて、直観に近付いてゆく非直観的で非本来的な表象。

  だ が 大 別 し た 第 一 群 と 第 二 群 と を 鋭 く 別 け る こ と は で き な い。 両 群 そ れ ぞ れ で 分 た れ る 下 位 群 に と っ て も、 存 立するのはただ、溶暗的に消えてしまう極めて曖昧な一般概念だけである。というのも、 部

類 が異なれば「相似性 (

Ähnlichkeit

)」 の 指 す 本 性(

Natur

) が 別 々 と な る か ら で あ る。 そ し て 外 へ 向 け て は、 な お も 想 像 表 象 の 概 念 と 呼 べ るところと、もはや想像表象と呼べないところとに精確な限界を告げることができない。このような溶暗的に消え てしまう在り方は、心的現象の、外的知覚表象に算えることのできない直観的表象を全部は想像表象にしたくない のであれば、主観的な感受においても生じるであろう。だがいずれにせよ区別することは、秩序保全のためにはよ いことであろう。

  だ が こ れ で は ま だ 難 事 が 片 付 い た こ と に な ら な い。 部

類 の 多 義 的 曖 昧 さ と 特 殊 態 と を 簡 単 に 見 定 め た か ら に は、 想像表象の真なる概念のもとに、われわれが部分的には妥当と見たし、それゆえ古来使用の呼名においても範囲に おいても真なる概念と仲間になれる概念あれこれを立てるがよいのか。それとも想像なる呼名の使用をあれかこれ かの領域に限定するがよいのか。だが限定するならば、いかなる領域にか。

  α. 古 い 概 念 し か 本 当 は 合 わ な い 領 域 に か。 と な れ ば、 内 的 記 憶 直 観(

Gedächtnisanschauung

) の こ と で あ ろ う。 だがこの扱いはほとんど推薦に値しない。内的記憶直観については特に、 これが少しも話題とならないからである。

(25)

ブレンターノの想像力考(下)

およそ誰が「想像(

Phantasie

)」と言われて内的記憶直観を思うであろうか。

  β.もしかすると、あらゆる記憶直観にか。これまたほとんど推薦に値しない。

  γ.主観的な感受にか。これもすでに片付けてある。しかも一方でこれまで想像表象と目されてきた現出の大方 が排除されたのに、他方で想像表象には原則として算えられない現出の多くが編入されるとは、手違いであろう。

  δ.よりよいのは確かに、最大限に流布して普遍的承認を得ている群だけを取出す仕方で扱うことである。この とき行着くのは以下の規定であろう —— 想像表象とは直観的表象に近付いてゆく非直観的もしくは非本来的な表象

000000000000000000000000000000000

の こ と で あ る

000000

。(

ここでは第一群の第二部 類と第二群の第三部 類とを一纏めにしてある。

) 当 然 な が ら 両 表 象 の 境 界 は 溶 暗 的 に消えてしまう。さらに言添えることができようが、想像表象が格別な話題となるのは、知覚表象への近接が甚し くなって、何らかの分析とか何らかの作用とか何らかの美的経験までもが、直観的表象に結ばれるのと相似る仕方 で想像表象に結ばれるばあいである。無論このばあいでも双方の境界はまだ消えていないが、消えてしまうのは事 柄の本性である。いずれにせよ想像の語が用いられてきた古来の最も重要な群はここにある。

  あ る い は 別 の 策 を 取 り、 も し か す る と 各 群 の 系 統 発 生 史(

Genesis

) を 区 別 決 定 の 目 印 と し て 取 出 す の が よ い か。 しかしこの策でもほとんど克服できない困難が生じる。こうしてやはり先述の事柄以外には何ひとつ残らないと思 わ れ る。 そ し て 当 然 そ の と き 迫 っ て く る の は、 真 の 意 義 を も つ 想 像 な る 術 語 が 本 当 に あ る の か と い う 疑 問 で あ る。 こ の 術 語 は 境 界 が 鋭 く な い し、 「 直 観 」 や「 概 念 」 な る 術 語 ほ ど に は 重 要 で な い と も 見 え る の で あ る。 だ が す で に 理 論 的 学 科(

Fach

) で は 想 像 お よ び 想 像 表 象 は 扱 う べ き 事 柄 で な く、 扱 っ て 遥 か に 大 き な 価 値 が あ る の は 実 践 的 分 科(

Disziplin

)にとってのこと、わけても美学(

Ästhetik

)にとってのことである。

  われわれの研究の帰結は、想像表象についての固有独自の教説は存在しない、ということである。われわれの定

(26)

細井 雄介

義によれば、想像表象は一部は直観の領域に入り、一部は概念の領域に入る。両領域双方にとって大切なのは、ま ず 現 出(

Erscheinung出来事の外見

) を で き る 限 り 精 確 に 書 き 記 す べ き こ と(

記述的考察deskriptive Betrachtung

)、 そ の あとで当の現出の成立および経過の究明(

系統発生史的考察genetische Betrachtung

)を試みなければならないことであ る。これらの双つは心理学の本題であって、ただいまの講義との関連では、これ以上に立入って扱うことができな い

122

  

しかも諸他研究者の教説が討究され、これへの批判的意見を表明する箇所で短縮してある。この処置は、さまざまな見 122—)想像およびいわゆる想像表象についての研究(三三五八)は、再度まとめて述べたいが、個々の部分で大幅に短縮、

方への関心、すなわち歴史的問題への関心が、もはや、ブレンターノが講義を行った当時ほどには大きくないからであ

る。短縮についての明細はそれぞれの注記箇所で報告してある。

  

 われわれにとって何よりも関心があるのは、比較による分析にもとづいてブレンターノが得た結論である。個々別々

の見解にどれほど相違があろうとも、何がしかの共通点 000(Gemeinsamkeiten)を見出すことにブレンターノは成功した

のであり、こうした共通点がブレンターノを下記の定義へ導いている——想像表象とは非直観的もしくは非本来的な表 00000000000000000000

象であるけれども直観的表象へと近付いてゆく表象のことである 00000000000000000000000000000。さよう、想像表象がとりわけ話題となるのは、近付

き方が甚しくなって「何らかの分析とか、何らかの作用とか、何らかの美的経験までもが、直観的表象に結ばれるのと

相似る仕方で想像表象に結ばれるばあいである」。ということは、しかしながら、直観と想像表象との区別が溶暗的に

消えることである。結果として想像についての教説は、一部は直観の領域に入り、一部は概念の領域に入る。両領域は

双方とも心理学に帰属する。

  

 ブレンターノの見方によれば、芸術的創造作用(Schaffen)の前提たる美しい 000(schön)表象 00を呼出す(別言すれば、

(27)

ブレンターノの想像力考(下)

性格は正しいとされる愛を以て愛することのできる表象を生む、さらに言直せば、高度の喜悦や満足を呼出すか呼出せる表象を

生む)ゆえに、想像活動(Phantasietätigkeit)は美学(Ästhetik)にとって根柢を成す重要事なのであるから、この研究

にまことに大きな重要性を与えて、ブレンターノが手稿原文の多量な頁(Originalmanuskript

S. 141-371)を捧げたこ Ⅱ ,

とは理解できる。

  

 このブレンターノの見方は、芸術的創造作用(Schaffen)の前提を語る新来の教説群、わけてもブリッチュの理論と合致する(Gustav Adolf Britsch, 1879-1923. Theorie der bildenden Kunst. 2. Auflage, 1930)。ブリッチュによれば、造形芸

術の領域における芸術的営為の成立条件は、視覚の往昔の直観(体験 Erlebnis)に手を加える概念的加工 00000(begriffliche

Verarbeitung)である。このような仕方でのみ創造者の精神内に新たな形式 00000(Form)、新たな形態 00000(Gestalt)の成立が

可能であり、こうした形式や形態に創造者は表出(Ausdruck)を与えようと試みる。このような形式は「自然の焼直し

(Naturabklatsch 自然模造)」ならぬ新創造(Neuschöpfung)だが、しかし先行せる往昔の直観の本質的特徴を含んでい

て、意識内の直観像 0000000(anschauliches Bild)として成立する形式である。ブレンターノが「非直観的もしくは非本来的な

表象」と語って表しているのは、編者の私が思うに、かかる表象は先行する往昔の直観と、完全には合致しないが、し

かしブレンターノの強調するように、多かれ少かれ当初の直観的表象に近付いてゆく、ということであり、取りも直さ

ず、かかる表象には直観の性格と言える徴標が付いている、ということである。かかる表象を述べるには「直観的概念

(anschaulicher Begriff)」こそが最も適切な語であるとしてよかろう。

        付記

        締切日なしでは書けないよ、といつもの嘆きが会席で洩れた。ふと思立ち診ていただけるかと願うや、いい

(28)

細井 雄介

よ、の即答である。第一便は二〇一四年五月二十一日、やがて毎月末が締切日となって最終便は二〇一六年九

月二十三日、こうして全文の粗稿が成った。うるさく御迷惑なことであったに違いない。この翻訳は杉野正教

授の御好意の賜物である。畏い先輩を親しく戴くことのできた幸を思い、御寛容のほどに心からの感謝を捧げ

る。

       二〇二〇年九月       訳者

 

『美学綱要(Grundzüge der Ästhetik)』(一九五九年)

   内容概観(Inhaltsübersicht) [承前]

  心理学および美学の選り抜きの疑問

  五一、

知覚とは、何かが、表象される(知覚される)何かがある、という即応的認識のことである。肯定する明証的判断

であるが、概念から納得される判断ではなく、経験認識たる判断である。向うところは特定の(個的な)実在的対

象である。

  五二、

となれば知覚表象は知覚の基底を成す表象である。内的知覚だけが知覚の名に値するのであり、いわゆる外的知覚

は即応的認識でない。

参照

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